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武藤記念講座(講演会事業)

第983回武藤記念講座の記録(要旨)

2013年11月10日(日)

  作曲家
 吉田 進氏氏

「シュトラウス一家とウィンナ・ワルツ」 
 大阪「武藤記念ホール」


第一章「世界中の新春を寿ぐウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」

第1節「正月はニューイヤー・コンサートから」
  パリの正月休みは一日だけである。二日からはもう仕事である。その一日だけの正月の楽しみのひとつは衛星実況中継され、世界中で人気のある「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」のニューイヤー・コンサートをパリでも聴くことである。

第2節「ニューイヤー・コンサートの歴史」
  1939年に大晦日のコンサートから始まり、その後新年と両日にわたり演奏され、新年の方が有名となったが、大晦日のコンサートは現在も続いている。1955年からの25年間はウィリー・ボスコフスキーがコンサートマスターとしてバイオリンを弾きながら指揮したが、それは同じくバイオリンを弾きながらオーケストラを指揮したヨハン・シュトラウスを彷彿とさせるものであった。以後指揮者は、毎年代わっているが、2002年にはわが日本の小澤征爾氏が指揮した。尚演奏場所は同楽団の定期演奏会の会場で、音響効果の良さで知られているウィーン楽友協会ホールである。

第3節「歴史あるウィーン・フィル」
  ウィーン・フィルはもともとハプスブルグ家の宮廷歌劇場のオーケストラが母体で170余年の歴史を有する由緒あるオーケストラである。1842年に創立された頃はシューマンやメンデルスゾーンも生存しており、ブラームス、ブルックナーら大作曲家の作品が初演された場所でもある。又ウィーン・フィルはただ古いだけでなく他の世界の交響楽団、ベルリンフィル、ニューヨークフィル、パリ管弦楽団の音とは違う同フィルならではの独特のサウンドを持っている。それは使用する楽器、特に管楽器が違い、その結果、指使い等の演奏方法も違い、独特の演奏スタイルになるからである。

第二章「シュトラウス一家と、ウィンナ・ワルツそしてポルカ」

第1節「シュトラウス一家とは?」
  ニューイヤー・コンサートでの演奏曲目はヨハン・シュトラウス一家の作品が中心となっている。一家は皆ウィーン生まれで、父(1804〜1849)ヨハン一世は「ワルツの父」、長男(1825〜1899)ヨハン二世は「ワルツ王」と呼ばれている。然し息子である二世の方がワルツ王として有名となり、ヨハン・シュトラウスと言えば二世の方を指すようになった。
  父は息子達が音楽家になることを望まなかったが、ヨハン二世は音楽が好きで母の密かな応援もあり独学で音楽を学び、19歳で自分の楽団を率いて大成功を収めた。然し父の楽団を避けての演奏会を余儀なくされていたが、5年経ち父が他界すると父の楽団を引継ぎ、以後ウィーンの音楽界に君臨することになった。
  然しヨハンは作曲と指揮で忙しくなり、次男(1827〜1870)ヨーゼフ、三男(1835〜1916)エドゥアルトに援軍を頼んだ。特に次男の技師から音楽家としての才能を開花させたヨーゼフは兄弟のなかで一番才能があると言われたが、音楽の勉強をし過ぎ心身とも病んで早死にし、三男もそれなりに才能を発揮したが、二人とも兄ヨハンの名声には及ばなかった。

「映像1」兄のヨハンより才能があると言われた次男ヨーゼフのワルツ「わが人生は愛と喜び」に歌詞をつけたミュージカル映画「会議は踊る」(1931)から《新しい酒の歌》

