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武藤記念講座(講演会事業)

第1007回武藤記念講座要旨

    2015年9月26日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    日本女子大学教授 臼杵 陽氏
 「液状化する中東イスラム世界」 

セミナー





序説「冬に逆戻りした「アラブの春」 」

第1節「イスラム国出現の衝撃」
  いささか大上段に構えたテーマで話をするに当たり、日本だけでなく世界中の中東研究者が、現実を前にして如何に無力であったかを、反省しなければならない。何故ならば、マスコミは「アラブの春」と表現し
現地の人々や専門家は「アラブ革命」とまで言った事象が、すぐに「アラブの冬」になってしまい、現実が激しく変わっていくことを、殆ど誰も予測できなかったからである。特に専門家としてなぜ予想できなかったのか、内心忸怩たるものがある。即ち昨年の6月に、我々の常識の枠の中では予想もしなかった事態が生じたのである。それは「イスラム国」なる革命組織の出現である。彼らはフランス革命以来親しんできた既存の国民国家体制を壊して、「カリフ」を復興するとし、我々がすぐには理解出来ない異質のものをつくりあげていくことを堂々と宣言したのであった。そして着々と既成事実をつくり、新しい情報伝達手段であるSNS(Social Networking Service)のネットワークにより、それを世界中に知らしめたのである。

第2節「液状化の情況」
  アラビア語を共通言語とするアラブ諸国は、21カ国と1機構よりなるが、アラブの春(2010〜201
3年)は、その騒乱の程度により、3つのグループに分けられる。第1のグループでは、ジャスミン革命でアラブの春の先鞭をつけたチュニジア、30年もの長期政権のムバラク大統領のエジプト、最高指導者カダフィーのリビア、及び大統領が自ら退陣して選挙が行われたイエメンの4カ国の政権が崩壊し、シリアとイラクは国家の体をなさない内戦状態となり、そして王政は維持されたものの政府交代がなされたヨルダンの合計7カ国である。第2のグループのバハレーン、オマーン、モロッコ、アルジェリア、クウェート、パレスチナ等では、大規模な抗議デモが行われた。第3のグループのサウジアラビア、レバノン、ソマリア等は小規模のデモで終わり、特に動きがなかったのがアラブ首長国連邦であった。結果的に民主化の方向を取ると国家の形が崩れてしまい、秩序がなくなる事例が多く実証されたのである。その良い例がエジプトで軍人出身のシーシー大統領が秩序を保つために出てこざるをえなかったことである。但し現在起こっていることはまだ途中経過であり最終的にどうなるか分からないが、いずれにしてもアラブの春は終わったのである。

第3節「裏切られた国家破綻指標」
  国家破綻指標(Failed State Index)は米国の調査・研究機関により、各種要件の組み合わせで各国の政治の安定性を数値で表したものである。アラブの春の前の2011年度において、世界177カ国を国家破綻しやすい順序で並べたデータによると、上記の第1のグループの安定度が高いと見られていた111位のリビアと108位のチュニジアは政権が崩壊し、48位のシリアはアサド大統領の政権基盤は強固だが、国家の体をなしていない内乱状況であり、45位のエジプトは政権崩壊した。一方モーリタニア42位、レバノン43位は部族間と宗派間の抗争は激しいが、破綻に至っていないのは、紛争の中の安定と言われている。第2グループのバハレーンは129位と安定度のある指数を示したが大規模なデモに見舞われた。然し3位のスーダンは紛争が続いていた地域が南スーダンとして分離独立し、9位のイラクは内乱状態、13位のイエメンは大統領が退任し、指標が示す通りの混迷状態となった。

