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武藤記念講座(講演会事業)

第1014回武藤記念講座要旨

    2016年3月5日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    公益社団法人國民會館会長
    武藤治太氏

 「武藤山治と時事新報」 

セミナー




<目次>

  本會館創立者、武藤山治の三つの戦いについて、何回かこの場で講演させて頂いておりますが、今回は彼の最後の戦いであった、時事新報社での「第三の戦い」について、お話させて頂きます。しかし「第一、第二の戦い」について、よく御存じでない方も、いらっしゃると思いますので、先ず二つの戦いの概略をお話させて下さい。

プロローグ「開明派の父の感化、福澤諭吉の薫陶、そして米国留学」
  彼は、明治元年の前年慶応3年(1867年)に、美濃の国(岐阜県)は現在の海津市(新幹線岐阜羽島の南方に位置する)に生まれた。この地は、木曾、長良、揖斐の三つの大きな川が作った肥沃な平野で、彼の在所は、長良川と揖斐川に挟まれた地味豊かな稲作地帯であった。
  しかし、この両川はしばしば氾濫を繰り返した。このため治水事業が農民指導者の使命であった。山治の生家は佐久間といい、代々天領であったこの地の庄屋をつとめ、治水事業に尽瘁してきた家柄である。父の国三郎は岐阜県会議員、議長をつとめ、後に第一回の帝国議会が開催された際、衆議院議員を務めている。国三郎は、大変な勉強家で、そのころ有名になっていた福澤諭吉の「学問のすゝめ」などを読み、大いに彼の思想から影響を受ける。
  そして、幼少の時から利発であった山治を、直接福澤のもとで学ばせたいと決意し、明治13年(1880年)山治を慶応義塾に入学させる。山治は福澤諭吉から直接教えを受け、明治17年(1884年)に慶応義塾を卒業し、福澤諭吉の勧めで、翌年学友二人と共にアメリカのカリフォルニアに渡り、清掃やたばこ工場の見習いなどを経て、サンノゼ(現在はシリコンバレーの中心地)のパシフィック大学でスクールボーイのかたわら、2年間勉学に励んだ。 

第一章「第一の戦い「鐘紡を、日本を代表する世界企業に」 」
第1節「革新的日本式経営の原型を創り上げる」
  明治20年(1887年)に21歳で帰国後、彼は日本で初めての広告代理店を東京で開業し、横浜の英字新聞の記者、明治の元勲後藤象二郎氏の秘書、殖産興業に不可欠の鉄道レールを輸入する東京イリス商会勤務などを経て、帰国6年後の明治26年(1893年)福澤諭吉の甥、三井財閥の総帥中上川彦次郎に見いだされ、三井銀行に入行して、神戸支店の副支店長となった。
  翌年明治27年(1894年)、中国市場などへのグローバル戦略を見据えた中上川の命を受け、鐘ヶ淵紡績に移り、兵庫工場の建設に当たる。ここからが彼の第一の戦いの開始である。彼は、本邦において今まで誰も行ってこなかった、テーラーシステム(科学的管理法)の導入などによる高品質、高効率の操業を実現する一方、温情主義経営といわれる従業員を優遇する労務管理を実施して、その家族的経営は、今にいたるも日本式経営の範となっている。
  鐘紡には日本で初めてというものが数えきれないほどある。すなわち、社内報の発行・提案制度、工場内の学校・病院、共済組合制度、果ては結核療養所などである。従業員を優遇するが故に他社との軋轢もあったが、彼は持前の努力で解決していくのである。その間鐘紡の経営が最初から順風満帆であった訳ではない。
第2節「中上川彦次郎の死、金融・資本市場での苦境を乗り超えて」
  兵庫工場が操業を開始した明治29年(1896年)に日清戦争が終わり、戦後の好景気に助けられて、鐘紡の経営も順調に推移していたが、明治33年(1900年)中国で「義和団事件」が起こり、日本の経済界にも大きな影響を及ぼし、特に金融難は、「紡績合同と設備の革新」を試みていた紡績業界には大きな負担となった。鐘紡も借入金がかさんでいたため、金融難の影響は大きかった。武藤は親会社である三井銀行に融資を頼むが、拒絶される。困った武藤は三井の競争会社である三菱銀行に融資を頼み、彼の経営者としての力量と手腕を見た三菱銀行の英断により、この危機を乗り越えたのであった。
  ところが一難去って、新たな災難が降りかかってくる。明治34年(1901年)後ろ盾であった中上川彦次郎が47歳の若さで急逝する。三井の基本方針として、中上川がとった政策は「工業主義路線」であったが、中上川の死後三井の実権を握ったのは益田孝であった。彼は三井物産を立ち上げた人物であるが、工業主義路線に代わって商業主義路線を進め、中上川が手がけてきた路線を急転回していくのである。具体的には三井の事業は従来からの金融や商業で行くべきで、巨額の資本を工業に投入することは避けるべきであるという考えで、中上川が傘下に入れていた芝浦製作所や王子製紙の株式を売却していった。鐘紡もそのターゲットになっていた。しかし、鐘紡は非常に上り調子であったため、益田もその株式の売却は当面見送る構えであった。一息ついた武藤は、かねてからの持論である小紡績の乱立を改めるべきであるという紡績合同論を実行に移していく。
  しかし、4年後の明治38年(1905年)ついに三井は鐘紡株を手放す。これを引き受けたのは旧知の華僑呉錦堂であった。呉は兼ねてから鐘紡株の一部を保有しており。何についても、口出ししてくる三井より、呉のほうが扱いやすいとして、武藤は一息つくのであった。しかし、呉は大変な思惑好きで鐘紡株の大半を握ったことをよいことに、再三の武藤の注意を無視して、空売りしては下がったところを買い戻して、利益を上げるという行為を繰り返した。この状況を密かに注視していた人物がいた。若き相場師鈴木久五郎の登場である。安田善次郎をバックとした彼は、呉錦堂のすきに付け込み、鐘紡株を買い占め、過半数を抑える。この結果武藤は、鐘紡を去ることになる。しかし間もなく訪れた日露戦争後の不況により、株式相場は大暴落し、他にも買い方として大きく手を広げていた鈴木は破産した。
第3節「業容拡大の積極経営により、日本一の高収益会社へ」
  武藤は明治41年(1908年)鐘紡に復帰し、専務取締役となる。このあと武藤は、日本で初めての外資の導入に成功し、晒、染色加工にも進出し、企業の多角化を図る。山治の積極経営が実を結び、鐘紡の業績はこの頃から飛躍的に向上し、大正7年(1918年)から大正12年まで実に7割の配当を実施した。大正8年(1919年)にはワシントンで行われた第1回国際労働会議(ILO)に日本代表として参加する。

