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武藤記念講座(講演会事業)

第1045回武藤記念講座要旨

    2018年6月2日(土)
    於東京「国際文化会館」
    ノンフィクション作家   
    中丸 美繪氏

 『小澤征爾という神話』  

セミナー





はじめに
  この10年間、小澤征爾さんの評伝にとり取り組んでおります。
  小澤さんと初めてお会いしたのは、1986年の新日本フィルハーモニーのオペラ『エレクトラ』の公演でした。公演の前になってソプラノ歌手が突然降板してしまい、桐朋学園を卒業した私の妹の中丸三千繪がオーデションで代役のチャンスを得ることになり、その公演の楽屋でした。また1989年ドイツに住んでいました時「サイトウ・キネン・オーケストラがフランクフルトに来る」というチラシを見まして、小澤さんが10年以上も前に亡くなった恩師斎藤先生の門下生とオーケストラをやっている姿に接し、深く印象に残りました。これが、私が「嬉遊曲、鳴りやまず−斎藤秀雄の生涯」という本を書くきっかけとなりました。
  執筆の動機となった小澤さんに直接取材したのは、千葉の地方公演から成城の自宅に帰る車中でした。直接、小澤さんと長時間話し、このころから小澤征爾さんを書いてみたいと思うようになりました。

第一章 日本の高度成長と小澤征爾
第1節 ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任
  1999年、小澤さんがウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することが発表されました。この歌劇場は世界の四大歌劇場の1つで、ときには伏魔殿といわれるほど伝統を重んじるオペラハウスです。
オペラは音楽のみならず、言語の芸術でもあり、言葉が音楽に乗らなければならない。ところが小澤さんは語学が苦手。お兄さんの俊夫さんに取材すると、「征爾は語学がね、日本語も下手だけどね」と笑っていました。若くして渡仏したときも、フランス語をひとことも喋れずに行ってしまった。ドイツ語も「マエストロ小澤がドイツ語を話したことは、一回も聞いたことがない」とベルリンフィルのコンサートマスターが証言したくらいです。 メトロポリタン歌劇場の監督を長くやったジェームズ・レヴァインやムーティーは、ピアノを弾きながら暗譜で歌います。そういう人がオペラハウスのシェフになるわけです。
  ところが、小澤さんはシンフォニーの指揮者としてキャリアを積んできましたので、ウィーン国立歌劇場の音楽監督になるとは、世界中のクラッシック関係者の誰もが思っていませんでした。
  丁度その頃の日本はというと、経済は好調な時代。私はボストンに住んでいましたが、ボストン・シンフォニーのラジオ番組では、寄付者の名前を紹介する枠があって、日本企業の名前が延々とつづきました。
  これまで小澤さんの評伝のために80人あまりを取材しておりますが、チェリストでサントリーホール館長、斎藤秀雄の一番弟子である堤剛さんは、「アメリカで音楽監督になるには、いくらお金が集められるか、ということが先ず指標です」と教えてくれました。地元の人に人気があり、沢山ファンを作り、お金を集める運営ができることが重要なのです。
  小澤さんがウィーン国立歌劇場の音楽監督になった時は、トヨタが大変なお金をオペラハウスに出したようです。そのため、オペラハウスのプログラム表紙には、レクサスのマークが描いてありました。たまたま歌劇場が独立行政法人となり、彼らは自分達でグッズを売り、スタッフの給料を稼がなければならない時期に重なっていました。
  小澤さんがシェフになりたい、トヨタもレクサス売り出しのためにヨーロッパで名前を出したい、歌劇場も経済的支えがほしいという、三者の思惑が一致したと思います。経済と文化、日本の高度成長と小澤さんの活躍は不思議にリンクしています。
  アメリカには、音楽マフィアと云われるコロンビア・アーティスト社がありますが、その成長と小澤さんの活躍もまたリンクしています。1965年、小澤さんがトロントの音楽監督に就任した時、コロンビア・アーティストのウィルフォードがマネージャーをしており、「仕事に行ったら必ず次の仕事をそこでもらって来い」と小澤さんに云っていたと聞いております。このマネージメントのおかげで、小澤さんは「世界のオザワ」への道を歩みはじめることになります。
第2節 常に先頭を疾走し続ける小澤征爾
  小澤さんは「オペラの勉強を斎藤先生から教えてもらえなかったのだよ」と仰っていましたが、ウィーンに行ってストレスで病気になったと証言するのは、オーケストラの仲間達です。
  ウィーン国立歌劇場音楽監督在任中に食道がんの手術をし、退任してから小澤さんは住居を日本に移しました。30年以上にわたる長い海外単身赴任生活に終止符を打ち、やっと家族との時間が持てるようになったのです。
