ホーム > 武藤記念講座(講演会事業)大阪市立大学名誉教授
    毛利正守氏>『万葉集の魅力・再発見』

武藤記念講座(講演会事業)

第1062回武藤記念講座要旨

    2019年8月17日(土)
    於大阪「國民會館 武藤記念ホール」
    大阪市立大学名誉教授
    毛利 正守氏
 『万葉集の魅力・再発見』


セミナー





はじめに
  『万葉集』は現存最古、飛鳥・奈良時代の歌集です。全二十巻、歌の数は4,516首、制作年代は舒明天皇(第34代)から淳仁天皇(第47代)まで約130年間の歌が多く収まっています。それ以前の古い歌として仁徳天皇(第16代)の皇后である 磐之媛の歌や雄略天皇(第21代)の歌もあります。『万葉集』は天皇・皇族の歌を始め、官職のある人、それ以外の庶民、しかも名前が伝わらない一般の人の歌、あるいは防人の歌、東歌と非常に広い範囲の人の歌を一堂に集め出来上がった素晴らしい歌集であります

第一章 万葉集の由来
第1節 書名の変遷
  『万葉集』の書名は時代により言い方が違っております。現在は“マンヨウシュウ”あるいは“マンニョウシュウ”と言われています。ところが奈良時代は“キャキュキョ”“シャシュショ”という拗音(ようおん)がありませんでした。また“ン”という発音もありませんでしたので、奈良時代から平安時代初期にかけては“マニエフシフ”と言われました。その後“ン”という言い方が入ってきて、“マンエフシフ”と言うようになります。現在ハ行と言いますと“ハヒフへホ”と喉のところで調音され口を開いて発音しますが、奈良時代の“ハ”行は“ファ、フィ、フゥ”と口を閉じて開く発音で、“マニエフシフ”と発音をしていたと考えられています。そして平安時代から鎌倉時代になりますと“マンエウシウ”という形となり、室町時代に拗音ができて“マンヨウシュウ”あるいは“マンニョウシュウ”が一般的になったと思います。そのように書名自体の発音が変化したということがあります
第2節 名義の四つの説
  『万葉集』の名前にどのような意味を持たせたのかということについては幾つかの説があります。一つは「万の言の葉」説です。言葉を“言の葉”と沢山の言葉を集めたという意味で使うことがあります。ところが言葉に連体助詞“の”を入れ“言の葉”と言うようになったのは平安朝以降のことです。『万葉集』が出来たのは奈良時代ですから、最近この説を支持する人はいなくなりました。二番目は「万の世(代)」説です。葉(よ)は、中国の古典などで、世(代)の中の“よ”という意味で使うことがあります。万世(代)までも伝わって欲しいという気持ちで名付けたのではないかという説です。なおこの説は「万の代までも伝われと祝って名付けたもの」とする説と「天子・皇居の万世を祝って名付けたもの」という説があります。しかし『万葉集』には一般庶民の歌もあり「万代まで伝わって欲しい」という説が有力です。三番目は、木の葉のように非常に沢山と言う意味で、多くの歌を集めた歌集として葉を使っているのではないかという説、四番目は、葉は一葉、二葉と紙を数えたりするので、歌を記した紙が多いということでつけたのではないかという説もあります。今は「ずっと後の世までも伝わって欲しいという願いで名付けた」という説が一般的に採られています
第3節 巻数と歌数
  巻数は全二十巻、歌数は4,516首です。当時印刷がありませんでしたので、後の人に伝えようとしますと、一字一字写して書いたわけです。現在その写本が幾つか残っています。また江戸時代になりますと「木版本」といって、木の版で何枚も刷るということが起こって来ました。ところで歌数には2首ほど違う数え方があります。八代集を集め『国歌大観』を編纂した時、『万葉集』の最後は4516番だということになりましたが、『国歌大観』も2回編纂されており、1回目の時には2首多く数えていました。歌の横に「一(いつ)に曰く、ある本に曰く」と、同じような歌を次の所に書いているのですが、それを数えるかどうかで数が違っているのです。しかし現在は4,516首で大体定まってきています。

