ホーム > 武藤記念講座(講演会事業) >平成24年度文化勲章受章者 京都大学名誉教授 奈良先端科学技術大学院大学元学長名誉教授  山田康之氏 「日本人と独立自主」  

武藤記念講座(講演会事業)

第994回武藤記念講座要旨

2014年9月20日(土)

  平成24年度文化勲章受章者
  京都大学名誉教授
  奈良先端科学技術大学院大学元学長名誉教授    山田康之氏
 「日本人と独立自主」 
       大阪「武藤記念ホール」


セミナー



國民會館の「設立趣意書」をこのホールに掲げるべきと、本文の通り、武藤山治の独立自主の精神を熱く語る
山田康之先生。


はじめに

日本人とは何か。日本人は温厚であり、非常に忍耐強く、かつ知識欲の強い民族である。しかしながら、その反面、古代から独立自主の精神に乏しい。どうしてそのような民族性が生まれたのか。

第一章「古代から近世までの「独立自主」の精神の歩み 」

第1節「日本人の民族性誕生のルーツ」
   (1)「日本列島の形成と原始日本人」
  日本列島の「現生人類」の遺跡は、後期旧石器時代の約3万8000年前に遡る。当時、日本列島は北海道がサハリン(樺太)や千島列島と陸橋でつながる半島として、本州と九州と四国からなる「古本州島」、および「古琉球列島」の2領域から構成されていた。旧石器時代に日本に移住してきた集団は、沖縄に渡ったグループ、朝鮮半島から古本州島に入ったグループ、最終氷河期の2万年ほど前にマンモスなどと共にシベリアから陸続きを通り南下したグループの三つであった。然し沖縄島の2万年前の港川人(みなとがわじん)と縄文人の人骨形態が大変違う事実が判明した。更にこの先住民やアイヌの人たちは縄文時代には見られないミトコンドリアの遺伝子を持っており、縄文時代に大きな遺伝的変動が起こったことが予想される。ミトコンドリアのDNAの系統からは、日本人はむしろイヌイット、グアラニ(南米のパラグアイ、ウルグアイのインディオ)に最も近く、そして中国、インドに近い系統である。
   (2)「東アジア各地からの渡来人が、争いを超えて協調した古代社会」
  一万年から2千年前の石器文化の縄文時代から移行した、紀元前3百年から紀元3百年の鉄器文化の弥生時代には、30余りの国の大王に統治された色々な国が2〜3世紀に邪馬台国の卑弥呼により統一された史実が中国の魏志倭人伝に記載されている。然し現在の国としての形には程遠く、いろいろな国同士の争いが有ったことが判明している。然し縄文人、弥生人、またアイヌ民族のところに、中国・朝鮮、東南アジア圏からいろいろな民族が移り住んで来たことから、お互いに忍耐強く、協調して生活せざるを得なかったのは、この国は山地が多く又平地が少ないので食料の生産をはじめ、相互協力をする以外、生きて行く道はなかったのであろう。又、大陸との地続きであったが島国となったために他民族の襲来を受けることも少なくなり、外敵には独立自主の精神の必要がなくなった。かくして農耕・漁労を主体とする質素な生活ながら、温厚で忍耐強い民族性が培われていったと思われる。
   (3)「異質の文化を積極的に取り入れた進取の気質」
  聖徳太子の十七条憲法の第一条は「和を以て、貴しとなす。」から始まる。即ち「和を何よりも大切なものとし、協調、親睦の気持ちをもって議論すれば、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものであるので、いさかいを起さぬことを根本としなさい。」と述べ、各人の独立自主的な生き方より協調的な生き方を示したのである。一方大化の改新に前後して隋・唐に使節を送り、大陸の文化を取り入れて知識欲の充実に努力した。日本民族は他文化を排除するより、異質の文化を積極的に取り入れることにより、それらを自分の文化として咀嚼し発展させる進取の気性を有していたのである。温和な性質を主体とする民族は、ともすれば自らの集団に閉鎖的にこもりがちであるが、日本民族は温和な性質を有しながら、開放的であり、積極的に多様な文化との接触に努めた知的特異性を有し、優れた先進的な考えを実践に移す行動派でもあった。

