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武藤記念講座(講演会事業)

第1058回武藤記念講座要旨

    2019年5月25日(土)
    於大阪「武藤記念ホール」
    京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所教授   
    所 功氏

 『画期的な皇位継承と新元号』  

セミナー





第一章 平成の天皇陛下の御譲位
第1節 70歳代からの健康不安
  多くの人は70歳代に入れば、段々と気力も知力も体力も低下していくというのが私の実感です。この度上皇になられました平成の天皇は、85歳という御高齢です。一見お元気ですけれども、すでに平成15年(2003年)70歳になられる年に前立腺ガンの全摘手術を受けられ、その頃から健康に不安を覚えられる状態でした。抗ガン剤治療をされながら、毎朝皇后さまと散歩やジョギングをして健康保持に努めてこられました。天皇のお務めは心身ともに健康でないと充分なことが出来ませんから、いつも健康に留意しておられます。ところが、平成22年(2010年)には心臓の冠動脈に異常が見つかり、手術するタイミングなどを慎重に検討中、翌23年(2011年)3月11日、東日本大震災が起こりました。そうなりますと、自分のことは構っておれず、ほぼ7週間に亘るお出ましを全力で行われました。当時の実情を川島裕侍従長が『随行記』(文藝春秋)に詳しく書かれています。それを拝見しますと、天皇陛下は震災直後から現地を訪ねて亡くなった方また苦しんでいる方を慰め、励ましたいと思われますが、かえって迷惑をかけてはならないと考え直された。そこでせめてビデオメッセージを届けたいと思い立たれ、3月16日に放映されるまでのいきさつとか、計画停電の中で、陛下が率先して節電に努められ、侍従が寒いから暖房を入れましょうかと申し上げたら、寒ければ重ね着すればいいじゃないかと言われ、電気を消してロウソクの元で様々な打合せをされた、ということなどが書かれております。
  また7週間にわたるお出ましでは、早朝に御所を出て、現地へ自衛隊のジェット機とヘリコプターを乗り継いで行かれ、更にマイクロバスで移動しながら被災地や避難所を訪問されてから、また同じコースを帰られる。普通の若い人でも厳しいスケジュールを、ずっとやり遂げられた。その上で平成24年(2012年)2月、心臓手術を受けられますが、これは東日本大震災の1周年追悼式に出たいためだと思います。その思し召しにより日程を決められたそうです。陛下はまさに命懸けで難局を乗り越えて来られました。しかしその陛下ご自身が、いつまでも元気で務めを果たせるわけではないから、元気なうちに皇太子殿下に後を譲りたいと考えられ、決心をされたようであります。ただ政府はなかなか動けないという状態で何年も経ってしまいました。
第2節 「皇室典範特例法」による御譲位
