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武藤記念講座(講演会事業)

第1018回武藤記念講座要旨

    2016年6月18日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所教授
    所功氏

 「成人とは何か―吉田松陰の『士規七則』に学ぶ「成人」の要件」 

セミナー





第一章「成人」について考え直す
第1節 いま我々に問われていること
  (1)「成人の日」と「18歳選挙権」
  一般国民の選挙年齢を18歳からに引き下げる法律(改正公職選挙法)が、明日6月19日から施行され、国政選挙では来る7月10日の参議院選挙で初めて適用される。そこで選挙権を行使できるような「成人」とは何なのか、本日は選挙権の問題としてよりも、人間として日本人として一人前になるとは、どういうことであるのかを考えたい。
  「成人」という用語は、広く使われている。とりわけ昭和23年(1948年)「国民の祝日に関する法律」が制定されて、1月15日が「成人の日」と定められた。このような祝日は外国に例が少なく、その当時は日本だけであった。「成人の日」の思い出はさまざまあろうが、「成人式」について、マスコミで取り上げられるのは、現象的なニュースばかりで、成人式のあり方を本質的に論ずることが少ない。
  「成人の日」とは何かと言うと、祝日法に「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日」と定められている。私は長らく大学生を見てきたが、入学早々から、大人らしい自覚を持ち努力している学生もいるが、4年間経っても、大人になり切れない者がふえている。
  もうひとつの視点は、成人は日本国の構成員として、選挙権も行使できる大人として見做されることである。従来の20歳以上から18歳以上となることをどう考えるのか。世界的に見ると、ほとんどの国が18歳以上であるから、日本は遅きに失したのかもしれない。然し欧米でも18歳になったのは、比較的新しく、せいぜい半世紀前である。兵役の義務がある国では、大体20歳で兵役につく。20歳を一人前の大人として認める「丁年」にすることは、国家の安全と平和を担うためにも、意義があったからと思われる。
  (2)「大人」の自覚をもつ青年こそ「成人」
  現在の少年・少女が18歳から選挙権を行使できる「成人」となるためには、それに相応しい努力をする人間を育てる学校や社会の気運と環境が必要であ ろう。しかし、現状は必ずしもそうなっていない。私は新入生たちに「大学に入れたこと自体、すでに高校を出て働いている18歳・19歳の人達に比べて恵まれているのだから、親や社会に感謝しながらしっかり勉強して欲しい」と、言い続けてきた。
  けれどもかなりの学生たちが、大学を就職するまでの猶予期間として、極端に言えばゆっくり遊ぶ期間と錯覚している。学生自身がこの4年間でしっかり力をつけて、国家・社会に貢献できる自分を鍛え上げていこうとする気構えを持ち、教員もそれを可能にさせる教育にあたることが重要である。今後、大学への入学状況は、志願すれば誰でも入れ、いつでも送り出されるようになれば、本当の意味で勤勉に努力して、国家・社会のために貢献する人材が少なくなってしまうのではないかと危惧される。
  これは、日本だけではなく、世界的な傾向のようである。そうであれば、従来以上に困難な試練が予想される21世紀に、日本でも世界でも、若い人々がしっかり自覚を持って努力をしていくために、我々昭和世代はどうしたらよいのかを念頭におきながら、本日の話を進めていきたい。
  (3)「成人」を目指すのが一生の課題
  この話は決して若い人々だけの課題ではない。むしろ、若い人達を見守り育てる我々年配世代の責務でもあることを忘れてはならない。「今の若い人達は….」と文句をいう前に、このような若者を育ててしまった我々世代の責任を反省する必要がある。そうであるならば、今からでも遅くない。我々年配者が、どうしたら自分自身を鍛えながら、若い人々の模範と憧れになれるかを考えなければない。それは我々自身が、60歳になろうが80歳になろうが、成人を目指して努力を続け、国家・社会のために献身をすることであろう。
第2節 吉田松陰の生き方に学ぶ
  そこで今日は、あらためて「成人とは何か」を考え直すために、吉田松陰の生き方と名著『士規七則』から可能な限り学び取りたい。
  (1)父母や叔父たちの影響
  吉田松陰は天保元年(1830年)、農民に近い貧しい下級武士の杉家に生まれた。松陰には、父の弟である吉田大助と玉木文之進という二人の叔父がいた。大助の養子先である吉田家は、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の家柄であったが、大助に跡継ぎがなく、甥の松陰が6歳で吉田家へ養子に入った。幼い頃から英才であった松陰は、11歳ころから藩主に「武教全書」を進講した。さらに、その叔父玉木文之進から厳しい指導と薫陶を受けた。このように杉家に生まれながら、叔父の家を継ぎ、もう一人の叔父から学問を受け、19歳にして藩校明倫館の師範となった。小さい頃からの家庭環境は、父母の影響も大きいが、叔父や従弟ら親族との関係も深かったことが、のちの吉田松陰を大成させた要因といえよう。
  (2)兄弟や妹たちとの関係
  吉田松陰は、家族に対して非常に深い思いを持っていた。とりわけ弟と妹、また従弟に対して熱心に自分の思いを伝えようとしている。松陰の偉大さは、天下国家を論じ、人材を育成したことにあるが、家族に対しても誠心誠意、自分の思いを伝えようとして、皆の手本になろうと努めていることには、感心するほかない。
