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武藤記念講座(講演会事業)

第1050回武藤記念講座要旨

    2018年10月6日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    元産経新聞社会部記者・ジャーナリスト   
    阿部 雅美氏

 『拉致取材40年 追い続けた真実』  

セミナー





はじめに
  海岸で語らう若いアベック、下校途中の13歳の少女、買い物に出たお母さんと娘さん、ごく普通の市井の人たちが次々に襲われ、工作船に乗せられ1000キロ近く離れた北朝鮮へ連れて行かれる。そのことが全く明るみに出ず日本社会の誰も気がつかなかった。北朝鮮による日本人拉致はありえない事件でしたが、ありえないことがもう一つありました。北朝鮮の主権侵害、人権侵害という理不尽極まりない国家犯罪に、政府、政治家、官僚、警察、メディアが目をつぶってきたことです。残念ながら「日本社会は真っ当ではなかった」と云わざるを得ません。横田めぐみさん拉致疑惑が発覚した1997年(平成9年)に多くの国民が拉致事件を知りましたが、それより17年前、1980年(昭和55年)の産経新聞で知ったという人は殆どいません。他のメディアが無視、あるいは黙殺して報道しなかったからです。思わぬことから拉致取材を始め、今年で40年目になります。この間、産経の報道は幾度も「虚報」と誹謗中傷されてきました。その経緯を事実に沿い自戒を込めて書き残すため、今年1月から産経新聞に連載し、さらに『メディアは死んでいた』を書きました。