第二章「第二の戦い「国民各階層の調和を図る為の政治の戦い」 」
第1節「民間立法活動の限界を感じ政界進出」
  この頃から一民間人にも拘わらず、戦死者傷病者その家族に対する国家援助を行うべきという「軍事救護法」の成立に奔走するようになる。そして山治の努力が、国会を動かし大正6年(1917年)に成立するが、官僚の不当な干渉により決して満足すべきものではなかった。彼はここで民間人としての限界を感じ、政界への進出を決意したのであった。この後、大正10年(1921年)には鐘紡の社長のまま、実業同志会後の国民同志会を率いて衆議院議員に当選する。即ち山治の第二の戦いの始まりである。山治は大正13年(1924年)の選挙を皮切りに昭和3年(1928年)、昭和5年の(1930年)の三回の選挙を戦う。
第2節 「今に通じるマニフェストの内容」
  彼の政治哲学は、「一国の盛衰はその政治の良否による。また社会主義に対する危機感から富国一辺倒の政治から各階層の調和を図る政治へ」であった。そして、その具体的施策は大正14年(1925年)に彼自らあらわした「実業読本」にある通り、一つは小さな政府と予算の徹底的な効率化、もう一つは官業(鉄道、郵便、郵便貯金、簡易保険、電信・電話)の民営化であった。その政治哲学の実践のため、彼の国会活動の主なものを書くと、先ず民間人として成立に努力した「軍事救護法」を完全なものにするため積極的に活動する。次いで現在の「生活保護法」に当たる「老人不具者及び病者の救済」のための「一般救護法」を成立させる。さらに、社会正義に反する鈴木商店等の政商、台湾銀行を救済する為の「震災手形法」に断固反対する。さらに、井上準之助蔵相の間違った「金解禁政策」に反対する。
第3節「国民の政治意識の低さを慨嘆、立候補中止へ、 〜政治教育を一からやり直す國民會館の設立へ」
  しかしながら、正しいと思って進める彼の政治活動がかならずしも議会、民衆に受け入れられるものではなかった。特に彼が失望したのは、既成政党である民政、政友両党の政権たらい回し、一部資本家、政治家、官僚との許し難い癒着を見せられながら、それらを見逃す一般大衆の無知、さらに加えて無産政党の急速な伸張などを目のあたりにして、はたして自分が続けてきた政治活動が、国民を真に目覚めさせる最良の方法であったのかに、思い悩むようになった。すでに昭和5年(1930年)鐘紡の社長を引退していた彼は昭和7年(1932年)1月の議会解散を機会に立候捕を中止する。彼は、かねてから国民の政治教育を一からやり直すという強い決意のもとに、政治教育の殿堂「國民會館」を昭和7年に設立していたが、會館の建物は昭和8年に完成した。彼は、この會館を拠点に国民の政治意識を徹底的に高めていくつもりであった。

