ホーム > 武藤記念講座(講演会事業) > 講師  作曲家 吉田進氏 「エディット・ピアフ物語」

武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2011年11月19日(土)

作曲家 吉田進氏 「エディット・ピアフ物語」(於大阪武藤記念ホール)

T.伝説となった薄幸の少女時代

1.「出生と失明」
エディット・ピアフは、戸籍では病院で生まれたことになっているが、1915年12月にパリの貧困街の路上で生まれたとの伝説がある。然し家が貧しかったことは事実で、両親とも大道芸人であり、父は軽業師、母は歌手であった。父の第一次世界大戦の出征により、母は働かねばならなくなり、彼女を自ら育てることが出来なくなり、母方の祖母、次いで父方の祖母に預けられるも、特に父方の祖母の家は子供には決して健全な環境とは言えなかった。彼女の伝説のもうひとつは、6歳の時角膜炎になり殆ど失明したが、父方の祖母の使用人がリズィユーの修道院の聖女テレーズ(彼女はジャンヌ・ダルクに次ぐフランス第2の守護聖人)へ巡礼してくれたことにより、霊験あらたかに癒されたと伝えられ、彼女は生涯聖女テレーズへの信仰を保ち続けた。

2.「未婚の母と貧困」
7歳になると彼女は復員した父の大道芸に参加して、街角で客を回ってお金を集め、やがては自ら歌うようになり、15歳まで父と一緒に働いた。以後父から独立して歌うも、17歳のとき配達人との間に女児マルセルを産み未婚の母となった。然し自分自身が母親に捨てられた経験から幼い娘を抱いて街頭で歌ったが、19歳の時マルセルは急逝、二人は娘が死んだ病院でそのまま別れた。然し娘の葬式を出すお金も足りず、自らの身体を売らざるをえなかったという伝説がある。

3.「初めて晴れの舞台に立つも殺人の嫌疑をかけられる」
然しそれからわずか3カ月後、シャンゼリーゼ大通りの近くで歌っていた彼女を、たまたま通りかかった名門クラブのオーナー、ルイ・ルプレーに見出され、彼のキャバレーで出演出来る幸運を得た。ルプレーは小柄なエディットに、後の芸名となるラ・モーム・ピアフ(小さな雀)の愛称を与えた。まさに彼女はルプレーにより見出され、晴れの舞台に立つことが出来たと言える。彼女も彼をパパと呼んで頼り、彼女の最初のレコードはこの年に録音された。然し半年後ルプレーが自宅で殺害され、ピアフはその共犯者であると告発された。幸い嫌疑は晴れたものの、世間の評判が落ちて歌手活動もままならなくなった。

U.シャンソンの女王への道

1.「歌手エディット・ピアフの誕生」
ピアフは現実派シャンソン(物語性の強い人生の悲哀と宿命を歌うシャンソン)のレイモン・アッソに助けを求めた。彼は彼女に歌手という職業がいかにあるべきかを叩き込んで、シャンソン歌手としての個性を創り上げ、芸名も本来の名前であるエディット・ピアフに改名し、現在私達が知っているシャンソン歌手「エデイット・ピアフ」が正式に誕生した。アッソはピアフの恋人となり、彼女のために詩を書き、歌の競演も行った。かくしてピアフの「恋人と競演して、自分の人生と芸術を並行させる」人生が始まった。アッソ作詞の「私の兵隊さん」はマリー・デュバが既に歌っていたが、彼女も取り上げて、最初のヒット曲となった。
さらに詩人・作家・映画監督のジャン・コクトーとも知己となり、彼をして「ピアフの前にピアフなし、ピアフの後にもピアフなし」と言わしめた。コクトーは彼女のために「冷たい美男子」という芝居を書き、ピアフはアッソ出征後の新しい恋人ポール・ムーリスと二人芝居の競演をした。

2.「シャンソンの作詞家と作曲家を求めて」
「エディット・ピアフ」の名を確固たるものにした彼女は、シャンソンの作詞・作曲家を探し始めた。 先ず、恋人となったミシェル・エメール作「アコーディオン弾き」である。この歌を歌う舞台で彼女は放心状態となるほど歌の世界に没入している。
次は「パダン・パダン」である。これはどちらもピアフの恋人である作詞家アンリ・コンテと作曲家ノルべール・グランツベルグを協力させて出来上がったピアフの歌唱のなかで最高傑作のひとつである。それはピアフの肉体が消えてしまって、歌声だけが空中に浮遊する鬼気迫るものである。
そしていよいよイヴ・モンタンの登場である。ふたりはモンタンがビアフの前座をつとめている時に親しくなり、ピアフはモンタンの口に何時間も鉛筆をくわえさせてマルセイユ訛りを直してやった。後にシャンソンの男性歌手の代名詞になったモンタンは当時アメリカのカウボーイのウエスタンを歌っていたが、彼女がアドバイスしてシャンソン歌手に転向させたのである。又アンリ・コンテが当時のシャンソンの大御所モーリス・シュヴァリエのために書いた詩をモンタンに譲らせた。コンテとモンタンは犬猿の仲であったが、それを実現させたのは彼女の器量である。尚モンタンとピアフは映画「光なき星」で競演した。
シンガーソングライターのシャルル・アズナブールの才能を見出したのもピアフである。ピアフの家の前に住んでいた彼は居候して作詞、作曲を教わり、彼女の秘書と運転手まで務めたが、後年彼の名声が高まると、彼女への手紙に「あの喝采は、皆君のお蔭」と書いている。彼の作詞作曲「あなたの目よりも青く」は彼女も歌っている。
 ギリシャのシンガーソングライター、ジョルジュ・ムスターキの才能を見込んで作らせ、彼女も歌ったシャンソンの傑作のひとつ「ミロール」もその例であるが、以上のように才能を見出して世に送り出すことが、ピアフの美徳であることは間違いない。