  松陰は、世のため人のために尽くそうとして走り回るうちに、自身は結婚する気がなかったようである。しかし将来のことを考えれば、妹達に子供を産んでもらい、その甥や姪たちに自分の思いを伝えて欲しいと、手紙などで沢山の言葉を残している。
  20歳ころから兵法学者として海防の実情を視察するため、九州を皮切りに江戸や東北など、全国各地に遊学した。「藩」という枠組みを越え「日本」という全体性を強く意識するに至った松陰は、日本を守る「攘夷」こそが、兵学者たる自らの使命と考えた。そんな志を立てた松陰は、自由奔放であり、見方によっては、やんちゃでわがままであった。然し、それを両親も兄弟もそろって応援した。特に兄の梅太郎は、いつも弟を理解し、安政元年(1854年)ペリーが再び来航した折、25歳の松陰が下田で米艦に乗り込み失敗し、萩で入獄されたときも、弟を命がけで護り励ましている。
  そして獄中では、殆ど世に出る見込みのない自暴自棄の生活を送っていた囚人に対し、松陰は相手の長所を掴んで、俳句の上手な人、書の上手な人などに進んで教えを乞い、その代り『孟子』の講義を聞いてもらうなど、一緒に勉強することを楽しんだ。人間はどのような立場・境遇にあろうとも、常に勉強を続け、自分の気持ちを奮い立たせるならば、おのずから未来が開けることを、皆が実感出来るよう実践したのである。
  (3)野山獄中と松下村塾での松陰
  その間に、これほど立派な人を獄に入れておくのは惜しいと考えた役人のはからいで出獄し、杉家で『孟子』の講義を続行した。松陰の著書の中でも、この26歳の時にまとめられた講義録「講孟箚記(こうもうさっき)」は最高傑作といえよう。
  27歳になると、松下村塾を指導するようになり、「松下村塾の記」を著した、そこに書かれていることは、まさに気宇壮大である。即ち江戸時代であるから、中央と言えば江戸、もしくは京都・大阪であったが、「僻地の萩の地にいても、天下国家のことを考えながら、天下国家を大いによくしていくために働かねばならない」と記されている。そこに集まった塾生達は、その言葉で自信を持ち、やがてそれが明治維新を生み出していったのである。然し、安政の大獄のために安政6年(1859年)萩から江戸の伝馬町牢屋敷へ檻送され、数えの30歳(今ならば29歳)で斬首刑に処された。
  それでも160年後の今日まで吉田松陰が日本に大きな影響力を及ぼしているのは、彼自身の生きざまを心ある人々が見習って、自らを律し正しく伸ばしていったことによるものといえよう。           
第3節 松陰の家族と吉田庫三の功績
  このように松陰は、すぐれた人物の輩出した幕末でも特に傑出した偉人といってよい。その松陰の家庭環境について、もう少し付け加えると共に、松陰の業績をまとめた甥の庫三について言及する。
(1)杉家に伝わる好学の家風
  松陰の生まれた杉家には、禄が少なくても学問好きの家風があった。祖父の杉七兵衛は、貧しいにも拘わらず、大変な読書家で、京都や大阪に出た時にはいつも沢山の本を買って帰った。そういう影響で父百合之助もその弟である二人の叔父、前述の大助と文之進も、大変学問熱心であった。親が子に孫に何が残せるかと言えば、学問を好み、仕事を楽しみとするような生き方を、自然に伝えて行くことであろう。父百合之助は貧しい中で松陰が書物を買うのを惜しまなかった。松陰は小さい頃から野良仕事をしながらでも本を読んだという。
(2)父方も母方も世のため人のために
  母の滝子は、もともと村田家の出であるが、同家はやや家柄が低いので、児玉太兵衛の家へ仮養子に入り、そのあと杉家に嫁いだ。その滝子の兄は禅宗の竹院和尚という、学問好きで松陰にも影響を与えている。和尚は鎌倉の禅寺瑞泉寺に入り、そこで大きな働きをした。このように父方も母方も大変学問熱心であり、常に天下国家のことを考える人達であった。
  兄弟姉妹は、二歳上の兄梅太郎、二歳下の妹の千代、かなり離れて二番目の妹の寿、三女は早く亡くなり、四女が文で、昨年のNHK大河ドラマのヒロインである。前述の通り松陰はこの三人の妹に思いをかけている。
  もう一人、弟の敏三郎がいた。彼は生まれた時からほとんど耳が聞こえず、話すこともできなかった。そこで松陰は何とか耳が聞こえ、ものが言えるように心を尽くしている。自らは神や仏に感謝をしてもお願いごとをしなかったのに、熊本で加藤清正公を祀る本妙寺に詣り、弟がなんとか正常になるよう願文を奉ったこともある。そのような兄の気持ちを汲んで、敏三郎は一生懸命勉強し、大きな働きをしている。
(3)甥の庫三が松陰の遺稿出版
  兄の梅太郎と長女の千代と松陰は、幼い頃に三人でよく遊び共に勉強もした。とりわけ千代に思いを託して沢山の手紙を書いた。千代は母が仮養子に入った児玉太兵衛の跡継ぎの児玉初之進と結婚し、庫三をもうけている。
  この庫三は、吉田家を嗣いで教育者となった。神奈川二中(現小田原高校)の初代校長となり、ついで神奈川四中(現横須賀高校)の初代校長となった。両校の同窓会誌を見ると、庫三がどれほど立派な人格者であったかが分かる。
  彼は伯父に当たる松陰の著述や手紙などを集めて後世に伝えようと、松陰没後50周年に吉田松陰の膨大な遺稿集を出した。今日出版されている松陰全集の主なものは、庫三の集めた資料が基になっている。松陰の偉大な業績は、この吉田庫三をはじめ、寿と結婚し2児をもうけ、のちに文と再婚した小田村伊之助(楫取素彦)ら、松陰の功績を何とか後世に残そうとした人達の努力のお蔭で、今に伝わっている。蓋しどんなに立派な人でも確かな資料がないと、後世の我々は理解することができない。

