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武藤会長「金言」

2019年10月31日 金言(第87号)
『あいちトリエンナーレ狂想曲』
(表現の自由の履き違え)

■はじめに

  皆さん国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が8月1日の開幕後、わずか3日で中止に追い込まれた事は、新聞やテレビで大きく報じられたのでご存知の事と思う。
  そもそもこのトリエンナーレなるものは、2007年に愛知県知事の3選をはたした神田真秋氏が選挙の公約として掲げていた国際芸術祭の開催に端を発している。
  くわしく書くと、トリエンナーレとは3年に一度を意味するイタリア語である。愛知トリエンナーレは2008年2月に、3年に一度芸術祭を開催することとし、第1回の大会を2010年秋に愛知県芸術文化センターを中心に開催し今日にいたっており、本年2019年は4回目の開催に当たる。

■第一章「不始末な結果に終わった「あいちトリエンナーレ」」

第1節「芸術監督の暴走」
  今回の2019年「あいちトリエンナーレ」がこれから述べるように大変な不始末な結果に終わったのは、先ずもって2017年に2019年トリエンナーレの芸術監督に津田大介氏を選んだことであろう。トリエンナーレの芸術監督委員会は、社会情勢を踏まえて明確なコンセプトを打ち出せる芸術監督として、極めて偏向した思想を持つこのような人物をわざわざ推薦したのであった。しかも主催者である芸術にそれ程明るいとも思えない大村秀章愛知県知事は、津田氏に対して意味不明の「とんがった芸術祭にしたい」という委嘱状を手渡したのであった。
  とんがった偏向した思想を持つ男に、よくこの男の正体がわからないにもかかわらず、わざわざ「とんがった」ものをやれと云ったからたまらない。津田は芸術監督としての実権を握ると、学芸員達が展示を推薦してきた作家をことごとく退け独走し出す。
  津田は「日本初」を目玉にした広告活動を展開して、とにかく話題性を集めるため「ジェンダー平等」を打ち出す。彼は、2019年3月27日名古屋市内で開いた記者会見で、参加する国内外の79組の作家を「男女平等」に選考したと発表したのであった。内容についてキュレーター(学芸員)は全く関わっていなかった。
第2節「展示品の内容」
  トリエンナーレに於いては、問題になった「表現の不自由展・その後」以外に映像プログラムや、中止にはなったが「なごの音楽祭」や、同時に「クリムトと日本展」なども開催されたのであるが、愛知芸術文化センターで開催された企画展「表現の不自由展・その後」は、先に述べたようにたった3日で閉幕となった。そしてその後、いささかゴリ押しの知事の圧力により10月8日に再開され、14日に閉幕したのであった。
  上記の展覧会は、2012年新宿のニコンサロンで開催された在日朝鮮人写真家の慰安婦を題材とした写真展が中止となった後を受け、今回津田大介氏が「その後」としたようであるが、これも全く彼の独走である。この展示会にどのようなものが出品されるかについては新聞、テレビ等、マスコミにおいてはほとんど報道されていなかった。私も人伝に「ひどい内容だよ」と聞いていたので会期も長いし一度行ってみようかなと思っていた。
  展示品の内容は大問題となっている例の慰安婦「平和の少女像」が目玉で、あとは昭和天皇が髑髏を見つめている版画や「焼かれるべき絵」と題する昭和天皇の顔を剥落させ、後に大きく赤色でバッテンを付けた版画があり、さらに昭和天皇の肖像をバーナーで燃やし、それを踏みつける映像作品があった。このように我が国をおとしめるための不愉快な作品が多く、大村知事の云う「とんがった作品」がこれかと思うと気分が悪くなるのであった。
第3節「抗議殺到により中止に追い込まれた企画展」
  美術評論家の黒瀬陽平氏は、いみじくも次のようにコメントしている。「公立美術館ではほとんど前例のない美術展である。しかし規則にもいろいろなレベルがあり、すべてを「表現の自由」でくくるのは危険な面がある。規制された作品を集めただけではスキャンダリズムと変わらない。公共施設や公金を投じた事業である以上、市民の疑問や苦情に答えなければならない。作者や主催者が美術としての論理や価値を、しっかりと示すこととが出来なければ成功したと言えないであろう」と述べているが、はたして黒瀬氏の懸念は的中して、キュレーターを置き去りにした展示会場はたった3日間で空中分解したのであった。
  とにかく「慰安婦像」は一般の国民にはタブーとなっており、これを忌避することは国民的な情緒となっている。当然展覧会が始まると初日から200件の抗議電話が県庁に殺到する大騒動になった。津田氏は「これでは表現の自由を日本では安全に行えない」と訴えたが抗議は止まらず、3日間で電話とメール合わせて1400件、さらに5日以降も「県庁にサリンとガソリンをまき散らす」などの脅迫メールが770通も送付されてきた。
  大村知事は、当然予想されていた事であるにもかかわらず(実際には知事は予想していなかった?)あわてふためき、展示会の円滑な運営は困難として企画展の中止を決定し、4日には展示会はクローズされた。

■第二章「企画展に対する論点」

第1節「公共の場所に相応しくない作品」
  8月1日に松井一郎大阪市長は、名古屋市長で実行委員会長代理の河村たかし氏に「慰安婦像」の展示について質問すると、河村市長は早速翌日会場を視察して「平和の少女像」に関して、「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めているように見える」と実行委員長の大村愛知県知事に対して同像の撤去を要請した。さらに抗議活動についても「それこそ表現の自由じゃないですか。自分の思ったことを堂々と云えばよい」と容認する見解を示した。さらに河村市長は、展示の内容は「日本国民の心を踏みにじる行為で、行政の立場を超えた展示が行われている」と発言し、上記のように大村知事に慰安婦像の展示中止を含めた適切な対応を求めたのである。
  河村氏は「平和の少女像」を含めて問題のある作品の撤去について、次の通り述べている。「韓国民の政治的主張を目的として、世界各地に置かれている「従軍慰安婦像」と全く同じポーズ、衣装をまとった人形である。「従軍慰安婦」の問題自体が、その在否、評価を含めて高度なセンシティブな問題を含むと同時に、このような作品自体が、先鋭な対立関係を背景とした政治的な主張を伴い、その対立関係をより先鋭化させるきっかけとなる可能性を否定する事は出来ず、現実には多くの日本国民の国民感情を害するおそれが強くあり、この意味で「公衆に険悪な情を催させる」ものとして、公共の場所に相応しくない作品であると思いました。愛知県が主催者として愛知県芸術文化センターという公共の場所で、公衆の嫌悪感を覚えさせる作品の展示に、住民の税金の拠出という「便益供与」を行うことは、行政(愛知県、名古屋市)に求められる政治的中立とそれに対する社会の信頼を著しく損なうものと考える。」と指摘したのであった。しかし、これに対して日本YMCAやアムネスティーインターナショナルなどは、「河村氏の発言は日本の植民地支配下で性奴隷とされた「従軍慰安婦」少女の人権と尊厳を侵害する行為に他ならない」として展示の再開を求めている。
第2節「表現の自由には限度がある」
  日本軍が組織的に従軍慰安婦などの制度を設けたことはなく、これらはすべて朝日新聞の捏造に端を発している事は、今や公然たる事実である。朝日の犯した罪が如何に我が国を今日までおとしめているかに慄然とするのである。 当然展示会を擁護する人達は、展示中止については検閲とか表現の自由を保証した憲法21条違反であると声を大きくして主張する。憲法21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由はこれを保証する。検閲はこれをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」と規定している。
  21条は民主主義国では当たり前の規定であるが、私はこの自由にもおのずと限界があると思う。事実を無視した「慰安婦少女像」については、これ程しつこく韓国が、韓国の日本大使館を含めて(国際法を無視)世界の各地に続々と建てている事が、日本国内で大きな問題となっているにもかかわらず、わざわざ公共の場所を使用して、ましてや文化庁の補助金迄あわよくば支出させようとするなどもっての他ではなかろうか。
  さらに昭和天皇を題材にした、国民の象徴である陛下を貶めるような作品が表現の自由の名のもとにまかり通るなど、絶対にあってはならない事である。一歩下がってこの展示が公の主催ではなく私の機関において行われるなら、表現の自由も考えられるかもしれない。しかし、それでも天皇陛下も当然人権をお持ちなのではないか。故人といえども写真をバーナーで焼いて、残りの灰を足で踏みつけるなどの映像は、名誉棄損である。このような表現が「とんがった芸術」というなら、大村知事は戦前なら不敬罪、万死に値する事ではないか。また吉村洋文大阪府知事も「平和の少女像」を反日プロパガンダだと指摘して、「これを容認した大村知事は辞職相当である」とさえ述べている。
  だいたい慰安婦の存在は朝日新聞の捏造である事は衆知の事実であり、当金言でも朝日の欺瞞性については再三指摘している通りである。一方世論の反応は週刊文春が8月3日〜5日に行ったアンケートによると、「慰安婦」少女像の展示について「賛成」は16.2%、「反対」は74.9%と発表されている。
第3節「津田英介の人物像」
  ここで前後するが、奇怪な演出をした津田英介とは何者か一言触れておこう。彼は1973年東京生まれであるが、父親が社会主義協会派の政治家で、当時の日本社会党の副委員長であった高沢寅男(こちこちの左翼)の議員秘書を務めていた。当然中学時代から左翼思想にかぶれ、当時から「赤旗」を愛読していたと述べている。早稲田大学卒業後執筆活動に入ったことになっているが、その略歴をみると個人運営ニュースサイト「音楽配信メモ」(ブログ)の開設に始まり、デジタルコンテンツ活動に首を突っ込んだり、その他訳のわからない一貫性のない活動を行っていたとしか思えない。本人は、ネットランナーの津田大介と称しているが何の事かよくわからない。本人は雄弁で世渡りがうまく、2010年代になると上智大学や武蔵大学の非常勤講師や、一時は関西大学の特任教授を務めている。その後、大阪経済大学、京都造形芸術大学の客員教授に就任し、また新潟日報の特別編集委員となり、2015年にはなんと朝日新聞の論説委員、さらに2017年には早稲田大学文学学術院教授となっているが、一体何を教えているのか今回の騒動からみて学生こそいい面の皮ではないのか。
  要するに今回トリエンナーレが再開には漕ぎつけたが、それはほんの形だけで、本企画は大失敗に終わったのである。そして、芸術に関して無知蒙昧にもかかわらず問題のある津田大介なる人物に、差配をまかせた大村知事の責任は極めて大きいものがある。

■第三章「その後の動向」

第1節「政権批判を繰り返す朝日新聞」
  もとに戻るが世論調査の結果に対して朝日新聞は、例によって社会がまさに「不自由」で息苦しい状態になっていると批判し、「病理に向き合い表現の自由を抑圧する動きには異を唱え続ける」と宣言した。一方産経新聞は「非常識な展示会に批判が相次いだことは国民の常識感覚の表れである。それを「不自由」で息苦しい状態といい、「病理」とまで断じるのはおかしい。「慰安婦像」などに対する芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むことを避けている」と批判している。
  安倍政権下の我が国を「息苦しい」と指摘する朝日の論評はこの件に限らず幾つもある。いわば朝日の常套句といってよい。そのくせ朝日が中国やロシアの現状を息苦しいと批判したのには全くといってよい程お目にかからない。要するに私は、憲法21条にいう「表現の自由」とは何でも所かまわず自由が許されるものではないと思っている。まして今回の展示が、常識ある日本人の琴線に一番触れてはいけない事項に、土足で踏み込んだのである。
第2節「責任回避の大村知事」
  大村知事はその後、同展示の再開をこころみ、「安全上の配慮をしたと」いうことで10月8日に再開に漕ぎつけたが、愛知県が設置した検証委員会の中間報告では、不自由展を行ったことを正当化する理屈のオンパレードで、再開するということを前提に議論を進めたとしか考えられないふしがある。多額の公金(愛知県6億円、名古屋市2億円)を使って行うイベントである以上主催者である知事や関係者は、今回の展示内容が公開されればどのような波紋を巻き起こすか十分考えておかなければならなかった。今回の実行委員会のトップは知事が務めていたため、当然「行政が展示の内容を支持しているのか」との批判を受けたのであった。ある識者は、実行委員会のトップは芸術家に任せ、行政は予算を出すだけという枠組みを、より明確にすべきであったと述べている。今回の失敗をあえて云うならば、国会議員として政治家としての豊富な経歴がある大村知事が実行委員会を務め、どうしてよりにもよって、津田大介なる札付きの人物を芸術監督に指名したかという事に端を発している。
第3節「河村市長も怠慢のそしりを免れない」
  10月8日に再開された「表現の不自由展・その後」については同日の午後河村名古屋市長が、会場である愛知県芸術文化センター前の広場に抗議のため座り込みを行った。河村氏は芸術祭の実行委員会の会長代行であるが、再開に関する協議は一切なかったとしており、「再開決定は無効だ」と批判している。市長が特に問題視するのは、昭和天皇の肖像を燃やして踏みつける動画であり。「愛知県や名古屋市が事実上主催しているところで展示すれば、県民や市民が認めたことになる」と指摘し、これは「表現の名を借り世論をハイジャックする暴力である」と決めつけている。しかし、市長も芸術祭の実行委員長代行であったのだから、事前にこの内容を掴んでいなかったのは怠慢のそしりを免れないのではなかろうか。

■おわりに

  最後に、愛知県はこの展示に文化庁からの補助金が交付されることを期待していたが、文化庁は愛知県が安全面など同庁に対する事前の申告をしていなかった事を理由に、約7,800万円の補助金全額を不交付にしたのであった。実際にその内容まで同庁が吟味したかどうかはわからないが、不交付の判断は正鵠を得たものと思う。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2019年9月30日 金言(第86号)
『日米安全保障条約の行方』

■はじめに

  そもそも今回「金言」で日米安全保障条約について取り上げたのは、産経新聞7月8日付「正論」の田久保忠衛先生の「戦後に別れを告げる第三の黒船」と題する論文を読んだのがきっかけであった。この論文を読まれた方は多数おられると思うが、その内容は次の通りである。

■第一章「田久保忠衛先生の論文内容」

第1節「トランプ大統領は日本の専守防衛を痛烈に抉(えぐ)る」
  安倍晋三首相は内閣の発足にあたって「戦後レジームからの脱却」を唱えたが、最近誰もこれを口にしようとしない。軽武装、経済大国を目指す「吉田ドクトリン」の思想の基本は日本国憲法である。安倍氏とトランプ大統領は個人的に緊密な関係にある事をよい事にして、我々日本人はいざという時に米国の青年が専守防衛の日本を防衛してくれるという依存心を疑わなくなってしまっている。
  日本の母親と同様に、自分が腹を痛めた息子が他国の防衛のために血を流すのを、平然と見ている米国の母親がいるはずはない。
  これに対して一喝したのがトランプ大統領だ。彼は6月25日以来ブルームバーグ通信に始まり、以後3回にわたり日米安全保障条約破棄の可能性に言及した。大統領は「日本が攻撃されれば、我々は第三次世界大戦を戦うことになり、あらゆる犠牲を払っても日本を守る。しかし米国が攻撃されても、日本は我々を助ける必要は全くない。彼等はソニーのテレビでその攻撃を見ていられる。」と述べたのであった。まさに他国に安全保障をまかせた国家の欠陥をこれ以上痛烈に抉った大統領の発言は前例がない。
第2節「長期的展望の中で在日米軍の漸減はあり得る」
  さらにその後の20ヶ国(G20)大阪サミット後の記者会見でも、安保破棄の考えは否定しつつも条約の不公平さについて改めて言及した。これに対し日本政府の対応はトンチンカンにつきる。即ち菅官房長官は「米国からのブルームバーグの報道内容は、米政府の立場と相容れないものだという確認を受けた」と云っているが、大統領は「米政府」以外の特殊な人物だとの認識が前提にあるのだろうか。各新聞社の中で特にこの問題に関心を持っているらしい朝日新聞は、「安全保障で揺さぶりをかける大統領の狙いは日米貿易交渉において自らの支持基盤にアピールすることだと日本側は見ている。」と書いていたが、これこそ低次元な見当はずれと云って差し支えない。
  トランプ氏はそもそも大統領選のキャンペーン当時から、在韓米軍の撤退を口にし、ドイツなどの北大西洋条約機構(NATO)加盟国の防衛努力不足を公然となじってきた。シリアからの米軍撤退を決めたし、加えて大西洋同盟の根幹であるNATOから脱退する意思すら周囲に複数回漏らしているという米紙の報道があった。大統領の他に「米政府当局」がいると考えたり、在日米軍に対する日本の負担が他国より多額だから日本への不満は少ないなど、自国に対する好都合な解釈はこの際控えるべきではないか。
  軽々しい判断は慎まなければならないが、トランプ大統領の一連の発言には孤立主義的な響きを感じることがある。昨年9月の国連演説では「この半球(北米・南米)と我々固有の問題に外国が介入する事を拒否するのはモンロー大統領以来我が国の公式の政策である。」と述べた。すなわち孤立主義者と云われたモンローの第一原則は、他国の介入阻止、そして第二原則は自国の他国への介入には言及しなかったが、長期的展望の中では日本を含む海外駐留軍の漸減はあり得る。
第3節「戦後に別れを告げる時期の到来」
  今から22年前、当時のブレジンスキー大統領(カーター大統領)補佐官は、「いずれ中国がユーラシア大陸で覇を唱える大国にのし上がり、米国との対立が深刻化する。」と、今日の事態を正確に予言していたのであった。そうなった場合、彼は事実上の米国の保護国として準大国にのし上がった日本が、米中両国の狭間にあって大きなジレンマに陥ると予言していたのであった。
  我が国のとる道として、米国との同盟維持、軍事大国化、中国との関係緊密化の3つの選択の内でどれを選ぶかは自明であるが、それだけに米国最高指導者の発言を見誤ってはならない。世界の現状では全く通用しないパシフィズム(反戦主義)、それを支えている日本国憲法への信仰、沖縄で繰り広げられている反基地闘争を支えてきた論理は破砕されたといってよい。ペリーの黒船、第二次大戦での敗戦、それに次ぐ「第三の黒船」である。戦後に別れを告げる時期の到来と私は期待している。

■第二章「「日米安全保障条約」に関する考察」

第1節「トランプ大統領が不公平と考える根拠」
  さて、上記の論文が発表された少し前の6月25日トランプ大統領は、非公式の場ではあったが「日米安保条約は不公平な合意である。これは改正しなければならない。」と、「日米安保の破棄」に言及した。この主張は前からの大統領の持論であったが、この持論を改めて展開したわけである。トランプ大統領が米国にとって日米安保条約が「不公平」だと考えている根拠には、日本が攻撃されれば米国が援助することを約束しているが、米国が攻撃された場合に日本の自衛隊は米軍を支援するとは義務付けられていないことから、余りにも一方的だと大統領は感じているのである。大統領は、自分は安倍晋三首相にこれを変える必要があると伝えてあるとも述べ、さらに安倍首相は米国が攻撃された時に、日本が米国を助ける必要があることはわかっているし、そうすることが問題だとは考えないだろうと付け加えている。これについては先に妥結し、当時進行中であった日米貿易交渉を有利に進めるための牽制策であるとか、前々からNATOに対して要求している同盟負担の分担について、NATOばかりを標的にするのは問題があるのでバランスをとったのではないかとの憶測も、一部に話されている。
第2節「日米双方の非対称な義務とバランス」
  現行日米安保条約が日本にとって有利で、アメリカにとって不公平(アンフェア)なものなのかどうか。1951年のサンフランシスコにおける平和条約とともに締結された旧安保条約には、相互防衛の規定がなく、日本は米国に基地を貸すが、米国には日本を防衛する義務はなかったのである。今になってみれば国民の大半は本当にそうかと思っているが、当時このような条約は不公平だという批判が高まり、1960年に、現在のように米国が日本の防衛義務を負う相互防衛の規定が設けられたのであった。
  そしてこの事は今やほとんど話題にならないが、相互防衛の範囲について、当初米国が提案したのは「太平洋」であったのだが、それでは日本政府(国会)は受け入れ不能と判断された結果「日本の施政の下にある領域」となり、米国に対する日本の防衛義務は、日本に駐留する米軍の防衛に限られることになった。この結果日本が米国領土の防衛義務を負わない事について、米国にとって不公平な条約に見えるようになったわけである。
  しかし、日本は新安保条約により改めて米国に基地を貸す義務を負い、米国は日本を防衛する義務を負うことで日米双方の義務という面ではバランスがはかられたのである。しかし、これは客観的にみるなら非対称なかたちでの条約で、どうしてもそのバランスにおいて、双方に不満が出てくるのはやむをえない。まして米国にとっては有事になれば自国の若者に血を流させて相手国を守る事を約束しているわけだから、どうしても大変な不満を持つ。一方有事はおろか、平時にも基地を貸し続ける日本側には、米国が基地の価値(特に沖縄の基地はアジアから中東までの米国の世界戦略になくてはならないものである)やコストや危険性について、何等理解していないという疑いを持つことになる。
第3節「莫大な防衛コストを忌避して経済成長に邁進」
  私は、我が国が同盟国である米軍の駐留費を充分に負担していると考える。そもそも1978年度以降、米軍施設で働く労働者の福利費や施設労働者の給与、光熱費など在日米軍駐留経費の負担(いわゆる思いやり予算)は、実に1974億円にもなっている。いささか古いが2004年の米国国防省の米軍駐留各国の負担割合は日本74.5%、韓国40%、ドイツ32.6%となっており、日本の割合は突出している。トランプ大統領は次期大統領選挙をにらみ、駐留経費の負担要求を強めようとしているが、正直これ以上に大幅に増加するとアメリカ軍は日本の、極端にいうと傭兵となってしまうのではないか。今になって考えると1960年の岸首相による安保改正に何故あれ程反対したのかわからない。日本は単に基地を提供するだけで、莫大な防衛コストを忌避し得たのであった。我が国は米国に日本の防衛義務を課し、その結果日本は経済の成長に邁進し、高度経済成長を実現することが出来たのであった。

■第三章「戦後レジームからの脱却」

第1節「無抵抗・丸腰の憲法を押し付けたアメリカ」
  今更アメリカが安保条約は不公平だと主張しても、そもそも太平洋戦争における日本の敗戦後アメリカの対日政策は、日本が二度とアメリカに挑戦する事の出来ない体制にする事を考え、極端に云えば明治維新前の農業国にまでおとしめる事を念頭に、その指針として日本に押し付けたのが現在の日本国憲法なのである。
  現日本国憲法を読むがいい。その前文における国民主権、平和主義は良いとして、自国の防衛に関しては「日本国民は恒久の平和を念願して、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我等の安全と生存を保持しようと決意した」とうたい、これを受けてご承知のように憲法第9条で「戦争と武力による威嚇、武力の行使は永久に放棄する。この目的を達成するため陸、海、空軍その他の戦力は保持しない。更に国の交戦権は認めない」なる世界のどこの国にもない無抵抗、丸腰の前代未聞の条文が出現したのであった。アメリカ政府は、この時点では徹底した排日主義者であったルーズベルトは亡くなっており、後をついだトルーマン大統領もルーズベルトの政策をそのまま継承していた。先にも述べたように、日本が再び第一線に立ち戻れないように手枷足枷としたのがこの憲法であった。
第2節「ルーズベルトの世界政策の大失策」
  ルーズベルトは1945年2月ソ連のヤルタでイギリスのチャーチル、ソ連のスターリンと会談した。これは第二次世界大戦が終盤に入った中で、戦後の米ソの利害関係を如何にするかを協議した会談であったが、すべてスターリンのペースで進められ、ソ連の対日参戦や、日本の領土、すなわち千島、樺太、朝鮮半島、台湾などの処遇を決めたのであった。ヤルタにおいてルーズベルトはすでに病魔におかされており、すべてヨーロッパ、極東の戦後処理はスターリンの意向が反映されたのであった。本来ならルーズベルトを助けて民主国側の考えを主張すべきチャーチルも何一つ発言せず、冷戦の原因をつくったのである。ヤルタ協定は秘密協定であり、米、英、ソ連以外の当事国は全てはずされており、この協定の有効性には疑問のあるところである。
  いずれにしてもスターリンはルーズベルトの弱みにつけ込み、戦後ヨーロッパにおいて、又極東においても大きな利益を獲得し、戦後アメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする共産主義陣営の間で激しい東西冷戦が開始された。このような状態をまねいた責任は一つにルーズベルトとチャーチルにあると云って過言ではない。ルーズベルトとその一派は日本を完膚なきまでたたきのめし、上記のような憲法迄押し付けたのであった。そもそも占領中の国家における憲法などの基本法の改正は国際法違反なのである。彼等は巧みに自主的な憲法制定としているが、実際にはアメリカによる日本国憲法がつくられた事を我々は改めて承知しておくべきである。ところが1950年6月、突然朝鮮半島において北朝鮮軍が韓国に侵入し、朝鮮戦争が勃発したのであった。驚いたのはアメリカであった。日本軍を解体し、交戦権迄奪う憲法を押しつけた結果にアメリカは狼狽した。これこそルーズベルトの世界政策の大失敗の一つである。
  このように日本を徹底的に痛めつけたためソ連の勢力は拡大し、冷戦においてアメリカは苦労することになる。もう一つ云わせてもらえば日本をたたく一方、中国の蒋介石を援助した結果、毛沢東の共産主義中国建国に結果として手を貸してしまい、その中国に悩まされているのがアメリカの現状であって、これもルーズベルトの大失策の一つである。
第3節「現行憲法では今後国の存在価値を失う」
  さて、あわててアメリカは日本に再軍備を押しつけようとしたが、自らつくった「平和憲法」が自縄自縛となり再軍備は難しかった。このため苦肉の策として軍隊に代わる、当初は警察予備隊が1950年8月に発足しこれが保安隊となり、さらに1954年(昭和29年)事実上の軍事組織である自衛隊が発足した。ご承知のようにこの組織は、国際法上軍隊として扱われているが、これを歴代の内閣があらゆる手段を駆使して憲法に違反するものでないとして今日に至っている。しかし、これは誰がどう考えても近代的軍隊の保持であり、憲法違反は明白である。このため何とか憲法の改正を行わなければならないのであるが、我が国には憲法改正に反対する朝日新聞を筆頭とする左巻き勢力が依然として跋扈しており、戦後73年を経過した今日未だに改憲が実現していない。
  しかしながら我が国を取り巻く国際状勢は極めて厳しいものがある。中国、ロシア、北朝鮮はすべて核保有国であり、田久保論文の通り仮にここで日米安保条約破棄という事になった場合、我が国はどう対処して行くかまさに大問題と云わねばならない。
  トランプ大統領は特異な性格の大統領で、大統領が変われば日米同盟は安泰であるなどという考えは極めて甘い考えである。アメリカの考えは共和党も民主党も双方アメリカ第一主義に傾いており、早晩我が国は自主独立した防衛態勢をとらざるを得ないのは火を見るよりも明らかである。事実中国の軍備拡張のスピードは目を見張るような状況で、アメリカは、現状では軍備全体では中国を上回ってはいるものの活動範囲は欧州、中東、アジアと広く、一方中国はアジアに限定されているためアジアにおいてアメリカ軍は均衡を保つのに苦労している。例えばアメリカの沿岸警備隊の船舶まで南シナ海に投入されている。
  このところ中東のイラン状勢が悪化して、トランプ大統領は中東のホルムズ海峡を通過するタンカーは自国で守れと述べ、さらに7月19日トランプ氏はタンカー防衛のための有志連合の結成を求めたのであった。我が国ははっきり云って現在の憲法の下ではこの連合に参加出来ない。我々は1990年の対イラク湾岸戦争において、日本は資金だけの供出にとどまり、自衛隊を動かすどころか一切洞ヶ峠を決め込み、世界中の顰蹙をかった事は記憶に新しい。日本はこの件で世界中の物笑いになったのであるが、現行の憲法にこだわり続けて湾岸戦争の轍を今後踏むならば、国としての存在価値を失うであろう。

