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武藤記念講座(講演会事業)

第1028回武藤記念講座要旨

    2017年3月11日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    公益社団法人國民會館 会長
    武藤治太氏

 「武藤山治とナポレオン」 

セミナー





はじめに
  本年は「武藤山治生誕150年」で、山治は慶應3年(1867年)3月1日に生まれております。そして昭和9年(1934年)3月10日に亡くなります。明治、大正、昭和の激動期を生き抜いたということです。同年の生まれでは夏目漱石がおります。漱石は49歳で亡くなりましたが同世代の人です。山治の業績は「武藤山治の三つの戦い」ということで、第一は「鐘紡」を日本一の会社あるいは世界一の紡績会社に育て上げるという戦い。第二は「実業同志会」(後に国民同志会に改称)という政党を自ら作り、政治の世界に出て行く戦い。第三は福澤諭吉の創刊した「時事新報」の再建という戦いです。この再建に渾身の力を注いでいた最中、暴漢に狙撃され、68歳の生涯を終えました。なお山治が国民の政治教育の場として作った「國民會館」の事業は、私どもが現在も継承しているわけです。その他美術・芸術にも造詣が深く、本日新聞やテレビで、平安時代を代表する装飾経の「久能寺経」が国宝になることが紹介されておりましたが、これは山治が蒐集したもので、私の家に伝わっています。

第一章 武藤山治とナポレオンの関わり
第1節 ナポレオンを尊敬し研究した山治
  山治は、ナポレオンすなわちフランス皇帝ナポレオン1世を尊敬し、研究を続けておりました。経済人を題材に小説化したことで有名な城山三郎の作品に「気張る男」という本があります。京都丹後の出身で、大阪で事業に大成功した松本重太郎氏をモデルにした小説です。この中で、重太郎の息子枩蔵がアメリカに留学、山治と親交を結び、二人でナポレオンの書物を読み合い、議論をしている様子が記述されております。
  枩蔵はその後日本に戻り、お父さんの関係で様々な会社の社長をしますが、お父さんが事業に失敗、一時不遇な時代を過ごします。そこで山治は枩蔵を鐘紡にスカウトします。鐘紡が日本で初めて外債発行した時、その実務を取り仕切ったのは松本枩蔵でございました。なお、城山三郎は武藤山治の小説化も試みましたが、余りにも幅が広すぎて途中でギブアップしたと聞いております。
第2節 旧山治邸の「ナポレオンの絵画と書籍」
  神戸市の舞子公園内に旧山治別邸がございます。その二階に上がる階段のつきあたりに、「ナポレオンの絵」が飾ってあります。この絵は、欧州を席巻したナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、英国に囚われの身となる。そして絶海の孤島セントヘレナ島に流され一生を終えるわけですが、彼がセントヘレナ島へ向かう英国船の中で、自分が活躍してきたヨーロッパ大陸に最後の別れを告げている絵です。孤影に満ちたナポレオンの姿を表しているものと思われます。
  また書斎は、山治が生きていた当時の状態で保存されていますが、その書棚には英書が約900冊あります。その内約200冊がナポレオン関係の本です。またロシア語で書かれた本もございますからロシア語の本も読了していたのでしょう。私の家に古いロシア語の辞書が残っており、その本には山治の書き込みもございます。その他日本語のナポレオンの本が約30冊、私の家にある本と合わせますと約50~60冊持っていたと思います。非常に忙しい実業人あるいは政治家の身でありながら、山治はナポレオン研究に力を尽くしていたということが分かると思います。
第3節 山治は自ら「ナポレオン伝」を執筆
