ホーム > 武藤記念講座(講演会事業) >公益社団法人國民會館理事 松田尚士氏「福澤諭吉と武藤山治〜日本を発展させた偉人たち〜」   

武藤記念講座(講演会事業)

第1002回武藤記念講座要旨

  2015年5月9日(土)
  於大阪「武藤記念ホール」
  公益社団法人國民會館理事 松田尚士氏
  「福澤諭吉と武藤山治〜日本を発展させた偉人たち〜」 

セミナー


武藤山治の肖像画と1世紀前に彼が政治活動に使用した机の前で、講演に臨まれる、山治研究の第一人者國民會館理事、松田尚士氏。


序説
  日本近代の経済界、政界、新聞界で活躍した武藤山治は、434頁に及ぶ自叙伝「私の身の上話」を書いている。これは恩師福澤諭吉の「福翁自伝」を見習って、本人しか知らない、若いころの自叙伝をまとめたものであるが、武藤は、大勢の人に読んでもらうべく、大げさな題名を遠慮して「私の身の上話」と名づけたようである。又武藤山治は生涯、執筆には特に力を入れ、全集は全9巻、8200頁に及び、福澤諭吉全集と同じボリュームである。のみならず彼は「福澤諭吉の考え方の真の実践者」と評価をされている。よって、武藤山治についてよく理解するためには、まず福澤諭吉の人物、業績を理解することが近道である。

第一部「福澤諭吉と『学問のすゝめ』 」

はじめに
  福澤の肖像については、日本銀行券でお馴染みであろう。然し、天保5年(1835年)、大阪は中之島、堂島玉江橋北詰めの中津藩蔵屋敷に生まれたことは知らない人が多いのではないか。その地には「福澤諭吉誕生の地」と書かれた石碑が建てられ、毎年1月10日の誕生日には、慶應義塾の塾長はじめ教え子たちがお参りしている。そして、福澤が当時ベストセラーになった「学問のすゝめ」の著者であることは、教科書に出て来るので知識としては知っているだろう。然しその本が生まれた背景とその真に意図するところについては、知らない人が多いのではないか。

第1節「命懸けの渡米」
  海の向こうのアメリカへ渡り、西洋の文化を知りたいと思っていた福澤諭吉は、米国を訪問する幕府の咸臨丸(蒸気船の軍艦、625トン)の艦長になる木村摂津守の屋敷に出かけていって「付き人として連れていってほしい」と強く要請したのであった。太平洋横断という当時としては、命懸けの渡航を自ら申し出る変わり者は他になく、福澤の申し出は早速取り上げられ、27歳の万延元年(1860年)の1月、運を天に命がけの渡航に浦賀を出帆したのであった。
  「閑話休題」
  (1)副艦長は勝海舟であったが、名前とは裏腹に、勝は船に弱く、乗るとすぐに船酔いになり、船がサンフランシスコに到着するまで病人同様の姿で、船室から出てこられなかった。一方福澤は元気そのもので、感想を聞かれると「牢屋の中で、毎日大地震にあっているようなものだった」と答えたものだった。船は三十七日間かけてサンフランシスコ港へ入港した。然し「祝砲を打たねば」という段になると、勝海舟は「練習不足だから恥をかかないように、発砲は取りやめよう」と主張したが、大砲運用方の佐々倉太郎が「責任は俺が持つ」と言って大砲の掃除をし、祝砲を打つことに成功し、船は歓迎のうちに入港することができた。
  (2)上陸すると早速、初めて見る馬車で市内のホテルへ案内され、ホテルには、市の主だった人が雲霞のごとく集まってきて、歓迎してくれた。日本では札入れや、煙草入れに用いられている絨毯が、何十畳も敷かれていて、その上を、靴を履いたままで歩くのを見て驚き、食事が始まり乾杯をしようとボーイが瓶をあけるとポン、ポンと大きな音がしてさらに驚いたが、これはシャンパンという西洋の酒であった。
  (3)このような風習の大きな違いは、日本の中に居ただけではわからないものであり、福澤がアメリカへ行っている頃、日本では「鎖国、攘夷の思想」がだんだん強くなっていた。木村艦長は、当時日本にはなかったこうもり傘を「珍しいので買い求めて帰りたいが、どうだろう」と言ったが、福澤は「そんなものを持って歩いたら、艦長の屋敷から日本橋まで行く間に攘夷の浪人どもに切られてしまいます」と反対したエピソードも語られている。

第2節「三回の西洋視察から生れた、学問のすゝめ」
  4か月後の5月、咸臨丸は無事日本へ帰国、早速福澤は英語の塾を開き、生徒に教えると同時に、自身も英語の勉強に励み、幕府の外交文書の翻訳の仕事を引き受けた。当時日本には、英語とオランダ語の両方が分かる人物は他にいなかったので、彼は大変重要な存在になったのである。さらに文久2年(1862年)には、日本からヨーロッパ諸国への遣欧使節団に、今度は政府の一役人として加わり、東洋、西洋を一周して海外の政治、歴史、風俗習慣などを学び取ろうと必死に勉強した。帰国の際には普通の土産には興味がなく、欧米の書籍を山のように荷物にして持ち帰ったのであった。明治3年(1870年)三度目の洋行から帰った福澤は、我が国が大きな差をつけられている科学(サイエンス)を学ぶことの重要性を紹介しようと、明治5年「学問のすゝめ」初編を刊行した。その後、好評のため17編まで刊行、累計340万部というベストセラーとなり日本人の10人に1人がこれを読んだといわれている。然し今の学生に「学問のすゝめ」を知っているかと尋ねると「はい」という答えが返ってくるが、「何が書かれているか」と再度尋ねると「人間は生まれた時から平等だと書かれている」という回答がほとんどである。

