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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録(要旨)

2012年11月17日(日)

作曲家 吉田進氏
「シャンソンの名歌(桜んぼの実る頃)秘話」  
 大阪 「武藤記念ホール」

T.もともとは南国の太陽のような恋の歌だった
  先ずアテネ生まれの世界的歌手、ナナ・ムスクーリの、南国の太陽を思わせる素直で明るい歌声を聴いてもらいたい。この曲の第1節は陽気なナイチンゲールといたずらつぐみが浮かれている一年中で一番よい季節に、恋の喜びをさくらんぼに託したものである。 第2節はほんの束の間の恋のはかなさを歌い、さらに第3節は恋の苦しみと悩みを歌っている。ここまでは明るい恋の歌であるが、第4節は以上の3節とは時間を開けた遠い日の恋の苦しみを思い出している。そしてこれが標題の秘話と繋がるのである。

U.明るい曲がなぜ暗く歌われるのか?
  1.「曲の生い立ち」
  さて、同じ曲であるのに、上述の南国の太陽のようなナナ・ムスクーリの歌声に比べて、エレーヌ・ドゥラヴォーは、なぜ悲しげに心にひしひしと訴えかけるように歌うのだろう。そもそもこのシャンソンの歌詞は、ナポレオン三世の第二帝政末期の1866年(日本はまだ江戸時代)にジャン=バティスト・クレマンによって作詞されたものであった。 クレマンは反体制的プロテストソングをいくつか発表したかどで官憲ににらまれ、1867年ベルギーのブリュッセルに身を隠していたが、ある日パリオペラ座の歌手でもあった作曲家のアントワーヌ・ルナールに道で偶然出会った。ルナールは貧しい身なりのクレマンに未発表のよい歌詞はないかと尋ねたところ、差し出されたのが「桜んぼの実る頃」の原詩であった。 そこでルナールは毛皮付きのコートといくばくかのお金を与えて、クレマンの詩に曲をつけて翌年の1868年に発表したところ、大好評となったのである。オペラ歌手アルベール・ヴァゲによる、まだ明るかった頃の「豊かな青春の恋の輝き」の歌を聴いてみよう。

2.「パリ・コミューヌ」
  折しも戦雲は急を告げ、普仏戦争が1870年7月に勃発した。戦いは初戦からビスマルクの率いるプロイセン軍が優勢に立ち、皇帝ナポレオン三世が包囲されて投降し捕虜となり廃位された以降は、国防新政府(第三共和制)により戦いが続けられた。然しパリが包囲されてネズミまで食べる大変な食糧難に陥るに及び、フランスは1871年1月に降伏した(講和条約は5月)。ところがパリ包囲に対して抵抗し、多大な犠牲を払ったパリ市民はプロイセンに対する降伏を認めず蜂起して、民衆による革命自治体が世界初のプロレタリアート独裁の政府を3月に樹立した。然し程なく国防政府のヴェルサイユ軍による一般市民への大量虐殺が始まり、コミューヌ軍はパリの随所にバリケードを築いて抵抗したが、徐々に追い詰められて行った。 あのクレマンもブリュッセルから帰国して参加したが、その時バリケードのなかで歌われたのは彼が作詞した「桜んぼの実る頃」であった。時は丁度「さくらんぼの花」が咲く頃であり、さらに甘い恋へのあこがれが民衆コミューヌの期待感につながり、又赤い血のしずくによりコミューヌの象徴である赤旗が連想されたからであった。 バリケードの中で一番歌われたのは「下層民」で、次に歌われたのが「桜んぼの実る頃」であった。前者はマルク・オジュレが歌っているように決然とした悲哀に満ちた曲であるが、イヴ・モンタンが歌った「桜んぼの実る頃」は流れるように美しく、まさに好対照をなしている。イヴ・モンタンは、例により歌詞を徹底的に分析し計算し尽くされた見事な歌いぶりであるが、暗く歌われているのはパリ・コミューヌを意識しているからである。

3.「パリ・コミューヌの終焉と第4節の誕生」
  追い詰められたコミューヌ軍に対して、5月末「血の週間」といわれる総攻撃が行われ、遂に29日にペール・ラシューズ墓地で最後まで戦った百数十人の全員が銃殺されて72日間の戦いは終わったが、その間虐殺された市民は三万人の大惨劇となった。その少し前の5月26日にクレマンが二十歳過ぎの野戦病院の看護兵ルイーズと出会ったのはフォンテーヌ・オ・ロワ通りのバリケードの中であった。何か役に立つことはないかと、命を厭わずやって来た彼女は銃撃を少しも恐れず、かいがいしく負傷兵の手当てをしたのであった。コミューヌの評議員であったクレマンはロンドンに逃れたが、その後パリに戻り、彼女に再会したいと探したがそれは果たされなかった。彼女も犠牲になっていたのであった。然しクレマンはルイーズの姿に感銘を受けて「あの時から、この心には、開いたままの傷がある」と3節しかなかった詩に第4節を付け足した。その結果、血のしたたる粛清による犠牲者を悼む象徴の曲として、想起される名歌となったのである。

V.パリ・コミューヌ後140年の月日の流れの中で
  1.左翼系の歌手達
  クレマンはルイーズのことを第4節に加えた「桜んぼの実る頃」を、パリ・コミューヌの伝説的女闘士「ルイーズ・ミシェル」に捧げたが、彼女が書いた美しい詩「薔薇」と「桜んぼの実る頃」には、赤い血と死に対して共通性がある。 前述のイヴ・モンタンと同じ左翼系のジュリエット・グレコは「これは愛の歌、革命の歌は愛の歌である。愛が極端に走ると社会を破壊するが、革命の根本理念には人間愛がある」と述べている。下から音をすくい上げて語りかける歌い方であるが、最後の二行を歌う時はつぶやくように暗く歌われている。 又1996年ミッテラン大統領の葬儀の際、フランス革命ゆかりのバスティーユ広場で米国の黒人ソプラノ歌手バーバラ・ヘンドリックスが追悼の念をこめて歌ったことは、フランス人の記憶に焼きついている。恋の歌のシャンソンが葬送音楽のようにも聞こえるのである。

