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武藤記念講座(講演会事業)

第987回武藤記念講座要旨

2014年3月8日(土)

  公益社団法人國民會館 会長 武藤治太氏
 「鐘紡の興亡」 
       大阪「武藤記念ホール」


セミナー


講演中の武藤会長。
今年の追悼記念講座は舞台に立たず、袖から壇上の山治像に話しかけました。


はじめに

明治20年に創業され、平成19年にその120年の幕を閉じた「名門鐘紡」の歴史は、大きく40年毎の三つの時代に区分できる。
  最初の40年間は一人一業に徹して鐘紡を世界一の紡織会社に育てあげた武藤山治の時代である。次の40年間は結果的には光と影の部分があるものの、山治の遺産を多角的に展開した津田信吾と武藤絲治の時代である。そして最後の40年間は以上の80年の歴史を受けて、主たる五つの事業を正五角形で成長させようとしたが、逆に同社を破綻させ、その事業が解体された伊藤淳二氏の時代である。
  以下各々の時代の「経済環境」で展開された「経営戦略」、その根底をなすトップリーダー達の「経営理念」について論述し、崩壊する筈のなかった鐘紡の「興亡」を検証したい。

第一章「武藤山治の時代」

第1節「金融資本の洗礼を克服、果敢な経営戦略で日本のトップ企業に」
  紡績業は日本の近代産業勃興の主翼を担った産業であった。のちの三井財閥となる三井家も鐘淵紡績を設立し明治22年(1889年)には東京隅田川河畔に大規模な工場を建設した。さらに明治29年(1896年)に支那大陸への綿布輸出を視野に置いて兵庫工場を完成させた。そしてその工場建設に明治27年三井銀行から支配人として起用されたのが、福澤諭吉に直接学び米国留学から帰国したばかりの弱冠27歳の武藤山治であった。武藤はよくその期待に応えて、当時としては破天荒な規模の最先端工場の操業を軌道に乗せたが、明治33年(1900年)に義和団事件が勃発、中国各地の動乱により、日本からの輸出が停滞したので、鐘紡は金融危機に遭遇したのであった。
  その間に明治32年(1899年)に本店支配人に就任した山治は、紡績大合同論を唱え、九州を中心に合併・買収を進め、鐘紡を我国最大規模の紡績会社に仕上げて行った。然し、後ろ盾であった三井の総帥中上川彦次郎が死去したのみならず、三井銀行自体に信用不安が発生し、中上川のあとを継いだ益田孝により同行の融資方針が工業資本路線から商業資本路線へ転換された結果、鐘紡への融資が絞られる苦境に陥った。然し山治は三井銀行のライバルであった三菱銀行から、「熱意と人柄」で融資を受けることに成功してこの危機を乗り切った。
  然し一難去って又一難、益田は子会社であった鐘紡株式のすべてを、鐘紡の有力綿花取引先の呉錦堂に売却するに及んだのである。然し明治39年(1906年)呉錦堂はバックが安田善次郎の相場師、鈴木久五郎と激烈な仕手戦を演じるも敗北し、鐘紡株の大半は鈴木の手に移った。大株主となった鈴木は倍額増資と増配を要求したが、山治は増配には応じたものの、増資は他の株主の利益にならないと反対、辞任してその意志を貫いた。然し鈴木は企業経営には素人で、従業員から一斉に山治の復帰運動が起こり、山治は「監督」という立場でカムバックし、明治41年(1908年)には専務取締役として正式に復帰した(尚鈴木は好景気の反動による株式の暴落により破産した)。実質上のトップとなった山治は早速本邦初の外資導入(200万円、フランス商工銀行引受)により財務基盤の強化を図るとともに、事業を堅実に発展させてトップ企業に育成し、大正10年には社長に就任、自身が作った社長定年の内規に従い、昭和5年(1930年)に退任したのであった。

第2節「日本的経営の始祖となった経営理念」
  山治は付加価値を生み出す根源は人間であるとの「人間尊重経営・家族主義的経営」により食堂・寄宿舎・無料診療所(のちに病院と保養院へ発展)の福利施設、さらに娯楽施設までを充実させ、日本最初の社報と注意箱により従業員のモラール向上に特段の意を尽くしたが、それは「女工哀史」とは程遠いものであった。一方で経営マネージメントの面では、近代経営手法を採用し「科学的合理的経営」により、品質を重視しつつ「製品の開発から生産・販売・宣伝」までに及ぶトータルマーケティングを実践した。かくして従業員の待遇は業界最高を誇りながら、大正半ばには5期連続で70%の配当を実施したのである。