第3節「明治を代表する啓蒙書の真に意図するところ」
  同著の冒頭の出だしは有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言へリ」である。然しその人の努力による学問の力で差ができるのは当然であり、努力しない人も皆、同じように「平等」とは言っていないところが重要である。即ち日本が立ち遅れを取り戻すためには、必死に勉強せねばならないと国民を激励したのであった。そしてそのためには何を学ぶか。それは「実学」だとズバリ言い切り、「我が国の「古事記」は暗誦すれども、そのことわりあらんや」と、断じたのであった。又学問をする心構えについては、「協力者がなくとも、自分一人でも国を維持する気力を養い、世のために尽くすことが必要である」、「一身が独立すれば、一家が独立し、一国が独立する」、「自分の家を大切に出来ぬ者が、国を大事にすることが出来るか」と説いた。さらに我が国の国民は気力がないと分析し、国民は「国の世話になっているお客」であってはならないとし、このような状態からどのように脱却するかは、「国民が、みんな官を目指すのではなく、民としてがんばらねばならない」との方向を示したのである。以上、欧米で色々な体験をした福澤は、日本国内しか知らぬ人達、古い慣習に囚われている人達の目を覚まそうと「学問のすゝめ」を出版したのである。

第二部「武藤山治に引き継がれ、実践された福澤諭吉の思想」
第一章「学業、駆け出しの時代 」

第1節「父の薦めで慶應に学ぶ」
  (1)武藤山治は、慶應3年(1867年)の生まれ。父の佐久間国三郎は、大変な勉強家で、屋敷の中に図書館を建て万巻の書を読破、「優秀な子孫を得るためには、自身が修行し、学問をする必要がある」と、「西洋事情」を読んで感動し、福澤諭吉を崇拝していた。又百人が入る大広間では、自由民権の講演会が度々開かれていたが、父に「東京には福澤先生の塾があり、そこには演説館があって演説を学べる」と薦められ、14歳で高等科を修了すると、父と共に東海道を歩いて東京へ向かい、慶應義塾の門を叩いた。
  (2)当時慶應には、本塾に入学する前の年少者のために、幼稚舎が設けられ20名が合宿して勉強していた。幼稚舎では、英語、算術、作文、習字などの科目があり、さらに演説、討論などの授業が行われており、山治は論理的な考え方を、簡潔に展開するのが上手で、後に日本商工会議所会頭になった門野重九郎は「彼は弁論の雄で、いつも私はやり込められていた」と語っている。福澤は「日本人はよく勉強し、知識は豊富だが、人前で話すこと、また議論することは下手である。これは多くの民族が交じり合う西欧と島国日本との違いによるものだろう」と考え、英語のスピーチを演説、ディベートを討論と訳し、三田に建てた演説館で、福澤塾長自らが塾生たちを直々指導に当たったと言われている。
  (3)もともと山治をケンブリッジ大学へ入れることが、父の夢であり、このため留学費を蓄えていたが、明治10年の大蔵卿松方正義のデフレ政策によって、土地の価格は四分の一に下がり、全国23万人の地主の多くが父祖伝来の土地を失ってしまった。山治の父親は非常に用心深いタイプであり、借金はしていなかったが、山治の留学用の費用全部を貸していた親戚が破産してしまったのである。このため、山治のケンブリッジへの夢は消えたが、山治の学友の和田豊治(のちに富士紡績社長)の、アメリカへ行って働けば大学は何とかなるとの熱心な勧めで、親元から渡航費は出して貰い、もう一人の学友と三人で、卒業後アメリカ行きに参加することになった。

第2節「米国へ遊学」
  (1)米国へ出発したのは明治18年1月、丁度25年前に福澤諭吉は咸臨丸で出発したが、三人は同じ様に太平洋の荒波に乗り出したのであった。船は当時瀬戸内海を航行していた2,000トンの小さな汽船で、船底の汚い船室で三人はハンモックに揺られながら太平洋を渡った。船には、ハワイへ移住する日本人が大勢乗っており、「世の中にはこういう人達もいるのだな」と、その人達の姿を強烈に目に焼き付け、帰国後初出版した「米国移住論」はこのときの印象が基になっている。三人の青年は、サンフランシスコへ到着の翌日から、たばこ工場の一室でたばこ巻きの作業に従事したが、部屋には日本人が三人いるだけで、毎日たばこを巻く単調な仕事には飽きたのみならず、学生時代に習った政治、経済、哲学などの知識は生かされず、英語を覚える機会もなかった。これに失望した山治は街に出て、働く。仕事は家庭の皿洗い、庭掃除、ビルの窓ガラス拭きなどであり、山治は言われる通り黙々と仕事を続けたのであった。
  (2)しかし、勉強になったのは、アメリカの家庭のなかに入り、アメリカ人の生活を知ることが出来たことだった。アメリカでは、山治のような召使いに対しても言葉使いが優しく上品なことに感心した。例えば人にものを頼む時には、必ず「プリーズ」をつけ、またむやみに命令しないで、必要なときは終わりに「ウイル・ユー」と言うので、使われる者にとってはまことにいい感じのするものであった。山治は日本に帰ると、「弱いものに対する思いやりが大切だ」と説き、家庭でも、職場でも自ら実行したのである。
  (3)サンフランシスコの市内は、雑然としていたので、山治はもっと静かに勉強できる場はないかと探し、60キロ離れたサンノゼの学生寮の食堂で、給仕の仕事をしながら授業を受けさせてくれるパシフィック大学を見つけることが出来た。然しテキストは数学、歴史などすべて、英語で書かれており、まず英語を学ぶ必要があり、追いつくのに必死であった。ただ、ラテン語は全員が知らないため、ハンディなしでスタート出来たので、山治は楽に授業を受けられ、先生の質問には真っ先に手をあげ、正解をしたので、周囲の学生の見る目が違ってきたという。このような生活を約1年半続けた後、丁度その頃、和歌山のヤマサ醤油が、醤油をアメリカへ輸出したいので、その拠点をサンフランシスコに設けるので助けて欲しいと頼まれ、これも勉強の一つだと引き受けた。最初は大変な人気で売り上げは大きく伸びていたが、その後売上が落ちて、売行きがよかったのは日本の焼物の容器がよかったからと分かり、アメリカでの販売は取りやめとなり、帰国することにした。