3.「よいシャンソンの曲も発掘」
モンタン同様にウエスタンのフォークソングを歌っていた「シャンソンの仲間たち」9人のリーダーであるジャン=ルイ・ジョベールも育てたうえに恋人となり、彼女がスイスのローザンヌで見つけた「谷間に三つの鐘が鳴る」を歌わせて、彼らをシャンソンの世界に引き入れた。そしてこの曲が世界的に未曾有のヒット曲になったのは承知の通りである。
南北アメリカへの公演旅行においては、「オートバイの男」はアメリカのロックンロールをシャンソンに取り入れ自ら歌い、「群集」は南米ペルーの曲であり、舞台での彼女の手の動きが象徴的である。

V.シャンソンの女王としての後半生

1.「自分でも作詞作曲家として」
ピアフのすべてのシャンソンの中で今でも最も演奏され歌われている、彼女30歳の代表作「バラ色の人生」の作詞はピアフであるが、彼女は著作権協会の作曲部門の入会試験に合格していなかったので、作曲はルイギィの名前を借りたとの逸話も語り草となっている。又当初はマリアンヌ・ミシェルが歌っていたが、やがて彼女が自分の持ち歌にした。
さらに大西洋上で飛行機事故死した、運命的恋に落ちていたフランス人の世界チャンピオンボクサー、マルセル・セルダンのために作詞したのが35歳の時の「愛の讃歌」である。巷では事故死してから彼の思い出に捧げた曲と言われているが、生前に彼への思いを込めて作曲されたのが知られざる真実である。日本の岩谷時子さんの歌詞はひたすら明るく輝かしい文字通りの愛の讃歌であるが、原文のフランス語の歌詞もとこしえの愛を歌ってはいるが、悲しくドラマチックな表現であり、マルセルの死を予感するかのようである。ピアフは自叙伝で「あのとき自殺を思い止まらせたのは、マルセルであった。然したとえ悲劇に逢っても本当の勇気とは生き抜くことだ」と述べている。

2.「私生活も波乱の内にも幸せな幕」
恋人の自転車チャンピオンと同乗して、自動車事故に遭い、痛みを和らげるためのモルヒネ中毒により舞台で歌詞を忘れて聴衆から罵倒され、また娘を亡くしてから酒びたりとなり20年近くアルコール中毒に悩み、酔っ払って舞台で出鱈目の歌詞を歌ってやじを浴び、決して非の打ちどころのない人ではなかった。然し37歳で「あなたに首ったけ」の曲を書き、作曲者としてまだ無名のジルベール・ベコーを連れてきた、歌手ジャック・ピルスと懇意となり、マレーネ・ディートリッヒを立会人に結婚した。然しスター同士のすれ違いで4年後に離婚した。
長年の不摂生、身体の無理、麻薬とアルコールも与って、生理学上死んでいるのも同然で歌うのは自殺行為と言われ、何度も舞台で倒れては救急車で運ばれるようになり、ビアフはもうお終いといわれていた45歳のとき、ピアニストで作曲家のシャルル・デュモンが「私は後悔しない」を携えてピアフを訪れた。それはまさにビアフ自身を描いたと言われ、大ヒットした。「私は何も後悔しない。過去などどうでもよい。私はゼロから再出発する。なぜならば私の人生と喜びは今日あなたとともに始まるのだから」がその歌詞のさわりである。
然し47歳のときに、理髪師・歌手の26歳テオ・サラポと二人で盲目が癒されたリズィューを訪れ、聖女テレーズに祈り「一生待ち望んで得たやっと見つけたばかりの幸せを、どうか2〜3年でもお与え下さい」と祈り、再婚した。「恋は何のために」をデュエットする二人の何とも微笑ましい映像がある。結婚生活もわずか1年間で、ピアフは48歳の短い生涯を終えた。聖女テレーズを生涯篤く信仰していた彼女のために、彼女自身が歌った「私の神様」を聞きながら、「自分の人生を人の何倍も生き切った」彼女の芸術と人生の話を終わる。

3.「まとめれば」
シャンソンの女王、エディット・ピアフは、波瀾万丈の生涯を送った人だった。貧困、失明、未婚の母、殺人嫌疑、麻薬、事故・・・。恋多き女性でもあり、モンタンやムスタキを、世に出しました。そして私生活と切り離せない、名曲の数々。≪愛の讃歌≫・≪バラ色の人生≫等、音と映像をふんだんに用いて、ピアフの生涯が辿られました。

お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