第2節「ニューイヤー・コンサートでの「ウィンナ・ワルツ」」
  「ワルツ」は男女が自ら回転しながらダンスフロアを移動する文字通り「円舞曲」である。三拍子の舞曲で、中世オーストリアとドイツでの農民の踊りが、都会に入り洗練したもので、18世紀には宮廷にも入った。信じ難いが、最初は男女が体を接して踊るので淫らであるとして禁止されていたこともあった。ワルツの中でもウィンナ・ワルツはテンポが速く、特にウィーンでは三拍子の二拍目が長く三拍目へ微妙にずれこむ独特のリズムになる。即ちペアで踊るご婦人の大きなスカートをゆっくり回すことが出来るように二拍目がゆっくりとなったのである。1814年のフランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序を決めるウィーン会議で、昼は各国の利害が対立して会議は進まないのに、夜は華やかな舞踏会に明け暮れ、「会議は踊る、されど進まず」と言われた。その舞踏会で踊られたワルツがヨーロッパ中に拡がったのである

「映像2」ヨハン二世の代表作のひとつ、 ワルツ「皇帝円舞曲」を映画「エリザベート/ 若き皇后シシー」(1957)より。

第3節「ニューイヤー・コンサートでの「ポルカ」」
  「ポルカ」は、今のチェコのボヘミア地方で1830年頃起こった民族舞曲、二拍子の活発な踊りであり、1840年にパリに入り爆発的に流行した。

「映像3」伝統ポルカ舞踊を映像とともに。

「映像4」ヨハン二世と次弟ヨーゼフ作曲の、弦を爪で弾く「ピチカート・ポルカ」をマリス・ヤンソンス指揮のニューイヤー・コンサート(2012年)から。

「映像5」ヨハン二世作曲の、いわゆる速いポルカの「雷鳴と稲妻」をダニエル・バレンボイム指揮のニューイヤー・コンサート(2009年)から。

「映像6」ヨハン二世作曲の、オペレッタ「こうもり」序曲を小澤征爾指揮のニューイヤー・コンサート(2002年)から。

「映像7」ヨハン二世作曲のワルツとポルカが両方盛り込まれているオペレッタ「こうもり」から「シャンパンの歌」をパリ・オペラ座公演(2009年)から。

「映像8」ヨハン二世作曲の速いポルカの「狩」を、パリ・オペラ座公演(2000年)から。ワルツとポルカのヨハンが楽器ではなく人間の声をどう扱うか!

第三章「極めつけの「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」」

第1節「世にも有名となった美しく青きドナウ」
  世にも有名となったヨハン二世によるこの曲は、当初はウィーン男声合唱協会のための合唱曲であった。それはまず旋律があって歌詞がつけられたが、初演の際の歌詞の内容にドナウという言葉はなく、かつドナウ川とは全く無関係だった。その後ヨハン二世は、かつて読んだベックという詩人の詩の一節「美しき青きドナウのほとり」という言葉を思い出し、別の詩人ゲルネルトに「美しく青きドナウ」という題で歌詞を書いてもらったのである。その歌詞はウィーンの町の人達のドナウ川によせる思いが語られているが、歌詞の中に「お前の銀のリボンは国と国とを結び」とあるように、全長3千キロに及ぶ長い長い流れのドナウは8カ国を流れる大河である。そしてそれは8カ国だけでなく1867年のパリ万博でのヨハン・シュトラウスの自作自演で、合唱なしのオーケストラ演奏が爆発的人気を呼び、前述のポルカ同様パリ発で、世界に広まって行ったのである。

「録音1」ワルツ「美しく青きドナウ」(ヨハン二世作曲、ゲルネルト作詞)をウィーン少年合唱団で。

第2節「時代を超えた美しく青きドナウ」
  さらに、この曲のすごさは時代を超えて人間の感覚に訴えるところにある。映画「2001年宇宙の旅」は、人工宇宙船のなめらかな動きと人工ステーションの回転が、ワルツを踊るような映像であり、19世紀のブルジョア社会で生まれたワルツが科学の粋を集めた宇宙の旅にマッチするのはとても面白いものである。そして85歳のフランスのジョルジュ・プレートルの演奏は人生の川を思わせるものである。