第二章 従弟玉木彦介への教訓
第1節 元服前年に発奮を促す
  松陰は、安政元年(1854年)25歳の正月、自身は野山獄中にいて自由に行動できなかったが、14歳の従弟彦介に対して、そろそろ大人の自覚を持ってほしいとの思いから、一文を送った。もと漢文であるが、書き下し文にして以下に示す。
  「彦介足下、寅(寅次郎)聞く、昔東方朔(前漢の文官)は、年十二のとき、書を学ぶこと三冬(冬の三ヶ月)にして、文史(文学・史学)用ふるに足り、(中略)皆その奇として嘆ずる所となると。古人、かくの如き類、甚だ多し。今足下も亦十余歳、まさに自ら表見する所あるべし。知らず、近日修むる所は何の業ぞ、読む所は何の書ぞや。」
  ⇒お前は14歳になるのだから、どのようなことをやろうとしているのか、どのような本を読んでいるのかと、問いかけた。
  「僕、足下の国史を読まんことを望む。漢事に明らかにして国事に茫乎たるは学人の通病なり。故に宜しくまず国史を読むべし。国史は近古より始めよ。上古は幽遠、中古は悠優にして、その史皆読み難し、幼学の及ぶ所に非ざればなり。近古は又宜しく藩史より始むべし。僕又、足下の楷書を学び、兼ねて抄録・謄写等のことを習はんことを望む。」
  ⇒お前は日本の歴史を学ぶ必要があり、そのために、まず身近な藩の歴史について楷書で書いた書物を読み、大事なところを抜き書きして写すとよい。
  「これ小事と雖も亦読書人の要務にして、忽せ(ゆるがせ)にすべき所に非ざるなり。 その他足下に望むもの、尚多し。未だ遽かに注告せざるは、敢へてこれを吝む(おしむ)に非ざるなり。憤ひを待ちて而る後これを啓発せんと欲するのみ。」
  ⇒松陰は、注意や指導をする際に、相手の状況を見て彦介の方から発奮するのを待とうとしている。本人がその気にならなければ、伸びていかないからである。
  「僕の兄弟行(従兄弟を含む身内)年少くして成立を望むべき者は独り足下あるのみ。されば即ち僕の足下に望む所、豈にこれのみに止まらんや、足下宜しく深く自ら激昂し、こうこう然(堂々)として、古人を以って期(目標)と為すべし。」
  ⇒身内の若い人の中で、頼みとするのはお前だけだ。どうか発奮し、古人のように目標を立て、しっかり進んで欲しい。自分は獄中にいるが、これだけの気持ちを持っているのであるから、それを乗り越える努力をして欲しいと求めている。
第2節 元服の正月に「成人」を祝う
  ついで翌安政二年(1855年)正月に次のような和歌を贈っている。
  「今日よりぞ幼心(おさなごころ)を打ち捨てて人と成りにし道を踏めかし」
  ⇒立志のためには、親や人に甘えがちな幼心を捨てることが大切である。子供っぽい心を捨てて成人としての道を歩んで欲しい、との願いがこめられている。
  この正月に松陰は従弟のためにいくつかのことをしている。そのひとつが、彦介に与えた「士規七則」である。
  これははじめ「士規六則」であった。このことは、松陰の研究者でもあまり知られていないことである。どうして分かったのかといえば、清書した反古紙に草稿の断片が残っており、「士規六則」と書いてある。つまり初め六則だったが、あとからひとつ付け加えられたことが分かる。その六則を書くのに、漢籍の古典をふまえていることも分かる。
第3節 彦介の字(あざな)を「毅甫」とす。
  もうひとつは、「字」(あざな)を考え与えている。
  「叔父玉木先生の令嫡彦介は、寅に於ては 從弟たり。(先生より)書來りて、曰く「某の日、吉なり、將に冠せんとす」と。寅乃ち先生に請ふて曰く、「古は冠して字(あざな)す。それ以てこれに字せらるるものありや」と。先生曰く、「未だしなり、汝爲めにこれを撰べ」と。寅、(名は)弘、字は毅甫と爲さんことを請ひ、かつこれが説を為て日ふ。「士は以て弘毅ならざるべからず、任重くして道遠し」と。惟(ただ)弘のみ以て天下の至重(責務)に任ずべし。惟(ただ)毅のみ以て天下の至遠(目標)致すべし。これを萬のけん牛が大倉の粟を運ぶに譬ふべし。弘にして毅ならざるものは鐵牛にして行くべからざるなり。毅にして弘ならざるものは、野牛にして覊ぐべからざるなり。皆飛挽(運搬)の數にuなきのみ。人、眇眇の身(小さい体)を以て霄壌(しょうじょう:天と地)の間に生れ、心は天地に通じ、道は古今を貫く。上は君父の大恩を荷ひ、下は師友の重責を負ふ。弘なるもの或は以て毅なくんば、而ち弘にも非ず、以て毅なることなし。毅なるもの或は以て弘なくんば、而ち毅にも非ず、以て弘なることなし。古に曰く、「冠(元服式)は成人の道なり」と。成人の道、蓋しこれに過ぎさらん。(名は)弘にして、字は毅甫の説を爲る。」
  ⇒これも松陰の自筆が残っている。従弟に志を強く持ち、心を弘(ひろ)く毅(つよ)くして、跡を継いで欲しいと願ったものである。
  このころ、正にそのような思いをこめて書かれたのが「士規七則」にほかならない。