第一章「「アラブの春」とは何だったのか」

第1節「民主化後退を憂慮したEU」
  2013年2月7日の毎日新聞ブリュッセル特派員電によれば「7日から始まる欧州連合(EU)の首脳会議は、アラブの春で選出されたエジプトのムルシー大統領によるデモ弾圧による民主化の後退や、ペルシャ湾岸諸国の民主化の遅れ、さらにフランス植民地だったマリ(ムスリムであるがアラブ人ではない)の不安定化や、同じくフランスの植民地だったアルジェリアの人質事件の背景に、国境管理が弱体化したイタリアの植民地であったリビアからの武器拡散があることを憂慮し、EUによる政策や支援方法が、アラブ諸国の民主化や経済改革に役立っているのかを外務・安全政策代表に見直すよう求めた。」「同会議宣言の最終案によると、アラブ諸国は民主化への重要な進展があったと評価されるものの、そもそも民主化は時間を要するものであり、人権、自由、法治の擁護、社会・経済上の問題の援助、さらに治安機関の改善や国境管理への支援が必要であると結んでいる。」このEUのアラブ諸国への関心は、昔の宗主国として問題を共有しつつ
アラブの問題は地域の中だけの問題でないことを示している。そして現在に至り、それはさらに、難民の問題に発展しているのである。

第2節「自由と民主主義の価値観への被害者意識」
  (1)ほぼ同じ頃二年半前の、ある米シンクタンクの調査分析は明快である。即ちアラブの春からイスラミスト(イスラム法を最終的には国家の法体系として導入し、統治の基本に据えようとする考えをもつ人達)がもたらした冬となっている。米国はこれを放置できず、米国の国益と自由を守らねばならない。即ち約20年前に、共産党の独裁から開放された「東欧の春」の表現に倣った「アラブの春」という言葉は、こうなって欲しいとの希望的観測に基づいた誤った表現だったとし、アラブの春ののち、中東はより不安定かつ敵対的な地域となり、米国の利益も西側の価値観も危険に晒されており、各地でイスラミストが跳梁を極め、イスラム法を強制し、自由を抑圧している。国際的テロリズム支援組織のアルカイダはそのイスラミスト全体主義革命の前衛となっている。」とした。以上のポイントは、中近東の人達はイスラム教を信奉しているが、決してイスラミストのようにイスラム法を国家統治の基本にしようとするのではなく、現にイスラム法は家族法にのみ適用されているのである。尚アルカイダが目指していたのは、共産主義革命に例えれば、スターリンの一国社会主義でなく、トロツキーが唱えたインターナショナルな世界革命である。
  (2)「イスラムの価値体系を社会と政治に実現していくムスリムの思想は、必然的に自由と民主主義の米国の価値観とは異なるものである。それは米国の価値観に対する根強い被害者意識から生れているがゆえに、反米的である。アラブの諸王国は最悪の影響からは免れているが、エジプトが鍵である。即ち、ムスリム同胞団のムルシー政権はイスラム主義に基づいた統治を進め、軍のクーデターを市民の支援による反クーデターで抑え込み、中国、イランなどを相手に、反米的な外交を展開している。又ハマスを庇護し、イスラエルとの平和協定に違反してシナイ半島に戦車を送っている。さらにムスリム同胞団(道徳腐敗、不平等の拡大を排撃し、イスラムの教えに立返ることで理想的なイスラム国家を建設することを主張する1928年結社のスンナ派の組織)だけでなく、より過激なサラフィスト(初期イスラムの時代(サラフ)を模範とし、それに回帰すべきであるとするイスラム教スンナ派の思想)なども勢いを得ている。その結果欧米からの投資も止まってしまい、政権の短命化に拍車をかけた。」
  (3)更に「オバマ政権は、民主主義を進める意思のないイスラミスト運動に、余りに早過ぎる民主主義のお墨付きを与えてしまった。それはカーター政権がイラン革命に対して行ったのと同じ過ちである。選挙は民主主義にとって必要条件ではあるが、十分条件ではない。即ち米国は民主主義と自由を混同すべきではない。フランス革命、ロシア革命、イラン革命の例を見れば、民主主義と称した革命は自由ではなく、専制をもたらした。反米主義はイスラミストのDNAに深く埋め込まれている。従って米国は彼らを支持する条件として、アルカイダなどのテロに反対し、市民の自由と人権を尊重し、国際的な法的制度を遵守し、特にエジプトの場合はイスラエルとの平和協定の尊重を条件とすることを求めるべきである。又米国は軍と治安当局との関係を緊密化するべきである。政府が信頼出来ない場合は、部族の長や民族団体との関係を強化するべきである。そして経済の自由化と発展を援けるべきである。」
民主主義的に選挙をするとイスラミストが勝つが、イスラムの国々では、民主主義は根付かないとの議論がある。然しもはや民主主義の理念なしには、即ち昔の権威主義を推し進めていては、体制の安定は望めないことは確かである。