第二章 万葉集の研究
第1節 編纂と成立の過程
  『万葉集』は130年間の歌ですので、最初から最後まで一人で編纂することはできません。「どんな過程で最終的にこうなったのか」という研究があります。最後の歌が大伴家持の歌ですから、それ以降に編纂されたことは間違いありません。故小島憲之先生(大阪市大)は「初めから一冊の本になったのではない。原万葉集という公的性格を持つ部分と、後の巻十七、十八、十九、二十の四巻が大伴家持の歌日誌、さらにその他のものが全部合わさって完成に近い形のものが、家持によって編纂されたのであろう。また万葉集が世の中に広く読まれるようになったのは平安初期の平城天皇(第51代)の時で、勅撰的な性格を帯びながら拡がっていったのであろう」と述べています。故伊藤博先生(筑波大)は『万葉集の構造と成立』という本で「万葉集は、まず持統天皇(第41代)の時、一巻本が纏まったのではないか。その後古事記が成立した和銅5年(712年)元明天皇(第43代)の時に二巻本として纏まり、その後の元正天皇(第44代)によって大きく十五巻本として纏まってきた。その後十五巻本の付録に20余首を増補して巻十六と独立させ、最後に家持の歌日誌歌群を二部四巻として合わせ、「延暦万葉」で二十巻本となったと考え、最終的に平城天皇(第51代)の時に流布した」と書いております。すなわち大伴家持が藤原種継暗殺事件の罪を許され旧位に復した後、怨霊の鎮魂のために万葉集を叡覧、認証して広まって行ったのではないかということです。家持はクーデターを起こそうとした種継側の味方であるとして罪になった時、家財道具と一緒に万葉集も没収され、その後罪が解かれ万葉集が世に知られ多くの人がこれを読むようになってきたということであります。編纂してすぐに世に広まったということではないということです
第2節 構成の内容
  歌の内容の見出しで「部立」というものがあります。これは大きく「雑歌」、「相聞」、「挽歌」の三つに分かれます。巻一は全部雑歌です。巻二は相聞と挽歌です。相聞とは、相手に問いかけることですが多くは恋の歌です。挽歌は亡くなった人を悼む歌です。相聞、挽歌以外で、季節の歌や旅に出た時の歌等々を雑歌と名付けています。また配列も年代順になっている巻と年代順ではなく部立で分類しているものがあります。例えば巻十は類歌で分類していますが、『万葉集』の初めのほうは年代順です。巻一は雄略天皇(第21代)の歌が冒頭歌です。その後時代が下り舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武、持統、文武天皇と続いていくわけです。舒明天皇(第34代)から歌が大変多くなっております。巻二の最初は仁徳天皇(第16代)の皇后である磐之媛の歌です。その後天智天皇(第38代)、持統天皇(第41代)の歌が入っており、古い歌が年代順に並べてあります。巻十一では雑歌、相聞、挽歌の下位分類である正述心緒、旋頭歌、寄物陳思、問答歌という分類がしてあります。正述心緒とは短歌全体が自らの心を歌っているというものです。それに対して寄物陳思はものを歌いながら、その心を一緒に絡めて歌っているものです。比喩は例えの歌という分類の仕方でまとまっています。巻十一では柿本人麻呂の歌集から採った歌が収まっています。現在、人麻呂歌集は残っておりませんが、万葉集に人麻呂歌集の歌であると記されています。
第3節 時代区分
  万葉集を四期に分けて見る見方があります。古い順にどんな歌人がいるのか見ていきますと、第一期は壬申の乱平定(672年)までの間の歌です。壬申の乱といえば、天智天皇(第38代)の崩御後、天皇のお子さんである大友皇子と弟の大海人皇子が皇位を巡って戦い、大海人皇子が勝利し天武天皇(第40代)になったという内乱のことで、それまでを第一期として区分しております。万葉集で名前が分かるもっとも古いのは、仁徳天皇の皇后である磐之媛の歌です。巻二の最初に載っております。その次が雄略天皇の歌です。巻一の1番の歌で問答歌です。また聖徳太子が一首だけ万葉集に残しています。「家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ」という歌で、家におれば妻の手を枕にして一緒にあろうに、旅先で倒れているこの旅人よ ああ、という内容です。また額田王は「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」と詠んでいます。あかねいろの紫草の野を行き、御料地の野行く時、番人は見ていないかしら、あなたが袖を振るのをという歌です。その他著名な歌人名として軽太子、軽太郎女、有間皇子、天智天皇などが詠っております。第二期は、奈良遷都(710年)までです。古事記ができたのがそれより2年後であります。有名な歌人をあげますと、壬申の乱で大友皇子に勝利を収めた天武天皇です。それから持統天皇と続きます。そして大津皇子や多くの姫、皇子など感動的な歌が収まっています。さらに柿本人麻呂や人麻呂歌集に収められた人の歌も収まっています。それから志貴皇子です。「石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも」と詠っていますが、岩の上をほとばしる滝の上の蕨が萌え出でる春になったことだなあ、という歌です。第三期は、天平5年(733年)までの間です。山上憶良、家持のお父さんである大伴旅人、山部赤人、満誓沙弥(まんぜいさみ)、高橋虫麻呂などの非常によく知られた歌が収まっています。最後の第四期は天平宝字3年(759年)の正月までです。『万葉集』最後の歌が大伴家持の歌であります。「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事」と、新しい年の初め、初春の今日降る雪のように、良いことも沢山積もれと、良い年であるようにと願っている歌です。その他有名な歌人としては、笠女郎、大伴坂上大嬢といった人達がおります。また『万葉集』には、今の関東から北の方の東国の人達が兵士として九州まで行った防人の歌や東国の歌、名前のよくわからない庶民の歌々があるわけです。古代飛鳥から奈良時代を生きた人々の生の声が、短歌または長歌で4,516首の中に含まれて記録されているわけです。恋の歌、旅の歌、自然を愛でる歌等々のあらゆるジャンルの歌が詠われており、その基本は人間への熱い思い、眼差しといったものを読み取ることができます。
