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    楊 海英氏氏 『中国によるモンゴル人ジェノサイドについて−過去・現在 』

武藤記念講座(講演会事業)

第1075回武藤記念講座要旨

    2020年11月7日(土)
    於大阪「國民會館 武藤記念ホール」
    静岡大学教授・文化人類学者
    楊 海英氏
 『中国によるモンゴル人ジェノサイドについて−過去・現在』


セミナー





はじめに
  元横綱の朝青龍はモンゴル男の典型的な性格です。調子に乗りやすく叩かれると反発し挑戦する民族です。白鵬や鶴竜も心の中は朝青龍と同じです。ところで今年、久しぶりに日本の新聞で内モンゴルの民族問題が取り上げられました。習近平さんがモンゴル語禁止の政策を出したため、それに抗議して東京で約12百人のモンゴル人がデモに参加、外国人のデモとして戦後最大規模だったと報道されました。

第一章 モンゴル人の分布
第1節 モンゴル人は全世界で一千万人
  モンゴル人はモンゴル国に3百万人が住んでいます。北はロシア、南は中国に隣接する東アジア北部の内陸国で、朝青龍の故郷です。私の故郷は中国の内モンゴル自治区でモンゴル人は約5百万人住んでいますが、それに対し中国人(漢人)は約3千万人います。1949年以降、中国人が増えました。内モンゴルはかつて日本の植民地の一部でしたが、1945年に日本が撤退した後権力の空白の時期を経て、1949年に中華人民共和国となり、中国人入植者が急激に増加しました。モンゴル国の北側はブリヤート共和国です。世界で最も深い淡水湖であるバイカル湖の東です。今はロシア連邦で、約30万人のモンゴル人が住んでいます。ブリヤート・モンゴルと自称していましたが、ロシアはモンゴルが大きくなると脅威となるため、モンゴル語を抹消しブリヤートと名乗らせました。しかし今はモンゴル語が復活し、コミュ二ケーションが取れるようになりました。またブリヤートはシベリアの南部に位置していますので、1911年以降、日本軍の駐屯地でした。そのため日本語の文献や日本軍が残した遺跡が今も残っています。西のモスクワの南側にはカルムイク共和国があります。約3百年以上前、中央アジアや新疆ウイグル自治区から西へ移動したモンゴル人です。内モンゴルやモンゴル国と同じチベット仏教を信仰するヨーロッパ唯一の仏教国です。カルムイク共和国もロシア連邦の共和国の一つです。さらに新疆ウイグル自治区にもモンゴル人地域があり、二つの自治州と一つの自治県があります。また青海省にもモンゴル人が住んでいます。併せますとモンゴル人は全世界で一千万人くらいになります。
第2節 「内モンゴル」は何処にあるのか
  私は便宜的に「内(ウチ又はナイ)モンゴル」と表現しますが、モンゴル人は「南モンゴル」と呼びます。万里の長城は北京のすぐ北から西の甘粛省の嘉峪関(カヨクカン)まで続きますが、万里の長城の北側は全部モンゴルです。二千年前から明王朝に至るまでの中国の王朝が断続的に作り上げた境界線が万里の長城で、中国人からすると万里の長城の北側は違う人々の世界でした。生業も人種も違うという意識で作られた境界線です。古代の中国人は万里の長城を造る時に調査研究したらしく、万里の長城の北側と南側では霜の降りる時期が見事に違います。万里の長城は山を利用して造っており、南側は農業に適していますが北側は遊牧しかできません。しかし近代に入ると内モンゴルの川や湖の近隣地域や北側の満州が一大穀倉地帯になりました。これは日露戦争以降に日本の開拓民が進出し、寒冷地用米や作物を持ち込んだのです。そして多数の漢人農民の進出を招くこととなりました。なお万里の長城は中国人がモンゴルを恐れて造ったというのは俗説です。実際は中国人が不法に国外へ密行するのを防ぐためです。万里の長城の北、内モンゴル側は子供でも簡単に越えられ、騎馬遊牧民を防ぐのには何の役にも立ちません。一方南の中国側は急斜面を利用するように険しく造っています。どう見ても南側の人間が北へ逃げるのを防ぐためのものです。当時からモンゴルは自由で豊かでした。遊牧民は肉と乳製品を食べ、モンゴル高原と中央ユーラシアの川の近隣では小麦が作られ、穀物も手に入ります。また数多くの果物がありました。中国の北の方は貧乏で、黄河は毎年氾濫し、作物が安定的に収穫できませんでした。また農耕技術も著しく遅れていました。中国がウイグル人を百万人単位で強制収容施設に入れ、新疆ウイグル自治区を手放さないのは、新疆ウイグル自治区が非常に良質の土壌で多くの種類の果物と穀類が取れるからです。また東から西へ技術が移動してきましたので農耕技術も発展していました。中国は今も水牛一頭に鍬という風景で、2千年前と変わりません。
第3節 元王朝はモンゴル帝国の一部
  モンゴル高原は自由で豊かでした。モンゴルやその前の突厥、匈奴は、人種は異なりますが皆自由の世界です。中国のような独裁体制ではありません。中国はモンゴル人が支配した元朝、満洲人が支配した清朝、鮮卑拓跋系の唐王朝以外は全て独裁体制です。今習近平さんは先祖返りしているだけです。ところで13世紀の元朝というのは、チンギス・ハーンが作ったモンゴル帝国の一部です。朝鮮半島から黒海の東、西、北まで全部がモンゴル帝国でした。チンギス・ハーンの4人の息子達がそれぞれ支配しており、元朝はモンゴル帝国の四分の一で、一番東の方です。今中国人が「我が国の固有の領土」と言いますが、その根拠は元朝です。しかし元朝はモンゴル帝国の地方政権です。魯迅は「元朝は中国の一番優れた王朝と思い込んでいたが、よく調べてみると、実は中国人はモンゴル人の奴隷だった」と素直に書いています。14世紀末、元朝が滅び中国人の明王朝が成立しますが、これは今と同じような独裁政権です。今中国は世界中に孔子学院を作っていますが、孔子や孟子は「政治家は謙虚になれ。政治家よりも、皇帝よりも、民が大事だ」と書いていますが、明の皇帝はそれを改竄しました。改竄することでは習近平さんの先輩です。17世紀には満州人の清朝が成立します。今中国人は清朝の領土を継承しようとして、昔から領土だと言っています。

