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〜武藤山治と門野幾之進を中心に〜」

武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2012年5月19日(土)

慶應義塾大学大学院アートマネジメント分野講師 鈴木隆敏氏
「『時事新報』に集った福澤諭吉の門下生たち
〜武藤山治と門野幾之進を中心に〜」 (於大阪武藤記念ホール)

T「時事新報」の精神今こそ

1.「「福澤の心意気からの発刊」
多面体の巨人と言われた福澤諭吉、その面のひとつである事業は三つからなる。即ち慶應4 年に設立された「慶応義塾」を人材教育と学問の場とし、明治13年設立の最古の紳士クラブ「交詢社」を社会教育のための人材育成 と人材交流センターとした。然し憲法もなく国会はまだ開設されておらず、時代はまだ混沌としている中で以上のふたつではとても足りないと、明治15年「時事新報」を発刊して、多 くの人達に読んでもらい、一般国民の社会教育の材料、近代国家発展の為の資料としてもらおうとした。 そもそも福澤は明治政府に頼まれ、そのPRのための「政府官報」をつくる準備をしていたが、北海道開拓使の官有物払下げに係る汚職事件に端を発した三参議、伊藤博文、井上馨、大隈重信の間で争われた「官製クーデター」明治14年の政変で、大隈重信及び福澤の門下生は野に下った。そして頼まれていた官報を「時事新報」に変えて発行した経緯がある。 以後福澤は「時事新報」を政党の紐つきの機関紙とせずあくまで中立の言論を貫き、役人は信用ならずとし、生涯官職につかず叙勲も何度も断り、野に下ったまま明治34年に逝去した。それに対して大隈は野に下り立憲改進党を結成、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創設し、片手に政党片手に学校で、遂に総理大臣にまで上り詰めたのと対照的である。

2.「独立不羈の基本精神」
福澤は「わが同士社中は独立不羈の一義を尊崇するもので、一身一家の独立ひいては日本国の独立を重んじる。畢生の目的はただ國権の一点にあり、國権の利害を標準に定めて審判を下すのみ」と独立不羈・不偏不党を宣言した。      即ち日本という“国のかたち”のあるべき姿を常に思い、それを時事新報の社説、論説、紙面編集の座標軸の中心にすえ、物事を公平、冷静に見る透徹した目と、合理的で柔軟、バランスのとれた思考を展開した。同時に「古来文明の進歩、その初は皆いわゆる異端、妄説に起こらざるものなし」とし、異端を排除せず、矛盾をいとわずに判断する福澤ならではの合理的精神により、国民世論という振幅の大きい振り子を、常にチェックしバランスをとろうとしたと言える。       そして権勢のおもむくまま私利私欲をほしいままにして、遊蕩に明け暮れた明治政府の官員たちを“人面獣心”とまでの激しい言葉で指弾した。福澤の「私」は武士道の精神(ノブレス・オブリージ)に基づく簡素質朴にして、公に奉ずる自律心だった。

3.「大災害非常時における『時事新報』社説の今日性」
いずれもマグニチュード8を超えた明治24年死者7232人の「濃尾大地震」と死者22000人の明治29年「三陸大津波」発生に対しては、現代の東日本大震災の報道と比べて全く変わらず、むしろより的確であり、政府などに対する主張は今のメディアよりシビアに訴えてい る。福澤は両地震で「大災害の被災者を即刻救うのは日本国中同胞の至情、義務である。新聞社などの義捐金募集だけでは足りないので、富豪大家の大奮発を望み、中央政府が国庫金を早急に 支出して救助に尽力すべきである。死傷者の手当てには軍医や看病卒を派遣するべきだ」と、連日のように『時事新報』紙上で編集、論説記者陣を総動員して被災者支援、被災地復旧の義捐金募集キャンペーンなどを行った。復興についても、そのままでは被害者はいかにも気の毒不憫で あり、出来る限り以前の姿へ戻すべく、復興資金として、上場会社が資本金の百分の一の株券を拠出するべきと提案した。又スピードが大切で、議会を通さず、臨時出費でお金を作れと訴えた。現在福澤が存命していたならば、東日本大震災の復興の遅れをどのように論評するであろうか?

