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武藤記念講座(講演会事業)

第1056回武藤記念講座要旨

    2019年3月9日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    公益社団法人國民會館会長   
    武藤治太氏

 『武藤山治と國民會館』  

セミナー





はじめに
  当館創設者の武藤山治は、昭和9年(1934年)3月9日、北鎌倉の自邸を出てしばらく行ったところで暴漢に襲われ、翌日10日に亡くなりました。それから85年が経ちましたが、武藤山治の生涯には三つの戦いがありました。1番目が、鐘紡の経営で40年間に亘り刻苦精励し、日本一の会社に育てあげたということです。2番目は、大正13年(1924年)から昭和5年(1930年)までの7年間、衆議院議員として國民同志会という自らの政党を率いて活躍したということです。しかしこれは必ずしも充分に自分の考えを実行することができず、志半ばで議員生活から引退します。そしてそれに代り国民の政治教育をしていこうということで、この國民會館を設立したという経過がございます。3番目が、恩師 福澤諭吉が創立しました時事新報社が昭和6年〜7年(1931年〜32年)頃経営が傾き、その経営危機を救うため経営にあたったことです。本日は彼の最後の戦いである時事新報に絡む帝人事件についてお話をさせていただきます。

第一章 帝人事件の時代背景
第1節 台湾銀行の危機
  帝人事件が起こったのは昭和8年で、武藤が死んだのが9年です。その頃の経済情勢は、大正12年(1923年)に関東大震災が起こり、それ以前に振り出された手形(震災手形)が不良債権化し、その手形を膨大に抱え込んだ市中銀行は大混乱に陥っておりました。政府・日本銀行は震災手形を再割引して銀行を救済しようとしました。予算は当初1億円を計上しておりましたが、実際に震災手形として当局に持ち込まれたのは、実に4億7千万円という大きな金額でした。震災と関係のない自己責任で処理しなければならない焦付き手形まで持ち込まれ膨張してしまったわけです。議会が政府の対策に反対しますが、最終的には政府の予算を1億円から2億円に増やし、半分を肩代わりすることで急場をしのいだのが実情でありました。このような状況の下、紙幣の発行権をもっている特殊銀行の台湾銀行は、貸し出ししていた全融資額7億円の内3億5千万円を鈴木商店に貸し出しており、これが焦げ付き倒産寸前にまで追い込まれていました。加えて昭和2年(1927年)、若槻内閣の片岡蔵相が議会で「ある有力銀行が今倒産しました」と失言し、『昭和恐慌』の引き金を引いてしまったのです。
第2節 政府・日銀による台湾銀行の救済
  それを契機として中小銀行に取り付けが起こり、鈴木商店が倒産、台湾銀行も破綻し休業に追い込まれることになります。鈴木商店は明治7年(1874年)鈴木岩次郎により設立された神戸の小さな商店でしたが、明治27年(1894年)岩次郎が死んだ後、妻のよね と番頭の金子直吉が才覚を発揮し、明治35年(1902年)には合名会社となり、台湾総督をつとめた後藤新平との親密な関係から、台湾の樟脳や砂糖の取り扱いで大成功します。その後明治の末期には、製糖、製鋼、製粉、ビール等の生産部門に進出し、日露戦争、第一次世界大戦中に貿易で大発展して、三井物産、三菱商事を凌ぐ大商社になりました。さらに急速に投機的な積極経営を進め、一大コンツェルン化して全盛期には傘下に60社にも及ぶ事業会社を抱えるようになります。しかし、昭和2年の『昭和恐慌』で倒産してしまいます。これにより当時の若槻内閣は崩壊、田中義一が組閣して、蔵相に就任した高橋是清がこの経済危機を救うために、全国に3週間の『モラトリアム』(支払猶予令)を発令、同時に大量の紙幣を市中に放出してこのピンチを救います。また台湾銀行は、政府・日銀による6億円の融資により倒産を免れることになります。
第3節 『番町会』が台湾銀行保有の帝人株を巡り暗躍
  帝人事件とは、昭和9年(1934年)に摘発された疑獄事件です。昭和63年(1988年)に起きたリクルート事件で、社長の江副氏が子会社の株を政財界の有力者に配り有罪になった事件と本質的に変わりません。昭和2年の恐慌で倒産した鈴木商店系列の帝国人造絹絲株式会社(帝人)の株式22万株や神戸製鋼所の株式は台湾銀行の担保となっておりました。当時帝人は綿、絹に代わる繊維として人絹(レーヨン)が評価され高い利益をあげており、その帝人株を巡って暗躍する連中が現れたわけです。鈴木商店の実質的な支配者であった金子直吉は、機会があれば何等かの形で復権する事を虎視眈々と狙っており、台湾銀行からの買戻しに動き出します。しかし金子は以前の力を失っており、そこに付け込んで台湾銀行から安値で株を買い取ろうとしたのが財界の世話人郷誠之助氏が主宰する「番町会」の面々でした。番町会とは、財界の大物 渋沢栄一、和田豊治が亡くなったあと、財界の世話役を継いだ日本商工会議所会頭の郷誠之助を中心に毎月郷邸に集まり、郷氏の話を聞く財界の新々気鋭のグループといわれていました。しかし内実は財界の問題に介入し、斡旋、調停で利権を獲得する者たちの集まりでした。なお郷誠之助自身は財産家で男爵の爵位を持つ人物で金銭には恬淡としており、おかしな動きを嫌っていた人物と言われております。しかしその他のメンバーには政商的な色合いが強い人がいて、昭和8年秋頃より台湾銀行の帝人株払下げの斡旋に乗り出し、これが帝人事件に発展いたします。

