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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録(要旨)

2013年2月11日(月)

大阪市立大学名誉教授・皇學館大学教授 毛利正守氏
「古事記の構想からみる天照大御神」  
 大阪 「武藤記念ホール」

はじめに
  1300年の悠久の時空を経て読まれている、日本最古の文献である全三巻の「古事記」の上巻には、「神話の世界」が著述されているが、その神髄は太陽神である天照大御神である。この講義 では「天照大御神は高天原に鎮座を続けられたが、天孫降臨の時にご自身の魂としての鏡を天降された」とする古事記のいわゆる「二重構造」について日本書紀と比較して論じたい。

T天照大御神の誕生まで

1.「古事記神話の世界像」
  先ず、古事記の世界像及びそこに登場する神々について明らかにしておきたい。古事記の世界は、天上界である「高天原」、地上の国である「葦原中国」と死者の国の「黄泉の国」が主たる舞台(他に根之堅州国,海原の国等)がある。そしてそれらの舞台に登場するのは、高天原の「天つ神」を中心に、その御子である「天つ神御子」、そしてさらにその子孫である「天皇」である。具体的に言えば、「天つ神」が天照大御神であり、「天つ神御子」は、天照大御神の御子「アメノオシホミミノミコト」、孫の「ニニギノミコト」、さらにニニギノミコトの4代目のカムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)である。かくして神武天皇の即位により神統から皇統へ継がり、以後33代の推古天皇までが「天皇」として古事記に記述されている。

2.「イザナキ・イザナミの国生みと神生み」
天照大御神の誕生までの経緯は次の通りである。即ち天地開闢ののちアメノミナカヌシノカミを始めとする「別(コト)天つ神」の時代を経て、「神世七代」と言われる最後に現われた「イザナキノミコトとイザナミノミコトが、日本の国を生み(国生み)、さらにその国を守る沢山の神々を生んだ(神生み)。然しイザナミノミコトは病に倒れて亡くなり「黄泉の国」へ旅立った。イザナキノミコトは未だ二人の仕事が残っているので黄泉の国にイザナミノミコトを訪ねて「帰って来て欲しい」と頼んだ。イザナミノミコトは「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので帰れない」「黄泉の国の神に相談して来るので戻って来るまで自分の姿を見ないように」と言ったが、イザナキノミコトは約束を破って妻のうじ虫で腐敗した体を覗いてしまったので、彼女の逆鱗に触れて、慌てて命からがら黄泉の国から逃げ帰った。

3.「天照大御神の誕生」
  イザナキノミコトはその死の国の穢れを落とすため筑紫の日向で禊を行い、最後に顔を洗った際、左の目から天照大御神が、右目からはツクヨミノミコト、鼻からはタケハヤスサノヲノミコトが生まれた。その時イザナキノミコトは大いに喜び「私は子を生み続けて、生むことの終わりに三柱の貴い子を得ることが出来た」と三貴子のうち天照大御神には高天原を治めなさいと委任し、自らの御首飾りの玉の緒を下賜された。

U天照大御神の高天原君臨と天孫降臨

1.「太陽神の天照大御神」
  海原の国へ行くように命じられた弟のスサノヲノミコトは、赴かずに泣いてばかりいて乱暴を働いたので、父イザナキノミコトの怒りを買い、根之堅州国に追放を言い渡された。スサノヲノミコトは姉に事情を説明するため高天原に上ったが、荒々しい悪しき業に驚いた天照大御神は完全武装して警戒した。そこで神意を問う儀式で勝負をしたが、ルールが定かでなかったのに、スサノヲノミコトは勝ったと思い込み、再び傍若無人に暴れたので、天照大御神は天の石屋にこもられると高天原はすっかり暗くなり、葦原中国も全く暗くなった。そこで困った八百万の神々が一計を案じた祭祀の騒ぎでお出ましになると、高天原も葦原中国も自然と照り輝き明るくなった。かくして天照大御神は高天原に座して、地上を貫く秩序を保ち続けることとなり、太陽を表象する女神となった。よって古事記においては天照大御神は自らは地上へは天下らず、天下るのは「天つ神御子」となったのである。

2.「葦原中国の平定と国譲り、そして天孫降臨」
  天下った弟のスサノヲノミコトから六代に当たるオオクニヌシノミコトはスサノオノミコトから多くの試練を与えられつつも、葦原中国を平定して、国作りを始めた。   然し天照大御神は豊葦原の瑞穂の国(幾千年にわたって稲が豊かに実る国)はわが御子が治めるべきと考え、二回の先遣隊のあとにタケミカヅチノカミを遣わし、オオクニヌシノミコト親子に、後に出雲大社となる巨大な神殿を建てることが許されることを条件に、国譲りを同意させた。天照大御神は太子「アメノオシホミミノミコト」に「葦原国を平定したので、降って統治せよ」と命じられたが、太子は生まれたばかりの御子ニニギノミコトを行かせたいとと願った。そこで天照大御神は孫のニニギノミコトに天降りを命じ、ヤタの鏡、ヤサカニの曲玉、クサナギの剣の三種の神器を授け、特にその中の鏡については「ひたすら私の御魂として私を祭るように、祭り仕えなさい」と仰せになり、祭事を執り行う神をも遣わし、鏡はその後伊勢神宮に祀られた。ニニギノミコトの一行は天空に八重にたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選び、途中天の浮橋にお立ちになって、日向の高千穂の霊峰に天降られた。

