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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2011年2月20日(日)

京都産業大学教授 所功氏
「大和朝廷の発展過程― 王宮・后妃・山陵の謎解き」(於大阪武藤記念ホール)

一.古代(西暦一〜六世紀)の大和朝廷

1.現在の日本の混迷原因は、祖国成立についての自信欠如から。
「建国を偲び、国を愛する心を養う」と定められる建国記念日を迎えても、最近の報道は神武天皇を抜きにしたものばかりで、まことに残念である。それは祖国の成立について知ることが、現代日本人の精神の根底で欠けているからである。自国の歴史の自信と信頼と見識を持つことは、国民的課題ある。然し近年の日本古代史研究の変化は、その自信を回復させてくれる。戦後「神武から応神以前は架空」、「六世紀以前は歴史にならず、すべて考古学の世界」との説が主流であったが、ここ十年来、歴史学界における古代史の流れが変わっている。
原秀三郎静大名誉教授が「記紀なしに古代史は語れない」と、それまでの自説を一八〇度転換し、ニュージーランド在の角林文雄教授は「津田左右吉博士の神武天皇否定は思いつきにすぎず、神武天皇が建国した以外に考えられない」と断じている。

2.考古学発掘調査が古代史に及ぼした影響は大きい。
戦後の考古学の発掘成果は貴重なものが多く、古代史に大きな影響を与えた。発掘の殆どが記紀の伝承と符合し「考古学は記紀を裏切らない」とまで言われるようになった。その好例として、一昨年の纏向遺跡の発掘は、記紀の所伝と大筋で一致する。崇神天皇の磯城の水垣宮は「周囲を水の垣が巡っていた」ことが実証され、その王宮は三世紀の前半のものであることも特定された。然し逆に古代史の文献を考古学によって見直さねばならない場合もあり、古事記・日本書紀を初め、風土記・古語拾遺など、さらに加えて中国の文献も素直な 気持ちで読み直す必要がある。そのため、あくまで明確な史料の根拠にもとづく論理的思考が大切である。

3.国の始まりは、神武天皇なしでありえない。
記紀の神話は、高天原の神々が地上の万物を生み出し、その子孫が葦原中国へ天孫降臨する、という天照大神から神武天皇への神統譜からなっている。 但し書記年代は、辛酉(かのととり)の年に革命が起こるという中国伝来の「讖緯説」に基づき、推古天皇九年の西暦六〇一年から逆算して60年×21元=一二六〇年前の西暦紀元前六六〇年を神武天皇紀元元年としている。その年代を外せば、記紀の伝承は大筋で史実を伝えているとみなすことができる。

二.田中卓博士が実証された日本建国史

4.東征の伝承は一世紀ころの史実と認められる。
天孫降臨も横(東征)を縦(降臨)に神話化したものである。大和朝廷の祖先は高天原の九州から大和への「東征」に成功し、国をひとつの家にしようとする「八紘為宇」の令を発した後、建国記念日となった太陽暦の二月十一日、橿原宮で初代天皇として即位された。
その実年代は、三世紀前半の崇神天皇から九代遡れば、弥生時代中期の一世紀前半ころと推定できる。それは昭和十五年ころ末永雅雄博士らの行われた橿原神宮周辺の発掘により発見された祭祀遺跡からの年代推定ともほぼ符合している。
田中卓博士によれば、大和朝廷の前にも、同族の出雲氏や物部氏が何度も九州から先駆的な東征を試みたが、容易に成功しなかったことも、神話から読み取ることができる。それ以後も在地豪族と融和をはかり、畿内で基盤を固めていった。かくして、大和王権=大和朝廷を中心にわが国は統一されたのである。

5.邪馬台国は北九州にあり熊襲に滅ぼされた。
崇神天皇は四道将軍を各地に遣わして国内統一へ乗り出し、また物部氏に出雲の勢力圏を平定させるなど、さらに勢力を拡げられた。一方北部九州には神武天皇と同祖の子孫が残っており、三十余の国々が邪馬台国を中心に連合して共立したのが女王の卑弥呼であった。よって三世紀前半の日本列島では、畿内大和の崇神天皇と、九州の女王卑弥呼を中心とする勢力が並存していたことになる。然し北九州の倭国連合は、まもなく狗奴国(熊襲)に攻め滅ばされたことを立証されたのが、若井敏明氏である。

6.神功皇后の実在・活躍も立証できる。
次の垂仁・景行天皇朝にも国内の統一事業が進展した。まづ倭姫命をして伊勢に神宮を鎮座せしめられ、ついで日本武尊を遣わして、九州の熊襲を征し東国の蝦夷を討たせられ、さらに成務天皇は国内各地に国造を置かれた。
やがて仲哀天皇と神功皇后は、九州の熊襲を討ち、熊襲と同盟関係にあった新羅も破って大和へ凱旋された。石上神社に現存する七枝刀の銘から、神功皇后の活躍は四世紀ころと推定され、そのころには日本の勢力が朝鮮半島にまで及んでいたことになる。
それを傍証してくれるのが中国の漢書・後漢書・魏志倭人伝や朝鮮の史料である。倭・倭人といっても、初めは九州の人達であるが、やがて日本全体を指すようになった。朝鮮の高句麗広開土王の碑文に、倭が百済・新羅を破り攻め込んできたので、撃退したとあるのは、四世紀末である。
さらに五世紀中ごろの雄略天皇(倭王武)は、国内のみならず朝鮮を支配する倭国王としての地位を宋の順帝に認めさせておられる。
かくして一世紀前半の神武天皇から、三世紀前半の崇神天皇、四世紀始めの日本武尊、四世紀後半の神功皇后、五世紀の応神・仁徳天皇から雄略天皇まで、大筋でつながる記紀の伝承は、概略いづれも史実と認められる。だからこそ、やがて聖徳太子が隋との対等外交を展開することもできたのである。

三.皇統譜と王宮‐后妃‐山陵の史実性

このような一世紀から六世紀までの大和朝廷については、歴代天皇の、系譜だけでなく、代々の王宮・后妃・山陵も伝えられている。神武天皇より以前の神代系譜も重要である。物部氏や出雲氏‐尾張氏など、それぞれ先祖の間のつながりを読み解くことができるからである。
まず王宮は大王の住まわれるところである、弥生・古墳時代には掘立柱・高床式の宮殿で、耐用年数から一代ごとに宮を遷されたが、殆ど奈良盆地の南部にあった。また古代天皇の后妃は、大和の有力豪族の出身者が多い。大和朝廷はそれら豪族の協力を得て、勢力を拡大していったのである。神武天皇と崇神天皇の間の八代の天皇も、現地の有力氏族との結びつきがあり、決して闕史八代ではない。さらに山陵は、当初一定していないが、やがて前方後円墳となり、それが天皇の勢力拡大とともに各地へ広がってる。
以上、大和朝廷の発展過程は、書紀の紀年を別にすれば、記紀の伝承が大筋において一世紀から六世紀までの史実を立証することになる。これによって、わが国は大和朝廷を中心にして徐々に統一され、やがて朝鮮にまで勢力を及ぼし、さらに中国との対等外交にも挑む堂々たる国家になったことは、ほぼ明白な史実とみることができる。

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