ホーム > 武藤記念講座(講演会事業)公益社団法人 國民會館会長 武藤治太氏>『武藤山治とリンカーン』

武藤記念講座(講演会事業)

第1042回武藤記念講座要旨

    2018年3月10日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    公益社団法人 國民會館会長   
    武藤治太氏

 『武藤山治とリンカーン』  

セミナー





序章 山治のリンカーンへのこだわり
  エイブラハム・リンカーンについて、山治は『古今東西を通じて最も印象深き犠牲的人物を挙げよとの問いに対して、かの米国大統領在りしリンカーンなどは最も偉大な犠牲者と云って可いと思ふ。御承知の通りリンカーンは米国の南部諸州における奴隷制度を以て人道に背いたものとなし、非常なる決意を持って奴隷制度の解放を実行せんとしたる為に、南部諸州の反対に遇ひ、其結果かの有名なる南北戦争を引き起こし、其戦後に於て一兇漢の為に劇場において狙撃され、終に命を落としたのであった。素々奴隷制度に就ては、志士に等しく其の人道に悖るものなる事を感ずる處であったが、何分重大問題である為に容易に解決することが出来なかったのである。それを人道の為に断乎として廃するに至ったのは一にリンカーンの非常なる勇気と、高潔なる博愛の精神に基くものとせねばならぬ。特に奴隷と云えば黒人であって、其の人種を異にして居るにも拘らず、人道の為に然う云ふ種族的感情を超越して、却って同胞と戦いを交へ其結果終に一命を落すに至った如きは最も美はしく而して最も偉大なる犠牲であると思ふ』と述べております。まさに山治の“正義と人道”を絵に描いたように実行した人物がリンカーンであります。山治の一生もリンカーンと同じく正義を貫くものでした。不幸にも最後にリンカーンと同じ運命をたどった事は悲しい出来事でありましたが、彼にとっては本望だったかもしれません。舞子の自邸の客間にリンカーンの肖像画が掲げられています。また書斎には約900冊の洋書がありますが、リンカーンに関する本もかなりあります。
  さてエイブラハム・リンカーンの名前はアメリカ第16代大統領として、歴代大統領の中でも1、2を争う程有名な人物です。彼は民主主義の基礎を主張したことやアメリカ合衆国南部における奴隷解放、そして南北戦争による国家の分裂の危機を乗り越えた卓越したリーダーシップと政治的な業績が、アメリカの歴史や世界史的で高く評価されているのです。そして南北戦争終了数日後、観劇中暴漢により狙撃され劇的な最期をとげました。しかし一方において彼にも暗部があります。それは彼が先住民のインディアンを強く迫害した点です。民族浄化とさえ云われているナバホ・ダコタ戦争を始めとするインディアン戦争は彼の政権下で起こった出来事です。本日は山治が尊敬してやまなかったリンカーンの生涯について述べ、それに対し山治が書き残したものを紹介したいと思います。