  小澤さんについて、そのころから私は資料を漁り、関係者の取材を重ねてきました。そのなかで、小澤さんが語っていない事実が浮き上がってきたのです。
  小澤さん本人が忘れていることもあるかもしれない。語りたくない事実もあるでしょう。
  本人の回想録というのは、どうしても本人が語りたいことだけになるのはしようがありません。だから、その明らかにされていない事実を、発掘するのがノンフィクションの仕事になるのです。
  小澤さんは白内障手術や腰痛の手術と、次々に病に見舞われ、食道がんの手術では食道を全摘しております。しかし気丈に指揮活動を続けている。<br />   「どこまでいけるかの実験だ」とご自身でも語っている。彼には、日本クラシック界の先頭バッターとして走り続けなければいけないという気持ちがある。それがほかの指揮者と一線を画するところです。
  若いころからアグレッシブで、ハングリー精神に溢れる性格でもあった。今では教育活動にも力を入れ、オセアニアやアジア各国の若い音楽家達を集めて、勉強会を開いています。
  そういうときも必ず取り上げられるのが、斎藤秀雄先生から習ったチャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』やモーツアルトの『嬉遊曲』(ディヴェルティメント)です。
第3節 恩師、斎藤秀雄先生
  斎藤秀雄は西洋音楽が家のなかに流れるような裕福な家に育ちました。本人はチェロをならい、暁星中学時代にはマンドリンクラブに所属し、指揮者もしていました。お父さんは斎藤秀三郎といって、現在も岩波書店から出ている和英、英和大辞典を作った英文学の泰斗です。千鳥ヶ淵の英国大使館脇のお寺のような邸宅に住んでおりました。
  秀雄はその後、上智大学に進学するのですが、音楽への思い止まず、近衛秀麿の渡欧に同伴してドイツに留学します。フルトヴェングラーがベルリンの常任指揮者をしていた時代で、彼の指揮も見ています。
  帰国して、近衛秀麿が常任指揮者をつとめる新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のチェリストとなりました。ところが、近衛に楽員がついてこないようになり、彼は楽団を去り、新しい指揮者を招聘することになった。そのとき来日したのが、ナチスドイツ政権下で、危うい立場になってきたユダヤ人のローゼンシュトックという指揮者でした。ローゼンにとってはドイツを脱出する手段となり、新交響楽団にとっては急速な成長をみせる時代を迎えます。
  ドイツ語を話せる斎藤はローゼンの助手となり、彼の指揮を真似て楽員を指導する立場になります。そこでどうやら指揮には7つの振り方があると分析するのです。これが斎藤メソッドと言われる指揮法です。小澤征爾さんのみならず、山本直純さん、岩城宏之さん、若杉弘さんなど、指揮者として活躍した人、あるいは現在でも斎藤が生きていた時代を知っている指揮者は、何らかの形で斎藤秀雄の薫陶を受けていると云われております。
  この指揮法のお蔭で、小澤さんはフランス語が苦手であるのに、ブザンソン指揮者コンクールで優勝してしまいます。指揮者のコンクールでは、初見の楽譜を与えられ指揮するわけですが、小澤さんの指揮が言語よりも饒舌であったからでしょう。秋山和慶さんは「斎藤先生のところに小澤さんから“たたき(上から下におろす)は最大の武器である”と電報が届き、先生は喜んでね。」と語りました。
第4節 小澤征爾の人柄と演奏の特徴
  小澤さんは、いろいろな財界人や著名人に後援されてもきました。開放的で気取らない性格です。“東洋のユダヤ人”と称した関係者もいました。世界中にネットワークを持っていて、色々な人とすぐ友達になれるフランクな人ということです。
  小澤さんは、この人のためにやってあげよう、と思わせてしまう人柄なのです。「サイトウ・キネン・フェスティバル」を長野県松本市に作った時も、元セイコーエプソン社員の武井勇二さんが、上司を説得してエプソンの後援をとりつけ、また、長野県や松本市と共同して創設に走り回りました。一方で、若いころから彼は諏訪交響曲楽団でバイオリンを弾いており、それ以来、小澤さんとは50年位の知り合いですが「小澤さんの冷酷な一面も、俺は見て来たよ。音楽のためには、親でも殺すのではないか」と評している。
  今年の夏、小澤さんは指揮はしませんが、総監督として松本に滞在します。この先、フェスティバルはどうなっていくのでしょうか。まだなにも決まっていません。
  ある学者が、指揮者たちがどのくらい1曲の中で、テンポが変わるかというのを測量したことがありました。小澤さんは全くそのブレがなかったらしい。
  リズム感が最大の小澤さんの特徴です。日本人ばなれしたリズム感を持っている。
  小澤さんにはベートーベンの録音が長らくなかったのですが、その7番を朝比奈隆指揮と比較して聴いて頂きましょう。
  最初の出だしのオーボエの伸ばし方が全然違いますよね。リズム、テンポも全然違います。演奏時間は1楽章1分以上違います。