第4節 音韻と音声
  奈良時代には、現在の五十音図(あいうえお)だけでは発音できない音が13ありました。例えば「卑弥呼」の“ひ”という喉頭音は、“フィ”と発音しました。さらにそれ以前は唇を閉じてパッと開く破裂音で“ピ”と発音していました。この音は平安時代に一旦なくなりますが、中世に入り復活して現在まで生きているわけです。奈良時代以前の「卑弥呼」は“ピミケ”と発音していたわけです。“ピ”は、は行の“ひ”ではなく、パ行の“ピ”です。“ミ”は現在と同じですが、“コ”は、“ケ”と“コ”の間に近いような発音です。ドイツ語やハンガリー語にあるウムラウト(・・)をつける発音だったということです。実は「キヒミ、ケヘメ、コソトノモヨロ」には、現在と同じ発音とウムラウト(・・)を付けるといった発音との二種類があったわけです。イの段「キヒミ」、エの段「ケヘメ」、オの段「コソトノモヨロ」と3つの段に二通りの発音があったということが分かっています。それを発見したのが橋本進吉氏です。奈良時代に、現在では発音できない「キヒミ、ケヘメ、コソトノモヨロ」という13の発音があることを発見し、「上代特殊仮名遣い」と名付けたわけです。甲類と乙類とに分け、現在と同じ発音の時は甲類に分類される文字で書いている。乙類はローマ字でウムラウト(・・)を付ける書き方であって現在は発音しないという、こういった二種類の発音が存在したのです。例えば「君・秋・時・聞く」の“キ”は、「岐・伎・吉・棄・危」という甲類の字で書き、現在と同じ発音です。それに対して「霧・岸・月」の“き”は「紀・記・忌・幾・奇」という乙類の字を書き、現在では発音しない音であります。万葉集、古事記、日本書紀で書き分けをする時に甲類の方の“キ”はカタカナで記すことが多く、現在発音しない乙類の方は多く平仮名で記すことにしています。「今日・異し」の“ケ”は甲類。「竹・酒」の“け”は乙類です。「空・袖・磯」の“ソ”は甲類。「底・苑・背く」の“そ”は乙類ということになります。現在よく使う言葉も当時は発音が違っていました。「人来たり」の“キ”と「木、城」の“き”とは発音が違っています。「日曜日、霊魂」の“ヒ”は現在と同じ発音ですが、「火」の方はウムラウト(・・)のついた発音です。また「神」という語源を考える時、本居宣長は「神様は人間より上の方にいる存在なので、神と上とは同源であろう」という説を出しました。ところが上代特殊仮名遣いが発見され「上」と「神」の発音が違うことがわかり、宣長説は間違いであろうという考えが出てきたということがあります。
第5節 表記と語法
  意味を持った漢字で書いているものが「訓字・表意文字」です。「やま」や「うみ」などが意味を持った訓字であります。その書き方は奈良時代からずっと用いられています。
  一つの言葉を一字で表したものが「われきみあきつきさる」とか「はるふゆにし」とかがあり、二字以上をもって記したものが「年魚あゆ芽木はぎ白水郎あま丸雪あられ未通女をとめ」のごとくあります。また一字で書けるものを二字以上にしたものとして「神祗かみ京師みやこ古昔いにしえ」もあります。さらに中国で使っている漢語をそのまま日本語にもとりいれたものとして「餓鬼がき法師ほうし布施ふせ檀越だにをち」等があります。それに対して現在の平仮名あるいはカタカナは、意味を捨てて音だけを表す「表音文字」です。『万葉集』などにも漢字に意味をもたせない音仮名と訓仮名があり、音仮名としては、一字一音節の「」や「」等があり、一字二音節の二合仮名である「なむねむ」などもあります。訓仮名には、一字一音としての「」や「」などがあり、一字二音節の「つるかも」があります。訓仮名の「つるかも」は名詞(鳥としての)の意味はなく、何々してしまったものだなあと「助動詞(ツル)+助詞(カモ)」などとして使われているものであります。また言葉遊びとしての「戯書」があります。「二二」、「八十一くく」など掛け算として読ませる数の遊びや「山上復有山」、山の上にまた山ありと書いて「出(いで)」と読ませる文字の戯れがあります。さらに擬声語によるもので、歌をうたった時に言葉をかける神楽声ささや、息が詰まるように切ないことや心が晴れないこと表わす「馬聲蜂音いぶ(セシ)」(形容詞の「いぶせし」)があります。当時馬が鳴く声を「イイーン」と聴いていたようで、馬の声をイと読み、蜂や虫が飛ぶのは「ブンブン」というので「蜂音」に「ブ」の読みをあてているのです。牛の鳴き声は当時「牛鳴」と読んでいました。『万葉集』では巻五、十四、十五、十七、十八、二十の6巻は音仮名主体で書いており、その他の14巻は訓字主体で書いております。また宣命書が1首(巻十九、4264)だけあります。これは助詞、助動詞の付属語を小さい字で書いており、現在の神社の祝詞と同じ書き方です。次に語法として「ミ語法」と「ク語法」があります。「ク語法」は現在でも残っており、「誰々が曰く」と言ったりしますが、奈良時代からありました。「ミ語法」とは形容詞語幹にミが付いて理由を表す語法です。上に助詞のヲがくる場合があります。「うつせみの 命乎惜美いのちをおしみ<いのちがおしいので> 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む」、「春の野に すみれ摘みにと 来しわれそ 野乎奈都可之美のをなつかしみ<野がなつかしいので> 一夜寝にける」などの歌は、美(ミ)が理由を表しています。