第一章 リンカーンの生涯(生い立ち)
第1節 ケンタッキー州時代
  彼は1809年2月12日にケンタッキ州のラルー郡の間仕切りのない小さな丸太小屋で生まれました。父はトーマス・リンカーン、母はナンシー・ハンクスと云い、彼の名前は祖父のエイブラハム・リンカーンに因んで命名されました。なお祖父はインディアンに襲撃され、家族の目の前で殺されております。リンカーンのインディアンに対する悪感情が醸成されたのはこのことに由来しているのではないかと云われています。また父親は努力家で懸命に働き、エイブラハムが生まれた頃には600エーカー(240万u)の農場を二か所持ち、郡内では裕福な階級に属していました。しかし1816年土地の権利証が偽物だったため訴訟に敗れ、土地のすべてを失ってしまうのです。
第2節 インディアナ州時代
  両親は無学な開拓農民で、父は読み書きが出来ませんでした。しかし母親は聡明な人でリンカーンは母から読み書きを習います。リンカーンが7才の時、没落した一家は貧困と奴隷制度のために、奴隷のいない自由州であるインディアナ州へ転居することになります。9才の時母ナンシーが急死し、面倒を見てくれていた姉サラも彼が19才の時死亡いたします。10才の時(1818年)父は3人の子を持つサラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚します。幸い継母との関係は良好でした。リンカーンはこのような環境の中で、正式に教育を受けた事はなく、幾人かの巡回教師から1年分に相当するほどの基礎教育を受けただけです。あとは自らの独学により広範な知識を吸収したといわれております。
第3節 イリノイ州時代
  1830年、オハイオ一帯で彼の実母の命を奪ったミルク病が蔓延したため自由州であるイリノイ州に転居します。大望を持つリンカーンがより良い生活を求め一人で生きて行くことを決めたのがこのときです。彼はイリノイ州のニューセイラムに移転し、レスリングの試合でその腕力と大胆さで名をあげたりします。1831年末にニューセイラムの有力実業家デントン・オファットに雇われ、ニューセイラムからルイジアナ州のニューオーリンズまでサンガモン川とミシシッピ川を下り物品を運搬する仕事に従事します。この頃奴隷売買を目撃した可能性があります。その後ブラック・ホーク戦争に従軍します。これはイリノイ州とインディアンのソーク族、フォックス族の連合との争いです。イリノイ州が両族の保有していたイリノイの広大な土地を全て奪うことを考え、彼等を一人残らず州外に追放しようとした戦争で、リンカーンはイリノイ州民兵隊の大尉として参加しました。その後ニューセイラムに於いて討論会に参加したりして、彼が人の上に立つ器であることを町の有力者が認識するようになります。リンカーンが町に利益をもたらすと信じた有力者達は彼に政治の世界に入る事を勧めるようになるわけです。1832年リンカーンはイリノイ州議会選挙に出馬します。教育がなく、資金に乏しく、友人を持たなかった彼は13人中8位(4位まで当選)であえなく落選します。その後ニューセイラムの郵便局長を務めるかたわら読書による勉学を続け、まず測量士の資格を取り、その後独学で弁護士を目指すことになります。1834年再びイリノイ州議会議員選挙に出馬します。ホイッグ党に属していた彼は、民主党の後援も受け入れ、地域密着の公約を進めた結果、見事2位で当選します。1836年リンカーンは法廷弁護士の資格を獲得、議会の先輩であるジョン・スチュアートの事務所に属し、弁護士としても活躍するようになります。また1836年、1838年の州議会選挙はいずれも勝利し、連続4期議員を務めることになります。

第二章 リンカーンの生涯「国政への進出」
第1節 ホイッグ党時代
  リンカーンは地方議員としての活動に飽き足らず、1846年ホイッグ党からアメリカ合衆国下院議員に選出され1期2年間を務めます。農業中心の南部の民主党に対して、ホイッグ党はヘンリー・クレイが創設したアメリカ東部に集積する工業の保護育成を目的とする政党で、黒人奴隷反対派を党員として多数かかえていました。しかし後に1850年代に奴隷制度反対派と賛成派が激しく対立し、北部のホイッグ党員が離党して奴隷制度反対の共和党に移ったため、南部のホイッグ党は消滅し最終的にホイッグ党は消え去ります。リンカーンはホイッグ党議員として奴隷制度に反対する数多くの法案に参画し、めざましい活躍を示しました。その結果ワシントンの議員の中で存在感を高めました。しかし米墨戦争にからむトラブルで彼の態度が誤解され、攻撃を受けたこともあり、1848年の下院議員選挙には出馬を見送ります。
第2節 弁護士時代
  それ以後、彼は弁護士活動を活発に行います。特に力を入れたのは運輸関係の訴訟です。それは国が西部へ拡大していく中で、川に鉄道橋が新たに設けられたのですが、その鉄道橋の下を通るハシケの運行から持ち上がる紛争の解決でした。「公益のためであれば、企業は契約書に拘束されない」という彼の主張は有名です。弁護士としての活動は精力的で周囲から「正直者エイブ」「働き者エイブ」の評価を得ました。地域社会に於ける法廷の常連だけでなく、担当区域の28,000?にも及ぶ巡回裁判所にも積極的に参加しました。この巡回裁判所でリンカーンは誠実、公正という評判で、顧客や北部の弁護士の信用を勝ち取り、彼等はリンカーンの最も忠実な支持者となりました。彼等にはリンカーンの国家主義的経済や奴隷廃止の考えに共鳴する者が多かったのです。
第3節 大統領就任
  1850年代まで奴隷制度はアメリカ合衆国南部においては依然として合法でしたが、イリノイ州など北部では違法とされていました。当然リンカーンは奴隷制度を認めず、アメリカが西部で新たに獲得した新しい州においても奴隷制度が拡大することに反対でした。ところが1854年『カンザス・ネブラスカ法』が成立します。この法律は「新しくアメリカ領土に入植した者達に奴隷制度の是非を決める権利があり、連邦議会にはそのような規制、決定は出来ない」とするもので、リンカーンはこの法律に強く反対します。そしてこれを機会に彼は国政に再度関与することを決意します。1854年イリノイ州選出議員選挙に出馬しますが、所属するホイッグ党内の混乱により上院議員になることは出来ませんでした。
  1858年リンカーンはスチーブン・ダグラスの対抗馬として再度上院議員選に出馬します。そのときの『リンカーン・ダグラス論争』有名です。不幸にして選挙には敗れますが、その頃から将来の大統領候補として期待されるようになります。1860年5月9日、10日に行われた共和党大会で、彼はイリノイ州の大統領候補者に選ばれます。更に同月18日、シカゴにおける共和党全国大会において名乗りをあげた元ニューヨーク州知事で南部強硬派のウィリアム・スハードやオハイオ州知事サーモン・チェィス、判事のエドワード・ベイツなどの有力者をおさえ、リンカーンが共和党大統領侯補となります。1860年11月の大統領選挙においては、宿敵スチーブン・ダグラス民主党候補、南部民主党のジョン・ブレッキンリイジイ候補、新党の立憲連合党のジョン・ベル候補を抑え、第16代アメリカ合衆国大統領となります。リンカーンの当選が決まると南部の分離主義者たちは、彼が翌年に正式に大統領に就任する前に連邦から離脱する意思を明確にしたのです。12月20日サウスカロライナが先鞭を切り1861年2月2日までにフロリダ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスが追随し“アメリカ連合国”の結成を宣言しました。デラウェア、メリーランド、バージニア、ノースカロライナ、テネシー、ケンタッキ−ミズリー、アーカンソは分離主義者の言い分を聞きましたが、当初は追随を拒否しました。当時のブキャナン大統領とリンカーン次期大統領は連合国の認知を拒否します。リンカーンは選挙中奴隷制の拡大には断固反対でしたが、必ずしも一方的に奴隷廃止を主張していたわけではなく、戦争の起こる数週間前に、南部諸州の脱退をさけるため、全ての知事に『コーウィン修正条項』(すでに存在する州の奴隷制を保護する条項)の批准を求める手紙を送っています。また1861年3月8日の大統領就任の演説においても「南部諸州の人々には共和党が政権を掌握したために、彼らの財産と平和と個人の保障がおびやかされる危惧があると思われているようであるが、そのような危惧はない。その証拠に私の過去の演説を思い返してほしい。私は奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に直接にも間接にも干渉する意図はない。自分にはそのような法律上の権限はないと思うし、またそうしたいという意思もない」と述べています。その他あらゆる手段を講じ和平協議がおこなわれましたが、立法による妥協は困難となり、リンカーンが大統領に就任する3月までに、反乱州はいかなる条件においても連邦に戻る意思を示さなかった。

