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武藤記念講座(講演会事業)

第1041回武藤記念講座要旨

    2018年2月17日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    青山学院大学 准教授   
    出光佐千子氏

 『出光佐三と仙香@〜美にリードされた人生〜』  

セミナー





はじめに
  私は幼い頃から慣れ親しんでいた美術を仕事とするため美術館の学芸員になったわけですが、どういうわけか琳派のようなきれいなものよりも、大雅や蕪村といったなんとなく心が落ち着くようなものが好きで文人画を専門としたわけです。なぜ大雅が好きなのかと突き詰めますと“仙香hにあると思います。出光美術館で何年か前に「大雅・蕪村・玉堂と仙香vという文人画と仙高一緒に並べた展覧会で副タイトルに“「笑」のこころ”とつけ加えました。文人画を研究しますと日本の文人画と中国の文人画は全然違うことが判ります。日本の文人画は見ていてほっとします。ユーモアをすごく感じるところがあります。それは日本の土壌が中国のような官僚社会ではなかったからというところにあったと思います。大雅・蕪村・玉堂の根底には、人間同士が寄り集まり、笑い合い、楽しみながら作品を作る“笑いの文化”があると感じています。本日は出光佐三がどうして仙高ノ惹かれて美を蒐集していったのか、どうして美が佐三の事業にとってなくてはならないものだったのか、佐三が惹かれた仙高フ中に見られる日本ならではの笑いの文化を、文人画を読み解きながら皆さんと一緒に楽しんでいきたいと思います。

第一章 武藤山治と相通じる出光佐三の思想
第1節 山治の“温情主義経営”
  武藤山治は“温情主義経営”で有名ですが、今“働き方改革”で働き過ぎないように、時間に縛られないように、フレキシブルに働けるようにしようということが企業の間で広がっています。しかし山治や佐三の時代から“仕事は時間の切り売りではない”という考え方がありました。山治は「私が米国人の家庭に働いて感じましたことは、主人や主婦は勿論、家族全体の召使に対する態度が、優しく上品で言葉遣いも極めて鄭重であるということでした。何事を言い付けるにもplease(どうか)と言う言葉を必ず初めに使います。子供など主婦以外の者は日本のように矢鱈に召使に物を言い付けませぬ。何か言い付ける時には命令調は使いませぬ。必ずwill you と言う言葉を使います。これは使はれる身になると誠に良い感じのするものです。」(『私の身の上話』)と述べておりますが、アメリカ社会で実際に働いた経験から、アメリカの上流階級家庭における人への接し方がその根本にあったと感じられます。福澤諭吉の「人の上に人をつくらず」も諭吉がアメリカの家庭における体験を通して得たところではないかと想像しております。福澤諭吉の“独立自尊”に対し、佐三は商人をしていた父親から“独立自治”(人間は一生働く存在である。自分のできることは自分でやる。人として常に独立していなければならない。)と言われて育ち、その後、この考えを発展させて“人間尊重”と言い出すわけですが、これは山治の温情主義経営と相通じるところがあると思います。
第2節 佐三の“大家族主義経営”
  佐三の実家は藍染問屋でしたが、海外から安い染料が入ってくるようになり倒産してしまいます。とにかく自立しなければならないと25歳の時に門司市で出光商会を立ち上げ、“大家族主義経営”を始めます。佐三は「いったん出光商会に入りたる者は、家内に子供が生まれた気持ちでいきたいのであります。店内における総べての事柄は親であり子であり、兄であり弟である、と言う気持ちで解決していくのであります」「仕事を貫徹するか否かによって、その青年の大体の精神は定まるのであります。私が店員を退店せしめないのは、この貴重なる大精神を失うからであります。私は如何なる故障も、難関も、事故も、必ずこれを打破するの徹底心を養成するのに努力するのが、他人の子弟を預かるものの責務と思うのであります」と述べております。また今はかたちが変わって残っておりますが“出光の七不思議”( 家族だから馘首がない。家族だから定年制がない。労働組合もない。出勤簿もない。給料は発表しない。権限や規則や罰則がない。残業手当は社員が受け取らない )は外資系の会社から非常に不思議に思われたそうです。これは佐三が「店員を家族と思い、どんな困難があっても乗り越えるだけの人間として育てるのが私の役目である」と考えていたからです。
  また佐三は“士魂商才”という言葉をよく用いますが、これは神戸高商時代の恩師水島校長から学んだ“人間愛”という精神を基本に、事業経営するということです。
第3節 日章丸船長室の「天のうづめの命」
  佐三がモデルの『海賊とよばれた男』が映画化されましたが、日章丸がイギリス海軍の目を潜ってアバダンに入港し、そして潜って出ていく歴史的な瞬間を映画にするとすごく面白かっただろうと思います。当初タンカーの乗組員はイギリス海軍から大砲でやられても仕方のない非常に危険なイランに行くということを知らされていなかった。唯一新田船長だけがこの重要な役目を知っていたわけです。その間船長の心を励まし続けたのが船長室に掛けられていた「天のうずめの命」という作品です。この絵には天の岩戸から太陽を導き出している“天のうずめの命”の非常に楽しい踊りが描かれており、小杉放菴という佐三と大変親しい日本画家の作品です。神話を描いたといえばそれまでですが重要なのは詞書です。「昭和26年11月、新造日章丸の為に天乃岩戸のうづめのみことを寫す 放菴」とあります。太陽は日本を表しており、敗戦で打ちひしがれて、まさに天の岩戸の中にこもり切った状態にある日本の市民や経済を、ひょうひょうとした踊りや態度で導き出してやってくれという気持ちがあったものだと思います。船長はその後、船員たちを集めて自分達に課せられた役目を話すわけですが、まさにひょうひょうとした態度で平常心を保って話すのです。“天のうづめの命”に幾度となく励まされたことだと思われます。