  山治のナポレオンに関する文章が残っております。当時「実業の世界」という雑誌がございました。その大正元年(1912年)1月号から大正3年4月号に山治は「ナポレオン伝」を連載しております。残念ながらナポレオンが生まれてから第一次イタリア遠征が終了するまでで終わっております。ちょうど傷痍軍人やその家庭を救済するための「軍事救護法」の制立に全力投球していた時期と重なりますので、恐らくそちらに忙殺され、未完に終わったのだろうと思います。なお「ナポレオン伝」は「武藤山治全集」の中に60ページにわたり収められております。

第二章ナポレオンの生涯 
第1節コルシカ島に生まれた青年が、フランスの若き将軍へ
  ナポレオンは、「島に生まれて、島に死んだ男」といわれております。1769年フランス革命の20年前に地中海コルシカ島の首都アジャクシオで生まれております。ナポレオン一族はイタリアから渡って来たイタリア人で、彼の家は必ずしも貧しい家ではありませんでした。10歳の時、彼はフランスに渡りブリエンヌの兵学校、日本でいうところの陸軍幼年学校に入ります。非常に成績が良く、1784年15歳の時、難関のパリ陸軍士官学校に入学します。当時のパリ陸軍士官学校は、単に勉強が出来るだけでなく、名門集団の子弟が集まるエリート学校です。彼はイタリア貴族の末裔ではありますが、コルシカ島の田舎者ですから肩身が狭く孤独であったため、必死で勉強しました。特に読書に傾注し、2世紀頃のギリシャの文筆家プルタークの「プルターク英雄伝」を非常に愛読したそうです。塩野七生さんの本でもよく出てまいりますが、この本が彼の人生に大きな影響を与えております。
  さて彼が16歳の時、お父さんが39歳で亡くなります。お父さんは法律家で、コルシカ島独立運動の闘士でもありました。彼もその影響を強く受け、一時期コルシカ島独立運動に情熱を燃やしますが、その後挫折し、フランス陸軍の軍人として生きることになるわけです。1785年、16歳で陸軍士官学校を卒業し、砲兵少尉に任官します。
  そして1789年フランスに大革命が起こり、彼は20歳で大尉になります。革命で貴族階級の将校あるいは将軍がギロチンにかけられたり、あるいは亡命したりしましたので、将校、将軍の層が手薄となり、士官学校を優秀な成績で卒業したナポレオンのような人達が、若くして偉くなったのです。そして1793年には、トゥーロン港包囲作戦の隊長に選ばれます。この戦いは、フランスの周辺王国(スペイン、ドイツ、イタリア、オーストリア、英国)が、革命が自分達の王国に伝播するのを避けるため、フランスに対し干渉するわけです。特に海軍力の非常に強い英国は、マルセイユの南のトゥーロン港を封鎖します。この封鎖を解くための攻略戦です。彼は見事にこれに成功します。ナポレオンの出世の始まりの戦いです。彼はこの功績により旅団長に任命され、少将となります。24歳で将軍になるという出世を遂げる、その後フランス陸軍の中枢として活躍いたします。1796年には27歳でイタリアの軍総司令官となります。当時オーストリアの?プスブルク王朝の力が強く、北イタリアは殆どがオーストリアの勢力でありました。そしてことごとくフランスに対し干渉してまいります。オーストリアを叩かなければならないということで選ばれたのがナポレオンでした。
  ちょうどその時期に彼はジョセフィーヌ・ド・ボアルネと結婚いたします。彼女は、地中海から大西洋に出るところにあるマルティーク諸島の出身で、フランス貴族ボアルネの奥さんでした。ところがフランス大革命でボアルネはギロチンの露と消え、この美人の奥さんは2人の子供を抱えて路頭に迷うわけです。おそらく生活のため「椿姫」のようなことをしていたのではないかと思うのですが、その時に知り合ったのが、若くして将軍になり革命政府の中で頭角を現しつつあった出世株のナポレオンです。彼は6歳年上のジョゼフィーヌと結婚いたします。そして彼はイタリアへ出撃して行きます。イタリア遠征で彼は連戦連勝を重ね、1796年にはミラノに入城、更にアルコレで大勝して、オーストリアの勢力を北イタリアから完全に駆逐するという手柄を立てイタリア戦役は終わります。  