  やがて平成28年(2016年)7月13日、NHKが第一報を出し、ついで8月8日、陛下御自身が「象徴としての務めに関するお言葉」を出されました。これを聞いた大多数の国民は、なるほど象徴天皇はそうしてこられたのか、それをいつまでも続けられるのは難しいことだと理解し、若い後継者に皇位を譲りたいと仰せられることに共感できました。
  世論調査をみても9割の人々が理解と共感を示しています。こうなりますと、政府は具体的な検討に入らざるをえなくなり、まもなく有識者会議を立ち上げ、その結論を得て法律を作ることになったわけです。ところが驚いたことに、皇室を最も崇敬しているとみられていた著名人の中に、天皇が譲位されるとは何事かと厳しい反対意見を述べた人も複数おられました。現行の憲法も、皇室典範も、天皇が最後まで天皇であられることが前提となっており、年を取ったから辞めると言うのは怪しからんと仰るのです。しかし私は意見を求められましたので「陛下のご意向は、自分が務めてきた役割を重要と考えられるからこそ、それを十分出来なくなる前に立派に育った皇太子がいるのだから、そこに譲りたいということで、御意向を尊重して、それを実現できる方法を考えるのが、政府、国会の責任だ」と申しました。その際昭和21年(1946年)に現在の皇室典範案を起草された当時宮内省の高尾亮一文書課長が、明治の皇室典範と同様に終身在位を決めるけれども、もし天皇が退位をしたいと仰せになったら、充分に検討したうえで『特例法』を作って認めたらよい、と言っていた確かな記録を参考にすべきだということも申し上げました。その特例とは、かつて想定されなかった高齢の天皇にのみ退位(譲位)を認めるということです。結果、皇室典範の本文に終身在位の原則を残したまま、「高齢譲位」を認める『特例法』を作るという方向に進み、国会では衆参正副議長が、予め全政党・全会派の意見を聞いて上手く擦り合わせて、政府に要望し、それに沿った法案を政府が作って国会に上程しましたから、衆参両院では出席者全員が賛成してスムーズに成立しました。これは誠に良かったと思っております。皇室に関することは、今後ともより多くの方々の賛成を得て、一歩でも二歩でも前へ進めるというやり方が望ましいと思われます。
  こうして「皇室典範の特例法」ができ、終身在位を残したままご高齢という特別の理由による「退位」を認めることになりました。これは今回限りだといわれていますが、新例は将来も高齢譲位を可能にする先例を開いたことになると思います。そして4月30日限りで平成の天皇が退かれ、5月1日から皇太子殿下が新天皇陛下になられたことはご承知の通りです。
  この御代替りが実に明るく晴れやかに行われました。30年余り前、私どもは昭和の終わりと平成の始めを、辛い、悲しい思いで過ごしました。昭和天皇は80歳半ばでガンが見つかり、やがて大量吐血をされて87歳で亡くなりました。ご当人は勿論皇室の方々は大変だったと思います。また国民も本当に辛い、悲しい思いを致しました。それを踏まえて、同じことが起きないよう、元気なうちに皇位を譲りたいと仰せられた上皇陛下の思いやりを、今我々は享受しているわけです。そのお蔭で、こんなに明るく晴れやかな御代替わりを迎えることが出来たわけです。