第三章(一)「第三の戦いそのT「時事新報社の経営再建」」
  しかし、運命はそれを許さなかったのである。昭和7年1月の選挙に不出馬を声明した武藤のところに、恩師福澤諭吉が創設し、当時大変な経営難に陥っていた時事新報社の経営立て直しの要請が寄せられたのであった。ここから山治の第三の戦いが始まる。
  「時事新報」は、明治15年(1882年)3月1日に福澤諭吉によって創刊された日刊紙であった。当初福澤は、政府の伊藤博文や井上馨、大隈重信の要請を受けて世論形成のための、政府の機関紙を創る予定であったが、明治14年(1881年)の政変により、大隈とその一派が失脚するとその計画は頓挫してしまう。ところが記者や印刷機械を慶応義塾の出版局は準備していたため、慶応として独自の新聞を発行することになったのである。創刊の時から「不偏不党」「独立不羈」を掲げ、また福澤の「脱亜論」「国権拡張論」を基本に、平明で経済を重視する紙面が、政党臭の強かった当時の新聞から見て大変新鮮に映ったのか、当初の発行部数は1500部余りだったものが、2年後には5000部余りまでに増加した。
  明治29年(1896年)に福澤の次男捨次郎氏が社長となり、発行部数も13000部になる。またこの年ロイター通信社と独占契約を結び話題となる。さらに大正10年(1921年)のパリ講和会議やワシントンの軍縮会議で世界的なスクープを獲得し、大正の中頃には「日本一の時事新報」といわれ、「東京日日新聞(現在の毎日新聞)」「報知新聞(同読売新聞)」「国民新聞(徳冨蘇峰主宰)」「東京朝日新聞」とともに東京の5大新聞といわれるようになった。また、前後するが大正3年(1914年)に大阪に進出している。しかし、その後大正12年(1923年)9月の関東大震災により社屋の倒壊を初めとする甚大な被害を受け、「東京日日」「東京朝日」による時事の非買運動、さらに大阪時事の不振も加わり業績は急速に衰えた。大正15年(1926年)福澤捨次郎社長が病気のため辞任(同年逝去)この後の経営は明治生命の役員であった小山完吾が社長となり、その後、三田の長老千代田生命の門野幾之進が会長となり社長に名取和作が就任するが、文字通りじり貧状況に陥り、このままでは倒産の危機を迎えていた。武藤の政界引退を見た、門野幾之進、三井財閥の池田成彬、阪急電車の小林一三らが乾坤一擲、この再建を託するのは武藤しかないとして、鐘紡、政界からの激務から解放され、しばらくはゆっくり「國民會館の業務」に専念したいと思っていた彼を説得して、家族の反対を押し切り、無理矢理に時事の再建を引き受けさせたのであった。
第1節「旧弊の打破」
  昭和7年(1932年)武藤は初めて時事新報の門をくぐった。最初に幹部と顔合わせした時、全般に余りにも考えていた以上に旧態依然の状況にあること、そして何よりも財政状況の逼迫に驚いたのであった。武藤が出向いたその日、総務担当者が駆け込んできて、月末の給与資金の手当てがついていないことを聞かされる。それではと三井の本店に出向き個人保証で給与の手当てをする始末であった。当時編集を担当していた伊藤正徳編集局長は、すでにラジオが登場して、ニュースの速報性において新聞は勝負があった状態にもかかわらず「フレッシュなニュースこそ新聞の命である」という頑迷な考えの持ち主であった。それより一番肝をつぶしたのは、財務担当者から見せられた会計帳簿であった。実に毎月の赤字は、7万円にもなっていたのである。
  時事新報は、福沢諭吉の次男捨次郎社長の時代が30年(1896年〜1926年)にも及び、当然ながら福澤先生の子息に直言出来る硬骨漢は存せず、まさにぬるま湯状況で、正直にいって今でいう大企業病を病んでいたのであった。毎月赤字を出しながら社員の数は多く、その危機意識は薄かった。例えば伊藤編集局長は、昼食のため外に出て帰社するのは2時頃であった。伊藤氏以外でも同じようなルーズな状況であった。また、夏になると伊藤編集局長以下幹部社員から、長期の夏休みをとりたいという申請が一斉に出てきた。これは捨次郎社長以来の伝統であったが、幹部社員であれば今会社がどのような状態におかれているかは、分かる筈である。武藤は即座に取り消させた。
  武藤の経営哲学は、旧弊打破である。この考えに基づき、三井でも鐘紡でも経営を進めてきた。余にも腐りきった時事の体質に、山治は半ばあきれるのであるが、この体質を変えない限り、時事の再建は覚束ないとして、鐘紡方式の経営を早速に取り入れたのであった。彼は鐘紡の経営に当たった40年間に実に1万通の社長回章を社内に回付し、自己の考え方の徹底をはかったのであるが、時事においても、約200通の回章を回して、経営方針の徹底を図った。
第2節 「紙面の大刷新を断行」
  先ず、最初に取り組んだのは紙面の改革であった。彼は従来の常識を破り、夕刊に毎日自ら筆をとり「思うまゝ」と題する論評を掲載した。また、月曜日には社説「月曜論壇」を担当した。次に時事には、前々から北澤楽天という画家が在籍していた。前社長の捨次郎は楽天に漫画を描かせる事を思い立ち「一口漫画」を日曜版に書かせていた。これを見ていた武藤は、読者の理解を深めるため、社説に漫画を挿入する事を思いつく。絵入りの社説については、品格を下げるとして猛反対があったが、これを押し切って実行した。