■おわりに

  田久保論文は今こそ「第三の黒船」到来であると指摘されているが、まさにルーズベルトの大失策の結果生まれた現在の憲法を改正し、真に独立した自主防衛体制を築かぬ限り日本の将来は暗い。アメリカが現在の日米安保条約を破棄することなどあり得ないと考えている人達も結構存在するが、くどくなるが米国第一主義をとるトランプ大統領は、破棄がアメリカの国益に合致すると考えた場合、破棄を公然として行うであろう。そもそも今の自衛隊は軍隊ではない。憲法を改正して国軍としなければ、ホルムズ海峡に堂々と行けないことはわかっているにもかかわらず、国軍どころか憲法に自衛隊を明記しようとするささやかな改正すら、与党の公明党は傍観して我知らずの態度であり、野党は審議にすら応じようとしない。これが日本の現状であるが。ここで我々は乾坤一擲安倍首相の云う「戦後レジームの脱却」をはたさぬ限り日本の未来は暗いと思うのである。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2019年8月30日 金言(第85号)
『舞子墓園で思った事』

■第一章「山治の眠る舞子墓園」

第1節「淡路島を望む景勝の地」
  去る8月18日当館創立者武藤山治の眠る舞子墓園に武藤伸太理事とお参りした。例年はもう少し早い時期に訪れるのであるがお盆の混雑を避け、この時期の参拝となった。
  山治の眠るこの墓園は、元々石谷山といい淡路島を真正面に望む景勝の地で、山治は生前関係する全ての雑事から解放され、引退した時この地に窯を築き趣味とする陶芸三昧の生活を夢見て、この土地を購入していたのであった。山治は、尊敬する尾形乾山にならい冗談で武藤乾山などと称していた。余談ではあるが、明治から大正の時代に見向きもされていなかった乾山の価値を最初に認め、収集し、最初に世に紹介したのは他ならぬ山治であった事を知る人は少ない。事実乾山風の絵付けをした自作の焼き物が多数残っている。
  山治は、京都のある廃寺から由緒ある建物「大光院」を譲り受け、本阿弥光悦の鷹が峯の故事に倣い、当地に一種の文化村を作ろうと考えていた。そしてある時、側近とこの地を訪れ余りにも美しい淡路島の風景に感激して思わず「自分が死んだらこの場所に埋めてくれ」と言い残したとの事であった。山治が亡くなった後遺言に従い、その場所に埋葬しようとしたところ強固な岩盤がありやむなくダイナマイトを仕掛けて取り除いたと伝えられている。
第2節「墓地公園のために土地を寄付」
  さて、本来墓と云うものは公有地にしか設けることができないのであるが、祖父の場合例外として私有地への埋葬が特例として許可されたのであった。
  しかし、戦後石谷山の土地は2万坪と広大なもので、折から発生した財産税の問題もあり、売却すれば祖父の墓が宙に浮くという問題も出て来て、亡父は大変苦慮したのであった。ところが、当時の神戸市長であった小寺謙吉氏から、神戸市には追谷墓園しか目ぼしい墓地がないため石谷山全体を墓地公園とすることを目的に、神戸市に寄付して頂けないかとの申し入れがあった。小寺氏は、神戸の政財界で重きを置いた相楽園で有名な小寺泰次郎氏の子息で大変な人格者で父もこの申し入れを喜び、墓の前には淡路島を遮る建物を立てないという条件で応じたのであった。これで墓は、公有地にしかできないという条件が整うと共に財産税の問題も解決したのであった。
  私の子供のころは、墓の前にあった松の木も小さなもので、まさに遮るものはない絶景であったが、いつしか木々も成長し、現在では淡路島はおろか明石海峡も全く見えなくなってしまっている。

■第二章「山治の生涯」

第1節「実業人としての軌跡」
  山治が、突然凶漢に襲われ亡くなったのは1934年(昭和9年)3月10日であった。彼は、1867年(慶応3年)3月即ち明治維新の前年岐阜県(当時は美濃の国)に生まれたが、長じて福澤諭吉の慶應義塾に学び、福澤の声咳に直接接し、塾卒業後は福澤の薦めもあって学友二人と共に米国で苦学した。約2年の勉学の後帰国して、東京銀座で我が国最初の広告代理店を開業した後英字新聞の日本ガゼット社に入社し、活躍するがその間明治維新の立役者の一人後藤象二郎の秘書をつとめた。
  その後ドイツ系商社である東京イリス商会に入り、当時国策として遂行されていた内地の鉄道敷設のためドイツ製鉄道レールの販売に従事する。
  1893年(明治26年)1月先輩である福澤諭吉の甥、中上川彦次郎の推薦で三井銀行に入行して神戸支店の副支配人となるが、翌年中上川の命により当時経営不振で三井財閥のお荷物であった鐘紡に出向し、直ちにその立て直しのため新たに建設される兵庫分工場の支配人となり、新工場の建設に当たる。その後数々の革新的経営に手を染め、文字通り近代日本的経営の祖とうたわれ、鐘紡を産業界において一頭地を抜く優良会社に成長させたのであった。
  現在社内報や提案制度、共済組合あるいは社内の学校、病院などはどこの会社にでもあるが、それらは鐘紡がはじめたものである。又綿糸の生産だけに飽きたらず織布の兼営に乗りだすと共に漂白染色加工事業にも進出する。
  その間、一時は鈴木久五郎の株式買い占め事件のため支配人を引かざるを得ない事態にもなったが、1908年(明治41年)鈴木久五郎の没落と同時に鐘紡に復帰して専務取締役に就任し、その後1921年(大正10年)には社長に就任して以来昭和5年まで鐘紡の経営に関与した。
第2節「政界へ進出」
  山治が他の実業人と違う点は沢山あるが、先ずあげられるのは多忙な会社経営の中で日清、日露そして第一次世界大戦によって生じた傷病軍人とその家族を援護するための法律「軍事救護法」を民間人であるにもかかわらず殆ど独力で成立させたことであろう。この法律を成立させるため彼が筆舌に尽くせない努力を重ねたことは、何度も私は國民會館でお話しているのでこの程度にしておく。
  しかし、折角成立したこの法律も役人の干渉で十分な効果が得られなかった。ここで彼は民間人としての限界を感じ、政界への進出をはかるのである。
  彼は1923年(大正12年)商工業者を中心とする組織「実業同志会」後の国民同志会を創立してその会長に就任し、翌1924年(大正13年)衆議院議員となり、第49回特別議会では、時の蔵相浜口雄幸と真っ向から真剣勝負を思わせる経済論争を展開する。当時のマスコミはこぞって帝国議会において、はじめて真っ当な経済論争が展開されたと評している。その後彼は自分が実現したい政治の姿を後に大ベストセラーとなる「実業読本」「実業政治」なる著書にまとめ、世に問うたのである。これはいまでいう「マニフェスト」であり、この中で彼は小さな政府と予算の徹底的な効率化そして官業の整理即ち鉄道、郵便、郵便貯金、簡易保険、電信電話、煙草、塩の専売など官営を廃し民営化すべきであると主張したのであった。
  その後議会における彼の活躍は目覚ましいものがあった。特に関東大震災の後始末であった「震災手形法」及び台湾銀行救済には反対の論陣を張り、また「金解禁」を巡る時の蔵相井上準之助との論争は有名である。この論争は、結局井上氏の理論は間違ったものでこれを実施したため恐慌は深刻なものとなったのであった。
昭和5年武藤は、鐘紡の社長を退任する。武藤は社会正義の実現を目指し、議会活動を行なってきたのであるが、それが同志会の伸長には結びつかず、特に普通選挙が実施された1930年(昭和5年)には買収などが公然と行われ、一方無産政党の伸びが著しく、彼の懸念は顕著なものとなっていった。そしてその頃から自己の信念に基づく政治活動が十分に国民に理解されていないのではないか、それがはたして本当に国民のためになっていたのかと思い悩むようになる。
  そして、1932年(昭和7年)1月の議会解散と同時に議員立候補を取りやめ、政界を引退する。
第3節「運命を変えた言論界への転向」
  そして彼が考えたのは、国民の政治意識を根本から変えていかない限り我が国の議会政治の明日はない。今後は国民の政治教育に全力を尽くすため社団法人國民會館を私財を投じて昭和7年大阪大手前に設立したのであった。國民會館の建物は1933年(昭和8年)に完成する。そこで彼は、講演、演説、演劇、映画等最新の手段により国民の政治教育の実現を目指したのであるが、運命は彼をあらぬ方向に回転させていくのであった。
  1930年(昭和5年)に鐘紡社長を辞め、さらに1932年(昭和7年)に政界を引退した武藤を関係者はそのまま見逃す筈はなかった。1932年(昭和7年)当時恩師福澤諭吉の創設した日本一のクオリティーペーパーであった時事新報社は、関東大震災と長年の放漫経営がたたって倒産の危機に瀕していた。慶応義塾の福澤門下生門野幾之進、福沢桃介、池田成彬、小林一三たちはこの情勢を見てこの危機が救えるのは武藤しかないとして口説きに掛ったのであった。正直40年にわたる熾烈な鐘紡での活動、そして政治活動からようやく解放され、これから自分の理想とする政治教育活動に邁進しようとしていた矢先の彼にとって恩師福澤のためとはいえこの申し出を断った。
  家族もここは休養して欲しいと強く望んだのであったが、再三にわたる長老達の懇請を断りきれなくなり、ついに1929年(昭和4年)時事新報社の事実上社長である相談役に就任した。
    就任を渋っていた武藤ではあったが引き受けた以上は「火の玉山治」といわれた本領を十二分に発揮し、不可能といわれた社説を自ら毎日執筆し、紙面の大幅な改革、色刷りの実施、広告の取得また社内においては鐘紡式の合理化を実施し、営業面でも景品付き販売の中止を他社に働きかけ実現するなど1933年(昭和8年)の末には営業損が縮小して損益スレスレにまで回復したのであった。
  しかし。1933年(昭和8年)12月末から翌年1月まで紙面に特集記事として連載した後に帝人事件にまで発展した「番町会を暴く」の記事が災いしたと信じられるが、1934年(昭和9年)3月9日北鎌倉駅付近で暴漢に襲われ、5発の銃弾をあび、翌3月10日鎌倉の病院で死去したのであった。同行していた書生の青木茂は山治をかばおうとして即死した。今参拝している山治夫妻の墓のそばに寄り添うように青木の慰霊碑がたたずんでいる。

■第三章「舞子墓園で思う」

第1節「自分の存在を考える」
  舞子墓園の祖父の墓に命日にはかならず、その他何回か訪れているが、辺りの様子は、私の子供の頃に比べて大きく変わっている。辺りの樹木は大きく成長し、先にも触れたように淡路島の島影も今では全く窺がいしれない。
  祖父は1867年3月生まれで、亡くなったのが1934年3月であるから満67歳であった。私の父親も67歳また鐘紡社長を務めた叔父絲治も67歳で亡くなっており同じ域内に眠っている。
  翻って小生は、馬齢を重ね本年82歳となり、実に山治より15年も長く生きたことになるが余りにも自分の存在が小さい事に愕然とするのである。しかしこれは人間には必ず分というものがあるので考えてもいたしかたないことかもしれない。
第2節「縁の深い舞子」
  舞子は、我々家族には本当に縁の深い土地である。祖父は、鐘紡時代の大部分を舞子に住まいした。最後に住んでいたのは住吉観音林であった。舞子墓園から南に下り明石大橋のたもとにある舞子公園には、山治の住まいした住居が盟友呉錦堂の「移情閣」と相対して建っている。このような事が実現したのは井戸敏三兵庫県知事のご配慮によるものである。山治の住居は洋館と和館とがあり明治40年(1907)の建設であるが価値のあった和館は鐘紡の不手際で取り壊され、洋館も危うく無に帰する処であったが井戸知事の英断により現在の姿を保っているのである。
第3節「新たな覚悟」
  さて、少し前にもどるが山治が造った國民會館は昭和8年5月に開館したが、祖父がここを訪れたのはこの開館式一回だけであった。そのため彼が意図した政治教育の実践について彼が直接手を下すことはなかったが、亡くなった昭和9年10月から武藤記念講座が月1回開催されている。この講座は大阪の大空襲のなかでも只の一度も休まず開かれ、今月で1062回を数えている。
  我々は、微力ではあるが山治の理想が少しでも実現できるよう國民會館の使命を果たして行きたいと覚悟を新たにしている。



                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2019年7月23日 金言(第84号)
『公明党とは何か』

■はじめに

  我々一般国民にとって、公明党ほど理解しづらい政党はないのではないか。
公明党の母体は、宗教団体である創価学会である事は皆よく知っているが、これほどその本当の姿がわかりにくい政党はないのではないかと思う。ところがこの公明党は、国政選挙においては、常に700万票以上を獲得する強固な政治勢力なのである。
  1997年から自民党との連立を果たし、今や公明党の協力がなければ自民党は衆議院においてはもとより参議院においても安定した議員数を保持し得なくなっている。これは、衆議院選挙では小選挙区制で、原則1選挙区1名の選出であるから一定の票数はあるが、当選にまでは及ばない公明党の協力を自民党は是が非でも仰がなければならないところに、今や公明党の強み、自民党にとっての弱みがあるのである。そこで、今回はこの巨大な宗教政党について若干述べるとともに、この政党の存在が我々にとってどのような問題を持っているのかについて考えてみた。

■第一章「戦後の宗教団体の歴史」

第1節「新興宗教の乱立」
  第二次世界大戦後、我が国においては、まるで「雨後の筍」のように数々の宗教団体が次から次へと誕生した。そして、これらの新興宗教の多くがさまざまな社会問題を起こしたのであった。例えば病気や災難に遭うなどとおどかして無理やり入信させたり、あからさまに強引に寄付を要求するなど数々のトラブルが発生し、中には教祖と称する人物が逮捕されるという不祥事を起こしたりした。
  何故このように多くの新興宗教が乱立したのか。きっかけは、戦後日本の民主化を進めた連合国最高司令部(GHQ)の政策に起因する。実は戦争中は「宗教団体法」という強固な法律が施行されており、これによって宗教団体はかならず文部大臣の許可が必要であった。戦時下における国家総動員体制のもと、宗教団体は政府により強く統制されていた。政府は、宗教団体の統合を進めたため戦時中の1942年には、宗教団体は神道、仏教、キリスト教を合わせて43団体に止められていた。当然この時代には宗教団体として認められた組織に対しても国民の戦意の高揚など、戦争への貢献が強く求められた。しかし、敗戦後GHQによる占領統治が始まると、状況は一変する。GHQは従来の「宗教団体法」を「治安維持法」と並ぶ軍国主義日本の悪法とみなし、「宗教団体法」の廃止を日本政府に求め、それに代わって1945年暮に「宗教法人令」が施行された。これは宗教に対する政府の関与(かつての大本教弾圧など)を無くすることを目的としており、宗教法人の設立は、許可制から届け出制に変わり、信教の自由や政教分離が徹底されることになった。即ち誰でも自由に宗教団体を作ることが出来るようになったのである。さらに、ここが重要なのであるが、同政令第16条において「宗教法人には所得税、法人税を免除する。神社、寺院の境内地並びに教会の土地については地租を免除する。」「都道府県、市町村その他の公共団体は宗教法人の所得に地方税を課する事を禁じる。」とあり、つまり宗教法人には所得税や法人税などが一切課されないという事で、この事は大変歪な状況を作り出したのであった。
  このため先に述べたように得体の知れない人物が、突然教祖を名乗り、強引に寄付を要求したり、免税措置を利用するためだけに宗教法人をつくり、宗教とは関係ない経済活動を行う例が続出したのであった。このため宗教法人の数は、一時は700以上になった時もあった。
第2節「規制の強化で巨大宗教団体が形成される」
  このように戦後の宗教法人令は、大きな欠陥を有していたため、日本が独立した1951年に所轄の文部省も、あわてて規律のゆるい「宗教法人令」を改め、規制を厳しくした「宗教法人法」が施行された結果、怪しい団体の多くは消滅した。この新しい「宗教法人法」が施行され、にわかづくりの怪しげな団体が淘汰される一方で、組織的にしっかりとした団体が全国的な規模で信者を増やし、巨大な組織を形成するようになった。それが仏教系の立正佼成会、霊友会、そして創価学会などであった。これらは現世救済を掲げて活発な布教活動を展開し、信徒を増やしていった。中でも立正佼成会は、布教活動に人権の侵害があったなどとして、国会でも取り上げられ大問題となった。立正佼成会に次いでマスコミによく取り上げられたのが創価学会であった。創価学会は日蓮正宗の信者の団体で、戦前の1930年に牧口常三郎によって結成されたが、第二次大戦中は、当局から弾圧を受け、牧口等の幹部は治安維持法、不敬罪で逮捕され、牧口は獄死している。
  彼等は、日蓮上人の説いた法華経を唯一無二のものとして「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると主張したのであった。戦後の1951年に戸田城聖が二代目の会長となり、再出発したが、当時の会員は約300万人程度でそれ程目立った存在ではなかった。しかし、戸田は積極的で「世帯数75万を達成する」と宣言して積極的な勧誘活動、いわゆる折伏大行進を展開し、創価学会の世帯数を急増させていった。1954年には16万4000世帯になり、初めて参議院に候補者を出した56年には40万、58年には100万を超え、三代目の池田大作会長が就任した60年には174万世帯、さらに64年の公明党結党の年には、実に524万世帯にまで膨張したのであった。
第3節「低所得都市住民への布教で大きくなった創価学会」
  短期間でこれ程のスピードで大きくなったかについては、如何にその布教活動、折伏が激しかったかが思い起こされるのである。当然他の宗教だけではなく、社会的にもさまざまな軋轢、摩擦が生じたであろう事は容易に想像出来る。創価学会が、ターゲットにしたのは高度経済成長期を迎えた我が国においては、農村部から多くの人達が労働者として都市部に移動した。その多くは低学歴で大企業に就職出来る者は少なく、労働組合に入ることの出来ない未組織労働者か、あるいは零細な企業経営者として孤立し、劣悪な環境の中で働いていた。一方農村においては人間関係が強く、地域共同体の中でそれなりに生活を続けていた者が、一人切り離されて都市社会に投げ込まれ、孤独な生活を強いられていた。創価学会が折伏の狙いとしたのは、このような不安定な生活と将来に対する不安を抱えた都市部の孤独な低所得者層であった。池田大作らの幹部は、新興都市住民の満たされない心の空洞部分に巧みに食い込むことによって、彼等の支持を獲得していった。

■第二章「創価学会の政界進出」

第1節「公明党の結成」
  創価学会は、順調に信者を増やし、国内最大の宗教団体になることで社会における存在感が高まっていった。そこで次のステップとして彼等がとった行動は、政界への進出であった。創価学会はすでに1961年11月に宗教活動と政治活動を明確に区別するために「公明政治連盟」という組織をつくっており、結成時に参議院議員9名、地方議会議員275名をかかえ、基本政策として核兵器反対や、民主的平和憲法を守る事、政界の浄化などを掲げており、形の上では立派な政党であった。そして1964年その組織を発展させ「公明党」という政党を独自につくり、宗教とは対極にある政治の世界に踏み込んでいった。
  1964年11月17日、東京両国の日大講堂で結党大会が開かれ、15,000名の会員が結集した。しかし重要なことは、公明党の結党は、形式的に宗教団体である創価学会からその政治部門が、公明党という別組織の政治団体として誕生しただけであって、実態は創価学会の一部であることに全く変わりはなかった。実際発足した公明党の幹部はすべて創価学会の幹部であった。それだけではなく、結党宣言では日蓮上人の言葉を引用しつつ「公明党は王仏冥合、仏法民主主義を基本理念とし日本の政界を根本的に浄化して、議会制民主主義の基礎を確立し深く大衆に根を下ろし大衆福祉の実現をはかる」と規定している。「王仏冥合」とは「王」を意味する政治の世界、あるいは社会一般に対して「仏」即ち仏法の持つ宗教的価値を反映させるというのである。また「仏法民主主義」とは仏の教えを意味しており、仏の教えに則って民主主義を実現するという意味であり、これらは政教分離からいって大変問題があるように思う。
第2節「政界進出の目的は「国立戒壇」の実現」
  そこで創価学会の政界進出の目的が何であったかについて考えてみたい。それには先ず公明党結党までに至る創価学会の政界進出過程を振り返ってみる必要がある。
  学会が初めて選挙に候補者を出したのは1955年の統一地方選挙であった。大半が東京都とその周辺の自治体の議会で54名の候補を立て、53名が当選している。翌1956年の参議院選には6名が立候補して5名が当選した。当時の学会は戸田会長の下、日蓮正宗を広く国民に流布させる「広宣流布」の実現と「国立戒壇」の建立を国会決議することを重要な目的としていた。国立戒壇などとは時代錯誤もはなはだしく、政教分離に違反すると思うが、これを実現する事が創価学会の政界進出の目的であった事は明白である。さすがに「国立戒壇」の実現は、日蓮正宗の国教化を意味すると当然受け止められ多くの批判と警戒心を招いたため、1969年に起こった藤原弘達明治大学教授の「創価学会を切る」について創価学会が言論出版妨害をおこしたという共産党が先頭を切ったキャンペーンにより、創価学会は相当なダメージを被ったのであるが、その窮状を救ったのは皮肉なことに公明党が結党以来批判し続けていた自民党だったのである。
  本件に関しては、当時の自民党の田中角栄幹事長が、藤原氏に出版を思いとどまるよう説得し、出版予定部数をすべて公明党が買い取るとの提案があった事なども明らかになり、共産党の厳しい追及もあり、数カ月にわたって予算委員会や法務委員会で取り上げられ、池田会長らの証人喚問が求められた。しかし、当時の佐藤首相は公明党をかばい続け、証人喚問などについては自民党が数の力にものを言わせ全てはねつけてしまった。そして1970年の創価学会総会で池田会長は、言論出版妨害事件について釈明すると共に創価学会の掲げる「国立戒壇」について、これが国教化を意味するものではなく、以後この言葉は一切使わないと宣言し、さらに公明党との関係について「政教分離」を徹底させていく事をあらためて方針として示したのであった。
第3節「中道主義の国民政党へ政策変更」
  1970年6月25日に公明党は党大会を開き「我々は人間性尊重の中道主義を貫く国民政党として、革新の意欲と実践をもって大衆と共に前進する」と宣言して、「広宣流布」や「王仏冥合」「仏法民主主義」などの宗教用語は一切消えたのであった。
  その後公明党は日中の国交回復に一定の役割をはたした。1971年10月、国連に於いて中華民国が追放され、中華人民共和国がその座を占めるに至ったが、最後まで反対したのはアメリカと日本を含む少数の国々であった。それより以前の1970年6月公明党は先に述べた「新生公明党の門出」と位置付けた党大会で、訪中団派遣などの具体的な対中政策を決定した。公明党は言論出版妨害事件で大きな悪いイメージを世間一般に与えていたため、それを払拭する一環として党のイメージ向上のため、日中問題に積極的にかかわっていく事を打ち出したのであった。
  1971年6月当時の竹入義勝委員長が訪中し周恩来首相と会談し、日中の当面の問題について意見交換し、後の田中首相の訪中の露払いとして重要な役割を担ったのであった。