第3節「中東研究方法の見直しが急務」
  (1)シンガポール国立大学の中東研究所所長の寄稿論文によると「アラブ蜂起(The Arab Uprisings)は、長い間共有されていた権威主義と民主主義について中東研究者に再考を促すことになった。即ち、彼らは次の基本的疑問に答えなければならない。@この蜂起とは正確に何だったのか、A蜂起をどのように概念化するのか、B蜂起に続きこれから何がおこるのか、とりわけ民主主義への移行を中東研究者は予想できるのかである」
  研究者の間では、アラブ革命はRevolutionよりもUprisingsの表現が適切であると主張されている。@ABは研究者への問いであり、これからどのようにこの問題を解決していくかの、言わば枠組み、ツールである。
  (2)「理想主義的観点では、「世界システム論」で知られるエマニュエル・ウォーラーシュタインは「アラブの春」に1968年の精神を見出した。1968年の精神とは、パリの「五月革命」や日本の「全共闘」として知られる、20世紀唯一の世界革命とされているが、アラブの春に生き残っているとする。一方現実主義的観点ではアラブの春はすでに過去のものであり、権威主義的体制を根底から覆す指導者も組織も生み出しえず、エジプトのムルシー大統領のように、抗議のあとも形を変えて権威主義体制は続くとした。」
  (3)又元駐NATO米大使は、
「なぜ欧米の識者は、革命前の状況を見誤ったのかに対して
  @独裁者は事をうまく運んでおり、権威主義的体制は盤石のものであるということが自明の前提となって
  、政変は起こらないものだという希望的観測が根底にあった。アラブ政変によって大量の難民の流入が起
  こることへの恐怖心もあった。さらにイスラム主義者が革命を乗っ取り、もっと悪い体制を作りあげるか
  もしれない。さらに、新体制(エジプトのムスリム同胞団)はイスラエルとのこれまでの国際条約を遵守し
  ないかもしれないと懸念し、又アラブ人は民主主義の準備ができていないとの偏った考えもあったと考え
  た。
  Aそのため、中東研究者は、その問いをなぜ革命が起こらないかではなく、なぜ独裁体制は安定的なのか
  に変えてしまい、革命の胎動を示す現実の動きが見えなくなってしまった。欧米の諸政府は「人間の諸価
  値と変革の思想に基づく革命」であることを単に理解していないだけだった。
  B従って多くの中東研究者は、アラブ革命を予想出来なかったと、認めざるをえなくなり、むしろ中東研究の方法論の抜本的な再検討を迫られることとなった。」
  以上を総括すると、アラブ人の権威主義体制は、独裁にまではいかないにせよ、一族で支配体制を固めて、利権を独占し、外国からの援助も同じく一族に配分される構造を有するが、確かにそれは社会の安定の源にもなっていた。その代表例として権威主義体制を30年間続けた、エジプトのムバラク大統領があげられる。研究者達は、この状況は変わりようがないと決め込んで、「内部で何が起こっているのか、何が現状の問題であるか」を究明せずに、「なぜこの権威主義体制は続くのか」の疑問の出し方をしたのであった。然しこの思考方法では、現状から出発して何が問題なのかの論点は出すが、論点が出された時点で政策的観点から答をつくり上げてしまったのである。ムバラク大統領から一代を経てシーシー大統領になっても、同じことが行われており、革命は起こったが振り出しに戻ってしまい、矢張りこの地域はいつまでたっても変わりようがないとの過酷な現実に対して、絶望にも近い悲鳴が聞こえて来るのである。

第二章「中東世界秩序の現状と行方 」
      昨年の夏以降の大きな動きがふたつある。ひとつは次章で後述する6月に「カリフ制」宣言をした「イス
    ラム国」の誕生であり、もうひとつイランで同じ6月に、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが、第7代イ
    ラン・イスラーム共和国大統領に選出され、これを契機に米国がイランとの関係を見直して、核開発を巡っ
    てEUとともに協議を始めたことである。米国は、「イスラム国」への空爆は続けているが、政治的にも軍
    事的にも撤退しつつあり、地域の秩序を保つために、それらの地域における主導的役割を果たす地域大国(R
    egional Power)が、自立的に地域内秩序を作り上げていけるかが、最大の課題である。