第二章 佐三の事業と美の関わり
第1節 生涯の友 小杉放菴
  佐三は自らの“事業を芸術化する”と述べておりますが、これは小杉放菴の“芸術とは創作・努力・美である”という信念から教えられました。放菴はもともと洋画家ですが、大正2年にパリに留学したとき、古本屋で池大雅、与謝蕪村の有名な『十便十宜図画帖』の複製品を目にしました。そして日本には江戸時代にすでにヨーロッパに先駆けた前衛芸術があったと考え、文人画家になった人です。当時のヨーロッパはちょうどマティス、ピカソなどの前衛芸術が出てきた時代で、大雅を見て「日本には江戸時代に、マティスのような子供のような、童心に帰ったような、純粋芸術というものがある」と思ったわけです。日本に帰ってから、麻紙という細い麻を漉き込んだ紙を使った日本画を描きました。この紙に墨を垂らすと、麻の繊維にそって墨が広がるので、独特の質感をもつ優しい肌触りの日本画が生まれます。佐三はこの日本画に接して非常に心を癒されます。放菴は性格も非常に楚々としていて、強引に自分の絵を売り込もうとするタイプではなく、常に芸術として最高のものを作る「努力」、「オリジナリティー(創作)」、その「美」を追求し続けた人です。佐三はこの三つを自らの戒めとして、美=事業は自分を離れて国家社会ために尽すこと。創作=人真似ではないこと。そして努力=実行であって口頭禅であってはならないと置き換えて、事業に邁進しました。佐三の事業への打ち込み方が激しいので、ある方が、あなたはご自分の事業を芸術にしようとしているのではないかと言われて、放菴さんの言葉の意味に気づいたといっています。素晴らしい芸術というのは、何ともいえないオーラ、威厳、風格があります。そして強さがあります。佐三はその侵しがたい強さに憧れを抱き、いつしか事業に援用したのだと思います。
第2節 板谷波山に学ぶ
  もう一人、佐三の人生になくてはならなかった人が板谷波山です。波山は陶芸家で初めて文化勲章を得られた方で東京芸大彫刻科出身です。出光美術館に「葆光彩磁葡萄文香炉」という作品がありますが、中国陶磁を見ているような彫の深い線によって唐草模様を彫り出し、その上から艶消しの釉薬をかけ、下の色が白い蝋燭をかませたように光が淡くあらわれております。ヨーロッパでアールヌーボーがはやっていた時代ですが、波山は“やきもの”でそれをやった本当に類まれなる人です。実はこの葆光彩は今でもどうして作るのか解明されていません。5年程前、出光美術館の監修で『板谷波山』という映画を作りましたが、真の芸術家は作品に対して一歩も譲らないということが判ります。出光美術館に彼の「命乞い」という天目茶碗があります。どこかに一か所傷があるらしいのですが、こうして見てもどこに傷があるのか全く判らないほど完璧に美しく見える作品です。佐三は「板谷波山先生は、其作品に些細な瑕疵があっても藝術的良心が許さないとて之を破って捨てられる。餘りに物體ないから無理に命乞いをして強奪して来た。それで先生の箱書きが無い」と箱書きに書いております。こんな波山の謙虚で潔癖な性格から、佐三は“物、物を呼ぶ”ということを学びます。“仙香hがまさにそうです。出光美術館に仙高フ作品が約一千点ありますが、一つのものを愛していると他のものも自然と集まってくる、出光コレクションは“物が物を呼んだコレクション”と思われます。また出光商会の会社自体もそうです。優れた人の周りには自然に優れた人が集まってくる。佐三の人生を見ていくと自然に繋がってくるわけです。
第3節 美にリードされてきた人生
  「私の一生というものは、眼で美術を見て、心で人の美しさを見るというようなことで、いつも美というものにリードされて来たような気がしています。目で美を見るということは、私が仙高ウんにほれこんで、それを集めたり、唐津焼を集めたりして、いつのまにか出光美術館ができた。人の美しさということは、人間というものはお互いに仲良くして、力を合わせていくということで、それが人間の尊厳であり、平和であり、美だと思います。私はそれを人間尊重といっているわけなんです」(『永遠の日本』)と佐三は述べております。美というものにリードされていくと、自然に人間の中にも調和が生まれ、相手を思いやる立場で和気藹々とした職場が生まれるということだと思います。また「出光商会はその構成分子である店員の人格を尊重し、これを修養し、陶冶し、鍛錬し、かくして完成強化されたる個々の人格を、更に集団化し、一致団結し、団体的偉大なる威力を発揮し、国のため、人のために働き抜くのが、主義であり、方針であるのであります」と、佐三は“人間尊重”という働き方を通じて日本の国家に示唆を与えるという気持ちがありました。社員との信頼関係を基本にしていますから、規則がいりません。普通の企業はどちらかといえば性悪説に立って様々な規則を作りますが、出光商会は店主が人間尊重という大原則のもとに、一つの方向に様々なタイプの社員たちを導くことが出来たからこそ“出光の七不思議”が上手く回ったという気がいたします。そして国際メジャーカルテルと戦うわけですが、そういう苦しい時、佐三が癒されたのが芸術品です。