■第三章「公明党の基本政策」

第1節「鵺政党と揶揄された政策のブレ」
  さて、公明党ほど基本政策にブレのある政党はないのではないか。言論出版妨害事件でその保守的な体質が野党各党から袋叩きにあった反動から、1967年に衆議院に進出した時から公明党は急速に「革新色」を強めた。党大会での日米安保条約に対する表現も、「段階的に解消」「解消に早期に実現するよう努める」「即時廃棄」など社会党や共産党の政策に近くなっていった。自衛隊についても1973年には「違憲の疑いあり」とすっかり「革新色」を打ち出すようになる。しかし、この左翼路線も長続きしなかった。1975年の党大会では「日米安保は一方的な廃棄ではなく交渉による合意であるべき」と「即時廃棄と放棄」そして1981年には「現状においては存続もやむを得ない」と容認に転じ、現在に至っている。
  さらに1990年以降は形を変えつつ連立政権に参加した公明党は、日米安保や自衛隊の容認に止まらず日米同盟のさらなる強化、PKO協力法、テロ特措法、 イラク特措法などを推進し、自衛隊の海外派遣を実現させるなど、外交安全保障政策で は完全に自民党に歩調を合わせている。集団的自衛権についても前年までは「違憲」と 完全に否定していたが、自民党との協議で容認に転じた。これらについて考えると、よく云えばあくまで理念より現実的な対応をとる公明党らしい政策転換と云ってよい。またそこには政治的理念は一切ないと云ってよい。あるのはあく迄政権与党に留まり甘い 汁を吸うという一事のみと云っては云い過ぎであろうか。
  私だけでなく公明党を評する人は、公明党の事を鵺政党と云っている。鵺は源三位頼政が退治した伝説上の怪獣で、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミというもので、正体不明の人物やあいまいな態度を云うのである。まさに公明党はそれにぴったりではないか。公明党が一度は反対を唱えておきながら途中から対応を変化させたものは、上記にあげた他枚挙にいとまが無い。教育基本法の改正についても愛国心の取り扱いについて「国を愛せというのは、すなわち統治機構を愛せよということではないか。これは国家主義の復活である」と難癖をつけ反対したが、最後には妥協している。防衛庁を防衛省に格上げした際にも「憲法に反する」などと反対していたが、最後には賛成している。
  もう一言触れておきたいのは、公明党は、結党後公明党の事を平和の党いうことを旗印にしていることである。今時未だに暴力革命を指向する共産党を除き、平和を考えていない政党はないと思うが如何であろうか。それにもかかわらず公明党は、自分達だけが「平和の党」である事を再三唱えているのには、いささか抵抗を感じるのである。そして平和の党の基になっているのは憲法9条の擁護にあると云っている。
第2節「いい加減な「創共協定」」
  話は前後するが、今となってはそんな事があったのかとほとんどの人が忘れていると思うが、革新色を強めていた1975年、突然公明党の支持母体である創価学会と共産党が、お互いを認め合った上で共存する事を謳った協定に合意したのであった。いわゆる「創共協定」と呼ばれるもので、作家の松本清張の仲介によるものと云われている。そもそも公明党と共産党は政治的にもまた政策的にも相容れなかった。公明党結党以来、お互いに相手を激しく批判し対立していた。公明党は共産党のマルクス主義を否定し、また憲法問題では日本国憲法の平和主義、基本的人権擁護、民主主義という三原則を破棄しようとしていると攻撃していた。一方共産党は、公明党は「反自民」「反大資本」を掲げていながら実際には自民党と一緒になり、反共キャンペーンを繰り広げているとして、公明党の革新姿勢は偽物だとこきおろしていた。また例の言論出版妨害事件の追及を先頭に立って行っていたのは共産党であった。元々両党がターゲットにしていたのは、都市部の中小企業経営者や農村出身の労働者など、比較的下層階級の人達で、選挙のたびに票を取り合っていた。その公明党の支持母体である創価学会と共産党が協定を結んだのであるから、各方面から驚きの声が上がったのであった。しかし創価学会は公明党に対して何等根まわしを行っていなかったため、突然のこのニュースに公明党は衝撃を受けた。直ちに公明党は中央執行委員会を開いて「共産党とは政権共闘しない」ことを確認、一方創価学会も共闘を否定したため、この問題は短期間で雲散霧消してしまった。この例をとっても如何に公明党、創価学会のいい加減さがわかるのではないだろうか。
第3節「一般国民に迎合する人気取り政策」
  公明党が一般国民に対する人気取り政策をとり、如何に迎合しているか。
その最たる例は、10月より実施される消費税に関しての軽減税率の問題である。私はたかだか今回の2%アップに対しわざわざ軽減税率をとる必要はないと思っていたが、公明党のゴリ押しにより導入されることが決定している。しかし軽減税率による減収見込みは1兆890億円と算定されており、それを補う税収は100%確保されておらず、何の為の消費税値上げかわからないのが実状である。
  また、これは軽減税率とは関係ないが、政府は現状の世界景気の不透明さと、国内における消費税アップにより国内景気に大きな影響を与えないように、消費税率の引き上げ幅を上回るポイント還元などを決定しているが、全くやりすぎではなかろうか?明らかに税収が足りないから増税するという出発点と大きく矛盾しているの は明らかである。
  公明党の政策で、今後与党の中にあって一番問題となるのは矢張り憲法改正に対する取り組みである。安倍首相は2020年を目標に「9条に自衛隊を明記する」「教育無償化」「災害時における国会議員の任期を延長する緊急事態条項」「参院選挙区の合区」などの改正を目指している。これに対して公明党の態度は今のところ煮え切らない。公明党の姿勢は必ずしも憲法改正しないという立場ではないが、基本は「加憲」であり山口代表は改憲について、昨年「政権が取り組む課題ではない」と発言し、最近も慎重な姿勢を示している。しかし公明党としても与党の一員として、激動する世界情勢の中で改憲問題をうやむやにすべきでない事は理解しているのではないか。確かに改憲は国会において発議され、その後国民投票により決定されるものであるからといって、この重要課題については与党だけでなく、野党も含めて十分な協議が必要であろう。しかし、このところ衆・参両議院共に憲法審査会はほとんど活動していない有様である。ここは与党内で十分な協議を行っていくべきところであるが、公明党は創価学会の意向(婦人部)に影響され、9条問題には消極的であるのは残念である。しかしこの党の本質はあく迄与党に止まるという事なので、今後どのような態度に出て来るかはなはだ興味のあるところである。



                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2019年6月28日 金言(第83号)
『日本を貶める自称文化人 寺島実郎』

■第一章「人物像」

第1節「TBS「サンデーモーニング」にレギュラー出演」
  久しぶりに人物論を展開したいと思う。俎上に取り上げたのは上記の寺島実郎氏である。
  さて、寺島実郎氏は皆さん方の中でよく見ておられる人も多いかと思うが、TBS(毎日放送)が毎週日曜日8時から約2時間放映しているサンデーモーニングなる番組のレギュラーである。この番組は1987年10月から現在も司会を務めている関口宏氏によって、関口宏のサンデーモーニングとしてスタートし、途中新サンデーモーニングと名を変えたが、1999年4月からはサンデーモーニングとして現在に至っている長寿番組である。内容については勿論いろいろな見方はあるが、私に云わせれば関口氏自身相当の左翼思想の持ち主で、番組自体我が国を貶める自虐的な反日思想に貫かれている。
  司会者である関口氏の事について今日は詳述を省くが、意外に視聴率が高い事には驚かされる。かく云う私もある時期この番組をよく見ていたが、ある時から余りにもその偏向がきつい事に気がつき、最近はめったに目にしていない。しかし、今日寺島氏の事を書くため、6月17日、23日の放送について実際によく見て彼の偏向発言をつまびらかにしたかったのであるが、生憎彼は出演していなかった。
  実際のパネリスト(コメンテーター)に名を連ねているのは次の人達で、1回の放送にこの内の4〜6名が出演しているようである。
主なパネリストは
  • ・寺島実郎(日本総合研究所会長、多摩大学学長)
  • ・浅井慎平(写真家)
  • ・大宅映子(ジャーナリスト)
  • ・田中秀征(元衆議院議員、福山大学客員教授)
  • ・姜   尚中(東京大学名誉教授、政治学者)
  • ・金子 勝(慶応義塾大学教授)
  • ・古田大輔(元朝日新聞記者)
  • ・幸田真音(作家)
  • ・田中優子(法政大学総長)
  • ・佐高 信(評論家、雑誌編集者)
  • ・西崎文子(東京大学教授)
  • ・目加田文子(東京大学教授)
  • ・涌井雅之(造園家)
  • ・河野洋平(元衆議院議長)
  • ・岡本行夫(外交評論家)
  • ・藪中三十二(元外務次官)
  • ・青木 理(ジャーナリスト)
  • ・岸井成格(元毎日新聞主筆)2018年5月死去
  • ・その他週間御意見番 張本 勲(元プロ野球選手)
  •   その他のメンバーも存在するが、現在のパネリストはほとんどが司会者の関口氏の論に同調する左翼系の人達と云って差し支えない。
    第2節「三井物産では調査畑を歩む」
      さて、寺島実郎氏であるが、関口氏に即座に悪い意味で反応する問題のある人物である。寺島氏は1947年北海道生まれで、早稲田大学大学院から三井物産に入社、米国三井物産ワシントン事務局長を経て本社の業務部総合情報室長を務めた後、三井物産戦略研究所に移り、取締役、常務を経て2009年には会長に就任している。その後三井住友ファイナンシャルグループのシステムインテグレーターである日本総合研究所の会長となり、現在に至っている。その間、早稲田大学大学院の教授を務めた後2009年4月には多摩大学の5代目の学長に就任している。初代学長の野田一夫氏は、大変見識の高いいユニークな学者であった。寺島は第5代目の学長であるが、4代目は有名な経済学者の中谷 巌氏であった。
      寺島氏は悪く云えば世渡りがうまく、彼がどのような縁で多摩大学にもぐりこんだのかよくわからない。三井物産の調査部時代は熱心に各国での調査やプロジェクトを研究し、人脈を築くと同時にアメリカ、中東の知識を養い、一つの国を見る際には他の外国からの視点で考えるように努めているのが彼の特色であり、これはこれで一つの見識である。
      本来は、政治経済において東アジアの統合論者で、憲法9条2項の改正と共に対等な日米関係と、アジアの多国間による安全保障を唱える一方、軽武装による経済国家路線の堅持が持論で、穏健な保守派と一般的には見られていた。私はブレの大きな人だと思っていたが、ブッシュ(子)政権以降しばしば反米的な言動を弄するようになり、数々のマスコミにおける発言からして、彼は「親米入亜」としきりに唱えているが反米派と見て差し支えないのではないか。また理由は不明であるが、アメリカ同時多発テロ事件の陰謀説を強く主張しており、そのあたりは、詳しく調べる必要がある。もう一つ特記しておかなければならないことがある。
      彼が一番自己の経歴の中で勲章にしているのが、三井物産戦略研究所会長と日本総合研究所会長の肩書である。寺島氏は三井の研究所の会長となっているが、ネットで調べる限り2019年5月現在組織図上会長に寺島の名前はない。
      いずれにしても、名門商社のシンクタンクの重責を寺島氏のような軽い人間が担っていたのは全く驚くべきことである。ある人は著書の中でこれには大変失望した。三井物産はそこまで落ちぶれたか。三井物産の輝かしい歴史と伝統を汚す人間こそ寺島氏であると、あからさまに書いている。小生の知り合いに三井物産のトップに近かった人物がいるので一度三井での評価を聞いてみたいと思っている。
      さらに日本総合研究所とあるが、実はこれは有名な日本総研ではない。当研究所は、正式には株式会社日本総合研究所であって、資本金が100億円、研究員2,500名を数える日本を代表するシンクタンクである。一方寺島氏の日本総合研究所は財団法人であり、日本総研と比較すると規模も内容も研究員の数、並びに質も日本総研とは比べ物にならない。
      寺島氏の日本総合研究所は、寺島文庫などというものを作って、寺島氏の個人研究所ではないか?いずれにしても紛らわしい名前を使って権威付けをはかっているのではなかろうか。寺島氏にとっては、株式会社日本総研と間違えられる方が、都合がよいのであろう。
    第3節「民主党 鳩山首相の外交ブレーン」
      彼が一番男を下げたのは、覚えている人も多数おられると思うが、彼は民主党の鳩山首相の外交ブレーンとされており、鳩山氏のシナリオライターと思われていた。具体的には鳩山氏が2009年9月号の「VOICE」に寄稿した論文は寺島氏によるものであり、その中でインド洋における海上自衛隊による補給活動の撤退や、沖縄の普天間基地を巡る諸問題について否定的な意見を弄している。鳩山氏には頻繁に助言をしていたと称するが、その効果は如何なものであったろうか?彼がすっかり信用を落としてしまったのは、2009年12月に鳩山政権の暴走により、緊張が高まっていた日米関係の誤解を解くとしてワシントンを訪問するが、アメリカ政府からは全く相手にされず政府の有力者とは会談できず、すごすごと帰ってきたことは記憶に新しい。その後鳩山氏はすぐに退陣したため、寺島氏のブレーンとしての役割は何等寄与しないまま終わってしまったのである。
    第4節「日米関係をおかしくした張本人」
      寺島氏の著書は多数あるが、少し読んでみるとどうもこの人は確たる信念を持って行動する人ではない。云いかえれば自分の考え方を全く持たず、他人の論を批判するのが彼の体質である。先に述べたように彼の実績として鳩山由紀夫をそそのかし、自らアメリカに単身で行ったのはよいが、オバマ大統領はおろか、ワシントンの要人に一切会えず帰国した。彼の言葉に重みなど何もない。それにもかかわらず堂々とテレビに出て一人前の事を云っているのには驚き、あきれる。私ならそのような破廉恥な事は絶対に出来ない。サンデーモーニングをご覧の方は気がついておられるであろうが、彼の口癖は「考えなくてはいけない」であるが、そういう以上はその結果が賛成であろうと反対であろうと答えを出し、人をむやみに批判してはいけないと思うがどうであろうか?実際彼は自分の考えと違う考え方を表明した人を批判し過ぎるように思う。テレビの討論で一方通行で物事を論じれば道路は渋滞してしまう。彼の論の進め方は物事に対する別評価を認めない。これは評論家としては落第と思う。
      私が一番彼に腹が立つのは、現在我が国を取り巻く外交案件がこじれている原因をつくったのは、鳩山元首相の外交顧問として「東アジア共同体」とか普天間問題については「基地は最低でも県外」とか又日本、米国と中国の正三角形理論をふりかざし、頭の悪い鳩山氏をそそのかして日米関係を全くおかしなものとしたのが寺島氏であることを、あらためて認識しておく必要がある。

    ■第二章「著書『世界を知る力』を読む」

    第1節「戦後の特殊な固定観念からの脱却」
      しかしながら私の見た寺島氏はテレビの映像を通じて理解し得たものなので、もう少し違う角度から彼の事を研究すべきであると思い、彼の多数の著書の中から15万部を超す大ベストセラーであるPHP新書の「世界を知る力」を読んでみた。この中で彼は先ず我々日本人が戦後おかれた位置は、アメリカを通してしか世界を見なくなったと考える。そしてそれ以前の日本はもっとロシアとの関係が深く、徳川幕府の開国はロシアの影響を抜きにしては語れないという。それだけでなく我々日本人の中には中国を源泉とする思想が連綿として受け継がれている。私はこの事を「歴史時間の体内蓄積」といっている。このような歴史時間の流れをはっきりと自覚すれば、戦後というわずか70年の特殊な時代の固定観念から脱却できると考えている。しかし、ただ日本の歴史を考える時、すべてが中国発祥のものだけではない。平城京の跡を見ると、ここにはインド、中国、朝鮮の石が埋め込まれている。すなわちアジア、ユーラシアの歴史時間が埋め込まれている。しかしこれは日本人が、アジア、ユーラシアのコピーかというと決してそんなことはない。日本人は他からの文化をまねるだけでは満足出来ず、それを吸収した上更にそれを発展、進化させてきたのである。このようにして出来た日本人の原型が60年か70年で変化する筈がない。
    第2節「政治の新しい枠組みが必要」
      戦後長く続いた冷戦が1991年に終わり、あれほど重くのしかかっていた社会主義という亡霊が消え去った。この中にあって私は1990年代から日本の政治家、経営者は「静かな混迷」に迷い込んでしまったと考えている。日本の政局では1993年に自民党の内閣が崩壊していわゆる「55年体制」が終わり、政治の新しい枠組みが求められるようになる。一方世界ではIT革命が起こりアメリカ経済が復活し、いわゆるアメリカ流資本主義の世界化「グローバリゼーション」が席捲するところとなった。これに対して日本はどうだったか。改革、改革と声高に呼ぶのはよいが、すべて小手先の改革に終わり、「改革」から幻想による「漂流」を続けたのであった。一方中国の台頭は目を見張るものがあり、21世紀の日本が向かうべき進路を考えるとき、「日米関係は米中関係」であるという国際文化会館の創始者松本重治の言葉に行きつくのではないかと思っている。まさに我々日本人は日米中のトライアングルを認識していかなければならない。
      かつて「雁行形態論」という経済理論があって、これによれば経済の後進国では、最初は消費財の輸入から始まり、次いで国内生産から輸出に向かい、次に生産財においても同じ道をたどり経済成長を遂げる。従って雁が列を作って飛ぶように、発展途上国は先進国の後を順番に負うことになる。戦後のアジアの経済は、まさにこのメカニズムにより進められてきた。日本が先頭を切り、これに韓国、NIESが。ついで中国、インドが後を追うという構造である。しかしアジアの経済の現状は、かつて市場の最終目的地と定まっていたものが、今や相互に活発な貿易を交わすという分散型ネットワーク型の社会へと移行している。分散型ネットワークの時代に照準を合わせて、日本は空虚なマネーゲームとは距離をとり、高度なものづくりと技術力を持った国に向って進んで行かなければならない。
    第3節「キーワードは「親米入亜」」
      今日本に求められている事は「親米入亜」というキーワードにつきるのではないか。すなわち日本はアジアとアメリカをつなぐ「架け橋」としての役割が期待されているのである。したがってアメリカに対して明確な外交原則を確立するのと同様、中国に対しても明確なる外交原則を確立すべきであろう。勿論一極支配の超大国だったアメリカと中華思想の本家中国である。自国価値中心主義の二つの大国にはさまれた我が国にとって、これはきわめて難しい命題である。しかし我が国が漂流と思考停止を繰り返さないためにも、この日米中のトライアングルを、難しい事ではあるが是非正常な形を保つよう努力しなければならない。
      鳩山氏が首相となり「東アジア共同体構想」が浮上しているが、この概念自体は目新しいものではない。この考えは東アジアのさまざまな国から途絶えることはない。それは「日米安保」が当事者同士だけの問題ではないということである。中国や韓国は今でも日米安保こそが日本の軍事大国化を抑えているという認識を持っているのである。この考えは「日米安保―ビンの蓋論」というのであるが、あまりにも歪んだ考え方ではなかろうか。このような情勢の中で東アジアとEUのような共同体をつくるのは難しいと思うが、私は必ずしもそうとは思っていない。思うに「日本が世界を知る力が不足している」課題として世界的な通信社と一流のシンクタンクを持っていない事をあげたい。
    第4節「「鳥の眼」と「虫の眼」」
      世界の潮流に翻弄されずに自ら舵を取れる国となるにはシンクタンクと通信社の整備こそが喫緊の課題である。私は世界を知る手段として普段はメディアを活用している。インターネットの発達によって今では誰でも比較的容易に一定レベルまでの情報を取得出来る。しかし大量の情報にアクセスできるようになると、かえって膨大な情報の中から体系化したものを見つけにくくなっている事は間違いない。私は体系化した情報を身に付けるためには矢張り読書をおすすめしたい。そういう意味で私は古本屋街にしょっちゅう顔を出すのである。そして私は「世界を知る力」を養うためには大空から世局を見渡す「鳥の眼」としっかり地面を見つめる「虫の眼」が必要だと思っている。

    ■第三章「批評」

    第1節「説得力に乏しい独りよがりの主張」
      この本を一読して思ったのは、彼が書く内容はいずれもどこかで聞いた事柄である。彼自身の発想による独創的な意見はほとんどない。このような本が15万部も売れたのは驚きである。丁度彼がこの本を書いたのは鳩山由紀夫が首相となった頃と思うが、「冷戦型世界認識」から脱却せよと彼は云う。これはどういうことかというと、独立国に外国の軍隊が駐留し続けることはいかにも不自然であり、同じく第二次大戦で敗れたドイツは冷戦終結後、1993年には在独米軍基地の縮小と地位協定の改定を実施している。更に日本は現在でも米軍駐留費の7割を負担している。このような例は世界にないと云っているが、地政学的に厳しい状況(北朝鮮、中国、ロシアの脅威)でドイツと日本は雲泥の差がある。
      彼が唱えるのは、アメリカが韓国や日本に軍事基地を持ち続ける根拠は「前方展開能力」が必要であるとの基本に立っているのであるが、戦略情報戦争時代と云われている今日、安全保障条約は現行のままで、米国基地を沖縄、朝鮮半島からハワイ、グァムに移転させる事は十分に検討に値すると論じている。これ即ち「駐留なき安保」であるが、私はとんでもない間違った考え方と思う。沖縄、韓国に駐留することこそ中国、北朝鮮に対する最も有効な抑止力と考える。また鳩山氏の唱える「友愛」理論にすっかりはまり、「友愛」を現実のものとするための政治的行動が必要であると説く。またアメリカの最も嫌う「東アジア共同体」にすっかり傾いているのは日本の国益に全く反するものと云える。
      その他枚挙にいとまがないが、彼の主張は誰かの考え方のやき直しが多く、説得力に欠ける。すなわち彼独自の理論主張に乏しく独りよがりの展開では誰も見向きもしないと思うのである。
      こんな彼がしたり顔で、サンデーモーニングで関口氏に同調して反日的言動を弄する事はいい加減にやめてほしい。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2019年5月31日 金言(第82号)
    『ブレグジットの行方』

    ■第一章「英国とEUの歴史的経緯」

    第1節「英国とEUのかかわり」
      2016年11月29日付の金言に「ポピュリズムの行方、英国のEU離脱」と題して英国のEUからの離脱について論じた。すなわち2015年6月23日に行われた国民投票により英国のEUからの離脱が決定したのであったが、私はここに至る迄の20世紀の二度の世界大戦を教訓にして、国境のないヨーロッパ大陸をEUという形で実現を目指した歴史すなわち当初の石炭鉄鋼共同体(ECSC)がフランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、ルクセンブルク、オランダの6か国をメンバーとしてスタートし、その後ヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)がつくられ、この三つが1967年に合体して出来た組織が「ヨーロッパ共同体(EC)」となった事を詳しく述べた。そして上記の6ヶ国にアイルランド、イギリス、デンマーク、ギリシャ、スペイン、ポルトガルが加わり1991年12月に「ヨーロッパ連合(EU)」が誕生して、それが前身のECの本質である経済共同体へ発展的に拡大して、1993年には通貨の統合を果たした。これには英国は不参加であったが、最終的にECが目指したのは共同体をより大きくして政治的な統合をはたすことにあったという事にも言及したのであった。
    第2節「EU離脱を選択した背景」
      しかし、この欧州連合の政策の執行と決定は、ブリュッセルにある三つの機関、すなわち理事会、欧州議会、欧州委員会が把握し、この組織は徐々に官僚化して行き、英国を始めとする主要国との間に溝が深まってきていたのはまぎれもない事実であった。
      域内において関税は撤廃され、人の自由な移動が、ヨーロッパの国家間において、国境検査なしに許されるという事がシェンゲン協定(後にアムステルダム条約)により確立した。一方通貨は、英国のポンドを除くユーロに一本化されたもののEU全体の財政政策は一本化されておらず、すべてフランクフルトにある欧州中央銀行(ECB)が握っており、さらに加盟各国の財政赤字をGDPの3%以内に止めるという原則をつくったため、2018年に起こった財政危機にはEUとして適切な措置を講ずる事が出来ないという、大変大きな矛盾が発生したのであった。
      さらに、近年ヨーロッパ大陸への移民が増加して、一部の労働者の領域を侵すということで加盟各国国民の不満は高まっていた。特に2004年以降ポーランドなどの東欧諸国がEUに加盟すると移民が増加し、このため当然労働市場を圧迫するだけではなく、公的サービスに負担がかかり、移民問題に真剣に取り組まない政治家に対する不信、不満が高まっていた。そして、労働者の域内移動は自由であったから、移民労働者は賃金の高い英国を目指す事になり、一時は景気もよかったため問題は大きくならなかったが、2008年の世界金融恐慌の後、更に移民が増加して政治経済情勢を大きく圧迫することになった。このため公的なセクターに対する投資は大きく停滞し、英国民の不満は膨張して先に述べたようなブリュッセルのEU官僚に対する突き上げが急速に拡大し、イギリスの主権回復と移民に対する管理を厳格化すべきであるとして、この際EUを離脱すべきであるという考えが高まっていったのである。
      2016年にも金言で書いたが、英国民が最も不満としているところはEUの政策の多くは、ブリュッセルにある選挙で選出されていない、選挙とは全く無関係の欧州委員会のメンバーにより決定されている事である。一方選挙で選ばれた欧州議会は、いわば形だけで、EUの意思決定にほとんど影響を及ぼす事が出来ない。すなわち欧州議会は法案の提出、形成、破棄の権限を持てないという信じられないような状態で、わずかに欧州委員会が提起した法案の修正しか出来ないという、片手落ちとも云える状況なのである。
    第3節「国民投票に至る経過」
      英国は、1973年になって今のEUの前身である欧州共同体(EC)に加わった。それ以前から、英国は共同体への加盟を熱望していたが、フランスのドゴール大統領の猛反対により実現できず、ようやく1973年に加盟する事が出来たのである。
      ここで国民投票に至る経過をもう一度見ておきたい。大概の人は覚えていないと思うが、英国は、1975年にも当時のECからの離脱を問う国民投票を行った事がある。これは労働党のウィルソン首相の時代で、この時はEC残留支持が上回り離脱の事態を免れた。しかし、1980年代の後半、当時欧州の単一市場への重要な支持者であった、保守党のマーガレット・サッチャー氏がECに対して懐疑的な態度を見せるようになってから、離脱の意見が右派の中にも広がった。
      一方2010年以降のユーロ危機や、金融規制を巡る大陸諸国との対立のためEUに対する信頼感が低下して、EUからの離脱を主張するイギリス独立党への支持が拡大した。2010年以降この党の人気が高まり2014年にはヨーロッパで最も成功した党になった。一方、もともと親EU的な保守党の中でも上述したサッチャー政権の末期においてもEUに対する懐疑派の勢力が強まり、1997年に保守党が下野した後も党内の対立が激化したのであった。
      2015年保守党のデビッド・キャメロン首相は、総選挙のキャンペーン中にEU離脱の是非を問う国民投票の実施を公約した。キャメロンは「EUに渡してきた権限を、今後は英国に取り戻す」という主張をポイントに国民投票にのぞんだのであった。この背景は、もともと英国に対する誇りの強い保守党としては、2010年頃から表面化してきた欧州経済、更に世界経済に不安を広げるユーロ圏の債務危機などから、EUに対して強い疑念を持つようになっていた。これは言い換えるとユーロ導入を拒み、今なおポンドを維持する英国として、ユーロ危機によりいわば沈みゆく泥船のようなEUに、何故いつまでも加わり続けなければならないのかというところにあった。
      このような疑問の声が広がり、EU離脱を求める勢力が徐々に拡大していった。特に先にも述べた1993年結党のナイジェル・ファラージュ党首率いる英国独立党の躍進には目を見張るものがあった。保守党の内部でも「EUとはもう縁を切って英国は独自に各国と貿易協定を結ぶべきだ」という声が大きくなり、キャメロン氏はこれに対して何等かのガス抜きが必要となり、2013年1月に「EUに渡した権限の一部を取り戻し、EUとの関係を見直す改革案を示し、その上でEUに残留したい」という約束を国民に示したのであった。