翌1798年、彼はエジプト遠征軍の司令官に任命されます。当時英国は、植民地のインドから豊富な物資を送り、産業革命で大きな富を稼いでいました。その中継基地がエジプトでした。英国の力を弱めるためエジプト遠征を企てます。マルタ島からアレクサンドリアに上陸しオスマン帝国軍と戦います。ピラミッドの戦いと申しますが、その戦いに連戦連勝し、エジプトをフランスの勢力下に収めることに成功いたします。なおその時、学術調査団が同行し、そこで発掘したのが有名な「ロゼッタ・ストーン」です。ところがフランスへ持ち帰る途中、船が英国軍に捕まり、それは現在大英博物館にあります。当時ナポレオン軍は残虐を極め、ピラミッドやスフィンクスを砲撃したといわれていますが、全くのデマで、むしろ学術的に優れた業績を残しているということです。その後フランス艦隊がアブキールでネルソン提督率いる英国艦隊に大敗を喫して、彼はエジプトで孤立することになります。彼は英国の力を削ぐためシリアへ進軍しますが、アクレの要塞でオスマン帝国軍に阻まれ、更に兵隊達の間でペストが流行したためエジプトに撤退します。そして英国海軍の目を盗んでエジプトを脱出、パリに戻ったのが1799年10月のことです。彼は生涯これを悔やんでおります。アクレの要塞を落としていればインドへ進め、アレキサンダー大王と同じような道を辿ることができたと書いております。
第2節 フランス皇帝に即位し絶頂期へ
  ナポレオンは、フランスの国威をもっと発揮できる政府を作りたいということで、1799年11月18日に「ブルーメルの政変」というクーデターを起こします。彼はクーデターで執政政府を樹立し、第一統領に就任いたします。その時内政では、いろんな業績を残しております。例えば、フランス銀行を作り、金融政策を確立することに力を尽くしております。しかしまた周辺の列強が干渉を始めます。特に露骨に干渉をしてきたのがオーストリアです。オーストリアは第一次イタリア戦役で敗れ、イタリア北部から駆逐されておりましたが、ナポレオンがエジプトに遠征している間に、また北イタリアで力を盛り返しフランスへの干渉を強めてきました。そこで彼は第二次イタリア戦役を起こします。1800年5月イタリアへ向かいます。そのルートは一回目と違い正面突破です。アルプスを越えイタリアのロンバルディアの平原に進出します。この道はかつてカルタゴの英雄ハンニバルが通った道です。雪が多く険しい道ですから、オーストリア軍は意表をつかれ、マレンゴで完膚なきまでに粉砕されます。彼は同時に一部の将兵をドイツ方面にも送り、オーストリア軍を破ります。彼は第二次イタリア戦役でも完全にオーストリアの勢力を駆逐します。また英国とも1802年「アミアンの和平条約」を結びましたが、この条約を両国とも履行せず、翌年には破棄され、英国との和平は残念ながら軌道に乗らなかったということであります。
  1802年ナポレオンは国民投票により終身統領となります。彼は英国の対岸ブローニュに大軍を集め、英国上陸作戦を企てますが、強力な英国海軍力の前にドーバーを越えての英国上陸は実現しませんでした。なお1804年彼は「ナポレオン法典」を作ります。現在のフランス共和国の民法はナポレオン法典そのものです。この法典は、いまだに世界各国の民法にも大きな影響を与えており、日本の民法の原点もこのナポレオン法典でございます。
  1804年5月15日、ついにナポレオンは国民投票で「皇帝」に就任いたします。同年代の作曲家ベートーベンは、民衆の中から出てきた革命家ナポレオンを非常に尊敬し、彼を称える交響曲を作曲します。最初「ナポレオンに捧げる」という表題がついておりましたが、後に「ある英雄の思い出のために」と書き替えられた交響曲3番「英雄」です。「ナポレオンの皇帝即位の知らせを受けたベートーベンが、彼もまた野心家に過ぎなかったということで献辞を破り捨てたのだ」と面白く言う人がおりますが、決してそうではないと思います。この曲の第2楽章は葬送行進曲で縁起が悪い。尊敬する英雄ナポレオンに葬送曲を捧げることは具合が悪いから消したのだと思います。なおこの交響曲は、ベートーベン自身が会心の作だと言った素晴らしい曲でございます。