第三章 仙高ウんに恋して
第1節 “仙香h蒐集が出光コレクションの始まり
  博多 聖福寺の中興の祖 円通禅師が仙豪`梵のことです。仙高ヘ非常に絵が上手く、相談に来た人達に絵を描いて人気を博します。佐三は19歳の学生の時、彼の「指月布袋画賛」(出光美術館蔵、お月様幾ツ 十三、七ツ)に出逢います。布袋さんが子守歌を子供に歌ってあげているのですが、指の先に月は描かれていない。これが禅的なところだと思います。仙高ヘ経典を読むというのは、指先を見ることであって、経典の内容が意味するその先の真理を知ることが重要だと言っているのです。佐三はこれを社員に示しながら「小さいことを考えていないで、先にある本質を見なさい」と言ってきたわけです。また佐三は「仙高燗rテも粗野朴訥で、しかも非凡な技巧から始まって、絶えざる肚(はら)の鍛錬によって技巧から抜け出たところの、無邪気な童心の美に接する思いである。しかも前人未到の境地に立って、世俗を睥睨するの絶対力を感ずるのである。私は外部の圧迫に会うごとに、床の間に仙腰a尚の書画を拝し唐津の器物を手にして、世俗に媚びざる名僧、名工の教えを受け、所信に邁進するの力を得て、怯む心に鞭打ちつつ家を出かけたことは数知れないほどであった。」(『永遠の日本』)とも述べております。実は仙高ヘ若いころ狩野派も顔負けの的確なデッサン力で絵を描くわけですが、無邪気な美は絶えざる日々の努力によって技巧が抜け出て、雄大で大らかな画となっているわけです。さて次のスライドにうつりますと、傳大子という中国の禅のお坊さんの「橋上人物画賛」(出光美術館蔵、戦々兢々 人過於橋上 如何 橋流而水不流)は非常に矛盾していることを言っています。人が橋を渡っているように見えますが、川は穏やかで人が太鼓橋の上から流れてくるという画賛です。一生懸命取り組んでいることが、実は全く逆のことをやっている。物の見方を変えれば全く逆の見方ができると言っているのだと思います。これもよく社員へ訓示したらしいです。「堪忍柳画賛」(出光美術館蔵、堪忍、気に入らぬ風もあらふに柳哉)は、よく見ますと畳に墨をこすりつけるようにして描いています。おそらく仙高ヘその場にあった紙で人を励ましてあげたい気持ちで一心不乱で描いたのだと思います。「坐禅蛙画賛」(出光美術館蔵、坐禅して人か佛になるならハ)は、弟子達に座禅をして悟った気分になるならば皆蛙と一緒であると言っているのです。佐三の最後の蒐集となった「双鶴画賛」(出光美術館蔵、鶴ハ千年亀ハ万年我れ天年)では、賛を読んで「我も天然だなぁ」と何度もつぶやいて涙を流して喜んだというふうに伝えられております。
第2節 鈴木大拙先生との出逢い
  仙高フ作品は、1960年代欧州各地を巡回することになりますが、そのきっかけとなったのが鈴木大拙先生との出逢いです。アメリカのコロンビア大学で“禅哲学”の教鞭をとられていた大先生です。1957年に先生が初めてアメリカで開催された佐三の仙鴻Rレクションに接して親交が始まります。佐三が71〜2歳、大拙先生が86〜7歳からの親交です。欧米流の考えがどんどん日本に入ってきて佐三を悩ませた時、先生は「モラルと道徳は違います。皇室と武力・権力の違いが京都御所と二条城の違いである。御所は平地に無防備であるが、二条城は将軍が(京都に)わずか一ヶ月滞在するのにも城壁をめぐらし、次の征服者(の攻撃)に備えている。この二条城の姿が外国のエンペラー、キングのモラルの在り方である。この無我、無私の皇室のあり方が日本の道徳のあり方である。」(『永遠の日本』)と仰って、無私の生き方を説いておられれば、外国の法律や規則に縛られる必要はありませんと教わるわけです。昭和30年から毎年出光が出しています仙鴻Jレンダーの解説は先生が書いて下さっておりました。欧州の禅画のブームの火付け役になったのも「鈴木大拙の仙刻ч展」だったと思われます。1966年に出光美術館が開館したわけですから、出光美術館の開館前から欧州の方が仙高良く知っていたわけです。