第二章 新元号「令和」の誕生
第1節 高齢譲位による代始改元
  この機会に元号が「平成」から「令和」に改められました。元号は古来「年号」と申しますが、古代の中国で始まり日本へ伝わって西暦645年に「大化」という日本年号が創建され、西暦701年に「大宝」という公式の年号が定められてから今日に至るまで1300年以上も続いております。今回が248番目の元号になります。
  これが今も続いているのは法制度が整っていたからです。戦後の被占領下で元号の法的根拠はいったんなくなりました。しかし昭和54年(1979年)に『元号法』という法律が出来、それから10年後の昭和64年に「平成」の改元ができたわけです。その法律は簡潔でして、先ず「元号は政令で定める」ということです。もう一つの原則が「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」ということです。これによって昭和64年(1989年)の1月7日に昭和天皇が亡くなりますと直ちに、平成改元ができたのです。今から30年程前のことです。それにしましても今回は、一昨年『皇室典範特例法』ができてから、改元準備が着々と進められ、見事に成果を出すに至りました。高齢譲位による皇位継承つまり天皇が85歳という高齢で譲位されたことに伴う新天皇の代始改元です。従来の皇位は必ずしも親から子へと直系で継承されてきたとは限りませんが、江戸後期に閑院宮家出身の光格天皇以来、仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇からは平成の天皇と、直系の男子で承け継がれて来ました。『元号法』が決まった昭和54年以降、皇位継承に伴い政令で改元することになりましたから、政府としては万一に、何があっても次の元号が決められるよう準備をしてきました。最近の報道によれば、この3月段階で100くらいの案が官邸に用意されていたそうです。その中から40年前に決められた「改元の手続き」によって、より良い案が絞られそして4月1日の段階で諮られた案は6つくらいと云われております。しかも3月半ばに案の差し替えがあり、最終的に4月1日、有識者懇談会の9名と衆参両院の正副議長4名にも6案を示し、ほぼ全員の賛成をえた。最終案に全閣僚が賛同して、政令で「令和」に決定され公布されるに至ったわけです
第2節 典拠は「万葉集」の漢文序
  この新元号「令和」は、初めて国書を出典として選ばれました。しかもそれは日本最古の和歌集「万葉集」です。ただそれは和歌そのものでなく、三十二名の文人官僚たちが詠んだ和歌集に大伴旅人の作った漢文の序文があり、そこから「令」と「和」の二文字を取り出したのです。これは本当に意外なことで驚きましたが、同時に感心しています。その序文を書下し文で示せば、次のとおりです。
【大宰帥大伴卿の宅の宴にて梅花三十二首、并びに序】
  「天平二年(730)正月十三日に、師(そち)の老(おきな)(大宰府長官の大伴旅人、六十五歳)の宅(いえ)に萃(あつ)まりて宴会を申(ひら)く。時は初春(旧暦一月)の令月(好き月)にして、気淑(よ)く(空気は美しく)風和ぎ(風は穏かで)、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き(梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き)、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す(蘭は香袋のように芳しい)。しかのみならず、曙(あさけ)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)(薄い絹のような雲)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕(ゆうべ)の岫(くき)(山のくぼみ)に霧結び、鳥は穀(うすもの)(ちりめん)に封(こ)めらえて林に迷(まど)ふ。庭には新蝶舞い、空には故雁帰る。ここに天を蓋とし、地を坐とし、膝を促け盃觴を飛ばす(酒杯をくみかわす)。もし翰苑(文章)にあらずば、何を以ちてか情を(土へんの)盧べん。(唐では)詩(詩経)に落梅の篇(梅の実の落ちる詩)を紀す。古と今とそれ何ぞ異ならん。宜しく園(庭)の梅を賦して、聊かに短歌を成すべし(和歌を詠もう)」

