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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録(要旨)

2013年3月9日(土)

公益社団法人國民會館 会長 武藤治太氏
「國民會館の使命」  
 大阪 「武藤記念ホール」

第1章 今も生きる武藤山治の精神と理念

1.「若き日に早くも見せたその後の大活躍の片鱗」
  明治元年の前年慶応3年美濃国(岐阜県)に生まれ、父の勧めで慶応義塾に入学して福澤諭吉から直接薫陶 を受けた。17歳で卒業後アメリカ加州のパシフィック カレッジでスクールボーイをしながら苦学して20歳で 帰国した。然し26歳で三井の総帥中上川彦次郎に見出 されて三井銀行に入行するまでの6年間に、日本最初の広告代理店を設立、「米国移住論」の上梓、及び後藤象二郎の秘書になる等々、早くもその後の大活躍の片鱗を見せた。

2.「鐘紡での人間尊重の経営が政治家への伏線に」
  28歳で中上川に鐘紡の兵庫工場建設の工場支配人に抜擢されたのち、総支配人・専務・社長となり、「日本的経営の原型」を創りあげた。それは、職工の優遇と福利厚生施策の充実による「人間尊重」をベースに、最新鋭の機械を導入して高品質と生産性を追求するとともに合理的な工場マネージメントを行い、先進的販売戦略の採用による、「時代に一歩先んじた」経営であった。その結果鐘紡を日本一の売上と収益企業に育てあげた。
  然し、鐘紡において大成功を収めながら、社会の不正矛盾には深く考えるところがあった。即ち、日清・日露の大役による56万人に及ぶ戦死者の遺族と戦傷者の家族、第一次世界大戦出征兵士5万人の留守家族の生活困窮に義憤を感じたのであった。
  彼は国家のために戦った彼らの為に社会保障制度を提案、当時の有力政治家、大隈重信や尾崎行雄に働きかけるも理解を得るのに時間がかかった。そこで武藤は自費で神戸に事務所を設立し、積極的な調査活動行い、美濃部達吉博士に法案作成を依頼して議会に積極的に働きかけ、紆余曲折ののちに大正6年に「軍事救護法」は発布された。然しそれは不満足なものであり、その後折あるごとに、その改正を目指して活動した。

3.「議会活動の限界を感じ、政治教育の必要性を痛感、國民會館の設立へ」
  大正13年から鐘紡の社長のまま8年間の「政治改革活動」は現在に通じるものがある。即ち彼の政治信条は、「一国の盛衰は政治の良否にあるとし、その為には社会各層の調和を図ることが必要であり、政官財の癒着を廃して、小さな政府を目指して予算の効率化・民営化を進めるべし」と、国会で華々しい論戦を繰り広げた。
  昭和3年の第一回普通選挙では、政友会と民政党両党の差が僅かとなり、彼の率いる国民同志会がキャスティングボートを握ったが、買収の横行、無産政党の伸長もあって、同志会の勢力は伸びなかった。続く昭和6年の第二回の普通選挙でも票は伸びず、「正しい主張も民衆は余り反応しない」ことから議会活動の限界を感じるようになった。
  そして昭和7年の議会解散時には立候補を中止するが、「国民の政治意識そのものを変革する必要を感じ、それには政治教育を行い国民の政治意識を目覚めさせねばならないことを痛感して」同年10月「國民會館」を設立した。一方政界を退いてから、言論人として、恩師福澤諭吉が設立した時事新報社の経営再建に尽力した。然し正義感から出た同紙での言論活動が、結局は命を落とすことになったと推察される。

第2章 山治の遺志である國民會館の使命

1.「國民會館のこれまでの活動」
  私財を投じた旧國民會館の建物は、昭和8年3月に完成し同時に開館したが、彼は時事新報の改革に全力を傾けていたので、國民會館を訪れたのは、同年6月の開会式一回のみであり、政治教育の実践にかかわることは殆どなかった。然し翌9年3月の彼の死半年後の10月から現在の「武藤記念講座」が始まり、戦争中の厳しい情勢をものともせず毎月開催され、今回の講座は973回目、これに匹敵するのは高野山の講座のみである。

