ホーム > 武藤記念講座(講演会事業) >講談師 旭堂南陵氏 「大鐘紡を作った男〜武藤山治物語 」  

武藤記念講座(講演会事業)

第1004回武藤記念講座要旨

  2015年6月20日(土)
  於大阪「武藤記念ホール」
  講談師 旭堂南陵氏
  「大鐘紡を作った男〜武藤山治物語 」 

セミナー


武藤記念講座千回記念の掉尾を飾り、武藤山治が1世紀前に使用した机を釈台に「武藤山治」を語って、会場をうならせた旭堂南陵先生

<目次>

                  

第T編「青雲の志編」

はじめに「生い立ちの記 」

第1節「明治維新前夜、美濃の国海津に生誕」
  武藤山治先生は、日本が大激動をした慶應三年三月一日に岐阜県海津郡と申しますから、今の海津市に生を受けました。慶應三年と申しますと、徳川幕府の大政奉還、王政復古のあった年でございます。「タネ」「何でございます、旦那様」「よい子を生んでくれた、礼を言うぞ」「何と水くさいことをおっしゃってます」「この子はこの海西村の庄屋の忰として、人の上に立っていくべき子である。そこでこの子の名であるが、この村は長良川と揖斐川とに囲まれ水害も多い。儒教の教えの中に国を治むるに大事なことは、治山、治水とある。そこで山を治むると書いて山治と名づけようと思う」夫の國三郎の言葉に「山治、いい名前でございますねぇ」こうして山治少年はスクスクと育ってまいりました。

第2節「10歳、実家の大広間で自由民権運動の演説を聞く」
  家は庄屋をしているだけに広々としています。部屋の襖を取り外すと数百人は入ろうかという大広間がございました。「お父さん、どうしてこんな広い大広間があるのでございます」「それはな、お前のおじいさん」「勘六じいさんでございますね」「ウム、勘六じいちゃんはお説教が好きでね、節談説教や絵解き説教をするお坊さんを招いて説教の会を開いて、村の人を招待していたんだよ」今の方は僧侶のお説教というと、何となく小むづかしいことを言うイメージをお持ちかと思いますが、江戸時代の三大話芸と申しますと、講談、落語、説教の三つです。何を隠そう、何も隠してませんが、講談や落語もこの説教から生まれたもので、明治に入って衰えて、節談説教のかわりに浪花節がとってかわりました。東西両本願寺が芸能みたいなことで布教をするなと言って禁じたのでございます。今も十数人はいらっしゃいますが、恐らく勘六さんは、村人への娯楽を与えようとしてたんでしょう。名古屋から鈴鹿にかけてのお寺には名人がいてたという記録が残っています。この広い座敷をやはり父國三郎は演説会に利用しています。「山治、今夜は自由民権運動の方々の演説会であるぞ、お前も聞きなさい」父國三郎は博覧強記の上に新しいもの好きで、明治初年全国を席巻した国会開設運動に加わり「山治、今夜は自由民権の演説会を開く、お前も十才になった、おとなしく聞くように」「お父様、自由民権運動というのは」「人というのは生きていく上に、色々と自由というものが保障されなくてはならない、物を自由に言う、仕事を自由に選ぶ、政府は人の持っている自由や権利を奪ってはならないんだよ。しかるに今の明治政府は人々が政治に参加することさえ押さえつけている」「その政治に参加することというのは、父上がずっと言っておられる国会開設のことですか」「政治を動かしているのは、薩長土肥の連中だ。維新に手柄を立てたとしても、いつまでも国民に権利を与えないのはよくないことなのだ。父もな、この運動を提唱せられた板垣退助先生を尊敬している。少しでもお役に立ちたいと思って演説会を開くのだよ」「ハイ」とうなづく山治少年、父國三郎は自由民権運動に傾倒し、後に国会議員となっています。山治少年は子供ながらもこの演説を開いている内「この人の演説は上手だ。この先生はわかりにくい」 と心の中で思うようになり「お父さん、私も演説のうまい人になりたいです」「お前、演説に興味がわいて来たのか」「言葉だけで人を感動させるのですから、言葉の力は恐ろしいと思います」「よく理解をした。言葉で人を感動させられるのは、演説と講談だけだ。旭堂南陵の講談も聞け」まさかそんな事は申しませんが、演説をやってみたいという思いが山治の胸の中で大きくなってまいりました。

第3節「福澤諭吉の演説に憧れる」
  山治十四才の時「お父さん、どうしたら演説がうまくなりますか」との問いを父に思いきってぶつけた山治、「山治、父が日頃から尊敬している一人に福澤諭吉先生がいる」「お父さんの日頃読んでいる、学問のすゝめ、西洋事情なんかを書いておられる先生ですね」「この先生は幕府の使節団の一員として欧米に三度も行っておられる方だ、私はお前を海外留学させたいという夢を持っている」「本当ですか」「実はな、英国のケンブリッジ大学に行けるようにと、お金も貯めてある。今はその金は親戚に貸してあるけど、いつでも返してもらえるようにしてある」「そうですか。嬉しいですね」「これからは、英語で演説できるぐらいでないとね」「ハイ、お父さんの期待に応えてみたいものです」「そこで、福澤諭吉先生は慶應義塾という学問所を開いておいでになる。そこには演説館というのがあり、演説の稽古も出来るそうだ。この義塾でゆくゆくは学問を積み、ケンブリッジへ行くとよい」当時はまだきちんとした学制が整っているわけでもなく、先ずは年若の子供達が入る、幼稚舎、といっても今の幼稚園ではなく中、高生ぐらいの子達が入るところで、和田義郎という方がご夫婦で世話をされ、ここに寄宿させていたので、和田塾と呼ばれていました。