  この序文を見ますと、北九州の大宰府にある帥(長官)の公邸において好季節の初春を迎え美しく芳しい梅が咲いていたので宴会を開いたから、またみんなでお祝いして、和歌を詠もうという場面です。そのころ大宰府長官は大伴旅人、また筑前守(今の福岡副県知事)が山上憶良です。そういう三十二名の文人官僚たちが各々に和歌を詠み、それの頭に漢文の序文をつけたのです。その中から「令」と「和」という二文字がとり出されたのです。また「令和」には俗用の例がないということで決定しました。元号は政府が決めるわけですが、憲法第7条第1項で「法律・政令・条約は天皇が公布する」と書いてあります。天皇が署名し、天皇御璽という印鑑を押さなければならないわけです。そのために官邸から政令案を持った車が皇居の中に入り、その後、菅官房長官が発表したわけです。改元がスムーズになされたことは実に良かったと思います。
  この「令和」は「れいわ」(reiwa)と読みます。令という字は呉音で「りょう」とも読みますが、漢音では「れい」です。また「和」は漢音なら「か」(くわ)ですが、呉音で「わ」とよむことが多い。漢音と呉音を併せて「れいわ」と読んだわけです。また当初政府が英訳を示しませんでしたので、イギリスBBCなどが「order and harmony」と訳したそうです。確かに令というのは、命令・指令のような用例もありますが、ここでは令息とか令嬢という用例にみる、むしろ好いとか美しいという意味で使われています。そこで間もなく外務省は、「beautiful and harmony」という訳を発表しました。
  また元号文字の考案者は、従来から公表されないことになっていましたが今回は誰が考えた案であるかすぐに分かってしまいました。「万葉集」といえば中西進先生だろうとみられ、問いつめられてご本人も自分だと認められました。他にどんな案があったかもすべて明らかになっています。中国の古典に基づくものが三案ありましたし、日本の「古事記」と「日本書記」に基づくものが二案ありました。しかし本命は、安倍総理の思い入れが強かった「令和」になったといわれています。
第3節 元号は日本独立のシンボル
  近頃西暦を使うことが多くなっています。西暦による年の表示は多くの国で使っていますし、引き算すればすぐ何年前と分かる物差しとしても便利です。しかし、よく考えてみますと、これはキリスト生誕紀元です。それを日本の公式紀元とすることは難しい。実は昭和25年(1950年)、日本は連合国軍GHQ占領下でありましたが、講和独立して国際社会へ復帰するために、元号を廃止して西暦を採用しよう、という声を参議院の有力な議員があげました。そこで参議院の事務局から占領軍に相談したところ、戦後の憲法は政教分離を厳しく定めているから、西暦を公式紀元にすれば政教分離に反すると言われる恐れがあると親切に注意してくれたことがGHQの文章に残っています。それでも参議院の推進派はあきらめず、二十数人の参考人を招き、その大半に西暦一本化論を述べさせています。
  ところが、東京大学国史学科の坂本太郎主任教授は「日本の歴史上、元号は非常に大事な文化である。日本人は中国の元号をそのまま使うのでなく、独自の元号をたてて今日に至っている。これは元号が日本独立のシンボルにほかならないことを物語っている。日本は今占領下に置かれているが、独立国家の面目を示すためにも元号を残すべきだ」と堂々主張されました。正に正論です。もう一人、神社本庁の鷹司信輔統理は「神社で祝詞をキリスト紀元で読むわけにいかない」と訴えておられます。そうこうしている間に、参議院議員で推進派重鎮のT氏が最高裁判所長官に転じて、この議論はうやむやに終わってしまいました。
第4節元号は文化、西暦は文明
  この西暦と元号を大まかに対比してみますと、西暦は世界に通用する「文明」です。それに対して今や日本にしかない元号は、まさに日本の「文化」であり、独立のシンボルです。我々は文化と文明の両方をもっているわけです。
文化はローカルなものです。英語でカルチャーと言いますが、その語源は土地を耕すことで、土地に根差したものが文化です。それはやがて心を耕すということで精神文化を含むようになります。それに対して文明は、シビルとかシティとか言いますように、都民が都会で何処にいても通用するグローバルなものです。我々は土地に根差したローカルなものと、世界に広がるグローバルなものとの両方をもってなければなりません。伝統文化である元号と世界に通用する西暦という文明を、上手に使いこなし、使い分けることに大きな意味があります。
  今日本は大きな課題を抱え困難な時代に突入しております。かつては中国や欧米にお手本を求めて、それに追いつけ追い越そうとしてきました。しかしもはや何処にもお手本がありません。これからはヒントを過去に求めて、歴史の中から知恵を探り出すことが必要だと思います。実は日本の先人達も様々な難しい局面を乗り越えて来ました。そういう知恵を振り返れば、必ずや先をも見通すヒントが見つかると思います。そんな意味でも、伝統文化であり独立のシンボルでもある元号を大事にして、出来る限り元号を使う。その一方で必要に応じて西暦も使うということが望ましいのではないでしょうか。
  実は既に平成6年(1994年)3月、政府は「公文書の年表記に関する規則」を決定し全国に通達しています。それによれば「原則として元号を用いるものとする。ただし西暦による表記を適当と認める場合は西暦を併記するものとする」と定めています。また、平成から令和への移行中に地方自治体では元号(西暦)か、西暦(元号)の形で両方を併記すると定めたところが少なくありません(長野県・栃木県など)スタンダードは元号(西暦)ですが、人によっては元号だけ、西暦だけでも構わないくらいの選択肢を残しているのが実情です。私は日本人として、元号という文化をしっかりと踏まえながら、西暦という文明も必要に応じて併記するということでありたいと思います。