第三章 リンカーンの生涯「南北戦争」
第1節 南軍のサムター要塞砲撃が戦端
  1861年4月12日、南軍が合衆国のサムター要塞(サウスカロライナ洲チヤールストン港)を砲撃し戦端が開かれました。リンカーンは合衆国に残った総ての州に軍事的協力を呼びかけ、サムター要塞の奪回を要請しましたが、これは合衆国に残っていた奴隷州を強く刺激し、5月までにバージニア、アーカンー、テネシー、ノースカロライナの諸州が南部側に合流しました。バージニア州は有力州であったため、これを機会に連合国の首都はバージニア州のリッチモンドに移転しました。さて北部は英国の影響を受け早くから工業化されていましたが、南部は綿作などの農業主体の経済で、当時の人口は北部2,200万人、南部は1,000万人でその内350万人が黒人奴隷でした。当然兵士の数も北部が200万人と南部の100万人を圧倒し、工業生産は北部が90%以上を占め、北軍があらゆる意味で有利でした。北軍は緒戦から南部諸州を海上封鎖し南軍の体力を弱めました。しかし南軍は粘り強く持ち堪え、リンカーンは1年程度で方がつくと考えていたが、北軍の将軍は無能で南軍のロバート・リー将軍に緒戦から何度も煮え湯を飲まされることになります。
第2節 奴隷解放宣言
  しかし1862年の秋ごろから戦局が持ち直してきます。頃合いを見計らいリンカーンは同年9月奴隷解放宣言を行います。(本宣言は翌年1月)この頃から彼は南北戦争に“奴隷制に対する戦い”を大義名分として全面に押し出すようになり、その成果、連合国が英国やフランスから援助を得ようとする目論見を断つことに成功いたします。1863年、南軍のリー将軍は再び北部侵攻を企てますが、ペンシルベニア州のゲチスバークで激戦の末、北軍の勝利に終わります。戦いの後、リンカーンは戦場の墓地で演説します。彼はたった3分間の演説の中で『人民の、人民による、人民のための政治を地上から決して絶滅させない』と民主主義の基礎を主張いたしました。
第3節 南北戦争の終結
  1864年4月、リンカーンは、開戦の初期から不手際続きの将軍に代えユリシーズ・グラント将軍を総司令官に任命いたします。グラント将軍は、総司令官に就任する以前から西部戦線で目覚ましい成果をあげ、さらにミシシッピ川の支配権を確立して南軍の分断に成功していました。一方南軍の一部隊はワシントンDCにまで迫る勢いを示しましたが、戦争が長期化するにつれ装備・人口・工業力に勝る北軍が優勢となり、1864年4月降、北軍の一方的な展開となり、ついに1865年4月9日の“アポマトックス・コートハウスの戦い”で南軍のリー将軍が降伏し、南北戦争は終結しました。その間1864年の大統領選挙では、共和党の結束を図るとともに、民主党とも提携して新しく“全国統一党”という党名で出馬し再選を果たします。リンカーンが特に力を注いだのは、全州に適用されなかった奴隷解放宣言を、憲法の修正によって全国で奴隷制を廃止させるよう議会に対する圧力を強めてまいります。すなわち「奴隷制を絶対的に違法」とする憲法修正案が議会の審議に移されます。1864年6月、修正の最初の試みは下院の三分の二以上を得られず通過しませんでしたが、この修正条項を可決することが、次期大統領選の共和党すなわち統一党の綱領の一部となっており、下院での長い議論の末、1865年1月13日の下院において2回目の提案が通り、各州の批准もされ、アメリカ合衆国憲法修正13条として1865年12月6日、憲法に追加されました。2013年に公開されたスピルバーグ監督の映画「リンカーン」では、この場面をシビアに且つリアルに描き出しています。リンカーンについての書籍は数多く出されていますが、私は映画リンカーンの原作であるドリス・カーンズ・グッツドウィンの「リンカーン」をお勧めします。文庫本で3巻、実に1400ページに及ぶ大作ですが、リンカーンの活躍したアメリカと時代背景、そして彼の奮闘努力がよく理解出来ます。