U「時事新報」を日本一のクオリティーペイパーにした福澤の言論

1.「脱亜論」は近代国家になるためのしたたかなリアリズム。
「日本は明治維新で西洋近時の文明を取り入れたが、隣の中国、朝鮮は古くから儒教主義にとらわれ近代化を拒否しているのは日本にとっても不幸なことであり、我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と論じた。戦後歴史学者の遠山茂樹横浜市立大学名誉教授は「福澤の脱亜論の特色は帝国主義への適応に積極的姿勢をとったことだ」とし、司馬遼太郎は「日本はアジアを脱せよとの論には、瑕瑾(かきん)がある。人によっては玉に瑕(きず)どころじゃない」と批判した。最近でも佐伯啓思京都大学教授が「福澤は日本でもっともはやく朝鮮からの留学生を受け入れ、朝鮮独立派を強く支援したが、朝鮮独立運動が失敗するや、手のひらを返したように朝鮮への支援を排し、『脱亜入欧』を説き、アジアの悪友との交際は遮断すべきだ、というのである」と指摘した。然し日本の政治思想史研究第一人者の故丸山真男東大名誉教授は「よく脱亜入欧といわれるが、福澤は脱亜とは言っても“脱亜入欧”という言葉は一度も使っていない」とし、坂野潤治東大名誉教授は「福澤の東アジア政策論には、朝鮮国内の改革派援助という点で一貫性がある。(改革派が敗れたあとの)脱亜論は福澤の敗北宣言にすぎず、福澤のアジア蔑視観とかアジア侵略論の開始という評価ほど見当違いなものはない」とし、拓殖大学渡辺利夫学長は「東アジアは『坂の上の雲』と同じ舞台設定に立ち戻っている。福澤諭吉の『脱亜論』をはじめ、陸奥宗光、小村寿太郎などの明治の先人たちのしたたかなリアリズムに学ぼう」と呼びかけている。「神戸のパナソニック事業部」は低価格化が進むパソコン市場において、高くても顧客が納得する製品群の展開を進めた。即ち、作業現場で働くブルーカラーには誤って落としても振動に強い丈夫なパソコン、巨大な航空機などの組立作業場では配線が要らない無線ラン装備のパソコン、ビジネスマンには新幹線での往復8時間の電池容量があるパソコン等、個々の顧客の価値観に合わせて製造、販売した。

2.『中津留別の書』は近代日本の女性論、家庭論の原点である。
「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし」、「人倫の大本は夫婦なり」、「男と云い女と云い、等しく天地間の一人にて軽重の別あるべ      き理なし。古今支那日本の風俗を見るに、一男子にて数多の婦人を妻妾にし、婦人を取り扱ふこと下婢の如くして、恥ずる色なし。浅ましきことならず哉」と論じた。ハイボリュームゾーンのユーザーでなくて、大多数のユーザーに先行してイノベーションを行う「リードユーザー」と提携することが大切である。

3.『帝室論』の真意は、帝室の尊厳と安泰を願うもの。
福澤は一部の団体が尊王主義を掲げて他党などを非難中傷するのを危惧し、「皇室を政治に利用すべきではない。皇室は現実政治とはかかわりなく、高く仰ぎ見る存在とすべきだ」と主張した。寺崎修武蔵野大学学長は「帝室はあくまで政治社外のもので、学問教育の振興、日本固有の藝術の保護など、国民の福祉、文化的事業の中核となって、国民統合の役割を果たすべきだと福澤は主張した。しかし、帝室の尊厳と安泰を願う福澤の真意は、長い間理解されなかった。逆に帝室を軽視するものとして、各方面から批判されもした。ところが、太平洋戦争後いまの新憲法が制定されると、福澤の所論は現憲法下の“象徴天皇制”の精神と合致することから、一転して再評価されるに至った。今上天皇が皇太子だった時、東宮教育参与となった故小泉信三はこの『帝室論』をテキストとして使い、若き皇太子と輪読した。福澤は1世紀も前に“象徴天皇制”を示唆していた」「ミスタードーナツ」は、名刺を持っていないお客、特に女性客に顧客を絞り込んでいる。それは彼女らが男性の目を気にせずにゆっくりくつろげるようにするためである。その為男性を店の中に入れない数々の工夫をこらして、売上を伸ばして来た。  