第一章 1980年に「虚報」を書くまで
第1節 「日本海の方で変なことが起きている」
  1979年(昭和54年)の秋、今から40年前のことです。私は産経新聞の駆け出しの記者で、警視庁記者クラブで警備と公安を担当していました。その時「日本海の方で変なことが起きている」と耳にしました。これが拉致報道の始まりです。「変なこと」と言っても雲を掴むような話で皆目わかりません。そこで地方紙を調べてみようと日比谷図書館へ通いました。今のようなデジタルの記事検索システムもなく、数日かけて日本海側の東奥日報(青森)、魁新報(秋田)、山形新聞(山形)と順に見ていきました。徒労に終わりかけたのですが、一つだけ「これはなんだろう」という記事を見つけました。それが北日本新聞(富山)の1年前の新聞でした。
第2節 地方紙記事との出合い
  1978年8月16日付社会面のトップ「全国戦没者追悼式」の横に「富山の海岸で散歩中の若い男女が、四人組の男達に襲われたが、危うく助かって無事だった」という5段の記事がありました。犯人たちは、男女に手錠と猿ぐつわをかけ、布袋に押し込むという聞いたこともない手口を使い、そのまま放置して逃げたとありました。袋詰めにした若い男女をどうしようとしたのか全く分かりません。「変なこと」がコレなのかどうか、分かりませんでしたが、興味を惹かれ富山に出かけました。それが北朝鮮による日本人拉致事件取材のスタートでした。「反共の産経新聞は、公安当局とタッグを組んで北朝鮮を狙い撃ちにした」などと言う人が、今もいますがそれは嘘です。政治的意図など、まったくありませんでした。
  1980年当時、独裁体制下の北朝鮮には言論の自由も結社の自由もありませんでしたが、日本では全メディアが北朝鮮を“地上の楽園”と賛美し、良いイメージが社会全体にいきわたっていました。1959年から継続していた帰還事業で7,000人ぐらいの日本人妻が北朝鮮に渡り、悲惨な目に遭っていたわけですが、そうした報道はありませんでした。一方、韓国に対しては「朴正煕政権は軍事独裁だ」と大変厳しい見方で、民主化運動を応援する風潮がありました。つまり朝鮮半島の北と南を別々の物差しで見ていたわけです。社会主義国への漠然としたシンパシーも日本社会全体にありました。国民の大多数が北朝鮮の拉致を事実と認識し、北朝鮮に対する見方を変えるのは20年近く後、2000年前後のことでした。
第3節 全てが“北”を指し始めた
  富山事件の報道は、朝日・讀賣とも「女性に乱暴する目的だったのだろう」といった地方版の小さな扱いでした。事件からすでに1年が過ぎ、わけがわからないまま終わっていました。しかし私が富山で取材をしたところ、次々に奇妙なことがわかりました。一つは、二人を押し込めた布袋、ゴム製の猿ぐつわ、真鍮の手錠など、犯人グループが現場に残した8種ほどの遺留品は、日本で製造も販売もされず、輸入もされていないモノで、鑑定では、工業の酷く遅れた国で作られた粗悪品ということでした。犯行直前、浜でアベックが目撃されています。またステテコにズック靴姿の4〜5人の男が目撃されています。その男たちは「日本人ではない感じだった」と言う事です。1年経っても恐怖が冷めやらない被害者に代わって男性の両親が取材に応じてくれましたが、犯人の男たちは日本人でない感じで、35才位の皆精悍な顔つき。