第二章 時事新報のキャンペーン記事『番町会を暴く』
第1節 『番町会を暴く』の連載が始まる
  台湾銀行が保有していた鈴木商店系の帝国人造絹絲(帝人)株22万株のうち11万株が政界、財界の要人達に不当に安い価格で譲渡されたという情報が、武藤山治の耳に入ってきた。かねてから政商の暗躍に問題意識を持っていた彼の正義感はこれを見逃すはずはありませんでした。具体的には、昭和9年の1月18日から3月14日まで、時事新報の紙上で『番町会を暴く』という記事を56回にわたり連載することになりました。武藤山治が直接指示して、紙上の記事を指揮したのが編集局長の森田久、記事を執筆したのは「大森山人」のペンネームを使った敏腕記者の和田日出吉でありました。一方、番町会のメンバーは、郷誠之助を中心に山叶証券社長で東京商工会議所議員の永野護と福徳生命専務で東京商工会議所議員の河合良成の2人が出色の切れ者で、言い換えれば非常に悪辣な手段を講じる人達でした。さらに番町会の正式なメンバーではありませんが斎藤内閣の文部大臣 鳩山一郎、読売新聞社長の正力松太郎の2人が力を持っていました。また郷の秘書役で斎藤内閣の商工相 中島久万吉男爵、成田鉄道副社長の後藤圀彦、国際通運社長で東京商工会議所副会頭の中野金次郎、関西に縁の深い伊藤忠商事・呉羽紡績社長の伊藤忠兵衛、大阪セメント社長・浅野セメント専務の金子喜代太、中日実業・東亜土木専務の森田茂躬、渋沢栄一の息子で昭和鋼管・富士製鋼社長の渋沢正雄、岩倉具視の孫で合同運輸専務の岩倉具光などが入っていました。また客員として、大蔵次官の黒田英雄、元大蔵大臣の三土忠造、日清紡社長宮島清次郎など、政財界の有力者や実業家が名前を連ねていました。
第2節 時事新報がこの問題を取り上げた理由
  昭和9年(1934年)1月17日の時事新報で武藤は「台湾銀行は特殊銀行で普通の銀行ではない。そして政府・日銀から6億円の資金援助を得て再生した銀行である。担保にとっていた株は少しでも高く売らなければならない。それなのに非常に安い金額で払い下げられたと聞いている。これは非常におかしいことではないか。その売り方についても、ある特定の人達に分けて、公明さ、透明さに欠けておる」と言っております。一般にこうした株式を売る場合は、証券会社を通して公売ということになりますが、これを特殊な方法で、ある一部の人にだけ利益が上がるような形で売買したことについては問題であると指摘しているわけです。また記事の中では、帝人株式の取得の他、帝人の乗っ取りや神戸製鋼所の株の取得、東京証券取引所の乗っ取りなども『番町会』がやってきたこととして書かれております。
第3節 帝人株の取得と乗っ取りのあらまし
  鈴木商店の倒産時に台湾銀行の担保となった帝人株式は22万株です。彼らが狙いをつけたのは、その半分の11万株です。これを取得するためにいろいろな手立てを講じます。台湾銀行の主務官庁は大蔵省ですから、まず元大蔵大臣の三土忠造に頼むことになりますが、警察官僚の正力松太郎が適任と逃げられ、正力が黒田大蔵次官を動かし、払い下げを進めたと言われております。しかし実際には鳩山一郎文部大臣が口をきいたとも言われております。そして帝人株の割り当ては、河合良成が21,500株、東武鉄道の根津嘉一郎が23,000株、永野護以下保険会社の引受団が合計65,500株で、色んな人にばら撒かれています。河合と永野の二人が暗躍し11万株を山分けしたと思われます。またその価格は非常に安い価格で買ったと言われておりますが、昭和2年時点での帝人株は40円ぐらいでしたが、この当時は120円を超えて150円に近付いていたという状況下で、払い下げ価格は126円でありました。将来増資するということを念頭にこの取引をやっているわけで、昭和8年6月26日の臨時総会において増資が決まります。旧株3株に対して新株2株を割り当て、払込み金額は12.5円でした。そうしますと当時のレーヨンブームにも乗り親株190円、新株に90円の値がつくわけです。