V時事新報を支えた福澤山脈の人材達

1.「体を張った武藤山治と財産を投げ打った門野幾之進」
発刊以来、多くの福澤門下生が集い言論ジャーナリズムを通じて、政治や社会教育の実践と啓 蒙活動に尽力した。その中で社長を引き受けた旧カネボウ(鐘紡)の中興の祖武藤山治は経営再 建に身体を張って“凶弾”に倒れ、会長となった千代田生命などの生みの親、門野幾之進は財産 を投げ打って支えた。 門野幾之進は13歳で慶應義塾に入り、15歳にして同塾の英語教師となり「ボーイ教師」といわれながら30年以上教師を続け、慶應義塾副社頭となり、教師引退後は千代田生命を創立し、日本における保険普及に尽くし世界の“保険殿堂”入りした。昭和3年には福澤捨次郎退任後の時事新報会長となり、多額の私財を投じて再建に尽力し,義塾最長老の一人として尊敬を集めた。 武藤山治は慶應義塾に学び、福澤の“散歩党”メンバーとなり、米国留学後三井銀行から鐘淵紡績に転じ、革新的経営手法で鐘紡を売り上げ日本一の会社に育て上げた。又社会改革の実現に燃え実業同志会を率いて国会議員となった。引退後は国民の政治意識の向上のためには政治教育から改めてやり直す必要を感じ、昭和8年國民會館を設立したが、門野幾之進会長等の強い要請により経営危機に陥っていた時事新報社長に就任した。然し経営改革が軌道に乗りかけた矢先、リクルート事件と同じ構図と内容の「番町会を暴く」のキャンペーンを展開中に暗殺された。没後の昭和9年から社会教育の場として武藤記念講座が毎月開催されて本日で960回を数え、それは明治8年福沢諭吉が作ったなまこ壁の「演説館」での700回の演説会を超えている。


2.「中上川彦次郎・福澤捨次郎、前田久吉、板倉卓造・伊藤正徳」
福澤の甥中上川彦次郎は初代社長。編集、論説を陣頭指揮する福澤を支えながら、国際報道をはじめ、販売、広告にも尽力して時事新報の経営基盤を確立した。諭吉の次男の福澤捨次郎は第二代社長として、明治29年から30年間在任、種々の改革と事業の先駆けを実施して「日本一の時事新報」にした。然し関東大震災による被災の痛手とその後の大阪進出失敗が重なり、経営が悪化した。 前田久吉は大正末期、大阪南部でローカル新聞「南大阪新聞」を発行、大阪市内に進出して「大阪新聞」、経済中心の「日本工業新聞」を創刊した新聞界の風雲児であった。昭和11年、時事新報を最初に廃刊した時の専務だったが、当時の悔いと「福澤先生の新聞をもう一度世に出したい」との思いから、終戦直後の21年1月、時事新報を板倉卓造―伊藤正徳体制で復刊させ、日本工業新聞の戦時統合を含めて今日の産業経済新聞(産経新聞)に発展させた。 板倉卓造は慶應義塾法学部教授から時事新報の論説委員を兼ね、終戦直後に復刊された際の時事新報社長兼主筆となり、時の首相、吉田茂の相談役をつとめた。26年、日本新聞協会が創設した第1回新聞文化賞を受賞した。 伊藤正徳は時事新報の海軍省担当記者、ワシントン特派員などで活躍して大正10年、日英同盟破棄・海軍軍縮4カ国協約成立などの歴史的なスクープをした。戦後日本新聞協会創立にあたり、ジャーナリズムの“憲法”といわれる新聞倫理綱領を起草した。初代の日本新聞協会会長、共同通信理事長。時事新報では30年11月、産経新聞と合同して『産経時事』となった際に最後の社長をつとめた。

