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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2012年3月10日(土)

公益社団法人國民會館 会長 武藤治太氏 「福澤諭吉に学んだ武藤山治の先見性」(於大阪武藤記念ホール)

はじめに
教育者、思想家、そして新聞人であった福澤諭吉は、机上の空論ではなく先見性ある実学をあくまで重んじた近代日本が生んだ最もすぐれた人物である。 その門下からは数々の優秀な人材が育ったが、中上川彦次郎、朝吹英二、そして武藤山治の三人が、その実学 思想の最も忠実な実践者と云える。武藤山治は生涯三つの大きな戦いに挑んだ。三つの戦いとは「鐘紡の再建と発展、国民同志会を率いての政治活動、時事新報社の再建」であるが、そのいずれも教育者としての福澤諭吉から慶應義塾にて直接薫陶を受けた先見性がその原点となっている。本日は、生涯にわたり先見性に満ち満ちた武藤山治の戦いを、先見性に焦点をあてて辿ってみたい。

1.「父国三郎の先見性と福澤から直接教わった先見性」
「代々治水事業を行い、地域のために尽くしてきた庄屋の家に生まれた父国三郎は、大変な読書家であり、福澤諭吉のベストセラー「西洋事情」を読んで大いに感激し、自分の息子をこのような先生に学ばせたいと山治を伴い上京した。慶應幼稚舎に入学した山治は、福澤諭吉からマンツーマンの教育を受け、又散歩の随行者として師から学問だけでなく人生万般の教えも授けられた。慶應義塾卒業後は英国留学が父の願いでもあったが、松方デフレでやむなく資金的に断念せざるをえなくなったが一念発起し、福澤諭吉のすすめもあって米国留学に切り替え、苦学しながらパシフィック大学でスクールボーイをしながら学んだ。当時の成績表が同大学の記念室に残っているが、極めて優秀な成績で、勉学への意気込みが違うことが伺える。

2.「米国帰国後の若き日、実業界で先見性を早くも発揮」
2年後の帰国早々に20歳の若さで、米国での経験に基づき中国人に負けず日本人も土地を取得して移住を進めるべきとする先見性ある「米国移住論」を、尾崎行雄から序文をもらい丸善から上梓したが、これは福澤からの紹介があった可能性がある。 彼は帰国後の六年間を若手事業家として活動した。まず日本初めての広告代理店を銀座で立ち上げて大成功、まさに最初から事業家としての大先見性を発揮した。さらに英語力を買われて横浜の英字新聞ジャパンガゼッタの記者となり、新聞社在籍のまま福澤からの紹介で土佐の後藤象二郎の秘書となった。次いでイリス商会に入社しドイツのクルップ社からの当時の殖産興業の基礎をなす鉄道レールの輸入販売に腕を振るった。 そして明治26年に福澤諭吉の甥である中上川彦次郎からスカウトされ三井銀行に入行した。

3.「中上川に応えた山治の先見性」
大久保利通亡き後の自由民権運動の高まりの中で、井上馨と伊藤博文の欽定憲法派と大隈重信らの英国流立憲国家の論争が巻き起こっていた最中に、法外な値段での官有物払い下げの決定に対して、政商と癒着した明治政府への糾弾が行われた。結局官有物払い下げは中止され、23年の国会開設も決まったが、大隈重信と福澤に連なる門下生は政府から追放されることとなった。そして中上川彦次郎、尾崎行雄、犬養毅達の福澤門下生逸材が野に下ったことが山治の運命を変えることとなったのである。 のちに三井の総帥となる中上川は、下野後に時事新報の社長、山陽電鉄の社長を経て、明治24年に三井銀行の理事となり、鐘紡の副社長も兼務していた。英国留学した彼は紡績事業にも詳しく、将来の輸出を考え、支那大陸に地理的に近く貿易港である神戸に兵庫工場の建設を考え、その支配人として若干28歳の武藤を抜擢し、彼は四万錘の工場を2年間で正月も休まず寝食を忘れて完成させた。又その工場建設において日本で初めて国産ボイラーを採用する先見性も発揮した。又同業他社との女子工員のスカウトにからむ紛争事件においては毅然たる態度で解決したが、それは正しいことはあくまでも貫くとの福澤から教えられた「先見性」によるものであった。