第二章 内モンゴルの近現代
第1節 存在しなかった「内モンゴル」と「外モンゴル」
  1912年1月1日に中華民国が成立しますが、その数日前にモンゴルは清朝から独立しています。中国人は「モンゴルは我が国の領土だ」と言っていますが、違います。清朝の皇帝は満洲人で、満洲人とモンゴル人は同盟関係を結んでいましたが、清朝が崩壊したので、同盟関係を解消し独立しました。清朝の後、中華民国ができたので、モンゴルは中国人のものというのは、国際法上根拠がないと認識しています。また「内モンゴル」「外モンゴル」という言い方もありませんでした。約百年前、中国の知識人達が「ゴビ砂漠の南側が内、ゴビ砂漠の外側が外蒙古」と言うようになり、内(ナイ)、外(ガイ)というイメージが定着し政治的な概念となってしまいました。モンゴル人はモンゴル高原の間にゴビ砂漠があり、その南と北で風土が違うことは解っていましたので、それまでは「南モンゴル」「北モンゴル」と言っていました。内、外という言い方は百年前後の歴史しかありませんが、それによりモンゴルが分断され、あたかも内蒙古、内モンゴルが中国の一部で、外モンゴル、外蒙古はよそ者というイメージが作られました。内モンゴル、外モンゴルという表現は、モンゴルを分断するための言い方です。1911年に北モンゴルが独立しますが、この時南モンゴルも一緒に独立しようとしました。ところが南には多くの漢人軍閥が入っていました。例えば、漢人軍閥の一人である張作霖は、漢人の利益を守ろうとしてモンゴル人を弾圧し、満州を牛耳ることになります。満蒙と表現するように、満州の3分の1あるいは半分近くがモンゴル人の地域です。かつての満洲国の興安地域です。モンゴル人が神聖視する大興安嶺という山が名前の由来です。そうした地域は当然北モンゴルと一緒に独立しようとしましたが、漢人軍閥が軍隊を握っていて独立できませんでした。今この時代のことを、モンゴル国や内モンゴルの知識人、政治家は「植民地時代」と言います。なお当時、日本は国家の明確な態度や政策を取りませんでした。関西は孫文を支援し清朝を打倒しようとしましたし、長野の川島浪速は清朝側の満州人とモンゴル人側を支援しました。そして1925年にモンゴル人は民族主義の政党「内モンゴル人民革命党」を作ります。内モンゴルを独立させようとする政党で、党員のほとんどが日本の陸軍士官学校に留学していた人達です。
第2節 正しかった満洲国のモンゴル政策
  やがて1931年に満洲事変が起こり、翌年には満洲国ができますが、日本が満州事変をうまく動かせたのは、彼らモンゴル人の協力があったからです。1945年に日本が草原から撤退しますと、日本統治時代の満洲国のモンゴル人の役人あるいは蒙疆政権の役人が復活し、中国からの独立に動きます。北東が満洲国、真ん中が蒙疆で、チンギス・ハーン末裔の徳王がいたモンゴル人の独立国、西は中国共産党あるいは中華民国の勢力下にあった地域です。1945年まで大体三つの勢力でした。満洲国の1/3はモンゴル人が遊牧をしていた地域で農耕に向いていません。万里の長城の北側は年間降水量が100〜300ミリで、一旦草を取り、耕してしまうと次の年から絶対砂漠となります。今年民族問題が起こりましたが、そのきっかけは漢人農民が草原に来て、野生の山菜や行者ニンニクなどを根こそぎ掘り起こして持って行ったため、それを見たモンゴル人が腹を立てたからです。