2.「國民會館の使命の確認」
  國民會館の使命は創立者の「設立趣意書」にある通り、「国民の政治意識の向上を図ること」である。然し現在我国が置かれた状況は内政的にも対外的にも余りにも厳しいにもかかわらず、国民の危機意識は乏しく、大変憂慮せざるをえない状況にある。我々は少しでもその現状を打破するべく「各界を代表する講師を迎えて啓蒙活動を行い国民の政治意識の向上を図る」所存である。

3.「國民會館自らも行動する」
  さて我々國民會館としても外部の講師を迎えての啓蒙活動だけでなく、昨年8月からメールマガジンにより、私の主張「金言」を発信している。そのベースとなる國民會館の基本姿勢は、正しい日本の姿を取り戻すための「国民の自主独立の援護」「自虐史観の排除」「東京裁判史観からの脱却」であるが、本日はメールマガジンでなく、この会場で私の主張「金言」をお話して、皆様のご批判を仰ぎたい。

第3章「國民會館の主張、金言」テーマ「朝日新聞を糺す」

1.「朝日新聞の本質を論ず」
 @第二次世界大戦時の「軍国主義への迎合」
  朝日は不偏不党を社是としているにもかかわらず、第二次世界大戦中における軍国主義への迎合は目に余るものがあった。具体的には朝日は全紙面を使って「賛戦」し、戦争を賛美し続け、軍部の覚えは大変めでたいものがあった。現在の天声人語の前身「神風賦」と言う題で扇動的な記事を書き続けた。

 A「戦後は一転して、責任転嫁と変節へ」
  然し戦後は戦争賛美の朝日が 突然自分たちは被害者であったと主張した。即ち昭和20年敗戦直後の社説では、「言論機関の責任は極めて重い」と書いている。然し戦争責任については「決して特定の人々に帰するものではなく1億国民すべてが負うべきものである」とまるで国民に責任があるようなことを言い、朝日の責任については触れていない。そのくせ、この社説をもって朝日は自己批判を済ませていると主張し、むしろ朝日は被害者であると言っている。しかも「特定の人々の責任ではない、一億総懺悔だ」と言っておきながら、敗戦の年の9月の社説「東條内閣の罪過」において「傲慢と無智、独善と虚栄がこの恥多き戦争を推進した」、そしてその代表が東條内閣であったと説くのである。さらにこの東條英機に権力を集中させた日本軍国主義を、徹底的に清算しない限り日本の民主化はならないと言い切っている。

 B「つまりは権力に阿る体質」
  おかしいのではないか。朝日新聞自らがその東條内閣に追従したことへの批判と反省は全くなされていない。さらにその後朝日は「物的戦力、科学力において日本が米国に及ばなかった」ことは明白である。「このことを知らずに戦争を推進したのであれば、無知無能であり、もし知っていて国民を戦争に駆り出したのであれば万死に値しよう。この責任こそ十分に糾明されねばならない」とし、自らの戦争指導者に対する追従を棚上げして「軍国主義の死滅と民主主義化」は日本自らの要求であると断じ、米国の占領政策が要求するものを察知して、これに追随する姿勢を示したのである。その時々の権力に擦り寄る朝日の体質は、その後の「国民と共に歩む」の考え方はよいとしても、現在の朝日の体質は「左派リベラル」の代表と言ってよい。

2.朝日新聞の犯した数々の大罪の具体例
  「日本共産党伊藤律氏との架空会見報道」「珊瑚落書き事件」は朝日の記者ならば故意の誤報が許されるとの思い上がりであり、さらに「南京大虐殺事件」「従軍慰安婦問題」、「教科書についての大誤報」は歴史を歪め国益を損ねる為の歴史の捏造であり、「橋下徹大阪市長の出自に関する連載中止」「アカイアカイアサヒアサヒ事件」は一線を大きく越える悪意と独りよがりの誇大記事である。

