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武藤記念講座(講演会事業)

第990回武藤記念講座要旨

2014年6月7日(土)

   慶応義塾学事顧問(元塾長) 鳥居泰彦氏
 「時事新報と日本の問題−福澤諭吉と武藤山治−」 
       六本木「国際文化会館」


セミナー



江戸時代の初期に先祖が幕府から与えられた屋敷のあった六本木の鳥居坂にある国際文化会館で講演される鳥居氏。


第一章「明治維新の政治論争から生れた時事新報」

第1節「国のかたち、政体論をめぐって」
  自由民権運動の流れが深まっていた。福澤諭吉は国会開設にかかる「日本の政体」の在り方について、明治12年8月に「民情一新」と「国会論」を著して、「英国流議会制政党内閣により政権交代を可能とするべし」と主張した。特に「国会論」は郵便制度を利用した「郵便報知新聞」紙上で国会の在り方を展開したものを上梓したものであった。然し薩長藩閥が中枢をなす明治政府は、国論を二分した明治10年の西南戦争後における政情を安定させようとしていたので、官主導により政治を安定させることが先決であるとして、福澤の議会制民主主義論を退けたが、福澤の考えは政府にとっては目の上のたんこぶとなり、それが明治14年の政変に繋がっていったのである。

第2節「明治14年の政変が発刊の引き金に」
  政府内部でも憲法制定論議が高まり君主権が強力なドイツ型憲法か、英国型の議院内閣制の憲法かが争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持するもうひとりの参議大隈重信と、彼のブレーンの福澤門下生を下野させた政変である。それに至る経過は次の通りである。そもそも三参議は福澤に政府公報の「交布日誌」の創刊準備を頼んだが、14年の9月国会論の続編とも言える福澤諭吉の「時事小言」が、それに心酔した大隈重信により明治天皇の東北巡幸時に奉呈された。然し大隈重信は英国流議会制の下で1年以内の国会開設をするべきとの建議書を、右大臣岩倉具視を通さずに左大臣有栖川宮熾仁親王に建議したので、政府内部で大隈批判が高まり、政変の引き金となったところへ、北海道開拓使官有物払下げ事件が暴露され国内の批判が高まり、政府は10月に至って払下げ中止、大隈らの罷免及び1890年(明治23年)の国会開設の勅諭によりこの危機を乗り切った。尚その結果政府公報「交布日誌」の発行は立ち消えとなったが、結果的に時事新報の発行へ引き継がれることとなった。一方下野した大隈重信は早稲田大学の前身である東京専門学校を創設した。ふたりは言論の武器を手にいれて、その後の日本の言論界をリードしていくこととなった。

第3節「自らは何の利も求めず、ただ国家の独立を求めるとの創刊の精神」
  かくして「交布日誌」の発行に代わり「時事新報」の発行となった。そして明治15年3月1日の発兌(はつだ)の趣旨のなかで、福澤は創刊の目的を「我日本国の独立を重んじ、畢生の目的は唯国権の一点に在る」とし、さらに「この世の中に何も利害関係を持ちたくない、自分は自由の身であり、自由勝手に論説したい。それはまつりごとを語り、学事も論じ、工業・商業、道徳と経済も然り、およそ日本の問題万般について、社会の安寧を助けて幸福を進めるべきことは、何でも論じる」と宣し、それから明治34年の2月に亡くなるまで19年間で、6千回の「社説」の始まりとなった。そして翌日の3月2日の社説は「伊藤参議を餞す」と、伊藤の憲法調査の旅に際して「ドイツの律令の死文をみるのではなく、我が国に採用したときにどのような結果を生じるのかよく究明して欲しい」と、決して戦闘的ではないが、静かなる挑戦の餞の言葉を贈ったのであつた。
  「閑話休題」
  福澤の政体論の一番の論敵は伊藤博文であった。伊藤はドイツで調査研究を開始したが、ドイツ語が全く通じず苦闘していた。その頃ヨーロッパにおける政体論の権威者はウィーン大学のシュタイン教授であったが、福澤は伊藤が同教授に教えを乞う前に、上述の「時事小言」を在オーストリア大使館に翻訳させて送りシュタインに読んでもらったのである。シュタインがそれを絶賛した手紙と、福澤の素晴らしい英語力で書かれた礼状が今も現地の図書館に残っている。然ししたたかなシュタインは、そのあと伊藤に英語で直接講義を授け、「英国流の議会制民主主義は、日本ではうまくいかない。その理由は議会で選ばれた議員の意見が多数意見となり、選挙民の大多数の意見は無視される」と教えたので、伊藤は欣喜雀躍「我死ぬところを得たり」と、岩倉具視に書き送っている。これが引き金となり、日本の政治体制は伊藤博文のリーダーシップのもとで作られていくことになるが、福澤諭吉の考えもその後持ち込まれて、双方があいの子状態で日本の政治体制を発展させていったのである。なお国家を運営する人材を養成する帝国大学も、シュタイン教授の勧めで創られることとなった。

