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武藤記念講座(講演会事業)

第999回武藤記念講座要旨

2015年2月8日(日)
於大阪「武藤記念ホール」
佐賀大学経済学部教授  山本長次氏
「武藤山治とブラジル」 

セミナー


大学の教室に比べ、こんなに沢山の会場で話すのは初めてと、古きよき日本人の心が残っていたというブラジルの学術調査の成果を語る山本教授


はじめに

武藤山治の革新や創造の源泉は、福澤諭吉に直接学んだ、自由主義であった。彼は経済人としては、政府の関与をなくし、民間で出来ることは民間でなすべきとする「経済的自由主義者」であり、経営者としては「独立自尊の経営者」、人を大切にする「日本的経営の祖」であった。政治家になっては、省庁の再編などの行政改革、出来るだけ税金を抑えるべしとの財政改革、そして国有企業の民営化など、政府・行政の規模・権限を、可能な限り小さくしようとする「小さな政府」を主張した。かつ「政界革新」のための政党、実業同志会(のちに改称して国民同志会)を主導した。これらの彼の信条は本日のテーマであるブラジル移住事業においても、遺憾なく発揮されたのである。
  (注釈) 今回の舞台、ブラジルの国名は染料に使われる赤い木の意味の樹木、パウ・ブラジルに由来する。人口・面積とも世界5位の大国、BRICSの一国であり、資源国である。1500年ポルトガルにより発見されポルトガル領となり1822年独立。1895年日本と国交樹立、1908年には日本人移民開始。ブラジルへは、現在まで累計で13万人が移住し、今や世界最大の日系人160万人の居住地となっているが、日本人・日系人に対する信用や評価は高い。

第一章「「企業の社会貢献」でもあったブラジルへの「移住事業」」

第1節「若き日の提言を自ら実行」
  武藤山治は、米国パシフィック大学に留学して帰国後の1887年、20歳にして「米国移住論」を世に問い、海外で農業を営むには評判を落とす出稼ぎでなく、移住するべきであり、その為の組織的事業を行うための移住会社の設立を提言したが、当時は受け入れられなかった。それから40年余りののち、鐘紡社長にして同時に国会議員となった彼は、移住会社「南米拓殖株式会社」を創設し、1929年に、折しも世界的不況と昭和恐慌の中で、以下に述べるように、若き日の提言を自ら実行したのであった。
  (注釈)日本の人口は明治初期の3千万人強から、大正始め5千万人、昭和初めには6千万人と年間100万人のペースで急増した。政府は工業政策を鋭意進めたが、いまだ農業が主力産業であったので、国民一人当たりの所得は低く、又食料事情からも、移民政策を進めて来た。ブラジルへも、すでに1908年から移民が行われていたが、南伯のコーヒー栽培農業に従事するサンパウロ州が中心であり、かつ「移住」でなく土地を持たない出稼ぎの「移民」が主体であった。然し、山治は北伯のアマゾン河流域に初めて、土地を所有させる定住移民を実行したのであった。

第2節「移住事業への強い使命感」
  始まりは、1923年だった。アマゾン河口のパラー州の知事から、首都リオの日本大使館を通じて、日本人入植の便宜を図る用意があるとの話が、外務省にもたらされた。外務省は調査に入ったが、近代日本を代表するトップ企業であった鐘紡が調査に協力し、1926年1月の鐘紡の株主総会で調査費8万円(物価2000倍として現在価値1億6千万円、5000倍ならば4億円)の寄付が決議された。そこで取締役東京支店長の福原八郎を団長とする調査団が派遣され、ほぼ1年間の調査報告が、1927年幣原外務大臣に提出された。1928年総理大臣兼外務大臣の田中義一が、日本を代表する東西の実業家60人を集めて、協力を呼びかけ、渋沢栄一の挨拶ののち、「準備委員」として、三井の団琢磨をはじめ、三菱、住友、安田財閥等の代表及び野村徳七ら12名が指名されたのち、「設立趣意書」の20人の発起人総代として、武藤山治が選ばれた。かくして国家的事業となったが、政府は財政援助を与えないことが決定されたことは、武藤の望むところであったであろう。