  さてフランス皇帝になった翌年、イタリアの国王にも就任します。しかし列強諸国は、「田舎者がフランス皇帝だけで飽き足らずイタリア国王にまでなるとはけしからん」と再び同盟を結成し彼に挑んでまいります。英国、ロシア、オーストリア、ナポリの連合軍が対仏同盟を組織します。彼は即座に軍隊を率いて対応し、ドイツのウルムでオーストリア軍を撃破し、これによって帝政ナポレオン体制は磐石なものになります。一方陸戦では連戦連勝でしたが、フランス海軍は極めて脆弱で、ネルソン提督率いる英国艦隊にトラファルガー海戦において全滅させられてしまいます。制海権は完全に英国に握られてしまいます。
  1804年5月15日、ついにナポレオンは国民投票で「皇帝」に就任いたします。同年代の作曲家ベートーベンは、民衆の中から出てきた革命家ナポレオンを非常に尊敬し、彼を称える交響曲を作曲します。最初「ナポレオンに捧げる」という表題がついておりましたが、後に「ある英雄の思い出のために」と書き替えられた交響曲3番「英雄」です。「ナポレオンの皇帝即位の知らせを受けたベートーベンが、彼もまた野心家に過ぎなかったということで献辞を破り捨てたのだ」と面白く言う人がおりますが、決してそうではないと思います。この曲の第2楽章は葬送行進曲で縁起が悪い。尊敬する英雄ナポレオンに葬送曲を捧げることは具合が悪いから消したのだと思います。なおこの交響曲は、ベートーベン自身が会心の作だと言った素晴らしい曲でございます。
  さてフランス皇帝になった翌年、イタリアの国王にも就任します。しかし列強諸国は、「田舎者がフランス皇帝だけで飽き足らずイタリア国王にまでなるとはけしからん」と再び同盟を結成し彼に挑んでまいります。英国、ロシア、オーストリア、ナポリの連合軍が対仏同盟を組織します。彼は即座に軍隊を率いて対応し、ドイツのウルムでオーストリア軍を撃破し、これによって帝政ナポレオン体制は磐石なものになります。一方陸戦では連戦連勝でしたが、フランス海軍は極めて脆弱で、ネルソン提督率いる英国艦隊にトラファルガー海戦において全滅させられてしまいます。制海権は完全に英国に握られてしまいます。
  1805年、彼はウルムから更に歩を進め、アウステルリッツでオーストリア・ロシア連合軍を撃破します。一般に「三帝会戦」といわております。彼はわざと軍隊の左翼を手薄にして敵をおびき寄せ、それを中央と右翼軍で取囲む形で殲滅したと書いてあり、ナポレオンは天才的な戦略家だったといえます。この時期が彼の絶頂期です。アウステルリッツの戦で、南イタリアのナポリ王国を崩壊させ、王位にジョセフという凡庸な兄を就けます。1806年隣国のオランダには自分の3番目の弟であるルイを国王に就任させます。自分の肉親を皇位につけるという「ネポティズム」により、列強諸国の反感を買うという結果になるわけです。また同時期に「大陸封鎖令」を発令いたします。これは英国の弱体化を図るため、欧州各国に対し英国との交易を禁止する、ということです。しかしその頃の英国は、産業革命で工業力が飛躍的に増大しており、工業製品は英国から輸入するというケースが多く、フランスにとって有効に作用したかどうかは疑問です。多くの国が不満をもち、特にロシアは、英国からいろんなものを買っていましたので、非常に不満を持ったということです。
  1807年、ナポレオンはポーランドを巡りロシア皇帝アレクサンドル1世と鋭く対立いたします。そしてアイラウ、フリードランドと二つの戦いでロシア軍を破り、ウエストファリア王国の国王に一番下の弟を就けます。次にポルトガルに対し、配下のジュノー元帥を派遣して制圧します。更にスペイン王室の継承問題に介入し、スペイン国王にナポリ国王の兄ジョセフを就けます。これに対し英国やオーストリアが猛烈に反発、スペイン民衆もゲリラ戦を挑むということでスペインの統治は思うどおりに進まず、フランス軍は窮地に立たされます。