第3節「正義に基づく強いリーダーシップ」
  以上の数々の成果は「顧客・従業員・株主」のための正義に基づく強いリーダーシップによって達成された。工場創業時の中央綿糸紡績同盟会との女子工員のスカウトに関する紛争事件解決、大株主からの安易な増資の要求に対して職を賭して反対したこと等は、正義に基づく山治の毅然たるリーダーシップの真骨頂である。

第二章「津田信吾・武藤絲治の時代」

第1節「山治の遺産を引継ぎ、発展させようとした津田信吾と武藤絲治」
  太平洋戦争時の軍需経済下と、戦後の経済復興・朝鮮戦争による特需景気下の違いはあるが、二人の使命は、山治から引き継いだ経営理念と経営資源により、新しい事業展開で鐘紡を成長させて行くことであった。

第2節「津田信吾の光と影」
津田信吾は、副社長時代に第一次世界大戦の戦時手当て支給のカットをめぐって労働争議の矢面に立ち一歩も引かず会社の主張を通し、昭和5年に山治から後事を託されて社長に就任して、終戦時まで15年間社長を務めた。昭和4年の世界大恐慌の影響を受けた昭和恐慌も、昭和7年になると収まりを見せてきたので、津田は武藤路線をさらに発展させ、紡織設備を増設し淀川工場の晒加工能力を倍増して積極的に綿布の輸出を増やしていった。その結果業界ベースでも日本の綿布はランカシャを抜いて世界一となったが、彼は業界のリーダーとしてもインド等の関税障壁撤廃運動の先頭に立った。
  然しその後、海外に進出、先ず朝鮮を皮切りに、満州、支那大陸、フィリピンにまで進出した。一方成熟産業となってきた繊維事業に対して、非繊維事業化をすすめ、石鹸、合成繊維(ビニロン)、製薬事業等の化学工業、ディーゼル事業、兵器事業、飛行機製造事業等の重工業にまで拡大、昭和19年には社名も鐘淵工業とした。
  日本の敗戦とともにそれら事業は壊滅的損害を被ったが、鐘淵化学工業、カネボウ化粧品が後世に引き継がれたことは評価されるものの、山治に私淑しながらも山治の作った社長の任期3年3期を反故にして独裁体制を敷き、軍国日本と表裏一体で、株主には迷惑をかけないという伝統を破って増資を繰り返し、その資金で大陸進出や多角経営に大きく手を拡げた結果、傷口を広げる結果となった彼の負の部分は大きい。

第3節「武藤絲治の光と影」
 &nbs;p鐘紡コンツェルンとも言われた津田社長の業種拡大戦略が裏目に出て、国内事業所は爆撃により壊滅し、海外事業所はすべてなくなり、鐘紡の戦争による特別損失は当時の国家予算の5%にも及んだ。山治の三男絲治はその惨憺たる状況を引継いで昭和22年社長に就任し、昭和24年の経済力集中排除法の施行もあり、鐘紡を繊維だけの会社とし、繊維以外の事業は鐘淵化学工業(のちのカネカ)に集約した。ところが昭和25年朝鮮戦争による神風とも言える特需により、紡績業は力を取り戻し、5年程で戦前に近い状況に回復したのである。
  やがて特需の反動不況が到来したが、工場閉鎖や賃金カットにより十大紡トップの黒字化を果たした上で、「グレーター鐘紡計画」を策定した。それは「原料から最終製品までの一貫生産体制」、「販売網の拡充強化」、「非繊維部門の化粧品、食品への進出」の三本の柱による事業の構造改革を目指すものであり、さらに労働組合とは「労使の平和共同宣言」を行った。然し第一次計画は計画を大きく上回り「定年制廃止」宣言にまで至ったが、第二次計画では経常損失となり、近江絹糸と東邦レーヨンとの合併を失敗した責任も追及され、一次計画前のクーデターに続く二度目のクーデターにより、絲治は代表権のない会長となり、伊藤淳二が社長に就任した。
  上記の労使の平和共同宣言「鐘紡の存立の発展と源泉は従業員である」は父である山治の人間尊重の経営哲学そのものであり、レーヨンの増設はあとに禍根を残すことになるが、化粧品やファッションなどの多角経営に先鞭をつけて鐘紡の方向転換の道筋をつけたのは絲治の功績である。