第3節「事業と資本と経営陣」
  (1)事業の大要は、パラー州より無償提供された土地100万ヘクタールの内半分の50万ヘクタールを、開墾見込地とするスケールの大きいものであった(現在の日本の総耕地面積は500万へタールに満たない)。そして3割の15万ヘクタールは会社直営地として、いわゆる分益法(収穫物の3割が会社、7割が農家の所得) により経営し、残り35万ヘクタールを分譲するものであった。尚一戸当たりでは25ヘクタール、住居無料貸付、渡航費は政府補助であった。又鐘紡の本体事業の関連では原綿の供給地としても関心があった。
   (2)資本金は第1回に250万円(物価2000倍として現在価値で50億円、5000倍として125億円)が払い込まれ、第二回に100万円が払い込まれた。一回目の株式引受は総株数20万株のうち、発起人に2万株(20人×1000株) 、縁故募集と一般募集に17万株(内鐘紡5万株、鐘紡役員1万4千株)、公募募集にはT万株が割当られた 。結局のところ20万株に対して55万株の申込みがあったことになり、武藤山治は発起人として1000株を引受けた(12.5円で12500円、物価2千倍として現在価値2500万円、5000倍として6250万円)。
  (3)1928年8月創立総会が開かれ、本店所在地を鐘紡本社と同じ場所に置き、取締役社長に上述の福原八郎が就任した。然し武藤山治は鐘紡に携わる専門経営者として、一人一業を貫き役員を兼任しなかった(鐘紡引退後相談役になった)。総会後の帝国ホテルでの壮行会で、福原は5年以内に成功させると抱負を述べたが、山治は「大事業のため5年や10年で成功するとは思えず20年先を期待する」と語ったが、後述するように、彼の長期的見通しが、的中するところとなった。

第二章「アグロ・フォレストリー(森林農業)への道のり」

第1節「鐘紡主義を踏襲して、理想的農村目指す」
  日本側での南米拓殖株式会社に対し、現地会社としてコンパニア・ニッポニカ・デ・プランタソン・ド・ブラジル(ブラジル農耕日本会社)が設立された。提供された100万ヘクタール(アカラ地区)は、移住民が到着する前に、現地会社が「道路と住宅」、「病院と学校」、そして「農業支援施設(種苗園、鉄工所)及び集会所」の建設を行った。その建設は武藤イズムである「鐘紡主義」が具現化され、堅実な漸進主義により行われた。即ち、道路と住宅のインフラ整備、次に衛生上の不安がないように衛生設備と病院(当時としては画期的な男女別々の病棟が建設された)を重視し、さらに生活の安定を図るために生産物の加工販売と日用品の分配と共済組合制度を充実させた。そして植民子女の教育にも注意が払われたのである。

第2節「移住の開始、武藤の死去、そして苦難の連続の季節に」
  189名39家族の第一回移住者は神戸を発って2か月で、1929年9月にパラー州の首都ベレンから115km離れたトメアスに到着した。以降1937年まで352家族2104名が入植した。然し、コーヒーは同地では育たず、1933年には、期待して注力してきたカカオ栽培にも失敗し、その挽回策としての鉱物資源開発にも失敗する結果となり、南拓の経営自体も合理化を迫られるところとなった。福原社長は責任を負い1935年には辞任し、その前の1934年には武藤山治も非業の死を遂げた。さらにその後3〜4年間は悪性のマラリアが猛威を振るい、退耕者が続出して「退耕シーズン」と言われ、1935年から1942年までに、78%に当たる276家族1603名が、トメアスを去った。さらに第二次世界大戦において、ブラジルは1942年1月に対日国交断絶を宣告し、翌年には枢軸国の現地会社に対する清算法令も公布されて、コンパニア・ニッポニカ社は接収され、アカラ植民地は北部ブラジルの枢軸国の軟禁地区となった。然しこの時点の開拓面積は、開拓予定の6割近くに達しており、道路と建物の敷地を除いた約2500ヘクタールが会社所有の農耕地であった。