第三章 万葉集の歌
第1節 天皇家の系図
  欽明天皇(第29代)の4人のお子様が天皇になられました。敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)、崇峻天皇(第32代)、推古天皇(第33代)です。聖徳太子は用明天皇のお子さんで、叔母さんの推古天皇の摂政として政務をとりました。そうして舒明天皇(34代)の時代から淳仁天皇(第47代)までの間の歌が大変多く収められています。なお元号が出来上がるのは孝徳天皇(第36代)の時です。最初が「大化」で「令和」に至るまで126あります。それ以前は十干と十二支を併せて年号にしていました。日本書紀などは年号を天皇の干支で記しています。舒明天皇(第34代)元年が己丑で629年のことです。その後「大化」となります。また当時は一人の天皇で二つあるいは三つの元号がありました。例えば孝徳天皇の時「真っ白な雉が飛んで来た。これは珍しいことで後に良い事があるだろう」ということで年号を「大化」から「白雉」に変えたと言われています。奈良時代の大和北部の地図を見ますと南の方に藤原京があります。ここで都を開かれたのが持統天皇(第41代)、文武天皇(第42代)、元明天皇(第43代)です。そうして710年に元明天皇は北の方の平城京に移ります。その2年後の712年に古事記が出来るわけです。そうして元明天皇のあと元正天皇(第44代)、聖武天皇(第45代)の途中までの都がここであります。
第2節 有名な歌
  万葉集の有名な人の歌を見てみます。まず山上憶良の歌です。万葉集の巻3,337番の歌です。山上憶良臣、宴を罷る歌一首「憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ」と、自らの名前を詠んでいるのは『万葉集』中、憶良だけであります。それで“憶良ら”と自分を低めた言い方をしています。歌の内容は、憶良めはもうお暇します。子が泣いておりましょう。おそらく子の母も私を待っていることでしょうからと宴会を早々に退出しようとする時の歌です。当時憶良は70歳を過ぎていまして、小さな子供はいないわけですが、おそらく宴会で、他の若い人やあるいは用事のある人が都合で帰りたいと思っていても、なかなかそれを言い出せない中で、憶良は少し戯れた歌をこのようにうたうことで「それでは私も失礼いたします」と言えるような雰囲気を作った、そういう歌なのかもしれません。次は家持のお父さん、太宰の帥の旅人の歌です。太宰帥大伴卿、酒を賛むる歌「あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る」と詠っています。ああみっともないな、偉そうにして酒を飲まない人を良く見たら、猿に似ているかなあ、という内容です。酒を飲んだら赤くなって猿に似ているかと思うのですが、ここでは酒を飲まない人を良く見たら小賢しい猿に似ているかなあと詠っています。次に沙弥満宣(さみまんぜい)の歌です。「世の中を 何に喩へむ 朝開き 漕ぎ去にし船の 跡なきごとし」と、世の中を一体何に例えたらよかろう、朝港を漕ぎ出したら、船の跡がないようなものだという歌であります。この歌は、船が出た後、渦をまいてほどなく消えてしまう光景を見ることによって、歌った人の世の無常をうたった歌と言ってよいでしょう。
第3節 「令和」の典拠