第3節「帰国、若き事業家としてその後の大活躍の片鱗を示す」
  (1)3年ぶりに日本に帰ってきた山治は、退職金の100円をもとに新しく起業しようと色々考えた。福澤の独立自尊の精神が山治の心の中に常にあったと思われる。先ず、日本で初めての広告取扱業を始め、銀座一丁目に大きな家を借り、新聞広告取扱所と書いた大看板を掲げ、各新聞社をまわり、時事新報社にも依頼した。尚この年、山治は二十歳を迎え、岐阜の実家佐久間家の近所の、武藤家に入籍し、武藤山治として社会へ進出していくことになった。そして新しい武藤山治の著者名で「米国移住論」を先輩の尾崎行雄氏の序文で初出版した。山治がサンフランシスコに到着したとき、中国人の移民はすでに十万人に達していたが、日本もこれに負けず、単なる出稼ぎでなく、土地を所有して永久に移住させるべきであり、それには移民会社を設立して我が国の移民を受け入れさせるべきであると時代の先見性を示したのであった。それから45年後、武藤は、ブラジルへの移民を計画し、南米拓殖株式会社の発起人総代となり、青年時代の夢を実現させたのである。
  (2)広告代理店を成功させた武藤は、次なる事業として、各新聞の記事を切り抜き、これを印刷して全国へ配布する「博聞雑誌社」を立ち上げ、業績は順調に伸びた。然し、武藤の目標は大きく、広告代理店と雑誌社の経営を他人にゆだね、第三番目の事業として、英語を使える事業はないだろうかと探していたら「横浜ガゼット新聞」の「翻訳記者一名募集」の記事が目に止まり面接を受けると、日本の新聞を手渡し「この中から外字新聞の読者に向きそうなものを取り上げて英訳せよ」と命ぜられたので、武藤はすぐに訳してみせたところ、大勢の申込者の中から採用がきまり、この日から横浜の賄付の下宿を見つけ新聞社へ通う日々が続いた。するとある日、福澤から「後藤象二郎伯が大同団結の運動を起こしたのだが、英文が書け、英語が話せる秘書を一人世話するようにと依頼がある、行って見る気はないか」と言われ、後藤伯を訪ねると「政府の条約改正に反対するには外国の言論機関を利用せねばならない。君は英字新聞社に勤め英文の記事を書いているそうだが、今の仕事をしながら、私の秘書として手伝ってくれるとそれが一番ありがたいよ」とのことで、武藤は後藤の希望を聞きいれた。ところが、大同団結運動の中心人物であった後藤象二郎は切崩しに会い、政府の高官についたので、武藤は人間不信に陥ったが、塾の先輩が訪ねてきて「横浜と神戸の店で貿易を営むドイツのイリス商会の店主のそばで英文を翻訳する仕事をしてみないか」と誘われ、給料は倍の50円を出すというので転職した。イリスには信頼され、北海道へ度々出張して、鉄道レールを売り込むなど、大きな仕事を与えられるようになった。
  (3)その頃、福澤の一番弟子と言われ、時事新報の社長をしていた中上川彦次郎は、山陽鉄道の社長を務めたのち、三井銀行の経営陣に入り三井の改革を次ぎ次ぎと行っており、旧態依然たる三井銀行を改革するために、有為の新人を採用し、どんどん彼らの提案を採用していた。山治も、面接を受けたところ、即座に月給は37円で採用となり、ここで武藤の運命は大きく変わることになった。上記の通り、武藤はアメリカから帰ってきて三井銀行に入社するまで6年間に5回転職したが、5年前に私が佐賀大学で武藤山治の生涯について講演をした際、多くの学生から「なぜ、何回も職場を変えたのか」との質問があり、「務めた先が自分の実力を発揮する所ではなかったのでしょう」と答えたが「役所の仕事はすべきではない」との師の教えが、常に心の隅にあったのではないかと思われる。恩師にここまで言われれば、世間体は関係なく、民間の中小の会社を訪れるのも理解できるのである。

第二章「鐘紡の人間尊重経営にかけた情熱」

第1節「休む日もなく日夜兵庫工場建設に献身的に努力」
  三井銀行に入社した武藤山治は、本店抵当係に任命され数か月務めた後、神戸支店に配属された。中上川は自ら鐘紡の会長に就任し、綿紡績の発展に力を注ぎ、「これからの日本は大陸との交易を盛んにして発展していかねばならない。それには関西の地に工場を作ることだ。港からすぐ船で運び出せる所がよい」というので神戸の地を選んで、28歳の武藤を兵庫工場支配人に抜擢し、四万錐の紡績工場を作ることを命じたのである。武藤は正月も祭日も返上して日夜工場の建設に腐心、国産ボイラーの7カ月の納入遅れはあったが、操業にこぎつけたのであった。