ところが満洲国は、モンゴル人は遊牧生活を、漢人は農耕をさせるという棲み分け政策をとったので非常に良い関係が作れました。五族協和は非常によい政策で満洲国のモンゴル政策は正しかったわけです。もう一つ満洲国が非常に力を入れていたのが教育です。日本の植民地には特徴があり、どこに行っても学校を作ります。例えば江南総省は1941年に国民小学校から大学まで335の学校がありました。満洲建国大学、満洲医科大学は内地の大学より競争率が高く、興安陸軍軍官学校も非常に人気がありました。また女学校や蒙古軍幼年学校も作りました。私はそれを調査して『日本陸軍とモンゴル』(中公新書)という本を出しました。このように日本式教育を受けたモンゴル人が沢山誕生し、私が日本語に触れるようになったのも高校に日本語の学科があったからです。同じ時期、中華民国が内モンゴルに作った学校は一つだけです。1950年、中華人民共和国になって内モンゴルの学歴が一番高かったわけです。
  このような近現代の歴史で、当時のモンゴル人は、内モンゴルは中国と日本の二重の植民地であったが、宗主国としては日本のほうが良いと言っていました。蒋介石の顧問、ラティモアという有名なアメリカの歴史学者は「日本はあまり評価しないが、満洲国政策は評価できる」「中国は確かに西洋諸国から虐められている。しかしその中国がチベット、モンゴル、ウイグルに対しては西洋諸国以上に悪いことをしている」と書いています。第三者の見方もモンゴル人の見方と一致するのです。
第3節 民族解放の戦争
  1945年に日本の支配が終わりますが、その時蒙彊政権の指導者の徳王は「日本の支配が終わった。これから我々は独立する。我々は中国人ではない。中国人とは絶対言われたくない」と言います。日本人は蒙彊(内モンゴル)を知らない人が多いのですが、それは日本人が1945年に撤退していく時、満州ではソ連軍あるいは中国人から悲惨な目にあい、物凄い犠牲を払ったという記憶が残りました。ところが蒙彊政権の徳王は「日本人は敗れて帰っていくが、絶対日本人を困らせないで送り届けなさい。途中で殺したり虐めたりしてはいけない」と言って、蒙彊の首都の張家口から北京まで、日本人の犠牲はほとんどありませんでした。そのため記憶が薄れたのではないか思います。そして満蒙(モンゴル)に入ってきたのが、ソ連とモンゴル人民共和国の連合軍です。モンゴル軍の最高指導者はチョイバルサン将軍でした。彼らは、これでモンゴルは統一すると思い一生懸命戦いました。今でもモンゴルの歴史教科書では「1945年8月11日の南下は、内モンゴルを日本と中国の支配から解放して統一する民族解放の戦争である」と書いておいます。しかし解放戦争は解放になりませんでした。1945年2月、すでにルーズベルト、チャーチル、スターリンの3人がヤルタで「内モンゴルは中国に、北方4島はソ連に引き渡す」と密約を交わしていました。モンゴル側はこれを知らず、1945年9月になりようやく伝えられます。スターリンは「お前ら撤兵しろ。内モンゴルは中国だ」と命令を出します。したがって、日本がもし北方4島を返せというならば、ヤルタ協定に照準を当てる必要があります。ヤルタ協定に日本人もモンゴル人も入っていません。当事者のいない密約の協定は無効です。