第三章 平成と令和の天皇陛下
第1節 「御在位三十年記念式典」のおことば
  今年の2月24日、政府が「天皇陛下御在位三十周年」の記念式典を国立劇場で行いました。その時の「お言葉」に重要なことが述べられていますので、あらためて紹介します。
  • イ.平成の30年間、島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められています。
  • ロ.憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。
  •   現行憲法の第一条で、天皇は日本国の象徴、日本国民統合の象徴と定められています。
    日本国の象徴というのは、日本国の代表者いわば元首です。元首に相当する立場ですべき国事行為が、憲法に十二項目あげてあります。その一つとして内閣総理大臣を指名するのは国会ですけども、任命するのは天皇です。あるいは最高裁長官は政府が指名しますけれども、天皇が任命します。総理大臣は、国会の与党賛成者だけでなく、反対した人までも含め全国民の総理であるために、国家・国民に代わって天皇から任命される必要があるわけです。あるいは法律や政令・条約を公布するとか、外国の大使・公使を接受するなども、天皇の国事行為です。
      ところが「日本国民統合の象徴」とは何かということは、憲法のどこにも書いてありません。しかし、昭和天皇も平成の天皇も、国事行為だけでなく、様々な務めを公的にしてこられました。それを受けて平成の天皇も、国民統合の象徴として全国各地へ出かけられ、時に海外までお出でになって、国民統合の象徴たる公的行為をやってこられました。昭和時代には、「全国植樹祭」と「国民体育大会」が二大行幸として、各県持ち回りで行われてきました。すると平成の天皇は、その二つと共に、皇太子時代から始められた「全国豊かな海づくり大会」を即位後も続けて出られるようになりましたので、平成時代は三大行幸として全国を回られるようになりました。在位30年間で全国を二回り半されたそうです。特に沖縄は11回もお出ましがありました。そのお出ましは更に海外まで及びました。天皇のお出ましは相手国からの招請が原則ですから、フィリピンやベトナムなどへのお出ましは、慰霊のためですが、向こうから元首クラスが来て、それからお出かけになる形をとられました。これらがいわゆる公的行為と言われるものであります。
      さらに宮中祭祀といわれる祭祀行為があります。これも毎年大祭・小祭が二十数回あり、いずれも丁寧に繰り返しやってこられました。それら全てを実行することにより具体的な象徴天皇像を築いてこられたわけです。それが今後とも更に模索を重ねられ、果てしなく遠い道のりを、次の者が補い続けて欲しいと言っておられます。これは大変重要なことでして、過去からあるものを受け継ぎながら、それを見直し、補い続ける必要があります。
  • ハ..天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、組織の同意と支持のもと、初めて行いえたものであり、私がこれまでの果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことの出来るこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお蔭でした。
  •   ここで陛下は、日本国民の水準「民度」が高いとみなされ、それを支えとして象徴たる務めを、誇りをもって出来た、と言っておられるのです。国民が勤勉で正直に生きている、そんな国民に応えなければならないという思いをもって、悲しみ苦しむ人々に寄り添い、励ましてこられました。これは実に尊い事です。天皇と国民の関係は、いわゆる上下ではなく横並びでもない、まさに一体なのです。国民は何を求めているかを考えられ、その思いに応えようとしてこられたのです。
  • ニ.平成が始まってから間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

          ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ

      平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。しかし、この頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
  •   この歌は平成2年(1990年)、平成の即位礼・大嘗祭の終わった頃に「平成」という題で3種の歌を詠んでおられるうちの1首です。確かに「平成」元号は、国の内にも外にも平和が達成されるよう、皆んなで協力し、励まし助けあっていこうと決意している。しかも、多くの国民が「皇室と共に平和な日本をつくっていく」という理念を共有したとみておられ、言われてみれば確かにその通りだと思います。
    第2節 新天皇陛下の「おことば」と学徳
      最後に、この度126代の天皇となられた今上陛下について申し上げます。まず、この5月1日「剣璽等承継の儀」に続いて行われた「即位後朝見の儀」で示された「おことば」は、簡潔ですが、重要の事が述べられています。
      日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお努めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
      ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。

      今の新天皇陛下にとって最大のお手本はご両親であり、とりわけ父君です。その上皇陛下が「強い御心」で積極的に象徴天皇の役割を一つ一つ真剣に務めて来られました。その真摯なお姿に、敬意と感謝を込めながら、それを受け継いでいきますと誓っておられます。
      また「歴代の天皇のなさりように心を留め、自己の研鑽に励む」と言っておられます。今上陛下は昭和35年(1960年)生まれですが、中学生の終わり頃から歴代天皇のご事績を勉強してこられました。当時の皇太子・皇太子妃は、将来天皇になる浩宮様に、学習院でも普通の教育しか行われていないことを心配され、東宮御所に東大や学習院の先生を招かれ、歴代天皇のご事績を詳しく学べるようにされたのです。その時はご両親も毎回同席しておられます。例えば、鎌倉末期の花園天皇が記された「太子を誡むるの書」にはやがて天皇となるものはひたすら学問をして徳を積み、人々のお手本となれるようにならねばならないとあり、これをしっかり学んでおられます。あるいは平安初期の嵯峨天皇は、今から1200年前(818年)干魃のため飢饉が全国に広がり、また東日本に大地震が起きて、多くの人々が苦しんでいることを聞かれ、太政官や国司らに対策を指示されると共に、空海の教えを受けて、みずから「般若心経」を写され、人々の平安を祈られた。その後も何名かの天皇が、人々の困った時に写経をされたというようなことを学ばれ、こういうことを自分も心掛けていきたいと述べておられます。「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」と仰せられたのは、そういうことなのです。今上陛下のおことばには「自己の研鑚に励む」ということがしばしば出てきますが、その意味を私どもも大切にしたいと思います。
      陛下は歴史家を目指され、学習院の文学部で日本史を専攻されました。その後イギリスのオックスフォード大学へ留学されました。その研究テーマは水運史です。もともとは今上陛下はお小さいころに、東宮御所の中庭で古い道標を見つけて道に興味をもたれた。また小学生時代にお母様と『奥の細道』を音読されて、ますます道に関心を深められた。その後、道は陸上だけでなく海上にもありますから、学習院大学の卒業論文と修士論文では、室町時代の神戸港の出入り年間記録に基づく瀬戸内海水運史の研究をまとめ、学術雑誌に発表しておられます。その後イギリスのオックスフォード大学で18世紀におけるテムズ川水運史の研究をされました。更にそのイギリス留学中、ヨーロッパの各地を回って、王室間交流もされ、将来天皇になるためのご準備をしてこられました。
      さらに学習院時代から山登りを始められました。天皇のお務めをされるにも大事なことは足腰が強いということです。天皇は立ち仕事が多いのです。毎年春と秋には各々、約三千人が叙勲の栄に浴しますが、それからの人々は各関係省庁ごとにまとまって皇居へ参上し、陛下からは慰労の言葉を賜るのですが、それを春も秋も1週間されます。そういうためにも足腰が強くなければいけないことを意識され、山登りをしてこられました。陛下は立って皆さんを励まされるお仕事が多いものですから、いつも健康に留意しておられます。
      その一方で、水運史の研究を進めながら広く水問題が大事だということを強く意識されるようになりました。昭和60年(1985年)25歳でネパールを訪問され、山の中腹で僅かしか出ない水を汲み家族を支えている(そのため学校にも行けない)姿をご覧になり、水問題の解決が新世紀の大きな課題だと認識され、真剣に取り組まれるようになられた。それを知った国連の事務総長から、「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁を委嘱され、毎年総会などで記念講演をしてこられました。最近それをまとめた『水運史から世界の水へ』という講演記録集がNHK出版から刊行されました。実に優れた内容です。プロの歴史家として先行文献と基本史料をよく見ておられ、また関係の実地調査をよくやっておられます。その上で、難しい事をわかりやすく述べておられます。特に日本は国土の三分の二以上が山地であり川の多い国ですから多くの恩恵にあずかる反面、水害にも苦しみながらいろいろ工夫してそれを乗り越えてきました。そういう史実と解決した実績もありますから、それが世界の水問題に役立つかもしれないというヒントを提言しておられます。水運史の研究から世界の水問題への展望を開いておられるのです。ご自身で早くから将来天皇になることを意識され、専門の研究も歴代天皇の事績予習もしてこられました。またそれを通して先人の知恵を、これからの日本や世界に活かそうと水問題にも取組んでおられます。こういう事を長年努力してこられましたので、これからいよいよ天皇としてさらに重要なお役割を発揮していかれるであろうと、ご期待申し上げております。