T. 鐘紡の再建と発展における先見性の発揮

1.「経営手法における先見性」
彼は出来上がった工場において、能率的・科学的運営を基本とする一方で、家族主義・温情主義によって、従業員を家族の如く保護する施策や心配りによって結果的に労使双方の経済繁栄を図ろうとした。それは同社の東京本店の工場が三井の道楽工場、紡績大学校と呼ばれていたのと対照的なスタートだった。 具体的には能率的・科学的運営においては、最新鋭の機械を導入するとともに工場管理を徹底して高品質の糸を生産することを最重視し、市場に対しては宣伝など先進的なマーケティング手法を導入、労務管理面では職工を優遇するのみならず、今では当たり前であるが、日本で初めて、学院・学校・託児所・娯楽施設等の福利厚生施設や、「注意箱」による提案制度、「鐘紡の汽笛」の社内報発行等々の近代経営手法により「先見性」を発揮した。 明治32年には本店支配人に就任したが、33年には中国で義和団事件が発生して日本経済も恐慌状態となった。当時大手紡績各社は大合同と機械の新鋭化のため多額の資金が必要であったが、鐘紡は肝心の三井銀行に融資を断られ、無配に転落した。然し彼の経営手腕を買った三菱銀行から融資を受け危機を脱することが出来た。彼は「会社は、借金に頼らず自己資本充実が経営の根幹となる」と「先見性」のある財務政策を喝破している。

2.「資本市場に翻弄されながらの先見性」
明治34年には後ろ盾であった中上川が47歳で逝去、やがて三井は益田孝により工業化路線から商業化路線への転換を始めた。持論の「紡績大合同論」を著した武藤は紡績合同を進め、九州一帯の中小紡績を今でいうM&Aで手中に収めた。折しも日露戦争により好景気がもたらされ、輸出に大きな可能性が出てきたので、紡績糸に更なる付加価値化のため織布兼業に乗り出した。そしてその織機は豊田佐吉本人から国産機を購入する「先見性」を発揮した。然し三井銀行はこの資金需要も拒否したのみならず、明治39年にはついに鐘紡株をすべて売却し、その全株は華僑実業家呉錦堂に移った。 然し彼は鐘紡株を空売りして安田善次郎をバックとする相場師鈴木久五郎との仕手戦の結果敗れ、鐘紡の経営権は鈴木に移り武藤は退陣した。然し鈴木は企業経営の素人で、従業員からは武藤の復帰運動が起こり、武藤は監督という立場でカムバックしたが、鈴木も日露戦争後の株式市場崩落により破産、武藤は明治41年専務取締役に返り咲いた。復帰後すぐに彼は資本政策の重要性から、当時としては夢物語であったフランス商工銀行からの外資導入を日本の民間会社で初めて成功させる「先見性」を発揮した。

3.「数々の先見性の積み重ねが実った鐘紡経営の大成功」
専務取締役として復帰後25年間、鐘紡を売上と利益日本一の優良会社に育てあげた。大正7年からは7割の高配当を5年間続け、鐘紡株を黄金株と言わしめ、大正10年には社長に就任し経済人としても不動の地位を占めるようになった。その間にも漂白加工への更なる多角化を図り、大正7年には基礎的研究のため鐘紡研究所を設立して製品品質の向上と新製品の開発に努めた。第一次世界大戦後の不況に対しても好況時に蓄えた積立金を活用して危機を乗り越えて、買収を繰り返し、資本の集中化を図った。