  次に、すでにアメリカにおいては、単に新聞はニュースを知るためのものではなく、それ以外の小説、読み物、漫画等などが増え、いわゆる「見る新聞」へと移行しつつあった。それに加えて色刷りが増加してきていた。武藤はこの状況を察知していて、時事にも何とか色刷りを取り入れられないかと考えた。武藤は社内の色刷りは不可能という反対を押し切り、色刷りの実現に邁進した。残念ながら時事の財政状況からして、アメリカ製の最新式色刷り輪転機の導入は難しかったので、現在のドイツ製の輪転機を社内で試行錯誤の末、短期間で色刷りに成功し、専門家を驚かせたのであった。武藤は元々繊維会社の出身である。鐘紡は、布の加工では世界的にみても一頭地を抜く存在であった。その世界に誇るプリント技術による高級綿布は世界中に輸出されていた。これは想像であるが、彼は新聞の色刷りについて鐘紡の経験から確たる自信を持っていたのではないかと思われる。時事は紙面に色刷りを掲載することを日本で初めて、いやアメリカを除いて、世界でほとんど例のないものとして成功を収めた。
  武藤の新聞についての理想は「第一に新聞は公器であり、営利を超越した世論の指導的な地位を確保すること」「第二は、読者に読んでもらえる大衆的な興味のある紙面づくり」であった。「思うまゝ」や「月曜論壇」の彼による連続執筆は、第一の理想の実現であり、第二の実現のため家庭の主婦に読んでもらうための、家庭向けの記事の充実を図ったのであった。
第3節「積極的経営施策の展開」
  「販売拡張の新機軸」
  現在でも新聞購読の拡張のためには、各種の景品をつけるとか、何か月間無料とか、手を変え品を変えての販売促進がおこなわれている。当時、時事新報も含めて他の新聞社も、アルミニウムの鍋とか、バケツ、石鹸などの景品を付けるなどの過熱した販売合戦を展開していた。また、一方では営業部員と販売店との間の長年にわたる癒着など、見逃す事の出来ない問題があった。このため販売拡張費は相当な額となっており、これらの経費が経営の足を引っ張っていた。武藤はこれについても、当然旧弊打破を図り、ここにも大きくメスを入れたのであった。具体的には販売部の再編など武藤の指示が着実に進み、さらに各新聞社間との販売に関する新しい協定が成立して、景品の廃止や廉価販売の取りやめなど、彼の主張が実現したのであった。
  その一方、武藤は学資と生活に困窮している苦学生に対して、援助の手を差し伸べようと考え、苦学生を集め新聞購読の勧誘をさせようとした。これは自分の苦しかった米国における苦学生の生活の経験からきたものであろう。学生達は、今でいうアルバイトとして新聞の新規購読を薦める者であった。そして、学生勧誘隊を組織して活動を開始した。従来からの販売部員達は、この制度を冷やかに見ており、武藤自身も必ずしも、学生達が好成績をあげるなどとは、本音では期待していたわけではなかったが、意外な伸びを示したのであった。会社の規模からしては、真に小さな量ではあったが、新聞社のトップがこのように販売活動に情熱を燃やしている姿勢は、購読者に強い印象をあたえた。社長が直々に販売活動に手を出しているというのは誠に新聞業界では見られない出来事であった。その後この学生達の販売活動は益々活発になり、実に一か月に一万部申し込みを獲得する者まで現れ、この制度は軌道に乗った。
  「広告巡礼」
  かって、彼は朝日新聞の村山龍平氏と面談した際、実は新聞は原価の半値で販売している。これを利益が上がるようにするためには、如何に広告をとってくるかであるという話を聞き、新聞経営が如何に難しいものであるか、新聞にとって広告の獲得の重要さを教えられたのであった。村山氏の話から、彼は、新聞の利益の源泉は広告にあることを十分理解していた。そこで武藤は広告収入をうるため、先ず広告主を訪問すべきだと考えていたが、何分喫緊の問題であった編集や印刷工場の改革、財務の立て直しに専念したため、なかなか広告主まで足を運ぶことは実現しなかった。しかし昭和7年(1932年)の秋から武藤は積極的に広告主の所に顔を出すようになる。有力出版社の博文社を皮切りに、三越呉服店、講談社、味の素、ミツワ石鹸、松坂屋、松竹、日活、実業の日本、森永、高島屋。昭和8年(1933年)には岩波書店、中央公論、伊勢丹などで1年半ほどの間に51社の首脳を訪問した。そして朝刊に「広告巡礼」という欄を設けて、広告主との対話、写真などを設けたのであった。社長みずからの広告主訪問は広告部員達の大きな励みと助けになった。
  「されど、新聞本来の使命の追求を忘れず」
  彼は昭和8年の6月の株主総会で次のように述べている。「時事新報の経営は、時代の変化、推移に沿えない伝統的な古い方針にとらわれたものであった。このことが今日の苦境を招いたのである。たとえば、武藤になってから紙面が品位にそわぬとか、伝統的な方針から大きく変化したとかというお考えかもしれませんが、しかしそれは間違っております、ただ品位のみにとらわれ、社会の大衆を無視する経営は改めるべきであります。また無料配布とか景品を配って販路を拡大するというのは、本来邪道であり、これにのめり込んできたのが現在の苦境の原因です。新聞は本来記事の内容でサービスしていかなければなりません。」販売部長(千葉三郎 後の労働大臣)の努力が実り、無謀な販売合戦に終止符が打たれていた。さらに昭和8年12月の株主総会では武藤は次の通り報告した。「今の状況では来期の発行部数は飛躍的に増加することが予想されます。これに応ずるため、高速輪転機の購入計画を進めている次第です。」「昭和8年の決算では損失は私の就任時の四分の一にまで減少しました。」武藤の改革のピッチは速く、1年半の間に5次の改革が行われ、組織も大きく変わり人員も80名減少した。また経費の圧縮を厳しく進めたが、どうしても必要な経費については「小生負担」と称して武藤個人が負担した。時事新報はあと僅かで利益を計上できるまでに来ていた。