第二章「現在と類似する極東の地政学的問題への福澤の筆陣」

第1節「福澤がアジアに恋をした時期」
  この見出しの意味するところはアジアに恋心を持ったのではなく、アジアのことを心配したという意味であるが、上述の通り6千の社説のうち凡そ4千が、始末の悪い大国ロシアと中国に侵略される危険性、そして朝鮮半島におけるロシアと中国の軍事力のバランスが崩れた時の日本への影響等の国際情勢に向けられた。まさにこれは現在にも通じる慧眼であった。特に創刊の年の7月から9月まで福澤は朝鮮問題を集中的に取り上げた。さらに日清戦争の前兆となった様々な出来事を「東洋の波蘭(列強から分割されたポーランドとの掛詞)」と、題して連載したのであった。フランスとベトナムに対する、宗主権を主張する清との間の清仏戦争(1984-85)における清の敗北により、フランスから日本も含む西洋列強による「支那帝国分割の図」が提案されたことも紹介された。然し福澤の矛先は、日本ももっとしっかりしなくてはならないと、のちに三井の総帥となる中上川彦二郎を派遣して、当時の国内輸送の基幹を担うことになる山陽鉄道(JR西日本山陽線の前身)の経営改善にも力を入れた。

第2節「朝鮮改革運動の支援」
  日本に遊学し、慶應義塾に寄食した李王朝開明派の政治家の金玉均が、清朝からの独立を画し、上記の清仏戦争で清の敗北が明らかになった明治17年に、国王高祖の閔妃一族に対するクーデターを日本の支援を受けて起こしたが、清国軍にすぐ鎮圧されて失敗に終った。それに対して福澤は同年に「脱亜論」に続き、社説でも朝鮮に見切りをつけたかのような文章を書いたが、決してそうではなく「朝鮮が独立国となること、即ち中国とロシアから独立して、しかもその独立を独自の力で果たすべきであり、そのためにもう少ししっかりして欲しい」ことを心から願ったのである。金玉均はクーデター失敗後日本に亡命したのちに上海に渡ったが、閔妃の刺客により暗殺された。福澤は、朝鮮にもまともな考えをして、正しい裁きをする人がいるだろうと書いていたが、遺体は朝鮮に運ばれ凌遅刑に処され、バラバラにされた体の各部が朝鮮の各地に晒された。福澤は何とも哀れなその死を悼み、戒名をつけて福澤邸の仏壇に位牌を納め追善法要を営み、本郷の真浄寺に遺髪を納めた墓を作ってねんごろに慰霊を行ったのである。その後さらに大アジア主義者頭山満、犬養毅らの支援で青山墓地にも墓が作られたのである。
  「閑話休題」
   19世紀末のイギリスの女流旅行家イザベラ・バードは、「朝鮮紀行」で、朝鮮は泥棒と泥棒される人の二種類しかいない極貧にして野蛮な国であり、世界で一番不潔な国と記している。一方「日本紀行」には、世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと記されている。

第3節「福澤亡きあとの日韓合邦への進展」
  韓国の人達の反日感情が悪いのは、日本が韓国を植民地化したからであると論ずる新聞があるが、間違いである。植民地ではなく日韓・韓日の併合・合併であり、韓国の新聞でさえ「合邦乃至連邦」という言葉を使っていた。即ち北海道・本州・四国・九州・台湾と、同列の地域と位置付けるものであった。併合には反対していた伊藤博文は、韓国保護条約が締結された翌年の明治39年に初代韓国総監に就任したが、明治42年ハルピン駅頭で民族主義者の安重根により暗殺された。実際に併合がなされたのは翌年の明治43年であったが、伊藤は総監に就任後すぐ学校教育改革のため、寺小屋を小学校とし、三村に一つであった小学校を一村に一校としたのを始め、師範学校令などの、あらたな高等教育制度による学校教育改革を行い、韓国の教育レベルの向上に努めた。従ってピストルで撃たれて絶命までの間に「俺を撃つとは馬鹿な奴だ」と呟いたと言われている。尚日本と韓国との対等合邦を韓国内で進めた政治結社は一進会であった。 一進会は宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも、韓国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により、世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。現代において突然始まった靖国批判と慰安婦批判は、朝日新聞の報道、在米中国ロビーと韓国ロビーの働きによるところが大きく、加えて在韓米軍問題と従北左派思想とが相まって、極東情勢を混沌とさせているが、福澤時代の時事新報の社説ならばどのような論陣を張るであろうか?