3.「休眠会社なれども、その精神は今も生きている」
時事新報は新聞としては昭和30(1955)年10月廃刊、11月から前田久吉の産業経済新聞と合同して『産経時事』となった。さらに33年7月1日、『産経新聞』と改題され時事の名前は消えた。しかし株式会社としての時事新報社は、実は資本金7500万円の会社として今日も存続している。30年の合併以降1億円余の累積赤字を抱え“休眠会社”のままではあるが、毎年株主総会を開いて会社の存続をはかっている。
 

質疑応答より

「質問1」諭吉、山治以外で時事新報の論説を書いた人は誰か?

「回答」のちに三井財閥の重鎮となり茶人としても有名な高橋義雄、中上川のあとの編集長伊藤欽亮、さらに戦後社長会長を務めた板倉卓造、伊藤正徳の何れも慶應義塾出身、時事新報入社である。

「質問2」時事新報の出版物のなかで徳富蘇峰の膨大な著書が5/6冊に縮小して発行されたのは、売れなかったと思うけれど有難かった。 よいのか

「回答」時事新報は、大部のものだけでなく、福澤諭吉が社説に書いたものを出版した。「脱亜論」は短いので本にならなかったが、帝室論は一冊の本となった

「質問3」大阪の時事新報の社屋はどこにあったのか?

「回答」駅前弟一ビルの消防署のあるところである。そこに大阪新聞と産経が同居して桜橋へ移り、さらに産経は現在の難波へ移転した。

「質問4」時事新報の独立不羈の精神は、ずばり産経新聞に引き継がれているのか?

「回答」日本の新聞の歴史において「独立不羈・不偏不党」の理念は建前ではともかく 、実際はスポンサーの顔色を伺うことが多かった。然し昭和21年にのちに時事新報社長となる伊藤正徳氏が日本新聞協会初代理事長となり新聞倫理綱領を制定した。そのジャーナリズム界の憲法に基づき全国の新聞協会加盟の各新聞社が不偏不党の社是を掲げているが、すべての新聞社が一党一派に偏していないかはかなり疑問である。特に沖縄の二紙はかなり問題である。その中で産経新聞はその原理を貫いている。一般の座標軸がずれているので右寄りと言われているが、我々が座標軸の真ん中にあるとの確信を持っている。

「質問5」教育勅語に代わる程の値打ちがあると言われ、高く評価されている「修身要領」は、福澤先生の精神を伝えたものか?

「回答」日本国民への遺言にしたいとの福澤の意向を汲み時事新報の幹部により集団指導的に作 られ、福澤が手を入れたものであり、全部で29条からなる。全国の国民啓蒙運動として全国を巡回する計画であったが、福澤が亡くなって果たせなかった。又四年程前の創立150年の展覧会の際に福澤諭吉筆による軸が見つかった。

「質問6」編纂の過程で、石河幹明さんが代わりに書いたのではないか?

「回答」上記の通り集団指導的に作られたものである。社説について言うと、福澤時代の社説は全部で700本あるが、慶應義塾100年史と福澤諭吉全集にも福澤が全部書いたとは言ってない。分けるならば、福澤本人が間違いなく書いたもの、福澤の意向を汲んで書いたものを福澤が朱を入れたもの、福澤は関与していないもの等に分けられるが、文体等可能性で言うことは出来るが断定することは出来ないのではないか。



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