="text/css" href="../common/css/font-s.css" title="small" />

ホーム > 武藤記念講座(講演会事業) > 公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫理事長 冷泉為人氏 「冷泉家の歴史と文化」  

武藤記念講座(講演会事業)

第988回武藤記念講座要旨

2014年4月19日(土)

  公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫理事長 冷泉為人氏
 「冷泉家の歴史と文化」 
       大阪「武藤記念ホール」


セミナー


講演中の冷泉為人氏。
今期には千回を迎える武藤記念講座の新学期は、藤原の定家以来同じ「千」でも千年の歴史を有する「和歌の家」京都冷泉家の当主冷泉為人先生にお越しいただきました。


第一章「八百年、さらに遡って千年の「和歌の家」

第1節「神とあがめて伝えられた和歌の典籍」
  どうして冷泉家は今日まで800年も続いて来たのか。 その理由を私なりに客観的に分析すれば、第一に先に述 べた日本文化を代表する典籍類を「神」とあがめて代々 守り伝えて来たことであり、第二に冷泉の家は「一流の二流」であり、明治維新になっても京都に残り東京に遷らなかった結果、大震災と大空襲を免れたこと、第三に冷泉流の「型の文化」を基本形として、一子相伝かつ口伝で奥義を継承しつつ、その型を常に昇華し続けたことがあげられる。

第2節「藤原道長・藤原定家そして冷泉家25代」の系図
  家系図によれば、権勢を誇った藤原道長の子長家(ながいえ)から数えれば、ほぼ「1000年」31代続いた「歌の家」である。叉冷泉家が祖と仰ぐ藤原俊成・定家の親子からは「800年」となる。そして定家の子為家、為家の子為相(ためすけ)が冷泉家を興してからは「25代730年」である。尚冷泉家になる前の長家から為家までの六代は「御子左家(みこひだりけ)」といわれており、特に俊成、定家、為家の三人は勅撰和歌集の撰者であった。尚為家のあと御子左家は二条家と京極家と冷泉家の三家に分立したが、前の二つの家は南北朝時代に絶家したので、俊成、定家、為家の正当を継ぐのは冷泉家になる。叉冷泉は姓でなく(姓は藤原氏)、同家があった通りの名前から来たいわば屋号である。

第3節「和歌の冷泉家を創った阿仏尼」
  さて冷泉家にとって初代為相の母である阿仏尼の果たした役割は極めて大きい。即ち定家の息子の為家は、父親と同じく高名な歌人であったが、年老いてから阿仏尼との間に為相が生まれた。然し先妻との間の長男、次男とは大きな年齢差があったので行く末を心配した為家は、荘園や、定家が残したさまざまな古典籍を長男でなく為相に譲るとの「譲状」を遺言して亡くなった。その結果起こった長男との相続争いを解決するために、鎌倉幕府への嘆願の旅に出たが、その紀行文と鎌倉滞在の様子を記したのが有名な「十六夜日記」である。百人一首に詠われている逢坂の関で「さだめなき命は知らぬ旅なれど叉あふ坂とたのめてぞ行く」との歌を残して決死の覚悟の旅立ちであったが、訴訟の解決を見ぬまま鎌倉で客死した。然し亡くなってから30年も経過した末の勝訴により、為相が継承した俊成・定家から伝えられた古典籍が、今も冷泉家に伝えられているのである。

「閑話休題」
  自著「冷泉家・蔵番ものがたり」に対して口の悪い友人から冷泉家の暴露本かと揶揄されたが、日本文化の和歌の本質を紹介した積もりである。

第二章「歌道の家元、冷泉家の権威の源は、俊成と定家」

第1節「和歌の道の有心論」
  定家は、父俊成の幽玄の歌論を発展させ、余情妖艶を唱えて有心論(対象に虚心対してその境に没入してよく本質を観じる作風態度)に到達し、後世歌道の師と仰がれた。千利休の師は定家の新古今和歌集の名歌「見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」を茶の湯の理念「わび」と「さび」の代表歌としている。