第一章「14歳、慶應義塾に学ぶ」

第1節「父と東海道を10日間歩いて東京へ」
  こうして明治十三年、山治十四才父三十七才の時、故郷を離れることとなりました。この当時は鉄道といっても新橋横浜間だけでしたから、四日市に出て船に乗るルートか、東海道を草履をはいてテクテクと行くしかありませんでした。「山治、出発しようか」この時には何しろ庄屋さんのお坊ちゃんですから「山治ぼっちゃん、バンザーイ」「山治ぼっちゃん、頑張るんですぞ、偉い人になって故郷に錦を飾って下さいよ」 と何しろ東京へ行ったことのない村の人達です。ワイワイガヤガヤと見送られて村を出ていったのです。歩いている途中で山治少年が気がついた。「お父さん、こちらは東海道への道ですね」「そうだよ、名古屋への道だよ」「桑名から四日市に出て船で行くと早いし、運賃と宿賃を比べても運賃の方が安いと思いますが」「山治、船で行くとなるほど早い、しかし、浜名湖を見ることができるか、富士山を近くでおがめるか、熱海に泊まったことはあるのか、浮世絵に描かれている風景を学びなさい」あとで、おかぁさんに聞くと「あれは単にお父さんは船がこわいだけのこと、あなたのお父さんは、よく物事を考える人だけど、考えて考えて考えているうちにお金もうけの機会をのがしてしまう人なの」とのことでした。しかし、山治少年にとっては父との徒歩の十日間の旅は、父の物の考え方や親子の伴を確認するのには、まことによい旅でした。「お父さん、これは噂に聞く海の魚のおつくりですか」「そうだ、鯛かも知れんな」 山治少年にとって故郷は海から遠く、魚と言えば干物ぐらいなもの、おつくりや魚の煮付けなんか食べたことがなかっただけに、つくづく徒歩の旅でよかったと思ったそうです。

第2節「慶應義塾幼稚舎(和田塾)へ入学」
  「和田先生、岐阜の海津からやってまいりました者です」「ハイハイ、自由民権運動をしている方達から、聞いております。演説がうまくなりたいとか」「ハイ、山治と申す伜がこの子です。山治、こちらがこれからお世話になる和田先生だよ、あいさつしなさい」「先生、よろしくお願い致します」「山治さん、あなたがこれから指導も受けるであろう福澤諭吉先生は、演説を非常に奨励されてましてね、この和田塾でも演説会を、しばしば催しますが、その時には必らず福澤先生がこられます。わかりやすくて役に立つお話をして下さりますから、自然、自然とお話が上手になりますよ」山治少年は和田先生やその奥様のやさしい人柄にひかれていったのでございます。この和田塾は本塾へ入学する前の寺子屋式の塾でありまして、八、九才から十四才位までの子が寄宿生活をしながら学ぶところでありました。この和田塾は、上級生下級生という差別観念がなく、全く家族同様であったそうで、山治少年が驚いたことがあった。地元の尋常小学校では、教師がいばり「山治」なんて呼び捨てですが、ここではちがう。「山治さん」とさんづけです。まだ慣れない頃「和田先生」と言ったところ「山治さん、先生と言わず、和田さんでいいのですよ。ここでは一人一人の人間が一人前として扱われ、お互いがお互いを尊重しあう心を育てるところです。男も女も金持ちも貧乏人も関係ありませんから。後年武藤山治が鐘紡の職員や労働者を大事にする精神は、ここで養われたのでございます。順風満帆のように見えた山治少年の和田塾の生活も一年もたたない内に、ケンブリッジ留学の夢が断たれる事件がぼっ発いたしました。「山治、えらい事になった」「お父さん何ですか」「少年のお前にはむつかしかろうが、松方公が西南戦争の際に発行した不換紙幣じゃ、急激に通貨を収縮させたもんじゃから、お金の値打ちはさがり、農地の方も売ろうにも四分の一の値打ちしかないようになった。お前のケンブリッジ留学費用も安心して貸してたんじゃが、先方が破産して一銭も返らんようになってしもうた」「お父さん、それでは私がケンブリッジへ留学して文学を学びたいという道は絶たれたということですか」「すまん、そういうことじゃ」「いいじゃないですか、この塾でも色々と学びました、急激な不換紙幣の整理で多数の人が破産し、自殺をした人も多くいるとか、命があればいいとしましょうよ、お父さん、そう気を落とさず、頑張って下さい」「逆さまやがな、お前になぐさめられるとは思わなんだ」 てな事があったかどうか知りませんが、山治の豊かな留学計画は頓挫してしまいます。

第3節「本塾で福澤諭吉から人生訓、そして政治・経済・文学を英語で学ぶ」
  それでも和田塾は楽しく、福澤諭吉もやって来ては演説をしてくれます。「皆さん、健康というのは大事なことなんです。健康な時はその大切さに気がつかないのです。病気になって初めて健康の大切さに気がつくのです。日頃から体を鍛えて立派な体格をつくりましょう」とか「人にはえらそうにしないこと、言葉や態度は親切にそして丁寧にしましょう」と後年の山治の生き方に大きな影響を与えるようなことを諄々と説いたのでした。これは福澤諭吉が欧米視察の折、イギリス式の親しみを持つ教育法に感銘を受けたからで、山治が「一同、起立、礼」と言った号令のかけ方や直立不動だとか、ドイツの軍隊教育をまねたやり方には反発をしていたのは、福澤諭吉に接したからでありますが、しばらく和田塾にいた山治は十八才になる明治17年7月に慶應義塾本塾を卆業するのですがそれまで本塾での生活を過ごします。英語、中国語、政治、経済、文学、等を勉強しますが、政治、経済、文学は英語中心のため、英語はメキメキ上達をいたしました。本塾に移って一年ばかりたったころ、どっと出た大熱に襲われ寄宿舎で寝込んでしまいました。見舞いに来た和田先生が「この容態、ただの風邪ではありません、順天堂に私の知り合いの先生がいるから、きちんと見てもらいなさい」人力車に乗せてもらい本郷の順天堂へ、時間外でしたが、佐藤という先生が診てくれました。「あなたの心臓の位置が肺に水がたまっているため、その水によって位置がずれてます。あなたの左の手を貸してごらんなさい。正常な人なら心臓の音はここからですが、ウンと左にズレているでしょう。肋膜炎です。すぐ入院しましょう。そして症状が全快したら空気のいいところで半年ばかり養生して下さい。故郷はどこですか」「岐阜の田舎で海津というところです」「フーム、そこならいいでしょう。故郷で養生してください」 この時に福澤諭吉先生の健康が一番という言葉が身にしみたのでした。「俺は馬鹿だなぁ、他の学生は夏休みの二ヶ月はみんな故郷へ帰っているのに、父親の儒教の考え方に影響されていたのだろうか、学成らずんば、死すとも帰らじと言うが、死んでしまっては何にもならん、猛勉強も程度もんである」と悟り、彼はこれから週に一、二度検温をするなど健康に留意する生活を送るようになったのです。合計八ヶ月は休みましたが、元々勉強はできた方ですし、養生中も読書等は怠らなかったため、元のクラスに復帰、福澤諭吉先生からも「山治さん、健康回復おめでとう、これからも一緒に学問致しましょう」との言葉を賜ったのである。