第三章 松陰自筆の「士規七則」を読む
  この『士規七則』は、幸い松陰の自筆本が何種類も残っている。その全体を見渡してみると、まず序文的な文章があり、ついで一から七までの本文があり、最後に要約がある。これは「士規七則」としてまとめられた段階での全文であり、原稿にあった出典は省かれている。
第1節 序文に見える執筆の意図
  冊子を披繙すれば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。
  ⇒本を読むと素晴らしいことが書いてあるので、気持ちがワクワクする。
  顧ふ(おもう)に人讀まず、もし讀むとも行はず。
  ⇒それなのに多くの人は本を読まない。もし読んでも、実行しない。
  苟(まこと)に讀みてこれを行はば、則ち千萬世と雖も得て尽すべからず。
  ⇒読んで実行するのならば、いつまでも学ぶべきことがある。
  噫(ああ)、亦何をか言はん。知る所ありて言はざる能はざるは、人の至情なり。古人これを古に言ひ、今吾れこれを今に言ふ、亦何ぞ傷まん、士規七則を作る。
  ⇒知りえたことを言いたくなるのは人情であり、私もそれをこの「士規七則」にまとめた。然れども、これ吾が言に非ざるなり。故に聖言賢語、類に觸れて援引し、以て其の義を証す。

  ⇒この「士規七則」は自分の考えを勝手に書いたものではなく、先人が言われたことをまとめたものである。
  これは極めて謙虚で真摯な学問態度といえよう。なんでも俺の言っていることが正しいとか、俺の言っていることに従えというのではなく、自分が先人から学んで大事だと思い、これこそ実行しなければならないと考えることを、伝えようとしているのである。
第2節 本文の「七則」を味読する
  さて「七則」から成る本文を一つ一つ読み上げながら、簡単な説明を加えよう。
  (一)およそ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異る所以を知るべし。
  ⇒我々は、この世に人間として生まれて来たことを先ず自覚しなければならない。人間は他の動物と違う。「人でなし」と言われるのは他の動物と違わないということで、大変な侮辱になる。侮辱を受けないためには、人の道を踏み外してはならない。
  蓋し人に「五倫」あり。而して君臣父子を尤も大なりと為す。故に人の人たる所以は、「忠孝」を本と爲す。
  ⇒人間には「君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友」という五つの道徳がある。とりわけ大事なことは君臣の義と父子の情でたるから、君と親への「忠孝」を根本としなければならない。
  (二)およそ皇国に生れては、宜しく吾が万國に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統にして、邦國の夫士、世々祿位を襲ぐ。人君、民を養ひ以て祖業を続ぎ、臣民、君に忠し以て父志を繼ぐ。君臣一體、忠孝一致、これ吾が万國に尊き所以なり。
  ⇒我々は人間として生まれたのみならず、日本に皇国の民として生まれたのである。皇室は神武天皇以来、まさに一系の天皇が続いている。一系とは、親子相承に限らず、従兄弟に行ったり、女帝を立てたりするが、皇祖の血統を継いでいることを言う。諸藩においては、藩主のもとで代々禄位を継いできた。そう言う意味で、皇国に生まれたこと、そのもとで代々藩があり、親がいて今日がある。まさに君臣一体であり、忠孝一致であることが、日本の日本たる所以であることを、しっかり自覚しなくてはならない。
  (三)士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。
