ホーム > 武藤記念講座(講演会事業) > 大阪国際大学・皇學館大學講師、久野潤氏 「今さら聞けない昭和の戦争 日本はなぜ戦ったのか、どのように戦ったのか」

武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録

2012年8月26日(日)

大阪国際大学・皇學館大學講師、久野潤氏 (第2回)夏季特別青年講座
「今さら聞けない昭和の戦争 ―日本はなぜ戦ったのか、どのように戦ったのか」
(於大阪武藤記念ホール)

1.昭和の戦争まで
1)「日本人の戦争観」

  日本の歴史において革命は一度も起こらなかった。即ち日本の2600年の歴史において、天皇が殺されて国がひっくり返されたことはなかった。又天皇に任命された征夷大将軍も例え ば鎌倉幕府最後の将軍守邦親王、室町幕府最後の将軍足利義昭、そしてあれだけの激動期であったのに江戸幕府最後の徳川慶喜も殺されなかった。

  中国では三国時代が終わると人口は三分の一となり、ヨーロッパでも17世紀の新教・旧教の争いである30年戦争終了後には、ドイツの人口は三分の一に減ってしまった。それに対して日本では東軍西軍の20万人の兵隊が入り混じってぶつかった天下分け目の関が原の戦いにおいてすら、戦死者は僅か5千人、弁当持参で見物も出る牧歌的戦いだった。

  即ち戦いにも節度があり、人を殺さないのが日本の戦争である。又国の体制を変えても守るべきものは守り、守るべき天皇を中心とする国体は変えなかったことは誇られるべきである。


2)「明治・大正時代の戦争」

  戦争の目的は、終戦時の講和条約に記されるが、日清戦争の下関条約の第一条には「朝鮮を清から独立させる」と書いてある。従って日本は朝鮮を侵略したのではなく、朝鮮がロシアと中国に占領されて日本の安全が脅かされることを防ぐ自衛の戦争であった。

  1900年の義和団事件は、義和拳という武術を修練した浄土教系秘密結社の何十万人の信徒が北京の在外公館区域を包囲攻撃した。然し本来接受国である清朝政府が守るべきである公館を守らず、逆に義和団に味方したので、日本を含む列強八カ国はこれを鎮圧し、北京議定書により軍隊を駐留させ、自国の公館をその後も守り続けた。後に述べる盧溝橋事件の時に北京に日本の軍隊が駐留していたのはその為であった。

  4年後の日露戦争は、大国ロシアと日本が総力をあげて戦った自衛戦争の最たるものであったのは言うまでもない。大正に入ると第一次世界大戦が勃発した。ヨーロッパ諸国は自国を守るために他国とがんじがらめの同盟関係を結んで勢力均衡を図っていたので、ヨーロッパのすべての国が巻き込まれた大戦争となった。日本も参戦したが、戦地から遠く離れていたので、自衛戦争というよりも漁夫の利を得た戦いであった。そして長引く戦争の最中の1917年(大正6年) にはドイツと戦っていたロシアで革命が起こりプロレタリアート(労働者階級)独裁の政権が成立し、ロマノフ王朝は倒された。


3)「昭和の戦争に影響を与えたソ連共産主義革命」

  四年間にも及ぶ、国を挙げての総力戦となった第一次世界大戦は、ヨーロッパ諸国に悲劇的惨状をもたらした。加えてプロレタリア革命は、王制・君主制の国々のみならず、他の国々も資本主義を否定する共産主義思想が自国に波及することを恐れた。米・英・仏は反革命勢力を支持するために軍事介入し、日本も1918年(大正7年)シベリアに出兵した。

  さらに1919年(大正8年)には、国際共産主義運動組織のコミンテルンが創設され、アジアでは1921年に中国共産党、1922年(大正11年)には日本共産党が結成された。1923年(大正12年)関東大震災を契機とする、無政府主義者達の天皇中心の国体を壊そうとする思想に対しては、大逆罪により天皇・皇族に危害を加えた場合、それが未遂であっても死刑に処すとの歯止めがかけられていた(1923年虎ノ門事件において皇太子裕仁親王を狙撃した難波大介は死刑)。