第二章「18歳、米国へ遊学 」

第1節「働きながら英語が学べる苦学生の道を決意」
  こうして無事に、明治十七年七月卒業、卒業生は十七人、ある者は役人に、ある者は学校の教師になっていきましたが、彼は学友の一人、和田豊治君から「山治さん、それから桑原虎治さん、僕の知りあいが、アメリカのサンフランシスコにいるんだ。甲斐さんと言うんだが、この方がサンフランシスコトレーディングニュース新聞社の社主ジャコブ氏と知りあいで、日本からの苦学生を受け入れるというのだ。どうだ」「苦学生というのは」「働きながら学ぶんだよ」「働きながらと言うが、働らき口はあるのか」「それがサンフランシスコは、金山の発見で急に開けた町で人手が足りないそうだ。女中つまりメードだな、メードさんの数も足りず、スクールボーイをメードがわりに金持ち連中は使ったりしているそうだ」「どんなことをしてる」「窓ガラス拭きとか庭の芝生の水やりだとか、皿洗いに朝食の準備とかだな。聞いたところによると朝食の準備にはビスケットやパンを焼くこともあるそうだ。パンを焼いているうちに本職になった人もいるそうだ」山治は「働きながら学ぶというのもいいもんだな。語学の勉強にはもってこいだ」直ぐに賛成をし、帰郷して話をすると「お父さんのうかつからお前をケンブリッヂにやることができなかったが、十八才のお前が決心したことだ後押しをしてやる」 と言って出してくれた三百五十円の金「アメリカへ行くんだ洋服を買え、船賃は片道下等で四十円ぐらいかな、帰りの運賃ぐらいは残しておけよ」「ハイ」と返事をしたが、心配性で山治を溺愛していた母は「どうしてもアメリカへ行くのかい」「これからは英語が大事ですし、広く世間を知ることが福澤先生の教えでもありますから」「でも船は沈むよ」「おかぁさん、昔よりも船も大きくて安定していますよ」「それでもアメリカ人は乱暴かも知れないよ」「私の行くサンフランシスコは落ちついた町ですし、今のアメリカ人はキリスト教の精神がしっかりと土台にありますから」 それでも母タネは心配のあまり、とうとう寝込んでしまう始末でした。山治は少し母の事は気になりましたが、明治十八年一月二十七日、シティオブトーキョーという外国船で出航しました。二千tほどの船で口では 「安全ですよ、お母さん」 と言ったものの、この船は後に観音崎を航行中に火事を出して沈没したのでした。こうして和田豊治、桑原虎治、そして山治は一番下等の船室での旅でした。ハワイへの移民千人程も乗り込み船内には淋しさはどこにもありませんでした。食事も塩豚とジャガイモの煮たやつほど上等な物はありませんでした。

第2節「20日かかって米国到着、たばこ工場で見習職工に」
  約二十日間の船旅で二月十八日にサンフランシスコに到着しました。 港にはジャコブ氏が迎えに来てくれていました「ようく来たねぇ、船酔いはしなかった」「私はひどい船酔いで、三日間は食事もノドを通りませんでした」英語が少し出来る山治はこう答えて苦笑いを致しました。お三方、とりあえずニューコンチネンタルホテルをとってあるから」「おい、ホテルだぞ、イギリスにコンチネンタルホテルというすごいホテルが、ロンドンにあると本で読んだことがある、ニューだからそこの系列かも知れん」 三人は期待に胸をふくらませて参りましたが、「オイ、これはニューではなくオールドではないか」と嘆くほどの安宿でした。三日ほどいてサンフランシスコの街の様子なんかを探っていると、ジャコブ氏がやってきて「下宿と仕事が見つかったよ」
  もちろん、このやりとりは英語なんですが、英語でしゃべってもよいのですが、それでは皆様にわからないので、あえて日本語でやらせていただきます。何ですかその疑わしそうな目は。三人が案内されたのは葉巻煙草製造所、「今日から皆さんはここで働らいて下さい。給料の中から学費を稼いで下さい」言われて、葉煙草とそれを巻く道具と白い前掛けを渡されて机の前にすわらされました三人、山治は「おい和田さん、我々はスチュアートミルとかスペンサーとかを学んできたんだよ、それが葉煙草巻きの職工かい」「山治さん、そりゃ慶應義塾とは大違いさ、でもね、ここで語学の力をつければいいのさ」でも少し心にひっかかりを覚える山治でした。ある程度相手の言うことはわかるのですが、返事をするのがややこしい。そこで三人は「イエス、イエス、イエス」ばっかりだったそうです。

