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武藤記念講座(講演会事業)

第1000回武藤記念講座要旨

  2015年3月7日(土)
  於:大阪「武藤記念ホール」
  公益社団法人 國民會館会長 武藤治太氏
  「武藤山治と國民會館」 

セミナー


現在我国の置かれた状況は国内的にも国際的にも大変厳しいが、国民の危機意識は極めて乏しい。1000回に当たりあらためて山治の座右の銘であるプラトンの「憤激性なき国民は滅びる」の言葉を大切にしたいと語る武藤会長。


「はじめに」政治教育活動を、自らは果たせなかった創設者武藤山治
  國民會館の「武藤記念講座」は、昭和9年(1934年)3月10日に亡くなった武藤山治の治績を記念して、同じ年の10月10日に彼の弟子達により開始された。我国は、前年昭和8年には満州国の存続をめぐり国際連盟を脱退し、その後日中戦争、大東亜戦争への道を歩んで行ったが、その難しい時期にも、毎月一回休みなく開かれ、本日1000回を迎えた。
  鐘紡を昭和5年(1930年)に引退し、昭和7年(1932年)の総選挙にも出馬しなかった山治は、私財を投げ打って、昭和7年の12月に社団法人國民會館を設立(建物は昭和8年5月に竣工)した。彼はこの建物を政治教育の殿堂として活用して、演説、映画、演劇などのツールを用いて政治教育を徹底的に行うことを目論んでいた。詳しくは後述するが、そこへ福澤諭吉が創設した時事新報社の立て直しをしてもらいたいと福澤門下の長老を中心に、たっての依頼が寄せられ、運命が違う方向に回っていくこととなった。
  かくして昭和7年(1932年)4月、時事新報社の再建を引受けた。然し引き受けた以上、彼は渾身の力をしぼって再建に取り組み、数々の手を矢継ぎ早に打ち出し、約2年で再建の目処をつけるところとなった。それだけに毎日は多忙をきわめ、彼が國民會館へ出かけたのは、昭和8年(1933年)6月の開館式1回のみに終わった。本日の演題は、「武藤山治と國民會館」であるが、本来であれば武藤山治の國民會館における活動を、話すべきであるが、彼の突然の死によって実際の活動が見られなかったのは、誠に残念な事である。


第一章「「國民會館創設」の原点は軍事救護法制定活動にあった 」
  彼は、鐘紡の再建に成功し、その間鐘紡の経営に携わったまま、自らの政治信念の実現を図るため、実業同志会(後の国民同志会)を率いて政治に打って出たが、その引き金となったのは、軍事救護法制定のため、民間人でありながら立法活動を行った努力の限界を感じたからである。彼は実業人としては、他の人と比較にならない程、大成功したにもかかわらず、あえて苦難が待ち受けている、政治の世界に打って出たのであった。

第1節「日清・日露・第一次世界大戦の光と影」
  明治維新以来、我が国は富国強兵政策を進め、その結果一部の列強と対立することとなる。その結果起きたのが、明治27年〜28年(1894〜1895年)の日清戦争、明治37年〜38年(1904〜1905年)の日露戦争であった。まず日清戦争は、李氏朝鮮の統治する朝鮮をめぐる、日本帝国と大清帝国の戦争であった。言い換えれば「日清両国の朝鮮における権力競争」であった。然し近代化された日本軍に対し、清国の軍備は劣っており、勝敗の帰結は明白であった。陸海共に清軍を圧倒し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領した。翌年講和条約が結ばれ日本は遼東半島(その後三国干渉で返還されたが)、台湾、澎湖諸島を獲得したが、戦死者は1,400人、戦病死者は12,000人、戦負傷者は4,000人となった。
  日露戦争は、大日本帝国とロシア帝国との間で、ロシア主権の南満州と日本海を戦場としておこなわれた戦争であり、旅順攻略、奉天会戦など物量に優るロシア軍に対し、我が国は持てる力をぎりぎりまで使って、ようやく互角の勝敗に持ち込んだ。そして、ロシア艦隊との日本海海戦では完勝し、ようやく米国の仲介などもあって、薄氷の勝利を得て講和に持ち込んだ。この勝利により、以後ロシア帝国の軍事的な脅威を排除して、満州において南満州鉄道を獲得し、満州における権益を得て、安全保障を確立した。しかし樺太の南半分千島列島を得たものの、賠償金を得ることは出来なかった。戦死者は61,300人、戦病死者は27,100人、戦負傷者は153,500人にも上った。然し二つの戦争で多数の戦死者、戦病死者と戦傷者の出たにもかかわらず、国家はこれに対する家族を含めてのケアを十分に行わなかった。
  さらに大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発する。日本は、連合国側として、中国の山東半島にあるドイツの租借地青島を攻める。そしてこの攻略のため、実に5万人の兵士が動員された。当時の日本の人口は、5200万人であったから農村では働き手を取られ、貧困に喘ぐ人達が続出した。