    ■第二章「EUとの離脱交渉の行方」

    第1節「EU離脱の決定と離脱交渉の開始」
      2016年6月23日、国民投票が実施された。キャメロン氏は国民投票でのEU残留が勝利することを確信していた。しかし、結果は「離脱支持」51.9% 「残留支持」48.1%となり、キャメロン氏は敗北を認めて首相を辞任した。そしてキャメロン内閣で内務大臣を務めていたテリーザ・メイ氏が政権を引き継いだのであった。しかし、メイ氏は自己の政権基盤を強固にするため1年も経たないうちに総選挙に打って出たが、その思惑は見事にはずれ、保守党は過半数を失い、メイ政権は北アイルランドの地方政党である民主統一党と連立を組むことによって、かろうじて政権を維持しているのが現状である。
      2017年3月29日、英国政府は離脱を規定したリスボン条約第50条に従い、2019年3月29日にEUから離脱することを決定した。その際メイ首相は、EU離脱後英国は欧州単一市場、またはEU関税同盟に恒久的に加盟しないという意向を表明して、以後欧州共同体法を廃止して英国国内法を復活させる事を明らかにした。
      EUとの離脱交渉は、2017年6月に公式に開始され、2018年10月までに離脱案を締結することを目指した。同年6月から2年間にわたって英国とEUは離脱交渉を行ってきた。離脱交渉は離脱の条件についての交渉と、離脱後の関係や移行期間についての交渉の二つに大別される。
      離脱条件についての交渉は先ず英国のEU離脱後、英国に居住するEU市民とEUに居住する英国市民の法的地位をめぐる問題、もう一つは英国のEU離脱後、英国が支払うべき「手切金」(これは英国を含むEU各国はすでに2020年までのEUの歳出計画に合意しているため、例え離脱を終えても予算分担金支払の義務が生じる)、さらに南北アイルランド関係を巡る交渉は三つ目の重要な課題である。
    第2節「離脱後の英国とEUの関係」
      離脱後の英国EUとの関係については、ヨーロッパ経済領域(ノルウェー)型、二国間協定(スイス、カナダ)型、さらにWTO(世界貿易機関)型の三つの可能性があるが、英国はEU離脱後も単一市場にとどまるヨーロッパ経済領域をソフト離脱、それ以外を強行離脱と云っている。ノルウェーはEUに加盟していないが単一市場に属している。そしてその対価としてEUに財政的な供出を行っている。また人の自由な移動も受け入れている。英国と云えば金融という事になるのであるが、ロンドンの国際的金融街シティを拠点としている金融機関は、英国が単一市場にとどまれば、シングルパスポート制度によりEU域内で自由に営業出来る。しかし離脱派が移民の制限を訴えて勝利したため、ノルウェー型をそのまま適用するのは難しい。
      スイスやカナダはそれぞれEUとFTA(自由貿易協定)を締結しているため、工業製品の貿易には関税はかからない。しかし英国の主要産業である金融業やサービス業についてはすべてがカバーされる保証はない。もし英国がいかなる通商協定の締結にも失敗すると、WTOルールが適用されることになる。これは英国とEU諸国との貿易にはすべて関税がかかることになり、これは双方にとって最悪の選択であるから、両者の被る経済的な打撃は甚大なものとなる。従ってこの可能性は低いと考えられるものの絶対にないとは云い切れない。英国にとっての問題を一言で表現すると、移民を制限しつつ如何にシティの金融機関や製造業の利益を守るかということにつきるが、そううまく行くであろうか?EU当局は「いいとこ取りは許さない」と釘を刺している。
      交渉結果によっては、多国籍企業が大陸ヨーロッパ諸国に活動拠点を移すことが考えられ、そうなった場合の英国経済への影響ははかり知ることの出来ない大きなものとなろう。

    ■第三章「今後の英国の動向」

    第1節「国内への影響」
      英国の国民投票の結果、保守、労働の二大政党の両党内で熾烈な路線対立が起こった。すなわち保守党では、内相のテリーザ・メイ氏が党首選挙で勝利したが、メイ氏は国民投票には消極的で残留を支持していた。ところが首相就任後は、移民の制限を重視して、単一市場からも離脱するという強行離脱路線をとった。一方野党である労働党は、左派的な経済路線の推進を公約して総選挙では支持を回復したが、党内の対立によりEU離脱問題には確たる態度を打ち出し得ず、あいまいなままに終わっている。
      今回のEU離脱については、英国にとって膨大な事務負担を要するため、英国は外交面での存在感や北大西洋条約機構(NATO)において、従来通りアメリカとタイアップしてNATOの中心として行動出来るかどうか心配する向きが多い。しかし一方では、英国の保守党政権が完全にグローバル化に背を向けたわけではない。日米両国やEU諸国との関係を深めていこうという考え方もあり、その成果は未知数である。
      英国国内ではもう一つの問題点がある。EU残留派が多数を占めたスコットランドが独立に踏み切るかどうか、英国にとって大変頭の痛い泣き所である。英国という大国がEUを離脱するということは、当然EUの国際的な影響力にとって大きな打撃となることが予想され、英国以外の加盟国でもEUに批判的なポピュリズム勢力が支持を集める中、EUとしてはこれ以上離脱国が出ないように、英国に対して厳しい態度で臨むか、あるいは英国を完全に追い込むのを差し控えるか、今EU自身も極めて難しい立場となっている。
    第2節「メイ首相がまとめた離脱合意の挫折」
      以上述べてきた事項を内容として、2018年3月25日英国とEU(英国を除く27ヶ国)は次の通り合意に達した。
  • 1.英国のEU離脱日 2019年3月29日23時(英国時間)
  • 2.移行期間 2020年12月31日まで(離脱後21ヶ月間)
  • 3.移行期間中の権利、義務
  •   ・EUの法令、政策への議決権なし
      ・単一市場と関税同盟に残留
      ・移行期間中、第三国との通商交渉、通商締結可能(協定発効は移行期間後)
  • 4.EU市民、英国市民の権利
  •   ・移行期間中に英国に移住するEU市民、EU加盟国に移住する英国市民の権利は離脱前と同じ水準を保障
  • 5.未払分担金
  •    英国はEUの14〜20年多年次予算枠組みで約束していた拠出金分を負担等
  • 6.北アイルランド国境管理問題
  •    英国、アイルランド間の人の移動の自由確保、専門委員会の設置等
    以上のEU英国合意案、すなわち英国のEU離脱案は、本年1月15日議会の下院において賛否が問われたのであるが、実に賛成202、反対432と記録的な結果となり、続いて3月12日、3月29日に議会に離脱の是非を問うたが、いずれもメイ首相の大敗に終わった。メイ首相は議会に対して自らEUと協議してまとめた離脱案か、合意なき離脱かという二つの案を離脱期限である3月29日までのぎりぎりまで迫ったが、強硬離脱派は首相の案は、英国をEUの中に事実上閉じ込めるものとして同意せず、逆に穏健離脱派や残留派は、EUとの関係を含めて自国の将来が不透明であるとして納得しなかった。
      メイ首相の議会における政権基盤は保守党と、閣外協力する北アイルランドの民主統一党であるが、首相としては、この両党の支持により議会の承認を得ることを目論んでいた。しかし、首相が自らの辞職と引き換えとしても十分な支持が得られなかった。仕方なく首相は、野党第一党である労働党との与野党協議により議会承認を取り付けようとしたが 5月17日労働党のコービン党首はメイ首相に対して協議を終結したいとの書簡を送り、与野党の合意、協力はあえなく挫折したのであった。
    第3節「メイ首相の辞任」
      これによりメイ首相の求心力は一段と低下した。離脱期限を過ぎ、3月29日の離脱が不可能となった英国と欧州連合(EU)は4月10日、臨時首脳会議を開き離脱の期限について再協議したが、8時間にも及ぶ議論の末、英国の離脱期限は10月31日迄延期されることになった。実際メイ首相はこれよりも早い時期7月、8月に離脱する方向で調整を進めて来た。しかし、はっきりとしていることは何をおいても離脱関連法案が英下院で承認されない限り離脱は不可能なのである。
      上記の通り野党との協議も不発に終わり、それに加えて保守党内部でも意見の相違が目立っている。5月26日から始まった欧州議会選挙では、英国においてEUからの離脱を掲げるブレグジット党が最多の議席を獲得し、EUへの残留を主張する自由民主党がそれに次ぐとの見通しとなった。
      国内二大政党の与党の保守党、野党の労働党は共に大きく議席を減らし、特に保守党は10%にも満たないのではないかと報じられている。これより前、5月2日に行われた英国の地方統一選挙において保守党は記録的な惨敗を喫している。このようにメイ氏の拠って立つ基盤がきわめて脆弱なものとなり、メイ氏の去就が注目されていたところ、5月24日メイ氏は保守党幹部と面談後、突然「6月7日に党首を辞任する」と発表し、後任の選出後当然首相職からも退くと発表した。
    第4節「迷走を続ける英国」
      メイ首相は、先に述べたように今年に入り、EUとの離脱協定案を三度にわたり議会において否決され、保守党内部から退陣を迫られていた。しかし、今月21日は条件付きではあったが、二度目の国民投票を容認する考えを示し、議会に諮る方向を示していたが、それが保守党内において大きな反発を呼び、混乱が広がっていった。
      後任には強行離脱派の重鎮、ボリス・ジョンソン氏が出馬を表明した外、強硬離脱派の諸氏が名乗りを上げており、強硬派の議員が首相に就任した場合、メイ氏がEUと合意した離脱協定案を白紙に戻す可能性が大で、これはいよいよ「合意なき離脱」となり、もし英国の後任の首相がEUに対して協定案の見直しを求めればEUとの対立が先鋭化するであろう。
      一方英メディアによると、総選挙が今後実施され、国民投票の再実施を求める労働党が勝利する可能性も指摘されている。5月中旬に行われた統一地方選では、EU残留派の政党が勢力を大きく伸ばしているので、国民投票が再度実施されれば今後は残留という選択肢も残されている。
      何故物事を冷静に判断するという理性的な英国人が、誰が考えても国益とならない合意なきEU離脱へ傾いていったのか、私のようなものには到底理解出来ないのである。無責任に云えば、今回の離脱問題の責任は、ひとえにデビッド・キャメロン前英国首相にある。
      キャメロン氏は1975年の労働党政権下におけるEU離脱の国民投票が残留に決まった事実が頭の中にあり、英国民が離脱という判断に踏み切るなどあり得ないと高をくくっていた節がある。それを裏付けるように強行離脱派のボリス・ジョンソン氏ですら、国民投票では到底離脱には至らないと予想していたことからも窺がえる。   いずれにしても現状では今後どのような推移を辿るか混沌としており、まさに目が離せない。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2019年4月27日 金言(第81号)
    『日本にとって台湾とは何か』

    ■はじめに

      前回は我が国が明治維新以来、どのような経過で韓国を併合したかについて説明した。端的に云ってこれはあく迄、日本が南下を図るロシアを食い止めるためのやむにやまれない行動であった事は、多少なりともご理解頂けたと思う。日本が武力を持って韓国を植民地化したと云う短絡的な朝日新聞的な考えは、全く間違ったものである事は理解されたのではないかと思う。もう一度復習しておくと、明治の初年に存在していた李氏朝鮮は、独立国家として存続していく素地も又意欲もなかったのである。彼等は只清朝の狗であり、清朝が衰えればロシアに頼る。自主性を全く欠いていたのである。日本としては先ず李氏朝鮮の宗主国清国を排除すべく日清戦争を戦ったが、戦後三国干渉を受け、一応独立らしきものをした大韓帝国が、ロシアと緊密な関係を結び我が国を排除したため、やむなく乾坤一擲ロシアに勝負を挑み勝ち取った結果が朝鮮併合であった。
      それではもう一つの台湾はどうであったかであるが、近代史を教えないため多くの日本人は、日本と台湾の関係に無知な人が大半と思うので、この際台湾について詳述しておくと、台湾は日清戦争により清国から割譲されたもので、朝鮮とは違い純然たる植民地であった。
      そもそも台湾島は地図で見ればわかるが、中国大陸の西岸、すなわち中国の浙江省、福建省から約200kmの台湾海峡をはさみ存在している。面積約36,000平方キロメートルを数える独立した島である。なお台湾の西方約50kmの地点に面積約140平方kmの澎湖諸島がある。北海岸は東シナ海、東海岸は太平洋に面している。日本列島の終点ともいうべき場所で、東西400km、中央部には3000m級の山々が連なり、平野部が少ない事は、我が国と同様である。

    ■第一章「オランダ統治時代」

    第1節「ポルトガル人が台湾本島を発見」
      さて中国は事あるごとに、台湾は、有史以来中国の一部であると云いつのっており、台湾の開放を主張している。台湾が何時の時代から中国の版図に編入されたかについては諸説があり明らかではないが、上述の澎湖諸島に元代に巡察司が設置されたという記録があり、太古の昔から中国本土に隷属していたものではない事は確かである。実は台湾本島を発見したのは15世紀に大航海時代の先鞭を切ったポルトガル人で、西太平洋を航行中、緑したたる美しい島影を発見してフォルモッサ(美麗島・うるわしの島)と名付けたとされている。種子島に鉄砲が伝来されたのは1543年であるが、この発見は翌年1544年と推定されている。丁度時を同じくして室町時代の衰退と戦国時代の到来による混乱に乗じて東アジアの海域を荒らしまわっていたのがいわゆる「倭寇」である。倭寇とは、九州、四国、瀬戸内海を根城として活動する「武装強制貿易集団」の事で、この集団の中には日本人だけではなく、かなりの朝鮮人や中国人も加わっていたことから、東アジア海域のいわば「連合武装勢力」で、李氏朝鮮はもとより当時の中国の明王朝は国をあげて倭寇退治にのぞんだものの、その勢力はすさまじく、明王朝衰亡の一端となったとさえ云われている。この連中がかっこうの巣窟としていたのが澎湖諸島であり、さらに追撃されると逃げこんだのがこの台湾本島であった。
      ポルトガル人が発見した頃の台湾には少数の漢族系の移民の他、現在高山族といわれている(日本統治時代は高砂族)という、マレー、ポリネシア系の人々が先住していた。
    第2節「オランダが中継貿易の基地として領有」
      さて、台湾島の領有が確認できる初めての勢力は、ポルトガルやスペインのアジア進出に大きく後れを取ったオランダであった。オランダは、1596年に現在のインドネシアのジャカルタ(バタビア)に上陸し、まもなく植民地を経営するための目的会社である「東インド会社」をつくり、バタビアを拠点として中国や日本との貿易に乗り出し、そのための中継基地として台湾に目をつけた。そして最初に澎湖島を攻めるが明王朝の抵抗に会い、いったんは後退するが再度澎湖島を攻め占領したのであった。明にとって澎湖島は重要な場所であったから全力をあげて反撃に移り、8ヶ月に及ぶ攻防の末明王朝は、オランダの澎湖諸島からの撤退を条件にオランダの台湾占領を認めると共に、オランダとの貿易に同意するという停戦協定案を提示した。オランダにしては思ってもいなかった好条件であったからこの条件を受け入れたのであった。
      明王朝がどうしてこのように簡単に、オランダの台湾島占領に同意してしまったかというのは、もともとこの土地は蛮人の住む、また疫病が猖獗する不毛の土地として領土とは見なしていなかったからに他ならない。
      台湾を占領したオランダは、直ちに大員(現在の台南付近)に要塞を築いた。オランダは、台湾を中継貿易の基地として日本、中国各地との貿易により膨大な利益をむさぼったのであった。一方オランダは台湾の農業開発にも努め、砂糖産業の育成など着々と成果をあげていった。もともと台湾の南部は砂糖キビ栽培に適した土地であり、オランダが領有する以前から砂糖の生産が行われていた。オランダは砂糖輸出の利益に着目して砂糖の増産に取り組み、重要な輸出産業に成長させたのであった。砂糖産業はその後ほぼ300年間に亘り、台湾の輸出産業のチャンピオンであり続けた。ところが一方で、中継貿易の拠点として台湾に目を付けた国があった。
    第3節「スペインが領有に食指」
      すなわちすでにフィリピンを攻略していたスペインが動き出していた。オランダの台湾進出を知ったスペインは、フィリピンとバシー海峡をへだてて隣接する台湾の確保に食指を動かしていた。また、それは日本や中国との貿易をオランダに独占されることに懸念を抱いた事も大きな理由であった。
      1626年5月、スペインはマニラから艦隊を派遣してわざわざオランダとの衝突をさけ、台湾の東海岸を進み現在の基隆付近に上陸した。オランダはこれを排除しようとしたが、南部の経営に全力をあげていたため逆にスペインに撃退され、スペインの北部占領を食い止めることが出来なかった。しかし、スペインの台湾北部経営はマニラからの補給が台風などのために難しかった上に、先住民による襲撃やマラリアなどの風土病に難儀して思うような中継貿易や、カトリック布教などが進まなかった。このように防衛体制が弱体化したところを見計らったオランダは、1642年の夏、艦隊を派遣して約3ヶ月間の攻防の末、同年9月基陸を陥落させ、ここに17年間にわたったスペインの台湾北部占領は幕を閉じた。
      オランダの植民地経営は過酷なものであった。すなわち開発の労働力として、対岸の中国から多くの移民を導入して酷使した上重税を課したので、移住民の不満とうらみは年と共に増大し、ついに郭懐一を首領とする大反乱が勃発する。数の上では蜂起した移住民集団が勝っていたが、オランダの近代的兵器にはなすすべがなく敗退したのであった。

    ■第二章「中国による台湾統治の始まり」

    第1節「「反清復明」の拠点として鄭一族が統治」
      1644年明朝が滅亡し、混乱状態におちいった中国に満州族の王朝である清が進出してきた。これに対して明朝の皇族や旧臣達が「反清復明」を掲げ、清朝への反抗を繰り返したのであったが、その反抗の主力となったのが明王朝により招撫された当時東アジア海域に勢力を張る海賊の頭領鄭芝竜で、明はその軍事力と資金力に期待をかけたのであった。しかし清の勢力は益々強まり、鄭芝竜はだまし討ちにあい捕えられ、妻の日本人で後の「国姓爺鄭成功」の母は自殺を遂げる。「国姓爺」の物語は近松門左衛門の筆により我が国では有名である。鄭成功は、若年ではあったが智謀軍略にすぐれ、父の跡をついで「反清復明」を貫き清朝に抵抗し、清への反抗の拠点を確保するために台湾のオランダ東インド会社を攻撃して1662年にオランダ勢力を台湾から駆逐する事に成功する。台湾の漢民族による統治は、この鄭成功の政権が初めてである。こうしてオランダはバタビアに撤退して38年間にわたる台湾支配に終止符がうたれたのであった。
      鄭成功は、台湾に移ると直ちに彼の大軍とその家族を養うため合わせて当時すでに人口10万人に迄増加していた人口対策として、東インド会社の土地を没収して着々と業績をあげていったが、まもなく彼はおしくも「反清復明」の志をとげないまま39才の生涯を閉じてしまう。さらに成功の後を受け奮戦した鄭経も成功の死から19年後、父と同年で死去する。「反清復明」の鄭氏一族が台湾に移ると清国政府は直ちに封鎖を断行した。具体的には台湾に対する広東、福建、浙江、江蘇、山東の五省の住民を沿岸から30里(1里576m)の内陸に移し、この間での立ち入りを禁止した(遷界)。更に海禁と称して漁船や高船の出入港を禁じた。ところがこの封鎖作戦により中国との密貿易が必要となり、かえって台湾の海上貿易の発展を促すという結果になった。台湾は対中密貿易の一大拠点となり、貿易による利益は増えたのであった。これに従い中国沿岸、ことに福建、広東の住民が次々と台湾に移住するようになり、人口増加にともなって土地の開拓も進み、耕地面積の増加とともに食糧の生産は著しく増えたのであった。これにより鄭氏政権の食糧の自給が確立した。しかし一方財源確保の為、鄭氏政権のとった徴税政策はオランダ支配時代よりさらに苛酷なものであった。また「反清復明」の軍事作戦が継続されたため、その費用は膨大なものとなり、それを穴埋めするための重税により次第に住民の怨嗟の念は高まり、鄭氏政権から人心は去っていった。
      一方鄭氏政権の内部においても内紛が絶えず、骨肉の争いを重ねるようになり、政権は末期的な症状におちいっていった。中国本土に於ける反対勢力を完全に駆逐した清朝は、この情勢を見ていよいよ台湾の攻略に乗り出す。1683年清朝は300隻の艦船と2万の軍勢により先ず澎湖島を制圧し、ついに本島の鄭氏政権は崩壊したのであった。23年間の鄭氏による支配はここに幕を閉じ、清国による統治が始まったのである。
    第2節「清国の消極的な台湾統治政策」
      清は鄭氏の政権を滅ぼしたが、意外にも台湾の領有そのものには消極的であった。当初台湾に関しては「放棄論」が支配的であった。その理由は、台湾は中国から離れた孤島(化外の土地)であって、古くから海賊や逃亡犯など無法者の巣窟であるとして、その領有は無益であるとの主張が有力であった。しかし澎湖島は軍事的な価値があるとして、領有して東シナ海の前線基地とすべきという考え方が有力であった。しかし台湾を放棄して中国からの移住民を引き揚げるという考えは非現実的であるとして、またそれを強行すると彼等は深山に逃げ込み先住民と結んで、さらに中国内地から犯罪人を含む密航者と結託し徒党を組んで、中国沿岸を襲う海賊行為を行う懸念がある上、何よりも放棄に伴いオランダが再度台湾を占領するおそれもあり、最後に1684年5月台湾を直接領有するとの皇帝による決定が下され、以後212年間にわたって台湾は清国に属することになった。
      清国の台湾経営は1874年(明治7年)の日本による台湾出兵までは、消極的な経営に終始した。その経営の方針は、台湾が再度海賊などの巣窟となり反政府勢力の根拠地となる事を防ぐ事を目的としていた。しかし清国がいくら消極的政策をとっても、対岸の福建や広東からは多くの漢民族の移住が続き、農業を中心に台湾の開発は着々と進行していった。清朝政府は厳しく渡航制限を課したが、台湾への渡航(密航)は増加するばかりであった。
      清朝政府が島内において一番心を砕いたのは、住民の反乱防止であった。そのために種々の方策がめぐらされた。一例をあげると中国からの移住民と先住民が手を結ぶことをおそれ、先住民と移住民との居住地域を隔離して境界線を設け、先住民を封じこめると同時に移住民に対しては越境を禁じ、先住民との交流や通婚まで禁止する徹底ぶりであった。さらに移住民の武器の保有を防ぐために、鉄及び鉄製品の移入、また農機具の製造迄政府が関与したのであった。極め付けは、台湾は熱帯及び亜熱帯で竹林が広範囲に自生しているが、住民が竹槍などの武器として用いることをおそれ、竹を伐採して移出、又輸出する事を禁じた事である。
      中国の歴代の王朝にならい清国政府は、厳罰を伴う多くの禁止令を出したが、時間の経過と取り締まる役人の腐敗によってなしくずしに破られていった。清国政府の台湾経営で、消極的かつ治安維持政策に重きがおかれていたのにはそれなりに理由があったと思われる。212年間の清国統治の間、実に100件以上の武力蜂起や騒擾事件が起こっている。それらは主に移住民によって惹起されたもので、その理由は政府、官吏の汚職に対する不満が爆発したものであった。
    第3節「欧米列強と日本が台湾へ進出」
      さて清国とイギリスの間で1841年9月に勃発した阿片戦争のさなか、イギリス艦隊は突然台湾沖に姿を現し基隆港の制圧を試みたが失敗した。これが欧米帝国主義列強の台湾に対する最初の行動であった。つづいて1854年7月アメリカのペリー艦隊が日本との和親条約を終えた後、基隆港に来港して約10日間停泊し、失踪した水兵の捜索と称して内陸に迄上陸した。ペリーは帰国後台湾が中継貿易の拠点として適地であり、その占領を主張する報告書を提出したが実現しなかった。その後1856年10月のアロー号事件の結果、1858年6月に天津条約が結ばれ、その結果台湾の淡水、基隆、安平、高雄が開港した。宣教師によるキリスト教の布教まで認められた。
      日本は明治維新後、日清両属(帰属があいまいな)の琉球の処遇に苦慮し、かつ台湾の存在にも興味を示していた頃の1871年(明治4年)、宮古島島民の遭難事件が起こった。これは宮古の八重山から首里王府に年貢を納め帰途にあった船4隻の内、1隻が台湾近海で遭難、乗組員54名が牡丹社部落の台湾先住民により殺害されるという事件であった。日本政府は厳重に抗議したが清国政府は、先住民は国家統治の及ばない化外の民であるとして取り合わなかったため、先に述べたように1874年(明治7年)日本は台湾に出兵した。日本はこれを機会に琉球の日本領有確認と、台湾進出を同時にはたすことを目論んでいたが、上記のように外交交渉では埒が明かず、台湾南部への出兵に踏みきり、50万両の賠償支払いとその他に被害者遺族に対して10万両の弔慰金が支払われる事で日本は撤兵したのであった。これにより台湾の一部占領は実現しなかったが、琉球の日本帰属を間接的に清国政府に認めさせたのであった。
      その後1884年(明治17年)〜1885年の清仏戦争において、フランス艦隊が台湾北部への攻略をはかり、台湾北部の基隆に上陸したが、結局台湾北部の占領をはたせなかった。この結果清国はあらためて台湾の重要性を再認識して台湾防衛の強化に乗り出し、1887年(明治20年)には台北と基隆間に鉄道を敷設するなど近代化に乗り出している。