3.「天照大御神からのふたつの流れ」
  それが天照大御神の偉大さの所以であるが、至高神である天照大御神にのみ与えられた「ふたつ」の大きな流れが「古事記」の中でしっかり語られていることを見据えねばならない。   即ちひとつの流れは、天照大御神の「御魂である鏡」が天降して伊勢神宮に祀られることが、神話の世界のこととして語られ、かつその起源を天皇の御代よりも遡るところに位置づけており、そこに悠久さの主張が見てとれて、日本人の精神的支柱、バックボーンとして長く受け継がれていることである。   そしてふたつ目の流れは、天照大御神以外の神々は天上界から地上に移動するのに対して、天照大御神は天降ることなく太陽神として高天原にずっと君臨されるが、天孫ニニギノミコトが天降り、その血統が天皇へ受継れて日本の統治が連綿と継承されることである。

V古事記と日本書紀の記述の違いについて
  日本書紀では皇孫降臨の際、鏡は本文に登場せず、その別伝に「鏡は天降るが、その鏡は天照大御神の魂としての鏡ではない。ニニギノミコトに三種の神器を授けられた」とあるのみである。   一方ニニギノミコトの父アメノオシホミミノミコトに鏡を授けて「この宝の鏡をご覧になることは私を見るのと同じに考えよ」とあるが、そのどちらも天降っていない。  又日本書紀では天照大御神が地上に天降ったとされている。崇神天皇は天照大御神と倭大国魂を天皇の御殿内にお祭りしていたが、二柱の神威を恐れて御殿から倭の他所に移し、垂仁天皇の御代には倭姫命に託され、鎮座まします所を伊勢の国に移されたのである。以降景行天皇、天武天皇は皇女を遣わして天照大御神を祭らせたとある。

終わりに
  古事記の二重構造を念頭に置きつつも、「鏡とともに天照大御神御自らが天降って地上の伊勢神宮に祀られている」との解釈が本居宣長によってもなされており、その解釈が生まれる余地が、古事記の中にも内包されているとの考え方もあることを申し述べて置きたい。

質疑応答

「質問1」 

  神武天皇と崇神天皇は同じカムヤマトイワレヒコと呼ばれているのはなぜか。

「回答」

  同じ名前ではない。神武天皇は国の肇を開かれたが、崇神までの代々の天皇がそれを整え、整った時点で(最初の天皇とも言われる)崇神天皇が完成させたのである。


「質問2」

  天孫降臨」はなぜ「孫」なのか、持統天皇も孫を登用した。孫の登用に何か意味はあるのか。

「回答」

  特別の理由はない。子供も可愛がるが、孫も可愛がると言うしかない。尚皇孫は「天下る」であるが、それ以外の神は「天より下る」と言う。 スサノヲノミコトの六代あとのオオクニヌシノミコトはその娘と結婚した如く神話の世界の時間の尺度は大き目である。持統天皇も自分の息子が早く亡くなったのでその御子を後継者とした。


「質問3」

  外国の文化が入って来たので、末子相続が長子相続になったのか。

「回答」

  当時は、末子相続が行われていた。山幸彦も三男だったし、カムヤマトイワレヒコも四男だった。実は「東征」の途中、兄のイツセが大阪にて矢に当たり、それがもとで命を落としてしまった。他の兄達は東征に参加せず他の国に行った。兄の死にイワレヒコは悲しみ、太陽神の天照大御神の子孫であるのに、日に向かって戦ったのが間違いだったと紀伊半島沿いに南下して熊野から倭に向かったのである。


「質問4」

  長子相続でなく、末子相続の例は世界で他にあるのか。

「回答」

  他の国の例については教えてもらえればと思う。尚日本の自然と四季から信じられている八百万の神とキリスト教などの一神教神の違いについては、日本人の考えは、人間はもともと清い体だが、生活をしていくうちに罪と穢れが体につくので、禊ぎや御祓いをすれば清くなるという性善説の考え であるが、楽観過ぎるのかもしれない。一方西洋人は人間は罪を背負って生まれるとの性悪説に立つという違いがある。


「質問5」

  本居宣長の先達である尼崎出身の契沖についての見解は如何。

「回答」

  万葉集についての素晴らしい説を唱えられており、偉大な功績がある。又日本をどう考えるかの学問である国学でも学ぶところが多い人である。


「質問6」

  日本書紀は大陸向けの公文書であるが、古事記との違いを教えて欲しい。

「回答」

  3巻の古事記は漢字ばかりだが漢文でない。全30巻もある日本書紀は日本のことを外国に向けて読んでもらうため「漢文体」で書かれている。古事記は音仮名を中心とする「変体漢文」や「和文体」と言われて来たが、私は「倭文体」を唱えている。又古事記は人と人の関係を重んじる敬語が多いことも特徴である。           


「質問7」

  古事記と日本書紀の神話部分の相違について、古事記は4ヶ月で編纂出来たのに、日本書紀は約40年かかっている。古事記が出来て8年後に日本書紀は出来たのであるが、日本書紀の神話部分は古事記より先に出来たと思われるので古事記を参照して日本書紀を見直したことはありうるか?太安万侶はどちらの編集スタッフでもあったことも影響していないか。

「回答」

  古事記は元明天皇の時代に4ヶ月かけて編纂したのであり、作成はその前の天武天皇の時代から始まっていた。両方の作成は天武天皇時代の同じ頃始まったのではないかと思われる。古事記を参考に日本書紀を見直したか否かは大変難しく定かではない。日本書紀の本文では古事記と相違しているが、別伝では類似内容が見られる点について、古事記の影響があったかはまだ検証していかなくてはならないと考える。          


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