ホーム > 國民會館について> 武藤会長「金言」

                     

武藤会長「金言」

2019年3月31日 金言(第80号)
『朝鮮併合の真実』

■はじめに

  1945年(昭和20年)我が国の敗戦後、北緯38°線をはさんでソ連の影響下にある北朝鮮、自由主義陣営に属する韓国という二つの分断国家が誕生してから73年が経過した。その間1950年(昭和25年)6月25日、突然北朝鮮軍が38°線を犯して韓国に進入し、これに対してアメリカを中心とする国連軍が結成され、一時は釜山に迄追い込まれるが、国連軍は、仁川に上陸して反撃に移り、逆に38°線を越えて北朝鮮の首都平壌を占領、さらに北進を重ねたところ、中国人民解放軍が鴨緑江を越えて介入してきたため、両軍は一進一退を重ねるが、1953年(昭和28年)7月27日休戦協定を結んだ。そして38°線をはさんで現在、大韓民国と北朝鮮人民共和国が並立の状況が続いている。注意すべきは、あく迄これは終戦協定の締結ではなく休戦協定であって、名目上は、現在も両国は戦時下にある事を認識しておかなければならない。その後、韓国は日本からの多額の援助を基にして、「漢江の奇跡」と云われた経済発展を遂げ今日に至っているが、北朝鮮は、金日成に続く金王朝が統治して、経済的な発展においては韓国に大きな遅れをとっている。しかし近年核開発とその運搬手段であるミサイルの開発に成功し、対外的に平和をおびやかす極めて厄介な存在となっている。今回は、この核問題を論じるのではなく、朝鮮半島が、我が国が敗戦により撤退する前如何なる状態であったか、日韓併合がどうして行われたのかを考えてみたい。