第四章 文人画の魅力〜画賛を味わう愉しみ
第1節 蕪村の“笑いのこころ”
  日本や中国の文人画の醍醐味は画に字が書いてあり、詩文と一緒に味わう楽しみがあるということです。詩と書と画が三位一体となって発展してきたのは東洋にしかない芸術です。その究極が与謝蕪村の「夜色楼台図」(個人蔵)です。これは京都の冬景色を描いたといわれていますが、画題は中国の元の時代の文人 李攀龍(りはんりょう)の詩の中に出てきます。「春が来て、千里を越えて雁が手紙を運んでくるが、自分のいる高い楼閣からは、雪の積もった家々が見える」と春を待ちわびる画であり、雪を描いていながら非常に温かみのある作品に感じられます。よく見ると山の稜線の塗り残しの技法が非常に緩やかで、夜空にも墨の下に白い胡粉をかけてあり、ほっこりとした温かみを作品に与えています。蕪村は50歳になって京都に定住し結婚して子供をもうけます。こういう幸せな作品は最晩年に出てきたものと思います。佐藤康宏先生は伊藤若冲の「乗興舟」(京都国立博物館蔵ほか)と比較され、蕪村はこうした若冲の拓本版画から影響を受け、黒と白との対比が美しい作品を作ったのではないかと仰っていますが、私は若冲と蕪村の違いは、緩い線の描写だと思っています。若冲は非常にきりっとした線で雪景色を構成していますが、蕪村は、線の緩さ・軽み・俳諧味が勝っています。家々の描き方も真っ直ぐではありません。若冲はきりっとした線の美しさを強調しながら家を描きますが、蕪村はいろいろな形の家が歪みながら寄り集まることによって人間の営みの暖かさを表現しているのだと思います。蕪村の「寒山弧鹿図」(出光美術館蔵)は山水の中に一匹の鹿がいるという作品ですが、山水のデフォルメされた構成は、清朝宮廷画院の絵画様式を本当に勉強しており、技巧的に優れていないと描けません。しかし鹿を見ると笑っているのです。目が上向いていて、足もひょろひょろとしていて頼りない。これは嬬恋といってメスを求めて鳴く牡鹿です。その情けない表情に現れているユーモアというか緩さといいますか、そういうところが面白いと思うのです。真面目さの中にユーモアのセンスを入れるという精神は、仙高ノ通じる“笑いの心”なのではないでしょうか。
第2節 玉堂をめぐる文人サロン
  展覧会による最近までの文人画の紹介は、2002年出光美術館での「大雅と蕪村展」 “孤立者であった知識人が自分の娯楽の為に、逃避による自由を得て”とか、2006年千葉市立美術館での「玉堂展」“プロとみなされることを拒否した孤絶の人”などと、中国文人達が政治的な野望に破れ、挫折感に打ちひしがれた悲しみの表現、負け犬の人達が作った芸術などといったような説明が多かったようにと思われます。これは東京芸術大学にいらした吉沢忠先生の「玉堂の絵画は脱藩せざるをえなかったような彼自身の生き方を根底にすえ、故郷中国地方の山水を無意識のうちに回想しながら、思うままに筆を振るったものが多い。それは、あるときは閉ざされたような憂愁感にみちた美しい作品となり、あるときは内心の憤懣をぶちつけたようなはげしい作品となって画面に定着する」(「放蕩無頼の絵画」)という論文がきっかけでした。しかし浦上玉堂の「東雲篩雪図」(川端康成記念会蔵)は、会津の山奥の雪景色を描いたもので本当に悲壮感が出ていますが、よく見ますと玉堂らしい人が本を一人読みふけっていて、非常に楽しそうです。閉ざされてはいるけれども非常に平和で楽しいという感じです。玉堂は琴の名手で自分の生きたいように生きた人です。中国の文人画は、陶淵明の『歸去來兮』にある「さあ帰ろう、田舎へ帰ろう、自分の理想が出来ないのだったら満を持して家に帰ろう」というところが基本です。例えば倪?(ゲイサン)という文人は、元という移民の王朝に仕えることを断って流浪した人ですが、悲壮感というものが筆に現れて揺れ動くわけです。