第2節「貴族政治、武家政治下において抑圧された「独立自主」の精神」
   (1)「為政者との生活レベルの格差に耐えた庶民」
  この温厚な民族の中にも時々大きな社会改革に向かっての争いが見られた。7世紀半ばに蘇我氏の政権の専横に対して中大兄皇子と藤原鎌足が律令制導入のために蘇我入鹿を暗殺し、政治の主導権を握った大化の改新は、上部の支配者の権力闘争であり、庶民は為政者の社会変革に、ただ従ってゆくだけであった。その後も、12世紀半ばの保元の乱・平治の乱などの上流貴族の権力闘争、さらに15世紀半ばの応仁の乱により武家の権力抗争の戦国時代へと移る。これらの貴族政治と武家政治においては、権力を持つ為政者と温和な庶民の間で生活レベルに大きな格差が生じたが、為政者は庶民の生活の困難などに目もくれず、権力闘争に明け暮れ、一番の被害者は一般庶民だった。
   (2)「他力本願の宗教に救いを求めた庶民」
  弱者である温和な庶民にとって、その苦難の逃げ道は宗教であり、終末的な末法思想が広がり、精神的には仏教思想に逃避した。庶民生活は極限まで疲弊し、餓死者が多く出た時代を背景に、浄土宗・浄土真宗などが勃興、念仏を唱え、現世で得られない幸せを来世に求めた。無論、一部の武士階級においては、独立自主的な考えに基づく禅宗があったが、一般庶民は他力本願に走った。これらの事象は一部の権力志向の為政者は別として、日本民族が温厚な内省的な性質を持つ反面、庶民は為政者の国家権力に弱く、ただ自己の周りに幸せがあれば、それに安住したところによるものであった。
   (3)「為政者により庶民の独立自主の芽が摘まれた江戸時代」
  16世紀の織田信長、豊臣秀吉の戦国時代に続き、17世紀に徳川家康が開いた260年の幕藩体制は、大名はじめ庶民にわたり幕府に従属のための治世であった。江戸幕府はとにかく為政者に反抗できない制度をつくりあげた。即ち大名に対しては城を作ることを制限し、参勤交代で人質と多額の出費を強要した。さらに庶民に対しては豊臣秀吉が始めたとされる五人組制度を庶民の間に確立して、相互の監視をさせた。即ち五軒の農家で一組になり、犯罪者の密告、米による納税の履行、キリスト教の信仰禁止など、政府に反対者の出ないこと、並びに幕府政策に服従強化のための組織制度であった。
  このような為政者の行為に対して庶民の独立自主の精神の芽は完全に摘まれたのである。かくして江戸幕府の治世は日本を非常に孤立した閉鎖的社会へと変革した。その最たるものは鎖国政治であり、諸外国との知的交流も完全に遮断された。一方比較的平穏な庶民生活が到来し、国内的には幕藩体制は成功したと言える。
  然し人間というものは、あまりにも変化がなく平穏であると逆に変革を望む性質を持つものである。丁度その時、欧米諸外国が我が国に開港の要求をしてきた。織田信長、豊臣秀吉の時代にはスペイン、ポルトガルのカトリック神父を受け入れており、海外の動向も多少理解していたが、其の後の鎖国政策により海外の動向は全く理解出来なくなってしまった。然し江戸幕府末期には英国から始まった産業革命により、封建制度から近代社会に変革したロシア・米国など欧米列強が、武力による交易開港を要求してきた。当時我が国が多くの文化を学んできたアジアの大国清国は、アヘン戦争などによりこれら欧米列強によって植民地化されており、日本はこれらの列強に対して、いかに立ち向かって植民地化を防ぐかの国運をかけた決断を必要とした。