U国民同志会を率いての政治活動における先見性の発揮

1.「先見性ある軍事救護法制定により政界進出」
経営者としては大成功を収めたが、社会の不正と矛盾について深く考えるところがあり、武藤の正義感は日清、日露、及び第一次世界大戦で国家のために戦った戦死者の遺族、戦傷者、さらには働き手を取られ貧困にあえぐ人達への、社会保障を提案した。然し当時の内閣はこれに冷淡で、陸軍からは社会主義者と睨まれる始末であった。そこで美濃部達吉博士に法案の作成を依頼して、議会に積極的に働きかけ、満足の行くものではなかったが、大正6年に軍事救護法として成立させた。その後も折ある毎に改正を目指して活動したが、民間人の限界を感じたことが、政界進出を考える動機となった。 又国際労働会議に雇用者側代表として参加して、鐘紡が如何に女子工員を優遇しているかを示し即時深夜業禁止に反対し、日本に限り例外を認めさせた。 大正10年の金融恐慌勃発の年に株式市場は大暴落し、このまま推移するならば社会主義の膨張は避けられないだろうと、非常に強い危機感を持ち始め、民衆の生活向上と政官財の癒着など社会の不正を糺すために政界への進出を決意した。 同年「政治一新論」を著して、「内閣の更迭頻繁では、自分達の子分や党派の消長に重きを置いて、国政を料理するが如きの弊を防止する」ため、総理大臣の任期を三年程度とし、国民の一般投票にて決定すべきと主張する、今に通じる「先見性」を主張している。


2.「実業同志会による先見性ある主張」
全国の中堅商工業階層をまとめて政治的発言力を持ち、営業税全廃の運動の先頭に立っていた彼は、大正12年にはその実現を図るため政党として実業同志会を発足させ会長に就任、同年9月の関東大震災による社会不安が増大するなかで、大正13年の衆議院選挙で武藤を含め11人を当選させた。武藤の政治哲学は、「一国の盛衰は政治の良否により、社会主義の危機感から各階層の調和を図る政治」であった。大正14年に著した「実業読本」は、今日で言うマニフェストで、小さな政府と予算の徹底的な効率化と、鉄道、郵便・郵便貯金・郵便保険、電信・電話の民営化を柱とし、福澤諭吉の「私立為業」を基本理念としたもので、これも今に通じる見識である。 関東大震災以前に振り出された震災手形を再割引して救済しようとする政府案に悪乗りして焦付手形まで含めようとする動きに武藤は反対し、又台湾銀行の鈴木商店への融資焦付きの救済にも反対した。然し昭和2年3月には金融恐慌が発生、震災手形が膨大な不良債権となり、中小銀行の金融不安が表面化した。台湾銀行も倒産寸前にまで追い込まれ、中小銀行に取付けが起こり、鈴木商店は倒産、台湾銀行も破綻して、武藤の先見性が立証された。その結果若槻内閣は崩壊し、田中義一内閣の高橋是清蔵相が三週間のモラトリアムを実施して現金を市中に放出してやっと終息した。 昭和3年には初の普通選挙が行われ、国民同志会と名を改めたものの、四人の当選に止まった。然し二大政党の政友会と民政党の議席差が2票であったためキャスティングボードを握ることとなった。引き続く経済不況と満州における張作霖爆破事件で田中内閣は総辞職、昭和4年には浜口内閣となった。この年にはアメリカで大恐慌が発生して全世界に波及、我国でも不況は深刻化して、失業者は巷に溢れたのに、井上準之助蔵相は金解禁を目標に緊縮財政を敷き徹底的なデフレ政策を進めた。昭和5年浜口内閣は遂に金解禁を断行したが、金本位制が理論上持つと言われる自動調整作用は働かず、金解禁から半年で卸売物価は7%下落し、為替は11%の円高となり、アメリカの国内卸売物価はその間2.3%下落するなかで、国内市場と輸出の不振という二重の打撃を受けることとなり、武藤は無謀な金解禁と緊縮財政に真っ向から反対する先見性を発揮した。昭和5年の衆議院選挙では国民同志会は自身も含め6名が当選した。この中で武藤は鐘紡社長を辞任した。 この年の選挙の頃から軍部と結んだ右翼の台頭が著しくなり、テロに加担する憂慮すべき条件が頻出した。井上準之助、浜口雄幸、団琢磨暗殺後の5.15事件2.26事件へ繋がって行く情勢が次第に高まっていた。