  第三章「武藤山治と時事新報の時代」

第1節「恩師福澤諭吉の偉業を継ぐ」
  20年間社主を務めた福澤諭吉逝去30年後の昭和7年に、経営を引継いだ武藤山治は福澤の時代とは違う新しい課題に直面した。第一に国際情勢があらたに緊迫の度を増していた。第二に武藤山治自身もその主役の一人であったが、殖産興業に伴って社会の不安・不正が増大していた。二人の置かれた時代背景は異なるものの、武藤山治は対外的・対内的に、福澤諭吉と同じ「日本国を思う心」を貫いた。

第2節「政治家として」
  「一国の盛衰はその国の政治の良否による」との信念により、行財政改革を掲げるとともに、深刻なデフレ経済下での政府の諸政策に舌鋒鋭く論陣を張り、少数政党としてキャスティングボートを握り、二大政党を牽制して政策の実現に努めた。そしてそのためには国民が腐敗した政治家を選ばないことが大切であり、政治の浄化は選挙権を持つ国民の教育にかかっているとして、普通選挙が始まった頃から進めて来た政治教育をさらに発展させ、主権者たる国民の政治意識の向上を目的として、「國民會館」を設立した。

第3節「言論人として」
  プラトンの「憤激性なき国民は滅ぶ」は彼の信条だった。米国留学後英字新聞ジャパンガゼット社の記者を務めたので、若き日から新聞人の一面を持っていた。時事新報の社長になってからは、帝人株の不正取引による政・官・財の癒着を「番町会を暴く」としてキャンペーンを張ったが、経営を引き受けてから、わずか2年で落ち込んでいた業況を急回復させた矢先に、正義に殉じて非業の死を遂げた。その死は座右の銘「行い正しければ眠り平らかなり」の通りだった。経済人から政治家へ、そして政治家から言論人へと、つねに先見性を以って日本の近代化をリードして駆け抜けた67年の生涯だった。
「参考」カネボウの津田信吾社長の弔辞の一節より
  時事新報の経営を託せられるや、恩師福澤先生の偉業を守るため躯を提(ひっさ)げ、敢然として破邪顕正の筆陣を張り、警世の金言は日々の紙上を飾り、新生面を開拓しつつ、一意報国の至誠を尽くして余念なかりき。

「質疑応答」
「質問1」

  一部の新聞が韓国を植民地化したと論じたのは間違いだったと先生は言われたが、日韓議員連盟は韓国との会合で、日本は韓国を植民地にしたと謝っている。政府の外交もこのような考えで貫かれているが、どういう風に是正していけばよいのか?

「回 答」  

  大きな悩みである。一言で言えば、日本を本当に理解している世代がぽつりぽつりと亡くなっているが、残された人達と親交を深めてつなぎとめることが大切である。それが日韓議連の本来の仕事であるべきだ。然し高齢化が進んでいるので事は急ぐべきだ。

「質問2」

  これからの世界史は日米中の関係がどうなるかで決まるとは、小泉政権末期のライシャワー研究所の所長談であるが、現在はまさに明治維新と同じ状況になっている。従ってまず中国と韓国の関係を改善するべきである。そうしなければ平和国家日本がODA(政府開発援助)で世界一の貢献をしているのに、中国と韓国の反対で常任理事国になれないのではないか、どのようにすればよいのか。

「回 答」  

  福澤先生の時代から中国の領土拡張は続いており、その時代よりもっとひどくなっている。又それ以上にロシアの南進意欲は今も一貫して強い。然し今の日本政府にはそれらに対抗できる力はないのではないか。おまけに日米同盟がゆらいでいるのに、日本の英語での発信力が余りにも弱すぎる。従って次の大統領になれるような人達をターゲットに英語で論戦をいどみ、彼らを説得できる人が現れねばならない。




文責

公益社団法人國民會館


  

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