第二章 小澤征爾の生い立ち
第1節 西洋音楽と出合い
  小澤征爾は、昭和10年山梨出身の小澤開作と仙台出身の若松さくらの三男として満州の奉天に生まれました。ウィーンのニュー・イヤー・コンサートに初めて出演したとき、オーケストラのメンバーが世界中の主だった言語で“ハッピー・ニュー
・イャー”と発言するという演出がありました。
このとき小澤さんが中国語で挨拶したため、現地では中国人と思われたようで、  その年の音楽監督就任記者会見では、「僕は日本人です」と訂正したらしい。
  実際小澤さんのメンタリティーは大陸的だと思います。これは小澤家の家風のようです。父親の開作は貧乏な農家の出身で、長男の彼は草鞋を編み、それを売って教科書や本を買い勉強しました。成績はとても優秀でしたが、そんな事情で中学に行けず、東京に出奔、色々なアルバイトをしながら歯科医の資格をとります。
  その後一旦山梨に戻りますが、山梨で人生を終えるのはいやだと思ったのでしょう。満州に渡るのです。大連で歯科医の助手として働き、長春で開業するまでになります。そして偶然、大連時代に英語を習っていた教師に会い、「まだ独身なら、俺の親戚にいい娘がいるから結婚しろ」と云われます。 写真を交換するだけで、この見合いは成立し、さくらさんが満州に渡ります。さくらさんのお母さんが、斎藤秀雄の母、とらと従姉妹でした。
  さくらは、斎藤秀三郎の創設した神田の正則英語学校に通い、YMCAでタイプライターを習うモダンガールでした。満州に旅立つ時、熱心なキリスト教徒であったとらを訪ね、さくらは教会に連れて行かれた。こうしてさくらさんは教会と出会い、賛美歌を歌い始めるようになります。小澤家は男ばかり4人兄弟で、子供のころから讃美歌の男声合唱をしていました。これが小澤征爾さんと西洋音楽の出会いでした。
  もしさくらさんが、とらさんと教会に行かなければ、小澤征爾は存在しなかった。兄俊夫さんの息子は、シンガーソングライターの小沢健二ですが、彼も生まれなかったでしょう。小澤さんの原点は、斎藤家との出合いであり、斎藤秀雄と出合わなければ、指揮法も獲得できず、世界の頂点に上り詰めることも出来なかったと思います。
第2節 征爾という名前の由来
  父親の開作さんは次第に「五族協和・王道楽土」を掲げる満州青年連盟の運動に傾倒いたしまして、いつの間にか医院は開店休業のような状態になっていきます。彼の信奉した人が関東軍参謀の板垣征四郎と石原莞爾です。その二人から一字ずつ貰って、父が征爾という名前をつけました。もっともこれは家族には不評だったようですが(笑)
  今、オセアニアや東南アジアの若い音楽家達を集め、指揮する征爾さんを見ますと、お父さんが実現できなかった「五族協和・王道楽土」を音楽で成し遂げようとしているのではないか、と思ってしまいます。征爾さん自身も高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した時「日本は島国で、国土は限られていて(中略)60年前戦争で何にもなくなった国が、こんなに立派な国になった歴史は、世界にないのはないですか。その自信は持つべきだ。そのためには今の状態に満足してはいけない。昔僕はうんと苦労して、外国に行ったんです。それは本当にためになった。でも此の頃は、行けるのに行かない方をチョイスするのが増えていると聞いて愕然とします。だって世界の地図をみると、日本は極東でこんな小さくて日本語をしゃべるのはこの国しかないのだから。今中に居ていいわけがないですよね」と云っております。