第三章 モンゴル人のジェノサイド
第1節 ウラ−ンフ−の民族区域自治と失脚
  ヤルタ協定で内モンゴルは中国の自治区となり、民族、区域、自治という地位を与えられます。ウラ−ンフ−というモンゴル人が内モンゴルの指導者になりますが、1960年代後半から次第にウラ−ンフ−と毛沢東との対立が激しくなります。毛沢東はモンゴル草原に中国人を移民させて農耕地にしたい。ところがモンゴル人は農耕化を拒む。中国共産党が満洲国のような政策をとっていれば衝突はなかったのですが、中国はそういう政策を取らなかった。「モンゴル人は野蛮人で、遊牧をやめて文明人の漢人と同じ生活をしなさい」と対立していくわけです。この時中国とソ連の対立も激しくなり、毛沢東は「ソ連が攻めてきたら、内モンゴルのモンゴル人は絶対ソ連側につく」と考え、ウラ−ンフ−を粛清し、モンゴル人のジェノサイドが始まります。この辺の歴史については『中国とモンゴルのはざまで』(岩波書店)に書いています。ウラ−ンフ−は粛清されるまでは中国の中央委員、国務院副総理、国防委員会委員でした。当時彼だけが少数民族地域で実権をもっていました。自治区の党書記、政府主席、そして軍司令官でした。彼が1966年5月1日に粛清されて今日まで、中国のあらゆる少数民族自治地域で少数民族が党の書記や軍の司令官になったことはありません。モンゴル人がその地域で自治をしていたのは1966年までです。
第2節 モンゴル人ジェノサイド
  ウラ−ンフ−の粛清後のモンゴル人虐殺は、中国の公式見解では34万6千人が逮捕されて、2万7千9百人が殺害され、12万人に身体障害が残るという大量殺戮です。モンゴル人学者の中にはトータルで30万人が殺されたという説を言う人もいます。数字に相違はありますが、重要なことは「中国がモンゴル人を一方的に殺したジェノサイドだ」ということです。これだけ人を殺すには1人、2人の漢人が暴走してできるわけではありません。人民解放軍が殺戮を行ったのです。人民解放軍のある司令官は「モンゴル人を徹底的にやっつける。モンゴル人に良い奴は一人もいない。モンゴル人は100%民族分裂主義者で、死んでもたいしたことはない」と演説したことが記録に残っています。そして母語を禁止しました。「モンゴル語を話すな。中国語を話しなさい」という政策が、今年復活しました。さらに強制移住です。政府は「国境地帯に住むモンゴル人は内地に移住しなさい」と命令を出しました。それから性的犯罪も人民解放軍が組織的にやっていました。政府のジャーナリストは、人民解放軍の部隊が組織的に、何時、何処で、どのようにモンゴル人女性をレイプしたという報告書を内モンゴル日報に掲載してます。
第3節 分割されて統治される「内モンゴル」
  1969年7月、内モンゴルは三つに分割され、日本統治時代の境界が復活します。内モンゴルの東部は東北三省に引き渡し、中央部だけ残して西は他の漢人の省に引き渡す、という分割統治でした。相手を分けて力を削ぐという政策は中国の伝統的な方法で、その時利用したのが日本の行政ラインです。日本が内モンゴルあるいは中国に残した影響は非常に大きいわけです。例えば、内モンゴルはレアアースの重要な産地で、石炭、天然ガスの供給地ですが、鉱脈は全部日本時代に探査して見つけたという調査報告書が残っています。中国共産党はその報告書を使って鉱脈を開発しています。また日本時代の開発は、時間をかけてモンゴル人の同意を得た上で進めますが、中国共産党はモンゴル人に「明日から開発する」と効率優先です。文化大革命後の1980〜90年代に内モンゴル自治区は高度開発期に入ります。中国は多くの高速道路を作り、地下資源を掘り起こし、運んでいきました。しかし立派な高速道路は作りますが、家畜用の横断歩道や地下トンネルを作るという発想はしません。家畜がひき殺されても放ったらかしです。モンゴル人の家畜は家族です。家畜がひき殺されるのは、家族が殺されるようなもので我慢なりません。今中国は一帯一路政策で、中央アジアのカザフスタンとウズベキスタンで道路を作っています。ところがカザフスタンの東から西まで2千キロの高速道路に、途中のインターチェンジが1〜2しかありません。村のど真ん中に高速道路が通っていますが、北側から南側に渡るのに3百キロ迂回しなければなりません。2011年、中国人が内モンゴルの地下資源を略奪しようとしたため、モンゴル人が抵抗したところ、軍隊が出てきて鎮圧した事件は日本でも報道されました。また今苛烈な同化政策が強行化されています。「モンゴル語を廃止すれば、中国人になるだろう」と学校で中国語を話しなさいという看板が出ています。今年9月からモンゴル語の教育を1科目だけ残して全部中国語でやることになり、モンゴル人の抵抗が各地で起きています。8月26日頃から各地でデモが発生し、署名活動で政府に見直しを求めたところ8千人〜1万人が逮捕されました。自殺した人も出ています。しかしこの運動には世界中から支援を頂いています。モンゴル国ではチンギス・ハーン広場で、ニューヨークではモンゴル語の看板をもって、デモが行われています。先日は名古屋で抗議デモがありました。モンゴル国、ブリヤート、カルムイク、世界中のモンゴル人が立ち上がって抗議活動を続けているところです。ちなみに日本には1万2千人のモンゴル人がおり、モンゴル国、内モンゴル自治区、ロシア、ソウルに次いで世界で4番目にモンゴル人が多い国です。日本はモンゴルの宗主国だったので、日本に憧れて留学してくるのです。