第三章(二)「第三の戦いそのU「言論人としての戦い」 」
第1節「番町会を暴く」
  「政・官・財の疑獄の構図」
  武藤の時事新報における最大の業績は、命をかけた「番町会を暴く」というキヤンペーン記事である。昭和8年秋ごろから台湾銀行が保有していた帝人株22万株が、不当に安い価格で売買されたという情報が武藤の耳に入ってきた。またそれより前に同じ系列の神戸製鋼所の株20万株が同じように肩代わりされた事実も掴んでいた。台湾銀行とは台湾銀行法に基づく特殊銀行であったが、従来から鈴木商店との関係が深く、震災手形にからみ鈴木商店への貸し付けが同行の貸付総額の半分にも及ぶ3億5千万円もあり、これが焦げ付き政府に救済を求め、山治は議員時代、これに対して真っ向から反対したのであったが、最後に6億円の国費により救済されたという経緯がある。鈴木商店は、昭和2年(1927年)3月台湾銀行の融資打ち切りにより倒産した。その際鈴木商店から担保としていたものの一部が、帝人株、神戸製鋼株である。片岡蔵相の失言により多くの中小銀行が倒産したが、台湾銀行も事実上倒産した。しかしモラトリアムの実施と先にのべた政府の援助により辛うじて生きながらえたのであった。武藤にとって台湾銀行はまさに宿敵であった。政・官・財の癒着を糺すということは彼の信念であった。特に政商の暗躍についてかねてから強い問題意識を保持していた。鈴木商店を鋭く追及したのも彼の信念に基づくものであった。当然、この政府の救済により、かろうじて生きながらえた台湾銀行が保有する鈴木商店からの担保流れである株式を、恣意的に密かに民間に払い下げるなど、彼の正義感は許さなかった。時事新報は昭和9年(1934年)の正月明けから「番町会を暴く」という連載記事をスタートさせる。
  「番町会とは何か」
  東京麹町の高級住宅街である番町にあった、日本及び東京商工会議所会頭で渋沢栄一亡き後、財界の世話人と言われた郷誠之助の邸宅で、大正12年(1923年)以来毎月14日に開かれていた政・官・財の有力者による集まりが番町会である。メンバーには一癖も二癖もある人物が集まっており、当初は9名であったが、後に11名となった。その内訳は、永野護、河合良成、後藤圀彦、中野金次郎、伊藤忠兵衛、金子喜代太、春田茂躬、渋沢正雄、岩倉具光、正力松太郎更にエキストラとして黒田英雄大蔵次官、三土忠造鉄道大臣、鳩山一郎文部大臣、島田台湾銀行頭取また従来から郷氏の秘書役であった中島久万吉商工大臣が加わっていた。これだけの役者がそろっていたので、世間からは、きな臭い存在として注目されていた。さて、時事のキャンペーンでは、公金によりなんとか命脈を長らえた台湾銀行の所有していた帝人株を番町会のメンバーが不当な安値で、しかも秘密裡に入手したことを暴いたもので、他に神戸製鋼所株式の不当取得にも触れている。帝人株は永野護、河合良成の両名が一株124円で入手したが、帝人は伸び盛りの優秀な会社で上場も予想され、また増配も期待されていた。従って近い将来株価が上昇することは目に見えていた。さらに三分の二の増資も考えられており、これを発表すれば、たちまち150円まで上がることは必定であった。事実帝人株は150円まで一気に上昇したのである。
  「法を超越した社会悪・道徳悪として糾弾」
  武藤はこのキャンペーンを森田久編集局長に委ねるが、直接の担当には、先年東京市政の乱脈ぶりに鋭い筆陣を張った和田日出吉を任命する。彼は大森山人のペンネームでこのキャンペーンを展開した。しかし、開始に当たって武藤は、肩代わりは単に値段が高いとか安いとかいうのではなくて、国民から得た6億円という莫大な税金で生き返った台湾銀行は単なる普通銀行ではない。担保たる資産の処分は国民の為に少しでも高く、また透明性をもって当たるべきである。自分としてはこれがどんな犯罪になるのかわからない。これは法律悪かもしれないが、それよりも、これは法律を超越した道徳悪、社会悪であるから、このような腐敗は決して見逃すわけにはいかないと述べている。この記事が導火線となり、国会もこの問題を取り上げ、検察も動き出した。
第2節 「テロに倒れ、非業の死」