終章 山治のリンカーン観
  山治はリンカーンについて、ナポレオンほど文章は残していませんが、全集を繙くとかなりのものがあります。冒頭に紹介した『最も美はしく偉大な犠牲』のほか昭和7年5月に『我が国の要する政治家』があります。内容は「アブラハム・リンカーンは泥濘に堕ちた一匹の豚の仔を見て之を掴み、新しき服を汚してまでも、之を救い上げて去った。しかも彼が斯く一匹の豚の仔に注いだ心こそは、すなわち後年200万人黒人が奴隷の境遇にあるを忍びづ、立って之が済度のために奮闘したると同じ心であったと讃えられている。今日我が国が要する政治家は、実にこういう心掛けの政治家である。しかるに今日までのどの内閣においても、国民の大半が破産の域に彷徨しつつあり、しかも失業して食なきものに対してすら、救済を怠っている。罪を犯したものでも刑務所で三度の食事が与えられている。況や何の罪もなく財界の急激なる不況のため失業したるものに対して、政府が救済を怠るが如き、実に我が国政治家の同情心に乏しきを歎ぜらるを得ない。(中略)然るに、今日生活難のため自殺者の統計著しく増加せる事実を眼前に見ていながら、猶政府は議会に向かって失業者救済の提案をなさない。人類愛も燃ゆるもの誰か冷淡な政治家の態度に憤らないものはあるまい。我が国の最も要する政治家は、リンカーンの如き同情の念厚き政治家なりという所以である」と述べております。もう一つ昭和8年8月19日の時事新報掲載の文章で、題して『リンカーンの心』です。「アブラハム・リンカーンは実に珍しく強い良心の持ち主であった。彼は青年時代に同年輩の青年と共同で荒物店を開いたことがある。ある時誤って6セントだけ高い値段で売った事を後で気が付いてリンカーンは直ちにその夜3マイルの遠路をも意に介せず。その人の家に6ペンスを返しに行ったということである。彼は非常な勉強家で、読書に熱中して仕事を仲間任せにしていたため商売は失敗に帰し、ついに1,100ドルの借金を持つ身となってしまった。その時にリンカーンは債権者に対して云った言葉と其の精神が面白い。「僕は借金をかならず返済します。信用してくださるなら僕は生活費以上に儲けた金は、一切貴下に渡します。僕はこの借金は此の借金を国債なりと思っています。と云った。そして彼はついにその金全部を短期間で返済してしまったので、隣人は彼のことを「正直者エブ」いった」と書いております。また昭和3年『婦人と生活』2月号では『真実の愛』という題で「米国大統領リンカーンはあれだけの人道的大事業を慣行し得た人だけにその性行は神に近いほど善良のであった。彼は人を愛したと同様に鳥獣を愛し労わるの念が非常に強かった。或る日彼は友達と騎乗して森林の中を通り途中水辺の馬の渇を癒して出発となった時リンカーンの姿が見えない、一同は何処へ行ったのか探していたが、その中の一人が先程2羽の小鳥が巣から墜落したのを、リンカーンが見付けて元の巣に返してやろうと、頻りに巣を探していたの見た」と云った。まもなくリンカーンが如何にも愉快な顔つきをして帰ってきた。彼はとうとう小鳥の巣を見つけ、無事に2羽の小鳥をそこに入れることができたのである。たかが2羽の小鳥のためにそんな苦労をするのは馬鹿馬鹿しいと友達は嗤ったが彼は落ちたままにしておいて、母鳥が餌をやり得ないなら私は夜も眠れないであろう」と言ったそうである。リンカーンは誰よりも強い人であったがこのように博愛の念に富む人であった」という一文を寄せております。
  リンカーンの“強い意思と実行力そして神のような博愛の念”山治も正義感に燃え「千万人といえども我いかん」という信念であったからリンカーンの生き方に何よりも惹かれるものがあったのではないでしょうか。