第1節「5大地域大国の相互関係」
  (1)イランは、上述のように「イスラム国」の台頭と軌を一にするかのように、米国との関係を修復している。然しその結果ペルシャ湾を挟んで不倶戴天の敵対関係にある親米派のサウジアラビアと米国との関係が悪くなった。
  (2) サウジアラビアはシリアの反体制勢力を支援しており、イランはアサド大統領の政府軍を支援しているので、シリアはサウジアラビアとイランの代理戦争の場となっている。尚サウジアラビアはスンナ派、イランはシーア派であるので、二国間の宗派対立もあり、又文明的にもサウジアラビアはアラブ国であるが、イランはペルシャ語の非アラブ国である。
  (3)もうひとつの非アラブ国であるトルコは、その対外政策を旗幟鮮明にしていない。その理由は、ヨーロッパを中心とする国々から、若者たちがテロリストになるため「イスラム国」へ向かう通路になることを事実上黙認しているが、同国は国内のクルド人との問題をかかえており、「イスラム国」とクルド人を争わせる戦略を変えることができないジレンマにあるからである(最近では米国等の圧力で基地を提供し、「イスラム国」に対して空爆をおこなっているが、クルド人勢力が大きくならない範囲で行っている)。本来ならば、一番大きな力を発揮しなければならない、又発揮できる力を持っているトルコが、クルド人問題があるので「イスラム国」に対して動けない状況にあることに、今の中東情勢の象徴的姿があるのである。エルドアン大統領は穏健なムスリムである公正発展党を率い、経済政策を重視、外交政策はNATOの一員として欧米との協調路線をとっている。
  (4)人口は少ないが、米国に支えられた軍事大国であるイスラエルは、一人勝ちしており、アラブ世界が混乱すればするほど漁夫の利を得ている。トルコとは、外交関係があるが、ガザ問題(トルコはイスラエルが対立するハマスを支援)やクルド人問題(イスラエルはクルド人を支援)で対立している。イランからは国として認められず、核保有を巡り対立関係にあるが、エジプトとは同盟関係にある。尚現在のネタニエフ政権とオバマ大統領との関係は最悪である。しかしながら、強行姿勢が取れるのは共和党、軍部とのつながりによるものである。
  (5)ナセル時代にはアラブの盟主と言われたエジプトは、アラブ諸国のなかで腐っても鯛であるが、アラブの春ではムバラク長期政権が倒れ、ムスリム同胞団のムルシー大統領が誕生するも、すぐに事実上のクーデターによりシーシー大統領に交代した。然しこの結果、中東の地域大国間の関係は大きく変わった。というのも、同じ穏健イスラム勢力のトルコのエルドアン大統領のイスラム諸国への影響力が上記の通り低下しているからである。エジプトの中東地域政策は過去数十年間、いかなる地域大国の登場も許さないという点に集中していた。シーシー大統領もこの方向性で行動できるように、次の3本柱に依然として依拠している。@米国との同盟強化、イスラエルとの平和条約を遵守することでパレスチナ人とイスラエルとの間の仲介者の役割を担う、Aイランとトルコという2つの非アラブ大国が中東の勢力均衡において重要な役割を担うことを妨害すべく「アラブ統一」を促進する、Bエジプトの財政破綻を支援してもらうために、同じスンナ派で19世紀以来覇権を争ったサウジアラビアとは特別な関係を維持することである。