第2節「和歌を超えて日本の古典を後世に」
  さらに朝廷にあっては九条家の家司(けいし)となり、その保護を受けたが九条家の失脚にともない作歌のみならず書写に励み、古今和歌集、源氏物語、土佐日記など日本の数ある古典が後世に継承されることになった。さらに自身の日記全60巻の「明月記」により和歌・歌学のみならず公家と武家の間の出来事、当時の世の中のあらゆることを知ることが出来るが、その中の「紅旗(朝廷の旗を掲げての)征戎は吾が事にあらず」、即ち権力争いにまきこまれず文学に専心するべしとの言葉が、冷泉家に家訓として受け継がれている。

第3節「和歌と短歌の違い」
  和歌は五・七・五・七・七のリズムをもった叙情詩であるが、和歌と短歌の違いはどこにあるのか。一例をあげると「梅にうぐいす」は和歌のきまり言葉になっている。実際は梅に「めじろ」の光景の方が多いにもかかわらず、梅にうぐいすと詠むのが和歌の伝統である。この日本語の型、そしてその型の組合せ、取り合わせで詠むのが日本の和歌の伝統である。蕪村の絵画に「新緑杜鵑(ほととぎす)図」がある。童謡に「卯の花のにおう垣根にほととぎす早も来啼きて」とあるが、卯月四月の卯の花では余りにもあからさまなので「新緑」に変えたのではないか。江戸時代はこのような「みたて」、「もじり」が盛んに行われていた。特に古典を踏まえてそこから新しい「型」を生み出した例が多々見られたのである。

「閑話休題」
  私はパソコンが出来ず、文書作成には切り貼りを余儀なくされ、携帯電話も持っていないが、道行などの人情を語る文楽がなくなってもよいと考える大阪の橋下市長は先走り過ぎではないか。

第三章「公家住宅の御文庫の中にある文化財」

第1節「400年前今出川の現在地に、200年前の公家住宅は重文に」
  豊臣秀吉が内裏を平安時代にあった場所からは東北方向の現在の土地に移し、その周りに公家の館を一箇所に集めた公家町の江戸時代の地図がある。江戸時代から今と変わらず北に今出川通り、西に烏丸通り、南に丸太町通り、東に寺町通りに囲まれた周囲が4キロある御所。その御所と今出川通りをはさんで、同志社大学に三方囲まれて冷泉家はある。六代目七代目は応仁の乱後で苦労し能登の畠山、駿河の今川氏等地方の豪族に援助を求め離京した。九代目為満は天皇から勅勘を被り堺へ流寓することを余儀なくされた。然し関が原の戦いのすぐあとに徳川家康のとりなしで公家町の現在地に居を構えることが出来た。建物は今から約「200年」前の天明の大火のあとに建替えられたものであるが、それは現存する最古の「公家住宅」であり重要文化財となっている。叉冷泉家は建物が残っているだけでなく、公家の家業を続けている数少ない家である。 「注釈」簡素で美しい公家住宅の特徴を表すのは、内玄関の目隠しの立蔀(しとみ)、部屋境の欄間は全体を一室化するための素通し、襖は無季節の唐紙など、儀式のために配慮された構造になっている。

第2節「御文庫にある有形文化財」
  公家住宅の蔵、「御文庫」には古典籍古文書、即ち国宝五件(俊成筆の「古来風躰抄」定家筆の「明月記」「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺愚草」)と平安・鎌倉時代の勅撰集、私家集など重要文化財四十数件の有形文化財を有し、件数では千点有余件になる。尚江戸時代初期の10〜12代目は早死にしたので、分家の藤谷家が後見したが、当時盛んになった茶室用に掛軸として典籍類が切られたので、幕府と朝廷が憂慮して典籍の収められている御文庫が勅命により現在の正倉院と同じく勅封されたこともあった。冷泉家を先ず世界で認めてもらおうとパリで展覧会をしたら大盛況であったので、日本でも行おうと「古来風躰抄」を見ていたら身震いがして鳥肌がたった。これは俊成さんが「お前、冷泉家をよろしく頼むぜ」と言われていると、その時以来冷泉家を守るだけでなく、日本文化を守る覚悟が出来たのであった。そして「冷泉家の至宝展」が日本でも全国7箇所で70万を集め、大成功を収めたのであった。