第2節「戦死者・廃兵への国家賠償は、国家の義務と主張」
  武藤の自叙伝「私の身の上話」によると、明治37、8年 日露戦争が始まると旅順攻略の戦いでは、意外に我が国に不利で、死傷者の数が多数に上り、続々補充兵が内地から送り出された。武藤の末弟包四郎もその中にあり二百三高地の激戦で戦死した。これが動機となり、武藤は戦死者遺族や廃兵のためにそれを救済する運動を行うことになる。包四郎は、上等兵であったが、その補償は「下士兵卒家族援助令」により1ヶ年わずか50〜60円の支給に過ぎなかった。武藤はその遺族を援助することが出来たが、そうでないものは、この少額の援助料で生活をしなければならず、困窮者が続出したのであった。この事態を捨ておく事は出来ないとして、武藤は当時の大新聞時事新報に対し、この問題について是非取り上げて欲しいと要望するが、取り上げられる事はなかった。然し、この問題について武藤は、関心を持ち続けていくところとなった。武藤の自叙伝によると、たまたま自宅で盲腸炎にかかり静養していたところ、ふと神戸新聞を見ていると、後備籍(予備)にあった兵庫の一人の魚屋が突然召集され、後に残るのは子供ばかりで大変困っているという記事が載っていた。この記事に刺激された武藤は、すぐさま当時の大隈内閣の閣僚であった、旧知の尾崎行雄氏に書簡を送り『現在戦死者遺族や廃兵に対する援護については、全くなおざりになっており、これらの援護が軍人後援会など慈善団体に委ねられているのは、誠に問題である。陸軍等当局は、夫々恩給などの手当てを支給しているから、その上で当事者が窮迫しているのは、彼等自体の責任であると言って逃げるが、これはおかしい。その恩給の額は、到底兵卒においては、遺族の生活を維持していく程度のものではない。もっとも、すべての遺族に、満足出来る恩給を支払う事は、難しい事は自分もよく承知している。それならば、この内で頼るべき親類なく、又何等預財がなく、ただ恩給のみで、一家を支持していかなければならない、不幸な人々に限り、国家が援護の方法を探るべきである。これこそ国家の義務であると同時に、これにより士気そのものが、維持されるのではないか 』と訴えた。