    ■第三章「日本の統治時代」

    第1節「日本政府は台湾総督府を設置」
      1894年(明治27年)7月、日本は清国に対して宣戦布告し、日清戦争が開始された。前回の朝鮮の項でこの成り行きについてかなり詳しく述べているので概略を示すと、この戦争は朝鮮半島における李氏朝鮮を巡る日本と清国との争いであった。日清戦争は9月の平壌の戦い、黄海海戦での日本連合艦隊の勝利、さらに11月には日本軍は旅順攻略をはたし、翌1895年(明治28年)2月清国北洋艦隊の降伏と続き、日本の勝利決定的となった。この戦いで日本の勝利が確定的である事を見越して日本政府の内部では、戦後我が国がとるべき政策として、台湾を領有すべきとの強い意見が浮上してくる。この意見を日本大本営は受け入れ、1895年1月澎湖列島の占領を決定し、同年3月下関で対日講和条約会議のさなか、澎湖島を占領する。こうすることによって講和条約において台湾の日本への割譲がなされるよう日本政府は事を運んだのであった。
      1895年4月に調印された日清講和条約は遼東半島と台湾を日本に割譲するものであった。この事実は台湾に事前に知らされることはなかった。
    英、仏などの列強は日本の台湾領有を阻止すべく一部行動に移るが、大勢をくつがえす事は難しかった。しかしいわばつんぼ桟敷におかれた台湾住民の落胆は大きかったが、その中から今こそ台湾の独立をはたそうという動きが強まり、にわかに独立へ向かっての準備が進められ、1895年5月「台湾民主国独立宣言」が宣言された。しかし諸外国の承認を得られないまま日本軍の進撃によりこの企ては水泡に帰したのであった。
      日本政府は日清講和条約締結の後、台湾内部の動きと外国の干渉をおそれ、間髪を入れず台湾の受け渡しと占領を急いだ。日本軍は1895年5月29日、意表をついて基隆港の南に上陸し、台湾民主国の主力となっていた清国の駐在兵を撃破して、6月7日には台北を占領した。このまま行けば台湾全域の制圧も簡単と思われていたが、南部への作戦は予想外の抵抗にあい、苦戦を強いられ、11月になってようやく全島の平定を完了した。しかし、台湾人の抵抗はゲリラ戦として続き、一時台湾北東部の宜蘭が包囲されるまでに至った。日本軍も反撃してこの時、実に2800人の台湾人犠牲者が出た。
      日本政府は、台湾総督府を置き初代総督として海軍大将樺山資紀を任命した。総督には行政長官であると同時に軍政及び軍令を統治する軍事長官としての権限を与えた。この為総督の地位は絶対で、まさに台湾に君臨する皇帝であり、台湾では「土皇帝」といわれた。このように軍人による総督は原敬による政党内閣が生まれて文官総督が就任するまで続いた。
      清国から割譲された当時の台湾の人口は先住民が45万人、移住民が255万人で、合計約300万人と云われている。台湾の住民に対しては、国籍の自由が与えられたが、積極的に日本国籍に応じた住民は少なかったと思われる。日本政府としては住民に対して積極的に台湾からの退去を求めなかった。それは風土病(マラリア)や衛生状態の悪い当地に直ちに日本人を移住させることは難しく、台湾の開発と経営に必要な労働力の確保という点から住民の流出を望まなかったのである。
    第2節「「生物学的植民地経営」の実践」
      ここで触れておかなければならないのは、1898年(明治31年)3月に第四代総督として陸軍大将児玉源太郎が就任したが、その際民生長官として赴任したのが後藤新平であった。後藤は医師出身で、彼の持論である「生物学的植民地経営」を実践したのであった。
      少々長くなるが、彼は「魚の比良目の目は頭の一方についている。鯛の目は頭の両方についている。これは生物学上その必要があってそうなっているのであって、政治にもその事が大切である。台湾を統治するにあたって先ず島の旧慣習をよく調査研究してその民情に合うように私は統治をしたのだ。この事をよく理解しないで日本内地の法制をいきなり台湾に輸入、実施しようとしても、それは比良目の目をいきなり鯛の目に取り替えようとするやり方で、それでは本当の政治は出来ない。」
      この考えのもとに彼は台湾の実状を徹底的に科学調査して台湾統治の政策と法案を立案したのであった。
      こうして後藤長官のもとで「土匪(ゲリラ)」の鎮圧を進める一方、台湾財政の独立と統治の基礎が確立されたのであった。最も後藤とても植民地経営が「慈善事業」でなく軍事力を背景としたものである事は充分に承知していた。軍事力で抵抗を抑えるためには又しても武力行使ということになる。後藤は「土匪」対策としては徹底してアメとムチの併用でのぞんだ。すなわち近代的建物や、電気、水道、鉄道などを整備して住民の懐柔をはかると同時に抵抗の鎮圧には警察を中心とする非情なまでの手段による「秩序維持政策」でのぞんだ。後藤は警察組織を全島のすみずみまで張り巡らせ、「土匪」や「匪徒」には厳罰で臨んだ。まさにその刑罰は峻烈なもので、後藤の就任から1902年(明治35年)迄の5年間で処刑された「土匪」は32,000人に達し、台湾人口のおよそ1%を超えたのであった。一方後藤は先にもふれた台湾経営の基礎となる土地調査、旧慣調査、人口調査を行い、産業振興のためのインフラ(交通、港湾、運輸)の整備に着手した。さらに「農業は台湾、工業は日本」という分担政策のため、台湾での農業振興政策が採用され大規模な水利事業を完成させ、製糖業や米の品種改良が積極的に行われた。新種の「蓬莱米」はその成果である。
      後藤は「教育は諸刃の剣」との考え方から台湾人に対して必要以上の教育をほどこす事には消極的であった。しかし、やがて産業の発展に伴い総督府は近代産業に従事出来る労働者や下級官吏、中堅技術者が必要になってきた。このため教育制度の拡充が図られ義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年(昭和18年)には71%とアジアにおいては日本に次ぐ高い水準となっている。
      義務教育以外にも実業系の教育機関がつくられ、台湾の行政、経済の実務者の養成を行うと同時に日本に大量の台湾人が留学した。なお1928年(昭和3年)には台北帝国大学が設置されている。
    第3節「抗日運動は武力抵抗から合法的な政治運動へ移行」
      さて統治者である日本政府に対する抗日運動は依然として続いていた。例えば1912年(大正元年)の樟脳の日本企業独占に抵抗する「北埔事件」又は日本企業に林野を払い下げる事に反対する「林杞埔事件」1913年(大正2年)の「羅福星事件」などがあったが、いずれも官憲により鎮圧された。ところが1915年(大正4年)6月に大規模な蜂起である「西来庵事件(タバニー事件)」が起こる。この事件は「大明慈悲国」を建国する企てで、台湾全土に及び、多数の処刑者が出た。
      さて原住民蜂起の最大事件は、1930年(昭和5年)5月に起こった霧社事件である。詳細は省くが、日頃からの差別待遇や強制的な労働供出について不満を持っていた霧社セデック族(原住民)が立ち上がり、日本人を標的として襲撃した事件で132名の日本人が惨殺された事件である。
      1915年(大正4年)の「西来庵事件」を境に漢族系台湾人の大規模な武力抵抗は抑えられた。1917年(大正6年)から第一次世界大戦が始まり、日本も参戦したが、戦場はヨーロッパであったから、日本は中国のドイツ植民地を攻める程度でむしろ戦争景気を存分によくしたのであった。台湾もそのおこぼれにあずかり多数の台湾人学生が日本本土に留学して高等教育を受けている。
      同年11月にロシア革命が起こり、社会主義政権が生まれ、植民地の解放と民族の独立が唱えられた。またアメリカのウイルソン大統領は、大戦の講和に向けて「民族自決」を唱えて植民地支配下の人々に大きな希望を与えた。
      これらの影響で、1919年(大正8年)3月朝鮮で独立を目指す「3.1事件」が起こった事は前回書かせて頂いた。一般論としては異民族による植民地統治は被支配民族の伝統や文化に干渉して政治的な従属と経済的圧迫を加えるため、必然的に抵抗運動を惹起する。日本の台湾統治も例外ではなかった。
      抵抗運動には武力によるものと政治運動とがあるが、台湾の場合は上記のように、武力抵抗運動は1915年(大正4年)の大事件を境に下火となり、代わって合法的な政治運動へと移行していった。政治運動にはいろいろな形で行わたが、1921年(大正10年)頃から日本統治下の台湾の、自治を目指す合法的な民族運動である「台湾議会設置請願運動」が始まり、以後1934年(昭和9年)迄14年にわたりこの請願運動は続く、この請願に対して日本政府は、当面は自治の獲得が目的であっても最終的には独立を目指すものとして警戒し、帝国議会はこれを採択せず、台湾議会の設置は実現しなかった。
      確かに後藤新平が懸念したように、教育の充実は台湾人の民族意識を呼び起こして植民地支配への抵抗運動を促したが、日本の台湾統治の最大の「遺産」はインフラ整備における教育の充実であり、これがあったからこそ植民地から解放された台湾人の、近代的な市民としての目覚めが進んだことは間違いない。
      当時の台湾は衛生状態が極めて劣悪で、マラリアを始め多くの疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌による汚染が甚だしかった。後藤は近代的な上下水道を完成させた。また台湾南部の乾燥と塩害対策として、日本人八田與一が烏山頭ダムと用水路を完成させ、このダムの湖畔には地元民の手により八田の銅像がつくられ、未だに命日には地元民による慰霊祭が行われている。
    第4節「太平洋戦争勃発で近代的工業が伸長」
      太平洋戦争が勃発すると、台湾は日本の南方進出の前進基地として重要な戦略拠点となる。そして軍需に対応出来るよう台湾の工業化が図られた。
      日中戦争が始まる1937年(昭和12年)迄の台湾の工業は、農産物加工業程度であったが、見る見る内に軍需関連産業が育成され、鉄鋼、化学、紡績、金属、機械など近代的な工業が伸張した。そして1939年(昭和14年)には工業生産が農業生産を上回ったのであった。
      工業化の進展に伴い、インフラの整備がさらに進められた。具体的には公営鉄道は900km迄延長され、基隆や高雄などの港湾は整備拡張され、主要都市には水道が引かれ、一部には下水道も敷設された。空港も軍用を含め台北など9ヶ所を数え、衛生施設も総合病院がつくられこれにより伝染病はほとんど無くなった。
      本来日本政府は台湾人に兵役の義務を課さなかったが、戦線の拡大により兵員が不足するとともに、台湾人を軍属や軍夫として徴用し、大量に前線に送った。それだけでなく1942年(昭和17年)4月から名目は志願兵であったが「徴兵」が始まった。そして1944年(昭和19年)迄の3年間で陸軍の特別志願兵約6000名、さらに約11,000名の海軍志願兵が投入されたのであった。戦局の悪化に伴い1944年9月にはいよいよ徴兵制が施行された。皮肉な事にこの徴兵制に合わせて翌年の衆議院選挙法の改正により、わずか5名ではあったが台湾人を帝国議会に送る国政参加の道が開かれた。もっともこれは日本の敗戦により幻に終わった。

    ■第四章「第二次世界大戦以降」

    第1節「蒋介石率いる中華民国の台湾占領」
      1945年(昭和20年)8月の第2次世界大戦終了後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国、南京、国民政府軍の二個師団12,000名と官吏200名が1945年10月17日に米軍の艦船で台湾の基隆港に上陸し、即日台北に進軍した。国民党政権は戦勝国とは名ばかりで、米軍の全面的な支援を受けての台湾占領であった。この時の国民党軍の低い志気とわびしい身なり、劣悪な装備を目のあたりにした台湾人は、日本軍とのあまりの相違に驚愕して日本が中国に敗れたとはとても信じられなかった。
      国民党軍への驚愕と失望は「祖国復帰」に一抹の不安を抱かせたのであったが、まもなく台湾人は厳しい現実に遭遇する。中華民国軍が台湾に来てから婦女暴行や強盗事件が頻発した。さらに行政公所の要職は、新米の外省人が占めたがその官僚の貧官汚吏の様子は、日本の教育が浸透して法治国家の市民に成長していた台湾人の目には「祖国」の官吏の腐敗ぶりは考えられないものであった。当然台湾人の気持ちの中に「祖国」と国民党政権への失望と軽蔑の念が芽生え、日を追ってこれが膨らんでいったのである。
      国民党は台湾という領土に加え日本企業をすべて接収したのであるが、これにより文字通り莫大な財産を手中にしたのであった。これは数年後に実施された政権の台湾移転、いわゆる台湾人のいう「祖国の台湾逃亡」を助けて余りあるものであった。
      国民党政権は台湾占領後、日本との関係を断ったため、台湾経済は中国経済の一環となったが、当時の中国経済は対日抗戦に続く国共内戦で疲弊を極め、崩壊寸前の状態にあり、今迄の台湾は日本に輸出していた米や砂糖が中国向けに振りかわるのは良かったとして、中国から輸入される日用雑貨品や工業製品は、物資の欠乏とインフレの高まりにより物価上昇はうなぎ昇りで、輸入品の価格はそれに連動するため台湾の物価を上昇させ、台湾経済を破綻に追い込んだ。
      このような経済情勢の悪化に加えて失業者の急増による社会的な混乱も深刻化しつつあった。日本の敗戦により大量の留学生が日本から戻り、また軍人、軍属、軍夫が帰島したためこれらの人員を受け入れる場所がなかったのである。戦争中の爆撃により操業不能となった工場や、さらに稼働できる工場への就職についても国民党政権の意図的な台湾人排除により就労の機会が極端に減少し、実に30万人の失業者が巷に溢れたのであった。(総人口はこの時点で約600万人)治安は急速に悪化して日本統治時代の「法治国家」から「無法地帯」に成り変わってしまったのであった。
      知識人の間からしばしば長官公署(総督府が中国支配によりこの名称に変わった。)にさまざまな要望がなされたが、いずれも言を左右にしてうやむやに処理され大衆の不満は鬱積していった。
    第2節「一般大衆の不満が「2.28事件」へ発展」
      1947年(昭和22年)2月27日淡水市の商店街で密輸タバコ売りの取り締りに端を発したいざこざがたちまち全台湾に広がり、「2.28事件」に発展した。長官公署は総督府と同様タバコを専売局の専売品としており、これは重要な財源であったが裏で長官公署の高官や担当者が大量のタバコを密輸して稼いでいた。いわば密輸タバコの元締を放置しておいて末端の小売人ばかりを摘発する当局の姿勢に日頃から一般大衆は不満をいだいていた。
      くわしい状況は、本省人の取締員6名が中年の寡婦から商品の密輸タバコを取り上げ、それだけでなく所持金まで没収したため彼女は跪いて現金の返却を哀願したが、返却されないばかりか銃で頭を殴打され、血を流して倒れた。憤慨した民衆が一斉に取締員を攻撃したため彼等は逃げながら発砲し、これが市民に命中して即死させたため群衆は激高して専売局に抗議、職員を殴打し、さらに長官公署前広場に集まり抗議デモを行ったところ突然憲兵が屋上から機関銃を発射、数十名が死亡するという大惨事となる。これに加え万余の市民が抗議に加わったため台北市内は騒然となり戒厳令が発令された。しかし市民は放送局を占領して全台湾に事件の発生を知らせたため事件は全島に波及した。この結果、民衆代表からなる「タバコ取締流血事件調査委員会」が結成され、代表が陳儀行政長官のもとに派遣され「2.28事件処理委員会」の設置を要求し、@戒厳令の解除、A逮捕した市民の釈放、B軍、警察の発砲禁止、C官民合同の事件処理委員会の組織等を長官に約束させた。しかし、これは長官始め当局の時間稼ぎにすぎなかった。彼等は密かに本土の国民党政権に増援部隊の派遣を要請するとともに危険人物のリストを作成して台湾人の大粛清を目論んでいたのであった。
      1947年(昭和22年)3月8日中国からの増援部隊11,000名が基隆と高雄から上陸し、そのまま手あたり次第に台湾人に発砲した。そしてそれはその後2週間台湾全土に及び、台湾人の抵抗は完全に鎮圧されたのであった。
      市民に対する虐殺だけではなく「粛奸」工作、「清郷」工作と称して戸籍調査の名目で全面的な捜査と逮捕を開始した。「粛奸」「清郷」の対象は直接事件の関与した者はもとより無関係の多くの社会的指導者にまで及び、危険人物と思われる民主代表者、教授、弁護士、医師、作家、教師などの大勢の知識人が逮捕された。これは国民党当局が日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するのが目的であった。あまりに過剰なまでの鎮圧と殺戮に対し国際社会、特に米国は厳しく蒋介石を批判した。このため4月22日陳儀長官は免職となり、その後中国共産党との内通容疑で処刑された。 「2.28事件」に関連して1ヶ月間に殺害された台湾人は28,000人を数える。これは日本の50年間の統治において武力抵抗したために殺された台湾人の数におおよそ匹敵する数字である。
      中国国民党政権は、共産党の内戦の形勢はますます不利となり1949年(昭和24年)8月1日蒋介石は台湾に移った。蒋介石は戒厳令を敷き、知識分子、不穏分子を弾圧して開発独裁を行う。
      国民党政権により接収された当時の台湾は、政治的にも失政が続くが経済的には混乱を深め、なかでもインフレの昂進はすさまじく、1945年(昭和21年)から50年迄の間の物価の上昇は1万倍となり混乱を極めた。
    第3節「「奇跡」の経済成長と民主化」
      しかし朝鮮戦争を機にしての「台湾海峡中立化」により台湾は内戦により疲弊した中国経済から解放され、国民党は台湾の経済再建ならびに復興に専念することが出来た。そして「奇跡」といわれる経済成長をなしとげるのであるが、この基にあるのは矢張り日本から引き継いだ「遺産」という恩恵である。
      米国の援助と日本からの借款供与も大きかった。さらに1970年(昭和45年)代、80年(昭和55年)代、90年(平成2年)代と大きく発展をとげた。政治的には1975年(昭和50年)4月蒋介石総統が死亡し、二男の蒋経国が総統となり、戒厳令を続けたまま独裁体制を維持した後、アメリカからの強い圧力もあり、徐々に民主化の方向に転じていった。1988年に蒋経国が死亡し、1996年(平成8年)に総統民選が行われ、はじめて本省人の李登輝が総統に就任した。その後民主化は加速され、野党の民進党が国会に於いて躍進した。
      国際的には一時は「台湾海峡中立化」により中国の脅威が高まったが、その後の朝鮮戦争を奇貨としてアメリカの庇護の下、日本、韓国、フィリピンと共に共産圏封じ込め政策の一端を担っていたが、ベトナム戦争の行き詰まりから米中が国交を樹立したため、台湾は国連から追放され、日本も断交となっている。しかしアメリカはあくまで自由陣営を保持していくという観点から「台湾関係法」を制定して台湾防衛を外交の柱としている。
      2000年(平成12年)に李登輝が引退した後、民進党の陳水扁が総統となり、台湾の独立路線を進めたため国民党とは衝突を重ね、政局は混迷した。その後陳水扁は再選するが、汚職で失職、再び国民党の馬英九が総統となり中国寄りの政策を推進した。確かに現在台湾は中国との経済関係を強化しつつあり、今や中国抜きでは台湾経済が成り立たなくなってきている。基幹産業であった電子産業も中国への工場進出により空洞化が進み、大変難しい局面にある。2016年(平成28年)には民進党の蔡英文が総統となったが中国からの締め付けが厳しく、次期総統選挙の帰趨は流動的である。

    ■おわりに

      最後に他国の領土の併合、植民地化は内容のニュアンスに若干の相違はあるとしても他国の領土を奪う事に変わりはない。18世紀から20世紀にかけて欧米列強はアジア、アフリカに於いて多くの領土を植民地化した。我日本は遅れて来た帝国主義者として朝鮮を併合、台湾を植民地とした。前号ではどうしても朝鮮を併合せざるを得なかった、いわば対ロシアからの自衛のために朝鮮を併合した事実を明らかにした。今回は台湾が植民地化となった経過を詳しく述べたつもりである。
      韓国と日本との間には現在問題が山積している。いわく「竹島問題」「慰安婦問題」「徴用工問題」「自衛隊に対するレーダー照射」「旭日旗忌避」「下院議長の天皇に対する謝罪要求」など、我が国民を逆撫でする事ばかりが続いている。呉善花氏は「虚言と虚飾の国」と表現しているが、自己中心的な民族主義に問題があるのであろう。それに現在の文在寅大統領は共産主義者であって中国の手先であるから少しでも日本の国力を弱めようとしているのである。
      さて、日本が植民地として支配したのは台湾が50年、朝鮮が30年である。私は公私に亘り両国を訪問する事合わせて30回以上になるが、どうして両国の対日感情にこれ程差があるのであろうか?植民地の支配であるから50年、30年の間に武力による制圧により多くの人命を損なった事は否定出来ないが、その他植民地政策においてそれ程大きな差がなかった事は前号と今回を読んで頂ければ納得出来るのではないか。前回と今回、この朝鮮、台湾の植民地支配の歴史を書いてみて私は日本からの解放後の成り行きにその問題がある事に思い当たったのである。
      韓国は独立後、その能力にはいささか首をかしげざるを得ない人物ではあるが、李承晩大統領のもとにスタートした。その後朝鮮戦争が起こり、国土は荒廃したが、米国と日本の協力のもとに新しい国家をまがりなりにも創ってきた。勿論軍のクーデターによる独裁の時代も何代かはあったが一応議会の機能する民主国家である。経済的には財閥が資本の中心を占め、いびつな情況はあるが、一応先進国へと近づいている事は間違いあるまい。
      一方台湾はどうであったろうか。日本から解放された後、台湾を支配した中国国民党は、中国共産党との戦いに敗れた末、台湾に逃げ込んだいわば敗残兵の集団である。彼等が台湾で何をしたかというと、旧日本国から引き継いだ資産を食いつぶし個人の自己の懐を肥やすというあくどい事実を重ねたのであった。
      50年に亘る日本支配においては平等さを欠くという不満はあったにしても、「法治国家」としての日本に慣れきっていた台湾人とすれば蒋介石一派の外省人のやり方には不満が鬱積していた。一方蒋介石一派としてはたとえアメリカの庇護があったにせよ何時大陸からの侵略が開始されるかわからない状況の中で、台湾人について戦々恐々であったろう。
      この事件は蒋介石が台湾に移る前年であるが、すでに国共内戦の帰趨はついていた1947年(昭和22年)2月28日に行った「2.28事件」は、台湾人の心の中に深い傷を残した。国民党軍兵士の強奪や狼藉、官吏腐敗と貪欲は目に余るもので、国民党軍の占領間もない頃から台湾人は「同胞」という新たな支配者に失望し始め、かつ不満を持つようになった。元来漢族系の台湾人は渡来してくる中国人を「唐山人」と呼んでおり、中国で意味する「唐山」には何ら悪意はなく、むしろ親しみをこめたものであった。ところがやがて「唐山」は「阿山」となり、田舎者を嘲る軽蔑をこめた呼称に変わってしまった。
      もう一つそれだけではなくて「犬(日本人)去り豚(中国人)来る」と台湾人は中国人を罵った。これは、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いということである。先にも述べたように「2.28事件」に関連して1ヶ月間に殺害された台湾人は約28,000人といわれており、まさに根こそぎの粛清である。この事件については何となく私は現地の人に聞いてみた事があるが、口を閉ざす人がほとんどである。最も半世紀以上も前の事で実際にそれについて語れる人は少ないであろうが、この中国外省人の残虐さが台湾人の心の奥深く大きな傷として残っているのではないかと思う。その裏返しが日本統治への中国人との比較における肯定、親日ではなかろうか。
      台湾をかつて旅行して一つ感動した事があるので紹介すると、台湾から高雄に至る新幹線は我が国が持てる技術の全てを傾けて建設したものである。そして、すべての駅には「この鉄道はすべて日本により建設された」という意味の大きなプレートがわざわざ設けられている。これこそ台湾人の親日を表すシンボルだと思っている。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2019年3月31日 金言(第80号)
    『朝鮮併合の真実』