第2節「5大国以外の国々の混迷」
  (1)シリアは アサド大統領がシーア派の分派であるアラウィー派(第四代カリフのアリーを擁護する派の意味)であるのに対し、反体制勢力はサウジアラビアを中心とするアラブ諸国が支援するスンナ派であり、「イスラム国家」との抗争もからみ三つ巴の内戦がズルズルと長期化して国家の体をなしていないが、オバマ大統領の軍事不介入の決断で決定的になっている。
  (2)イラクは、革命ではなく合法的選挙により、アメリカに支援されたシーア派の政権が誕生したが、同政権のシーア派を優遇する政策により、かってのサダムフセインを支えたスンナ派の不満を買うこととなり、シリアと同じくシーア派とスンナ派の争いとなっている。具体的には中部のスンナ派と南部のシーア派であるが、加えて北部のクルド人、さらに中部の半分を支配するイスラム国家との四者の争いとなり、国家の体をなしていない
  (3)バハレーンはペルシャ湾に浮かぶ小さな島国であるが、多数を占めるシーア派の住民がスンナ派の国王の退陣を求めたが、スンナ派のサウジアラビアが国王を支援して騒乱を収めた。
  (4)パレスチナでは、パレスチナ自治区、ヨルダン、レバノン及びシリアとイスラエルとの対立が続いている。具体的にはパレスチナ自治区はガザ地区のハマス(パレスチナのガザ地区を実効支配する、イスラエルに対してテロリズムを含めた武装闘争路線を維持するスンナ派イスラム原理主義組織)、ヨルダン川西岸のファタハ(故アラファト自治政府議長らがパレスチナの解放を目指し、全パレスチナ人を代表するパレスチナ解放機構(PLO)の主流派組織)であり、レバノンはヒズボラ(シーア派系の イスラム原理主義政党であり「神の党」の意味)が活動している。地域大国の対応は、イランはシリア政府、ヒズボラ、ハマスを、トルコはハマスとシリアの反体制派を支援し、そしてサウジアラビア、エジプトなどアラブ諸国はアラブの大義からハマスとファタハを支援している。尚ヨルダンはファタハを支援している。
  (5) クルド人居住区はトルコのみならず、イラクの独立自治区、あとイラン及び少数だがシリアにも分断されているが、民族としての独立国家樹立を主張している。第一次世界大戦のとき、クルド人は、一旦は独立出来る可能性があったが、ケマルアタチェルクによるオスマン帝国からの独立革命後に、新政府はクルド人の民族的自決権を認めず、トルコ人としてしまった。以来クルド人はトルコに対する不満を持ち続け、トルコにとってクルド問題はトルコそのものの存立にもかかわってくる大きな問題となっている。

第3節「イスラム諸国の対米関係」
  中近東の5大地域大国は、イランを除きすべて親米同盟国であったが、反米のイランも昨年米国と和解した。その他、ヨルダン、ファタハ、イラクのシーア派(前マーリキ政権)及びクルドのスンナ派も親米である。一方反米は「イスラム国」、シリアのシーア派、ヒズボラ、そしてハマスである。

第三章「「イスラム国」(IS)の伸長 」

第1節「名称の意味するところ、そして目指すカリフ制とは何か」
  (1)「イスラム国」のアラビア語名は「aI-Dawla-al-Islamia」でDawlaはイスラムの最盛期であるアラビアンナイトの物語が生まれた、首都がバクダートであるアッバース朝で使用され、「王朝」の意味だったが、19世紀に入り近代的な「国家」を意味するようになった。前身の「イラク・シャーム・イスラム国」は、日米両政府は「イラク・レヴァント・イスラム国」(ISIL)と呼んでいた。よってISはアッバース朝を理想としている。2014年6月29日以降は、国旗にも記されている通り、「イスラム・ハリーファ国家」を名乗っている。ハリーファとは預言者ムハンマドを継ぐ人の意味である「カリフ」のことである。旗はアッバース朝と同じ黒、旗の上部に書かれているのは、『アラーのほかに神はなし』という言葉であり、その下の白い丸は預言者(ムハンマド)が署名代わりに使っていた印章である。
  (2)カリフ制とは、預言者の後継者又は代理人を首長とする政治体制である。ムハンマドが没した632年、ウンマ(イスラム共同体)の長に選出されたアブー・バクルはアラーの使徒の「ハリーファ」と名乗って臣従の誓いを受けた。さらに彼を継いだウマル・イブン・ハッタープは別称として「信徒たちの長」を創始した。続いて第三代、さらに第四代のアリーにも引き継がれた。アリーが暗殺されたのち、ウマイヤ朝を創設したムアーウィヤも世襲の王権ではあったが、ハリーファとして統治した。同王朝を倒したアッバース朝もハリーファとして君臨し、末期には地方政権に堕ちたとはいえ、名目的にはウンマ全体の宗主権を13世紀の半ばの滅亡まで保持した。然しそのあとはバラバラに並列的に存在し、正当性のあるカリフは失われたのである。
  (3)ところが19世紀になり、オスマン朝はその正当性と勢威回復に役立てるためハリーファの称号を再び使用するようになった。16世紀のエジプト征服の際に当時のアッバース家ハリーファから職位を譲り受けたという伝説も流布するようになった。スルタン位とハリーファを兼ねることを、通例スルタン・カリフ制と呼ぶが、この制度は20世紀になりトルコ共和国の成立過程で順次スルタン制、カリフ制が廃止されて消滅した。