  万葉集の巻五の「梅花の歌32首併せて序」に「令和」がでてまいります。この序は、大伴旅人が書いたと考えられます。天平2年(西暦730年)正月13日、新暦でいいますと2月ですが、太宰の帥 大伴旅人の邸宅に集まって宴会を開いた時のことです。「時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ」と、一月初旬は良い月であって大気も良く風も和らいでいる。その「令」と「和」を取ったということであります。序文の後のほうでもこの宴会でこのように美しい自然の中で梅花をテーマとして詠うことが記されています。815番から32首の梅花の歌は万葉仮名で書いてあります。元号が「令和」に決まった時、テレビ、ラジオの解説者が「歌は万葉仮名で書いてあるので、そこからは採らず、序文が漢文で書いてあるので、そこから採りました」と説明していましたが、万葉集の歌からも採れるのです。音仮名主体表記の巻以外は、序文と同じように訓字で書いてあり、歌から元号を採ることもできます。しかし今回は序文から採ったということです。中国でも「令」「和」という漢字があり、最初は中国から入ってきました。その漢字から日本人が「ひらがな」や「カタカナ」を作ったわけです。万葉集の序文あるいは日本書紀などの漢文で書いているところを見ますと、中国の古典から引用したり、あるいはそれに似た言葉を用いたりしています。この「令」と「和」も中国晋朝の『蘭亭集』の漢詩には「風和」という語句があります。日本読みをすれば「風和らぐ」というものです。また『文選』の巻十五の帰田賦には「仲秋の令月、時和らぐ」と「令月」と「時和」が出てまいります。しかし今回は中国にも似た言葉はありますが、日本の書物『万葉集』から採ったということです。なお32首には素晴らしい歌があります。大伴旅人は奈良に住んでいたのですが、太宰府の長官として九州福岡へ来たわけです。その時来たのは奥様と、まだ13、4才の子供である家持と3人です。ところが間もなく奥さんを亡くします。その時の落ち込みは非常に大きいものがありました。その旅人の気持ちを歌に表したのが山上憶良でした。孤立する旅人の思いをこの梅花の歌で詠んだわけです。「春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ」と、「春が来ると真っ先に咲く梅の花を一人で眺めながら、春の長い一日を過ごすのだろうか」と妻を失って間もない旅人への気遣いを「一人で眺める」と詠っています。その他の歌も、本当にこの場を和ませてくれる歌が詠まれています。
  先に申しましたように、新元号「令和」はこの万葉集の「梅花の歌三十二首」の序文からとられているのであり、また序文は三十二首の歌があってこその序文であります。三十二首の梅花の和歌は、美しい梅の花を愛で、うまい酒を酌み交わし、大いに梅見の宴を楽しもうというのであります。この宴に集まった官人たちの身分はまちまちであって、それぞれの参加者は宴を主催する旅人との対人関係や自分をとりまく席次に気を遣いながらも、自分の歌の才をここぞとばかりに歌い上げています。素晴らしい和歌の技量を競うことのできるみやびな風流人ぞろいであり、これら三十二首の歌からは繊細な中にもおおらかさをもった万葉人が織りなす倭(やまと)の和歌の本源を見届けることができると言ってよいでしょう。

質疑応答
「質問1」

  和歌は日本民族の独創的なものなんでしょうか。

「回答1」

  古事記、日本書紀に万葉集より前の歌がありますが、それを見ますと「5・7・5・7・7」の定型になっていません。万葉集の中でも古い歌は不定形のものがあり、次第に定型化していきます。中国では五言あるいは七言といった漢詩がありますが、日本語訳にすると長くなります。しかしそういう影響を受けながら大和言葉で5や7に整ってきたということです。


「質問2」

  万葉集は読みにくいイメージがあるのですが。

「回答2」

  万葉集の原本は漢字ばかりなので読みにくいかもしれませんが、最近はルビを付けた読みやすいテキストが出ております。私も『新校注万葉集』や『万葉事始』という本を書いておりますので参考になさってください。


以上は、大阪市立大学教授 毛利正守氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです。



お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