そういうところを中国の人達は美しい、素晴らしいというわけです。一方玉堂の「雪峯欲晴図」(出光美術館蔵)では、雪に埋もれた家屋で一人本を読んでいる玉堂らしい文人と、一杯酒を飲みながら雪景色を見ている文人がいる風景ですが、非常に楽しいのです。「平安第一楼会集図」(個人蔵)は、玉堂が弾く琴の音に併せて息子が筆をふるうという親子非常に仲睦まじく書画を作っている。このように考えると日本の文人画は、官僚制度もない文人サロンの中で笑いあいながら作っていったのではないかと思います。また玉堂が50歳で脱藩する直前に描かれた「奇峯連聳図」(出光美術館蔵、飛鴻別鶴入琴弾 把酒茆堂暫合歓 別後山陽若相思 天涯問此画中看 題画送如意道人遊西州 玉堂琴士)は、如意道人が急に玉堂のもとを訪ねてきて、自分が九州に行くことになったから餞別に何か描いてくれないかというので詩をつけた画です。これは玉堂が如意道人に、岡山にいる自分のことを相思って九州にいてもこの絵の山を見ながら私のことを思い出してくださいと言っていると思われていました。しかし最近日本漢詩文学の先生が、山陽というのは中国の“竹林の七賢人”(戦国時代に戦乱を避けて竹林にこもって清談にふけった七人の哲学者達)が住んでいた山陽のことで、賢人の一人である向秀の故事「山陽聞笛」をかけている、と仰っております。確かにここに描かれている山は“中国の七賢人”がこもっていた中国山陽地方の尖った山で、岡山のなだらかな山ではありません。向秀の故事「山陽聞笛」に掛けて云っているわけで、これは知っている人でないとわからないことだと思います。非常に限られた狭いサロンですが、これを見て、如意道人は微笑んだと思います。そういう知識人たちの“笑い”の中で文人画は作られていったと思います。
第3節 池大雅の“笑い”
  大雅の「山邨千馬図」(出光美術館蔵)は、酔った友人にからまれ、やけになって馬を描いています。全部馬ですが時々人が混じっています。また馬によって山水を描いたということをいっているのですが、馬の頭が山水の点になって皺法になっているわけです。大雅の詩文を読みますと「王墨に倣った」と言っています。王墨とは中国の唐の時代に、髪の毛に墨をつけて皇帝の前で踊り、広げた紙の上で足を踏み鳴らしたりしながら山水を描いたといわれており、中国ではじめて“溌墨”(墨をそそぐ)という手法で山水を描いた人です。墨を垂らし押し広げてゆく、玉澗(ぎょっかん)のような画を初めて描いた人が唐の時代にいたわけです。筆の線を否定しているという意味で中国では反正統的な絵です。大雅の画も実は馬を描きながら、馬ではなく王墨を倣った。つまり筆線ではなく馬の頭の形で山の峻峰を描いてみせたと言っています。これもおそらく酒を飲みながら、にやっと笑いながらできた傑作だと思います。
第4節 “描き損ないを笑う”仙
  仙高ヘ「鳳凰画賛」(出光美術館蔵、これでも鳳凰なり)で、自分が描きそこなったものすらも画にしていて“拷譁ウ法”と言っております。仙高フ画には法則がありません。どう見ても描き損ないの鳳凰ですが、これが出光美術館開館カタログの表紙となりました。「達磨画賛」(出光美術館蔵、達磨のばけ物見てくれなんせ)は、達磨さんがアイシャドウしているのではないかという画で、完全に開き直っております。「さじかげん画賛」(出光美術館蔵、生かそふところそふと)は、生かすも殺すも医者の薬のさじかげんひとつということです。本当に怖いですね。最後に「老人六歌仙画賛」(出光美術館蔵、皺が寄る。ホクロができる。腰が曲がる。頭が禿げる・・・・。)ということで、老人になるとほんとうに不便なことが多くなるということを自虐的に書いているのですが、ここに出てくるおじさんたちはみんな笑っていて楽しそうです。老いることをちっとも嫌がってないということを仙高ヘ言いたいのだと思います。

