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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2012年2月18日(土)

ジャーナリスト 笹 幸恵氏 「団塊ジュニアが巡る戦跡〜私たちは先人たちにどう応えるべきか」(於大阪武藤記念ホール)

1.三十代の私がなぜ戦地を巡るのか

「祖母からの教えがその始まりだった」
幼い頃躾に厳しかった祖母の料理の手伝いをした時に、じゃがいもの皮を厚く剥き過ぎて、勿体ないと叱られた経験がある。そのとき祖母から「餓えに苦しんだ戦時中は、じゃがいもの皮でも勿体なかったので、たわしで泥を落としたものだ」と言われ、私はほめられると思っていたのに逆に叱られて、ショックを受けた。然し餓えに苦しむ時代とは何だろうと、怖い気持ちと不思議な気持ちがないまぜになったまま、小中学校期を過ごした記憶が鮮明である。

「一冊の本との出合い」
もうひとつは20歳の頃に出会った一冊の本である。それは会田雄次氏の「アーロン収容所」である。同著はビルマの英軍収容所での強制労働の日々を、人種問題、戦争、日本人の思考方式などを示唆に富む鋭利な筆で綴ったものである。そのなかで著者は上官である将校の「日本が戦争を起こしたのは申し訳なかった、これからは仲良くしたい」との発言を英軍中尉に通訳したところ、中尉は態度を変えて「君は奴隷か。我々は祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念は頼りなかったのか、それともただ主人の命令だから悪いと知りつつ戦ったのか、負けたらすぐ勝者のご機嫌を取るのか、そういう人は奴隷であってサムライでない。我々は多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私は彼らが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私達は日本のサムライと戦って勝ったことを誇りと思っているのだ。そう言う情けないことは言ってくれるな」と、きっとした態度をとって応えたと述べている。

「目からうろこの国家観と戦争観」
私はそれまでは、疑問には思いつつも、自分の祖父の世代は悪いことをしたと教えられてきた。然し「アーロン収容所」を読んで今まで何も知らされて来なかった、勉強もして来なかったことを大いに恥じた。即ち自分のなかでは常識であったが、今まで習ってきたことは大きな間違いであり、国際社会では通用しない非常識、場合によっては失礼、ぶしつけであると分かり、目からうろこが落ちた。そしてそれ以来、あのとき何があったのか、自分の目できちんと確かめなければならないと決心した。然し戦争の本は軍隊用語、戦地の場所等、読むだけでは理解しにくいので、悶々とした日々が続いた。そこでフリーとなって戦地に行ってみようと決心して、7年前にガダルカナル島へ初めて行き、以来慰霊巡拝を含め合計5回行ったことになるが、対日感情、気候など南方の島々は私にとって日本にいるより居心地がよい場所となったのである。




2.慰霊碑についての提言
「風化していく慰霊塔」
昭和50年前後になり、各戦地に有志の戦友達により慰霊塔が相次いで建立された。然し戦争の記憶が薄れるのと同じように、終戦後しばらくたってから建てられた慰霊碑さえも、戦友達の高齢化と死去により、又後継者もいなくなり、訪れる人も少なくなっている。その結果現地の人達に荒らされ、場所さえも分からなくなり、風化が始まっている。国内に居ると気がつかないことであるが、戦没者に余りに失礼な状況となっている。政争の具となっているにせよ国内の靖国神社、さらには護国神社にお参りすることは大切である。然し遺児の人達にとってはやはり現地に出向き、花を手向け、線香を供え、お経をあげて追悼して本当の慰霊となるのではないか。

「政府のガイドラインによる基本方針確立が必要」
日本政府は主要戦域毎のインドネシア、パプアニューギニア、シベリア及び太平洋では北太平洋はアッツ島、西はぺリリュー島、南はラバウル島 東はマーシャル島に慰霊塔を設置して事足れりとしている。然しひとつひとつの島には設置されていないので、亡くなった場所で手を合わせたい遺族の気持ちには添わないのではないか。勿論すべての大小ひとつひとつの島々に建立することは非現実的である。従って政府は「ガイドライン」を設けて慰霊の気持ちのみならず、歴史を語り継ぎ、かつ、島民にも資する基本方針を国の内外に示すべきである。又民間の慰霊碑は個人の意思で建てられたものであるので、国が建設を止めることは出来ないが、管理が行きとどかなくなって朽ち果てて撤去される場合、それは国の費用でなされるので、結局国が莫大な費用を負担する矛盾をかかえており、「いたちごっこ」で税金の無駄使いとなっている。それならば、初めから国の費用で建立して戦没者を弔うべきである。それもこれも国の慰霊塔に対する基本方針が確立されていないからである。

「手厚い米国のケース」
一方米国の記念碑は亡くなったひとりひとりの兵士の名前が銘版に刻まれ、守衛に守られ、庭師により庭や花壇の手入れがなされ、かつ戦闘経過が詳しく説明されており、初めての人にも大変分かりやすい。勿論現在も戦争を続けている米国は国民に兵役を果たしてもらうためにも手厚い慰霊は必要であり、又宗教と価値観の違いはあるだろう。然し国、故郷、家族のために戦った人の戦没者を思う心に、彼我で雲泥の差があるのが現状である。戦後の我々は余りにも無関心であったことは確かである。