第3節「胡椒、アグロ・フォレストリーで 武藤の遠大な構想が実現」
  (1)前述の壮行会での武藤山治の予言通り、丁度第二次世界大戦終了後に胡椒(ピメンタ)ブームが到来したのであった。然しカカオもそうであったが、胡椒もやがて病虫害等により1960年には壊滅的被害を受けることとなった。尚、胡椒ブームに乗れた胡椒の苗は、南拓の社員臼井牧之助が、シンガポールで購入してブラジルに持ち込んだものであり、トメアスの土壌にあい、ブラジルの在来種に比べて収穫量が大きいものであった。(尚臼井氏は女優小山明子氏の父君である。)
  (2)以上のモノカルチャー(単一栽培)の反省に基づき、現在、クプアス、アセロラ、アサイーなどのトロピカルフルーツ(注釈)を栽培して、トメアスは、自然との調和や環境保全を目的とした、樹木を植栽し、樹間で家畜・農作物を飼育・栽培するアグロ・フォレストリー(森林農業)で再び見事な復活を遂げて、世界的に注目されている。即ち牧場化やプランテーションにより森林が破壊され、アマゾンでは、全体の17%の森林が破壊された。然し自然の多様性を取り込み、森を再生するアグロ・フォレストリーは、環境への負荷が少ないのみならず、生産性も高く25ヘクタールの耕地で、1000ヘクタールを超える牧場の農業収入に匹敵すると言う。
  注釈「クプアス」は、アマゾン原産のカカオと同種だが、チョコレートアレルギーがない高級健康食品、「アセロラ」はサクランボに似た果実、ビタミンCを豊富に含み、清涼飲料水、ジャム、ゼリーなどに加工される。「アサイー」はアマゾン原産のヤシ科の植物、その実は非常に栄養価が高く果実で100グラム中に含まれるポリフェノールは約4.5グラムで、ココアの4.5倍、ブルーベリーの約18倍ともいわれている。
  (3)又その牧場の雇用が2〜3名であるのに対し、25ヘクタールのアグロ・フォレストリーを営む耕地では、10〜20名の雇用を創出すると試算されている。なおこの森林農業の発想の原点は、永続性のある日本の里山農業とブラジル原住民の在来農業にある。以上南拓の事業は、第二次世界大戦をはさみ、経営的には断絶したが、国策の要素が低かったため、トメアスにおける日系社会及び彼らによる農業は連続性を保ったのである。
  「閑話休題」
  人口6万人となったトメアスの、日本人移民資料館に併設されている文化農業振興協会の講堂には、武藤の筆になる「忍耐」と書かれた額が飾られているが、まさに同地の歴史を象徴するものであり、最初の入植以来困難と闘って来た関係者を鼓舞して来たと思われる。

第三章「ブラジル移住事業を貫いた武藤山治の高い見識(総括)」
  1)特別拓務省(移民省)の設置は、大臣、政務次官、参与官のために国費を浪費するのみであり、移民事業は、移住者とともに民間資本が行うべきもので、政府の補助金は、渡航費等移住者自身へ向けられるべきであるとして、あくまで自己責任を貫いた。
  2)移民先として対比される満州国について、大陸一辺倒でなく危険分散するべきであり、又国際連盟との関係に世情の注意が向かう中、明治維新の際に攘夷から開国に転じたがごとく、日本を愛し将来を思うのであれば、孤立ではなく開放の道をとり、富源の開発のためには、おおいに外国人の招聘及び外国資本の誘致につとめるべきとした。このような武藤の意見は、冒頭に述べた彼の経済的自由主義思想から出たものであったが、政治に翻弄されかねない、国策会社の経営の危うさも見ていたのである。
  3)彼の考えは国際関係にかかわる事業においても、経営と政治を分け、移民事業や開発事業も民間主体で行っていくべきとする、平和主義に基づくものであった。武藤は自叙伝「私の身の上話」で「もし米国移住論執筆の通りに、私の考えが行われていたならば、日本移住民は、米国南部諸州において広大なる土地を所有して、その勢力は牢固となり、その後日米国交上で絶えず問題となった排日運動は、起こらなかったのではないかと」述べている。