第2節「「イスラム国」(IS)設立までの略史 」
  (1)1990年代、アブー・ムスアブ・アッ・ザルカーウィー(1966〜2006年)が「タウヒードと聖戦(ジハード)集団」をヨルダンで設立(「タウヒード」とは、神は一つであること)した。2004年にはアルカイダと合流して名称を「メソポタミアにおける聖戦アルカイダ組織」と改称し、2006年4月、「ムジャーヒディーン諮問評議会」と改称した。
  (2)2006年10月には「イラク・イスラム国」と改称した。2011年1月シリア内戦勃発、2013年4月、バグダーディーはシリアのヌスラ戦線(サラフィージバード主義の反政府武装組織)がイラク・イスラム国の下部組織であるとして「イラク・シャームのイスラム国」(ISIS)に改称した。尚シャームとは、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルの地域全体を指すアラビア語の地域名称。2013年5月、アルカイダのアイマン・ザワーヒリーの解散命令を無視してシリアでの活動を続けるなど、アルカイダやヌスラ戦線とISISとの不和が表面化していった。
  (3)2014年2月、アルカイダ側が「イラク・シャームのイスラム国」(ISIS)とは無関係であるとの声明し、2014年2月、支配地域のラッカでキリスト教徒に対して課税(ジズヤ)及び屋外での宗教活動の禁止を発表した。その前の2014年1月、イラク・アンバール県のラマーディーと同県のファルージャを掌握し、2014年6月10日、モースルを陥落した。17日、バグダード北東約60キロのバアクーバまで進撃、2014年6月29日(ラマダーン月1日)にはバグダーディーが「カリフ」であり、イスラム国家であるカリフ統治領をシリア・イラク両国のISIS制圧地域に樹立すると宣言。また組織名からイラクとシャームを削除し、「イスラム国 (IS)」と改めることを発表した。