3.遺骨帰還事業についての提言

「遺骨収集は人的に難しい局面に」
ブーゲンビル島の砂浜から発掘された頭蓋骨がずらり並んだ焼骨式を見てびっくりし、当時戦後65年も経過しているのに、国は何をしていたのか、一体何が戦後なのかと激しい憤りを覚えた。然しその国に対する怒りは、やがて自分に対する怒りに変わって行ったのである。私の世代は戦争を意識せずに物質的にも恵まれて生きて来られたが、そのことが無知の理由にならず、自分自身が学ぼうとしなかったことにこそ責任があるのではないかと思い至ったからである。もし自分が万歳で送り出されて5千キロも離れた異国の地で人知れず半世紀も埋もれていたならば、大変悲しく残念であろうと思ったのである。 サンフランシスコ条約発効直後には、戦場の位置も明確であり、遺骨収集は三カ年計画とか五カ年計画で熱心に行われ沢山の遺骨が収集された。然しこれも段々と見つけるのが困難となり、歳月の経過につれて下火になっていった。何故ならば負け戦だった「島礁戦」では部隊の組織そのものが壊滅し、分散してジャングルに逃げ込んだ兵士達の骨を拾うのは、砂漠の中で針一本を拾うようなものになっているからである。 従って今となっては現地の人の情報に頼らざるをえない。現地の人が畑を開墾している際に発見された遺骨は大使館に通報され、厚生労働省の職員が現地に出向いて引取られることとなる。その際現金が支払われるが、現地の人にとって骨は貴重な現金収入となるので、素直に渡さない人も出てくる。又頭蓋骨を見世物にしたり、博物館に展示している場合もある。現地の人々は現金なしでも、年中採れる椰子の実と海に入れば採取できる魚で生活をしていけるが、だからこそ現金収入は彼らにとって魅力的なものになっている。又遺骨収集には現地の人に労賃を払って働いてもらわねばならないことからも、現地では「骨が金になる」と思われてしまうのである。よって骨が盗まれ、展示している頭蓋骨を譲ってもらう場合に法外な値段が吹っかけられたりする場合もあり、こうした金銭トラブルや盗難も遺骨収集を困難にしているのである。

「更に自然環境の壁もあり、遺骨収集作業は制度疲労へ」
もうひとつ遺骨収集を困難にしているのは自然環境の壁である。厚生労働省の遺骨収集のスタンスは、遺族援護のために政府派遣団を組織するものである。然しもう昔の遺児は平均年齢70歳を越えているので、ジャングルの中を進み、作業するのは困難である。30分もすれば止むのにスコールがくれば作業中止となってしまい、進むものも進まない始末である。よって結論を言えば、遺骨収集事業は「国民ひとりひとりが、国家のために」即ち国家が行う事業にするべきである。そうしないと国際的にも恥ずかしい限りである。ある米国人ジャーナリストに「日本人は遺骨があることが分かっているのに、また少し調査すれば見つかるのに何故放置するのか、自分ならば恥ずかしい」と言われ、返す言葉もなかった。確かに自分達の父祖を忘れ去る国民とは何なのだろう、又それを忘れ去る日本と云う国は何なのだろう。然し遺骨収集の制度疲労は残念ながら確実に始まっている。海外戦没者約240万人のうち、半数弱の113万の遺骨が祖国に帰国していない。そのうち海没遺骨、遺骨収集を禁止している国・地域にある遺骨等収容不能なものを除くと、61万は収容可能であるがそれができず、彼らはどんどん土に還っていくのである。

「声なき声に耳を傾けるのみならず、行動こそ」
人それぞれ考え方があるのでそっとしておいて欲しい人もいるだろう。従って遺骨を最後の一柱まで収集するべきだとの考えは持っていない。然し私がなぜ遺骨収集をするのかと言えば「俺たちのことを忘れないでくれ」との戦没者の声を心の中で聞くからである。 所功教授は30歳で亡くなった父上と同じ歳にニュージョージア島ヌンダを初めて訪れ、その命日に父上の「はんごう」を見つけ、さらに同じ場所でご遺体も発掘された。教授の例だけでなく、祖国から遠く離れた場所で死んだ人が思いを残している数え切れない例がある。目に見えるものがすべてではない。目に見えない思い、声なき声を感じることも大切である。慰霊祭で線香をあげた途端に降る「涙雨」は、故人が慰霊祭を見て喜んでくれているものであり、私は何度も経験した。又大福を一口でよいから食べたいと言って死んでいった戦友のために食べて欲しいと、私は好きでない大福を勧められ、食べ始めたとたんに自然に涙がこみ上げてきた経験がある。玉音放送、ミズリー号上の降伏調印式、あるいはサンフランシスコ講和条約発効後が戦後だろうか。戦没者を弔い彼らの無念に思いを寄せて初めて戦後である。又以上で述べた慰霊碑や遺骨の問題は表面の現象である。一番根本にあるのは国民ひとりひとりの無関心である。そして無関心は恥である。又無知は罪である。政治、教育が悪いからと批判するのは簡単である。翻って自分はどうなのか、大切なのは自分で取り組むことである 私の現在の取組みは一つには日本青年遺骨収集団のガダルカナルへの「自主派遣隊」に協力すること、二つには戦争についての歴史を知る視座として「近現代史研究会」(代表)を主宰し、三つには戦争の基礎知識を身につけてもらう為の「戦史検定」(同会実行委員長)を発足させている。ご賛同、ご支援をお願い出来れば幸いである。

以上

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