質疑応答
「質問1」

  リンカーンが奴隷解放したということですが、私が聴いていますのは奴隷や人種差別は第二次世界大戦後まで続いていたと聞いたことがありますが、どうなんでしょうか。

「回答1」

  リンカーンが奴隷制度を廃止し、奴隷の売買は完全に憲法上で禁止となりました。しかし実際には、キング牧師の話しもありますように現在も黒人差別はあります。


「質問2」

  リンカーンが奴隷解放をした時代、フランスやイギリスでは奴隷制度は無かったのでしょうか。

「回答2」

  ギリシャ・ローマ時代はありましたが、近代になってアメリカほどはっきり奴隷制度が残っていた国はありません。英国本国やフランスでは奴隷はいなかったはずです。


「質問3」

  リンカーンの「奴隷解放と民主政治」、武藤山治の「人間尊重の家族主義経営と理想政治」二人とも命を懸けて正義を追求したということですが、二人に違いはありますか。

「回答3」

  時代も国も違いますので一概に言えませんが、基本的な精神は一緒です。山治は、リンカーンの考え方に強く惹かれ、リンカーンを尊敬していろいろ研究を重ねたということです。


「質問4」

  リンカーンが暗殺された理由は分かっているのでしょうか。

「回答4」

  犯人は、北軍の元兵士ということです。「独裁者よ思い知れ」と叫んでリンカーンを撃ったらしいですのですが、本当の理由は判りません。南軍の兵士が奴隷制の問題でリンカーン憎しで暗殺したのではありませんので。リンカーンが独裁者になりつつあるのを懸念していたのではないでしょうか。


「質問5」

  山治が暴漢に襲われた政治的な背景は分かっているのでしょうか。

「回答5」

  当時はお金によって動く政治でした。山治がこの國民會館を創ったの も国民の政治意識の改革をするためです。山治の考え方は正義一本です。特に政官財の 癒着について憤りをもっておりました。彼が時事新報の社長の時、昭和8年12月から 昭和9年1月にかけて「番町会を暴く」という記事を連載します。当時番町会の首領郷 誠之助の下に、若手実業家や政治家などが多数集まっていた。この連中は金さえ儲かれ ばよいという人達ばかりで非常にダーティな人が多かった。たまたま番町会が帝国人造 絹絲(現在の帝人)の株が銀行から非常に安い値段で放出され、それを高値で売り抜け るということをやります。見え見えのインサイダー取引です。今でいうリクルート事件 です。その記事を3か月ほど連載したため、恨みをかったということがあります。彼が 殺された原因は、はっきりわかりませんが、番町会の連中が手を下したのか、金を出し てやらしたのかどうかもわかりません。しかし諸々から勘案するならば、やはり番町会 絡みで彼は命を落としたのだと私は思っております。
  なお、この記事が発端になり「帝人疑獄事件」に発展します。検察が動き、山治が凶弾を浴びた後、多数の人が逮捕される事件に発展します。しかしそれは昭和12年のことで日支事変が始まった年です。日本自体が戦争体制に突入していく国家総動員に入る時代で、政界の上の方、国家権力が動き、検察を抑えたため、全員無罪になっております。


以上は、公益社団法人 國民會館 武藤治太会長の講演を、國民會館が要約、編集したものであり、文章の全責任は当會館が負うものです。



お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