おわりに
  内モンゴルはいまだに民族の統一、解放が実現されていません。1960年代は本当にジェノサイドでしたが、今は文化的ジェノサイドです。是非、日本は旧宗主国としてこの文化的ジェノサイドが続いている内モンゴルについて、もっと理解を深めていただき、いろんな形でご支援いただければと思います。

                                                   質疑応答
「質問1」

  中国は「飴と鞭」で日本国民を手懐けようとしているのでしょうか。親中派の日本人をどう思われますか。

「回答1」

  「飴と鞭」を上手く使うのが中国です。それで内モンゴルでは人口を逆転させられました。毛沢東の「砂を混ぜる」戦略です。ウラ−ンフ−は1949年にモンゴル人が百数十万、中国人は5百万人で、これ以上中国人は必要ないと言ったのですが、中国人を更に移住させました。中国人がある日突然現れ、それが一つの村になり、一つの町になり、そのうち「ここは古くからうちの一族の土地だ。出ていけ」と言われるのです。人口1億3千万人の日本で「砂を混ぜる政策」は簡単ではないでしょうが、すでに北海道や九州の一部過疎地域は生徒の大半が中国人になり、朝礼では中国の歌を唄い、中国の国旗を掲揚していると言われています。水面下で中国人の土地所有が進んでいるのではないかと思います。もう一つが宣伝工作です。億単位のお金で開発してあげる。企業を作り雇用を増やしてあげるという工作で中国人に牛耳られてしまう。そして「ウイグル人の弾圧はやめろ」「香港の自由を守れ」と言えなくなります。日本人の美徳は相手に配慮するということですが、そのような精神文化のあるところは中国に利用されやすい。モンゴルも同じでした。中国語は人を罵る言葉、人を馬鹿にする言葉、人を攻撃する言葉が多く、日本人やモンゴル人の気の良いところを利用しようと企んでいるので気を付けないといけません。


「質問2」

  ユーラシア遊牧人には英雄叙事詩を語る人がいるのですか。また先祖を何代も遡って覚えていると聞きましたが如何ですか。

「回答2」

  その通りです。1990年代に新疆とカザフスタンの遊牧民を調査しましたが、カザフ人はチンギス・ハーンの子孫だという歴史観をもっており、その系譜を物凄く覚えていました。また新疆でも毎日長老を訪ね、系譜を書き残しました。チンギス・ハーンの長男ジョチから始まり大体30世代、1世代20年と考えると600年ぐらい全部覚えていました。今長老たちが亡くなり、30〜40代の人達は系譜を語れません。ただしカザフでは7代以内の結婚はできませんので、今は曽祖父までは覚えており、あとはタンスの中から日記を持ち出して話します。しかしそれ以前の祖先の歴史は、全て記録されるとは限りませんので廃れていきます。モンゴルもカザフと同じです。文字のない社会では歴史は一族の系譜そのもので、普通の遊牧民は全部覚えていました。ところが13世紀にウイグル人から文字が導入され、遊牧民の伝統が忘れられていきました。切実な問題です。私は新疆で数十冊ノートをとりましたが全部系譜図です。叙事詩も波瀾万丈のドラマで全部記憶していました。新疆と中央アジアは叙事詩の世界です。カザフ人、モンゴル人の叙事詩の語り手は1週間、朝から夕方まで話します。当時新疆ウイグル自治区には人間国宝扱いのモンゴル人の語り手が何人かいましたが、今はこの伝統はなくなりました。次世代の叙事詩の語り手は皆文字が読めるので、覚えている段落が少なく、数時間ももちません。文字を持つと、文字に頼って覚える必要がないからです。字を読めないおじいちゃんの方が語りだしたら1週間〜数か月かかります。叙事詩は、夏になったらお祭りのように集まって、その人が半年間語ります。皆にとってお祭り騒ぎで楽しむものでした。