  まさに開作さんが喋っているように感じる位です。石原莞爾は東條内閣で左遷され、開作さんも関東軍の参謀作戦課から北京へ行くことになります。その北京時代が小澤家にとって一番華やかな時代であったようです。北京には日本が樹立した傀儡政権があり、そこの工作の責任者として開作さんは協力します。日本から色々な文化人が来たり、政治家が来たりしますと、必ず開作さんの家に立ち寄ったようです。小澤公館と云われる中庭のある四合院という造りの建物で16部屋あった。征爾さんがまだ3、4歳の頃で、坊ちゃんとして育てられました。
第3節 満州から引き揚げた小澤家
  北京では次第に日本人に対する圧力が激しくなり、さくらさんと子供達は引き揚げてきて、親戚のいる立川に向かいます。目立った荷物はアコーディオンと四川鍋の二つだけ。小澤さんが初めて触った楽器がそのアコーディオンでした。
  立川に一緒にいた親戚の方に取材しますと「小澤家は本当に面白い。貧乏か、金持ちか両極端だ」と仰います。貧乏で、多摩川の縁のぺんぺん草を摘んで食べる。さくらさんが行商していたこともあった。
  しかし征爾さんは貧乏ながら成城学園に行く。親戚は「貧乏しているのに、何でお坊ちゃんがいく成城学園に行くのだ」と皆反対したそうです。小澤家では、お金はどこからか集まってくるという発想がある。例えば次男の俊夫さんは昔話研究家ですが、会員制で数百人を組織し、地方に伝わる昔話を集め出版しております。小澤家の組織力や人間力というのは本当に見事です。
  成城学園では「征爾ちゃんはいつも同じ服を着ているね」と云われたそうですが、さくらさんが、生地をロール一本買って、同じ洋服を沢山作り、やり繰りしていたようです。開作さんも引き揚げ、敗戦となったときには、「これからお前達は何でも好きなことをやれ」と子供たちに言いました。
  「征爾が音楽を志すことには親は全く反対しなかった」と俊夫さんは回想します。そして征爾さんは、立川の小学校で初めてピアノの鍵盤に触ることになります。
  当時担任の先生の姪御さんに巡り会うこともでき、資料も提供してもらいました。
  「講堂でピアノの練習をしていると、小澤さんがじっと見ていて、それでピアノの方に叔母は招いたようだ」とのこと。
  征爾さんのために小澤家では、横浜の親戚の家のピアノを、2人のお兄さんとお父さんが3日がかりでリヤカーを引いて立川の家に運んできました。
  「初めてこのピアノを弾いたその時の音色が忘れられなくて、音楽家になりたいと思うようになったのかも知れない」と征爾さんは云っています。戦後、開作さんは山梨の味噌を売ったり、さつまいもから蜜を作ったり、ミシン会社を始めたりしますが上手くいかず、小澤家はどん底となります。