第3節「民間人でありながら、軍事救護法成立への凄まじいまでの奮闘」
  (1)「大隈重信首相へ直訴」
  これに対する具体策として、「戦死者遺族へ遺族記章を下賜すること、廃兵及び戦死者遺族、並びに出征軍人家族援護基金を設けること」を先ず提案した。然し、これに対して尾崎からは「尽力はするが、このような軍部関係の問題は、急速な実行は困難である」との回答があった。山治は、もどかしく感じ、大隈重信首相に直接一千字に余る電報を打ち、遺族廃兵救護を今回召集される臨時議会へ提案し速やかに実行せられたい」と訴えたが、首相からは「なるべく尽力する」との返事はあったが、その後一向に進展する気配が見られなかった。更に、先に述べたように、これに先だつ日清、日露の大役により多数の戦死者、負傷者が、出たのであるが、それで生活に困窮する人々が続出していた。そして当時の呼称で戦争乞食というが、その戦争乞食が巷にあふれてその数、実に56万人という大きな数字になっていた。武藤の言によると「今日のような選挙政治の中では、多衆の希望は早く達せられるが、少数の弱者の希望は中々取り上げられない」「社会正義は中々行われ難い」「私も最初はこのような正しいことが、何故すぐさま実行されないのだろうかと思っていたが、良く考えて見るとこのような問題は、只漠然とその必要を叫んだところで、行われるものではない」「具体的な立案をし、その上に収入のことに迄考えを及ぼさないと皆が得心するものではない」と悟り、大正3年(1914年)行動に移った。
  (2)「具体的立案を美濃部博士に依頼、政府・議会を動かして、成立へ」
  武藤は神戸の元町に「出征軍人家族廃兵、戦病死者遺族援護法」調査事務所を設け、その主任に金太仁作を指名する。ここでは実際に廃兵の人が、どの程度いるのか、困窮に陥っている人がどれだけいるのか、又英国、独国等の廃兵や遺族に関する資料を収集し「廃兵戦死者遺族出征軍人家族救護法」の原案を作成して、それに加えて支出に対する歳入の道を得るための、兵役税法の原案までつくる。それらの活動はすべて武藤のポケットマネーでおこなわれた。一方、肝心の陸海軍とも、そのような数字は一切掴んでいなかった。反対に、民間で積極的にそのような運動をする武藤を、社会主義者として煙たがり、憲兵の尾行がつく有様であった。武藤は、この原案を基に、当時有名であった法学者江木衷氏に法案の作成を依頼するが、江木氏は「成案をいきなりつくると、異論を招き議論百出のおそれがある」と断られ、それではと、後に天皇機関説を唱え憲法学界をリードしていた東京帝國大学教授の美濃部達吉博士に依頼、彼は武藤からの話しに意気を感じ、僅か一週間で法案をつくった。そして、この法案をもって、いよいよ実行運動に入っていく。事務所も東京に移し、金太仁作は政府や議会に対し必死の努力を重ねていく。そして、三年に及ぶ審議の末、大正6年(1917年)6月の第39議会において「軍人救護法案」として、政府から提案され、可決成立したのであった。
  (3)「最善を尽くすも、その不完全さに民間人の努力の限界を知り、政治家になる引き金に」
  然し、この成立した「軍事救護法」は幾多の欠陥があり、残念ながら政府案は、武藤案の一部を削除変更したため、行政による運用手続きが煩雑となり、法律の執行を円滑に行うについていろいろと問題が発生した。要するに日本の官僚思想が、邪魔となり手続きが窮屈にして煩雑だったため、迅速に処理出来ない事例が多く出たのであった。これ以降、武藤は政府に事あるごとに、軍事救護法の改善を要請し戦っていく。私が思うのは、一民間の事業人であった彼が多忙な身にかかわらず、毎週末夜行列車に乗って上京して、議会や有力議員に陳情を重ねることによってこの軍事救護法が出来上がったのである。これは他に比肩できない大きな出来事であった。然しながら、彼の思い描いた完全なものが出来た訳ではなかった。この活動を通じて、彼は民間人としての力の限界を悟った。これが後年政界へ進出するという、大きな引き金になったと思われる。
  「閑話休題」
  彼の次弟、時三郎は著名な洋画家鹿子木孟郎とも親しかった洋画家だが、弟の包四郎が、戦死した二百三高地の激戦の様子を描いた絵は、当會館の小ホールに掛けてある。又、当大ホールの山治の肖像画は、軍事救護法の成立に努力した武藤に対する感謝の念を表す為、帝国傷病軍人会の全国有志の2200名が、各々お金を出し合い、武藤と縁の深かった幸内純一氏に依頼して、昭和11年武藤の慰霊祭を行った際、家族に寄贈されたものである。     


