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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2011年3月5日(土)

國民會館会長 武藤治太
「武藤山治をめぐる群像」(於大阪武藤記念ホール)

T実業家の三人、朝吹英二・呉錦堂・鈴木久五郎

1朝吹英二
「福澤人脈」
福澤門下生であった中上川彦次郎とその妹婿の朝吹は、三井財閥の総帥・番頭として一時代を画した。朝吹は攘夷論にかぶれて開明派の福沢の暗殺を企てたこともあったが、のちに福澤の感化を受けて慶應義塾に学び、三菱商会を経て、同じく福澤に直接学んだ武藤山治が鐘紡に入社した時には、専務に就任していた。

「朝吹の経営姿勢」
三井の顧問井上馨の命により、中上川会長下で再建途上にあった鐘紡は、中国に近い関西の拠点として神戸の和田岬に四万錘の大工場の建設を決定し、工場建設の責任者に武藤を抜擢した。その時、朝吹は武藤に「何事も地味にやれ、特に工場の事務所は粗末に」と指示したという。又「中央同盟会」との女子工員のスカウトに関する紛争事件においても、中上川・朝吹・武藤の毅然たる態度により、鐘紡の考え通り解決した。朝吹は、その他王子製紙、芝浦製作所等グループの業績不振会社の建て直しをすべて担い、又工業資本路線の中上川彦次郎と商業資本路線の益田孝の巨頭の間でもあくまでも脇役に徹して、三井を舞台裏から支え、後年益田孝の後任に推されるも、団琢磨を推挙して身を引いた。

「脇役に徹するも、部下を育て、人の面倒をみた」
晩年「わしの一生は失敗のし通しで何ひとつ成功と言えるものはなかったが、部下から三人の大実業家を出したことだけは、少し自慢出来るかな」と述べた。三人とは藤原銀次郎、武藤山治、和田豊治であった。また多額の借財をかかえる中で、人の面倒をよく見、中でも尾崎行雄、犬養毅は最も世話になったという。又益田孝は「不思議な男だ。紡績をやればその通り、数奇者としても茶をやれば茶、美術をやれば美術、何事でも少しやれば、すぐにその道に精通する」と評した。なお今年度の芥川賞作家朝吹真理子氏は英二の玄孫であり、血筋は争えないのかもしれない。

2呉錦堂
「生来の商才を日本で発揮」
昨年舞子公園に移築された「旧武藤山治邸」と呉錦堂の別荘「移情閣」(孫文記念館)は、もともと数百メートル離れていたが、至近の距離に並び立つこととなり、公私とも関係が深かった二人の時代を超える因縁を感じる。呉錦堂は寧波付近の農村の出であるが、上海へ出稼ぎに出るとたちまち商才を発揮して独立、さらに当時発展を始めていた日本へ目をつける先見性により、日露戦争までには日中の貿易と海運の双方で巨万の富を得て、セメント、マッチ、メリヤスなどの事業で阪神財閥の一角を占めるまでとなった。

「鐘紡の取締役に就任」
呉錦堂はカネボウとの取引では中国から綿花を輸入し綿製品を中国へ輸出したが、三井財閥が売却した鐘紡株を取得して大株主となり、明治34年には取締役に就任し、一介の華僑が日本における大きなステイタスをうるところとなった。

「仕手戦に破れるも、その後も奮起、孫文を支援」
所有した鐘紡株のカラ売りで利ざやを稼いでいた呉錦堂 は明治39年に鈴木久五郎との仕手戦に巻き込まれてしまう。然し鈴木の資金力に負けて、追証が必要となり、武藤山治の紹介により三井銀行ではなく、三菱銀行の豊川良平(岩崎弥太郎を支えた従兄弟)の英断により特別融資を受けて破滅から救われた。然しその後は見事にカムバックし、資産を中国に移して製鉄会社を興し、水利事業や社会事業にも尽力、又中国革命の父孫文を支援した。