ナポレオンが自らスペインに出陣するには、先ずオーストリアやプロシアを抑えておく必要があり、1808年彼はドイツのエルファルトでロシア皇帝アレクサンドル1世とオーストリア牽制の会談を持ち、その後自らスペインへ出撃、英国、スペイン、ポルトガルの連合軍を破ります。なおエルファルトではワイマール公国の宰相ゲーテとも会見しております。あの「若きウェルテルの悩み」の作者ですが、その時、彼がゲーテに本の矛盾点を指摘したところ、「ワイマールに帰って考えたが、皇帝のおっしゃることは本当にその通りです」と皇帝宛のゲーテの手紙が残っています。ナポレオンは文学にも大変優れた人だったと言うことです。
  1809年、オーストリアが再びナポレオンに挑戦してくるということになります。彼はドイツのバイエルンに進軍し、一度はエスリングでオーストリア軍に敗れますが、すぐにワグラムでオーストリア軍を完全に撃破、またも平和条約を締結し、この年長年連れ添った皇后ジョセフィーヌと離婚、オーストリアの皇女マリールイズを皇后に迎え入れます。マリールイズの大叔母がマリーアントワネットです。翌年には皇子が生まれナポレオン王朝は安泰と思われました。
第3節 ロシア戦役に敗れ、セントヘレナ島で生涯を終える
  ナポレオンの出した大陸封鎖令に対し、ロシア皇帝が違反する行為を再三繰り返し、またポーランドを巡り、しきりに挑戦してくるようになります。ナポレオンは、遂にロシア遠征を決意します。結局これが彼の命取りになるわけです。1812年6月から12月にかけてナポレオンは、60万人の大軍を率いてロシアに侵攻します。ボロジノの戦いでロシア軍を蹴散らしたナポレオンは破竹の勢いでモスクワに進撃します。しかしこれに対しロシア軍は「焦土作戦」を展開します。ナポレオンの兵站は伸び切っていますから、食料の調達は現地でやらなければなりません。ロシア軍は現地の食料を全部焼き払い、モスクワに火を放ちます。結局彼はモスクワへ入城しましたが、何ら得るところがなかったという結果に終わります。食料が尽き、ロシアの冬将軍の寒さが加わり、ついに1812年12月にナポレオンも僅かな幕僚を連れてパリへ戻ることになります。ロシア軍は執拗に追撃し、ナポレオン軍でフランス国境まで帰り着いたのは5千人といわれております。ロシアの作曲家チャイコフスキーの「大序曲1812年」は、ナポレオンのロシア遠征を題材にしたもので、ロシアがナポレオンから祖国を守った大戦争の曲ですし、トルストイの「戦争と平和」には当時のナポレオンの様子が描写されております。そしてロシアで大敗したフランスに対し、英国、プロシア、オーストリア、スウェーデンといった国々が大同盟を組織して新たに挑戦してきます。ドイツ戦役といわれるものですが、ナポレオンは善戦をしますが、最後はライプチヒの戦で敗退し、結局連合軍が1814年3月21日にパリに入城、ついにナポレオンは皇帝を退位することになります。そしてコルシカ島の隣の小さなエルバ島の領主として退かざるを得なくなります。
  しかしナポレオンは1815年3月、英国海軍の見張りをかいくぐりエルバ島を脱出し、再びパリに帰還します。当時フランスは、ルイ18世が復位して王政復古になっていましたが、将軍達は皆ナポレオンの元部下です。「ナポレオン万歳、皇帝万歳」ということで、彼は再び皇帝に復位することになります。一方これを見ていた列強諸国は再び大連合を組織して立ち向かいます。1815年6月、ナポレオンは隣国のベルギーに大軍を率いて出撃し、前哨戦のリニーの戦いでは勝利しますが、最後はワーテルローの戦いで敗れ、僅かな近衛兵、幕僚を伴ってパリへ逃走、彼は2度目の退位を余儀なくされ、仇敵である英国軍に投降することになります。英国がナポレオンに下した判決は、アフリカ大陸の大西洋上の赤道に近い高温多湿の孤島、英国領セントヘレナ島へ流すということでした。1815年10月、ナポレオンはセントヘレナ島に到着し、そして5年後の1821年5月5日に52歳で波乱の生涯を終えることになります。なお彼が死んでも墓標を立てることが許されませんでした。英国はこの小さい島に2,000人の兵隊を置き、周囲に戦艦二隻を配置し水も漏らさぬ監視を続けたということです。そして亡くなってから20年後に、ようやく彼の遺骸はフランスに返却されることになります。現在はパリのアンヴァリドにナポレオン専用のお墓があり、遺骸が眠っております。