第二章「政治家としての軌跡」

第1節「政党政治の浄化・小さな政府・各階層の調和を目指す」
  (1)「「政治一新論」を著す」
  武藤は、その後鐘紡の経営に没頭し、大正8年(1919年)にはワシントンでの国際労働会議(ILO)の使用者側の代表として参加する。そして、大正10年に取締役社長に就任する。又、この年、首相の公選や政党政治の浄化を目指す「政治一新論」を著した。この年は、金融恐慌勃発の年でもあった。翌大正11年(1922年)には株式相場が大暴落して、昭和に向けてその後不況が慢性化していく。
  (2)「社会不正及び社会主義の膨張に危機感を持ち、政界入りを決意」
  武藤は、社会がこのまま推移するなら、やがて社会主義の膨張は必至であると考え、強い危機感を持ち始める。そして、民衆の生活向上に努めていくとともに、政・官・財の癒着などの社会の不正を糺していく為に、自ら政界への進出を決意した。折から、彼は、「大日本実業組合連合会」の委員長として、営業税の全廃を目指す運動の先頭に立つことになる。そして、大正12年(1923年)、全国の中堅商工業者の集まりである同会から、代表を議会に送る事を決め、政党として「実業同志会」を発足させ会長に就任する。又この年の9月には「関東大震災」が起こり、社会不安が拡大して行った。
  (3)「初当選後、マニフェスト「実業政治」を著す」
  大正13年(1924年)実業同志会として初の選挙に臨み、武藤を含め11名が当選した。尚その時、すでに成立していた軍事救護法に加えて、「老人不具者及び病者の救済(一般救護法)」の成立を公約とした。これは現在の生活保護法に相当するものである。武藤の政治哲学は、『一国の盛衰は政治の良否によるものであり、社会主義への危機感から、富国強兵一辺倒の政治から、各階層の調和を図る政治であるべき』であった。武藤は、国会に進出するについて、鐘紡株主全員に賛否を問う書類を送り圧倒的な多数、賛同を得た。一年生議員ながら、当時の濱口雄幸蔵相との経済論争は有名である。さて、大正14年(1925年) 武藤は、「実業読本」を著す。この本は売れに売れて(12〜13万部)ベストセラーとなる。次いで翌年には「実業政治」を著す。これらは、今で言うマニフェストであるが、それによる彼の具体的施策は『小さな政府と予算の徹底的な効率化、官業の整理及び鉄道、郵便、郵便貯金、簡易保険、電信・電話の民営化』であり、この基本的な考え方により議会活動を続けていくことになる。

第2節「昭和金融恐慌下の「震災手形再割引と台湾銀行救済に反対」」
  (1)「震災手形に便乗した不良債権の日銀再割引に反対」
  日本経済は、第一次世界大戦後の好況から一転して不況となり、関東大震災処理のための震災手形が、不良債権になってしまった。そして武藤は、議会で震災手形と台湾銀行の援護について、政府と激しく対立した。震災手形とは何か 関東大震災は、市中銀行を大混乱におとしめた。その為、銀行は震災以前に振り出されて決済不能となった膨大な割引手形を抱え込んでしまう。この対策として、政府は震災手形を日本銀行に再割引させて救済する方法を考えつく。この考え方はまともなものだったが、本来の趣旨に合わない、焦げ付き手形が持ち込まれ、当初の予算は1億円であったものが、実に4.3億円に迄膨らんだのであった。結局この半分を政府が肩代わりするという法律が「震災手形法」であったが、焦げ付き手形を含めた救済に、武藤は断固反対する。一方、中小銀行は不況のあおりで経営状況が悪化し、金融不安が表面化した。国会に於いては、武藤の反対にも拘わらず震災手形の処理法案は、昭和3年(1928年)可決されたが、枢密院で否決された。しかし後に復活して救済が行われる。
  (2)「安易な台湾銀行の救済にも反対」
  台湾銀行は、台湾銀行法に基づく特殊銀行であったが、震災手形に絡み政商鈴木商店等への融資が、全貸出額の約半分に及ぶ3億5千万円もあり、これが焦げ付き、苦境に陥っていた。これをモラトリアムの実施、政府の支援措置で救済しようとしていたのであるが、武藤はこれに反対する。然し昭和2年(1927年)4月、片岡蔵相の失言をきっかけとして、中小銀行に取付けが起こり、金融恐慌が発生した。鈴木商店は倒産し、台湾銀行も破綻する。市井の経済学者として著名な高橋亀吉は、「昭和金融恐慌史」の中でこれは、あくまで資本主義固有の過剰生産に伴う恐慌ではなくて、又世界恐慌の一環でもない。あくまで我が国独自のものであると論断している。このような状況の中で台湾銀行は、倒産寸前に迄追い込まれる。そして、当然、若槻内閣は崩壊し、田中義一大将が組閣して、蔵相には高橋是清が就任し、劇的な3週間モラトリアムを実施すると同時に、大量の現金を市中に放出し、このピンチを救った。
  (3)「キャスティングボードを握り、軍事救護法を完全なものに近づけた」
  昭和3年2月、我が国初めての普通選挙が実施された。選挙権は国税3円以上を払う25才以上の男子のみであったが、その選挙人は国民の約20%に当たる1240万人であった。同志会は、31名の候補者を立てるが、公約が余りにも実施可能なものであった為、魅力に乏しいとみられたのか、4名の当選に終わった。この選挙では、立憲政友会が218議席、立憲民政党が216議席で、議席数の差が2名であった為、武藤は、キャスティングボードを握る事になる。彼は、政友会と政策協定を結び、自分の政策実現を図る。例えば軍事救護法は、肝心の実施面で骨抜きにされたが、「一般救護法」と並び政策協定により完全なものに近づいた。一方、この選挙では無産政党はまだまだ少数ではあったが、著しく伸びた。当然、政府は左翼分子の弾圧に乗り出す。しかし経済の不調は続き、満州で「張作霖爆殺事件」が起こり、首相は田中義一から濱口雄幸に代わる。この間昭和4年(1929年)に実業同志会は国民同志会に改名する。又この年、アメリカに恐慌が起こり全世界に波及していく。