第3節「「イスラム国」(IS)とは何か? 」
  (1)ISの何が新しいのか?
  ISは1916年英仏により線引きされた「サイクス・ピコ協定」の下での既存の国境線を否定しようとしている。又オスマン帝国の崩壊と共にトルコ共和国が1924年に廃止したカリフ制を一方的に復活させた。但しISをアフガニスタンのタリバン政権と比較するのは間違いで、中世のイスラム最盛期に戻ろうとしているわけではない。ISを生み出したのは、過去への回帰を目指したためではない。ISを育んだのは、グローバリゼーションと最新のテクノロジーである。なお同じイスラムの名のもとで「アルカイダ」というテロ組織とISというテロ集団は何が違うかであるが、日本人からすればその違いは何の意味があるのかになるが、基本的には考え方は次のように大きく違っているのである。ビンラーデン亡きあとの「アルカイダ」の人気は急速になくなっており、不満分子はイスラム国に吸収されている。
  (2) アルカイダと「イスラム国」のテロ戦略の相違
  アルカイダなどのイデオロギーの「ジハード主義」とは、遠い敵に対するジハード(聖戦)を敢行してイスラムの地を占領するものである。その敵は、パレスチナを占領するイスラエル、アフガニスタンを占領するソ連、イラクを占領するアメリカである。それに対してISのイデオロギーのタクフィール主義は「近い敵」に対するカーフィル(不信心者)へのジハードの敢行であり、イスラム諸国の支配者はイスラム教徒でありながら不信心者であるし、特にイラクのシーア派、シリアのアラウィー派などを一番の敵とする。ISとアルカイダは対立状態にあり、過激派の人気投票ではISに分配があがる。然しISはエジプトのシナイ半島に(IS支持集団ABMと連携して)勢力を伸ばし、ナイジェリアのボコハラムに触手を伸ばしている。さらにハマスまでも攻撃しており、混乱の極にあり、自滅への道を進んでいるのではないか。いずれにしてもISの一番の敵は米国ではなくシーア派であり(米国人は空爆し、侵入してきたから殺されるのである) 、米国と手を結んだサウジアラビア、ヨルダンにも及んでいる。ISにより中東の中の混乱はより一層ひどいものになっており、多くのムスレムは、あれはイスラムではないと言い、その新しさが今の混乱を象徴している。それは癌細胞に例えられ、抜本的処置が必要である。
  (3)最高指導者、アブー・バクル・アル・バグダーディーとは?
  本名はイブラーヒーム・アウワード・イブラーヒーム・アリー・アル・バドゥリ−・アッ=サーマッラーイー、あるいはアブー・ドゥア・アル・フサイニー・アル・ハーシミー・アル・クライシー(預言者の出身のクライシュ族ハーシム家を名乗っていることに注目)1971年、サーマッラー生まれと言われる。バグダード・イスラム大学で博士号を授与されたという説もある。2010年にイラク・イスラム国(当時はまだアル・カイダのイラク支部)、2013年4月にはサラフィー・ジハード主義組織イラク・シャーム・イスラム国(ISILまたはISIS)の最高指導者となる。2014年1月にはシリアのアルカイダ系組織ヌスラ戦線をラッカから追放し、アルカイダとの関係は切れた。2014年2月にアルカイダ側も、ISISとは無関係であると発表した。2014年6月29日、「イスラム国」の建国とカリフへの即位を宣言し、カリフ・イブラーヒームを名乗っている。同国ではアミール・アル・ムーミニーン(信者の長)と呼ばれている。

終章「質疑応答」
「質問1」

  スンナ派とシーア派の違いは何か?

「回 答」  

  歴史的に言えば後継者の選び方の違いである。教義は殆ど変わらず、礼拝の仕方も変わらない。スンナ派はムスリム(アラーに帰依する人)の中で、人徳がありイスラムの知識が多い人を話し合いで選ぶ。一方シーア派はムハンマドの従兄弟でムハンマドの娘を娶った第四代カリフであったアリーの血統を継いでいる人を「イマーム」(最高指導者)として選ぶ。アリーは血統の上では申し分ない人であったが、大変温厚で統率力のあったアブー・バクルが初代カリフとなった。然しシーア派はどこまでを正統とするかで、意見が分かれてしまい、分派が多数生じてしまうこととなった。その例としてイランのシーア派は、12代まではイマームとして認められるとし、それ以降はお隠れになり、キリストとおなじように世の中を救うために救世主(マフディー)として再臨するとするのである(これを十二イマーム派と言う)。然し、いまのところまだ救世主は登場していない。尚組織的には、キリスト教に置き換えれば、シーア派はどちらかと言えばカトリックに近く、スンナ派はどちらかと言えばプロテスタントに近いと言える。従ってスンナ派は教会組織がないので、多数の教義が並立することになり、特にテロをイスラム法典に則り合法化するのに都合がよいので、テロ組織にはスンナ派が多いことになる。

「質問2」

  ISはアジアのイスラム諸国へ影響を与えることはあるのか、ISへ行って簡単にイスラム戦士になれるのか?

「回 答」  

  ISはある意味で「シンボル」である。それは中核に据えられているだけだが、組織的につながりがなくても、移民社会等で虐げられた人がISを支援すると言うだけで、運動体として成立してしまうものである。即ち、ISはがっちりした組織をもっておらず、指令する組織はない。従ってそれはアルカイダと同様に察知しにくいといえる。志願はロシアのチェチェンからもあり、米国からの志願もあるが、圧倒的に多いのはアラブ諸国からであり、ムスリム移民大国のヨーロッパからも多数ある。逆の流れである大量難民問題も起こって来ており、ヨーロッパ社会が解決しなければならない大きな問題となっている。スンナ派が多いアジアへの影響は、(同地域では)エキセントリックであり、難しいのではないか。ムスリムでない人が行ってそこで入信してすぐイスラム戦士になることはスパイと疑われ簡単に受け入れてもらえないだろう。

「質問3」  

  アラブの春について「独裁者は事をうまく運んでおり、権威主義的体制は盤石のものである」との表現がある一方「アラブ人は民主主義の準備ができていないとの偏った考えも根底にあった」とあるが、偏った考えであることを否定するのならば、権威主義体制が倒れたとき、なぜ民主主義の政権は生まれなかったのか?