  ⇒ここにいう士とは、必ずしも武士に限らない。君子の命を承けて民を導く世のリーダーを士丈夫という。その士は、何よりも正義をわきまえ、何が正しいかを知らなければならない。然し正しいことを知っていても、実行しなければ意味がない。それには勇気がいる。車の両輪のように、正義を自覚すると同時に、実行する勇気を持たねばならない。このことがあってはじめて士の道が行われうる。
  私は高校二年生のとき、はじめてこの文章に接した。恩師はこの「士規七則」を全部暗記しておられ、朗々と読まれるのにびっくりした。私も先生のまねをして暗記に努め、それ以来忘れることがない。名言は暗記しておけば、すぐに思い出され、それが自分の生きる励ましになり、とりわけピンチに陥ったとき活きてくる。
  (四)士の行は、質実欺かざるを以て要と爲し、巧詐過ちを文るを以て戒と爲す。光明正大、皆これより出づ。
  ⇒ここにリーダーの心得が説かれている。士の言動は、光明正大であれば、一時的に不利になろうが、堂々と生きているのだから怖くない。ごまかしをすれば、必ず見つかり、人々から蔑まれることになってしまう。
  (五)人、古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば、則ち鄙夫のみ。読書・尚友は君子の事なり。
  ⇒およそ人間は、昔の聖人が言われたことをしっかり理解し、立派な人を先生とするのでなければ、平凡な人間で終わってしまう。だから、本を読み優れた友達をもつことが大切である。
  この第五条だけ出典が書かれてないので、当初はなく、後から付け加えられたのかもしれない。
  (六)コを成し材を達するには、師恩・友u多きに居る。 故に君子は交はる所を慎む。
  ⇒人が徳を積んで、才能を発揮するには、よい先生、よい友達を多くもたなければならない。だから立派な人物はどういう先生、どういう友達と交わるかをよく考えている。
  (七)死して後巳(や)むの四字、言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、これを舍(お)きて術なきなり。
  ⇒死ぬ気でやり抜けば、成就しないことはない。

第3節 要約に示される「成人」の三要件
  右、士規七則、約して三端と爲す。曰く、立志、以て万事の源と爲す。択交、以て仁義の行を輔く。読書、以て聖賢の訓を稽(かんが)ふ。士苟(いやしく)も此に得ることあらば、亦以て成人と爲すべし。
  ⇒ここに「成人」という熟語が出て来る。一人前の成人とは何か、まず「立志」、人間として何をやりたいのか、どこへ向かって進むのか、目標がたっているかどうかは、すべての根本である。その志は一度立てたら変えない方がよいのかもしれないが、変えたらいけないと言うものではない。やってみて途中で方向転換してもよいが、まずスタートは志をたてる必要がある。
そのうえで尊敬できる先生に就き、信ずべき友達を得て、自らのやり方を正し伸ばしていくならば、人間らしい仁義の行いをしていける。
さらに、我々は近くの友達だけでなく、書物を読むことによって、遥か昔に亡くなった人々からも、遥か遠いところにいる人々からも学ぶことが出来る。
  このように、まず自分なりの志がたっているのか、本当に学ぶべき先生や友達を持っているか、本当に心の糧(かて)となる書物を読んでいるか、この三点において自信のある人は「成人」と言えるが、そうでなければ成人とは言えない。
  これは実に見事な「成人」の定義である。これは年齢の問題ではない。10歳でもこの三点を備える人もいるだろうが、80歳になってもまだ備えていない人もいる。
  現に私は75歳になるが、今も自分の志を立て直さねばならないと思っている。これまでこういう目標を持ってやってきたけれども、なお健康に恵まれたら5年・10年先までに何ができるか、何をしなくてはならないかということを考えている。そのためにも、本当の友達や先生を得て、そこから学んでいく必要があり、さらに古典からも外国の書物からも学んで行きたい。そういう気持ちを持って、真の「成人」に近づきたい。