  私の父がフランスにいました頃は、ナポレオンはフランスの国威を高揚したと尊敬されていて、映画でナポレオンが出てきますと、観客が総立ちになって、拍手したそうです。それくらいナポレオン皇帝はフランスの中で溶け込んでいるということです。
  しかし、良い事だけではありません。ナポレオン戦争は、1792年から1815年まで約20年間続き、その間に失われた人命は200万人です。フランス人が100 万人で、他の周辺国は100万人の人が死んだといわれております。

第三章 武藤山治のナポレオン研究
第1節 ナポレオンの成功の秘訣
  山治はナポレオンのことを研究し、色々なことを書いております。先ず「自分はナポレオンの伝記を常に読む。得意な時も、失意の時もナポレオンの本を愛読する。それはナポレオンが一代の中で栄枯盛衰甚だしいものがあるからである」と書いております。彼は「大成金」ではありますが、その中に数々の教訓も沢山含んでいると考えておりました。
  また、ナポレオンはブリエンヌの陸軍幼年学校時代、コルシカ訛りの田舎者で、フランス語もろくに出来ず馬鹿にされますが、それを尻目に勉学に励み、特に数学に優れ、またプルターク英雄伝を愛読しておりました。陸軍士官学校ではエリートが進む騎兵科ではなく、これからの戦争は「大砲対大砲」と考え、砲兵科を選んでおります。更に人望が高かったともいわれております。兵隊達と一緒に艱難辛苦を共にするということが信条で、特に兵士達の人望が非常に高かったわけです。山治は「ナポレオンが短期間で立身出世するのは、やはり尋常なことではない。艱難辛苦に耐えうる決心を、ナポレオンの伝記を読むたびに思う」と書いております。
  またナポレオンは非常に沈着冷静で、戦争に着手するにあたっても、その作戦計画は非常に綿密であったそうです。迂闊に決行しない。例えば、決戦の日の朝、雨が降ったことがあったそうですが、将軍達が、逸って突撃しましょうと進言しますが、彼は「待て、もう少し雨が乾いてから作戦を進めろ」と言って押しとどめたそうです。それくらい彼は慎重だったそうです。山治は「ナポレオンの性格は、気まぐれなところが一切なかった」ということを指摘しております。予定を決めたら必ずその通りに実行したそうです。これが成功した秘訣であると指摘しております。
第2節 ナポレオンの失敗の原因
  ナポレオンの失敗の原因は、20年間に亘り戦場を駆け巡った結果、精神的、肉体的な疲労が大きかったということです。彼は生涯60回戦争をしております。この内、負けたのは4回だけです。勝率9割、そういう人ですから疲れもします。また直接の原因は、やはりロシア遠征の失敗ということにあると思います。これは山治の指摘ですが、「ナポレオンを亡ぼしたのは、結局英国である」と言っております。英国以外の列強には全部ナポレオンが勝っております。英国は最後までナポレオンと敵対し、平和条約を結ぼうという形跡がありません。ナポレオンは何度も平和条約を結ぼうとしますが、英国からはありません。それは英国が、成り上がりのナポレオンが皇帝になるということを最後まで認めなかったということです。英国は植民地が世界各国にあり、産業革命で沢山の富を蓄えており、戦費は非常に豊富です。その戦費をオーストリアやプロシアに供給し、20年間かけてナポレオンを亡ぼしたということです。20年間に亘り殆ど英国一国でナポレオンと敵対し、他の国を支え続けるためには「絶対にナポレオンには負けない」と国民の人心を統一しなければなりません。そのためには「マスコミの活用であり、新聞や印刷物が、ナポレオンを亡ぼした外部的要因である」と山治は指摘しております。ナポレオンが敗れ、英国に投降した際のロンドンタイムスの記事は、彼のことをまるで野獣のように表現しております。恐らく20年間に亘り、ナポレオンを誹謗する印刷物を、国内だけではなく欧州各地にばら撒き、人心の統一を図ったということです。それに対しナポレオンは印刷物の効用を全然意に介さなかったようです。そこが英国とフランスの違いだと思われます。