「質疑応答」
「質問1」

  ブラジル人の国民性は?

「回答」  

  ラテン系の人達を主体とし、リオのカーニバルを連想するように、陽気な開放的国民性であり、広い国土で育っているのでおおらかであり、全員が一方向に極端に突っ走ることはない。又世界中の人種が集まっている、移民の国であるので多様なタイプの人がいるが、人種差別と偏見がなく異文化に寛容である。然し経済的貧富の差があるからと思われるが、治安がよければもっとよい国であるのにと思う。

「質問2」

  @トメアス事業の歴史において昭和9年に武藤山治が亡くなったことの影響、A世界大戦で日本が敗れたことの影響は各々如何?B又小泉氏が首相の時、ブラジルを訪問して二世、三世に会い、昔の日本人以上に日本人の心を有して感涙されたとの記憶があるが、最近は日本に出稼ぎに来て、必ずしも良い評価を得ていないように思うがどう考えるか、マスコミの責任はないか?

「回答」  

  @武藤の死は、経営が暗中模索の段階で精神的支柱を亡くしたことは大きな損失であったが、彼は鐘紡のグループ会社としての経営理念と事業戦略とその組織構造を確立させていたので、武藤イズムは引き継がれ、今日結実したと考える。A世界大戦の影響については、民間主体であったことにより戦後への事業の連続性が確保出来たと考える。ブラジルのみならず中南米は米国との関係は必ずしもよくないが、経済的には深い関係に置かれているので、米国の圧力で対日参戦せざるをえなかった面もあり、日本が移住事業に対して国策的に強くやっていかなかったことは幸いしたと言える。B2週間の短い滞在期間であったが、現地で日系人が日本人以上に日本人らしさを実感し、日本人のよさを現地の日系人から知った次第である。それが何故かであるが、ある種日本に対する憧れが語り継がれて来て、その憧れが日本に帰りたいとの気持ちになっている面も、あるのかもしれない。

「質問3」  

  @私もトメアスを訪問して帰ったばかりだが、日本農業をアフリカで指導しようとする現地のリーダーに会ってきた。日本の古きよさがブラジルや台湾に残っているが、日本の若者をもっとそれらの国と交流させる手立てはないだろうか?A又政治的には反米であるが、農業に関しても米国の圧力は強いことに対して、何かよい方策はないか?

「回答」  

  @若い人たちの国際交流については、大学間の相互留学、県人会の交流などにより、地味ではあるが進めていくべきである。又相互利得性が必要なので、企業に就職することを条件に、留学させてもらう方法も考えられる。いずれにしても制度的に整備していくことが肝要である。又私の学術調査に学生や息子がついてきたが、それも国際交流の第一歩であろう。A米国の圧力の問題については、今ここで、ブラジルの米国に対する具体的外交政策を述べるのは難しいので、後日の宿題とさせていただきたい。

「意見」  

  私は、トメアスに行ってからもう8年になるが、聞くところによるとトメアスの発展は著しく、大学の分校ができている。日本的感性の問題が出ているが、トメアスはサンパウロと違い日本の感性が一番残っている。それはなぜかと言えば宗教団体が進出しているからである。東西の本願寺があり、各々のご門主が来られたりしている。そして若いお坊さんが一番行きたいのは、ブラジルであると言い切っているのである。



文責

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