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武藤記念講座(講演会事業)

記念講座の記録(要旨)

2013年5月18日(土)

奈良国立博物館 学芸部長 西山 厚氏
「歴史に学ぶ 〜 聖武天皇と叡尊」  
 大阪 「武藤記念ホール」

第1章 聖武天皇はなぜ大仏を造ったのか?

第1節「すぺては生きとし生けるものの幸せのために」
  学校の試験では「仏教の力で国を守り、人々を幸せにする為、全国に国分寺と国分尼寺を、都には東大寺を建て、そのシンボルとして大仏を造った」と書けば、合格答案になることは間違いない。 然し天皇ご自身が採点されれば「それは一寸違う」と言われるであろう。なぜならば天皇ご自身が、大仏造営の理由を「すべての動物、すべての植物が共に栄える世の中を作りたい」と仰せられているからである。
  そのお言葉にある、すべての動物の中には人間も入る。然し、すべての人間が皆んな幸せになる世の中はこれまでもなかったし、未来永劫絶対にないだろう。人によって考え方が違い、又幸福の考え方も違うが、人間の歴史は幸せを求めて殺し合い、戦争をして来た のである。然し聖武天皇は、上述のお考えに本気であられたので、とても苦しまれたのであった。

第2節「責めは我ひとりにありとのお心意気」
  何故苦しまれたのか、国民みんなの幸せを第一に考えておられた天皇は、三年間に及んだ旱魃と飢饉、大地震、天然痘の大流行そして内乱も、すべての「責めは我一人にあり」とされ、牢屋に囚人がいるのも自分の政治が悪いからだとまで思われたのであった。 さらに待望の世継ぎの皇子が誕生したのに、満一歳になる前に夭折する悲劇に見舞われた。天皇はそれらの諸行を苦しみ抜かれた末に、大仏を造ることを思いつかれたのであった。

第3節「大きな力で造らず小さな力で造れ」
  大仏造営は大変な大事業であるのに、天皇は「大きな力で作るな、沢山の富で作るな」と命ぜられたのみならず、何の役にも立たない「一本の草、一握りの土を持って来た人にも手伝ってもらいなさい」と仰せられたのである。 何故か、それには天皇のお気持ちを汲むことが大切である。即ち天皇は、大きな力で大仏を造って何の意味があるのかと悩まれ、「私も協力させてください」と一本の草を持ってきた人々に参加してもらい、共に大仏を造ることにより、皆が幸せになって欲しいと願われたのであった。
  極端に言えば皆が参加してくれるならば、大仏は出来なくてもよいとまで思われたのかもしれない。然しもし大仏が完成するならば、その時こそすべての動物、すべての植物が共に栄える世の中が実現すると考えられたのであろう。

「閑話休題」
  歴史を学ぶ為のこつは、歴史上の人物の気持ちを他人事にしないことであり、その人の本当の気持ちを想像することが大切である。勿論本人でないのに完全に分かる筈はないが、どのような苦しみかを考えてみて、その人に少しでも近づくことが大切である。これが出来ない人には歴史は分からないだろう。

第2章 勧進による三回の大仏開眼

第1節「聖武天皇の『小さな力』による大願成就」
  聖武天皇が心から願った通りに、大仏は当時の日本の人口の凡そ半分の260万人の結縁(けちえん)により完成し、西暦752年4月に開眼法要が営まれた。天皇のお喜びはどれ程であったであろうか。然し上述の苦しみを想像出来る人でなければ、その喜びは想像出来ないのではないか。即ちその喜びは大きな苦しみを経験されたからこそ、大きなものとなったと考えられる。そもそも苦しむと言うことはよいことである。なぜならば本当 に苦しんだ人だけが本当の喜びを経験出来るからである。天皇は開眼法要の4年後に崩御され、大事にされていた御物・宝物は光明皇后により大仏に奉納され、その後正倉院に収められ今日に至っており、毎年行われる正倉院展の1日当たり入場者数平均1万5千人は世界一であり、奈良の歴史と文化の力の大きさを感ぜざるをえない。

第2節「一回目の焼損と重源の『尺布寸鉄』による復興」
  聖武天皇がそれ程の思いで造った大仏は、その後二度も焼かれることになる。平清盛の軍勢(平重衡)の兵火で焼かれたのが一回目である。大仏殿は焼け落ち、大仏は上半身が溶けて頭と手は地に落ちて巨大な銅の塊と化し、中に逃げて大仏に助けを求めていた千人の人達も焼け死ぬ大惨事となったのである。すべての動物すべての植物が共に栄えることは、大仏様をしてかなわなかったのである。
  再建の声は上がったが、東大寺は壊滅しており、荘園は没収され、金属で大仏を作る技術もない中で、「私に任せて下さい」と名乗り出たのが、61歳の重源(ちょうげん)であった。彼は東大寺の僧でなく、50人を率いる復興のプロだったが、鋳造技術は中国のプロフェッショナルも動員して、以後二十数年かけて再建を成し遂げた。
  彼はそのため「尺布寸鉄」でもよいからとの「勧進状」(勧進とは信仰に基づく寄付)を作り、全国から資金を集めたのである。これは、大勢の人の気持ちを大仏さまに向けて結集させることにおいて、聖武天皇と同じ考えであった。