第2節「人を大切にする経営で人材争奪の紛争に勝利」
  このころ紡績各社が集まって中央綿糸同盟会を結成した。話しあったのは、各社の工員が無断で他社へ移動することを禁じようというものであった。さらに「事実を隠して移動したことが分かれば、そのまま解雇する」という厳しい取り決めが行われたが、鐘紡は中上川の考えで、彼らの同盟会には不参加であったが、近隣の工員たちにとっては、新しくできた近代的な工場で働きたいと思うのは当然のことであった。然し同盟会はこれらの移動を禁じようと全国紙に「鐘紡と綿糸、綿花、石炭、油類などを取引する会社とは、今後一切取引を取りやめる」という声明を出した。これに対して一、二の業者が参画したものの大半の綿糸、綿花商は回答を控え、船舶会社などは要求を拒絶したことは、当然と言えるであろう。この戦術がうまくいかないと見るや、同盟会各社は人事係にヤクザを雇い鐘紡の工員を引き抜きさせ、また武藤支配人に治療一ケ月の怪我をさせた者には、300円を払うという噂も立ったのである。ある晩暴徒の一部が工場を襲撃するという事件が起こり、当直していた武藤支配人らが木刀や角材で追い返し、警察も動きだす事態となった。中上川がこれを聞いて烈火のごとく怒り、三井銀行大阪支店長に「同盟会に与する紡績会社への融資を即刻中止し、これを回収すること」を命じたのであった。この対抗策には、同盟会のメンバーも音を上げ、井上馨に仲介を依頼し、さらに三田の福澤諭吉の計らいで、日銀総裁で三菱の大立物である岩崎弥之助が仲裁に乗り出して、両者の和解が成立した。まず、双方の取引停止措置を取消し、職工に対する転職禁止の大幅緩和を命じ、更に福利の増進を図る規定を設けさせたのである。一方鐘紡には孤高を保たず同盟会に加盟するように命じた。然し、鐘紡はこの紛争の終了後、上海紡績、芝島紡績、河州紡績、淡路紡績、また九州地区では中津紡績、博多紡績などを次々と合併し会社規模を拡大する機会としたのであった。

第3節「金融資本による買占めにも経営力で勝利」
  しかし工業拡大路線を走っていた、中上川彦次郎が明治34年に47歳で急逝し、三井銀行は、今までの工業化路線を放棄し、鐘紡の株を手放したので、武藤は窮地に追い込まれた。武藤は日頃、綿花の取引のあった呉錦堂に「三井銀行に代わって鐘紡の株を引き受けてほしい」と頼んだところ、三井の所有していた株を四万五千株買い取ったのである。ところが、東京市場に鈴木久五郎という青年相場師が現れ、日露戦争で日本が大勝して値上がりした株式の投機で大儲けし、鐘紡株を買い占めて、増配と増資を要求したのであった。武藤は増資については絶対反対を表明し、鈴久が受け入れないとみると、経営から手を引くことを申し出たのであった。しかし、鐘紡の従業員には、武藤の退陣に反対する動きが出てきて、鈴久はこれを無視することはできず、武藤は監督となることで復帰した。大暴騰した株価は、翌年反動で大暴落し、鈴木久五郎は一文無しになり、再び武藤は専務として経営者に復帰した。鐘紡の存亡の危機と言われる一瞬の出来事であった。