第3節 閑話休題「英語の失敗談」
  ある日散髪へ行った時、今でこそ「ショートカット」と言えば、短かい髪型のことで英語と日本語が同じ意味ですが、進駐軍が来るまでは「短くきって」というと、ほんの少しだけ切るという意味で、髪の毛を長く残す意味だったので、英語と日本語の意味は反対でした。「和田さん、散髪に行きましょう」「つきあうよ、そんなに伸びてないけど、アメリカのバーバーというのを見学だ」二人が行きまして、和田豊治は「ショーテスト」最とも短かくと言ったんです。和田豊治にすれば「ほんのちょっとだけ切ってくれ」 という意味の英語だったんですが「ショーテスト、オッケー」バリカンを持ってこられて、バサバサバサ「オイオイ」と言っている内に丸坊主、山治は「リトルショート」少し短めにと言ったが、こっちも刈り上げられ、今のスポーツ刈りの有様、下宿へ帰って来て「和田、ユーは刑務所へ行って来たのか」 当時丸刈りは囚人だけだったのです。「山治、お前はいつの間に黒人になった」 当時刈り上げスタイルは黒人だけだったのでした。二人は少し髪の毛が伸びるまで、町を出歩かなかったそうです。

第三章「米国での勉学とビジネス 」

第1節「パシフィック大学のスクールボーイに」
  山治青年は、こんなことをしていては学校へ行けないぞと思い、スクールボーイと言って、日本の女中さんの住み込みのように、相手の家に住み込み、昼間は学校に通いあいている時間に、家事の手伝いをする、そんな口を探している時、サンフランシスコから四十マイルほど離れたサンノ・ゼーという町に、パシフィック・ユニバーシティという私立の大学があり、そこでは七八十名ほどの寄宿生がいて、その寮での食事の給仕係が必要との情報を得たのでした。「食事係をしながらそこの大学へ通えるのか、よし決めた」給仕係ぐらい簡単だと思いきや、朝6時に寮から食堂へと出てテーブルの準備、7時から8時までの間は給仕の仕事、それが終ると自分の食事をして今度はスプーンやフォークやナイフを洗い、昼の食事のためのテーブルを用意して9時近くになって学校へ飛んで行き、11時半に食堂へ来て昼食の給仕をし、そして学校へ飛んで行き5時頃帰って夕食の用意をして給仕やら後片付けをして寮に帰るのが9時頃という、大変な仕事でした。それでもその仕事をこなしましたが、嫌な思いは日本人を軽蔑しているような態度をとる学生がいたことでした。ある日のこと「山治、お前はスピーチがうまくなりたいと聞いている。今度弁論部主催の弁論大会があるから、どうだニッポンのことをしゃべってみないか」「ありがたい、サンキュー、やらしてくれ」 山治は、日本の立憲政治の話やら日本の文化度の高さや進んでいる文明のことをしゃべったのですが、翌日から日本のことについて質問をしてくる学生も増え、小馬鹿にした態度がなくなったのでした。

第2節「初めてのビジネスは、米国での醤油の販売」
  この大学で学んでいる内に、あの「稲むらの火」で有名になった浜口梧陵さんの浜口家、こちらは大きな醤油会社を営んでいましたが、ここの大番頭高島小金治氏が、噂を聞いたのか山治青年を訪ねてきました。「山治さん、今度、わが社がサンフランシスコに店を出すことになりました。どうです、商売というものを学ぶつもりはありませんか」 山治はビジネスということに興味を持ち「やらせて下さい」と二つ返事、大学を止めて醤油店販売主任となったのでした。「山治さん、ニッポンの醤油、ソイソース、このままでは売れないと思うのです。臨時にアメリカ人のソース職人を雇い入れました。彼に味の工夫をさせてみます」高島さんはこの職人に工夫をさせました。酢や唐辛子を入れたり工夫をして、これならアメリカ人の舌も受け入れるであろうというのをこしらえあげました。高島さんは目立つように万古焼に松に日の出、そして鶴を描いた三角形の瓶をつくり、ミカドソースとして売り出したのです。日本の本社のヤマサのロゴは小さく扱ったのですが、これが大ヒット注文に応じきれないほどで 「山治君、この勢ならニューヨークにも支店が作れそうだ」「高島さん、よかったじゃないですか」喜んでいたのも束の間、売れ行きはパタッと止まったのでした。「おかしい、売れ行きがパッタリと止まった。山治君、原因をつきとめてくれ」「ハイ、わかりました」 山治青年は取引先や小売店、そして消費者も調査、わかったことは、アメリカ人がまだ醤油になじみがないこともさることながら、何とアメリカ人は、ミカドソースの瓶が気に入っただけだったのでした。「ウーン、醤油進出は失敗か、なまじアメリカ人に好かれるように味を変えてしまったのもいけなかったようだ。アメリカ人好みのソースならいくらでもあるからな」 こうしてヤマサの第一次アメリカ進出は失敗に終りました。

第3節「21歳、帰国の途へ」
  山治は残務整理をまかされ、残務整理終了後は「アメリカ留学も約三年か、もういいだろう」と思い、シティーオブシドニー号に乗ってニッポンへ帰ってまいりました。高島さんから慰労金をもらった彼は、日本で初めてという事業を成功させます。これは山治帰国後の活躍話として後半にお話し致します。

