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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2010年3月20日(土)

國民會館理事 松田尚士氏
「近代日本と武藤山治」(於大阪武藤記念ホール)

日本の近代を代表する経済人・政治家、言論人であった武藤山治のバックボーンは、「学問は実業のために自らの思慮判断で考えることにあり、独立自尊の源泉である」と福澤諭吉の教えであった。諭吉への直接の師事はベストセラー「西洋事情」に感銘した父親の勧めによるものであり、慶應義塾卒業後さらに米国へ苦学しながら留学、その逆境が後年の弱者に対する思いやりの諸活動へつながっていった。

経済人としては、福澤諭吉の甥である三井財閥の総帥中上川彦次郎氏の知遇を得て三井銀行入行、そこでの三井の旧体質を革新する仕事ぶりが認められ、27歳で鐘紡へ入社、新工場の創業に休む日もなく日夜献身的に努力し、32歳で支配人となり、その間株式の買占めや資金調達に苦慮しながらも、専務から社長へと昇進、前述の米国留学時の体験から温情主義経営と家族主義経営を実践し、従業員の待遇は業界最高を誇りながら、大正時代には6年間7割配当を実施して、日本一の会社に仕上げた。その活動は更に社会的方面にも向けられ、第一次世界大戦で国家の犠牲となった軍人遺族・傷痍軍人のために軍事救護法を企業家でありながら提案し国会を動かし成立させた。またワシントンでの第一回国際労働会議に政府代表として出席したが、日本の労働者側が国際会議の場にも国内での対立を持ち込んだことに失望しつつも、企業の相当の部分を福利のために割くことは有効な投資であると演説して先進国代表を感服させた。

政治家としては、一国の盛衰はその国の政治の良否による」との信念により、今に通じる「政官財の癒着の根絶」「鉄道省と郵便の民営化」「特別会計と剰余金」等の行財政改革の基本政策を掲げて実業同志会を結成、翌年衆議院選挙で11名を当選させ、活躍の場を議会へと移した。議場では議会運営が非効率であることを発言して懲罰動議を受けながら、関東大震災の震災手形法案の不平等、金解禁反対など深刻なデフレ経済下での政府の諸政策に舌鋒鋭く論陣を張り、その間より広い支持をえるため国民同志会と名前を変え、二大政党を牽制する少数政党としてキャスティングボートを握った。然しより大切なことは国民が腐敗した政治家を選ばないことにあり、政治の浄化は選挙権を持つ国民の教育にかかっているとして、昭和七年に出馬を断念、普通選挙に際し進めて来た政治教育をさらに発展させ、その殿堂として同年「國民會館」の設立へ発展させた。

言論人としては、政界引退後すぐに福澤諭吉が創刊した時事新報社の再建を頼まれ、自ら編集方針を決め社説、短評などを執筆して陣頭指揮、又政治活動でも追及してきた政・官・財の癒着を、帝人株の不正取引について「番町会を暴く」としてキャンペーンを張り、経営改革により赤字解消の目処もつきかけていた矢先、九年三月十日に暴漢の凶弾に倒れた。

前年に出来上がっていた國民會館ビルでの葬儀には一万人が参列、津田鐘紡社長は「徳は千載不朽、 現代日本無双の偉人なり、我らがこの英雄を失うこと、現代日本の大いなる損失である。まさに行い正しければ眠り平らかなり」と感動的な弔辞を読んだ。経済人から政治家へ、そして政治家から言論人へと、つねに先見性を以って日本の近代化をリードして駆け抜けた67歳の生涯であった。

以上

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