赤銅色に日焼けして、手際よく訓練されているようだった。彼らの話した言葉は『静かにしなさい』の一言だけだった。当時の新聞には『静かにしろ。騒ぐと殺すぞと脅した』と定番のセリフを載せていますが、事実と違います。『静かにしなさい』という、乱暴な犯行に似つかわしくない丁寧な言葉でした。そして「犯人たちは何かをじっと待っていた。犬の鳴き声がして彼らはいなくなったように感じた」という事でした。奇妙な遺留品、犯行の手口、目撃者の話、被害者の話、普通の犯罪ではないことは明らかです。地元の高岡署長は「袋に入れて、陽が沈むのを待っていた。そして車でどこかへ運ぶつもりだったのだろう」と言っていました。袋に詰めた二人を車に積んで逃げるのは簡単ですが、それをせず、何かを待っていた。私は車ではなく船で運ぶつもりだったのではないかと思いました。目の前は日本海です。連れて行こうとしたのは、大阪でもなければ東京でもない。海の向こうではないのか、と考え始めました。そして海上保安庁、漁業関係者などから、不審船の目撃情報、日本海沿岸を飛び交う怪電波の情報を聞くに及んで、全てが一つの方向を指し始めました。北朝鮮による日本人拉致です。
  その後福井、鹿児島の海岸から突然姿を消したアベック蒸発の取材をしました。UFOの仕業ではないか、神隠しではないか、家出したのだ、心中したのだ、そういう心ないうわさ話が沢山ありました。富山、福井、鹿児島の共通点は「いずれも20歳代のアベックでデート中である、家出や事故や心中あるいは暴走族・暴力団による刑事事件の可能性は限りなく薄い、未遂も含め40日間に集中している、現場は海岸で過去に北朝鮮の工作船が密入国した地点に近い」ということです。犯罪には動機が必要です。何のために日本人をさらっていくのか。最初は工作員に日本語を教えるためと考えましたが、帰還事業で北に渡った日本人妻が7千人もおり合点がいきません。日本に密入国した工作員が、拉致した日本人になりすます「背乗り」以外に合理的な理由は浮かびませんでした。記事は編集幹部の判断で一度はボツになりました。北朝鮮、拉致という言葉こそありませんが、それぞれの地元では既に報道されているということが理由でした。
第4節 偶然見つけた新潟事件
  そこで、全く報じられていない同じような事件があるはずだと考え、日本海沿いの警察署をリストアップし、順番に電話かけまくりました。「お宅の管内でアベックが行方不明になりましたよね」とカマをかけ聞きました。すると新潟の柏崎署で「言えない」という返事が返ってきました。言えないとは「あった」ということです。すぐに柏崎の警察へ行きました。「非公開なので一切言えない。どこの誰かも言えないし、あったかどうかも言えない」と言われました。海岸近くの家や商店をしらみ潰しに尋ねて歩きましたが、誰一人として知りませんでした。ところが、偶然が起きたのです。乗り合わせたタクシーの運転手さんに「東京から来た新聞記者です。アベックが居なくなって、その関係者を探しているのです」と言いますと、急にそのタクシーがスピードを上げて郊外へ向かい、「蓮池」という表札の家の前で止まったんです。ジャーナリストの櫻井よしこさんは、本の書評で「記者の地道な凄まじい迫力に何故か涙が出た」と書いて下さいましたが、どこにも報道されていない、全然明るみに出ていなかった新潟事件が公になったのは全くの偶然なのです。