「質問3」

  バイデンが大統領になると、今のチベット、ウイグル、モンゴルの人権問題やジェノサイドの問題は改善するでしょうか。

「回答3」

  アメリカ人が信奉する自由、民主、人権という価値観は党派を問わず共有しています。トランプ政権の香港や新疆に対する制裁法の発動は、党派を問わずに賛成しました。ウイグルに対する法案の準備も世界中の研究者が関わっています。アメリカは綿密に情報を集め、データを分析し、審議しています。アメリカ対中国のやり取りを、中央アジアのカザフスタンやウズベキスタン、ロシア、モンゴルがどう見ているのか知ることは非常に大事です。今トランプ政権は中国の体制転換そのものを狙っています。ペンス、ポンペオが何回も演説し、体制転換を促そうとしています。バイデン政権の民主党は、人権問題では厳しく対処しますが、政権転覆、体制返還まで行くかどうかわかりません。十数年前にウランバートル空港に沖縄から来た米軍戦闘機が止まっていました。アメリカは、モンゴルと同盟を結び、中国とロシアの間に楔を打ちに来たのです。しかしモンゴルはロシアと中国の二大国に挟まれ、簡単に同盟を結ぶとは言いません。モンゴルは中国、ロシア以外の第三の隣人外交をやっているのです。国家存亡の課題として、戦略的にアメリカ、日本そしてヨーロッパと外交を行っているのです。勿論アメリカは中国に北から圧力をかけたい。インド太平洋構想でインドのモディー政権とも緊密にしています。またモンゴル国もモディー政権と軍事交流が非常に緊密です。さらにモンゴル軍は国連PKO部隊の中で非常に大きな存在で、中近東とアフリカ東部の国連PKO部隊の高級指揮官はほとんどモンゴル軍です。また米軍から物凄く信頼され、評価されています。ペンタゴンとの交流も非常に緊密です。一方で日本の自衛隊も含めたカーン・クエストという国連の多国籍軍隊が毎年モンゴルで軍事訓練をやっています。モンゴルから見ますと、アメリカの国際戦略は、日本にいる以上に見えてきます。日本を離れて米中関係を見ることも必要です。


「質問4」

  「韓国は中国の顔色ばかり見て、独立できていない国」と思いますが如何ですか。

「回答4」

  中国に「小国(弱国)に外交なし」という古い諺があります。モンゴル国は3百万人の国民しかいませんが、内モンゴルとの民族統一を忘れていません。民族解放の戦争だと国民は思っています。第三の隣人外交は小国外交ではありません。 大国、小国とは人口の問題ではありません。ユーラシアで国際的な会議がある時、モンゴルの地位はトップに上がります。ユーラシア諸国連盟や遊牧国家オリンピックでは、断トツでモンゴルがトップに座ります。チンギス・ハーンの子孫だからです。1917年のロシア革命まで、チンギス・ハーンの子孫以外、ハーンになれませんでした。ティムール帝国を作ったティムールもアミール(大臣または幕僚)です。国際会議では全部チンギス・ハーンの秩序からきているので、モンゴル元首が真ん中に座り、次にトルコかイランが座ります。席順は国力や人口ではなく、歴史です。朝鮮半島の人々は中国の前で過剰なまでに遜って臣下の礼をとってきたので、小国に成り下がっているのです。中国の56民族の中で、延辺(えんぺん)の朝鮮族は、モンゴル人とチベット人に「中国人、漢民族に続いて次は俺たちが優秀だと」言います。しかし漢族を見たらすごく遜った態度をとります。モンゴル人やチベット人はそんな態度をとったことはありません。それは小国外交だと思います。モンゴルの大統領は中国でも、ホワイトハウスでも、プーチンとも堂々としています。人間は根拠もなく威張る必要もないし、過剰に臣下の礼をとる必要もないと思います。それは必ず歪んだ形で出てきます。


以上は、静岡大学教授 楊海英氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです。



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