第3節「江戸末期に芽生えた下級武士と庶民による「独立自主」の精神 」
   (1)「ヨーロッパと同時発生的な独立自主の芽生え」
  世界的には、18世紀末にはイギリスの植民地であった米国が、ボストン茶会事件をきっかけにイギリスから独立 、平民が貴族社会との格差を打破するフランス革命、19世紀初めにはメキシコがスペインから独立し、所謂人間としての自主独立の権利と自由の精神から、大国の搾取から独立する自主独立運動が盛んとなった。世の中の多くの事象は、歴史的にも同時に起こることが多い。自然科学の世界においても、すばらしい発見は全く関係のない国の研究所で同時的に起こることがある。我が国の江戸時代にも、種々な出来事から庶民の間に独立自尊の精神の萌芽が見られたのである。
   (2)「大飢饉が独立自主の精神の萌芽に」
  江戸時代に享保、天明、天保の三大飢饉があり、特に18世紀末の天明の冷害・干ばつによる大飢饉は、7年間の長期にわたり、打ち壊しが起こり人肉まで食したという話がある。当時の日本の人口は三千万人であり、その内餓死と疫病の死者は90万人に及び、30人に一人が死ぬと言う惨状となったので、老中松平定信は幕政改革に取り組み、庶民に主権を与え、農村自治を実施する事に努め、庶民の地位向上を図った。もうひとつの良い例は、津山藩の代官となった早川八郎左衛門正紀(まさとし)である。彼は3つの政策を掲げた。一つは心の再興、即ち庶民教育の振興であり、二つ目は産業の再興、即ち銅山の再興と養蚕などの振興であり、三つ目は税制の変更、即ち収穫量による税決定で、税負担を軽減した。すなわち、この名代官のめざすところは庶民の独立自主による主権、自治の拡大であった。ここに庶民の自覚からの自主独立の精神の芽生えが見られたのである。
   (3)「国難に自己犠牲により社会的正義に殉じた若き志士達」
  尊王攘夷に対して、列強に対する開国派の論争が高まり、我が国を二分する結果となった。然し無力化した幕府に対して大きく力を持ち国運を切り拓いたのは、当時の為政者ではなく、下級武士ならびに庶民からの卓見を持った若者であったことは、我が国の歴史上特記すべき事実である。1500年に及び温厚であった我が国の下級武士、庶民が、国難に対して、初めて国政に関与する行動を起こしたのである。
  「吉田松陰、坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞、西郷隆盛、大久保利通」、彼らは立派な志を持って日本のために立ち上がったが、「全員が社会的正義に殉じた」のであった。これは温和な民族性と勤勉な忍耐力のある性質を持つ庶民が、立つべき時には命を懸けて立ち上がる社会的正義感の一面を示し、正に独立自主の精神が脈々として流れていたのである。
  又福井藩士であった橋本左内が15歳の時に著した「啓発録」は自己規範、自己鞭撻の書で、その第一に「稚心を去る」と述べている。これは正しく独立自主の精神である。彼は25歳の時適塾で医学を学び、水戸藩の藤田東湖や薩摩藩の西郷隆盛と交流し、松平春嶽の側近として活躍したが、安政の大獄により斬首された。