「映像9」 ワルツ「美しく青きドナウ」(ヨハン二世作曲)を映画「2001年宇宙の旅」(1968年)から。

「映像10」ワルツ「美しく青きドナウ」(ヨハン二世作曲)をジョルジュ・プレートル指揮のニューイヤー・コンサート(2010年)から

第3節「アンコールでは、必ず手拍手の入る ラデツキー行進曲」
  父ヨハン一世の作品で、イタリアの反乱を鎮圧したオーストリアのラデツキー将軍を称える曲である。
「録音2」「ラデツキー行進曲」(ヨハン一世作曲)をニコラウス・ハルノンクール指揮のニューイヤー・コンサート(2001年)から

「映像11」「ラデツキー行進曲」(ヨハン一世作曲)をダニエル・バレンボイム指揮の手拍子入りのニューイヤー・コンサート(2009年)から

「質疑応答」
質問1 

  本日のウィーン・フィルの演奏において、管楽器が他のオーケストラと違う点はどうしたら判るか

「応答」

  昔のレコードに比べ性能がよくなったCDで聴いても判らないだろう。然し実際に会場で生の本当の音を聴けば、すぐ判ると思う。音楽は人間と人間のコミュニケーションであるからだ。

質問2

  ウィーン会議でどのような曲が演奏されたのか?

「応答」

  ワルツは中世に起源を持ち、18世紀には宮廷に入り、さらに進化して行った。ワルツの前身である南ドイツの、民族舞踊「レントラー」はシューベルトも 作曲しているが、ウィーン会議の時のワルツが、シュトラウス一家のウィンナ・ワルツではないことは確かである。然し如何なる曲が演奏されたかは、世界的な会議であったので、調べれば記録として残っているだろう。

質問3

 小澤征爾は「ヨーロッパの人の心を読んで指揮したい」と書いていたが、先生も日本人のアイデンティティーとは違う部分を感じで作曲されるのか?

「応答」

  三つの視点で考えねばならない。即ち日本人として「西洋音楽を聴く」、「西洋で演奏する」、「西洋で作曲家となる」と言う三点である。
  まず第一点の「聴く」であるが、これは向こうの歴史、伝統、文化、そして人間、さらにその裏にあるものを勉強して聴くのもよし、又自分は向こうの人達とは違うという考え方で音を楽しんでもよい。然し、さらにその両方の聴き方をするのが一番良いのではないか。「演奏家」の場合は、特に向こうで活躍する場合は、向こうのことを、考えないと通用しない。
  一方「作曲家」の考え方は、どのような作曲をしたいかにより千差万別である。西洋の伝統に自ずと(これが大切であるが)入っていければそれで良いし、自分の考えにこだわり、向こうの伝統は関係ないと思えばそれもよい。そして私の作曲の基本は「作曲とは自分の表現である」ということである。私は西洋音楽を学ぶためにその本場へ行ったが、日本ではあこがれていたが、本場へ来て西洋音楽は自分のものでないと判った時に、はじめて自分の音楽が始まり、日本の伝統に結びついていったのである。

質問4

  来年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの指揮者はダニエル・バレンボイムであるが、それは、いつ頃どうやって決まったのか?

「応答」

  ウィーン・フィルは音楽監督や代表指揮者はいないので、毎年次の年はどうするかを楽員達が決めるのである。
  尚ウィーン歌劇場とウィーン・フィルは同じものであり、小澤征爾がニューイヤー・コンサートの指揮をしたときは、ウィーン歌劇場の音楽監督だった。ダニエル・バレンボイムに決まった理由は2009年のニューイヤー・コンサート時の「平和へのメッセージ」の反響が大きかったからではないか。
  ドイツ歌劇場の音楽監督になって来年25年目のユダヤ人の彼は、イスラエルとパレスチナ合同のオーケストラを作って演奏し、音楽は音を楽しむだけでなく、世界の平和を常に考えるヒューマニズムと関係がなければならないと訴えて行動している。このことが決定の理由であろう。

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