第3節「二回目の焼損と公慶の『一針一草の喜捨』による復興」 
  二回目は戦国時代に大仏殿一帯が戦場になり夜襲により焼損した。然し復興に取り掛かるも、その時代には大仏の重い頭部を胴体に載せる奈良時代の高い技術が途絶えており、胴体は出来たが、頭部は木製で間に合わせて、屋根もなしに100年以上が経った。
  その間織田信長、徳川家康らによる寄進の話もあったが、諸般の事情から実現せず、幼くして東大寺の僧になり、大仏への信仰篤く、是非頭部の修復と大仏殿を完成させたいと念願していた、公慶(こうけい)の登場まで待たなくてはならなかった。彼は幕府に全国で勧進させて欲しいと陳情するも、幕府から得られたのは応援はしないが、邪魔はしないので、勝手にやれとの許可を得たのみであった。
  然し公慶は聖武天皇、重源と同趣旨の「一針一草の喜捨」の勧進状を携えて全国を廻って寄付を集めて、頭部の重さが胴体にかからないように、ジャングルジム様の工法を採用して大仏を完成させ、又3千トンの瓦を載せる屋根を支える大仏殿の最重要部分の梁を、全国で探した末に霧島の山中で調達出来て、今我々が見ている大仏と大仏殿の完成となったが、公慶は少年時代の誓いであった大仏殿完成を目前にして心労がたたって亡くなったのであった。

「閑話休題」
  「たとえ本当にすべての人が大きな幸せを得ることが出来なくても、気づかないくらいの小さな幸せをいつか得ることが出来るならば、聖武天皇の願いはかなえられるでしょう」これは京都での私の講演に対してのある女子大生からの感想文であるが、それを読んで私は涙が止まらなかった。

第3章 東の大仏に対する西の叡尊の輝き

第1節「神風を祈ったが、その結果を喜ばなかった傑僧」
  聖武天皇の内親王であった孝謙天皇が建立した西大寺は、奈良時代に東大寺に次ぐ大寺であったが、平安時代、鎌倉時代にはすっかりさびれてしまっていた。それを復興したのが叡尊であり、全国から彼を慕って集まった弟子達は1500人に上ったという。又叡尊81歳の時、2回目の元寇(弘安の役)では、朝廷に頼まれて祈祷した初日に神風が吹いて、蒙古・高麗連合軍が撃退されたことでも有名である。然し彼は「東風を以って兵船を本国に吹き送り、来る人を損なわずして所来の船を焼失せしめ給え」と祈っていたので、10万人もの殺生をしたと言って、決して喜ぶことはなかったという。

第2節「悲華経(ひけきょう)への誓い」
  西大寺のご本尊は彼の作った釈迦如来像であるが、昭和30年代に解体したところ、お顔の中に袋がぶら下がっており、「悲華経」という巻物が入っていた。このお経には「お釈迦さまは、浄土に行かず苦しんでいる人を救おうとした」と書いてあった。(阿弥陀如来はこの世でない別世界の極楽浄土に住んでおり、時々迎えに来ることをご来迎という)そして彼も「死んだら苦しんでいる人達がいる最低・最悪の世界に行き度いと願い、最も苦しんでいる人達を救う為ならば地獄の苦しみにも耐えて、浄土へは行かない」と45歳の時に誓いを立てたのであった。

第3節「小さな力を沢山集めて、悲華経の教えを厳しく実践」
  叡尊は、鎌倉幕府の有力者からの土地の寄進を断ったが、彼に共鳴する沢山の人が少しの田畑を、わずかなお金を寄付してくれて、小さな力を沢山集めて、西大寺の再興だけでなく、ハンセン病の患者の救済活動、貧民救済等の社会活動を熱心に行ったのであった。

「終わりに」

  聖武天皇、重源、公慶そして叡尊は、小さな力を集めて自らの輝きをいや増したが、こんなすごい人が居たということを誇りに思うべきである。「知る」とは本当に大切なことを認識することである。そして本当に大切なことを知れば、その人に思いを馳せ、共感し、近づいて寄り添うことが出来、他人ごとでなくなるのである。

「質疑応答」

「質問1」 

  大仏は金属製か?

「回答」

  奈良時代から三代にわたり銅製である。戦国・江戸時代の100年間はお顔が軽い木製だった。


「質問2」

  から鱗であるが、ある仏像のセミナーで、仏像をよく知ろうと思えば沢山見なさいと言われたが如何?

「回答」

  確かに沢山見て段々分かって行くことも大切だが、それよりもひとつひとつの仏像の心を丁寧に読むことが大切である。仏像は注文制作であるが、元気一杯、幸せ一杯の人は仏像をつくらない。苦しんだり、悲しんだり・聖武天皇のように皆に幸せになってもらいたい人が仏像を作ってもらうのである。又仏像は見るものではなく、「会う」ものである。見ると会うのは違う、仏像に対しても然りである。


「質問3」

  南都に大仏があるのに京都に大仏が出来なかった理由は?

「回答」

  方広寺の大仏は地震で壊れ、大仏殿は倒壊を免れたが、大仏の代わりに長野の善光寺のご本尊を移したが、たたりがあり慌てて返したとのこともあった。然し京都に大仏がないとの特別の理由は特にないと考える。


「質問4」

少しの力を集める」と云うことは権力を避けようとしたからか?

「回答」

  寄付とは、出した人が幸せを感じるものである。人間の幸せと救いとは何か、「額に汗して報われる」でなく「額に汗して働けること」が幸せなのである。

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