3.今も続く朝日の安倍内閣へのあからさまな報道
  教育基本法など法律基本法改正、憲法改正実現のための国民投票法、防衛庁の省昇格等目覚しい実績をあげた第一次安倍内閣に対しては「安倍を叩くのは社是、安倍の葬式は年内に出す。」と書いた。
  第二次安倍内閣に対しては、我国の右傾化をことさら強調した選挙はたまさかの勝利に過ぎない。総選挙の結果は民意を反映していない。日銀を財布替わりにして財政を拡大するアベノミクスは「危ないミクス」である。教科書の「近隣諸国条項」と「河野談話」を引継がなければ、近隣諸国との関係が一層悪化する。」と相変わらずである。
  さらに歴史の見直しは戦前の軍国主義につながり、これは戦後日本が国際社会に復帰した際の基本合意に背くとエスカレートした。勿論皇室、日の丸、君が代に敬意を払わず、靖国神社は帝国主義のシンボルと位置づける。そして憲法9条があるから平和が守られて来たという空想的平和主義を主張する。以上の根底にあるのは「朝日新聞こそが真実」であり、「朝日は国の針路を決める、朝日の記者なら何を書いてもよい」という思い上がりから出たものである。

質疑応答

「質問1」 

  67歳で亡くなった山治がもう10年存命ならば何をしただろうか?

「回答」

  ひとつはこの國民會館における政治教育である、もうひとつは若き日に著 した「米国移住論」を原点に、自ら現地に移住してブラジル移民事業を展開していただろう。当時は満州へ満州への時代であったが、山治は一方的に満州へ移住させるのは問題であり、より広いブラジルの新天地に移住すれば日伯両国のためになるとの基本的考え方があった。又自由主義者で米国を十分に理解していたので、大陸進出には徹頭徹尾反対して陸軍と衝突して命を奪われただろう。


「質問2」

  苦戦の南京陥落後、敵味方の死体をたきぎのように荼毘に付した写真を見たり現地に居た軍人から直接聞いたことがあるが、なぜ事実を順序立てて、当たり前のことを科学的にはっきりと報道しないのであろうか

「回答」

  全く同感である。片端から30万人を殺したことはありえない。江沢民が反日教育を始め虐殺記念館をつくったあとに、南京を再訪しようとしたら、危ないと止められたことがある。こと程左様に反日が刷り込まれている。

「意見1」

  朝日はソ連の後押しで村山一族を追出し、社説が赤旗と同じになったことがある。又ソ連の日本語放送と同じ内容の記事が三日後の朝日新聞に掲載されたとの本がある。南京は世田谷区と同じ面積であるが、もし30万人が殺されたのならば、死体が累々と山をなしていた筈だが、南京に入った沢山の記者からその報道はなかった。又ドイツへのニュルンベルグ裁判の戦争犯罪と同じ咎を着せようと、東京裁判で15万虐殺を持ち出し、それが30万人になり、いつしか40万人にもなっている。

「意見2」

NHKの誤った報道についてであるが、報道の姿勢をどこで決めるかが大切である。企画会議で個人の誰が決めたのかでなく、デスククラスが責任を持って決めねばならない。


「質問3」

  日本はよい国、日本に生まれてよかったと誇りを持てる国に自他とも認める国にするのが、子供たちに対する大人の役目であるがどう思うか。

「回答」

  有益なお話である。愛国心と言ったら笑われることがあるが、愛国心なき国は滅びる。日本は自分で自分を貶めているが、このままでは中国の属国になってしまう。プラトンの言葉「憤激性なき国民は滅びる」は、武藤山治の座右の銘のひとつだった。山治に倣いそれ位の気概で國民會館はやっていく所存である。


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