    むすびにかえて
      このたび私どもは「平成」から「令和」の時代を迎えました。いま日本は幸い平和であり、一見平穏であります。しかし、これがいつまでそうだとは限りません。むしろ段々と困難な状況になりそうですが、決して悲観する必要はありません。先人達が困難を乗り越えてきた史実と英知に学び、国民一体となって認識を共有しながら、協力し、努力してきたという実績があるからです。従って、これからも国民統合の象徴たる天皇陛下が何を願い何をしておられるのかを考えながら、政府も国会も国民も各々の立場にあって出来ることは何なのかを工夫しながら協力し努力すれば解決出来ない問題はない、と言っても良いだろうと思います。そんなことを念じながら、これからお互いみんなで心を通わせて先へ進みたいと思います。

    質疑応答
    「質問1」

      加地伸行氏が新元号「令和」の出典は「論語」にあると月刊誌に記述され、 中西進氏は誤謬であると指摘されていますが、先生の見解をお聞かせください。

    「回答1」

      日本人のすぐれた漢詩文は、ほとんど漢籍の名表現を典拠としています。「日本書紀」収載の「十七条憲法」第一条の「和を以て貴しと為す」という名文句も、「礼記」や「論語」にみえます。それを自家薬籠中のものとして、リーダーの心得を冒頭に掲げたのは聖徳太子の英知です。「令」「和」の語は、加地先生も指摘されるとおり、「儀礼」や「周礼」にもみえますが、それを承けた「文選」などを学んだ旅人が、この序文に使ったということが大事と思います。中国・欧米を手本として積極的に学んで日本的な文化・文明を新たに作り上げてきた才能に感心しています。


    「質問2」

      「令和」の「令」には、良い麗しいの他に、命令、戒めと言った意味もありますが、真意はどこにありますか。

    「回答2」

      その通りです。漢字は表意文字ですが、殷代からいろんな意味で使われ、多義性があります。令は規範に則った在り方を意味し、法令・訓令・指令・命令などの熟語も広く使われています。加地先生が「礼記」月令の「徳を布き、令を和らげ」をあげられたのも法令の意味ですが、これは「和令」であって「令和」ではありません。


    「質問3」

      今日のテーマから外れますが、いわゆるA級戦犯が合祀されて以降、昭和天皇は靖国神社を参拝されなくなり、平成の天皇も参拝されませんでした。 令和に入ってもこの状態は続くのでしょうか。

    「回答3」

      今年は靖国神社の創立百五十年にあたります。50年前(昭和44年)の百年祭には天皇皇后両陛下のお出ましがありましたから、今年の150年祭にも そうなってほしいと思いますが、おそらく極めて難しい。何故なら、総理大臣も最高裁長官も衆参議長も正式参拝していないからです。ところが昭和26年(1951年)サンフランシスコ講和条約が締結されると、その秋(まだ占領下でも)例大祭に三権の長が昇殿参拝しています。そして翌昭和27年(1952年)5月、昭和天皇と香淳皇后のご参拝が実現したのです。戦後の天皇は、憲法のもと内閣の助言と承認により行動されます。従って、まずやるべきは、総理大臣・最高裁長官・衆参議長が揃って堂々と昇殿参拝することです。その上で、両陛下にお出ましをお願いしてほしいと思います。


    以上は、京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所教授 所 功氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです。



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