第三章「政治の革新に果敢に挑む」

第1節「政治一新論とその実践」
  (1)「政治と経済の結託を糾弾」
  さて、鐘紡を日本一の繊維会社に育て上げた武藤は、政界や官界を見ると、そこには多くの無駄がある事に気が付き、これを改革せねばならないことを痛感した。恩師 福澤は「官」に対する「民の力」を世に知らしめ、「お上至上主義」「官尊民卑」の考え方を捨て、新時代の国民は自分の足で立って行くべきであると説いており、武藤は福澤先生の教えを普及させようと、「政治一新論」を世に出しその中で、「政党政治の浄化と政官財の癒着の排除」、「小さな政府と民営化及び予算の効率化」、「各階層の調和」、さらに驚く事には、「総理大臣の選出を一般投票に改め、任期を三年にし、三選を禁止する」ことを提案した。即ち党の親分や元老が推薦する官僚政治家が総理大臣になるという民意を反映しない制度を改め、また、現状のように総理大臣が度々替わる、不安定な政治状況を解消すべきだと提案したのであった。日々の新聞に報道されるスキャンダルはどうして起こるのか、「政府と実業家が結託するからである」、さらにそれが起こるのはなぜか、「政府が損益勘定のある仕事を少なからず経営しているからであり、政府が保護救済を行うからである」と、断言したのであった。
  (2)「日銀総裁の主導する財界人の集まり、連盟会参加に反対」
  大正11年日銀総裁の井上準之助が主導して、大日本経済連盟会を結成することになった。常任理事には井上準之助、団琢磨、池田成彬、和田豊治、郷誠之助、藤山雷太らが選任され、武藤の先輩である団琢磨が武藤宅を訪ね、財界人が集まるこの連盟会に是非入るように勧めたのであった。もちろん理事扱いだったと思われるが、武藤は加入しない理由を、朝日新聞に長い論文で発表した。「我が国はアメリカと違い、実業家が機会あるごとに政府の保護救済を得んとしている。もし我が国に実業家の一大連合が発足すれば、一層この幣風を助長する危険がある。他の反対理由としては、井上総裁が実業界の人々と密接な関係を有するのは、網紀上許すべからざることと思う。日銀総裁は条例により明らかに官吏である。井上総裁が発起人となり、常任理事になることは、総裁としてあるまじき行動である」ときびしく井上を糾弾した。井上氏がもし実業家のために尽くさんとされるのならば、まず日銀総裁として自己の責任について、自省されるべきである」と天下の日銀総裁の姿勢を新聞上で糺したのであった。
  (3)「大正12年実業同志会の発足と13年の総選挙での国会進出」
  大正12年桜の花が満開のころ、大阪中之島公会堂に650名を集め、実業組合連合会は実業同志会を新たに発足させることになった。実業同志会の会員の大半は、関西の大手紡績会社と中小の工業者で占められた。発足の趣旨について、武藤は自らの筆をとって、次のように述べている。「綱領に基づき政治の革新を行い、 商工業の振興により国力充実を計る。然し階級的利益を代表するものではなく政界が廓清されるならば、本会を解散して主義を同じうする政党に参加する」然し、実業同志会がいよいよ組織を固め、政界へ出て行こうとした直前の大正12年9月1日、関東大震災が起こり、東京が大きな被害を受け、関西から救護物資を運ぶなど新党結成は大きくずれ込んでいった。当時は日本経済の中心は大阪であり、大正15年の東京の工業生産高が438百万円対し、大阪は倍以上の896百万円であり、大阪では、商売の事はすべて業界の自治に任されていて「大阪の財界人の間には、政治の介入を嫌う精神があった」と、のちに大阪商工会議所会頭になった杉道助氏が語っている。実業同志会は4月に東京の初会式を皮切りに神戸、高知、滋賀と全国に支部が広がっていた。然しこの支部から来るべき総選挙に立候補する人物を選び出すのは、大変な苦労を要する仕事だった。政治家に適する優れた人物であっても、立候補に必要な最低限の資金が無ければ無理、また資金があっても候補としての見識が無ければダメ と言うことで、資格審査の結果、31名を公認候補と決定した。そして、大正13年5月10日に第十五回の総選挙が行われた。同志会は大阪市内では南区、北区、東区、西区の全区に候補者を立て、選挙戦を戦うことになった。街中に各候補のポスターが貼られ、「政界の不正を糺し新風を送り込もう」という武藤の提言に、多くの市民は共鳴し、武藤の選挙演説会場はいつも満員であった。そして選挙の結果は実業同志会より8名が当選。3名が無所属で当選。2名は入党辞退。西日本は健闘したものの、東日本に浸透度が低く、全体としては予想以下の結果となった。今回の選挙で武藤が用いた新戦法は、パンフレットの販売だけでなく、清らかな選挙のPRの為の、映画、演劇の上映で、当時としては画期的な手法で政治に目覚めさせようとした。総選挙後6月28日に開会された第四十九議会に武藤は初当院し、7月2日政府の財政方針に対して登壇して浜口大蔵大臣に質問を行い、「行政、財政を整理縮小して国民の負担を軽減するというのは、我が国始まって以来、何ら実行しない題目であります。」と叱責し、財政問題を詳しく論じた。この日の模様を東京日日新聞は「罵倒と揚げ足取りに大部分を費やす議会が、武藤・浜口両氏の応答により初めて議政の府たる観を呈せり」と、武藤の質問演説に賞賛の記事を掲げたのであった。