第二章「明治維新に開化した「独立自主」の精神 」

第1節「「独立自主」の精神が、日本を「自主独立国家」へ 」
   (1)「植民地化されず保てた独立国としての矜持」
  尊王攘夷と開国の相対する考えは、非常に入り乱れたが、我国は植民地にならずに列強と対峙する自主独立の国家となれたのである。無論、当時の我国としては列強と平等に相対するだけの国としての体制は出来ておらず、不平等条約など結ばざるを得なかったが、独立国としての矜持を保つことが出来たのである。欧州でも、1861年イタリア王国が樹立され、ドイツでも一つのドイツを求める学生や市民の運動が起こり、プロイセン国王ウィルヘルム1世が1870年、フランスとの普仏戦争に勝利し、翌年ドイツ帝国が成立した。
   (2)「立憲主義で近代国家へ成長」
  1868年、明治維新とよばれる大化の改新以来の国家の大改革がなされ、江戸幕府は滅亡し、明治政府が成立、近代的な官僚機構を擁する直接的君主制に移行した。さらに日本民族の他文化を容易に受入れる気質が発揮され、岩倉使節団が結成され、欧米列強に「岩倉具視、伊藤博文、木戸孝允、大久保利通」ら進取の気性に富んだ若者が派遣された。これにより、産業革命による近代文明の姿を充分に学び、帰国後、帝国憲法、帝国議会などを創設し、また学術教育を振興して我国近代国家の基礎が確立された。初代総理伊藤博文は、立憲政治の意義が君権の制限と民権の保護にあることを強調し、日本の近代化、とりわけ立憲政治を定着させた。かくして、我が国は初めて全国民が平等の権利を有し義務を負う人間主体の独立国家に成長して行ったのである。このことは日本が倭の国として成立以来、為政者と庶民の間に非常に大きな格差があり、庶民は非常に貧しい生活を続けざるを得なかった状態を打ち破った画期的なことである。
   (3)「庶民の学術教育のために大学と学士院が創設される」
  過去には、為政者が公家、武士の統領であっても、一般庶民はただ只管、労務に努めるのみで、むしろ学問など不必要とされていた。然し独立自主のためには、庶民の学術教育が重視されるべきであるとして、東京帝国大学はじめ旧帝国大学が創立され、慶応義塾大学、早稲田大学などが続いて開学したのである。これらの高等教育を受ける者は、優秀であればいかなる階層の人間であっても学ぶ道が開かれた。又、1879年には東京学士会院(現・日本学士院)が創立され、初代の院長に福澤諭吉が就任した。

第2節「福沢諭吉の「独立自尊」の精神 」
  福澤諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の信念の許に、人権の平等、また学問の意義を広く述べた「学問のすすめ」を著し、広く庶民を啓蒙した。福澤の理念は、まず学ぶべきは普通の生活に役立つ実学であるとし、さらに彼は「真の自由とは何か?」「独立自尊」の重要さを説いた。
  福澤諭吉は1860年、咸臨丸の艦長の従者として、アメリカへ渡り、中濱万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとし、広く独立自尊と自由の精神を充分に会得し、彼の独立自尊の精神は益々格調の高いものとなった。又、1862年には、ロンドン万国博覧会を視察し、蒸気機関車・電気機器・植字機などの近代文明に触れ、我国が将来発展するためにはこのような科学技術が必要であることを知り、自分の門下生に教えた。
  ほとんど同じ時期、米国においては南北戦争が戦われ、その終結の2年前にリンカーン大統領が「米国立科学アカデミー」を創立(1863年)している。米国においても黒人奴隷の解放が叫ばれ、人間の平等性を獲得するために国が二分され、多くの犠牲を払いつつ、人間としての自主独立の獲得に挑戦した。1863年に南北戦争の激戦地ゲティスバーグの戦没者国立墓地の開所式でリンカーンは「人民の、人民による、人民のための政治」という民主主義の基本理念に関する演説をしたが、日本とアメリカに同時期に人間としての平等と自由の基本理念が述べられたことは、大変重要な事実である。