第四章 乃木希典も仰いだ「士規七則」
   第1節 玉木文之進に師事した乃木希典
  この「士規七則」は幕末当時から多くの人に大きな影響を与えた。その代表的な一人が乃木希典である。
  乃木希典は江戸で生まれたが、江戸より下関に帰り、志願して萩へ行き松陰なきあと玉木文之進が主宰していた松下村塾で学び、そこで5年近く修行した。その文之進が最も褒めたたえたのは吉田松陰であったから、乃木希典も吉田松陰を深く尊敬している。そして文之進からもらった「士規七則」の原稿を肌身離さず持っていたが、明治10年(1877年)の西南の役で軍旗とともに失ってしまった。そこで杉梅太郎に写本を送ってもらい、自ら清書している。
第2節 長男勝典に書き与えた「士規七則」
  そのひとつであるが、日露戦争で命を落とすことになる長男勝典の志を励ましている。この「士規七則」写本が東京の乃木神社にある。
  茲に少尉の二十四回誕辰を祝し贈るに/松陰先生士規七則の額一面を以てす。少尉が幼時に於て勅諭ノ五ケ条ト此士規七則をしばしば読聞/せたる事、尚ほ記憶に存するならん。/勅諭を日々自ら拝誦するは、現職に在て/軍務に従事する上に苟も欠く可らざる信ずと雖ども、士規七則に至ては、或は之を読/誦するの時に乏しからんを疑ふ。素より軍人/の精神を戒飾奮励するに於ては、五ケ条の/勅諭にて是れり。敢て其他ヲ要せずと雖も、余/が青年時に於て、大父君(希次)及玉木先師(文之進)の/常に此七則を以て教へられしことを想起すれば/今尚ほ其恩音に接するが如し。近時特に感ずる処あり。故に之を贈るに一言を加ふ。其第/一・第二・第七・八、今更に弁ずるまでもなし。第三、士道莫大於義。〔区々たる小信義の謂に非ず。大義・正義を云ふなり。〕/第四、質実不欺〔肝要と爲す〕、巧詐文過〔恥辱と爲す〕。/第五、不通古今不師聖賢、則鄙夫而巳。/第六、慎交游〔其良友を撰ばざれば、知らず知らずの間に大義に背き、巧詐文過に陥り鄙夫となる也。〕
右の四条は、今日尤も少尉が実践躬行を/励まざる可らざるの緊要事たるを認む。/情切にして筆尽さず。唯此士規七則を熟/読・熟思・熟行せんことを勉めよ。
  明治三十六年(1902年)八月二十六日夜(日露戦争の前年)、於右林/別業、残燈下書之。

第3節 乃木将軍による「士規七則講話」
  乃木将軍は、人前で講演することが少なかった。たまたま長洲の将兵達に講話した要旨が残っている。そこに「士規七則」の要点が述べられている。
  ・・・七則中、第一のことは、人の禽獣に異なる所以にして、一般の人について云ふものなるも、第二のことは……今日に在りては軍人の任務である……所謂武門武士の心を以て自ら任じ、国体の如何を稽へ、終身の事業として深く意を用ふるにあらざれば。その職務を尽す能はず。三、……士たる者は義を肝要とす。義は之を守り行ふに勇気を要す。……勇気も亦、義のために長ずるものにして、所謂廉恥の心は義の発端である。四、……義の何たるかを解せざれば、質素の如何を知らざるに至る。人は質素にして苟も実用に反することがあつてはならぬ。……質実を得ざる者は公明正大なること能はず。五、道義を研究し、聖賢の道を守ること、亦た甚だ肝要なり。……山鹿素行先生の如きは、大に之を論ぜられたる書物もある。殊に吉田松陰先生の如きは、最もその説を尊信さるる念深かりしことは明かである。六、……君子は交友を慎むこと緊要にして、学術徳義の上に就き、その人の長所を尊重して交を結ぶを必要とす。只その欠点のみを見て、之を遂に嫌ふときは、友なきに至るべし。……七、……抑々生ある内に事を遂げ得ざる者が、死して事を遂ぐる筈なし。……死する際まで恥をかゝざることこそ望ましけれ。
  ここで注目すべきは、最後の「死而後巳」(死してのちやむ)について、その意味するところは、死んで何かを成し遂げようとするのではなく、「生きているうちに死に物狂いで目的を成し遂げることでなくてはならない」と説かれている。
  「士規七則」はもともと身内の従弟のために書かれたものであるが、松陰に学んだ、松下村塾の人達により書き写され、版木にして印刷されたものが、多くの人達に影響を与えた。成人とは何かを考えるうえで、「士規七則」の要約にいう志をたてること、優れた友達や先生を択ぶこと、優れた書物をよむこと、この三点において自分なりに自信があれば成人と言える。しかし、そのために絶えず奮励努力しなければならない。
  そういう意味で、今の18歳や20歳の青年だけでなく、むしろ我々昭和世代が、「成人」を目指しながら一生頑張らなければならないことを教えられている。