  新松田に近い金田村に引っ越し農業をしますが、開作自身は全く農業をしません。さくらさんが農業をやり、北京時代に教会の仕事で習った九重織でネクタイを作り、銀座の三愛などに卸して、征爾さんを成城中学に行かせるのです。弟の幹雄さんは、田舎のお百姓さんの子供達とすぐ馴染めたのに、征爾さんはそうでない。さくらさんは心配して、成城学園へ入学させた。征爾さんは成城学園に入って激変します。
第4節 桐朋学園への進学
  父さんの北京時代の伝手で、芸大教授だった豊増昇教授からピアノを習うことになりますが、成城学園はラグビー部が盛んで、征爾さんもラグビーにのめり込んでしまいます。
  そんなわけで、ピアノの練習はだいぶおろそかにしていたでしょう。指を怪我して休んだり・・・。そんなときに、たまたま日比谷公会堂で、クロイツアーという有名なピアニストが、指揮振りという指揮とピアノを一緒にこなす演奏会を見て、指揮者への夢がふくらむ。
  豊増先生もピアニストにはなれないだろうと思ったでしょう。
  こうして征爾さんは指揮者を目指すことにして、お母さんにも言わず、千鳥ヶ淵の英国大使館脇にある斎藤家を訪ね、弟子入りをさせて下さいと頼みます。斎藤秀雄からは「山本直純と一緒に勉強しろ。桐朋学園が来年出来るから、1年間成城の高校へ行って、それから桐朋学園に入学しろ」と云われ、翌年、桐朋女子高等学校の中に出来た音楽科に入学することになります。
  女子高等学校ですから周りは女性ばかりです。5、60人の音楽科も男子は4人だけでした。その時面接した生江義男校長は「ここは女性ばかりだから小澤君おとなしくしていてね、というと小澤さんは『えへへ』と云って、その頃から茶目っ気に溢れていて、桐朋の1期生は小澤君のために回っていたような気がする」と回想しております。
  また、その1期生の中に江戸京子という小澤さんの最初の妻になる女性がいました。父は三井不動産会長をしていた江戸英雄。母は桐朋設立の時、学長をつとめるピアノ界の大御所井口基成門下で、当初から教師として関わっていました。桐朋学園は、「子供のための音楽教室」の延長線上にできたもので、江戸家の3人の娘たちも全員がその音楽教室から桐朋学園に進みました。
  江戸京子さんは演奏家を退いてからはアリオン音楽財団を作り「東京の夏 音楽祭」を開催しましたが、その時一緒に仕事をした上野学園学長だった船山信子さんは「京子さんは、旅行する時でも10何冊の本を持って行ってそれを読破してしまう」と語っていました。
  二人は離婚しましたが交流は復活して、小澤さんが病後、サイトウ・キネン・フェスティバルに復帰をした時、つまりグラミー賞をとることになる「子供と魔法」のオペラ上演のときには、京子さんもいらしていた。私は現在「モストリー・クラッシック」という産経新聞社の音楽雑誌で『鍵盤の血脈−井口基成』を連載しており、基成の一番弟子の京子さんにも取材をしたため面識もあり、京子さんから小澤さんについて、とっておきの話を聞くこともできました。この京子さんからの話は、拙著『小澤征爾という神話』が来年発刊予定なので、本で読んでくださいね。