    ■はじめに

      1945年(昭和20年)我が国の敗戦後、北緯38°線をはさんでソ連の影響下にある北朝鮮、自由主義陣営に属する韓国という二つの分断国家が誕生してから73年が経過した。その間1950年(昭和25年)6月25日、突然北朝鮮軍が38°線を犯して韓国に進入し、これに対してアメリカを中心とする国連軍が結成され、一時は釜山に迄追い込まれるが、国連軍は、仁川に上陸して反撃に移り、逆に38°線を越えて北朝鮮の首都平壌を占領、さらに北進を重ねたところ、中国人民解放軍が鴨緑江を越えて介入してきたため、両軍は一進一退を重ねるが、1953年(昭和28年)7月27日休戦協定を結んだ。そして38°線をはさんで現在、大韓民国と北朝鮮人民共和国が並立の状況が続いている。注意すべきは、あく迄これは終戦協定の締結ではなく休戦協定であって、名目上は、現在も両国は戦時下にある事を認識しておかなければならない。その後、韓国は日本からの多額の援助を基にして、「漢江の奇跡」と云われた経済発展を遂げ今日に至っているが、北朝鮮は、金日成に続く金王朝が統治して、経済的な発展においては韓国に大きな遅れをとっている。しかし近年核開発とその運搬手段であるミサイルの開発に成功し、対外的に平和をおびやかす極めて厄介な存在となっている。今回は、この核問題を論じるのではなく、朝鮮半島が、我が国が敗戦により撤退する前如何なる状態であったか、日韓併合がどうして行われたのかを考えてみたい。

    ■第一章「韓国併合の概要」

    第1節「政治的反日の原因」
      我が国は、核問題の他北朝鮮との間には拉致問題をかかえ、非常に難しい状況にある。一方韓国との間にも従来から竹島問題や漁業など問題は山積していたところ、2017年(平成29年)3月に朴槿恵大統領が大統領弾劾により失脚し、5月の大統領選挙で容共派の文在寅氏が当選した。そもそも確かに韓国は隣国ではあるが、歴史的な経緯や政治や教育などの誘導により、韓国民の反日感情は著しく高い。しかし、日本韓国間の貿易総額はそれぞれが第三位の貿易相手国となっており、経済的な結びつきは極めて強い。
      ところで、文大統領就任以来立て続けに韓国側から次のような理不尽な問題が突きつけられ、現在日韓の間は最悪な状況に陥っている。すなわち前政権と合意していた「慰安婦問題」の蒸し返し、次に徴用工裁判における1965年(昭和40年)の日韓請求権協定で解決済みの案件に対する損害賠償の判決確定、さらに航空自衛機に対するレーダー照射に対して全く事実と反する事を主張していること。更に下院議長の慰安婦に対する天皇の謝罪要求、少し前になるが海上自衛隊の旭日旗使用禁止要求などが次々に出て、日本国民はその出鱈目ぶりに唖然としている今日この頃である。
      前々から保守政権においてすら反日的な行動が目立つ韓国であったが、文大統領は基本的に北朝鮮に全面的に傾斜する容共政権であり、このまま推移するならば在韓米軍の撤収すら予想され、我が国の防衛という点から極めて由々しい事態となるのではないかと憂慮される。
      そもそも韓国が政治的反日に固まっている原因は矢張り、1910年(明治43年)から1945年(昭和20年)に至る日韓併合に起因している。韓国は、一方的に日帝35年の支配により疲弊して、日本の統治こそが悪の根源であるという考えに基づく教育が一貫として行われ、それが国民の頭の中に刷り込まれていることがそもそもの問題と考える。実際我々日本国民の間でも韓国を日本がどのような形で併合したのか、どのような統治が行われたかについて、認識している人は少ないのではないか。また朝日新聞を中心とする反日グループが従軍慰安婦など、事実と違う報道を撒き散らしたため、日本の韓国統治こそが悪の根源であるという考えを持つ日本人が多数いることも事実であろう。
    第2節「併合前の朝鮮半島情勢」
      韓国併合(日韓併合)とは1910年(明治43年)に我が国が、当時存在していた李氏朝鮮の最後の姿、大韓帝国を併合したことを指す。この「韓国併合」は日本が武力により一方的に制圧、占領して実現したものではない。大韓帝国が日本の統治下に入ることを選択して、「韓国併合に関する条約」により実現したものである。一般に多くのマスコミは韓国、台湾の植民地化という言葉を使うが、韓国の場合は併合であり、あくまで植民地ではなかったことを強調しておきたい。
      しかし、一方ではこれは日本の韓国に対する侵略、そして「植民地化」が行われたと主張して噛み合わない。それではその時代に日本により何が行われたのか、日本の統治以前と以後どのような変化が生じたのかという事を、我々はよく頭に入れておく必要がある。
      「韓国併合」あるいは「日韓併合」の対象は現在の大韓民国ではなく、先に触れたように大韓帝国のことで、これは現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国の事である。元々この大韓帝国とは朝鮮、あるいは李氏朝鮮という国名であったが、これは中国の冊封体制に組み込まれた明や清の属国であった。
      李氏朝鮮は、1392年から約500年間朝鮮半島を支配した王朝であったが、それ以前、半島を支配していた高麗の臣下であった李氏が主君を裏切り、明の力を借りて起こした王朝であった。そのため建国後も明に隷属し、明の滅亡以後も続く清王朝の属国であった。李朝は朝鮮民族が古代から高麗にいたる迄持ち続けていた自立心を放棄して(例えば高麗(高句麗)はかって隋の煬帝を完全に敗退させた)完全に明の傀儡国家で、国民を奴隷化し、私有の財産は全て没収するという文字通りの専制王権制度の国で、現在の北朝鮮と酷似している。両班階級(武班、文班、すなわち貴族階級)がまさに住民を蛆虫のように扱った500年間であり、人口は現在の北朝鮮と同様搾取と飢餓により減り続けた。「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である。」と崔基鎬(チェ・ギホ)氏は云っている。
      このように500年の長きにわたり、国民は窮乏し、文化が停滞した歴史こそ日韓併合前の朝鮮半島の姿であった。しかし、1895年(明治28年)に日清戦争において勝利した日本は、その後の日露戦争を経て清から李氏朝鮮を独立させ、500年ぶりに朝鮮半島は解放されたのであった。(大韓帝国の成立)
      このような状況下にあった朝鮮を日本が併合した理由は、勿論日本の利益を守るためであって決して朝鮮の人々を李王朝の暴政から救うためではなかった。
      さて話は前後するが、当時の日本を取り巻く状況の中で日本が一番脅威を感じていたのはロシアであった。ロシアは南下政策をとっており、ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下されると北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と九州の北側にある朝鮮半島により挟撃される形となり、日本への脅威は一段と高まる。従って朝鮮半島はなんとしても死守しなければならない最後の砦であった。しかし、国力の落ち込んだ李氏朝鮮には自力でロシアから朝鮮半島を守る力は皆無であった。そこで、日本は朝鮮半島を何とか近代化して、ロシアの進出を阻むために影響力を及ぼそうとしたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然それを許す筈がなかった。そこで日本は清国を排除すべく勝負に出る。日清戦争[1894〜95年(明治27年〜28年)]の始まりである。結果は世界の予想に反して、日本はこの戦争に勝利して朝鮮半島に影響力を確立することに成功する。しかし旧宗主国の清国に変って朝鮮半島に対しロシアは影響力を強めたのである。
      朝鮮自体自ら自国を改革して行こうとする機運に乏しかったため、益々ロシアの力が強まって行った。朝鮮半島は上述の通り我が国の生命線であったから臥薪嘗胆を重ねた我が国はついに明治37年(1904)ロシアとの開戦(日露戦争)に踏み切る。戦いの結果は世界中の大方の予想を裏切り、日本が勝利をおさめ朝鮮半島に対する影響力を確固とした。
      この結果、李氏朝鮮は独立して国号を大韓帝国と改める。また、これにより朝鮮の王であった高宗はかねてからの念願がかない、自らを「王」から「皇帝」に格上げさせ、清の皇帝と肩を並べたのであった。しかし、これにより韓国が独立国として清に変わって日本の影響下に入り、その後の日韓併合につながっていくのである。
    第3節「併合後の朝鮮社会の変化」
      日本の併合後、どのような変化が起こったかであるが、一つは人口の増加である。日韓併合とともに朝鮮の人口は急激に増加した。例えば前出のチェ・ギホ氏の著書「歴史再検証・日韓併合の眞実」及びオ・ソンファ(呉善花)氏の「日本の統治は「悪」だったのか?」によると、韓国の1777年の総人口は1804万人であったが、100年後の1844年には1689万人に減少した。また、日韓併合時の1910年には1312万人だったが、併合後には最終的に2512万人(1944)と2倍近くにまで増加している。
      このように清の属国時代には右肩下がりであった人口が、わずか30年強の日本統治時代には倍増したのであった。人口増加の要因は、経済力が伸びた事である。1900年(明治33年)前後以降、日本から朝鮮に投じられた資本は実に80億ドルにのぼっている。この資金により北部は大工業地帯がつくられ、南部においては商業が大きく伸張した。開墾、干拓、灌漑などの大規模な土地改良により米の生産は飛躍的に伸びた。併合当時米の生産高は1000万石であったが、1932年(昭和7年)には1700万石、1940年(昭和15年)には2200万石にまでなっている。一方鉄道、道路、架橋、航路、港湾等の交通設備や電信・電話等の通信設備の敷設、大規模な水力発電所が全国的に稼働した。植林も毎年行われ、1922年(大正11年)迄に植林された苗木は10億本と云われている。現在のソウル近郊の山々はすべて李朝時代にはげ山であったが、植林が進んだため緑を取り戻している。一方工業生産高は1927〜33年(昭和2〜8年)は3億円台、1935年(昭和10年)には6億円台超、1940年(昭和15年)に18億円台超となり、工業の成長率は1914年〜27年(大正3年〜昭和2年)には年平均5.3%、1928〜40年(昭和3年〜15年)は年平均12.4%と急速な成長をとげた。さらに一人当たりのGDPも1920〜30年代は年間約4%上昇した。(当時の世界諸国では高くて2%程度であった。)その他人口増加を含めて国力の伸びた要因としてチェ氏は両班、常民、賤民などの厳しい階級制度のもとで少数の支配者が、住民の大部分を支配するという悪弊が払拭された事、公正な裁判が行われるようになり賄賂の習慣が一掃された事、私有財産制度の確立、職業選択の自由、居住の自由、そして何よりも経済秩序が確立された事、教育の普及と医療制度の近代化をあげている。
      このように清の属国であった李氏の時代に比べると朝鮮社会はあらゆる点で改善を見た事は明らかである。ところが現在日本では「韓国併合」をただ一方的に日本が搾取して韓国人を苦しめ、虐げたかのように云われているが、それが間違いである事は、上記に述べたように明らかである。日本の功績を隠蔽して罪悪感を植え付けようとしたのはアメリカの占領政策である事は間違いない。また、アメリカの占領政策に乗りかかって韓国(大韓民国)が日本を攻撃するための手段として利用している事も明らかである。このように書いてくると日韓併合はロシアの南下により危機感を持った日本が朝鮮半島を自らの命綱という事を認識して清、更にロシア対峙してこれに勝利し、以後韓国併合を進めてその経営を順調に進めたという受取り方をする人達も多いと思う。しかし朝鮮を開国に導き最終的に日韓併合に到達する過程は我が国にとって茨の道であった。この経過を詳しく述べると次の通りである。

    ■第二章「我が国の日清戦争に至る過程」

    第1節「大院君政権の鎖国攘夷政策への懸念」
      日本の徳川幕府が、1858年欧米5ケ国に対して開港したこと及び1860年に英仏連合軍が北京に侵入して北京条約が締結された事(北清事変)は当時大院君(国王高宗の父)が政権の座にあった李朝にも伝わっていた。また朝鮮半島沿岸に諸外国の船舶がしきりに出没し、国民の間にも外国の侵略についての危機意識が高まっていた。しかし大院君の政策は、鎖国攘夷に徹底的にこだわったものであったので、諸外国からのアプローチは一切拒否し続けていた。日本は、李朝が我が国のように早急に開国して近代化と、富国強兵を進めなければ早晩西欧列強の支配下におかれるであろう。もしそうなれば隣国である我が国は窮地に立たせることになる。そのためにはこの際日本は、武力をもってして強引に李朝を開国させなければならないという考え方が出て来たのである。これが西郷隆盛等を中心とする征韓論といわれるものであった。征韓論と云うからには朝鮮を侵略する目的があるように取られるが、真の目的は今述べたところにあった。もう一つふれなければならないのは、「攘夷」下にあった、李朝の王はあくまで中国の皇帝に臣従する朝鮮王であって、盟主である中国皇帝に対してすべておうかがいを立て、その指示に従うという態勢下にあった。開国をはたした日本からすればこのような李朝の態度は時代錯誤もはなはだしいものであった。
    第2節「政策なき開国で閔氏政権は混乱」
      1872年(明治5年)日本は開国に関する国書を送り、これは1868年(明治元年)に朝鮮より受け取り拒否にあって以来のことになるが、再度軍艦2隻を伴い修交を求める。しかし、この通商要求に対しても大院君は強硬にはねつけたのであった。一方1873年(明治6年)大院君が失脚し、新たに政権を握ったのは高宗の妃、閔妃(ミンピ)の一族であった。
      閔妃自体大変な権力欲を持つ人物で、この閔妃一族が大院君の専制政治に不満を持つ勢力を結集して大院君の排斥に乗り出し、ついに大院君を引退に追い込んだのであった。
      大院君に代わって成立した閔氏政権は清とも相談の上、ともかくも日本との武力衝突を避けるため、1874年(明治7年)外交交渉を進めることにした。しかし日本、李朝共相手方に対するささいな事で理解、配慮を欠いた結果、肝心な交渉にまで至らなかった。業をにやした日本政府はついに1875年(明治8年)に砲艦外交に打って出る。
      日本は釜山に軍艦2隻を派遣して威圧を加えた上、黒田清隆を全権大使として条約締結交渉に当たらせる。これに対して李朝側は近代的な条約の意義に無知であったため、最初から双方がかみ合わないまま推移したが、最終的に1876年(明治9年)日朝修好条約が締結され、朝鮮は開国に踏み切った。
      閔氏政権は何等の政策も展望もなしに、ただ時代の流れに押されるままに開国したのであった。すなわち閔氏政権下の李朝において、世界の趨勢を見きわめている若手の開化派官僚が主導権を持って開国開化政策を進めたが、一方では国を反対の方に押し戻そうとする儒学徒の勢力も衰えていなかったため、国論が不統一の中で閔氏政権は難しいかじ取りをせまられた。
      ここで一大事件が発生する。信じられないような話であるが、当時の朝鮮の人口1300万人に対して、軍隊はわずか2千数百名しかいなかった。当然自力で自国を守ることは出来るはずもなく、事が起れば宗主国の清国に泣きつくしか方法はなかった。
    第3節「壬午軍乱により清国の朝鮮干渉が強化」
      この為日本は朝鮮に新式の小銃を送り、近代的な部隊編成を勧め、新たに各軍営から80名の志願兵を選抜して、新たな別動軍を組織した。ところが旧来からの兵士は旧式の火縄銃しか持たない旧式の部隊で、彼らと新たに設けられた別動軍との間には、待遇の面で大きな差をつけられていた。さらに旧軍兵士に対する俸給米の支給が1年近くも滞っていたため、一挙に閔氏政権に対する不満が爆発して1882年(明治15年)下層市民まで巻き込んだ大暴動(壬午軍乱)が起る。
      彼等は官庁や閔氏一族の屋敷や日本公使館を襲撃して王宮にまで進入する。閔妃はかろうじて王宮から脱出するが、閔氏系の高級官僚、王宮内にいた日本人など多数が殺される。この軍乱により閔氏政権は倒れ、再び大院君が政権を掌握する。
      日本は直ちに居留民保護と韓国政府の責任追及のため軍艦4隻と陸軍数百名を仁川に集結させる。そして賠償金50万円や公式謝罪等を韓国政府に求める。一方清国もこのままの状況が続くと日本軍と韓国軍衝突は必至として、調停と称して3隻の軍艦と3000名の陸軍を派遣する。この結果としてこの状況を調整するためには、大院君を取り除く他なしとの清、日の間で協議が成立し、清国は大院君を捕え天津に連行、その他大院君一派を粛清してこの軍乱は完全に鎮圧される。
      そしてまたもや政権は閔妃一族が握ることになる。日本は済物浦条約を結び、日本に対する賠償金50万円の支払、日本人被害者に対する見舞金の支払、日本公使館への警備兵の駐屯などを取り決めた。一方清国はこの軍乱をきっかけにして、朝鮮に対する干渉を強化していく。具体的には首都漢城を軍事制圧下におき、不平等条約締結を強制。外交顧問の派遣等であった。
      李朝は全く自主性をもった内外政策を示す事が出来ず、復活した閔氏政権はもはや日本は恃むに足りない。矢張り巨大な宗主国中国との関係を維持するべきであるとの考え方に後退していったのである。
      この清国の朝鮮干渉の強化により、日朝修好条約の意義が残念ながら抜け殻化してしまった。清国は宗主国でありながら韓国に対して内政、外政にあからさまに介入しなかった。従って日本は清国と朝鮮との間に打ち込んだ楔である日韓条約を清国の介入なく、ただその権利を行使していればよかったのであるが、局面は大きく変わってしまった。正直云って清国は、当初は日本を軽視していたきらいがある。しかしその後の日本の帝国主義的動きを見て、従来とは違った韓国への干渉強化に乗り出す。この清国の方針変更に対処して、日本も方針の変更を余儀なくされたのであった。
    第4節「開化派、独立党による甲申クーデター失敗」
      日本は明治維新以来富国強兵策をとり、驚異的な発展を示したが、しかし未だ経済力、軍事力両面において世界の強国に伍していける実力はなかった。即ち清国の朝鮮への干渉を排除したくとも、清国と事をかまえるまでの考えはなかった。日本はこれまで一貫して金玉均らの若手改革派による独立党を支援することによって、朝鮮の中国からの独立と近代的改革を目指していた。しかし、余りにも露骨な支援は独立党の動きがかえって難しくなると考え、独立党への支援も限定し、経済的利益の獲得により勢力を拡張していくという方向にシフトしていった。
      一方韓国内部の改革推進派も清国の干渉強化により、それを支持する閔氏政権を前にして干渉強化がされたにしても、従来通り韓国の近代化を推進していこうとする立場を明確にしていた金弘集らのグループと、金玉均らのあくまで日本の明治維新にならい清国からの独立を目指す近代化を強く唱える独立党に分かれ、その対立は次第に深まっていった。
      指導者の金玉均は、1851年生まれであるが、21才で科挙を首席で及第し、高等文官を養成する唯一の国立大学に官職を得た後、1873年(明治6年)大院君が政権の座を追われ、閔氏政権が成立した後、順調に出世をとげていく。彼は、早くから開国思想を持っていたが、その間開化思想を説く二人の先輩から大きな影響を受け、一層それに傾注するようになる。 彼は国を思う有志を糾合して、独立党を結成した。
      この団体は、両班政治家達の党ではなく、広く中人階級及び常民階級までを含む幅広い、李朝においては特別な政治集団であった。その後、金は近代化と富国強兵策を進める日本に傾斜していく。そして彼自身が自ら日本への派遣を国王高宗に働きかけたのであった。高宗自身にも、将来有望な若手官僚を日本に行かせ、見聞を深めることに異存はなかった。
      1882年(明治15年)3月、金は他の二名と共に長崎に上陸し、その後京都、東京を回り、特に福澤諭吉の紹介でさまざまな人物と会い意見を交換し、政治、経済、軍事の諸施設を訪問して見聞を広める。会った人物の中には井上馨、大隈重信、渋沢栄一、大倉喜七郎、榎本武揚などが数えられる。翌年帰国後金は、40数名の若手を日本に留学させ、福澤の手に委ねるのであるが、金のこのような近代化に向かっての政策には、守旧派から大きな反発が起こった。加えて詳細は省くが、福澤の仲介により朝鮮が日本より300万円の借款を得て、近代化を推進するという計画が、日本の方針転換により坐絶し、金の計画は水泡に帰したのであった。
      その後、閔氏の勢力が連合して金玉均排斥と、独立党の圧迫へと大きく動き出して来たため、独立党は四面楚歌の状態に陥った。このように300万円の借款が得られなかった最大の理由は、清国が対朝鮮政策を強化してこれを受けた日本政府が柔軟外交へと方針を転換した事に起因するのであるが、金が帰国してからまもなく日本政府は、それまでの消極策から再び金玉均ら独立党への積極的な姿勢へと方針を転換させるのである。
      この理由は1884年(明治17年)5月に清国とフランスとの間でベトナムを巡って争いが生じ、朝鮮駐在の清国軍の約半分1500名が本国に移駐したためである。更に8月には戦線が拡大したため、再び朝鮮への増派はあり得なくなったという判断による。この日本政府の方針大変化に対応して、これを絶好の機会ととらえ、独立党はクーデターを目論む。勿論高宗もこの考えに基本的には賛成であった。
      1884年12月4日、郵政局開局の祝宴において、日本公使率いる150名の日本軍、独立党関連の100名、そして李朝軍が一丸となり決起し、閔派の要人数名を殺害した。そして開化派を中心とする新政府を組織した。然し袁世凱に率いる清軍が反撃に移り、金玉均をはじめ日本公使などは退却を余儀なくされ、このクーデター(甲申クーデター)は失敗に終わったのであった。金玉均をはじめ独立党の面々はかろうじて仁川から日本の船により日本へ亡命した。
      1885年(明治18年)1月、日本と朝鮮との間でこの甲申クーデターの後始末のため漢城条約が結ばれ、朝鮮国の謝罪、日本人死者・負傷者、日本人商人の貨物への破損略奪に対する弁済、日本公使館の再建費用の朝鮮負担などが約束された。
      次いで4月3日天津で清国との間で天津条約が結ばれた。内容は、日清の両軍は朝鮮から撤退、日清両国は今後重大事変が発生した場合互いに事前通告し、事変が平定すれば速やかに軍隊を撤収させ駐留はしない事が主なものである。
      結論として、両軍とも「引き分け」にもって行ければ十分という考え方であったから、この事件の真相究明は行われず、甲申クーデターは政治的決着で幕引きとなった。一方ここで注意しなければならないのは、李朝とロシアの間でこの漢城条約締結に際し、朝鮮とロシアの間でロシアから軍人教官を招く、第三国が朝鮮を侵略するときはロシアは軍事力を行使する等が内容であるが、正式な文書になったものではない。これは朝鮮において政変後の権力回復を目指した閔氏一族が清国の横暴ぶりに耐えかね、しかし日本も頼りにならない。それならば当時世界最強といわれたロシアの軍事力に頼るのが一番ではないかと考えた結果であろう。
    第5節「西欧列強の朝鮮半島進出と清国の統治」
      一方ロシアの関与について思いをはせると、同国は東では中国との間で国境紛争を起こして、すでに朝鮮と国境を接するところまで南下を続けていた。更に西ではアフガニスタンで英国と対峙するところまで勢力を伸張していた。英国は1885年(明治18年)4月、突然済州海峡にある巨文島を占領して、ここに海軍基地をおいた。これはロシアの太平洋艦隊が朝鮮半島の永興湾一帯の占領を阻止しようとするもので、もっと云えばウラジオストック封鎖を念頭においたものである。これに対して朝鮮は何等手を打つことが出来なかった。
      このようなロシアや英国の東アジア進出は、我が国にも大きな影響を及ぼした。ここで日本は李朝に対して柔軟路線をとり、これまでの対処方法を大きく変換させる。それまでの日本は朝鮮に対する清国の宗主権を認めない立場であったが、朝鮮の専制王権を抑えて日清両国が共同でコントロールしやすい政府によって国内改革を行わせるよう提案したのであった。王朝国家李朝を独立民族国家に変えようとするものである。そうしなければ、上記のように朝鮮半島はいつまでも西欧列強の進出にさらされ続けると考えたからである。
      もはや国内改革派の力はなくなり、自らによる国内改革が不可能な事は明らかで、今後は清国との共同管理によりロシア等の進出に対抗しようとするものであった。正直いって日本のおかれた立場は、それ以外に方法はなかったのである。しかし清国はこれを拒否し、あくまで宗主権にこだわり続けたのであった。この為日本は対朝鮮半島政策の実際的な手掛かりを失くしてしまった。
      一方で清国は1885年8月、先の壬午軍乱で幽閉中であった大院君を帰国させた。これは、ロシアにしきりに接近をはかる閔氏一族に対する牽制であった。更に10月、袁世凱を国王代理とも云うべき朝鮮統治の責任者に起用し、李朝の政治全般に目を配らせる。一方李朝はあらためてロシアとの密約交渉に動き出す。この事はたちまち清国の知るところとなり、清国は激しくこれを追及するが、李朝はその事実を否定し白を切ったためうやむやに終わってしまった。しかしこれを機会に更なる清国の厳しい締め付けが始まったのであった。