第3節「恐慌下の金解禁は、デフレにより不況を増すのみと反対」
  (1)「世界の大勢は金本位制だった」
  このため、我が国でも不況は深刻化、失業者が巷にあふれたが、蔵相井上準之助は金解禁を目標に「緊縮財政」を敷き、徹底的なデフレ政策を進めた。金解禁とは金の輸出入を解禁して金本位制に復帰することである。第一次世界大戦以前の主要国は、ほとんどが、金本位制であったが、大戦が起こった後、金の流出を恐れ、アメリカを含むほとんどの国が、金と紙幣の兌換を停止した。しかし、大戦終了後の大正11年(1922年)の国際会議で、金本位制への復帰が討議され昭和3年(1928年)の時点では、先進国は、フランスと日本を除き金本位制に復帰していた。
  (2)「日本も追随、金解禁断行へ」
  日本の場合は、関東大震災の為大幅な円安と輸入増により、経済的な混乱が続き、なかなか手がつけられなかった。金解禁の問題点は、その価値をいくらにするかが最大の焦点であったが、昭和5年(1930年)1月に、濱口内閣は、金解禁を断行した。然るに、諸外国はすべて新平価で金解禁を行ったにもかかわらず、我が国は旧平価で行い、事実上の円の切り上げ(14%以上)となった。
  (3)「金本位制の自動調整作用への過信で金の流失続き、挫折へ」
  井上蔵相の考え方は、デフレと財政緊縮により、一時的に経済が悪化しても、問題企業の整理と経営の合理化が進めば国際競争力は向上し、更に金本位制のもつ通貨価値と為替相場の安定機能と国際収支の均衡機能により、景気は確実に回復するものとした。然しこれは井上蔵相の錯覚であり「金本位制のもつ自助調整作用」を過信したものであった。井上は、前提を間違えたのであり、金解禁と緊縮財政は相入れないものであった。しかも旧平価による事実上の円の切り上げにより金の流出は、2億3000万円にも及び(昭和5年の国家予算15億円、鐘紡の資産合計1億7000万円)この為、国内卸売物価は7%下落し、為替は11%高となった。又アメリカ市場の卸売物価下落もあり、我が国は国内市場の縮小、輸出の不振というダブルパンチを受けた。武藤は、議会においてこの愚策に真っ向から反対した。