第U編「山治大鐘紡を築くの巻」
第一章「帰朝後若くして起業家、文筆家、英文寄稿家として大活躍」

第1節「21歳、日本初の新聞広告代理店を創設、「米国移住論」を丸善から出版」
  足かけ3年のアメリカ留学を終えた山治は、ヤマサ醤油のアメリカ版ミカドソースの後始末をして、百円ほどの慰労金を貰いましたが、当時の月給の4、5ヶ月分程度ですので、ノンビリもしていられません。加えて明治の二十年前後の頃は大変な不景気で就職難でした。ミカドソースの世話をしていた頃の上司高島小金治氏や福澤諭吉先生も骨を折ってくれたのですが、なかなかなよい職が見つかりませんでした。下宿も高い日本橋から神田へと引越ししました。「弱ったな、何か食べていくための手段を見つけなければ貯金もすぐに使い果たすぞ」あれこれと思案をしていた時「そうだ、新聞だ。高島さんの下で働いていた時は、新聞広告取次人が来ていたな。色々と広告の文案まで出していたぞ」その当時、日本では引札と言って木版刷りのチラシを得意先に配って店頭に貼ってもらっていました。「よし、これからは新聞広告の時代だ。よし新聞社まわりをしてやろう」 新聞社をまわると反応がいい「アメリカでは購読料だけでなく、広告収入で会社を経営しています」「それは知っている」「そこで私が広告を取ってきます。手数料は一割です。二十円の広告を取ってくると二円が私の儲けです」「いいよ、それでこっちは、腹は痛まない、広告の分だけ紙面をあければいいんだからね」新聞社にとっては自分の腹は痛まない。新聞社の約束は取りつけたが、神田の下宿屋で商売をするわけにもいかない。「アメリカ流でいえばスポンサーか、ウン、そうだ、私の子供の頃、村の漢方医で財を成して東京の京橋に来ている橘良平さんがいたな。武藤山治ですと言えば会ってくれるだろう」早速、橘良平を京橋の弓町に訪ねてみると、「オオ、武藤山治君、よく来てくれたね。海津にいる時には父君にもお世話になったよ。今日はどんな用事かな」「ハイ、少し事業をはじめたいと思いまして、その元手をお借りできないかと」「フーム、どんな事業だ」「新聞広告取扱いの事業です。アメリカでは新聞広告はあたり前のことなんです。なんで日本ではそれをやらないか不思議です」「ウム、面白い、やればいい、金を貸そう。でもな山治君、実は私も、考えてることがあるんだ」「何でしょうか」「わたしも新聞を読んでいる。雑誌も読んでいる。しかし、役に立つ記事なんか少ない。そこで各新聞社の記事やら雑誌の記事やらを切り抜いて再編集する。古い記事の切り抜きは私がする。あなたは福澤諭吉先生にも近い、色々と新しい情報に接するでしょう。そこで新しい記事を二、三書いてもらいたい。あなたが名義上の持主兼発行人になってもらいたい。それでどうだ」「いいでしょう。二つ同時にやりましょう。で雑誌の方は何という名で出します」「そうだな。博く見聞するというので博聞雑誌、たいていの雑誌は五日と二十日の二回だからそれでいきましょう」 こうして武藤山治は、日本初の新聞広告取次店を銀座一丁目の大きな家を一軒借り受けて経営に乗り出し、月に五十円以上の純益を稼ぎ出しました。一方博聞雑誌も売れ行きは順調で、東京で十二ヶ所、横浜、京都、大阪、神戸と全国の主要な都市の書籍雑誌売捌店が販売を引き受けてくれました。広告取次店の収入は武藤山治が、博聞雑誌の方の収入は橘良平が取ることで住み分けました。その忙しい最中に二十才そこそこの青年が、『米国移住論』という本を書いて丸善書店から出版しているんですから、驚きです。

第2節「英字新聞に寄稿して健筆を振う」
  しかし武藤山治は、確かに生活は安定しているが、自分が学んで来た英語がいかせていない、このままでは英語を忘れてしまうぞ、何のためにアメリカへ行ったんだろうということに悩みはじめていました。そんなある日、不図新聞を見ると広告欄に「横浜ガゼット新聞、翻訳記者一名雇入れたし」とあった。「多数の応募があるのだろう。しかし、受けてみよう」申し込んでみると、来社せよとの手紙。行ってみると、編集主筆のターナーという若き記者が「この日本の新聞記事を英訳して下さい」という。武藤山治が訳すと「多数の申込みがありました。しかし、あなたの翻訳が一番的確です。あなたを採用します」と言って月給二十五円を約束してくれました。そこで橘良平に委細を話し、広告取次業と雑誌は橘良平が引き受けることで、話が決着を見ました。しかし山治君。こんなおいしい仕事をやめてまで翻訳家になりたいのか」とあきれられたのでした。この当時、横浜では、明治政府よりのジャパンメール、明治政府に批判的なジャパンガゼット、そして中立的なジャパンヘラルドの三紙が発行されていました。福澤諭吉より薩長内閣打倒を叫ぶ後藤象二郎伯の味方をするように言われ、ジャパンガゼットでは大いに明治政府批判の健筆をふるったのです。しかし、ターナーは酔っ払って石段で転げ落ち死亡。後藤象二郎は伊藤博文に取りこまれ、内閣逓信大臣入り。

第3節「27歳、慶應義塾の先輩中上川彦二郎に見込まれ三井銀行へ」
  「なんだ、つまらん世の中だ」そんな折、イリス商会という貿易商社が、通訳がいるという。月給は今までの倍の五十円出す。そこで武藤山治青年はイリス商会というところへ通訳として入ったのです。武藤山治は言う「北海道炭鉱鉄道会社へ納めたレール、北海道の鉄道の始まりだけど、あれはイリス商会で注文を受け、私が全部小樽と室蘭で外国船より陸揚げしていたんだよ」かくして明治二十五年末までイリス商会にいてましたが、「三井銀行行員募集」 のニュースを耳にしました。「三井銀行と言えば中上川彦次郎という人が銀行改革を断行なさっているところだ」丁度知人が中上川氏と知り合いということもあり、三井銀行に入行。当時は三井高保総長、中上川彦次郎が副長で、中上川氏は「通訳の仕事は五十円だよ。あなたは抵当係だから月給二十五円だよ。半分でもいいのかい」と問うてきたのですが、三井銀行はどしどし書生上りの者を雇い入れ、活気に満ちていたので「やりがいがあるところです」と答え、中上川氏も即断をしたのでした。かくして武藤山治は明治二十六年一月十八日付で三井銀行東京本店抵当係となったのであります。山治はよかれと思うことをドシドシと提案するのですが、調査役の今井という関所があったのです。提案は全て今井さんが目を通すのですが、「これは三井銀行達何号に背きます。この提案は達第百五十五号違反です」 と言ってはね返すのです。うず高く積まれた達第何号と言った書類の中からみごとに引っぱり出してくるのです。山治はそこで上司の係長と二人で、三井高保と中上川の二人に直訴「我々が提案をしても古い達に違反するなどと言われて、よい意見を出す気力すらなくなってしまいます。古い達にこだわらないことが改革につながります」と言うと「よし、わかった。古い達にこだわるな、一切古い達おかまいなしとしよう」ここで古い体質が大分改善されたのでした。山治は古い前例にこだわってはダメだということを実感し、これが鐘紡の経営にもいかされることとなるのです。半年ほどたつと神戸支店勤務となりました。