むすび  國民會館の設立趣旨と講座の役割
  昨日(6月16日)シナリオライターの中江有里さんが、産経新聞のコラムに國民會館の意味を次のように書いておられる、これから7月の参議院選挙では18歳選挙権が適用される。選挙は政治家のためにあるのではなく、国民が国の行く道をだれにまかせるかを決める機会だ。しかし「投票に行っても変わらない」という政治不信のせいで、投票率はあがらず組織票の力が強まるばかり。そんな時代だからこそ、国民の政治意識向上を訴えた、武藤山治の行動と思想が今あらためて再評価されると。
  この國民會館は何故できたのか。その設立趣意書によれば、「政治教育の殿堂として、國民會館を設立するの趣意は、畢竟(ひっきょう)国民をして、自ら政治教育運動に携はしむるの端緒を作り、以って我国立憲政治百年の大計を樹立せんが為、敢て実行の第一歩を成さんとする」と示されている。
  これを私なりに敷衍するならば、まず第一に、一国の盛衰は政治の良否によるのであり、日本の立憲政治がどうあるべきかについて根本的に考え、正確な理解と見識を持たねばならない。従って第二に、そのためには、世に言う単なる政治教育ではなく、天下国家と世界人類のことを根本的に考え、我々の生きている時代だけでなく、50年100年先を見通して、しっかりした見識を持つ政治家を育てていかねばならない。そのためには第三に、そういう見識を国民みずからしっかり持つよう努力しなければならない。そして、その目的を果たすために当初から月例講座が開かれ、今や千回を越して続けられている意義は大きい。
  こういう趣旨をふまえて、本日は更めて成人とは何か、日本や世界を担っていく本当の大人として、これからの若い人々が真の意味の成人になるよう、年輩の我々も、どういうことを考えていくべきかの話をさせて頂いた。

質疑応答
「質問1」

  60年前に宮本共産党委員長が、座談会で一番大事なことは何かと尋ねられ、皇室をなくすこと、皇居を解体して住宅地にすること、また祝祭日をなくすことと答えていた。さらに共産党の綱領は憲法より上であると述べた。然しこの頃、共産党は天皇を国会で迎えたりしている。これをどう思われるのか?

「回 答」  

  (1)私が昭和35年(1960年)に大学へ入った頃は、共産党直属の民青(民主青年同盟)が学生自治会を支配する時代であった。彼らが、日本で革命を起こそうとして堂々と言ったことは、昭和2年(1927年)にソ連が示した国際共産主義のテーゼ(命題)に従って、「君主制の打倒」「天皇制の廃止」を目指すであり、それが日本に課された共産党の至上命題であった。これを戦前は地下活動しながらやって、昭和20年以降は表立ってやるようになった。
  最近は、それを段々引っ込めているが、消したのかと思えばちゃんと残っている。今どこかの政党が共産党と手を組むようであるが、君主制の打倒という命題が残っていることを忘れてはならない。

  (2)今のところ、国民の多くは皇室を残すほうがよいと考えているので、あえて反対せず、民主統一戦線が出来て支持が多くなれば、やがて皇室を廃止することが共産党の戦略である。彼らが、国会の開会式に出るのは、天皇陛下に頭を下げるのではなく、今の憲法を守ると言っている以上、あえてそれを拒否すれば反発を買うので、世論対策として出席するようになったのであろう。

  (3)今から50年前の昭和41年(1966年)、「祝日法」の改正があり、「建国記念の日」が法制化された。そのとき各政党が色々な案を出したが、共産党だけは案を出さなかった。なぜかといえば、日本はまだ人民の国家でない、革命で戦い取る日が建国記念の日であると、赤旗に書いていた。
  あの当時の共産党は、従来の国家のあり方を破壊するようなことを堂々と言っていたのである。このことを事実として忘れてはならない。政党はどのような理想を実現しようとしているのか、その後変わることはかまわないが、本気で変わっているのか、ごまかしているのか、しかと見抜かないとだまされることになる。

「質問2」

  これから、二百数十万人の18歳・19歳の若者が新しく選挙権を得る。しかし、彼らが各学校でそれについてどのような教育を受けているのか、学校で洗脳されるような教育を受けたり、学校の外で、チラシとビラを配りながら、例えば憲法改正の反対集会に参加させたり、いわゆるシールズの若い人達の別働部隊として全国で教育現場の中に入っていることが、実際に報道さている。一部の教育機関、教育委員会では、そういうところを厳しく取り締まり、指導しているところもあると聞いているが 殆ど野放し状態のようである。そこら辺に関してどのようにお考えか。

「回 答」  

  (1)本当に危うい。若い人達が政治離れして極端な思想に走らないというのは錯覚である。ネット社会であるから、一方的な情報やデマを信じて、それで投票行動をするかもしれない。巧みに画策すれば、いくらでも扇動できる社会なのである。高校なり大学で仮に中立性を保つよう指導しているとしても、それ以外のところで、いろいろな情報が行き渡る。いわゆるネガティブキャンペーンを張ると、それが一人歩きして結果的に潰されてしまうことも起きかねない。十分な準備もせずに今回選挙年齢を引き下げたのは拙速だと思う。
  学校教育について言うと、文科省と総務省が手引書を出している。それはネット上でも公開されている。「私達が拓く日本の未来」と題する生徒用と教師用。然しこれは当たり障りのないことが書いてあるに過ぎない。だから巧妙にごまかして、一方に誘導するようなことを、学内または学外でする恐れがあり、政治的中立を保つことも難しいと思われる。

  (2)ちなみに、国旗・国歌の問題に関しては、いま小・中・高でほとんど100%に近く掲揚も斉唱も行われているとの報告が出ている。しかし、特に高等学校では全く国旗も国歌もいいかげんにしているところが少くない。国旗を校庭の片隅に置いておく、国歌は生徒が入場する前にテープで流しておく。それでやったという報告をしている。そのようなことでは、国旗・国歌に敬愛の念を育てることにはならない。