    ■第三章「韓国併合への過程」

    第1節「東学党の乱から日清戦争勃発」
      1894年(明治27年)3月亡命先の日本から上海に渡った金玉均が、上海のホテルで李朝の放った刺客により暗殺された。そして同年5月甲申農民武装蜂起いわゆる東学党の乱が起る。
      東学とは、儒教、仏教、道教を合わせた独自の教義を持つ民衆宗教で、西のキリスト教に対して東の学、すなわち東学という。東学党は、日本と西洋の干渉を排し、朝鮮の大義を進めるという宗教運動を展開していたが、徐々に農民を圧迫する地方官吏の横暴な徴税に対する農民闘争となっていった。
      1894年2月全羅道においていた東学教団が、ついに1000名の農民を率いて郡庁を襲撃したことからこの乱は始まる。政府はなんとかこれを鎮めようとするが、その対処を間違ったため農民8000名が決起し、軍隊をもってこれを鎮圧しようとしたところついに反乱の規模は7万名にまで膨れ上がり、政府軍は敗退して、全羅道の道都全州が陥落してしまう。
      これに対して高宗と閔氏政府は清国に鎮圧を要請する。清国は天津条約により日本に対して軍隊派遣の事前通告を行い、軍艦を仁川に派遣した。一方日本も同条約に従い事前通告を行い、日本公使館と日本人居留民の保護を理由に仁川に軍隊を派遣するとともに、陸軍の一部を漢城に入れる。
      李朝政府はあわてて農民軍の税制改革案等を認め、また農民軍への安全保障を約束したため農民軍は全州から撤退する。これにより李朝政府は、日清両国に軍隊の共同撤退を提案するが、清国はこれを拒否し、一方日本も李朝の内政改革を提案するが李朝政府はこれを拒否する。
      日本政府は内政の改革を行わなければ内乱が再発することは必至であるから、改革に応じなければ軍隊撤収をしないと回答してあくまで内政の改革にこだわった。高宗も改革の必要性は十分認めていたが、具体策には何等手を付けることがなかった。また農民軍は依然武装を解除したわけではなく、閔氏政権が続く限り再蜂起は十分考えられ、「具体的な改革が行われるまでは日本軍の駐留は必要」という日本政府の主張を変えることは難しかった。
      こうして日本は7月22日を回答期限として次の要求を李朝政府に突き付ける。即ち清軍の撤兵要請、実質的な宗属関係を規定する朝清通商貿易章程を破棄すること。これに対して李朝はこれを無視したため、これが最後通牒となり、翌23日日本軍は漢城城内に入り、諸門を固め、さらに王宮に侵入した。一方国王に大院君を執政とするとの詔勅を出させ、閔氏一派を政権から追放、朝鮮軍の武装解除を行った。そして25日には日本海軍が牙山湾沖で清国の軍艦を砲撃して、日清戦争の幕が切って落とされたのであった。
      日清戦争の最中勝利を確信していた日本は、8月17日に閣議において戦後朝鮮をどうするかという基本方針を討議する。その内容は、@朝鮮自主独立放任 A日本による保護国化 B日清両国による共同統治 C朝鮮の永世中立の、四つの案であったがA案の方向で進むという方向が有力であって、確たる基本方針は示されずに終わった。
      「保護国とは隷属国の統治機能の一部を行使する保護関係を条約により設定する国家関係」と云われている。日清戦争は、世界の大方の予想に反し、日本側が有利な戦いを進めた。緒戦の平壌の戦い、黄海海戦で日本は清国軍の出鼻をくじき11月には旅順を攻略、翌1895年(明治28年)の清国北洋艦隊の壊滅により日本の勝利が決定的となった。
      そして同年4月日清条約が締結される。この講和条約において、日本は清国から遼東半島を獲得するが、ロシア、フランス、ドイツがこれにクレームを付け、我が国から清国へ返還をするように求めたのであった。すなわち「三国干渉」といわれる帝国主義的手段であたった。
      日本はこれに屈せざるを得なかった。この条約で日本と朝鮮との関係については中国と朝鮮の宗属関係が廃棄され、朝鮮は「独立自由の国」と規定され、旧来からの朝貢が否定されたのであった。
    第2節「李朝政府はロシアの傀儡政権へと移行」
      このような状況の中の朝鮮は1894年(明治27年)に第一次甲午改革といわれる新改革派官僚による改革が進められていった。すなわち相変わらずの高宗や閔妃派、大院君派官僚の圧力はあったものの、それをはね返して近代化が進められたのであった。しかし日本が三国干渉に屈したため急速に親露派が台頭してくるのである。
      彼等は改革派を圧倒して閔妃派や親欧派が力を持ってくるのである。甲午改革は朝鮮の近代史の中で一際光る諸施策が含まれていたが、この改革は国主を始めとする守旧派によりことごとく妨害され実を結ばなかった。
      日本は日清戦争に勝ったものの李朝政府は親日的な官僚を排除し、閔妃一派は益々ロシアとの接近を図っていったため、日本主導の改革は頓挫せざるを得なくなった。1895年(明治28年)10月8日日本軍守備隊は王宮を占領して閔妃を斬殺する。日本としては何としても外威政治の悪弊を排除したかったのである。
    こうして閔氏一族は追放され、またしても大院君が執政として登場する。そして全弘集による開化派の内閣が成立する。しかしこの日本を後ろ盾として内閣に対する反発は強く、1896年(明治29年)早々から農民の蜂起が見られるようになった。この動きは急速に全国へ拡大していった。親日政権と対する武力闘争の始まりであった。
      この義兵闘争といわれる農民に対して政府が援兵を送ったところ、それが王宮の衛兵が手うすになったところを見はからい、ロシアの手を借りた親露派のクーデターが起きたのである。当時の駐朝ロシア公使が仁川に停泊中のロシア軍艦から将兵をロシア公使館に入れると同時に、国王をロシア公使館に移してしまった。親露派官僚達は国王に国王親政を宣言させ、開化派の政権首脳5名の逮捕死殺令を布告させた。
      こうして李朝政府は、日本の影響力を完全に遮断することに成功した。李朝政府は、ロシアの堅塁を頼って自らロシアの手中に入ることを望んだのである。このことは自主独立とは名ばかりで、まさにロシアの傀儡政権となったのである。この事によって日本は、朝鮮におけるロシアの政治的、軍事的勢力を排除しなければ朝鮮を保護国化する道は決して開かれないと思い知ったのであった。
    第3節「日露戦争で朝鮮半島は日本の統治下へ」
      1899年(明治32年)フランスは中国広州湾を租借する。一方ロシアが関東州を設置するなど列強の清国進出は急を告げるなか、清国の国内では1900年(明治33年)6月義和団事件(北清事変)が起る。義和団は元々拳法を行う民間団体であったが、西欧のキリスト教と列強の清国侵略を攻撃していた。このため清朝政府は義和団を1898年(明治31年)近代的な装備をもって正規軍と共に闘う民間人の軍団、すなわち民団として公認した。するとこの民団に貧農や流民が大量に流れ込み、一気に大集団となったのである。この義和団が「清朝を扶け西洋を滅する」ことを旗印にして一般農民を集め、一大暴動を引き起こした。そして外国人宣教師を殺害したのをきっかけに外国軍隊が出動する。具体的には日、英、米、露、独、仏、伊、墺の連合軍が中国に軍事出動して暴動は鎮圧されたのであるが、ロシアはこの乱が終結してもなお、4,000名の軍隊を満州に駐留させたまま撤兵せず、事実上の占領を続けたのであった。
      これに対して日本は1902年(明治35年)日英同盟を結びロシアを牽制するが、ロシアはフランスと結び南下政策を続行した。このような状勢下、清国は満州からの撤兵をロシアに強く求め、撤兵協定を結ぶことに成功する。しかしロシアは完全な撤兵を行わず、韓国との国境に厚い防御線を構築し始める。その間にシベリア鉄道が完成し、ロシアの南進を進める条件は完全に整ったのであった。
      1903年(明治36年)8月、日露の間で協商が開かれるが、日本がロシアの満州からの撤兵を要求したのに対して、ロシアは強硬に出てくる。すなわち北緯39°をもって韓国を分割して、それぞれの勢力の下におくという提案を行い、日本は断固これを拒否したのであった。こうしてロシアは完全な満州全土の完全占領を宣言したのであった。ここにおいて日本とロシアは韓国を巡って、もはや妥協の余地は全くなくなり、ついに1904年(明治37年)日本軍は仁川に上陸、さらにロシア艦隊を旅順港外で攻撃して日露戦争が開始された。
      翌1905年(明治38年)1月旅順が陥落し、3月の奉天会議、さらに5月の日本海海戦において日本はロシア艦隊を全滅させ、日本の勝利が確定したのであった。そして9月にアメリカのルーズベルト大統領の斡旋でポーツマスに於いて、日露講和会議が行われ講和条約が締結された。このポーツマス条約の中で日本は、ロシアから韓国における政治、軍事、経済上の特権を引き継ぐ事が認められた。他に樺太南部の領有などが認められたが、何にもまして日本の生命線である韓国を保護国化することに成功した事は大きな成果であった。
      日本はポーツマス条約に基づき同年11月に第二次日韓協約を結び、韓国の保護国化を成功したのであった。1910年(明治43年)8月、日韓併合条約が調印され、大韓帝国は消滅して朝鮮半島は日本の統治下に入った。これをもって一般には日本が朝鮮を植民地化したと云われるが、これはあくまで日本が朝鮮を併合したのであって、植民地化というのには語弊がある。何故ならこれ以前韓国側からロシアのくびきから逃れるため、進んで自ら日本と合邦を目論む計画があった事を忘れてはならない。また日本の韓国統治は先にも述べたように、欧米の収奪を目的とする経営ではなかった事を特に強調しておきたい。

    ■おわりに

      昨今韓国との摩擦が高まり、今日韓関係は最悪といってよい状況にある。我々日本人は、中学、高校において近代史の学習が充分になされていないため日本と朝鮮との間に過去においてどのようなことがあったのか理解していない国民が多いのではないかと思う。歴史に学べとはよく言われることであるが、肝腎の歴史に無知では手の打ちようがない。そこで今回は過去の「日韓併合」の具体的な内容を明らかにしてみた次第である。
    「日韓併合」につてはいろいろな書籍があるが、今回私は崔基鎬氏の「歴史再検証、日韓併合の真実」と呉善花氏の「日本統治は「悪」だったのか」を参考にさせて頂いた。特に併合の流れについては呉氏の著書に負うところが大きかった。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2019年2月26日 金言(第79号)
    『瀬島龍三の謎』

    ■はじめに

      元大日本帝国陸軍大本営参謀、終戦後はシベリア抑留、そして帰国後は、伊藤忠商事の中枢に君臨して会長にまで登りつめ、退任後は、第二臨調(臨時行政調査会)の事実上の指導者として政財界に重きをなした瀬島龍三ほど、謎に満ちた人物はいない。私は昔からこの人物に興味を持っていた。
      今回この金言で久し振りの「人物論」に彼を取り上げるのは、この瀬島が鐘紡を倒産に追い込んだ、元凶伊藤淳二を旧日本航空の副会長を経て会長に送り込んだ裏にはこの瀬島がいると思うからである。伊藤は、取引先である伊藤忠商事の元社長で、中興の祖と云われる越後正一氏と親しい関係にあった。労使関係がうまくいかなかった旧日本航空に労使協調路線を標榜して、一見円滑に会社を運営し労務問題の専門家といわれていた伊藤を越後氏は、当時伊藤忠の要職にあって中曽根首相とパイプの太かった瀬島を通じて日本航空に推薦したのではないかと私は思っている。伊藤は、老人殺しと云われる程財界の長老に食い込むのがうまく、越後さんや当時は三井銀行の小山五郎頭取などにも可愛がられていた。

    ■第一章「終戦までの経歴」

    第1節「軍のエリート官僚の道を歩む」
      さて、瀬島龍三は富山県の現在小矢部市(旧西砺波郡松沢村)に1911年12月に生まれるが、幼い時から秀才の誉れが高く県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て1932年陸軍士官学校を次席で卒業、さらに1938年陸軍大学校を首席で卒業し、関東軍第四師団の参謀を経て、1940年には大本営陸軍部作戦課に配属される。この間関東軍参謀時代には、対ソ連戦の示威演習である関東軍特殊演習(関特演)の作戦担当として作戦の立案に係る。そして1941年には、同上第一課の作戦班長補佐となり、同年12月8日に太平洋戦争が開戦すると以後45年7月に関東軍参謀として満州に転出するまで陸軍の主要な南方作戦を軍事参謀として指導したのであった。
    (主要な作戦・・開戦初期のマレー作戦、フィリピン作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦(特攻作戦)、対ソ防衛戦など)
      この間1944年にはクーリエ(一種の公認の軍事スパイ)としても、モスクワに2週間出張している。この事が後にソ連側からスパイとして追及される。
    1945年7月に竹田宮恒徳中佐の後を受け関東軍作戦参謀となるが、同年8月15日の日本の降伏後の8月19日にソ連軍との停戦交渉にのぞむ。
    第2節「参謀時代の汚点」
      話は前後するが、1944年10月12日から16日に行われた台湾沖航空戦は、日本が米軍のフィリピン上陸を阻止すべく準備していた中、米海軍機動部隊は突然台湾の航空基地を攻撃したため、これを迎撃した日本軍との間で熾烈な戦いが繰り広げられたのであった。アメリカ軍の損害は軽微なものであったにもかかわらず、日本軍は大戦果と発表したため、比島防衛がおろそかになっていたところに、意表をついて米軍は、フィリピン本島ではなくレイテ島へ来襲したため容易に上陸を許したのであった。この大戦果が誤報である事を再三大本営に連絡した堀栄三参謀の電報をあろう事か握りつぶしたのが瀬島である事は、本人自身が明らかにしている。この行動により、瀬島は「小才子で大局の明を欠く」と批判されている。彼の握りつぶしにより、どれだけ多くの将兵の血が流されたかは事実が証明しているが、彼の参謀時代の大きな汚点であろう。
    第3節「ソ連との停戦交渉における密約疑惑」
      さて話は元に戻し、彼は8月19日のジャリコウヴォで極東ソビエト赤軍総司令官ヴァシレフスキー元帥他2名の元帥、将軍と関東軍参謀長秦彦三郎中将及び通訳の宮川舟夫と3名で交渉に当たった。その停戦交渉の内容の詳細について、おそらく停戦交渉は交渉とは名ばかりの一方的なソ連側からの命令に終始したのではないかと想像出来るのであるが、その後シベリアに抑留され、厳寒と粗食、そして強制的な重労働にあえいだ日本人は約57万5千人といわれ、内約5万9千人がシベリアの土となった。これはポツダム宣言に違反するものであったが、このような事実のもとになった停戦交渉の詳細を、一切瀬島は明らかにしていない。実際に抑留された人の中からはこの交渉の中で、捕虜を人的な賠償として差し出すという密約が取り行われたという疑いは十分にあると言い切っている者が多数いる。歴史の証人として瀬島には、その責任が十分あったにもかかわらず、重ねて言うが その詳細は一切つまびらかにしていない。

    ■第二章「シベリア抑留時代」

    第1節「極東軍事裁判ではソ連側証人として証言」
      その後、瀬島はシベリアに11年間抑留されることになる。この11年間瀬島は、将校としては労働義務がないにもかかわらず、強制労働に従事させられたといわれているが、後に述べるように彼の言動には疑われる節が多い。この間、彼は連合国側から極東軍事裁判にソ連側証人として出廷する事を命じられる。
      1946年9月17日、関東軍鉄道司令官草場辰巳中将と総参謀副長松村知勝少将と共に、ウラジオストクから空路証人として市ケ谷に送られる。草場中将は、東京裁判における法廷での証言を潔よしとせず、東京へ連行された3日後の1946年9月23日服毒自殺をとげた。彼は、ソ連側の検事証人という旧帝国陸軍軍人として屈辱的な役割を受け入れさせられた時から自殺を決意していた節がある。その日記には、自殺に至る心境が綿々と綴られてれていたようである。何故自殺を選択しなければならなかったかについては、証人訊問調書で、彼は日本陸軍が対「ソ」戦準備を実行して戦争計画を持っていたと証言し、これは、日本陸軍内部で計画されていた戦争準備案が即実行に移される「対ソ侵略計画」であるというソ連の告発理由を、十分に裏付けるものであった。他の二人、松村、瀬島の自筆の供述書もワシントンのナショナルレコードセンターに残されており、草場と同様あるいはそれ以上に饒舌に参謀本部内の対ソ連計画をソ連側に告白したものと思われる。特に瀬島は、大本営参謀として知り得た作戦計画及びその細部を語っている。又松村も作戦計画が生み出された背景を詳細に語っている。ソ連側としてはこの二人の証言を組み合わせれば「対ソ侵略計画」が裏付けられると判断したのではないか。ソ連の検事団は、日本陸軍は対ソ侵略を計画していたと告発していた。そしてその証拠として次のような瀬島の供述書を読み上げる。「昭和17年度に於いて参謀本部の計画は攻撃計画であり、作戦は急襲的に開始する予定でありました」即ちソ連はこの「攻撃計画」を「対ソ侵略計画」とみなしていたのである。瀬島は、この「攻撃計画」は単なるペーパー上の年度計画であり、「対ソ侵略計画」には当たらないのではないかという弁護人側の反対訊問を否定してしまう。具体的には「昭和16年、17年の計画は攻撃計画であり、昭和19年、20年の計画は守勢計画であった」と供述してしまう。これは、16年、17年には攻撃計画が存在していたことを意味してしまうのである。
      もう一つ瀬島の供述で重大な点がある。すなわち「参謀本部の作戦計画に関東軍は関係を持たず、参謀総長が天皇に会って裁可を頂き、これを関東軍司令官に伝達し、これに基づき関東軍司令官は自己の作戦計画を立案する」と証言、さらに「関東軍司令官に与えられているものは大元帥陛下の命令であります」この証言から導き出されるものは、関東軍の攻撃作戦計画も天皇の裁可を得ている以上、天皇の責任ということになる。この事はあらためて天皇の戦争責任にふれる重大な意味を持っている。
      瀬島を賛美する著作の中で天皇の責任には一切ふれなかったとか、かつての上官を守るために論を展開したとか云っているが、実際には上記の通り「攻撃作戦計画」の存在や天皇の戦争責任を間接的ながら証明したものであった。
      極東軍事裁判に出廷した3人の内草場中将は自殺し、松村少将は昭和31年に帰国し、その後ソ連問題研究家として生き、その間「関東軍参謀副長の手記」を公刊するが、その中でソ連側の証人になったいきさつには一切ふれていない。家族にも収容所の生活について何一つ話していない。一方瀬島は、抑留中の詳細な事実には一切口をとざしている。そして抑留から帰国後、商社経営の中枢として、また臨調の重鎮として活躍し、他の2人の証人との落差は余りにも大きい。瀬島は、東京裁判へ出廷した事実を大本営の2000日」の中でわずかに語っている。それによると「最初は何で突然連れて来られたのかわからなかった。羽田から丸の内の三菱のビルに連れて来られた。そして2〜3日してから東京裁判の証人として連れてこられたことがわかった。証人台に立ったのはたしか9月18日であった」と云っている。全てうそである。同じく証人として連れてこられた草場中将は、詳細な日記を残しており、それによると「最初はなんで突然連れて来られたのか全然わからないんです」という話は事実に反している。日記によると、東京に来る1ヶ月半以上前に瀬島は他の3人(草場、松村、樺太庁長官大津)と一緒にソ連軍将校と食事をとりながら、東京裁判に証人として出廷することについて話し合っているからである。また「証人台に立ったのは9月18日」も事実に反している。正確には10月18日である。
    第2節「主人公を極端に美化している小説「不毛地帯」」
      昭和史研究の第一人者である保阪正康氏の推理によると10月18日を9月18日としたのはある文学作品、すなわち昭和48年から53年迄「サンデー毎日」に5年間にわたり連載され、後にベストセラーになった山崎豊子氏の「不毛地帯」の主人公、元大本営参謀「壹岐正」が9月18日に東京裁判のソ連側証人として立ったことになっており、それが頭にあったのではないかということである。「不毛地帯」はあくまで小説であるが、大日本帝国陸軍参謀の主人公がシベリアで辛酸をなめ、11年間抑留の後帰国、総合商社に入り、以後最初は民間の仕事になじまなかったが戦闘機の輸入に関する仕事に携わり、旧陸軍のコネクションなども生かしその輸入に成功して異例の出世をとげる。その後日米の自動車会社の提携や中東における石油堀削プロジェクトにも成功するが、最後に社長と対立して会社を辞め、シベリア現地で死んだ日本人の墓参と遺骨の収集に向かうのである。主人公壹岐正のモデルが瀬島龍三である事は間違いないが、先にも述べたようにあくまでこれは小説である。付言すると瀬島龍三も利根川首相(中曽根康弘)のブレーンとして登場する。しかし、山崎豊子の書く小説では他にも旧日本航空において会社側と対立した労働組合委員長小倉完太郎氏をモデルとした恩地元と、伊藤淳二をモデルとした会長国見正行を主人公とした小説「沈まぬ太陽」があるが、両書共に共通するのは極端に主人公を美化しているのである。これは文学作品であるからいたしかたないであろう。瀬島にインタビューした保阪氏によれば、瀬島自身も証人として東京に来た時、家族に会わせるとのソ連側の申し入れを絶ったとしているが、実際には家族に面会しており、彼は法廷で証言した後1カ月近く東京に滞在していたのに、保阪氏には「わずか1週間ほどしか東京にいなかった」と語っておりその期間は「不毛地帯」に述べられている期間と一致している。
    第3節「シベリア抑留時代の謎」
      裁判後シベリアに連れ戻され1950年の後半迄抑留生活を強いられた。その間の詳細について彼は明らかにしていなかった。彼が公式にシベリア収容所の体験を公にしだしたのは第二臨調委員に就任してからである。しかし、その内容も全く一つのパターンが繰り返されていたに過ぎない。その内容は「昭和21年自分は大本営参謀であったというかどにより、即決で重労働25年の刑を云い渡された。そして翌日から重労働に服した。そして昭和31年日本に帰るまで11年間労働に服した。伐採や石炭堀、シベリア鉄道の貨車の荷下ろしもした。その他土工作業も経験し、およそ重労働のほとんどを体験した。しかしあの厳寒の地で重労働では25年は生きられないと思い、手に職を付けた方がよいということで左官屋に弟子入りして左官屋すなわち壁塗りである。そして帰国するまでこの仕事を続けた」彼はいろいろな席で語っているが今述べた全てがワンパターンである。
      一方「明日の命がどうなるのかわからない。毎日おなかペコペコで労働はきつく恐らく人間の「生活」ではなく人間の「生存」という11年間でありました」このようにシベリア収容所で人間の極限を見、これを機に人生観が変わったという。その人生観が変わったということを彼は著書「大本営の2000日」の中で、「自分は陸軍のエリート生活の中で階級がすなわち人間の価値だと信じていたが、シベリアの生活から階級とは単に一つの組織を維持する手段に過ぎない。人間の価値とは全く別のものである事に気がついた」とも述べている。以上が瀬島が語るシベリア体験であるが、瀬島には十分に語っていないことが多々あるのである。というのは瀬島がシベリアにおいてその所在がはっきりとしていた場所は1946年7月6日から翌47年1月中旬までハバロフスクの収容所から「夏の家」という別荘に移され、東京裁判の証人として東京に連行された6ヶ月間、そして1945年4月から1951年8月の帰国まで戦犯として収容されていたハバロフスクの第二十一分所で生活した期間だけなのである。その他の年月はどの収容所でどのように過ごしていたのか明確になっていない。1947年末から1950年4月まで瀬島は、モスクワ近郊にあった第7006捕虜収容所に大本営情報参謀朝枝繁春少佐と関東軍情報主任参謀志位正二少佐、元大本営戦争指導班内閣嘱託の種村佐孝少佐と共に収容されていたと見られている。朝枝、志位はその経歴からみて、25年の刑を宣告されてもおかしくないのに1950年、1949年に帰国している。その後1954年に発覚したソ連の対日スパイの元締ラストボロフ事件にからみ、帰国していた志位、朝枝の両名が、自分等はラストポロフに協力していたと警視庁に自首したのであった。前記の第7006収容所は日本へ帰国した後民主化運動、共産主義運動のリーダーとなるべく機密要員を訓練する学校でラストボロフはその教員の一人であり、ここには11名の日本人が収容されていたとされ、その内氏名が明らかになっているのが種村、志位、朝枝、瀬島であったという説があるが確認されてはいない。しかしいずれにしても瀬島にはスパイではないかというグレーな部分が付きまとっている事は確かである。
      元警察官僚で浅間山荘事件を指揮した佐々淳行氏は一貫して瀬島スパイ説を主張している。実はかつて國民會館で佐々さんに講演していただいた事があった。講演後の雑談の中で瀬島はスパイかと思い切って聞いてみた。答えは直接的ではなかったが、私は肯定と受け取った思い出がある。瀬島の体質は東条英機、服部卓四郎、辻政信と全く同質の陸軍官僚の典型といってよい。