  「番町会を暴く」の連載キャンペーンを終了する直前の昭和9年3月9日の朝、武藤は出勤のため北鎌倉の自宅を出て、徒歩で北鎌倉駅に向かった。駅への途上一人の男が武藤に近づき、何か話しかけてきたので、通勤の際よく一緒になり、この日も坂をともに下っていた、横浜の野沢屋の重役殿木氏も何か話があるのかもしれないと思い「ではお先に」と一人道を急いだ。この男は、福島新吉といいインテリではあったが、当時失職して、どん底の生活を送っていた人物で、かつて東京の火葬場の問題で中野正剛の紹介で武藤を訪れていた。その際彼は人口が増えて火葬が増える中、民間の火葬業者は高い価格で暴利をむさぼっている。東京市は、市営の火葬場を造るべきであると武藤に話していった。武藤はいろいろ現状を調査して「思うまゝ」にこの福島の意見を書いた経過があり、福島からは取り上げたことを感謝する礼状が届き、その書状は今も残っている。しかし、福島はその後の生活苦からか、武藤が自分の考えを横取りし、何ら見返りをもよこさないとして、その後金銭をせびるようになっていた。本道から横道にそれ、麦畑の脇に差しかかったところ福島は、突然武藤を襲い、ピストルを発射した。弾丸は5発武藤に命中し、庇おうとした書生の青木茂は即死。福島はその場で自らに3発発射して自殺した。武藤は即死を免れ、そのまま鎌倉の病院に運ばれたが、翌3月10日不帰の人となった。
第3節「暗殺の真相は?」
  なぜ武藤が暗殺されたかは、彼、書生、犯人いずれも死亡したため真相は今もって不明ということになっている。しかしながら「番町会」の追求に渾身の努力を重ねていた折だけに、世間の目はそれに向けられ、番町会の河合良成は警察に喚問され、背後が洗われたが、何者が犯人を教唆して武藤を襲撃させたのかは判明しなかった。しかし、もう80年以上前のことなので明らかにしてもよいと思うのでその一部をお話しすると、武藤家による興信所の調査記録「鎌倉事件の調査書類」が残っており、これによると「河合は決行の2週間前に福島と面談し相談を受けている。福島が心情を吐露して河合に決行をほのめかした」と書いてある。河合にすれば自ら手を汚さずに敵を倒すことが出来れば、こんな旨い話はない。福島を、激励または決行後の面倒を仲間が見る事を示唆したのかもしれない。しかし賢明な河合は番町会のメンバーの誰かと相談して、この福島とのやり取りを警視庁に密告していた。それとは知らず、福島は何度も河合に面会を求めるが、その後河合は一切応じていない。決行の代償について、福島が誰から語られたか、死人に口なしでわからないが、彼が、河合と面談後犯行の決意を固めていったことは確かである。そのことは、彼が知人に、決行の少し前満州に職を得たとか、その待遇が可なり良いとか云っていたこととも関係があるのかも知れない。もう一つこれは警察の調査も及ばなかったことであるが、武藤が狙撃された場所の前の家の家主榊厚州は、犯行わずか6日前に引越してきたばかりで、前の借家について、10か月間家賃を滞納していたほどに困窮していたにもかかわらず、前の家主が督促に訪れたところ100円札で、これで受け取って欲しいと云ったため釣り銭がなく、そのまま帰ったところ、数日して全額榊が持参したという。そのころから榊は金回りがよくなり転居してきた家の家賃は、前の家の倍以上であった。また榊はかって帝国ホテルに勤務しており、武藤とは顔見知りであった。また若い同居人がいたらしく、それについて警察は全く掴んでいない。福島以外の第三者が榊の家の塀の影から武藤、あるいは福島を打とうとしたという第三者説もあながち否定できない。福島は3発も自分に打ち込んでいるがそんな体力があったであろうか。時事新報の報道によれば、福島のそばに彼の銃以外の薬莢が残っていたと報道しているが、これは何を意味しているのか。武藤の死後脅迫状が見つかった事は、彼を恐れ、彼の死によって最も利益をえたものが誰であったかは明らかではなかろうか。武藤は今、神戸舞子の石谷山で「行い正しければ眠り平らかなり」の言葉通り静かに眠っている。傍らには、武藤の盾となって死んだ青木茂の慰霊碑が寄り添っている。