第3節「武藤山治の「独立自主」の精神 」
   (1)「國民會館設立趣意書に著された民主主義の基本原理」
  福澤諭吉には多くの立派な門弟が出たが、そのうちの一人が武藤山治であり、慶応義塾で学んだ「人格的教養」は武藤山治の生涯を貫いている。武藤山治は、所謂アメリカ開拓史における「開拓者精神」を強く持ち、人間として全て平等の権利と責任ある自由を有する独立自尊の精神で自己の生涯を貫いたのみならず、それを広く人々に説き、自分が設立した企業においても女工に対しても出来る限りの「家族主義」の採用を行い、労務管理でも成功した。さらに、武藤山治は明治維新の改革がむしろ絶対主義的改革に終わったことに対して自由主義、民主主義を標榜し、政治改革に乗り出している。その代表的な言葉は、この國民會館の設立趣意書によく表されており、改めてここに読み直してみる。
   (2)「國民會館設立趣意書原文」
  我が国の立憲政治は、時代の推移と共に形式的進歩の著しきものあるに反し、国民の智的進歩に至りては、遅々として之に伴はず、政界の腐敗、政党不信の声を聞く所以なり。而して是れ、実に政治家竝に一般国民の政治的無自覚と政治道徳の欠如とに依る所にして、之を救ふは政府又は政治家の任と云ふよりも寧ろ国民の自発的に行ふ可き急務なりと信ぜらる。然るに世上、その必要を叫ぶ声のみ徒らに高くして、然も其の実行に至りては、未だ曙光すら発見する能はざるは何ぞや。事の難きにあらざるなり、人の之を行はざるなり。即ち政治教育の殿堂として國民會館を設立するの趣意は、畢竟国民をして自ら政治教育運動に携はらしむるの端緒を作り、以て我が国立憲政治百年の大計を樹立せんが為め敢て実行の第一歩を成さんとするに外ならざる所以を茲に明にするものなり。昭和七年拾月壱日 武藤山治
   (3)「山治も自己犠牲による社会的正義を貫いた烈士であった」
  昭和7年は、私が生まれた翌年である。日本が帝国主義国家として歩み出した当時、このような強い自己の信念の基に、世に自覚を求め、国民の自発的な実行を促し、さらに自分からその実行をされた武藤山治氏の人格に触れ、強い感動を受ける。彼が國民會館を設立した趣意は、畢竟国民をして自ら政治教育運動に関与する端緒を作り、以て我が国の立憲政治百年の大計を樹立するために、敢て実行の第一歩を踏み出す理由を明らかにすると述べ、自ら範を世に示したことは、非凡な自己犠牲による社会的正義感そのものであると強い感銘を受けた。この國民會館に於ける私の講演会が994回になると聞き、その後継者の武藤治太氏が武藤山治氏の精神を長年に及んで継承された努力に対して絶大なる敬意を表する。

第三章「「独立自主」の精神を高める三つの価値観、〜私の人生経験から学んだもの」

第1節「世の為、人の為に尽くす「天命と時の運命」」
  人間として生きてゆく中で、私達各人に天命と時の運命というものがある。天命は個人では択ぶことが出来ないが、自分のおかれている時の運命の中で何をすべきかが考えられねばならない。明治維新という大きな時代改革は「吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬、西郷隆盛」達により始まり、我国の近代化の明治維新における基礎を築き上げたが、彼らは大きな功績を残しつつ非業の最期を遂げることとなった。一方、維新の基礎が出来た後、改革を継続し、発展に貢献したのは「伊藤博文、三条実美、大久保利通、勝海舟、福澤諭吉」達である。これらの両者は時代の流れの天命の中でそれぞれの運命を遂行して役割を果たしたのである。
  そして今、日本の変革期において、その改革のためには国民全てが自分自身の子孫のために誠心誠意努力する事が必要である。残念ながら現在の政治家は、明治維新の政治家のように自己を顧みず国のために尽くした政治家と異なり、派閥的な自己中心主義になり、国のために殉ずる気持が大変薄いように感じる。
  然し、彼らを選んだのは我々国民であり、我々は現在の時の運命に真正面から取り組み、良く学び、世のため人のために尽くす人材を択ぶことが、現在の日本人に必須である。このことはまさに武藤山治の國民會館の創立の趣旨と実行の精神である。