  時代の社会主義の高まりの中で、東京帝国大学教授吉野作造は、主権在君のもとで、急激な改革ではなく、普通選挙と政党内閣制を通して漸進的に民本主義を勧めるべきとし、東大新人会が吉野教授の影響下で結成され、知識人と学生をリードして行った。その流れの中で1925年(大正14年)に普通選挙法が成立したが、同時に国体を変革又は私有財産制を否認することを目的として、結社又はそれに加入することを処罰する治安維持法が制定された。

2.昭和の戦争、日中戦争はなぜ・どのように戦われたのか

1)「満州事変への道」」

  1911年(明治44年)に孫文の辛亥革命により清朝は滅亡した。その後の軍閥割拠の中で、1924年孫文は第一次国共合作を行ったが、彼の死後1927年に、蒋介石は上海でのクーデターにより南京に国民党政府を樹立して、北伐を開始し中国は国共内戦状態に入った。

  一方中国東北地方の軍閥張作霖は、一時日本政府と結び北京の実権を握ったが、国民党軍の北伐により、1928年奉天へ逃れる途中に日本軍により爆殺され、日本が満州に侵攻する端緒となった。ソ連が張作霖及びその息子の張学良を使って満州を赤化しようとするのを防ぐのがその目的であった。然し一方で日中を戦わせたいソ連の謀略であったとの証拠が最近出て来ている。

  父のあとを継いだ容共派の張学良は、国民党政府に合流して日本の利権を奪おうとしていたが、1931年に柳条湖における鉄道爆破事件を契機として、日本は自衛のために満州事変を起こした。これは満州民族にとっては歓迎された建国であったことは間違いない。一方共産勢力側は謀略をこらし、日本と国民党をいがみあわせるために翌年上海で第一次上海事変を起こした。 1932年には清朝最後の皇帝を執政とする満州国が建国されたが、日本以外の加盟国の賛成が得られず、1933年日本は国際連盟を脱退した。


2)「北支事変から支那事変への拡大」

  国民党軍に追い込まれて長征し、延安まで落ち延びた中国共産党への攻撃を督促するため訪れた蒋介石を、張学良が拉致監禁した西安事件が1936年に起こり、その結果として後に第二次国共合作がなされることになるが、これはソ連のコミンテルンの指令によるものであった。ソ連は共産勢力拡大の好機であり、日本軍の「北進」を阻止できると考えたのである。一方ナチスドイツはベルサイユ条約下で軍備が制限されて国内軍需産業の成長に限界があったので、中国で武器を売って軍事訓練まで委託されていた。

  1937年(昭和12年)7月7日夜、北京の盧溝橋の日本軍演習場に数発の銃弾が打ち込まれ翌朝国民党軍との間で戦闘状態になったが、双方とも大規模な派兵を行い「北支事変」となった。盧溝橋事件のすぐあとに起こった廊坊事件、広安門事件、さらに通州事件はいずれも中国側からの襲撃事件であり、日本軍は華北侵攻のやむなきに至り、万里の長城を越えることとなった。

  同年8月13日には上海で日本人が射殺される事件が起こって第二次上海事変となり、ここに8年間に及ぶ日中間の前面戦争「支那事変」が始まった。そして9月23日には「第二次国共合作」即ち統一民族抗日戦線が結成された。日本軍は国民政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月13日に南京を占領し、民衆にも多数の死傷者が出た(南京事件)。然し蒋介石は重慶に首都を移し、抗戦を続けた。