第二章「鐘紡へ入社」

第1節「28歳、兵庫工場建設の支配人に抜擢され、年中無休で大奮闘」
  そして翌年明治二十七年四月十七日、武藤山治は三井銀行より一通の辞令を受け取りました。「三井銀行より鐘淵紡績会社へ採用につき暇申し渡す」三井銀行の一分野として鐘淵紡績があったのでした。三井銀行の中上川氏が山治氏の手腕を見込んでの措置でした。三井呉服店からの出発ですが、紡績には全く無知で経営が行きづまったのを、井上馨外務大臣に頼ったりしていた時代でした。「武藤君、今、鐘紡は苦しい.三井の最高顧問の井上侯爵からは鐘紡なんか売っ払えとまで言われている。社長は三井養之助さん、専務は朝吹英二さんだ。だがな、実質まかされているのは、この中上川だ。世間では三井の道楽工場なんぞと言われているが、これからの日本は紡績が国をひっぱって行く、兵庫に新工場建設する。君は鐘紡神戸支店の支配人だ。君の見識に僕はかけたんだ」こう言われると引き受けてこそ男だという気持ちになった山治「ハイ、やらせて頂きます」山治、二十八才であります。山治は働いた。最初の四、五年は会社を軌道に乗せるため、年中無休で元日でも事務所へ出たそうです。こうして明治二十九年十月一日より機械が糸を紡ぎはじめたのでした。東京の工場もそうでしたが朝吹専務は若い時から苦労をして、叩きあげて来た人だけに「働らき人(ど)は、食べることが一番の楽しみなんだ。職工を大事にしなければならん。食べ物はおいしい物を用意して、それもたくさん用意するんだよ」朝吹氏は漬物まで吟味をしたのでした。今は社員食堂というのが当り前ですが、昔は外部の請負が当り前でした。この社員食堂があるという工場は鐘紡が最初でした。山治は立派な寄宿舎、賄所、食堂、職工を大事にするための施設も充実させました。募集した人は千三百人。東京工場まで技術見習として派遣したのでした。

第2節「「ヒューマニズム経営」を貫き、業界の職工争奪紛争に勝利」
  しかし、この優遇を快く思わない連中がいました。大阪は紡績がさかんな地ということもあり、大阪地方紡績会社が発起して、中央同盟会なる紡績会社の組織が、明治二十四年に出来、東京の紡績にも盛んに誘いがありました。朝吹氏や中上川氏は「何だこれは、職工を引き抜くなという事か、職工を劣悪な労働環境に置いておこうというのだな。こんな物は無視だ」東京と大阪ということで無視をしてしまいました。職工は大半が女性でしたが待遇に不満があっても別のところには移れないのです。賃金も経営者同士が談合して安くおさえておけるのです。今でいうブラック企業です。神戸にできた待遇のよい鐘紡は目の上のたんこぶです。再三再四の中央同盟入りも山治は断固拒否したものですから、余計彼等は鐘紡つぶしにかかりました。当時の紡績工場の職工監督は、やくざでした。女工さんですので脅しやすかったのでしょう。操業2ヶ月後、中央同盟会が武藤山治に牙をむきはじめました。鐘紡出入りの運送業者、棉花商に「今後、鐘紡との取り引きを中止せることを要求す」という檄文を送ったのでした。しかし、各社とも、鐘紡が親身に接してくれますから「あんさんとこと別に取り引きおまへんがな」と相手にしなかったのです。「鐘紡に味方する業者ばっかりやないか」「こうなったら、脅し作戦や。こっちにはやくざの親分がついてるんや」「そうや、職工ににらみ利かせるのにふだんから親分衆に金を払うてるんや。こんな時に役に立ってもらわんとなぁ」 かくして中央同盟会出張所なるものを、会社近くの神戸諏訪山に置き、子分達を常駐させたのです。その子分達は職工達に「あんなぁ、経験工を引き抜いてくれたら、一人につき五円出す、昨日、今日の未経験工には三円だす。本人にも一円出す」とふれまわったが、鐘紡は職工を大事にしてくれるため、一時的にも金に目がくらむ人は出なかったのです。そこで中央同盟会は「武藤山治に大ケガさせたら、三百円やるぞ、どうや、あいつを狙てみぃひんか」この噂を立て、武藤山治は狙われているという脅しを仕掛けてきたのです。この噂を聞いた朝吹氏は中上川氏と相談「職工は大事にしておれば引き抜かれることはない、事はおだやかにと思うたがこと、武藤君に危害が及ぶとなれば対抗せねばなりますまい。三井銀行大阪支店に命じ中央同盟会の融資をストップさせい」これには中央同盟会が驚いた「エエッ?こんな手があるとは知らなんだ、兵糧攻めやがな」「きっと三井銀行は他の銀行にも声をかけるに違いないぞ」「誰か財界に顔の利く者はおらんか」ひっこみのつかなくなった中央同盟会は、ついに日本銀行総裁岩崎弥之助を仲介役にひっぱりだしたのでした。「中央同盟会の規約がおかしいではないか、ちゃんといい条件の下で職工達を働かせんか」こうして騒動はおさまり、職工達の待遇改善ということで決着がつき、日本の工業の近代化への道が開かれたのでした。