第3節「公家住宅で行われる無形の文化財、年中行事と歌会」
  正月一日は心身を清め正装してお文庫に御参りする。二日には和歌を詠み、書き初めをしてそれを古式にならいお供えし、七日は七草粥、十五日には小豆粥と門松などのとんど焼きを行ったあと、平安装束に身を包んだ門人による公の行事、「歌会始」がある。 春から夏にかけては、二月に節分、三月にはお雛祭りで男雛と女雛の並び方が一般とは逆であるが桃を司る大きな西王母も飾られ、五月は大将人形を飾る端午の節句、六月の夏越(なごし)の祓い、七月には冷泉家にとって歌会始と同じ位重要な「乞巧奠(きっこうでん)」即ち七夕のお祭りがあり、雅楽で始まり暗くなってから歌をお供えし、最後に天の川に見立てた白い布をはさんで男女が歌のやりとりを行う。 俊成が北山の雪を口に含んで往生されたことにちなみ、初雪が降ると俊成の像に雪をお供えすることが習しとなっている。

「閑話休題」
  冷泉家に入ったとき、当家は有形文化財だけでなく、無形文化財も承継していることを忘れるべからずと先代から申し渡された。然し各年中行事のいわれについて尋ねられたときには「昔からそうしているから」と答えざるをえない場合が多々ある。  節分の日に先代が「男の子が豆まきをしてくれる今日は嬉しい日である」との意の歌を詠み、その返歌を求められた。その時はお銚子しか返せなかったが、時雨亭文庫理事長就任の時に「・・・御文庫を千代に八千代になお伝えん」と返歌した思い出がある。  公家住宅の解体修理に7年で5億円、その他明月記60巻の修理の2億5千万円等で10年間で10億円が必要だったが、個人ではとても負担出来ず、その内半分は国庫補助金、約半分は寄付金により賄なってもらった。国庫補助金を皆様の税金から出していただいたことに感謝したい。

「質疑応答」

「質問1」

  和歌と短歌の違いをもう少し詳しく説明して欲しい。叉無形文化財は新暦、旧暦のどちらの日で行うのか?

「回 答」  

  和歌は型の文化であり、題がありその題に沿い自然の花鳥を歌に詠むことが基本となっている。一方短歌は人とは違う自分の気持を歌にしたものであり、その人の思いを表現する日記であり私小説のようなものである。歌会始めでは目出度い正月であるので、たとえ悲しい気持を有していても、正月の題に沿ったものでなくてはならない。和歌には春夏秋冬、恋と憎の歌の部立てがあるが、短歌も季節を重視しており、俳句の季語と同様である。尚諸行事は基本的には旧暦で行うが、正月の諸行事は新暦で行うなど、割合に融通無碍である。


「質問2」

  公家住宅で行っている家業とは何か、叉他の元公家の人達は家業をどうしているのか?

「回 答」  

  家業は年中行事と歌会を守ることが主体となっている。江戸時代の初めに禁中並公家諸法度により、公家は家業に専心せよと言われたことが続いているのである。他の公家はほとんどが現代生活を行っている。


「質問3」  

  冷泉家と東福寺との縁はどうして出来たのか?

「回 答」  

  俊成の娘か姪が、南門の四カ寺の塔頭がある土地を寄進した縁である。東福寺は九条家が後ろ盾にあり、定家も九条家に家司(けいし)として出仕していた関係もある。冷泉家の当主が亡くなった時にはその四カ寺が御参りに来てくれ、俊成の回忌法要は同寺の法堂で行われる。

「質問4」  

  お茶、お花のような家元制度をなぜとらないのか。

「回 答」

  公益財団法人であるので、収益事業の利益により公益性のある事業を行っていかねばならない。家元制度については、上納金が税務問題をクリアできるのかも含め、今後そのノウハウを勉強していくべきと考えている。お金なしでは文化財は守れないことは確かである。


「質問5」  

  伝統の日本の文化を身につけられた当主として、現在日本の欧米一辺倒の考え方についてどう考えているか

「回 答」

  フランスは農業国として文化も大切にし、最先端の技術も発達させておりすごい知恵が働いているが、日本は同国に比べれば劣っているのではないか。然し力は正義であるとの米国の考え方は問題である。中国もあれだけ広い土地を持っているのにチベットやウイグルと戦っているので尖閣問題があっても当たり前である。かように世界で戦争が続く中で、現在の食糧自給率を考えれば、TPPに対して政府が対応していける戦略と器量があるのか心配である。第一次産業に対して補助金を出して来たから、日本は力を落としたのである。




文責

公益社団法人國民會館


  

お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