エピローグ「帝人事件の始末とその後の時事新報」
第1節「社会悪と闘う新聞人の使命を全うした時事新報社」
  武藤山治の戦いは終ったが、その最後の戦いの場であった時事新報は、その後武藤が逝去した翌日「番町会を暴く」において「我等はまた社会悪のため武藤氏の屍を越えて最後まで戦うものである。断じて武藤氏に犬死はさせないのである」と宣言し、12日には「暗殺の裏には番町会の動きがあった」と書き、13日には「社会悪と闘う新聞人の使命を呼び戻された時事新報社は、常に眼を光らせ、社会正義のための戦いを間断なく続けて行く決意である」と56回に亘った連載記事を締めくくったのであった。
第2節 「国家的圧力で無罪となるも、達成された社会的正義」
  この記事が引き金になり、4月に入ると検察による関係者の本格的な捜索が始まり、関係者が続々と逮捕され、起訴された。いわゆる帝人事件、帝人疑獄である。そして昭和10年(1935年)6月から東京地方裁判所の公判が始まった。公判に至る過程で相当の被告が自白していたのであるが、裁判になってからはほとんどがその自白を翻し、むしろ本件は、正当なる商行為、商取引と主張し、裁判は長引いた。昭和12年(1937年)12月に意外にも全員無罪の判決が下された。検事側は、検事控訴を図るが、結局断念せざるを得なかった。
  これは時局も対中国戦争へのぬかるみへと進んでいた時期になっており、裁判どころではないという国家的な圧力も出てきていた結果と思われる。帝人事件は、このような残念な結果に終わったが、武藤自身は、「番町会を暴く」の記事が大きな反響を呼び、国会や検察が実際に動き出した時点で、記事の終了を考えていた。武藤は、記事継続を望む森田と和田にこう云っている「戦いは引き時が大切だ。それに、あの記事の使命はもう終わった。あの記事で犯罪人を造るというのは僕の本意ではない。ただこういう悪人がいる事を世に知らせればよかったのだ」と武藤の目的は、十分に果たされたのではなかろうか。
  最後に一つだけ我慢のならないことがあるので、一言触れておきたい。この事件の首謀者の一人河合良成についてである。この事件の本質は、何年か前に起ったリクルート事件と全く同じもので、今なら完全に有罪である。無罪となった河合は、戦後吉田内閣で厚生大臣をつとめ、さらに小松製作所の社長を長年つとめ財界に重きをなし華々しく活躍した。その彼が、その後「帝人事件30年目の証言」なる著書を書き、武藤を人格的にけなし、「帝人株の肩代わりについてこれは、純然たる商行為である」と身の潔白をあらためて主張している。またこの本以外でも時に触れ、帝人事件について言い訳していることは、誠に見苦しく、みっともない限りである。やはり帝人事件は、彼にとって大きなトラウマになっていたのであろう。
第3節「その後の時事新報の歩み」
  最後に武藤が逝った後、時事新報がどのようになったかをもって、終わりたいと思う。武藤が凶弾に倒れた後、折角収支均衡まであと一歩と迫っていた社業は再び悪化して行く。孤軍奮闘していた門野幾之進会長は、山本昌一を社長に据え、再建に取り組むばかりではなく、大阪毎日新聞の高石真五郎主筆に協力を要請した。高石は経営責任者として前田久吉を推薦する。
  再建工作は順調に進むが、昭和11年(1936年)の12月に株主総会が開催された。議題は200万円増資するか、解散するかであったが、株主間の内紛により解散が可決されてしまう。これにより従業員側とは大争議となり、前田は、毎日新聞から資金を調達し、門野会長は、私財を投げ打ちこの場を収拾したのであった。しかしこの際見返りとして「時事新報」の題号は毎日新聞に譲渡された。戦後前田は「時事新報」の復刊により東京進出を企て、昭和21年(1946年)元旦に時事新報は復刊する。この後前田は、追放が解かれると産経大阪の経営に復帰し、昭和30年(1955年)11月に産業経済新聞東京本社と時事新報が合同して「産経時事」となった。さらに、昭和33年(1958年)7月「産経時事」商号を大阪と統一し、「産業経済新聞」に復するが「時事新報合同」の名前は残る。
  昭和44年(1969年)題号が「サンケイ」となり「時事新報合同」の名前が消える。このように「時事新報」の名は消えたが、なお、時事新報社は、資本金7000万円の会社として産業経済新聞社の中に存続している。