第2節「議会で堂々たる論陣を張る」
  (1)「帝国議会の不能率さを糾弾」
  これから数日後、武藤は『議員法の改正案』を議会に提出し、法案の趣旨説明をすべく、資料を持って登壇した。「最近我が国の政界におきましても。能率増進の事が問題となっております。しかし最も効率の悪い政治機関は何であるかと問われたならば、遺憾ながら、わが帝国国会と答えざるを得ないのであります」武藤の発言の後、場内からは「ノーノー」「降りろ」と言う野次が飛び、続けて発言するにも、野次でかき消された。憲政会、政友会、革新クラブの議員たちが「帝国議会を侮辱したものだ」「懲罰に該当するものだ」と大きく騒ぎだし、憲政会の樋口議員が懲罰動議を提出し、賛成多数で可決してしまった。「新人議員のくせに生意気だ」と言うのが彼らの本音で、武藤を攻撃したのであった。これに対して、世論は猛反対し、新聞は各紙共に反対の論調を掲げた。東京朝日新聞の社説では、「新議会は、旧態依然の3週間の会期を終えたその業績を顧みるに、武藤山治君の「わが国の政界におきまして、最も効率の悪い政治機関は何であるかと問われたならば、いかんながら、わが帝国国会と答えざるを得ない」と言う発言を、そのまま承認しなければならない。今国会で、正直な批判をした武藤君を、議会を侮辱するものと懲罰に附したが、今期議会において、武藤君以上の内容を有する言論を発表した議員があるや否や、武藤君を懲罰に附する前に、衆議院が自ら顧みる必要ありと感じたるは、豈唯に吾人のみであろうか」当時の世論は、この社説と同じように、武藤に同情的であった。この発言の後、国会の会期も延長され、閉会後、委員会の継続審議の制度が出来たことは、武藤の功績と言って良い。
  (2)「治安維持法に反対」
  翌大正14年3月加藤高明内閣は治安維持法案を提出した。加藤内閣は、護憲三派内閣と言われ、普通選挙、財政緊縮、軍備縮小などの進歩的な政策を打ち出したが、力により社会主義運動を弾圧しようとした。これに対して武藤は反対を表明し、その理由を議会の壇上から呼びかけた。「今日の思想の危機は過去十数年間、我が国が経済を誤ったからであります。現在行われているのは、体内の病毒を癒さんために、皮膚薬を塗布するようなものである」この発言に場内が騒然となった。「善人や知識人に不安を与えるのは、一国の政治において最も望ましからざるものであります」と武藤は所信を述べたが、状況は武藤の念じた通り、だんだんと悪くなり、昭和16年、法律が厳しく改正されると、検挙者が増加することとなった。武藤が危惧した通りの世の中になったのであった。治安維持法が可決成立した翌年の大正15年に、大阪一区(西区)と二区(東区)の補欠選挙が行われることになった。ところが二区(西区)の区割りが前回と変更され、港区が付け加えられた。選挙区の境界を、市の役人が勝手に変更するので、これに異議を申し立てたところ、大審院は補欠選挙の無効の判決を下した。判決後九十日経って、投票が行われたが、東京から大政党の幹部が続々と大阪にやってきた。しかし、選挙区不正分割などがあり、実業同志会の羽室、田中の両氏が大勝した。武藤は大喜びで毫毛を揮ったのであります。それが、今会場にある『正義必勝』の力強い字の額である。
  (3)「震災手形に便乗した不良債権の日銀割引に反対」
  関東大震災の際、実業同志会は復興策を提案したが、武藤が一番心配したことは「過去の例を見ると、国家による救済は少数の大資本家のみに与えられ、多数の被害者は見捨てられる例が多い。今回も、国民への平等な救済がなされるだろうか?」という点であった。果たして武藤の心配通りとなった。すなわち、日銀は金持ちが持っている手形の補償を1億円と見積もっていたが、その後2億7千万円に達し、これを公債発行で処理しようとした。ところが、武藤は壇上に立って、片岡大蔵大臣に厳しく質問し、「大蔵大臣は一月には、震災手形は2億7千万円、日銀で割引されて、今日日銀に残っていると言われたが、私の調査の結果、98百万円残っているだけであります。我々は残っていないような震災手形を、なぜ救済せねばならないのですか」討論は延々と続き、実業同志会と政友会の反対に拘らず、震災二法案は賛成多数で衆議院を通過、3月5日貴族院に上呈された。また、震災翌年の質疑の際、「当時の井上蔵相が、手形の所持者の名前を発表しても良いと、答弁していたが、今回片岡蔵相は委員会で追求されてもこれを拒否しているのはなぜか」と、大蔵大臣を攻め立てる一幕もあった。3月14日、片岡蔵相が議会で「ただ今、東京渡辺銀行が破綻を致しました。」と発言し、この誤報で全国へ取りつけ騒ぎが広まり、休業、倒産に追い込まれる銀行は30行に上り、不況の道を歩み始めた。そして、貴族院の中で、震災手形法案はこの際延期すべきだという声が多くなってきた。武藤は、これはチャンスだと尾崎行雄と相談し「3月18日、震災手形法案反対国民大会」を 東京芝公園東照宮脇公園 で開催したところ、3万5千人の聴衆が集まり。15名の講師が熱弁を揮って震災手形法案の廃案を訴えた。武藤は「今問題になっている、台湾銀行から鈴木商店へ貸し出した金額は、2億8千万円に上りますが、今後、単に台湾銀行を救済することは、アバズレ女に引っかかっている道楽息子に金をつぎ込むバカな親父と同じであります。国民の税金を、このような救済に投ずるのは、許すべからざる罪悪であります。」と発言すると、3万5千人の聴衆から割れるような拍手が起こった。大会の決議文は、直ちに貴族院に手渡されたが、23日貴族院本会議において、論戦が行われた。結局、法案は賛成多数で可決された。また、この頃台湾銀行が支払停止になる状況となり、「救済に関する緊急勅令案」が枢密院本会議で審議される事になったが、結局この勅令案は「憲法の精神に反する案件なり」と言うことで、若槻内閣は総辞職することになった。