  (3)然し、それをどうしようもないとあきらめてはならない。父母や有志が、そういうことを見つけたら指摘することである。新聞を見ていると、いろいろ投書があり、投書の影響力は大きい。出版社に愛読者カードを出すと、1名の人の意見に100名の人が同調しているとみなされる。だから、この本はいいという意見が100枚あれば、再販に踏み切る用意もする。
  もしそういうことについて、おかしいとか、間違っていると思ったら、堂々と社会に訴える必要がある。このようなことが民主主義社会のひとつのあり方である。これからの参議院選挙でどういう結論が出るか、ひとつの試金石として注目したい。万一それがうまく行かなくても、徐々に正されていく方向を目指すしかない。

「質問3」

  今日はあらためて立志の大切さが腑に落ちた。今からでも志を鍛えることが大切であると分かった。然し今日の話は維新前から日露戦争までの転換期が中心の話である。この新しい時代において、どのように18歳の成人が志をたてるか、ヒントを教えて欲しい。

「回 答」  

  (1)明治・大正・昭和の時代も若い人々の考えは次第に変わっている。明治始めに国内外の危機が実感されたころは、一般の人々も非常に緊張して勤勉に努力をした。しかし、日清・日露戦争に勝ってからは、心の緩みが出来、大正時代になると、大正成金という言葉もある通り、自分のことしか考えない人が多くなったようである。徳冨蘇峰が、明治時代は民権論者であったのに、やがて国権論者になったのは、青年達が天下国家のことよりも自分のことしか考えなくなったことを心配して、方向転換をした。昔からそのような青年の気持ちの変化があったのである。

  (2)世界は今やグローバル化しているが、何故か米国ではトランプ氏、またフィリピンでもトランプまがいの人、ヨーロッパでもそういう人々が、自分の国のことのみにとらわれ、他の国はどうなっても構わないという傾向が顕著になっている。今の憲法の前文に書いてあるような、国際社会は正義であり、それを信頼していればよいと呑気なことを言えなくなっているということは、若い人でも分かる程に露骨な覇権主義が広がって来ると、気楽なことは言っておれないと思わざるをえなくなる。それを若い人も敏感に感じ取り始めているのではないか、そのためには、そういうような情報をきちんと提供できるマスコミや、論壇の殺到も大きい。

  (3)ただ、多くの人がみんなそういう自覚を持ち志を立て行動できるとは限らない。むしろ100人の内の一人がしっかりした見識を持って行動すれば、世の中は変わっていくし、良くなっていくと思う。私の50年近い経験では、何百人も聞いてくれる講義も大事であるが、10〜20名のゼミ生は、一緒に苦労していると、卒業後10年経っても20年経っても心が通じ合う。私は、本当に自分の思いをしっかりと受け止めてくれる次の世代の人々を、全力で、100人の内一人でも育ってくれればよいとの思いでやってきた。これからも多くの人の理解が得られるようにすることが大事であるが、身の回りで本当によく分かってくれる人をみつけ、その人が一緒の方向を目指して頑張ってくれる、そういうあり方を今後ともつくっていきたいと思っている。

「質問4」

  18歳くらいの青年が、日本と米国で戦争があったのは本当か、どちらが勝ったのかと言うような現状を、正常に戻すには、半世紀や1世紀かかるのではないかと思うが如何?

「回 答」  

  もちろん容易なことではない。テレビの力がすごいと思うのは、一見ふざけたようなお笑いタレントでも、大真面目に伊勢神宮を参拝し、二礼ニ拍手一礼をした直後に一陣の風が吹いて、内宮でも外宮でも正宮の正面をおおう帳(とばり)がサーと開いた。あんなことは滅多にないが、本当に祈りをこめると何故か不思議なことが起きたのである。放映を見た人達の反響は大きかったそうである。今の世のなかでも真剣な参拝に神さまが、お応えになったと思うほかない。そういうことが人々に与える影響は大きい。このようなことから目が醒めることもあるのである。
  学校教育には、残念ながら余り期待できず、限りがある。然し映像やネットの力は、よくも悪くも大きく働く。そういう意味で本当に大事な情報、我々がこうして生きておられるのは、目に見える人の力もあるが、目にみえない力、先祖のお蔭によるというようなことが実感できるよう伝えていく必要がある。若い人達が第二次世界大戦=大東亜戦争を知らないと言われたが、何故日本のような国が4年も5年も戦いえたのか、靖国神社の遊就館に来る若者はゼロ戦や回天などの展示物を見てびっくりしている。そういう意味で、本物を見せて、本物を理解してもらう教育をするならば、数は少なくても目覚める人が出てくるだろうと思っている。




「 前回掲載(7月6日)の國民會館による講演要旨を所先生に新たに、校閲して頂きました。」



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