第二章 黙殺された「スクープ」
第1節 拉致報道の第一氷河期
  新潟のケースが新たに加わって、最終的に編集幹部が紙面掲載の決断をしてくれました。1980年(昭和55年)1月7日から報道しました。7日の一面は「アベック3組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与?」との見出しで、また社会1面は「周到!誘拐の魔手」、2社面では「何語る特製ずくめの遺留品」と書いております。翌日は「ナゾ深まる連続蒸発」と福井、新潟、鹿児島のアベック蒸発が家出や心中の可能性は極めて薄いことを書きました。3日目は、77年に能登半島で起きた北朝鮮による拉致が明らかな「宇出津(うしつ)事件」を取り上げました。3日間連続の大きな報道でした。拉致とは、強制的にある場所からある場所へ移すことで誘拐の一種ですが、通常の誘拐と区別したいという思いで、この時初めて記事の中で拉致という言葉を使ったように記憶しています。
  しかし、この紙面の反響は、まったくありませんでした。当時は「北朝鮮がそんな酷いことをするはずがない、ありえない」という空気が日本社会を覆っており、北朝鮮の悪口を言おうものなら、騒ぐ人が沢山いました。そういう時代でした。他の新聞・テレビの後追い報道もありませんでした。2カ月ほどして、鹿児島選出の議員がアベック蒸発を国会で取り上げましたが、警察庁幹部は産経の記事を事実上否定しました。新聞も、テレビも報道せず、政府も警察も否定する。私の記事は「虚報」、いまでいうフェイクニュースとして黙殺されました。私は記事を書いた1980年から1988年までの9年間を「拉致報道の第一氷河期」と呼んでいます。巷で拉致が話題になることは皆無でした。
第2節 拉致報道の第二氷河期
  そして8年が経過し、1988年3月26日を迎えました。この日を「メディアが死んだ日」と自戒を込めて言っています。なぜか。参院予算委員会でアベック拉致疑惑について質疑がありました。共産党議員の質問に対し警察庁の警備局長が、アベック3組の蒸発、富山の未遂事件の概要を初めて事件として説明しました。8年前に私が記事に書いた通りでした。国家公安委員長で自治大臣の梶山静六さんは「昭和53年以来、一連のアベック行方不明事案は、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚であります」とはっきり答弁、警備局長も「そういう観点から捜査しています」と答弁しました。政府、警察が北朝鮮の国名を挙げて、日本人がさらわれている疑いがあると認めたのです。予算委員会ですから、新聞・テレビの報道各社の記者達が傍聴していましたが、この答弁がテレビニュースに流れることはありませんでした。不思議なことですが、国家公安委員長が答弁している映像はNHKにもありません。新聞はというと、産経は「北朝鮮の犯行が濃厚」というベタ記事を載せましたが、朝日、毎日、読売は一行も書いていません。重大な歴史的答弁が完全無視されたのです。異様、異常なことです。
  次に政府が公式に拉致問題でアクションを取ったのは、この国会答弁から9年後の1988年3月、初めて拉致被害者を認定した時です。実に9年間の無駄な時が流れてしまったわけです。あの時、メディアがこぞって報道し、取材合戦を始めていれば、今よりはずっと良い結果になっていただろうとの思いが拭えません。今は信じがたいことかもしれませんが、保守・革新、右・左の別なく、日本社会全体が「あの北朝鮮がそんなことをするはずがない」と思っていたのです。第一氷河期、保守の論客たちさえ拉致に言及することはなかった。1988年になり、大韓航空機爆破事件に関連してアベック蒸発が注目されたことはありましたが、一時的なもので、今度は1997年まで続く「拉致報道の第二氷河期」が来ました。