  それからもう一つ大事なことですが、フランス革命後、各国は革命が自分の国に及んでくるのを防ぐためフランスに干渉しました。この干渉を排したのがナポレオンです。彼は、フランスのナショナリズムを欧州全域に広げていき、そのナショナリズムを利用して欧州の覇者となります。一方征服された欧州各国にも「自分達の国を守ろう」というナショナリズムが発生します。彼が撒いたナショナリズムが、相手国のナショナリズムとなり、自分に跳ね返り、彼の帝国は滅亡したということを山治は指摘しております。
第3節 ナポレオンの三大悔恨
  ナポレオンがワーテルローの戦いで、幕僚たちに話した「三大悔恨」というものがあります。一番目「自分が最も盛んな時に何故死ななかったのだろう」ということです。二番目は「アクレ砲台を落とせなくて敗退し、エジプトを退去したこと」を死ぬまで悔いていたということです。三番目が「ワーテルローの戦いで敗れたということ」です。側近達が「死に場所はどこがよかったのですか」と聞いたところ、彼は「自分はモスクワで死ねばよかった」と言ったそうです。
  ナポレオンが、エジプトを退去したのはペストが流行し、オスマン軍の抵抗も激しく、やむをえなかったと思います。やはり英国は、ナポレオンをそのまま野放しにしていたならば、アレキサンダー大王にならってインドまで行ってしまう。インドこそ英国の富の源泉ですから、それを非常に警戒していたと思われます。また最後はワーテルローの戦いで敗れるのですが、「何故自分はワーテルローで負けたのだろう」と彼は理解できなかったらしいのです。客観的にみますと、彼自身に20年前の往年の切れがなくなっていたこと、決断力が鈍っていたということだと思います。1815年のワーテルローの兵士は、1792年に彼が革命軍司令官として初めてイタリアに遠征した時の溌剌とした兵士ではなかった、ということです。将校達も、兵隊たちを自由に動かすという勇気も欠けていたのではないか、と山治は指摘しております。

おわりに
  最後に、山治が「何故ナポレオンの伝記をよく読むか」ということを申し上げておきます。
  山治には英雄崇拝と言う気持ちは全くありません。ナポレオンの生涯そのものが大変な教訓を与えているということです。コルシカの小さな島から出て、まさに全欧州を席巻し、フランスの皇帝にまで上り詰めた得意、絶頂だった時、ところが一変してワーテルローで敗れて、急転直下セントヘレナ島で配所の月を眺めるということに至ったというわけです。「当時の彼の失望と悔恨の情はどんなものだったろうか」と山治は書いております。他の人では判断できないほど悲痛感があったと思います。そういうことを思うと、自分が多少うまく行っている時でも、ナポレオンが成功して大得意であったことを思い、決して自分は得意にはならない。そして益々奮闘努力するということをモットーにしている。また何か失敗する、あるいは事が上手く進まない時は、ナポレオンが嘗めた心痛を思い「何のこれくらいのことで、へこたれてどうするのかと自分に言い聞かせ心を奮い立たせる」というのが山治の考え方です。そういう意味で、ナポレオンの伝記は、山治にとって生涯の羅針盤であり、力の源泉であると思っております。
  なお、ナポレオンを書いた本は沢山ありますが、私がお薦めするのは、鶴見祐輔氏が書いた「ナポレオン」です。これは昭和6年の発行ですが非常に読みやすく、素晴らしい本です。

以上は、公益社団法人國民會館会長 武藤治太氏の講演を、國民會館が要約、編集したものであり、文章の全責任は國民會館が負うものです。



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