彼らは親株の利益64円(190-126=64)と新株の利益52円((90-12.5)×2/3)で、結果的に彼らは1株につき116円(64+52)の利益で、総額では1,276万円という非常に大きな利益を得ることになります。この時の大阪城の再建設費が50万円の時代ですからいかに大きな利益をあげたかがわかると思います。更に配当や手数料にも小細工もしたわけです。最終的には約1,300万円の利益が番町会の面々に入ったと思われます。反対に台湾銀行はその損失を受けたことになるわけです。そしてこのような莫大な利益の一部が政治資金として鳩山文部大臣に流れたという噂が流れるようになります。また番町会一味は株式の巨利だけではなく、帝人そのものの乗っ取りも画策します。契約で2名の役員を出すことになっており、河合と永野が就任することになっていました。しかし役員の中から大いに反対するものが出て、結局永野は取締役、河合は監査役になります。しかしその現実に嫌気がさした経営陣から辞任するものが多数出たため、台湾銀行から社長が送り込まれ、番町会による帝人の乗っ取りが果たされたこととなります。それが武藤としては我慢がならなかったのだと思います。そして1月から『番町会を暴く』という記事の連載が始まります。この連載された記事を見て国会でも追及する議員が出てきます。さらに東京検察局も動き出します。台湾銀行と河合良成との間に取り交わされた株式の譲渡契約が国会に提出され大騒ぎになります。4月になりこの事件に絡む関係者の召喚、事情聴取が始まります。中島商工大臣、黒田大蔵次官、大久保銀行局長、その他大蔵省あるいは台湾銀行の要人がそれぞれ召喚されるということになります。三土鉄道大臣も取り調べを受けます。河合良成と永野護、その他については、単に収賄だけではなくて、背任罪ということで起訴されるという結果になります。
第4節神戸製鋼所株式の取得
  帝人株式と同様、台湾銀行が鈴木商店から担保として抑えていた神戸製鋼所の株式も22万株ありました。これも最初に目をつけたのは鈴木商店の金子直吉でした。彼は個人として神戸製鋼所の株式を6万株所有しており、払下げにより10万株を取得すれば会社の実権を握れると考えます。かつての部下であり当時番町会の客員であった長崎英造と住田正一に台湾銀行を口説くよう依頼、両人は三土元蔵相、黒田大蔵次官を使い株式の肩代わりに成功します。しかし、その22万株は金子直吉やその他鈴木系の所には渡りませんでした。この時帝人株で味を占めていた番町会の河合、永野、島田の諸氏も神鋼株取得に乗り出しており、長崎、住田陣営と芝居を打つわけです。河合、永野、島田は帝人株問題で世間から糾弾されていたので、表面には長崎、住田が出るという作戦に出ました。株の割り振りは河合、永野、島田が行い、長崎、住田は神戸製鋼所の社長、常務の椅子を狙うと言うことです。こうして長崎、住田を含む番町会系の連中の策謀が続く中、突然山一証券の太田山一専務が神鋼全株27万株を1株55円で手数料なしで、引き取りたいと申し出ます。番町会系では1株41円と台銀の手数料1株1円で進めていたため大混乱に陥ります。そして最終的には、河合良成30,000株、永野護31,000株、長崎英造34,000株、根津嘉一郎30,000株、原邦造5,000株、住田正一15,000株、山一證券35,000株、第一生命40,000株で手打ちが行われました。しかし長崎、住田両人の役員就任と、永野から12,000株を譲り受けた大阪の岸本吉左衛門が、条件として神戸製鋼の営業権を要求したことについては「神戸製鋼所の株式を他人に譲渡する時はかならず事前に相談すること」という台湾銀行と神戸製鋼所との覚書に違反しているとして神鋼の役員、従業員が猛烈に反発したため実現しませんでした。概して神鋼の株式肩代わりは株数が多く、そのはめ込み先にも大変苦労し、価格的にも帝人株程のメリットがなかったということです。