第三章「正義に殉じるも、今に生きる國民會館設立の精神と理念 」

第1節「議会活動の限界と政治教育の必要性を感じ、國民會館の設立へ」
  昭和5年(1930年)の選挙の頃から、軍部と結んだ右翼の台頭が著しくなり、テロが続出するという、まことに憂慮すべき状況が訪れる。すなわち、濱口雄幸、井上準之助、団琢磨が相次いで暗殺され、5.15、2.26の両事件へとつながる暗い場面が訪れる。この不況の中で、衆議院選挙が行われた。国民同志会は候補者を絞り12名としたため、武藤以下6名が当選する。この中で鐘紡社長を退任する武藤としては、『民政・政友両党権たらい回し、一部資本家と政治家の悪辣きわまる癒着、それらを見逃す一般大衆の無知と選挙造反の多発、そして無産政党の急速な台頭』、これらを目のあたりにして、自分の理想と余りにも違いすぎることを痛感して、自身がおこなってきた実際の政治活動が果たして、国民を目覚めさせる最良の方法であったかに思い悩むようになり、昭和7年(1932年)1月議会解散に当たり立候補を中止する。こうして彼は国民の政治教育を一からやり直す意図で、この國民會館を設立、政治教育の普及に徹底的に努力することになる。彼の考え方は、『国民の政治意識を根本から改革しない限り、健全な議会制度は発達しない』と、「國民會館設立趣意書」にはっきりと、謳っている。

第2節「時事新報の再建に全力を傾け、國民會館の仕事には携れず」
  昭和7年(1932年)武藤は、議員への立候補は中止し、8年に及んだ政治の実践活動から身を引くが、時事新報の経営を担当することになる。極めて前途多難ではあったが、恩師に対する恩返しと彼の社会正義を実践するため、またとない働き場所を得たと云える。「時事新報」は、明治15年(1882年)に福澤諭吉によって創設され、独立不羈、不偏不党を社是として、福澤の弟子達によって発展してきた、言わば日本一のクオリティペーパーであった。然し、大正12年(1923年)の関東大震災を境に衰退をたどり、放漫経営が続いた上、折からの不況も反映して赤字経営に苦しむようになっていた。前述の通り武藤の政界引退をみた、慶応OBの長老、門野幾之進、池田成彬、小林一三らが再建を託するには武藤しかないとして、嫌がる武藤を説得し、家族の反対を押し切って無理矢理に引き受けさせたものである。当初引き受けを渋った武藤ではあったが、引き受けた以上は、再建のために渾身の努力を傾ける。すなわち、自ら毎日執筆をした社説「思うまま」や「月曜論説」により、社会悪の摘発に縦横の筆陣を張る。一方、鐘紡で培った経営手腕を遺憾なく発揮して、営利会社として立ち行くように大改革を断行し、膨大な赤字を漸次克服して、2年後の昭和9年(1934年)には、一応再建の目処をつける事に成功した。

第3節「再建が軌道に乗った矢先、政・官・財癒着の糾弾に殉ず」
  然し、昭和8年(1933年)秋頃から、前述の台湾銀行の所有であった鈴木商店系列の帝国人造絹絲の株22万株が、密かに政界、財界の要人に不当に安い価格で売却されたというニュースが、武藤の耳に入ってきた。予てから政商の暗躍に我慢のならなかった武藤の正義感は、これを見逃す筈はなかった。昭和9年(1934年)の正月から『番町会を暴く』というキャンペーンを開始する。「番町会」とは、財界の顔役 郷誠之助氏の番町の屋敷で、定期的に開かれていた政・官・財のグループの名前である。メンバーなどは略すが、若手の政商が多く含まれており、政・官・財癒着の根源である。このキャンペーンは、一度は潰れ、公金によって命脈を長らえた台湾銀行が、所有する帝人株を、不当に安く秘密裏に入手した経緯を暴いたのもので、この告発記事は大評判となった。いきさつは、番町会のメンバーが、一株120円で譲り受けた、帝人株が、帝人の増資計画発表でいきなり150円になった事であった。内実は、現在のリクルート事件と言ってよい。台湾銀行の救済に政府は実に6億円の資金を投入していた。そうである以上、少しでもその資産を高く売り、国家の損失を少なくすべきと武藤は番町会を攻撃した。この記事が導火線となり、後に元大臣、元官僚、前台湾銀行頭取、前帝人社長らが告発起訴された、いわゆる帝人事件に発展した。「番町会を暴く」の連載キャンペーンを終了する直前、昭和9年(1934年)3月9日、武藤は何時もの通り出勤の為、北鎌倉の自宅を出て徒歩で駅に向かった。その途中、突然待ち伏せしていた暴漢が、武藤を襲いピストルを発射した。庇おうとした書生の青木茂は即死、武藤は数発の銃弾を受け、そのまま病院に運ばれるが、翌3月10日に不帰の人となった。犯人は、その場で自殺した。暗殺の真相は彼、書生、犯人いずれも死亡した為、今もって不明で大きな謎となっている。然しながら、「番町会」の追求に渾身の努力を傾けていた最中の出来事だけに、又彼に対し脅迫状が、もたらされていたことなどから、彼の死によって一番利益を受ける者が誰であったかは、推察出来るのである。