    ■第三章「シベリアから帰国した後の経歴」

    第1節「華々しく昇進していった伊藤忠商事時代」
      彼が興安丸でシベリアから帰国したのは1956年8月18日であった。帰国後彼は1958年1月伊藤忠商事に入社する。伊藤忠は、大阪から出たいわゆる五綿といわれる繊維専門商社の一つであったが、社風はねばり強く質の高い人材をそろえていた。彼は1等から5等まである社員資格の内、4等社員として入社したのであるが、この地位は高卒女子社員と同様の扱いであった。一方仕事も特別なものが与えられたわけではなく、一日中日比谷の図書館に通い古い新聞などを読み、自己に足らぬところを埋めることに費やしていたようである。瀬島が入社した昭和30年代にはまだまだ旧軍人に対する風当たりはきつかった。瀬島に陽があたり出したのは1960年10月に越後正一氏が社長に就任してからであった。越後氏は伊藤忠兵衛氏子飼いの典型的な近江商人で、その才覚は抜きん出たものがあった。越後氏は、この一繊維商社であった伊藤忠を大手総合商社にまでのしあげた功労者であった。越後氏が社長に就任した当時、同社は94%を繊維に依存しており残りの6%は染料であった。越後氏は伊藤忠の業務の内容を鉄鋼、木材、化学品などに拡大していくのである。越後は、旧陸軍参謀本部で参謀であった瀬島の事を聞きつけ、軍人であったからには軍人時代のコネクションを持っているのではないかと考え、彼に軍用機の営業をやらせてはどうかと考える。当初は越後といういわば参謀本部長に仕える参謀という役割であったが、彼は持前の才覚で事を進めたため社内には反瀬島の空気が生まれた事もあった。しかし総合商社への脱皮を目指す越後は瀬島を巧みに使い、社内もその方向に動かざるを得なかったから瀬島の役割には重みがつき、その後、彼は異様なほどのスピード昇進をはたしていった。すなわち1960年7月には航空機部長、翌年10月には業務部長、1962年4月業務本部長、5月には取締役となり、1963年常務取締役、1968年5月専務取締役、1972年5月副社長、1977年に副会長、そして1982年6月に会長に昇進している。1986年には会長を退き相談役、1992年7月に特別顧問となった。
      この華々しく昇進した時期は越後の悲願であった防衛庁への米国戦闘機の売り込み商戦において、伊藤忠が勝利を収めた時期に符合している。繊維商社に過ぎなかった当社が当時500億円という大規模な航空機商戦に勝利したことをきっかけに、当社は総合商社へと大きく変貌していくのである。然しその中味については注釈がいる。瀬島が入社する前年、1957年6月に政府は国防会議において旧来のF-86F戦闘機に替わり、新戦闘機のライセンス生産を行うことを決定した。そして紆余曲折の結果、他の有力機を押さえて伊藤忠のかつぐグラマンのF-11Fに決定したのであった。伊藤忠は、自民党の党人脈(河野一郎など)に食い込み勝利をものにしたのであったが、決定後ロッキードが猛然と反撃に出て1958年9月にこの決定を白紙に戻してしまう。結果として伊藤忠の政治工作に手抜かりがあったといわれている。そして1959年11月に正式にロッキードF-104Cのライセンス生産が決定する。
      越後は、グラマンがロッキードにひっくり返された後社長に就任したのであったが、瀬島を重要視したのは今後の商戦に当たり、旧日本陸軍の人脈を活用するという意図を持っていたからである。このため瀬島は1960年4月に航空機次長になるとその3ヶ月後部長となったのであった。そして翌年7月政府は国防会議を開き二次防を決定したのであったが、その目玉となったのは「自動防空警戒システム」バッジシステムといわれるもので、これは日本の防空設備、施設をコンピューター化するという大規模な防衛設備で、総額500億円になるものであった。この商戦にはヒューズ、GE、リットンの3社が名乗りをあげ、いろいろ問題はあったが最後にヒューズ社をかついだ伊藤忠が商戦を勝ち抜き、前回の戦闘機商戦の雪辱をはたしたのであった。
      伊藤忠に業務部ができたのは1958年であったが、瀬島は翌10月に3代目の部長に就任し翌年業務本部長となる。当時の伊藤忠はタテ割りの組織であった。例えば繊維部門の中で方針が決まると、そこでプロジェクトチームが出来、営業もその範囲の中で行っていく。鉄鋼部門も同じやり方であった。瀬島はタテ割りの組織に反感を持っており全社的に業務を統合出来るスタッフが必要と考えていた。すなわちこの業務本部を頭脳集団として、営業はその方針のもとで働くということである。これは大本営の作戦参謀が個の派遣軍に命令を下すという方式そのものである。その後新しいプロジェクトはすべて業務本部が中心となりとり行われるようになり、まさに業務本部は社内の中枢部門となっていき、瀬島機関と称されるようになり若手のあこがれの部署となるが、それが又別に社内の軋轢の種ともなる。
    第2節「伊藤忠商事での活動における評価」
      それでは瀬島の伊藤忠における功罪をどう評価するかであるが、先ず功の方ではバッジシステムでの成功、さらに瀬島自ら自慢するGMといすゞの提携をまとめた事、プリマハムを世界最大の食肉メーカー、オスカーマイヤーと提携させた事、洗剤メーカーP&Gと日本サンホームの提携に成功した事、一方罪の方では土地問題や東亜石油の問題は根が深く、伊藤忠の経営を長年にわたって苦しめたのであった。又安宅産業との合併についても瀬島は反対であった。瀬島の活動についてのマスコミの評価は「可もなく不可もない」という見方と「失格」という厳しい考え方をする向きも多くある。
      私はダイワボウという繊維の会社に勤めていたので、ある時期伊藤忠さんには毎日のようにお邪魔していた。それだけに知人も多かったが、概して繊維部門の社員の瀬島に対する態度には冷たいものがある。私が携わっていた当時毛糸部門の課長で、その後副社長に迄行かれた方に瀬島氏の事を聞くと、「自分とは世代の違いもあり直接話した事は少なかったが、一度こういう事があった。東南アジアの確かタイで現地との合弁で生産工場を立ち上げるという案件で、自分がその担当であったので瀬島氏の所に案件の説明に行った事がある。瀬島氏は前々から繊維部門には冷たかったが、その時も今更タイに繊維工場をつくってどうするのかと頭から否定的であったのでやむを得ずそのプロジェクトを進める事が出来なかった。後日その案件は競争会社の丸紅が取り上げ大変な成功をおさめたと聞いている」
      もう一つ、中高時代の友人で後に海外有名メーカーとの合弁会社の社長を歴任した彼はこう云っている。「瀬島氏は1958年小菅社長時代に入社し、越後社長(60〜74年)時に業務本部長(その後取締役、副社長、副会長、会長)となってから伊藤忠全体を見る立場になった。「儲けること」が最優先で、伊藤忠の屋台骨を背負う気概だけは強い繊維部門からは実に煙たい存在で、その後の戸崎社長時代には繊維部門は瀬島氏からとことんいじめられたと聞く。当時の繊維部門の中堅上層部にとって良い思いは全くないはずである。表面的には78年の会長退任で伊藤忠における表舞台を去るが、その後政財界に影響力を発揮、実際は2000年の特別顧問を退任するまで伊藤忠には隠然として影響力を持っていた(いわゆる「瀬島機関」などと云われるKGB的なものが社内にあったと聞く)」と話してくれた。
    第3節「第二臨調を私物化」
      さて、実権のない会長となって彼は1978年頃から財界活動をするようになった。(日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭など)そして1981年当時まだ会長であった瀬島のもとに、当時の首相鈴木善幸から「今度出来る第二次臨時行政調査会の委員を引き受けてほしい」という依頼があった。一度は断るが、日本商工会議所会頭の永野重雄から再度口説かれる。さらに会長に擬せられていた土光敏夫に呼ばれ「今度の行政改革は国家民族の将来にとって絶対にやらなければならないことである」と委員就任を要請され、委員就任を引き受ける。一方当時行政管理庁の長官であった中曽根康弘も働きかけたと云われている。
      第二臨調の発足にあたって、土光が鈴木や中曽根に要求したのは「増税なき財政再建、3K(国鉄、コメ、健康保険)の赤字解消、地方行政改革の断行、答申の完全実施」でこれが受け入れられなければ第二臨調をつくる意味はないと言い切った。
      調査会のトップを司る委員は9人であった。土光を会長にして会長代理が日経新聞顧問の円城寺次郎、委員は日本赤十字社社長の林敬三、旭化成社長の宮崎輝、伊藤忠会長後に相談役の瀬島龍三、国際基督教大学教授の辻清明、東京証券取引所理事長の谷村裕、同盟副会長の金杉秀信、総評副議長の丸山康雄の8人であった。この委員会の下に専門委員21人、参与(発言力を持つ)55人、顧問が5人、総計90人という大組織である。当然9人の委員で構成する委員会が総理大臣に答申する基本方向を決定するはずで、決めた方向に従って問題ごとに専門部会に検討を委ねることになっていたが、最上位の位置にある9人の委員は現役で活躍している人がほとんどで、実際の業務を仕切るのは事務局中心となってしまい、これは伊藤忠の会長をはなれ、相談役となった瀬島の独壇場ということになってしまったのである。彼は実際に9人で構成する委員会を骨抜きにしてしまった。そして瀬島と多分中曽根に近い専門委員あるいは9人の委員の内の何人かで組織を動かしていった。それにはあく迄実現可能な範囲で実行していくという線引きをして動かすようにしたのであった。これが俗にいわれた裏臨調の姿であった。すなわちこの裏臨調を仕切ったのが瀬島だったのである。中曽根はこの瀬島の「実現可能な範囲の答申」とは自己の意に沿った答申が出されるものと考え、瀬島の動きを歓迎した。1981年(昭和56年)7月に第一次答申を出したがその内容は「行財政需要の惰性的な膨張を思い切って抑制するために行政の制度、施策の抜本的な見直しを行うことにより支出の節減と合理化を図る。各省庁の歳出額は原則として前年度と同額以下に抑制する」というもので、これは1982年(昭和57年)予算のゼロシーリング、1983年(昭和58年)予算のマイナスシーリングとなって実現した。さらに大きな答申としては1982年(昭和57年)7月の第三次答申で、これは三公社の民営化に関するものである。少数派閥の中曽根は何とかこの臨調を自己の政権獲得の道具として使いたかったのである。中曽根が首相になって瀬島や部会の専門委員がブレーンとして中曽根と意を通じて動く以上、もう臨調は諮問機関ではなく、首相の政策を後追いしていく機関に過ぎなくなった。要するに中曽根、瀬島は第二臨調を私物化したのであって、瀬島のはたした役割は第二臨調の歴史的な役割をあまりにも矮小化してしまったのではないか。

    ■おわりに

      最後に保阪氏のスタッフが第二臨調に加わっていない五十代、六十代の財界人にインタビューした時、その一人が声をふるわせて述べた一言こそ瀬島氏に対して持っている一般の方々の感想ではないかと思う。
      「瀬島さんのことについてインタビューはお断りします。あの方はこれまで責任というものを一度もとられていません。大本営参謀であったのに、その責任を全くとっていないじゃありませんか。伊藤忠までは許せます。戦後は実業人として静かに生きていこうというなら個人の自由ですからとやかくいうことはありません。それが臨調委員だ、臨教審委員だとなって、国がどうなのか教育がどうなのかという神経はもう許せません。私達学徒出陣の世代だって次代の人に負い目をもっているのに瀬島さんは一体何を考えているのか全くわかりません」と電話口で語気を強めた。その他官僚OBや学者、あるいは何人かの財界人からも戦場での辛い戦闘経験を持つものには瀬島の存在がどうしても合点がいかぬとの声があると云っている。
      私は前々から瀬島龍三なる人に大変興味があったので一度書いてみたいと思っていた。一般には山崎豊子氏の「不毛地帯」のモデルが瀬島氏であるとして大変好感を持つ人も多くいるのであろうが、私は昭和2桁の最初の頃の生まれで戦争を知っている最後の世代として、どうしても彼の真実を語ろうとしない態度が納得出来なかった。今回この稿をおこすに当り次の3点の書籍を大いに参考にさせていただいた。
  •   @共同通信社会部編「沈黙のファイル」「『瀬島龍三』とは何だったのか」
  •   A保阪正康著「瀬島龍三参謀の昭和史」
  •   B保阪正康著「昭和の怪物七つの謎」
  • 特にAについては全面的に参照させて頂いた。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2019年1月30日 金言(第78号)
    『護衛艦「いずも」は空母か?』

    ■第一章「新たな防衛大綱と中期防衛整備計画」

    第1節「新たな段階に入った装備計画」
      政府は、昨年12月18日に国家安全保障会議を開き、今後10年間の国防の指針である新たな「防衛計画」の大綱(防衛大綱)並びに2019年〜23年度の装備品調達に関する中期防衛整備計画(中期防)を決定した。
      この計画は、これまでの陸、海、空に加えて宇宙やサイバー、電磁波などの新しい領域で自衛隊の対処能力の強化を盛り込んだ「多次元統合防衛力」を掲げた方向性については、現状に即したものである。ただ、この中で一際目を引くのは、中国の東シナ海、南シナ海、さらに太平洋への露骨な進出を念頭に、短距離垂直着陸(STOVL)機(具体的にはF35B)を導入して海上自衛隊が保有する、最大の艦船である「いずも」型護衛艦を事実上の航空母艦として運用する事を明記したのであった。
      新たに高額の装備品を調達する事に伴い、5年間の予算総額は過去最大となる27兆4,700億円に達することになる。
      政府は前々から、「攻撃型空母」の保有は憲法上の専守防衛という立場を逸脱するものとして認めていなかったのであるが、今回の決定で自衛艦に戦闘機を搭載することに踏み出した事は、集団的自衛権の行使を可能とした「安全保障関連法」に加え、日本の防衛政策が装備の面に於いても新たな段階に入った事を表している。
    第2節「「いずも」型護衛艦の改修」
      防衛大綱は、今後10年間を見据えた安全保障政策の基本方針であり、中期防はこれから5年間の防衛予算の総額や、どのような装備を購入していくかを決めるものである。前回の大綱決定は2013年に決められたものであるが、その後我が国を取り巻く情勢の変化は目まぐるしいものがあった。すなわち、北朝鮮の核・ミサイル技術の飛躍的な向上や、中国の軍事力急拡大と積極的な海洋への進出、また2014年にロシアがウクライナに軍事介入した際展開した、サイバー攻撃を組み合わせたいわゆる「ハイブリッド戦」による脅威など、安全保障環境は急激に変化した。
      今回のいずも型護衛艦の「空母化」については、太平洋側の防空体制の強化を目的とするもので、大綱には「現有の艦艇からSTOVL機の運用を可能とするよう必要な措置を講ずる」としている。具体的には先にも触れたように現在の主力戦闘機F15の代替として、米最新鋭ステルス戦闘機F35を45機導入し、内18機をSTOVL機のB型として、この運用のため現在ヘリコプター搭載を目的とする「いずも」型護衛艦に改修をほどこす事を盛り込んだのである。
    第3節「空母化に対する低次元の認識と政府の詭弁」
      ところが、この新たな自衛艦の空母化について、例によって極めて次元の低い認識しか持ち合わせていないマスコミは、「専守防衛」の我が国において空母は全く必要がない。何故なら憲法9条は戦争放棄と戦力不保持に基づいて、相手方から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使して、自衛のために必要最小限にとどめる「専守防衛」を掲げてきたというのである。そして歴代内閣は「自衛隊の空母保有は必要最小限の実力を凌駕するもので、憲法上では許されない」との見解を踏襲してきた。しかし、政府与党は搭載するF35Bについては有事発生時や、警戒、監視、災害発生時の対処など「必要な場合に限る」としている事を理由に、これは「空母化ではない。多用途運用護衛艦である」と主張している。そして防衛相は「空母は戦闘機や支援戦闘機、早期警戒機といった相手国を壊滅させる破壊力を持った攻撃力を持った部隊を塔載する戦闘艦である」と云っている。これは詭弁にすぎないと私は思う。すなわち戦闘機を常載しないから、いずも型は空母に当たらないという論法である。
    第4節「安全保障の矛盾の根源は憲法9条にある」
      大体このようなまやかしの論法を政府は何時迄続けるつもりなのか。このような事に論及するのには反対もあるであろうが、もともとの矛盾の根源は、憲法第9条にある事は明白である。憲法9条は、「戦争の放棄」「戦力不保持」を規定した世界にもまれな条文である。戦後アメリカとソ連両陣営が激突した冷戦の中で、本来であれば占領終了時に即刻改正すべきものであったが、護憲運動が障害となり、未だに存続しているという世にも不思議な状況が継続しているのである。現在の憲法9条に照らせば法律学者が如何に理屈をこねまわそうと自衛隊は違憲である。本来であれば即刻改正すべきところを、左翼勢力やえせ平和主義、民主主義者の反対により未だにまともな型になっていないのである。
      この第9条が出来たいきさつは長くなるので少しにとどめておきたいのであるが、元々これは、まさに米国ルーズベルト大統領の世界政策の大失敗の産物である。
      戦後米国は、日本に2度と戦争を引き起こさせないよう武力は9条で我が国を金縛りにし、その他日本の持っている家族主義的な良い点を破壊して、日本から工業力を奪い明治時代の農業国に迄貶めようと画策したのが9条を含む現憲法である。
      ところが、昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が勃発し、あわてたアメリカは、今更憲法をどうする事も出来ず日本に戦力を復活させることを目論み、できたのが警察予備隊、後の自衛隊なのである。すなわち上に触れたように日本を弱体化するため考えられたアメリカの対日政策の大失策なのである。
      そしてこの憲法を逆手にとって、日本の経済復興をはたしたのが吉田茂から現在に迄つながる保守勢力である。しかし、歴代の内閣は憲法の改正がはたせないため、憲法9条と現実との間を如何に調整してきたかは真に涙ぐましいといえる。自衛隊は戦力ではないというのは詭弁にすぎない。

    ■第二章「「空母化」は我が国の防空体制強化に寄与」

    第1節「「いずも」型護衛艦は明らかに「空母」」
      ヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」が2015年に登場した時、これは艦の全長が248m、全幅38m、排水量は規準19,500トン、満載で26,000トンと発表されているので、これはもう正式な空母ではないかと考え、元空将で防衛省高官であった友人に「あれは空母なのではないか、戦闘機の搭載が可能なのではないか」と質問した事があった。答えは、当然彼の立場から答えられる範囲は限られていたのであるが「甲板の厚さを補強すれば戦闘機搭載可能、又エレベーターも変える必要があるのではないか」であった。この答えから自衛隊は、空母への転換を考えているのである事を確信したのであった。
      事実「いずも」はかって真珠湾攻撃に参加し、ミッドウェー海戦で沈没した旧帝国海軍の主力空母「赤城」「加賀」と比較して、ほとんどその規模に於いて兵装を除き大差はない。更に同じく当時のアメリカの主力空母サラトガとも大差はない。「いずも」について二番艦の「かが」が2016年に就役している。これによりおそらくF35Bを両艦に約10機ずつ搭載するとして、アメリカの第七艦隊を十分補完して我が国の防衛に寄与出来るのではないかと信じている。
      しかし、政府は連立を組む公明党からの疑問提示により、この空母化については与党の了承手続に大変時間を要してしまった。私は防衛相が云う、戦闘機は常時搭載しないからいずも型は空母に当たらないという解釈には疑問を持っているのである。
    第2節「「安全保障法」は空母保有を可能にした」
      現実には、自衛隊が戦後初めて戦闘機の離着能力を有する艦艇を保有し、「いずも」が真に攻撃型の空母かどうかは別にして、このような能力を持つ事は画期的な事であり、一線を踏み越えた事は確かである。そうならば空母か否かが問題になるのではなく、あくまでその能力を如何に時の政府が使うかにかかってくると思われる。
      2015年の「安全保障法」では自国と密接な関係にある他国の武力行使を、自国が直接攻撃されていなくても実力をもって阻止する集団的自衛権の行使が限定的に可能となった。この時から「専守防衛」は事実上変更されたと元内閣法制局長官の阪田雅裕氏は説く。
      すなわち「集団的自衛権の行使はたとえ限定的と云えども国外での武力行使を意味する。そうであるならば、それに必要な装備の保有が許されなければおかしい。従っていずも型の空母化も安保関連法との関係からは整合性がとれている」と主張する。
    第3節「「空母保有せず」という政府見解を改めるべし」
      ところが、政府は今尚国会における安保関連法の審議において「相手からの武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使する。いわゆる受動的な防衛戦略の姿勢である専守防衛についてはいささかの変更もない」と主張している。これに対して阪田氏は「『変えない』といって『変える』のは一番不適切な行為である。国民に充分な考慮の時間を与えず実態は『実は変えられていた』という状況は、法治国家のあり方としては実に不適当である」と指摘している。実際専守防衛や空母は保有せずといった長年にわたる政府の見解は、既成事実の積み上げによってどんどん変わってよいのかは疑問である。
      確かに日米同盟が我が国の外交、安保の基本である事は間違いない。従って国際情勢の変化に臨機応変に対応していく必要はある。従ってアメリカの要望に応じて戦闘機を含む軍備を増やしていく事はやむを得ない事である。また先にも触れたようにアメリカの太平洋軍に協力するため、空母の保有も是非進めざるを得ないのが我が国の実状である。しかし集団的自衛権の限定的行使が可能となった現在、自衛隊の装備も又変わらざるを得ない事を、率直に認めるべきではなかろうか。

    ■第三章「我が国を取り巻く厳しい情勢の変化」

    第1節「中国の脅威と空母強化の実情」
      我が国を取り巻く情勢は極めて厳しいものがある。最も我々に関係してくるのは中国である。中国は尖閣諸島の存在する東シナ海、また南シナ海においては勝手に島々の周辺を埋め立て自らの領海化を図っている。最近では我が国の最南端の南鳥島付近にまで出没している。そして、中国の国防費はこの30年間に51倍にまで膨張している事を、もっと真剣に我々日本国民は受け取るべきではないか。
      このように厳しい情勢の中、中国は空母の強化に力を入れている。中国の空母はアメリカ海軍の空母に比して著しく劣っている。太平洋に進出してアメリカ海軍とわたり合って行くためにはどうしても空母が必要である。しかし、中国には勿論空母の建造能力がなかったから、彼等は先ず、崩壊直前のソ連がウクライナで建造に取りかかっていた空母「ヴァリャーグ」がその後の資金難で完成の見込みがなくなり、ロシアが処置に困り、ウクライナ管轄のまま放置されていた当該艦艇を、スクラップにするという名目で買い付けたのである。その後2002年大連にまで回航され、そのまま係留されていたが、その後2005年から空母として再生がはかられ、2011年にようやく中国初の空母として出航にこぎつけた。2012年には「遼寧」と命名され、全長305m、幅75mでアジア最大の空母である。
      カタパルトによる艦載機発進は不能で、いわゆるスキージャンプ式の発進であり、効率は悪い。又現状では艦載機乗組員の技能も低い。当艦は2016年12月初めて遠洋訓練の為ミサイル駆逐艦3隻、ミサイルフリゲート2隻を随伴し宮古島、北東水道を抜け、東シナ海から太平洋に向けて航行した。本艦はあくまで練習艦の色彩が強く、現在建造中の新しい空母を含めてアメリカに肩を並べる空母打撃群にまで成長するにはかなりの時間を要するか、場合によっては不可能ではないかと思う。
    第2節「世界の空母の運用実態」
      現在世界では20隻の空母は運用されている。その大半はアメリカであるが、他に英国1隻、インド1隻、中国1隻、イタリア2隻、フランス1隻(アメリカ以外で唯一の原子力空母)、ブラジル1隻(フランスより購入)、タイ1隻、ロシア1隻、アメリカは11隻である。
      空母打撃群は1隻の航空母艦を中心に空母を護衛する5〜10隻の護衛艦(イージス巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)さらに1〜2隻の補給艦から構成されている。さらに空母には数十機の航空団(戦闘機、攻撃機、早期警戒機、電子戦機、輸送機)が配置されており、護衛艦は合計300発以上の各種類のミサイル(艦隊防空、個艦防空、艦対地、艦対艦、巡航、対潜、弾道弾迎撃)を備えている。
      空母打撃群を世界の海に展開する能力は、アメリカだけで現在11の打撃群が存在する。アメリカの空母打撃群は現代の世界においてはほとんど無敵である。中国は何とかしてこの米国優位を覆そうとしているが、この打撃群を維持していくためには膨大なコストを要し、アメリカですら最近の原子力空母の新規建造は1隻にとどまっているのであるが、中国は昨年4月に2隻目となる空母を進水した。中国はより大型の新型空母を2013年に起工し、就役は2020年となる模様であるが、アメリカに追いつく事は当面不可能なのではないか。
      空母の運用は極めて難しく、第2次世界大戦、戦後を通じて空母を中心とする機動部隊(現在の空母打撃群)を運用する事が出来た国はアメリカ、英国、日本の三国にすぎない。ドイツは最初ヒットラーが興味を示したが挫折し、ソ連海軍も現在唯1隻大型空母クズネツォフを保有し、最近ではシリア内戦に投入されるが目立った活動はしていないし、米空母打撃群には遠く及ばない。
    第3節「離島防衛に適している「いずも」型軽空母」
      さて、今回の我が国「いずも空母」が仮に改修により転用された場合、その運用はどうなるのであろうか。日本は第1次世界大戦で世界に先駆けて空母を中心とする作戦を展開し、太平洋戦争ではアメリカ機動部隊と互角にわたりあった。むしろ戦艦対戦艦のいわゆる大艦巨砲主義から航空機を主体とする戦術への転換を図った先駆者である。しかし、言うまでもなく戦後の平和憲法なるものは「攻撃的兵器」を認めていないため、「いずも型」をめぐる空母保有論は常に「攻撃的兵器」なのか「防衛的兵器」なのかという議論になる。しかし米国の識者は「空母の能力は攻撃的役割に限定されるものではない」と指摘する。さらに空母の能力は「攻撃だけではなく防衛任務や偵察にも活用出来る」と指摘している。具体的には、味方の水上基地を敵の攻撃から守るため戦闘機を発進できるし、敵の艦艇や潜水艦の位置を把握出来たりする。そこで現実的に現在日本が特に注力する尖閣諸島などの離島の防衛に空母は適している。当然「日本の空母への回帰は太平洋戦争時代のイメージがついて回るから中国や韓国は反発するであろうが、日本のような島国では離島を守り、領海をパトロールするには数隻の「いずも型」のような軽空母の運用は適している」と指摘している。
    第4節「空母保有を日米同盟維持の現実的な対応として評価すべき」
      今回のいずも型の空母化はトランプ大統領の同盟国と云えども、防衛に関して応分の負担を求めるのに対応したものではなかろうか。日米同盟を維持するためにも、これの負担の一部を空母化で答えたことは、現実的な対応として評価するところである。重ねて云うが、確かに日米同盟が我が国の死命を制する基本である以上、その変化に臨機応変に対応していく事は必要であるが、矢張り長年にわたって守られてきた専守防衛や空母は保有せずなどという時代遅れの考え方は、この際国民の前で清算して、自衛隊の準備についても集団的自衛権の行使が限定的ながら可能になった今変わらざるを得ない事を、はっきりと国民に理解させなければならないのではなかろうか。
      今回の「いずも型空母」問題については、朝日を始めきわめてこれに対して懐疑的な論調が多かった中で、最近左倒傾向の強い毎日新聞の1月16日付「記者の目」木下記者の記事は、大変納得出来るものがあったのでその考え方を参考にさせて頂いた。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    武藤会長「金言」

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