3)「近衛声明で日中関係は泥沼化へ」

  軍部は戦線拡大に反対であり、ドイツによるトラウトマン工作を始めいくつもの和平工作があったにもかかわらず、国民の人気で首相となった近衛文麿は、民意に流され「帝国政府は爾後国民党政府を対手(あいて)とせず」との有名な近衛声明を13年1月16日に出した結果、日中は決定的に決裂した。そしてその強硬論を強く首相に助言したのはソ連のスパイゾルゲと内通していた内閣嘱託の尾崎秀実であった。さらには首相の周りの知識人はかっての東大新人会のメンバー達でありソ連へシンパシーがあった。又ノモンハン事件において、日本は惨敗したとされているがソ連の損害の方が大きかったことが伏せられており、ソ連は強いから、北進よりも豊富な資源を持つ東南アジアに南進し、ソ連に向わせまいとする勢力が、働いていたことは確かである。


3.日米戦争はなぜ・どのように戦われたのか?

1)「世界情勢を読み誤った日本」

  1936年(昭和11年)の日独防共協定から進んで、1940年(昭和15年)日・独・伊三国同盟が結ばれたが、それは防共協定の強化のためでなく防共協定を放棄しようとする、後の日・ 独・伊・ソの四カ国同盟への伏線であった。然し南進することにより、中国戦線は拡大し対米関係は悪化して行く結果となった。そこで近衛首相はアメリカとの関係を修復するため、日米交渉をルーズベルトと開始した。然しルーズベルトは、ソ連に対して理解のある容共的考え方の大統領であり、ソ連にとっては利用しやすい人物だった。昭和15年7月第二次近衛内閣が成立し、ルーズベルト大統領が「米国は民主主義の兵器廠」になると発言するなかで、翌年始めには野村・ハル、野村・ルーズベルト会談が行われるも、修復交渉は進展せず、松岡洋右外相は三国同盟にソ連も加えようとする「日ソ中立条約」を締結して、米国に対抗しようとしたがその直後の1941年6月に独・ソ戦が開始され、日本外交は泥沼に陥ってしまった。

2)「日米開戦への道」」

  然し米国は交渉の手を緩めず、在米日本資産を凍結したので、日本は仏印南部に進駐した。それに対して米国は石油禁輸の対抗措置に踏み切った。近衛首相は殺されてもいいとの覚悟で、ルーズベルト大統領に直接会談を申し込むもかなわず、ルーズベルトは戦争が始まっていないのに、戦争終結後の大西洋憲章をチャーチルとともに発表する余裕をみせた。そこで同年9月には米国との戦争を辞さないとの「帝国国策遂行要領」が決定され、開戦への道を歩んで行った。10月には近衛首相が退陣して東條内閣が成立したが、天皇の開戦回避の強いご意向により、最後の和平交渉が行われた。然し米国は日本側の秘密電報を傍受解読し、日本の手の内をつかんだ上で交渉を有利にすすめ、11月にはハル・ノートと呼ばれる支那・仏印からの即時撤退を求める、飲める筈のない強硬な最終案が手交されたので、日本は対米開戦の決意を余儀なくされ、12月8日の真珠湾攻撃により、日米開戦となった。


3)「嵌められた戦争だったが、誇れる戦争だった」

  以上から米国との戦争は、ある意味で謀略により「嵌められた」戦争であったが、いざ戦争になったら日本人はいやいや戦ったのではなく、とてつもない強さを発揮したのであった。

  その強さの例として、大鑑巨砲主義から飛行機で攻撃する航空母艦の重要性に先鞭をつけ、航続距離が長く世界で始めて急降下して攻撃できるゼロ戦、戦艦を横からの魚雷で攻撃できる中島式97式艦上攻撃機を開発し、戦艦大和は絶えず近代化改装で技術を継承して来た結晶である。今の日本の技術の高さを批判する人はいないが、その技術のもとになっているのが空母・戦艦の技術である。

  以上は先人である日本人の誠実な性質に基づいており、「日本人とは何か」に関る根本的問題である。以って日本という国を後世に残すために戦った、先人達の英霊に対してその慰霊と顕彰を靖国神社で行わねばならない。

お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