第三章「伊藤淳二の時代」

第1節「ペンタゴン経営はいびつな五角形のままに社長を退任」
  1968年(昭和43年)から2007年(平成19年)のほぼ40年間は伊藤淳二の時代といえる。彼は社長、会長として24年間君臨したが、その後も鐘紡解体に至るまで影の実力者として影響力を行使し続けたからである。叉この期間は前半の21年間(1989年)までは日本経済の高度成長期、後半はそのバブル経済が崩壊した景気低迷期に相当するが、伊藤氏は就任後すぐ「ペンタゴン経営」を打ち出して繊維、化粧品、薬品、食品、住宅不動産を平行して育て高度成長を謳歌しようとした。
  然し結局次の問題点が露呈して、化粧品を除いて折角の高度成長の波に乗れなかったのである。即ち第一にすでに成熟期を迎えた繊維事業のしかも後発の三大合繊に巨額な設備投資を行い、その投資効果の果実を得られず巨額の赤字を続けたこと、第二に化粧品は絲治以来の積極経営で成功したが、食品・薬品・住宅不動産は業界首位には程遠い存在を脱し得なかったこと、第三にもともと弱い財務体質のうえに以上の事業展開により借入金が激増することとなり、就任5年後の昭和48年の第一次オイルショック後鐘紡は大きな経営危機を招いたのであった。
  そのため相変わらず工場の一部休止や分社化を進めたが、遂に4年後の昭和52年には無配へ転落し、三井銀行副頭取の青木氏を会長に迎え、以後の銀行支配の端緒をつくり、昭和56年には子会社鐘紡化粧品の合併、スフ事業の分社化、淀川工場の売却などの合理化を行い、さらにこの頃から合繊在庫の処理にからみ粉飾決算が常時行われるようになったが、昭和59年には新株による株式配当でやっと復配し、社長を岡本氏に譲って会長となったのである。然しこの頃既に不良在庫は最低でも1000億円と言われていた。

第2節「続く伊藤氏子飼いの4人の社長もいびつさを直せず」
  岡本社長はペンタゴン経営の再構築を図ろうとしたが、プラザ合意以降の円高により赤字となり、連結の有利子負債は4300億円を超えるまでとなり、5年で交代、以後伊藤氏の意向で、技術畑の石澤氏3年、側近ナンバーワンの永田氏2年、秘書出身の石原氏4年とめぐるましく社長交代が続き、その都度工場閉鎖、分社化、人員削減等の合理化策が打ち出されたが、収益は悪化するばかりであった。即ち石澤氏は合繊部門で1000億円の設備投資をして有利子負債を5500億円にまで膨らませ、伊藤氏のもとでの永田氏は肝心の合繊部門に手をつけられず赤字は拡大、石原氏は伊藤氏を慮り何も動けなかった。
  そして遂にメインバンクさくら銀行の強い要請により平成11年(2003年)従来と違ったカラーを求め、化粧品部門出身の帆足専務が社長となった。彼は就任早々3年間の従業員賃金10%のカット、不振の繊維のリストラ、化粧品と家庭用品で収益の回復を図った。然し折りしも時価会計が強制されるようになり、今までの決算操作で土地の含み益は底を打っており、財務体質のさらなる劣化が必至となった。