「回 答」  

  (1)これは米国のネオコン(新保守主義)のサウジアラビアへの介入の視点で考えるべきである。イラク戦争はネオコン主導で行われたが、ネオコンは非常にラジカルであり、内側から民主主義に変れないならば、外から攻撃するしかないとの考えを有していた。結局イラクで大量破壊兵器は見つからなかったが、ネオコンの次の矛先は親米の大国であり、イスラムの中で最も厳しいイスラム法解釈をおこなっている、ワッハーブ派のサウジアラビアに向けられていた。サウジアラビアは、厳しいイスラム刑法を適用しており、世界における石油の供給基地の役割を担っているが、国内体制はサウジ王家が牛耳っており、国民は選挙権はないが、石油収入で高い生活水準を維持できているので、自由は要らないとする非民主主義国である。然しブッシュ大統領はイラク戦争の反省もあり、ネオコンの主張を取り下げたのであった。その後オバマ大統領も民主主義を実現するために体制を変えることは断念している筈である。
  (2)従って質問の答えは、外側から軍事力で変えないと変わらないとの米国の考え方を少し柔らかく書いて、反省しているのではないかと思われる。
  (3)さらに付け加えて、イスラムにおける、民主主義と自由の関係を言えば、民主主義はイスラムと整合性があるが、自由とは相いれないとする。即ち自由には自分の自由を主張する消極的自由と他の人の自由に関係してくる積極的自由があるが、後者を主張すると他の人の自由と相いれないことになる。従って積極的自由を実現するには公正(JUSTICE)が必要であるとし、イスラムではそれを担保するために分け与える義務「喜捨」があるのである。そしてこれは自由意志でなく神の意志であるとする。又他人の自由を束縛しない消極的自由は認めるが、積極的自由を認めないということは、自由競争を否定することになり、そこでイスラムは資本主義とは相いれないとの議論が出で来るのである。然し民主主義については、合議で後継者を選ぶことは、イスラム的民主主義であるとするものである。

「質問4」  

  ヘレニズムの文明がアラビアに伝えられ、6〜7世紀にはヨーロッパより進んだ数学、医学、天文学等が発達し、中世ヨーロッパが低迷しているときにヨーロッパにも伝えられ、12世紀の十字軍の頃には文明と生活はキリスト教社会を凌駕していたのに、なぜイスラム社会は逆転されてしまったのか?

「回 答」

  それはルネッサンスに先立つ「12世紀ルネッサンス」と言われる。アリストテレスをはじめとする哲学、医学などのギリシャの古典は、ヨーロッパでは失われていて、アラビア語の翻訳でしか残っていなかった。そこでシチリア、イベリア半島に残っていた原典のアラビア語からラテン語への翻訳運動が起こり、それがきっかけとなりギリシャ文明の見直しであるルネッサンスが始まり、さらにギリシャ語にも訳されたのであった。さてイスラム世界でも人間の理性と信仰のバランスを、どうとるかの議論がなされて来たが、12世紀に、「理性こそ神である」という学説を、神の否定であるとして封印してしまい、以後神に対して、理性が重んじられることが否定されたのであった。それはヨーロッパキリスト教社会において、神を肯定しつつ神を解体して近代合理主義を発展させたスピノザの汎神論が否定されたのと同じである。その結果、ヨーロッパに対して優位を保っていたイスラム世界が自ら可能性の門を閉じてしまい、以ってそれまでの学問は訓詁学になってしまい、科学の進歩は止まったのであった。




「 以上は、日本女子大学臼杵陽教授の講演を國民會館が 要約・編集したものであり、文章の全責任は当會館が 負うものである。」



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