第三章 ようやく生まれた世論
第1節 横田めぐみさん拉致発覚
  1997年2月1日付で私は東京本社の社会部長へ異動を命じられましたが、その1週間程前に、ある筋から「新潟の13歳の少女がクラブ活動を終え、帰宅途中に北朝鮮に拉致された疑いがある」との横田めぐみさん拉致情報を入手しました。すぐにお父さんに会いました。滋さんは「17年前のあの記事を書いた人ですか」と驚かれました。17年前の記事が「虚報」として黙殺されたことは前述しましたが、実は一人だけ大きく反応した女性が新潟にいたんです。めぐみさんの母、早紀江さんでした。後に聞いたことですが、80年正月、私の記事を読んで「もしや、めぐみも」と、産経の新潟支局や警察へ行って問合せていたんです。滋さんも、17年前の「あの記事」を覚えていらっしゃった。
  1997年2月3日の朝刊1面で「20年前、13歳少女拉致」「北朝鮮亡命工作員証言」との見出しで、めぐみさん拉致疑惑を写真入りの実名で報道しました。当時、早紀江さんや双子の弟さんは「実名で報道なんかされたら、(めぐみさんが)殺されてしまう」と反対でした。滋さんは「本名を公開して世論に訴えるべきだ」と意見が分かれていました。私は横田家の了解を取らず独自の判断で実名報道をしましたが、ずっと、そのことが気になっていまして、今年3月にお会いした時に、お聞きしたら、早紀江さんは「当時あれだけ動かなかったものが、一つの報道を通して動き始めた。お父さんの判断が正しかったと思います」とおっしゃってくれた。ほっとしました。
  めぐみさん拉致疑惑発覚後、「家族会を作ろう」という話に進んでいきました。この時頑張ったのが、当時共産党の議員秘書をしていた兵本達吉さんです。「拉致に共産党も産経も朝日も関係ない。これは国家主権、人権侵害の重大犯罪だ」と。家族会を作って世論に訴え、国会議員に訴え、メディアに訴える。当時、拉致被害者たちを、どうやって日本に取り戻すかを考えていた唯一の人です。その兵本さんと大阪朝日放送の石高健次さんと私の3人で家族会結成を進めました。共産党、朝日放送、産経新聞―考えられない組み合わせですが、事実です。東京都心の街頭で家族たちが署名を頼んでも一人も集まらない。「拉致なんてないでしょう。何で北朝鮮の悪口を言うの」と云われる時代でした。
第2節 ようやく生まれた世論
  拉致について日本社会に世論というものが生まれたのは2002年(平成14年)春、小泉訪朝の少し前でした。神戸の有本恵子さんが語学留学中のヨーロッパで“よど号”犯の妻たちにより北朝鮮へ拉致されたことが日本の法廷で明らかになります。ここから拉致報道が全紙一斉に始まりました。
  1980年の私の初報は1997年に、横田めぐみさん拉致疑惑報道と合わせて新聞協会賞を受賞したことで、ようやく虚報からスクープへ変わりました。しかしその後も外務省高官が「拉致なんて、向こうの亡命したスパイが言っていることじゃないか」と発言して物議をかもしたこともありました。某社記者が「何の証拠もないのに勝手に騒ぎが大きくなったんですよね」と質問しているわけです。全国紙の編集局長クラスの人の中にも、まだそう考えている人たちが少なくなかった。そんな状況が2002年まで続いたのです。
第3節 40年の取材を振り返って思うこと
  一つは拉致は、突然始まったのではなく、前兆があったということです。それを見逃してきたのは日本社会です。メディアであり、政治家たちです。朝鮮戦争勃発後、北朝鮮から日本に密入国して大阪や東京で捕まった工作員は100人以上います。罪名は外国人登録法違反、出入国管理法違反で、重くても懲役1年です。執行猶予付きのケースも多く、韓国へ亡命した者もいますが、4割くらいは帰還船で北朝鮮に帰っています。つまり捕まっても痛くも痒くもないわけです。スパイ防止法などありませんので。すぐ帰してくれるわけです。必死の思いで工作船で日本海の荒海を渡って密入国するわけですが、帰りは大きな帰還船で帰れる。妙な話ですが、そうした事態を日本社会が問題にしたことは一度としてなかった。いわば無法状態を放置してきたのです。 二つ目は、日本の海の守りの貧弱さです。日本からの拉致には工作船が使われたわけですから、海の守りがしっかりしていれば拉致は防げたのです。ところが、半世紀近くの間、日本海は北朝鮮の工作船に蹂躙されていました。1948年の海上保安庁設立以来、北朝鮮の工作船を見つけた事例は21件ありますが、向こうの方が速く、全部逃げられるばかり。巡視船艇は全く歯が立ちませんでした。自転車でオートバイを追いかけるようなものだったのです。もし工作船に追いついて臨検していたら、どうだったでしょうか。万一、海上保安官が工作員に怪我をさせたら、保安官の方が罪に問われるのが日本の法律でした。1999年に起きた能登半島沖事件の時は工作船を停めましたが、乗り込まなくてよかったと思います。海上保安官には防弾チョッキすら満足になかったのです。大惨事になっていたかもしれません。政府の不作為、警察の不作為は、皆さんご存知の通りですので、ここで改めて云うまでもありません。機会があったのに報道してこなかったメディアの責任も大です。まともな国であったなら、拉致は防げた。私は、そう思います。
  さて、米朝首脳会談の2回目が間もなくおこなわれると思いますが、私は悲観的に見ています。米国のトランプ大統領にとって拉致問題の優先順位は高くありません。漸く日本は独自で首脳会談をやろうと水面下で模索していますが、被害者の親たちは、すでに80歳、90歳ですから最後のチャンスですが、非核化、ミサイルの問題もあり、2002年の小泉訪朝時より交渉は難しいと思います。もし日朝首脳交渉が実現した場合は平壌宣言が出発点です。小泉首相と金正日国防委員長がサインした正式な国と国との文書です。速やかに国交正常化交渉を再開し、日本は無償の経済協力をするといった内容ですが、もちろん金額は書いてありません。3兆円とも4兆円とも云われていますが、明らかにされていません。