第3節「挙句の果て大規模な粉飾に手を染めて破綻の道へ」
  それまでも繊維・食品では粉飾が進んでいたが、帆足社長は従来から得意先の毛布メーカーとの備蓄在庫取引を悪用して、実需のない過剰在庫を商社に在庫してもらい買戻すいわゆる「宇宙遊泳取引」の金融取引により、利益を出す粉飾決算を行った。かくして表面上は債務超過を脱するも実際は2000億円の債務超過であった。これを知り取引銀行は一斉に鐘紡を「破綻懸念先」に格下げした。そこでメインバンクの三井住友銀行は鐘紡と花王の化粧品部門で新会社を作り、カネボウ(帆足社長が改称)の新会社への売却益で債務超過を解消しようとしたが、債務超過は5200億円になっていることがわかったので、この事業統合案を白紙に戻し、化粧品部門を全部花王に売却するように提案したが、カネボウの花王に対する拒否反応があり、国内ファンドとの新会社案に期待をかけたが、三井住友銀行の資金調達の支援なしでは、それは難しいことがわかり、結局カネボウの取締役会は花王案を多数決で決定した。
  この決定に対して、経営上の重大事項は労使協議事項とするという伊藤氏とのゆがんだ「運命共同体論」を共有する労働組合が反対し、花王に代わって「産業再生機構」が登場し、化粧品部門で新会社をつくり、その会社を産業再生機構が買収し、その売却益でカネボウを救済するというスキームが提示された。カネボウは花王との譲渡契約を白紙に戻して、機構への支援を要請した。
  然し機構の調査の結果、グループ有利子負債が5567億円に達することが判明したので、化粧品だけの支援では繊維・食品の赤字を先送りするだけとの判断に変わり、機構は鐘紡全体を支援することを決定し、化粧品部門を3660億円、他部門を641億円の合計4301億円でカネボウより買収し、花王に4100億円、三つのファンドに438億円の合計4538億円で売却して差引237億円の利益を得て再生計画を終了した。平成16年3月には帆足社長が退陣し、中嶋社長が誕生した。同社長は経営浄化調査委員会を発足させ、過去五期だけでも2000億円もの粉飾が行われ、9期連続で債務超過に陥っていたと報告した。その結果帆足氏他二人が証券取引法違反で逮捕され、帆足氏他一人は有罪となった。かくして平成19年6月29日、カネボウは解散し、120年の歴史を閉じた。

「終わりに」
  鐘紡は昭和50年代から夙に巨額の粉飾を行っており、これを後世に押付けて、真の責任者が影に隠れているのは余りにも不公平である。思うに常に従業員と株主を思い正義を貫いた山治に対し、伊藤時代は経営戦略を大きく誤ったうえに、それを糊塗して粉飾決算を行い、挙句の果てに禁じ手の金融取引を行って破綻させ、山治とは逆に従業員と株主に多大の苦痛と損害を与えたのである。両者の根底にあるのは経営者に求められる企業人としての「品格」の違いである。
  最後に、もう一言述べておきたい。現在の兵庫県立舞子公園内の、旧武藤山治邸は、もともと山治の住まいであったが、私の父は祖父の死後それを鐘紡に寄付して、鐘紡は「舞子倶楽部」として使用していたものであった。ところが、ある日鐘紡最後の社長中嶋氏が私を訪れ、その土地建物一式を時価で買い取って欲しいと申し出て来たのであった。私はその申し出に驚愕したが、これは私個人で所有するものではないと思い、兵庫県の井戸知事を尋ねてお願いし、取得を実現していただいたのであった。申し述べたいのは、「当家が寄付したものを当家が買取れ」との申し出の品格のなさである。藤原正彦氏は「国家の品格」を問うたが、企業にも品格があってしかるべきである。品格のない社長のもとでは会社は亡ぶのである。

「質疑応答」
「質問1」

  伊藤淳二氏はどうされているか、素晴らしい人であると思っていたが、今日のお話で真実のところがよくわかりました。

「回 答」  

  彼の後継社長達は亡くなられた方が多いが、彼はご存命である。今日はあくまでも客観的に彼についてお話した積りである。私は同氏を今日の講演と同じく当會館の機関紙で厳しく批判したが、後日同氏から食事に誘われ、「経営は結果ですよ」と言わせてもらったが、何の反論も言訳もなかった。

「質問2」

  鐘紡に在籍していた者である。伊藤さんのこともよく知っている。鐘紡は本当によい会社でその思い出を宝物にしている。記念館等大切に保存していただきたい。

「回 答」  

  今後ともよろしくお願いいたします。

< 「質問3」  

  事業を遂行するに際しての、山治の人の心を掴む「人心掌握術」は如何?

「回 答」  

  自分の意見はしっかり持っているが、自分と違う意見も最後まで聞くことが出来ることもそのひとつであると考える。

「質問4」  

  大阪の経済を支えた繊維事業であるが、地盤沈下が著しい中で、繊維業界全体としてはどのような展開をされるのか?

「回 答」

  十大紡で残っているのは8社であるが、各社とも業種転換をして生き残っている。私が社長をした会社も売上高5000億円のうち繊維は600億円であり、その中でも衣料のウエイトは後進国に譲り小さくなっており、産業資材が中心となっている。合繊会社においても各社各様であるが、同じ傾向であり形を変えて生き残っている。世界の綿業の中心地だった英国ランカシャにおいても最早紡績業は存在しない。




文責

公益社団法人國民會館


  

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