第2節「信じ合い切磋琢磨できる「人間関係の絆」」
  次に、良き友を持つという事である。良き友とは、年齢、男女、貧富、地位などに関係はなく、お互いに心から信じ合える人間関係を意味する。人々は自分で色々な事を成し遂げてきたと思いがちであるが、よく考えて見ると、その過程においてどれほど他の方々に助けてもらったかは解らない。昔から切磋琢磨という言葉があるがお互いに助け合って人格育成に努める事である。多くの偉大な事を達成した歴史上の人物を見ると、そこには必ず信じ合う友が見出される。
  明治維新の大業を成した西郷隆盛と大久保利通においても、そのことが読み取れる。鹿児島県加治屋町の下級武士の小さな地域から西郷、大久保、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛らが生まれた。そこには人間関係の絆の重要さが見られる。特に申し上げたいのは西郷隆盛と大久保利通である。二人は共に励み、明治維新の大業を成し遂げた。西郷は江戸の町を大火から救い、このことが当時の外国からの侵入を食い止めることになる。その後、西郷は陸軍大将になり政府の要職についたが、朝鮮との国交問題で政府の文官としての要職にあった大久保利通と相対した。
  そして野に下り、鹿児島に帰ったが、西郷を慕う若い青年が彼を祭り上げ、西南戦争が起こり朝敵となり、ここで大久保と西郷は敵同士の関係になった。最後、城山で西郷が自刃したことを一番悲しんだのは勝者大久保利通であり、それを知って彼は大声で泣いたそうであり、これが人間としての絆である。お互いに信じていても運命と言うものがあり、それの中で敵対関係になりながらも、その人間としての絆は切れなかったのである。

第3節「自己犠牲に基づく「社会的使命感」」
  最後に人間としての社会的使命感についてお話したい。人間は自分一人で生きる事は出来なく、人間社会から恩恵を常に受けている。それはある場合には人間としての絆になり、また相互扶助になると考えられる。江戸時代には幕府が庶民をまとめるために五人組という隣組組織で、相互扶助と異端者を密告する制度を作ったが、これでは為政者の思いのままになり、相互扶助の精神に反するものである。しかも、日本はこれから人口の半分近くが高齢者の社会となるが、高齢者はあくまで弱者である。然しこれからの日本はこれらの高齢者も出来るだけ社会に貢献し、また若い人は高齢者を出来る限り支え、日本社会を支えて行かなければならない。
  このことは、この時代に生まれ合わせた天命である。そこで大切なことは、日本人が自己犠牲に基づく社会的正義感を強く持ち、震災を受けた人を助け、病弱者を保護し、崩れつつある地方都市社会を永続させることである。日本人は元来、ここで述べて来たように、非常に勤勉な忍耐強い民族である。太平洋戦争で多くの立派な若人を失ったが、今日の私たちの平和な生活は、これらの若人の国を思う志の犠牲の上に築かれてきたものであり、今こそ、私達も次世代のために尽くすべきことを熟慮し、行動に移して行かねばならない。
  敗戦後69年も平穏な時代を経ると、当時の戦争の熾烈さ、並びに過酷な状況を知る者も減り、物質文明の自己中心主義に変化している。政治家も自己の政党ならびに派閥での自分の利益を主にしがちとなり、明治維新の当時のように、己の命をささげて国のために働くような気概は薄くなっている。これでは日本社会が衰退していき、若い次の世代の方に申し訳ない気持ちであり、再度自分のできる限りの社会へのお返しに努力する次第である。今、日本に一番欠けていることは、各人がそれぞれ出来る範囲での「自己犠牲に基づく社会的正義感」を失いつつあることである。

「最後に」
  私は「植物細胞分子生物学」を専門としてきた自然科学者であり、本日の本題については専門外である。武藤治太会長のお誘いで自分なりに福澤諭吉先生については「学問のすすめ」小泉信三著「福沢諭吉」などを読み直し、武藤山治氏については有竹修二(ありたけしゅうじ)、入交好脩(いりまじりよりなが)、武藤治太、各氏の著書などを読ませて頂き、また引用させて頂いた。また日本人の起源については国立科学博物館発行のミルシル第7巻4号の「最初の日本人を考える」を参照引用させて頂いた事に対し、感謝する。最後に私の愛唱の詩をご披露して終わりとしたい。

      老麒伏歴  老いた名馬は馬屋に伏しても
      志在千里  志は千里を駆ける事にある。
      烈士暮年  烈士は年老いても
      壮心不已  励む心を失わない。
                        『歩出夏門行』(曹操孟徳)より


文責

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