第三章 指揮者、小澤征爾の活躍
第1節 貨物船に乗って渡仏
  若い指揮者はすぐにデビューできるわけではないので、生活に困ります。家も裕福でなく、征爾さんは稼がなければいけないという状況でしたが、稼げません。日本にいてもどうしようもない。ともかく外国に行って賭けたい、と考えました。
  先に江戸京子さんがフランス政府の給費留学生でパリに留学していましたので、給費留学生の試験を受けますが不合格。しかし、「何としても外国に行く」という一念でお金を集めた。その時に協力したのが、江戸英雄さんや日本フィルの水野成夫さんです。水野さんは財界四天王といわれ、娘さんが成城学園で小澤さんと同級生だったということもあった。
  1959年2月、小澤さんは三井の貨物船に乗せてもらい、富士重工業からスクーターを借り、マルセイユから日の丸の旗を立てた奇妙な姿でスクーターにまたがり、パリを目指した。江戸英雄さんからは「京子には会ってくれるな」と云われたらしいが、小澤さんは聞かなかった。
  征爾さんはその年、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。国際コンクールの記者会見ではフランス語の堪能な京子さんが通訳しました。京子さんとその人脈の助けもあり、フランスから小澤さんの活動が始まりました。
第2節 小澤征爾のテーマソング
  1960年、ボストン・シンフォニーのシャルル・ミュンシュの教えを受けることになります。そのシャルル・ミュンシュが得意としたのが、ベルリオーズの『幻想交響曲』で、これが小澤さんの十八番となります。   また小澤さんがサイトウ・キネンのテーマソングと云っているのが、モーツァルトのディヴェルティメントです。斎藤秀雄が亡くなる直前の夏の桐朋学園オーケストラの合宿で指揮した曲で、手が上がらない中、学生たちは泣きながら演奏しました。チャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』もそうです。   小澤さんが病気から復活するときは、この数分の曲がえらばれたし、サイトウ・キネンの誰かが亡くなると必ずこの曲を非常に遅いテンポで演奏します。   また、小澤さんの場合、ベストセレクションと云うCDがだいぶ発売されている。一楽章だけ、それを色々集めたいわゆる名場面集のようなものです。これは楽しいCDです。これも小澤さんの特徴だと思います。   また現在体力が続かない小澤さんは、楽章を振り分けて、ベートーベンの最初の1〜2楽章は別の指揮者、3〜4楽章に真打として自分が登場するというようなことをやっています。楽章で指揮者が交代するというのは、桐朋学園のオーケストラの演奏会と同じです。指揮者が何人もいますから、練習のために楽章で指揮者が交代するのです。これは小澤さんのドタキャンにも対応でき、主催者側も安心というやり方ですね。
第3節バーンスタインの副指揮者で日本凱旋
  1961年に小澤さんは、バーンスタインの副指揮者になります。このバーンスタイン率いるニューヨーク・フィルの日本公演がありまして、バーンスタインに肩を組まれて小澤さんが羽田の飛行場に降り立ちます。その写真が全国紙に載るのですが「バーンスタインに肩を抱かれて来た時は驚いたよ」というのです。
  バーンスタインは『ウエストサイドストーリー』の作曲家であり、日本公演の時、突然自分が指揮する予定の黛敏郎さんの曲を小澤さんに振らせたのです。小澤さんには、フィアンセの江戸京子さんとの日本凱旋公演が日本フィルのオーケストラで別に予定されていたのですが、いち早くニューヨーク・フィルで日本デビューしてしま
ったということです。
第4節ボストン交響楽団を率いて活躍
  1966年ウイーンフィルを初めて指揮することになり、1973年38歳の時にボストン交響楽団の音楽監督に就任します。この頃から小澤さんは単身赴任で、今病気になって初めて家族と一緒に過ごせる日々を送っているわけです。
  小澤さんは京子さんとは離婚し、23歳のファッションモデルのベラさんと1968年、小澤さんが31歳の時に再婚します。
  ここに小田急線で二人が仲良くしている写真があります。この当時から小澤さんの一挙手一投足が注目されていました。
  NHK交響楽団とのいざこざ、いわゆるN響事件も、小澤さんの発言が週刊誌に報道され、N響との不協和音が奏でられることになるのです。これは来年発売される予定の拙著に詳しく書きました。

おわりに
  話したいことが沢山ありましたが時間がなくなりました。拙著『小澤征爾という神話』は、推敲段階にあります。小澤さんの人生は波乱にとんでいます。今日はそれらをすべて盛り込むことができず、小澤さんがまだ30代の頃の話で終わってしまいました。中央公論新社から発刊するこの拙著を、ぜひ読んで頂けたらと思います。

以上は、ノンフィクション作家 中丸美繪先生の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです。



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