おわりに
  繰り返しになります。最後に一番申し上げたいことは、拉致事件を起こした北朝鮮が“とんでもない国”であることは言うまでもありませんが、北朝鮮に甘い時代の空気の下で、拉致の前兆を見逃し、何の対策もとらず、挙句、非道な犯罪を起こさせるに至った日本社会もまた、奇妙な国であったということです。拉致事件は日本人が自分たち国や社会の“あり様(よう)”を考える、かっこうの「教材」でもある、ということです。とりわけ新聞、テレビなどのメディアで働く者は拉致事件の無様な不報(報じないこと)の歴史を忘れてはならない。強く、そう思います。

質疑応答
「質問1」

  横田めぐみさんが拉致される1カ月前、石川県警が能登半島で被疑者を拘束した。しかし土井たか子と菅直人が釈放してしまったため、警察がやる意欲をなくし、めぐみさん拉致が起こったと聞いたのですが、本当ですか。

「回答1」

  能登半島で被疑者を拘束したのは宇出津事件です。東京・三鷹市役所の警備員だった久米裕さんが工作員によって拉致されました。二人がチェックインした旅館の女将が不審に思い通報して発覚したのです。石川県警の人たちは、あの時に拉致として立件すればよかったと大変悔やんでいますが、政治家の圧力があったということは承知しておりません。検察の間違った判断だったと承知しています。この事件は朝日新聞が最初に「三鷹市役所の警備員、久米裕さんが朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作船で密出国していた事実が9日、明らかになった」と、1977年11月に記事にしています。ただし拉致ではなく密出国事件としてです。久米さんは拉致被害者ではなく、密出国者にされてしまった。産経が拉致と報じたことは言うまでもありません。


「質問2」

  1988年3月26日の予算委員会で、当時の国家公安委員長梶山清六さんが「北朝鮮の拉致の疑惑がある」と国名まで云われた。当時政府は北朝鮮に対して何か思惑があったのだろうと思うのですが教えていただけませんでしょうか。

「回答2」

  政府に特別の思惑はなかったと思います。警察サイドには、さまざまな思惑があったと思いますが。拉致報道の第一氷河期にあたる1985年に北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グヮンス)が拉致した大阪のコック原敕晁さんになりすまし、パスポートを取得して韓国に渡り捕まりました。韓国の法廷で、大阪での拉致のことが実名で細かに出ましたので日本の警察も全部検証しています。警察が「拉致は事実だ」と明確に意識したのは恐らくこの年からで、裏付け捜査の結果、1988年の梶山答弁に至ったと思われます。ただし警察も思惑外の事が起きたのです。それは折角答弁したのに報道されなかったという、笑い話のようなことです。何故ニュースで報道してくれないのだと思ったでしょう。


「質問3」

  拉致の動機について、日本語を教えるとか、戸籍の問題だとか言われましたが、朝鮮学校に通っている人は、日本語も朝鮮語もある程度できると思います。わざわざ朝鮮語を知らない人を拉致しなくてもと思うのですが教えてください。

「回答3」

  小泉訪朝時、金正日国防委員長は「拉致の動機は、一つは工作員に日本語を教えるため。もう一つは、背乗りといって工作員が拉致した日本人になりすますため」と説明しました。これが公式に明かされた動機です。私は1980年当時、「背乗り」が拉致の動機と考え、そう書きました。しかし今は「とにかく日本人をさらってくる。向こうの動機を、こちらが合理的に理詰めで考える必要はないのではないか」と考えております。黒人もいれば、タイやマレーシア、北朝鮮は世界各国の人を拉致しています。使い方は後から考えたらよいということです。あまり動機を真剣に考える必要はないと思っています。


「質問4」

  安倍総理は「拉致問題の解決は安倍内閣の最重要課題」と云っていますが、「また騙されるのではないか」と危惧しております。先生はどう思われますか。

「回答4」

  私も騙されるのではないかと心配しています。期待はしていますし、安倍さんにしかできないだろうということも事実と思います。与野党の政治家が誰一人として親身になってくれない時、議員秘書だった安倍さんが親身になって警察庁や外務省へ一緒に行ってくれた。被害者家族たちの安倍さんに対する信頼感はものすごく強い。しかし小泉さんの時と取り巻く状勢が変わっています。2014年のストックホルム合意と同じように、全員の再調査をするぐらいのところまではいくかもしれませんが、その先まではどうか、懐疑的にならざるをえません。私の主観的、悲観的な予測が大きく外れてほしいと祈りながら成り行きを見たいと思っています。


「質問5」

  30〜40年前の西ドイツで、そこに住む外国人の拉致問題が起こった時、ドイツ政府は毅然とした態度で奪還したという話を聞きましたが、本当でしょうか。

「回答5」

  中東の国で女性が4〜5人、北朝鮮へ拉致されたが、交渉で取り戻したという話は事実としてありますが、西ドイツの件は、よく知りません。


以上は、元産経新聞社会部記者・ジャーナリスト 阿部雅美氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです。



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