3.「今に続く國民會館設立への先見性」
武藤としては民生・政友両党のたらいまわしと一部資本家と政治家の悪辣極まる癒着、一方ではそれらに無批判な無知な大衆、さらに無産政党の台頭を目の当たりにして、自分の理想とする情勢との違いに鑑み、彼の行ってきた政治活動が果たして国民を目覚めさせる最良の方法であったかと思い悩んだ。 かくして政治活動に行き詰まりを感じ、国民の政治意識を根本から改革しない限り健全な議会政治は発達しないと、政治教育を改めてやり直そうと國民會館を設立した。そこには恩師福澤諭吉の「文明論の概略」の「一身独立して一国独立する」、「学問のすすめ」の「この人民ありて、この政治あり」との見識の先見性があった。

V最後の戦い、時事新報社の再建における先見性

1.「恩師への恩返し」
時事新報は明治15年福澤諭吉によって創設された独立不羈・不偏不党を社是として福澤の弟子達によって発展してきた日本を代表するクォリティーペイパーであったが、放漫経営が続いたうえに、当時の不況も反映して赤字経営が続いていた。 然し武藤の政界引退を見た福澤人脈の門野幾之進、池田成彬、小林一三らはこの再建を託すには武藤しかないと、嫌がる武藤を説得、家族の反対も押し切って無理やり引き受けさせたのである。 然し引き受けたうえは恩師福澤に対する恩返しをしようと、自ら毎日執筆した「思うまま」や「月曜論説」を担当し、社会悪の摘発に縦横の筆陣を張った。又経営面でも営利会社として立ち行くように大改革を断行し、膨大な赤字を逐次克服して、二年後には一応その経営を軌道に乗せた。

2.「先見性発揮による政・官・財癒着の告発記事
昭和8年台湾銀行が保有していた鈴木商店傘下の帝国人造絹糸の株式が、密かに政界・財界の有力要人の集まりである番町会に不当に安い価格で売却され、売り抜かれたという情報が流れた。 公的資金で立ち直った銀行は当然公有のものであり、少しでもその資産を高く売って国家の損失を少なくするべきであり、さらに今でいうインサイダー取引そのものであると武藤は「番町会を暴く」と云うキャンペーンを開始した。 この記事が導火線となり国会でも取り上げられ、検察も捜査を開始、山治の死後メンバー16人が背任・収賄容疑で起訴されるも、結局は時局の大乗的判断により、全員無罪の判決となった。

3.「終焉」
然し昭和9年の3月9日朝出勤途上の北鎌倉で暴漢に襲われ凶弾が命中、書生は即死、犯人はその場で自殺し、一命を取りとめた武藤も翌日の3月10日に不帰の人となった。なぜ暗殺されたかは三人がいずれも死亡したため、真相は今も謎に包まれている。 番町事件の解明に渾身の努力をしていただけに、番町会の関係者が警察に喚問され、その背後関係を洗ったが、何者が犯人を教唆して武藤を襲撃させたかは判明しなかった。然し彼宛の脅迫状が発見されたことは武藤を恐れ、彼の死によって最も利益を得たものが誰であったかを暗示するもので、おおよそ推察しうるものであろう。 武藤は今神戸舞子の石谷山にて「行い正しければ眠平かなり」の言そのままに、静かに眠っている。傍らには武藤の盾となった青木茂の慰霊碑が佇んでいる。



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