第3節「昭和3年の普通選挙でキャスティグボートを握る」
  (1)「書物による政治教育」
  大日本帝国憲法が発令されたのが明治22年で、翌年第一回衆議院総選挙が行われた。この時の総選挙は、ある程度の納税者でなければ選挙する権利はなかった。「すべての人に投票する権利を」と主張した憲政会、政友会、革新倶楽部は議会で多数を占めるようになり、普通選挙が現実味を帯びてきた。実業同志会も賛成したが、今度選挙権を与えられた一般庶民が果たして公正な選挙活動、投票が出来るかどうか。政治家の中には金銭で票を買おうとするもの、選挙区に鉄道、港湾、道路などの誘致を行い、票を得ようとする者がいて、このままでは適正な選挙が行われないことを武藤は恐れた。投票の前に、まず政治教育が大切だ・・と、福澤諭吉の「学問のすゝめ」をなぞって「普通選挙」を短くした、「普選のススメ」を刊行し、日本全国へ配った。武藤は「この制度は明治維新にも優さる政治上の大変革である」と説明し、「新たに旅立つ旅人が、投票権という重い荷物を持って道中するようなもので、これを狙う政界の護摩の灰にやられぬように用心することが大切です。護摩の灰とは、旅人のマネをし、道連れとなって旅人が油断している間に、所持金を持ち逃げする泥棒である。どんな名案であっても、財源なしの政策はどのようなものでも相手にしない。財源があっても、それが一方の負担を増すものであれば、有り難いものではない。世の中は、合い持ちよりである」武藤は減税、増税について具体例を挙げて説明した。
  (2)「演劇、映画による政治教育」
  次に武藤は演劇によって、面白く分かり易く政治はどうやって動かされていくかを説明しようとした。目標は英国のシェークスピア、日本の近松門左衛門で、この偉大なる芸術家を目指して、武藤は次々と脚本を書き、実業同志会の若手メンバーが上演し、好評を博した。それらには「醒めたる力」「日輪を拝め」「変心か改心か」「悪魔払い」「第三党」「政界の黎明」「糠び」「民衆裁判」「金解禁病」「清算」「産業日本行進曲」などの作品がある。映画による政治啓発作品も製作し、講演会と共に全国各地を巡回上演して政治意識の啓蒙を計ろうとして、この7年間に826回行った。アニメ(映画)は「宝珠の囁き」「政治教育か刷新か」「選挙違反」「重税?悪税?」など17本。劇映画は「偽佛」「善政に生く」などがあり、「偽佛」は原作武藤山治、脚色幸内純一となっていて、無声ではあるが、字幕が入っていて見ごたえのあるものであった。
  (3)「キャスティングボートで軍事救護法等政策目標を達成」
  昭和3年2月 田中義一内閣が衆議院を解散したため、いよいよ普通選挙が行われ、初めて投票権を手にした国民が政治に関与することが出来るようになった。選挙結果は、政友会219名、民政党217名、同志会は武藤、河崎、千葉、松井の4名に止まった。選挙事務長の杉道助は「武藤の理想が実際に政治に中で受け入れられなかったこと、また、新しく誕生した投票者の理解を得るに至らなかった」と、「元気なく敗因」を分析しました。武藤は、相変わらず元気に振る舞って「政友会、民政党の差は少ない。今に向こうから、頭を下げてやってくるよ」と明るく周りの者に語りました。果たして、政友会の田中義一総裁から電報が届き、「政策協定を結びたい」との申し出があった。絶好の機会とばかり、実業同志会の公約の多くを主張し、4月に政友会との政策が結ばれた。武藤は、「政界の浄化に全力をつくしたつもりだ」と詰めかけた記者に明るく語った。実業同志会は少人数ではあったがキャスティングボートを握り、武藤の政策を田中総裁が実現しようと努めてくれることを政実協定の成果であると確信したのであった。特に、長年実現に努めてきた軍人優遇について、中身がより充実する時が到達したことに、政治家として生きがいを感じていた。昭和5年第二回の普通選挙が行われ、(昭和4年実業同志会から国民同志会に改称)、6名の当選者を出した。然し、このころから武藤は、政界から手を引いて、選挙をよく理解出来ていない人々の政治教育に力を入れることが、今一番重要なことだと考えるようになった。そして、昭和7年普通選挙の立候補を中止することを発表した。

第三部「正論に殉ず」

第1節「福澤諭吉の恩に報いるため、時事新報の再建に全力」
  武藤は自費を投じて、大阪の大手前に政治教育の殿堂の場として、1,500人収容できる、國民會館を建立する計画を実行に移した。丁度その時、時事新報が経営に行き詰まったという報が入ってきた。時事新報は、福澤諭吉が、明治15年に創立した新聞社で、慶應義塾と共に、福澤が始めた二大文化事業であった。このうちの一つがつぶれようとしている。福澤の門下生であり、時事新報の名取社長、千代田生命の門野社長、三井銀行の池田筆頭常務理事らが集まり、「時事新報を再建するのは、武藤君の他はいない」ということで、説得を始めた。衆議院の立候補を見送る声明を出し、鐘紡の社長から身を引いた武藤は、舞子にある石谷山で焼き物でもして、趣味に生きようとしたところへ、先輩からの強い要請があったのだった。家族からは、「もう歳だからやめてください」との反対があったが、「福澤先生にお世話になった恩返しをするのなら、今をおいてない」と単身上京、時事新報の経営、執筆、販売すべてを統括する相談役に就任した。

第2節「二年で再建は軌道に」
  早速、決算資料、会計帳簿をみると、とても事業会社とは思えない、めちゃくちゃな経理処理をしており、毎月7万円の赤字が出ていることに驚いた。更にもっと驚いたことに、財務担当の稲垣常務が飛んできて、「今月の社員の給料の支払いの目途がまだ立ちません」と資金繰りの説明を始めた。「君、そんな気の毒なことをしちゃあいかん。早速銀行と話をしよう」と、銀行へ出かけ、武藤の個人名義で、三井銀行から10万の貸し出しを受け、従業員の給与の支払いを何とか済ませることが出来た。一方、紙面については、新聞社の社長になったので、自ら論説を書いて、社会を啓蒙せねばと、毎日、夕刊のスペースを伊藤編集長に用意させ、署名入りで小論を欠かさず掲載することが決まった。題名は、武藤自らが決めた「思ふまま」。武藤は、回章を出すことにより、トップの方針を部下に通知する鐘紡時代の形式を採用した。2年間に200号近い回章を出して、社員の心を引き締め、このままでは倒産してしまう時事新報を、立て直そうとした。武藤は、株主総会で、「時事新報の財政状況は、深刻な状況になっています。しかし、赤字を一年で改善することを、私の目標とします。」と確約し「編集方針の改革」「財政状況の一般公開」「今期賞与の全廃」「株式未払い金の回収」などの改善策を、一時間かけて説明した。新聞は紙面を作るだけでなく、広告を載せたり、紙面にはカラフルな写真を載せたりして、多くの読者に読んで貰わなければならないと、武藤はこれらの仕事の先頭に立って指導していった。その結果、2年目には業績が黒字に回復することになり、福澤先生の墓前にご報告できる、というところにまでこぎつけた。武藤は、鐘紡淀川工場で染色作業を行い、数多くのノウハウを持っていて、これを新聞印刷の色刷りに応用して成功することができた。武藤は色刷り輪転機の成功を紙面に誇らしげに掲げ、購読者はきれいな紙面を喜んで読んだ。