第三章 記事の反響とその後
第1節 記事の社会への影響
  さて『番町会を暴く』の記事は、社会に大きなセンセーションを引き起こしました。とかく評判の悪い番町会に対する批判に痛快を叫ぶ者がある一方で、番町会関係者や帝人関係者、あるいは交詢社の一部からも批判の声がありました。そして連載記事が回を重ねるにつれ、時事新報社や神戸の武藤の自宅には脅迫めいた手紙来るだけではなく、大森山人の命が狙われているという噂が飛び交うようになりました。剛直な和田日出吉(大森山人)といえども生身の人間でありますから、片方では恐怖を感じても決して不思議ではありません。こんなある日、和田は武藤に顔をこわばらせて「大森山人が襲撃されて死ぬような事があったらどうしますか」と尋ねます。武藤は「それは新聞人として国家社会の為に戦死するのである。大変名誉なことではないか」と和田を激励すると、この言葉に和田は感激し、益々論陣を張っていくということでした。また武藤自身も危険が迫っていることを薄々感じていたようです。「護衛をつけたらどうか」という声も多くの友人から寄せられましたし、兄弟分の小林一三からは防弾チョッキが贈られてきました。そして、国会においては、ついに時事新報の記事が取り上げられ、政府は帝人株の売買契約書の提出を国会に求められることになります。黒田蔵次官は拒否いたしますが、最後には「台湾銀行と河合良成との間に取り交わされた契約書」が査問委員会に提出され、河合等のブローカーの悪質さが白日の下にさらされることになります。また東京地方検察局も内偵に着手し、黒田検事を主任とする検事陣が結成され、3月6日森田、和田がひそかに検事局に召喚されました。検事局から帰り、森田、和田が詳しく武藤に情勢を報告します。武藤は「そのようなことだろう」と一言あった後、突然「時にこの間から考えていたのだが、もうこの記事はやめよう」とあっさり言うわけです。訝しげに両人が反対すると「戦いは引き際が肝腎だ。それにもうあの記事の使命は済んだ。あの記事で犯罪人を作るというのは僕の本意ではない。ただ悪人がいることを世に知らしめればよかったのだ」と静かに言ったわけです。和田が「何時からお止めになりますか」と聞くと「今の分が終わったころにしよう」「あと5回分用意しています。3月12日まであります」「そうかそれでは、それで結ぶことにしよう」「僕は今から声明文を書く」と机に向かって記事を停止する声明文を書きだしたということです。それから3日目の朝、武藤は暴漢に襲われ結局これが遺稿となるわけです。
第2節 武藤山治の暗殺の謎
  3月9日の朝9時15分、武藤はいつものように北鎌倉台山の自邸を、書生の青木茂を連れて北鎌倉駅に向かいました。玄関から道に出たところで、たまたま隣家の野澤屋の重役 殿木氏と一緒になり坂を下って行くと、坂の途中で武藤に一人の男が近づき話かけてきました。殿木氏は気をきかせてその場を離れます。この男が福島新吉です。中野正剛の紹介で、東京の火葬場の問題で武藤宅を訪れ「人口が増加して火葬が増える中、民間の火葬業者が高い料金で暴利をむさぼっている。東京市は、市営の火葬場をつくるべきである」と言うので、武藤は現状を調査し、時事新報の『思うまま』でこの福島の意見を書いた経過があります。福島からは感謝する礼状が届き、その書状は今も残っています。しかしその後、福島は生活苦から「武藤が自分の考えを横取りし、何の見返りもない」と金銭をせびるようになります。さて彼等は本道から横道にそれ、麦畑に差し掛かったところで、突然福島が武藤に向けてピストルを発射しました。庇おうとした書生の青木は即死、武藤は5発の弾丸を受けます。そして福島はその場で2発の弾丸を撃ち自殺するわけです。また武藤は即死を免れ鎌倉の大庭病院に運ばれましたが、翌3月10日不帰の人となります。何故武藤が暗殺されたかは本人、書生、犯人のいずれもが死亡したため、真相は今もって不明ということになっております。しかしながら「番町会」の追求に渾身の努力を重ねていた折だけに、「番町会」の河合良成が警察に喚問され、背後を洗われました。しかし何者が犯人を教唆し、武藤を襲撃させたかは判明しませんでした。既に85年前のことです。私の家に保管されている興信所の調査記録『鎌倉事件の調査書類』の一部を明らかにしますと「河合は決行の2週間前に福島と面談して相談を受けている。福島は心情を吐露して、河合に決行をほのめかした」と書いてあります。そして河合は利口で番町会のメンバーと相談して、福島とのやりとりを警視庁に密告しています。一方、福島が河合と面談後、犯行の決意を固めていったことは確かです。彼が決行の少し前、知人に「満州に職を得た」「処遇は可なりよい」と言っています。もう一つ、武藤が狙撃された場所の家主の榊厚州は、犯行が起こる6日前に引っ越してきたばかりです。前の借家の家賃を10ケ月間滞納していたにもかかわらず、その滞納家賃を100円札で支払おうとするなど、急に金回りが良くなります。転居した家の家賃は、前の家賃の倍以上であったということです。榊はかって帝国ホテルに勤務しており、武藤とは顔見知りでした。そして彼のもとには若い同居人がいましたが警察は全く掴んでいませんでした。そのことから福島以外の第三者が榊の家の塀の影から、武藤あるいは福島を撃ったという第三者説も否定できないのであります。福島は自ら2発の弾丸を自分に撃ち込んだといわれていますが、「福島の死体のそばには、彼の銃以外の薬莢が1発残っていた」という時事新報のスクープも謎を呼ぶところです。武藤の死で最も利益をうるものが誰であったかは明らかです。
第3節 「帝人事件」の本格的捜査が始まる
  武藤山治の戦いは終わりました。その最後の戦いの場であった時事新報は、彼が死去した翌日『番町会を暴く』において「我等は社会悪のため。武藤氏の屍を越えて最後まで戦うものである。断じて武藤氏に犬死させないのである」と書き、13日には「暗殺の裏には番町会の動きがあった」「社会悪と闘う新聞人としての使命を呼び戻された時事新報社は、常に眼を光らせ、社会正義のために戦いを間断なく続けていく覚悟である」と56回にわたる連載を締め括ります。この記事が引き金になり、4月に入ると関係者の本格的な捜査が始まり、関係者が続々逮捕され起訴されます。いわゆる帝人疑獄、帝人事件です。そして昭和10年(1935年)5月から東京地方裁判所において公判が始まりました。公判に至る過程で相当の被告が自白しましたが、裁判が始まるとほとんどの被告が自白を翻し、本件はむしろ正当なる商行為、商取引と主張して裁判は長引き、公判は260回にもおよぶことになります。その間当初から検事として訴訟を指揮した経済通の黒田検事が死去したりします。昭和12年(1937年)12月、意外にも全員無罪の判決が下されるわけです。検事側は検事控訴を考えますが、当時の近衛内閣は「中国との戦争が拡大している中で裁判どころではない」という圧力を司法にかけたため、検事控訴は断念され、被告全員の無罪が確定したのであります。帝人事件はこのように残念な結果となりましたが、「犯罪人をつくるというのは僕の本意ではない。唯世の中にこのような悪人がいる事を知らせればよかったのだ」という武藤の目的は充分に達成されたと思います。その後鳩山一郎文部大臣は帝人株仲介で辞職、三土鉄道相は偽証罪で起訴そして辞任、斎藤内閣は総辞職することになります。