「終りに」
  武藤山治の三つの戦いは、「鐘紡の再建と発展」、「時事新報の再建」、及び「政治の実践活動」であった。第一の、彼が40年間に亘って努力を傾け日本一にした鐘紡発展の戦いは、その後経営者に人を得ず、今は存在すら失われてしまった。第二の時事新報の再建は、武藤の死後経営の悪化を挽回出来ず、この世から消え、戦後産経新聞の援助で、一度復刊したがその後は経営が成り立たず、今は辛うじて産経新聞の中に資本金7000万円の会社として名前だけが残っている。然し、第三の戦いである、8年間に亘る政治の実践活動については、国民の政治教育による覚醒を目指した「國民會館」が今も存在している。それだけに、私達國民會館の運営に携わる者の使命と責任は重い。今後共、御指導、御鞭撻の程を、宜敷くお願いする次第である。

「質疑応答」
「質問1」

  1千兆円もの国家借財がありながら、現在の我国の政界・財界は密着しており、それを解決する根本的政策が見えず、将来日本がどのようになって行くのか、案ずるところである。もし今武藤山治氏がおられたならば、これに対してどのようなことを目指して、実践行動を取られるだろうか?

「回 答」  

  先ず甘えを排除して、社会保障制度をぶった切り、払うべき税金を厳しく取り立てるだろう。即ち国家財政についても、「入るを量りて出ずる制す」を徹底するだろう。それは日本国の自主独立を維持するためであるからだ。山治の座右の銘であるプラトンの「憤激性なき国民は滅びる」はまさに、先生の言われた日本自身の現状に対してのみならず、韓国、中国に馬鹿にされ、米国、ヨーロッパからも同じ扱いを受けていることに対して、怒りを覚えるべきことを意味している。

「質問2」

  社会主義の台頭・発展を恐れて政界に入られたとのことであるが、武藤山治氏の思想の根底には弱者救済の思想があり、それは社会主義理論の根底と相通じるのではないか、このふたつの関係はどのように考えたらよいのだろうか?

「回 答」  

  山治が恐れたのは、ロシア革命のようなラジカルな共産主義革命であった。確かに山治の温情主義には、社会主義的側面があるが、労働組合のない時代に温情主義をやり遂げたのは、ベストの選択だったと考える。即ち河上肇博士や吉野作造博士のように一党独裁的社会主義を目指したのではなく、あくまでブルジョア民主主義下での、温情主義を目指したのである。

「質問3」  

  なぜ國民會館は工場や武藤邸のあった神戸でなく、大阪の地に建てられたのか?神戸でもよかったのではないか?

「回 答」  

  当時の大阪は、東洋のマンチェスターと言われ、今と違い「東京何するものぞ」との商都の力があり、又山治の支持者は大阪に多く、大阪から選挙にも出た。当時は正月には通産大臣が来阪して繊維を中心とする関西財界の挨拶を受けたということも聞いている。

「質問4」  

  なぜ、旧國民會館の設計は、巨匠中の巨匠である大建築家岡田信一郎だったのか、彼に設計についてどのような要望をしたのか、政治目的仕様というよりも演劇目的仕様であるが、政治活動をするのにそれが必要だったのか、それとも海外にそのような事例があり、大阪の地で新しい試みとしようとしたのか?