第3節「「高品質糸」による「顧客満足経営」を貫く」
  しかし一難去って又、一難、大阪の問屋仲間で鐘紡の糸は細いとして他の会社の糸と同じ値段で買ってくれなかったのです。「支配人、最新の紡機で紡いでいるのですが、細い、やせていると評判が悪いのです」「他社の糸を取り寄せてみましょう」武藤山治は銀行員あがりで、他社の糸と比較するという発想がなかった。実際、取り寄せてみると他社の糸は太い、しかしどこかフワフワしている。一巻分は同じ一巻分だがどこか紡ぎ方が雑なように思える「顕微鏡で各社の糸を検査してみようか」見てみると、他社の糸は木綿の繊維がきちんと撚りこまれていないために太くなっている。つまり同じ重さの一巻でも少し鐘紡の方が細いのです。「他社は粗悪なる糸ではないか」「工場長、確かにそうなのですが、安い中国綿の方が、色が白く、こちらは高いインド綿を使っていますが少し茶色く、そのことも見た目が細っているように見えるかと思いますし、糸からシャツを作る側にしたらポコポコ木綿の方がしっかり織らなくてよいものですから、一巻の糸から布がたくさん織れるのです」「しかし、丈夫で長持ちはせんだろうに」「ただ、そうしたポコポコ木綿の方が、利益があがるので、向こうを買うのです。我が社の糸が安く買い叩かれるのです。これが大阪の長年の商習慣です」「ウーム、わかった」武藤山治は、大きな判断の岐路に立たされました。仕入れ先が間違った判断をしているのに対し、あくまでも正しさを主張していくかそれとも長いものにまかれて鐘紡もわざわざ不完全な糸を製造するか、工場の利益を考えると不完全な糸ということになるのですが、そうはいかない。すると、大阪から綿糸問屋の八木商店の八木与三郎という人が、武藤山治を訪ねて来た。商売上面識のある人です。「八木さん、よく来てくれました」「どうです、武藤さん、商売の方は」「それが評判がよくない、鐘紡の糸は細いというのです」「それはおかしい」「エッ、おかしい」「私の知っている人で河内の八尾に藤井弥兵衛という綿糸商人がいる。大阪の問屋へ糸を買いに来て、八尾で織機を動かして布を作ってる人なんです。この人は糸を握っただけで、百発百中、どこの糸だとわかる人なんです。この人が鐘紡の糸はよく紡いでいる。一番いい糸だと言っているんです。だから私もこちらに仕入れに来てるんです」「そうですか、わかりました。その藤井さんを紹介して下さい」武藤山治は藤井さんを相談相手として、綿糸に対する誤解をとき、鐘紡の糸こそが本筋の糸であるとキャンペーンをはり、鐘紡の糸を使った方が、機屋にとって有益であることを宣伝、他社との織った製品の比較検証キャンペーンなるものもやり、今まで一度も鐘紡の糸を使ったことのない機屋さんに比較をさせたのです。ついに今まで安く叩かれていた鐘紡の糸が、今度はひっぱりだこで、反対に高く売れるようになったのです。

第三章「株式市場での鐘紡株を巡る攻防」

第1節「鐘紡の大株主が三井銀行から華商の呉錦堂へ」
  中上川さんも大喜び、社業も順調に伸びていった明治三十四年十月七日、武藤山治の後ろ盾となっていた中上川氏が他界。中上川さんと感情的な対立関係にあった井上侯より、三井は鐘紡より手を引けという命令が下りました。東京の朝吹氏より電話で「君は腹が立つだろうが、井上候よりの命令だ、三井銀行は銀行の業務をしろ、鐘紡に首をつっこむな、株を売却しろということだ」東京へすっとんだが事態は変わらない。武藤山治は所詮三井家の一使用人でしかない。「わかりました。三井の持株を売ることは致し方ありませんが、市場へ大量に出して売れば株価は暴落して三井銀行は大損ですし、三井の名に傷がつきます。現物を時価で引き取るという人があれば、それへお売りになればいかがでしょう」「心当りはあるのかな?」「私の家の隣に呉錦堂という中国の貿易商がいます。主として綿花の輸入を業としております。鐘紡とも取引があり、かなりの資産家でございます」「ウム、君にまかす」「かしこまりました」 早速神戸に帰ると「呉さん、一つ折り入ってあなたに相談があります」「お金儲けの話ですか」「そうです。実は三井が鐘紡を手離すのです。私は一株も持っていません。三井の一使用人です。大株主が変われば、私も現在の職に留まることはできないでしょう。明治二十七年以来七年間心血を注いできた鐘紡です。どうかして鐘紡をもっと大きくしたい。そこで株の買い手は私が捜すから他へ売らないようにして欲しいと朝吹専務にお願いをしたら、了承してくれた。呉さん、一つ三井の持株全部あなたが引き受けてくれませんか」「三井の株は何万株ですか」「六万株です」さすがの呉錦堂も驚いた「それはむつかしい」「しかし、必ずしも一度に六万株引き取らなくてもいいのではないですか。さしあたり二万株、次にまた二万株という具合でどうですか、鐘紡株なら三井銀行神戸支店で時価の七掛けでらくに貸しますから、残り三割だけ、あなたが現金を調達すればよいのですから」 呉錦堂は実株を六万株集めようとすれば、相場はたちまち値あがりをして、六万株は手に入らない。しかし三井が現在の株価でよいというのだから、紡績業はこれから発展するとふんでいる呉錦堂にとっては悪い話ではない。それどころか天下の鐘紡の筆頭株主になれる。又とないチャンスと思った。「武藤さん、あなたの言葉を信じましょう。今の時価で売ってくれるのですね」「約束します」とのこうして、六万株の内四万五千株は呉錦堂が引き取りました。ところが、引き取った株がどんどんとあがる。ここで呉錦堂はじっとしておけばよかったが、手元の株を高い時に売る。安くなったかと思うと買い戻す。