  最後に    以上、私の本日の講演は、平成16年発行の國民會館前専務理事、松田尚士氏著 國民會館叢書「武藤山治と時事新報」から、特に重要な論述について参考にさせてもらった。この書はまさに本日のテーマに関する決定版の名著である。まだ在庫があるので皆様におかれては、是非一読されることをお勧めしたい。

終章「質疑応答」
「質問1」

  國民會館の設立趣意書に「我が国立憲政治百年の大計を樹立せんが為、敢えてその第一歩を記す」とあるが、82年後の今日を見据えての先見の明には、感嘆するところである。さらに補足して説明していただきたい。

「回 答」  

  武藤山治の議員時代において、帝国憲法下の立法・行政・司法の三権分立のもとに、政権は英国の議会主義と同じく二大政党によって争われていた。然しそれは形だけであり、議会の運営はたらいまわしで行われ、選挙による民意が反映された議会政治とは程遠く、議会制民主主義は停滞を余儀なくされていた。さらに首相は議会で指名されず、明治維新に功績のあった元老によって指名されていた。山治は、憲法違反にならないことを法律学者に確認したうえで、首相公選論を唱えるとともに、我国の立憲政治は英国型の立憲政治を目指すべきものとして「立憲政治百年の大計」と表現したと思われる。

「質問2」

  時事新報はどうしてつぶれたのか、当時の時事新報がラジオに押されたのは、現在において活字メディアがネットにおされているのと同じ現象と思われるが、世論喚起に力を入れる読者のための新聞と、経営として必要な顧客のための新聞の相克をどう考えるか?

「回 答」  

  ご意見の通りの相克があると思う。山治はその対応策として、読んでもらうだけでなく、見てもらう紙面づくりをしたのであった。すでに述べたように、小説、読み物、漫画、婦人欄、全紙広告を増やし、特に色刷り紙面に力を入れたのであった。    

「質問3」

  新聞は一部30頁近くあり、外国特派員の記事も掲載されているのに値段はたったの130円であるが、広告料だけでこれほど安くできるのか?

「回 答」  

  私も同感である。詳しい原価構成は知らないが、広告料の大きさは決して無視できないのではないか。某大新聞が慰安婦問題のねつ造により広告料がガタ減りになったそうである。(購読数も減少したうえに)その経営に対する打撃は大きかったと言われている。

「質問4」

  歴史上、あるいは社会的に知られている武藤山治の人物像の他に、家族だけが知っている、人間武藤山治について教えて欲しい。

「回 答」  

  単なる経済人、政治家、新聞人でなく、文化人としても優れた人だった。彼はもともとケンブリッジ大学で文学を専攻する予定であったが、いわゆる松方デフレの影響で、父親が親戚に貸付けていた留学資金が返済されなくなったので、その目的は達せられなかった。然し彼は語学が堪能であり、英語だけでなく、他のヨーロッパ言語も話し、かつ原書を自由に読破することが出来たのであった。その語学力も駆使して、彼のナポレオンに関する研究は一頭地を抜くものであった。ナポレオンは、全ヨーロッパを席巻し栄華を極めたが、ワーテルローの戦いに敗れ、没落してセントヘレナ島に流されていく彼の挫折感を思えば、どのような困難にあっても、多少の問題は全部解決できるのではないかと、山治は記している。舞子の旧武藤山治邸に、セントヘレナに流されていく途上で、ヨーロッパ大陸を最後に眺めている彼の肖像画が掛っている。又美術についても蕪村、尾形乾山を世に出したのは山治である。家庭人としては、子供に対しては自由放任で、各人に自由に個性を発揮させた。私の父は慶応で経済学部から好きな文学部に父親には何の相談もなく変わったが、山治はそれに対して「そうか、しっかりやれ」となんら反対せず、息子の判断に任せたと聞いている。

「質問5」

  番町事件の本質はつまるところ何か?

「回 答」  

  政官財の癒着に尽きる。政治と結託した札付きの利権漁りの政商と政治家と官僚によってなされた疑獄事件である。




「以上は、武藤治太会長が講演のために準備された書下ろしをそのまま、講演要旨としたものである。その校正の全責任は当會館が負うものである。」



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