おわりに
  日本の文化が、海外や中国のものと根本的に違うのは、“笑いに始まるおおらかさ”であると思います。日本人の寛容の精神が美術にも一貫していて、私たちの“和の精神”の根底にあると思います。それは互いを許しあい、笑って受け入れ、主張をおしつけない。その清雅な心に出光佐三は自然と惹かれ、出光コレクションができたのだと思います。出光美術館では年5〜6回展示を変えておりますので、仙高セけではなく現在開催中の色絵陶磁器なども是非ご覧いただきたいと思います。

質疑応答
「質問1」

  東京の美術館も門司の美術館も行かせていただきましたが、たくさんの国宝や壺があり、すばらしい美術館という印象があります。ご苦労なことはございますか。また今日は仙高ウんの話を聞かせていただき、大変参考になりました。

「回答1」

  出光コレクションは仙高ノ始まったのですが、佐三の特徴は好きになったらとことん集めるわけです。唐津だったら唐津ばっかり。浮世絵だったら浮世絵ばっかり。そんなわけで現在一万件あります。美術館にするにあたり、まず分類分けし整理整頓をするのがすごく大変だったと聞いております。昔は、好きなものを選んで買うのではなく、良いものが欲しければ、一山全部買わなければいけない時代でしたので、整理にあたられた先生方の多大なるご苦労があったと思います。


「質問2」

  出光美術館で現在している展示を見に行きましたが、古伊万里とマイセンを同じ図柄のもので並べ、おもしろい展示の仕方でした。また解説の書き方が若い感じで、デザインも今風という展示でした。若い学芸員の方が今回企画されたのでしょうか。

「回答2」

  企画は私と同じくらいの歳の学芸員です。出光美術館は嬉しいことにリピーターの方が多く、古くからのコレクションファンで何回も足を運ばれている方には、ちょっと違和感があるかもしれません。しかしこれからは若い人のファンを増やしていかなければいけないということもあり、今回に限らずポップなデザインを心がけています。また当館所蔵の“やきもの”の一つの特徴は、理事だった三上次男先生が「海のシルクロード」を提唱されまして、シルクロードは陸路だけではなく、船でインド洋をヨーロッパとアジアをつなぐ経路があったことを長いご研究で実証されました。そこで当館では東西交流のテーマで“やきもの”を集めて来た時期があります。例えばヨーロッパのマイセンのものでも、同じ図柄の古伊万里があればそれを収集し、意識的に研究しコレクションをしてきました。だから独特の展示の仕方が出来まして、他の美術館にはできない展示だと思います。同じ図柄の古伊万里の図柄が、マイセンになると何故こうなるのかということが面白いですね。同じ図柄がオランダのデルフト焼きになると可愛らしくなる。じつは出光美術館が誇る展示の部分なんです。楽しんでいただけまして誠に嬉しいです。有難うございました。


以上は、青山学院大学准教授 出光佐千子氏の講演を、國民會館が要約、編集したものであり、文章の全責任は当會館が負うものです。



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