「閑話休題」そのミッテラン大統領が1982年に訪日した際、フランス大使館の晩餐会のあとの団欒の時に、随行したシャンソン歌手がギターを弾き、昭和天皇に一緒に歌いましょうと語りかけ、全員が合唱するなか「天皇陛下も口ずさまれた」とのことであるが、実は歌われたのは皇太子妃の美智子様であったと言う説もある。

2.ロック、インターナショナル、映画主題歌にも
  現代フランスでは左翼系のロックグループ、ノワール・デジールが怒れる若者達のプロテストソングとして、歌詞は全く原曲のままロック調で歌っている。
一方パリ・コミューヌの虐殺を逃れたウジューヌ・ポティエが身を隠した屋根裏で作詞した「インターナショナル」は革命歌として世界中に広まって行った。
日本では宮崎駿監督の「紅の豚」のジーナ役で、加藤登紀子がフランス語で主題歌として歌っている。

3.最後に
  過去を思い出しながらしみじみとした味のある歌い方をする、来日したこともある女性歌手フランセスカ・ソルヴィルの知性派シャンソンを聴いて終りとしたい。いずれにしても「歌は作り手の気持ちとは関係なく、その国の歴史を背負ってしまうものである。」

質疑応答

「質問1」 

  シャンソンはいつの時代に成立したか?

「回答」

  フランス語でシャンソンとは単なる歌という意味であり、英語のソングである。然し「フランスの歌」というときには日本で言われているシャンソンに近い。又プロの歌手が歌う歌がシャンソンとも言え(中世の吟遊詩人に源がある)、その為の作詞家作曲家としての職業は19世紀後半から成り立って来たといえるが、その歴史の上に立ち確実にシャンソンといえるのは「枯葉」や「愛の賛歌」のように戦後になってから作られた曲になる。


「質問2」

  日本人も色々な場面で歌を作り、歌ってきたが、フランス人の歌う歌と似ている点、違う点は何か?

「回答」

  交響楽、歌劇など大掛かりなプロの演奏家が前面に出るものだけでなく、「桜んぼの実る頃」のように、楽器ではなく人間の体(声帯)で自分の生活に密着した歌を歌うこと、かつそれが人々に歌い継がれることが共通点である。然し、どのような歌になるかは、その国の音楽文化によるものであり、国によって全く違うのではないか。西洋音楽は短音階と長音階よりなるが、日本のヨナ抜き音階も西洋の音階がベースになっている。一方時代を遡れば五音階の時代はどの国にもあった。


「質問3」

  「さくらんぼの実る頃」と「さくらんぼの花が咲く頃」との関係は?

「回答」

  花は3月下旬に咲き一週間で散り、赤く実るのは5月下旬の一週間である。


「質問4」

  フランス人の日常についてどう考えるか?

「回答」

  フランス人は節約家である。電気代を節約するため早く寝て早く起きる。料理も肉食が主であるが、日本で連想するフランス料理を毎日食べている訳でなくワインも高級ワインはお客が来たときだけで、水がわりに飲む安いワインであり、生活は質素である。然し気位は高く世界で一番優秀であると思っている。ドイツ人との仲は国境を接した長い歴史があり、よくないのは確かである。


「質問5」

  フランスは住みよいか?

「回答」

  フランスが外国の文化も大切にすることは「すごい」の一語に尽きる。日本人である私がこれまで仕事が出来たのはフランス人のお蔭である。その点は住み易いと言える。然しよいことばかりではない。日常生活で我慢の出来ないことは沢山ある。ストライキは多いし、個人主義は、行き過ぎると自分本位の利己主義になってしまう。食事もフランス料理はおいしいが、ご飯と味噌汁が恋しい。日本で仕事が出来れば日本に住みたいのが本音である。


「質問6」

  フランスでは日本の柔道と座禅等がもてはやされているそうだが、日本に魅力があるからか、単に外国の文化を大切にすることから来ているのか?

「回答」

  今から40年前は日本といえば本田・ヤマハ・ソニーだった。然し昨今はフランスの演劇、モダンダンスが日本のお能の影響を受けており、特にこの15年位で日本の評価は変わって来ている。そうなっているのは、西洋のものの考え方や生き方が限界に来ているからである。   そもそもフランス革命の啓蒙思想は、闇か光か、神か悪魔か、善か悪かの二元論であり、西洋は白か黒かを激しく突き詰めて光を求めることにより、近代の世界をリードして来たが、二元論はもう通用しなくなってきている。少し前のキリスト教もそうだったが、他の宗教は認めないとの一神教の限界が来ているのである。又死はタブーであり生きることしか考えず、労使は絶対に相容れずお互い敵であり、昨日の敵は今日の友という考え方はない。経済の行き詰まりも二元論から来ている。   日本人のよさは二元論で考えず、生と死はどこかで繋がっており、生まれた時から死が始まり、又あらゆるものが神様であるとの八百万の神の考え方である。音楽でも、音楽とは音であり沈黙は駄目だとの二元論の考えでなく、沈黙があって始めて音が生きてくるとの考えがフランスの若い人達に賛同されて来ている。然し以上の考えを日本人が世界にどれ程に発信出来るかが大切であり期待しているが、甘い期待であってはならないと考えている。世界に賞賛された3.11の礼節と忍耐をそのきっかけにするべきである。今の世界を救うのは日本人である。             


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