3鈴木久五郎
「自ら相場師を標榜」
当時は地方の素封家が銀行を営むことが多かったが、鈴木久五郎は兄が作った埼玉の鈴木銀行の銀行家に甘んぜず、安田財閥をバックに相場師として株式の買占めで巨万の資金を得て、その資産はピークにおいて一千万円(現在の一千億円か)と言われ、いわゆる成金第一号と呼ばれた。そして上記の通り呉錦堂との仕手戦を制して鐘紡株の過半数を握る大株主となった。その経緯は村松梢風作「近世名勝負物語」に詳しく「黄金街の覇者」として映画化された。

「オーナーとして鐘紡への要求」
鈴木は「紡績大合同論」を主張し、倍額増資を要求してそれを実施させた。武藤は責任を取って支配人を辞任した。ところが鈴木は経営には素人で、従業員も武藤の復帰を望み、武藤は「監督」という職名で復帰した。

「あっけない幕切れ」
然し仕手戦からわずか4カ月後、日露戦争の反動による株式大暴落により、売り方の雄の野村徳七に破れて破産し、その後表舞台にでることはなかった。明治41年に武藤は鐘紡に再入社して、専務に就任した。然し山治はその娘の舞台デビューへ花束を贈る など、自分を追放した人に対しても寛容であった。

U後日の政治家への素地となった若き日の「後藤象二郎」との邂逅

武藤は米国からの帰国後、横浜ジャパンガゼット新聞の記者時代、福沢諭吉から後藤象二郎の秘書にならないかと打診されたが、新聞社にはそのまま籍を置き、語学力を発揮して後藤の政治活動を応援した。その時後藤は征韓論で野に下っていたが、伊藤博文の不平等条約改正案の内容と欧化主義に異をとなえる「大同団結運動」を展開していた。土佐藩時代に後藤は叔父吉田東洋に育てられ公武合体派として勤皇党を弾圧していたが、のち攘夷論に転換し、坂本龍馬が唱えた「大政奉還論」を藩主山内容堂に進言したことで歴史上有名である。但し龍馬の功績を横取りしたといわれ、板垣退助とともに自由党を結成するも伯爵を授かり、逓信大臣と農商務大臣にも就任した、毀誉褒貶の強い人だった。然し深い付き合いのあった福沢諭吉をして「腹を斬れるのは後藤だけ」と言わしめ、面談した武藤山治は「大久保、木戸と肩を並べる傑物である」と評している。

V「河上肇博士」と論争、一歩も引かず

「現実を見ない空想の理論を仕掛けられる」
マルクス経済学の泰斗、「貧乏物語」の河上博士との大正8年から10年にかけての論争は語り草となっている。武藤の経営理念は「科学的・能率的に事業を経営する一方で、家族主義・温情主義によって従業員を家族の如く保護することにより、労使双方の経済繁栄を図ろう」とするものであった。それに対して博士は「英国の空想的社会主義者で紡績業者でもあったロバートオウエンは1806年の恐慌の際、四カ月の事業休業期間中、一人の従業員も解雇せず、賃金を払い続けたのに、鐘紡は恐慌に逢うや、早々と操業短縮と賃金切り下げを講じており笑止千万である」と茶化した。

「権利を主張するだけでなく義務が大切」
それに対して武藤は、「そもそも温情主義は西洋には存在しない。それゆえに労働者は権利を主張するのである。また西洋の労働に関する書物を鵜呑みにするだけでそれを日本に適用しようとするのは間違いである。権利を主張するだけで義務を考えなければ、労働問題は解決しない。ギスギスするのではなく労働者はすべからく資本家と協調して目的を達成するべきである」と応じた。博士は「我国と西洋の資本家に違いはない。科学的社会主義のもとで、労働者の権利は与えられるものではない。勝ち取るものである。又鐘紡の株主配当金は多すぎ、従業員賞与も明らかにされていない」と反論した。

「論争にけり」
二人の議論はそもそもかみ合うものではないが、武藤は「オウエンは個人経営者であるが、鐘紡は株主・従業員その他の利害関係者に大きな責任を負っている。経営は慈善事業ではなく、篤志家のオウエンとは舞台が違い、結局彼は破産をした。又鐘紡の賃金カットは第一次世界大戦で賃金を7割増にしていた内の1割に過ぎない」ととどめを刺し、さらに博士の獄中転向で論争のけりがつくところとなった。

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