おわりに
  最後に一つだけふれておきたいことがある。事件の首謀者の一人、河合良成についてであります。本裁判は最近のリクルートと性質は全く同じで現在なら有罪である。河合は、戦後吉田内閣の厚生大臣を務め、さらに20数年にわたり小松製作所の社長を務め、日の当たる場所を歩き続けた。それにもかかわらず自著『帝人事件30年目の証言』などで、ことあるごとに自己弁護を繰り返しているのは醜い限りである。それに引き換え、有罪となった江副浩正氏は平成21年(2009年)に『リクルート事件、江副浩正の真実』上梓しているが、河合良成と違い、言い訳や弁明などは一切していない。

質疑応答
「質問1」

  河合良成の経歴を教えて欲しい。

「回答1」

  河合良成は東大を出て、当時の農商務省に入ります。課長まで勤め実業界に転じます。最初は東京証券取引所の理事に天下り、その後、福徳生命の役員などについておりますが、時々金銭的トラブルを起こしております。小松製作所に入り中興の祖と呼ばれるようになりますが、その内容は判りません。ただ政治的な動きをする人物です。元々小松製作所は吉田茂の兄の竹内さんが作られた会社です。鉱山の会社で、鉱物を運搬するための部門があり、それが独立した会社です。吉田茂と河合良成は非常に近い関係にありました。吉田茂が重宝して使っており、そういう関係で小松製作所に入ったのではないかと思います。


以上は、公益社団法人國民會館会長 武藤治太氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです。



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