第2節「相場師鈴木久五郎の登場、呉錦堂と仕手戦へ」
  この株価の動きにおかしく思った相場師がいてた。鈴木久五郎、通称鈴久という男、株の売り買いだけで年間五、六百万儲けていて、成金鈴久という。しかし元々埼玉県の多額納税者の家に生まれ、鈴木銀行の息子でもあった。豊かな資産を元手に相場師になった男です。「どうも鐘紡の株が安すぎる。鐘紡はもう今年上半期一千五百万円の利益、資本金三千八百万円の払い込みに対して約四割の利益だ。それが百三、四十円どまりとはどういう訳だ」と調べはじめた。すると鐘紡の一番の大株主が呉錦堂という神戸在住の華僑だとわかった。重役にもなっている。「この呉錦堂が相場に手を出し、高くなれば売りくずし、安くなれば買い戻して一人で操っているのだな」 武藤山治もこの相場の動きを察知しており、呉錦堂に「君は相場をやっているね、鐘紡の重役が鐘紡の株で相場を張るのは、よしてくれ」と忠告したが、呉錦堂にとっては一人で相場を操れるから面白くてしかたがない。呉錦堂は鈴久が待ち受けていることを知らない。オイ、呉錦堂が鐘紡を売りに出したら、とにかく買え」鈴久は腹心の仲間達と共に買い一辺倒に走った。ある日、百四十五円で売りに出したら、鈴久は「それっ!」と買い漁る。百七十円まで買い煽ると、呉錦堂は「ヨシッ」とばかりに売りあびせる。百七十円が百五十円に下落する「何を負けてたまるか」と鈴久が買い煽る。買いも買った鐘紡株四万五千株、仲間の分と合わせると鐘紡全体の過半数に達していた。しかし、鈴久とて買い漁る資金は銀行の融資です。ところが、もうどこも貸してくれない「もう株の思惑でこれ以上貸せません」どこの銀行も同じ返事。最後にすがったのが安田銀行「安田さん、今までたびたび助けて頂いたあなたです。私も腹を割ってお話しします。あと一週間が精一杯です。意地を張って見ても、もうこれ以上の実弾がないのです」「ウム」「私が少しでも買い渋ったら忽ち鐘紡株は下落します。そこが呉錦堂の狙いでしょうが、残念ながらそのワナにかかりそうです」「鈴久さん、あなたが苦しい時は向こうも苦しい、空売り空買いそのくり返しを二人がしている。よろしい安田銀行の金を使いなさい。そのかわり呉錦堂に勝ったら相場はやめなさい」安田銀行をバックに強気の鈴久に対して、とうとう呉錦堂は破産をしてしまった。

第3節「仕手戦は鈴木久五郎が制し、8割の株式を取得、鐘紡役員は総辞職へ」
  鈴久は鐘紡の株の八割以上を仲間と共に手に入れたのでした。明治四十年一月十二日、株主総会が開かれ、朝吹専務、武藤山治支配人、全て総辞職。新社長に鈴久一派が推戴したのが富士紡の社長、日比谷平左衛門であった。「大鐘紡は俺のものだ」と鈴久は大喜びしたが……。

終章「山治の人望が金融資本に勝利し、大鐘紡への新たな歩みが始まる」
    然し、ここに大敵が待っていた。それは銀行でも相場師でもなかった、武藤山治の人望であった。鐘紡全体の支配人になっていた山治に職工は味方した。「武藤さんを見殺しにするな」「鈴久の傀儡重役は出て行け」職工達はストライキを決行した。これが日本におけるストライキの始まりと言われている。鈴久は主だった職工を買収すれば、ストライキは収まるだろうと思っていたが、「バカヤロー、鈴久のお抱え芸者と違わぁ」とこっぴどく蹴散らされ、かえって火に油を注ぐこととなった。鈴久は追い出した朝吹と相談。朝吹は「職工の要求通り、武藤君にもう一度出てもらうことです。鈴木さん、他の重役さんはそのままでいい、武藤さんだけは復帰させることです。そうでないと私も調停に立つ自信はありません」鈴久はこの調停に応じなければ、鐘紡はつぶれるだろう。そうしたらまっ先に破産をするのは大株主の自分である。鈴久は「承知しました」武藤山治は監督という名義で鐘紡に戻ったのでした。日比谷社長のもとで重役陣を立て直し、鐘紡内部から抜擢した。武藤は支配人を解雇させられた時慰労金として二十五万円もらったが、その内の十万円を出し、これを基本に「鐘紡同志会」という互助会を作ったのでした。武藤山治は明治四十一年一月の総会で専務に、さらに日比谷のあとを受けて社長となり、昭和5年まで勤めあげ大鐘紡をつくりあげたのでした。鈴久は株の暴落時に没落、昭和十八年当時会社勤めをしている息子の家で六十七才の生涯を終えました。あまりにも典型的な相場師であったようです。安田善次郎率いる安田銀行はこの時大儲け、鈴久が担保に置いていった鐘紡株をひそかにドンドンと売っていました。何しろ相場の半値ぐらいで担保にとっていたのです。鈴久はそれをまた安田銀行の金でせっせと買っていたのです。一番馬鹿を見て夢を見たのは鈴久かもしれません。武藤山治は、経営者と株主をしっかりとわけ、社長、副社長、及び常務取締役は、五年以上会社の業務に従事した者に限るという定款を作り、鐘紡のみならず日本の株式会社の近代化の基礎を作りあげたのでした。


文責

公益社団法人國民會館


  

お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