第3節「ジャーナリストとして「番町会を暴く」」
  武藤は、時事新報の業績を回復させたが、同時にジャーナリストらしく、社会主義の追求と社会悪の撲滅に勢力を注いだ。東京市内の多くの校長の収賄行為についても、実態を暴露したのであるが、もっと大規模な不正が行われていることを探知し、これを新聞に連載する準備を始めた。武藤は、「番町会を暴く」というキャンペーンを開始することになった。番町会とは、麹町番町に財界の大物、郷誠之助の邸宅があるところで、大正12年以来、毎月14日に政財界の大物が集まって、番町会の会員として団結を図っていた。台湾銀行が所有している帝人株が、日々上昇している最中、帝人が増資をするという話が出て、このおいしい株の肩代わりを、一度に10万株、番町会のメンバー相手に帝人の役員 河合良成が中心になって進めたことを、武藤は見つけた。然し三土鉄道大臣、鳩山文部大臣、中島商工大臣が、この取引にかかわっていることを知り、「番町会を暴く」の連載を辞めようと、打ち切りを指示した。「折角ここまで来たのですから」と側近の和田が言うと「あの記事の使命はもう終わったとし、記事中止の声明文には「国家が新聞に求める天職を尽くしたのである」と書いた。武藤が「番町会を暴く」の計画を止める前から「番町会への攻撃はひどすぎる」「誇張して攻撃している」「個人攻撃が度を過ぎている」というような、擁護派からの苦情の手紙や、住吉の自宅へは、無名の脅迫文が送られて来たりした。番町会のメンバーの後に暴力団がついているとの情報を販売部長の千葉が掴んできたときに、森田編集長は「お宅からの往復に、護衛でもお付けになったら如何ですか?」と進言したが、「君たちの心配はありがたいが、これは僕の思うようにさせてくれ」と、申し出を断ったのであった。

終章

第1節「テロに倒れ、非業の死」
  「番町会を暴く」の連載を中止して数日後の3月8日、武藤は何時ものように、北鎌倉の自宅から駅へ向かった。その途中、一人の男が飛び出して、武藤を庇おうとした青木秘書の頭を二発、続いて武藤の腹部などに数発の銃弾を撃ち込んだ。その後、その男はその場で自殺した。この犯人は、福島新吉という男であったが、関係者が三人とも死亡したため、彼の背後関係を、鎌倉警察や時事新報が捜査はしたが、決定的な証拠がなく、迷宮入りとなった。4月には検察による関係者への捜査が始められ、5月には、高木帝人社長や黒田大蔵次官ら11名が逮捕、起訴されたことを各新聞が一斉に報じた。昭和10年6月、東京地方裁判所で公判が開始され、4年に亘る裁判の結果、意外にも全員の無罪の判決が下ったのであった。

第2節「告別式・葬儀・埋葬式」
  (1)3月9日に鎌倉の大庭病院へ入院した武藤は、翌10日、家族親族に見守られながら、68歳の生涯を閉じた。13日の早朝、まだ薄暗く、昨夜の残雪の中、武藤を載せた霊柩車は北鎌倉の家を出発し、遺族、近親者の車に護られて品川を通過、慶應義塾の前を通り、多くの塾生の見送りを受けるなか、時事新報社の正面に到着した。待ち受けていた、門野会長以下社員全員が黙とうする中、東京駅へ向かった。東京駅は、武藤とお別れの対面をしようと、四番ホームに入りきれないほどの東京市民が集まった。この夜 武藤は、兵庫県知事、神戸市長はじめ、大勢の神戸市民に迎えられ、懐かしい住吉の自宅へ帰った。
  (2)そして、3月16日告別式は東京の時事新報社、大阪では國民會館の二か所で同時に行われた。東京では、まず門野幾之進会長が弔辞を読みあげ、「ああ、武藤山治君、わが時事新報を掲げて、敢然社会の害悪と戦い、遂に凶弾に倒れるところとなりぬ。創立者の福澤諭吉先生は、しばしば刺客の目標たりしが、よくその難を免れしに、図らずも、君が破邪顕正の筆ゆえに、昭和の御代に命落とさんとは。悲しい哉、祖国は熱誠の国士を奪われ、吾社は偉大なる統率者を天国へ送る」という、悲痛なものであった。また、同日、大阪の國民會館での鐘紡の社葬では、津田信吾社長が血を吐くような弔辞を、「故 武藤山治氏は、明治27年鐘淵紡績の人となり、以来40年間、全生命を傾倒して鐘紡経営の衛に当たられた。鐘紡の至宝とするところは、筋力に非ず。また、機械に非らず。実に武藤氏による聖なる社風なり。また、武藤氏は時事新報の経営を任せられるや、恩師福澤先生のために敢然として筆陣を張り、警世の金言は日々の紙上を飾りたり。吾らはこの英雄を失う。現代日本の大いなる損失に非ずして、何ぞや」と涙ながらに読み上げた。このあと、大阪の國民會館では、3千人を超える参列者が会館の外まで続いた。鐘紡都島工場の従業員が見送る中、霊柩車は長年住んだ舞子の浜にある武藤邸へと向かった。
  (3)この夜、淡路島が近くに見える舞子浜に武藤の遺体は安置された。18日には、明るい陽射しの中、少女聖歌隊の歌声に送られて、近くにある石谷山の墓地へと向かった。永田神父は香り高い香を焚き、遺族が最後のお別れをし、墓地に埋葬された。

第3節「遺訓」
  番町会事件を終えるに当たり「犯人を作るのは僕の本意ではない。ただ、悪人がいることを世に知らせればよかったのだ、正しいことが通る世の中が大切である」と述べ、「行い正しければ、眠り平らかなり」の遺訓のとおり、武藤は安らかに石谷山の墓地で永遠の眠りについたのであった。


                文責

                公益社団法人國民會館




お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