「回 答」

  当時1500人収容の劇場は國民會館しかなかった。武藤は岡田さんには沢山の注文をつけて、理想的な建物を作ったのではないか。海外から考え方を取り入れたか否かは、分からない。然し大衆を啓蒙し、政治意識を高めていくために、演説だけでなく、脚本も自分で書いた演劇、又当時としては、最先端の映画等の手法を駆使しようとしたものと思われる。

「質問5」  

  鐘紡と時事新報の経営改善に成功したが、そのやり方に特徴があれば教えて欲しい。何か世間でやっていない新しいテクニックも使用したのか。又人の心を掴む術をどのように心得ていたのか?

「回 答」

  @繊維事業と新聞社の経営は違うが、山治の経営は「熱」と「努力」でありそれ以外にないのではないか。彼は幅広く勉強しており、欧米の経営学もだれよりも先んじて勉強した。然し実践ということになると「熱」と「努力」しかない。以って武藤山治の経営は「火の玉山治」と言われた。

  A日本的経営の原型をつくりあげ、日本的経営の始祖と言われる山治は、西洋流の科学的・合理的工場マネージメントだけでなく、付加価値を生む根源は人間であるとの人間尊重経営を世界で初めて確立したと言える。又鐘紡は日本の企業で最初に行ったことが多い会社である。共済組合、社内病院然りである。そして共済組合が軍事救護法に発展して行ったのである。英語など語学に堪能であったので、共済組合の考えを早くキャッチして、外国にヒントを得たかもしれないが、組織だった制度を創り上げたのは、世界で初めてではないかもしれないが、世界でも有数だったのではないか。

  Bひとの心の掴み方については、山治はひとの話をよく聞くと言う人と、ひとの話は聞かないという人がいるが、その辺に彼の人心術があるのかもしれないが、根底に人間尊重の精神がある。

「質問6」  

  山治の家庭人としてのエピソードは如何?

「回 答」

  大変優しく子煩悩であり、自由放任主義で子供には好きなことをやらせ、個性を伸ばすことを重んじた。それは、不正をする人には峻厳であったことと対照的であった。

「質問7」  

  鐘紡や時事新報の一民間の組織体の話だけではなく、そこに基本にある彼の考えは、時の権力に媚びず、ものごとの正しいこと及び国民の幸せを考えながらする、発言と活動であったと深く感銘させていただいた。今こそ私達は本日学んだことを実践していかなくてはならないのではないか。又お話にあったように、一極集中ではなく、治安の面からも多極化を進めるべきと考えている。今日と同じ話を、ぜひ東京の若い人たちにしてもらいたいと願うものである。

「回 答」

  機会があれば、聞いていただければ光栄である。

「質問8」  

  山治の思想を引継いだ政治と鐘紡の弟子にはどのような人がいるか 又、政治教育のためにどのような演劇の脚本を書いたのか?

「回 答」

  鐘紡の後継者は兎も角として、国会議員には労働大臣をした千葉三郎氏、八木商店の会長でもあった八木幸吉氏、その他少なからずいる。10作品以上ある彼の戯曲の代表作は政界革新劇「醒めたる力」であり、又彼が書いたのではないが、彼と全く違う思想を持つ久板栄二郎氏が、山治を主人公として書いた「北東の風」も傑作であり、いずれも會館で上演された。

「質問9」  

  諸外国に比べ日本に多い政治家の世襲制についてどう思うか?

「回 答」

  世襲のよいところもあるが、政治は実力でやるべきであることは、当然である。私の父も、私も国会議員への出馬をすすめられたが、固辞した経験がある。尚山治の父も国会議員だったが、山治は父の世襲で政治家になったのではない。

「質問10」  

  「軍事救護法」は名前だけを聞くと、軍国主義のかたまりの本と勘違いする人もいるかもしれないが、まるっきりその反対である。国のために戦って命を落とした人をなぜ国は大切にしないのか、又傷痍軍人が町に溢れている悲惨な状態を見て、武藤山治は、鐘紡の経営者に止まるのではなく、国会議員として行動した。まさに武藤山治が政治家になった原点は「軍事救護法」であった。今日の会長の講演により、皆様よくご理解いただいたことと思う次第である。

「回 答」

  松田理事の書かれた國民會館叢書「軍事救護法と優遇改善策」は、軍事救護法について体系的・時系列的にその立法の意義を精緻に論究された秀作であるので、是非お読みいただきたい。




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