■第一章「韓国併合の概要」

第1節「政治的反日の原因」
  我が国は、核問題の他北朝鮮との間には拉致問題をかかえ、非常に難しい状況にある。一方韓国との間にも従来から竹島問題や漁業など問題は山積していたところ、2017年(平成29年)3月に朴槿恵大統領が大統領弾劾により失脚し、5月の大統領選挙で容共派の文在寅氏が当選した。そもそも確かに韓国は隣国ではあるが、歴史的な経緯や政治や教育などの誘導により、韓国民の反日感情は著しく高い。しかし、日本韓国間の貿易総額はそれぞれが第三位の貿易相手国となっており、経済的な結びつきは極めて強い。
  ところで、文大統領就任以来立て続けに韓国側から次のような理不尽な問題が突きつけられ、現在日韓の間は最悪な状況に陥っている。すなわち前政権と合意していた「慰安婦問題」の蒸し返し、次に徴用工裁判における1965年(昭和40年)の日韓請求権協定で解決済みの案件に対する損害賠償の判決確定、さらに航空自衛機に対するレーダー照射に対して全く事実と反する事を主張していること。更に下院議長の慰安婦に対する天皇の謝罪要求、少し前になるが海上自衛隊の旭日旗使用禁止要求などが次々に出て、日本国民はその出鱈目ぶりに唖然としている今日この頃である。
  前々から保守政権においてすら反日的な行動が目立つ韓国であったが、文大統領は基本的に北朝鮮に全面的に傾斜する容共政権であり、このまま推移するならば在韓米軍の撤収すら予想され、我が国の防衛という点から極めて由々しい事態となるのではないかと憂慮される。
  そもそも韓国が政治的反日に固まっている原因は矢張り、1910年(明治43年)から1945年(昭和20年)に至る日韓併合に起因している。韓国は、一方的に日帝35年の支配により疲弊して、日本の統治こそが悪の根源であるという考えに基づく教育が一貫として行われ、それが国民の頭の中に刷り込まれていることがそもそもの問題と考える。実際我々日本国民の間でも韓国を日本がどのような形で併合したのか、どのような統治が行われたかについて、認識している人は少ないのではないか。また朝日新聞を中心とする反日グループが従軍慰安婦など、事実と違う報道を撒き散らしたため、日本の韓国統治こそが悪の根源であるという考えを持つ日本人が多数いることも事実であろう。
第2節「併合前の朝鮮半島情勢」
  韓国併合(日韓併合)とは1910年(明治43年)に我が国が、当時存在していた李氏朝鮮の最後の姿、大韓帝国を併合したことを指す。この「韓国併合」は日本が武力により一方的に制圧、占領して実現したものではない。大韓帝国が日本の統治下に入ることを選択して、「韓国併合に関する条約」により実現したものである。一般に多くのマスコミは韓国、台湾の植民地化という言葉を使うが、韓国の場合は併合であり、あくまで植民地ではなかったことを強調しておきたい。
  しかし、一方ではこれは日本の韓国に対する侵略、そして「植民地化」が行われたと主張して噛み合わない。それではその時代に日本により何が行われたのか、日本の統治以前と以後どのような変化が生じたのかという事を、我々はよく頭に入れておく必要がある。
  「韓国併合」あるいは「日韓併合」の対象は現在の大韓民国ではなく、先に触れたように大韓帝国のことで、これは現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国の事である。元々この大韓帝国とは朝鮮、あるいは李氏朝鮮という国名であったが、これは中国の冊封体制に組み込まれた明や清の属国であった。
  李氏朝鮮は、1392年から約500年間朝鮮半島を支配した王朝であったが、それ以前、半島を支配していた高麗の臣下であった李氏が主君を裏切り、明の力を借りて起こした王朝であった。そのため建国後も明に隷属し、明の滅亡以後も続く清王朝の属国であった。李朝は朝鮮民族が古代から高麗にいたる迄持ち続けていた自立心を放棄して(例えば高麗(高句麗)はかって隋の煬帝を完全に敗退させた)完全に明の傀儡国家で、国民を奴隷化し、私有の財産は全て没収するという文字通りの専制王権制度の国で、現在の北朝鮮と酷似している。両班階級(武班、文班、すなわち貴族階級)がまさに住民を蛆虫のように扱った500年間であり、人口は現在の北朝鮮と同様搾取と飢餓により減り続けた。「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である。」と崔基鎬(チェ・ギホ)氏は云っている。
  このように500年の長きにわたり、国民は窮乏し、文化が停滞した歴史こそ日韓併合前の朝鮮半島の姿であった。しかし、1895年(明治28年)に日清戦争において勝利した日本は、その後の日露戦争を経て清から李氏朝鮮を独立させ、500年ぶりに朝鮮半島は解放されたのであった。(大韓帝国の成立)
  このような状況下にあった朝鮮を日本が併合した理由は、勿論日本の利益を守るためであって決して朝鮮の人々を李王朝の暴政から救うためではなかった。
  さて話は前後するが、当時の日本を取り巻く状況の中で日本が一番脅威を感じていたのはロシアであった。ロシアは南下政策をとっており、ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下されると北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と九州の北側にある朝鮮半島により挟撃される形となり、日本への脅威は一段と高まる。従って朝鮮半島はなんとしても死守しなければならない最後の砦であった。しかし、国力の落ち込んだ李氏朝鮮には自力でロシアから朝鮮半島を守る力は皆無であった。そこで、日本は朝鮮半島を何とか近代化して、ロシアの進出を阻むために影響力を及ぼそうとしたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然それを許す筈がなかった。そこで日本は清国を排除すべく勝負に出る。日清戦争[1894〜95年(明治27年〜28年)]の始まりである。結果は世界の予想に反して、日本はこの戦争に勝利して朝鮮半島に影響力を確立することに成功する。しかし旧宗主国の清国に変って朝鮮半島に対しロシアは影響力を強めたのである。
  朝鮮自体自ら自国を改革して行こうとする機運に乏しかったため、益々ロシアの力が強まって行った。朝鮮半島は上述の通り我が国の生命線であったから臥薪嘗胆を重ねた我が国はついに明治37年(1904)ロシアとの開戦(日露戦争)に踏み切る。戦いの結果は世界中の大方の予想を裏切り、日本が勝利をおさめ朝鮮半島に対する影響力を確固とした。
  この結果、李氏朝鮮は独立して国号を大韓帝国と改める。また、これにより朝鮮の王であった高宗はかねてからの念願がかない、自らを「王」から「皇帝」に格上げさせ、清の皇帝と肩を並べたのであった。しかし、これにより韓国が独立国として清に変わって日本の影響下に入り、その後の日韓併合につながっていくのである。
第3節「併合後の朝鮮社会の変化」
  日本の併合後、どのような変化が起こったかであるが、一つは人口の増加である。日韓併合とともに朝鮮の人口は急激に増加した。例えば前出のチェ・ギホ氏の著書「歴史再検証・日韓併合の眞実」及びオ・ソンファ(呉善花)氏の「日本の統治は「悪」だったのか?」によると、韓国の1777年の総人口は1804万人であったが、100年後の1844年には1689万人に減少した。また、日韓併合時の1910年には1312万人だったが、併合後には最終的に2512万人(1944)と2倍近くにまで増加している。
  このように清の属国時代には右肩下がりであった人口が、わずか30年強の日本統治時代には倍増したのであった。人口増加の要因は、経済力が伸びた事である。1900年(明治33年)前後以降、日本から朝鮮に投じられた資本は実に80億ドルにのぼっている。この資金により北部は大工業地帯がつくられ、南部においては商業が大きく伸張した。開墾、干拓、灌漑などの大規模な土地改良により米の生産は飛躍的に伸びた。併合当時米の生産高は1000万石であったが、1932年(昭和7年)には1700万石、1940年(昭和15年)には2200万石にまでなっている。一方鉄道、道路、架橋、航路、港湾等の交通設備や電信・電話等の通信設備の敷設、大規模な水力発電所が全国的に稼働した。植林も毎年行われ、1922年(大正11年)迄に植林された苗木は10億本と云われている。現在のソウル近郊の山々はすべて李朝時代にはげ山であったが、植林が進んだため緑を取り戻している。一方工業生産高は1927〜33年(昭和2〜8年)は3億円台、1935年(昭和10年)には6億円台超、1940年(昭和15年)に18億円台超となり、工業の成長率は1914年〜27年(大正3年〜昭和2年)には年平均5.3%、1928〜40年(昭和3年〜15年)は年平均12.4%と急速な成長をとげた。さらに一人当たりのGDPも1920〜30年代は年間約4%上昇した。(当時の世界諸国では高くて2%程度であった。)その他人口増加を含めて国力の伸びた要因としてチェ氏は両班、常民、賤民などの厳しい階級制度のもとで少数の支配者が、住民の大部分を支配するという悪弊が払拭された事、公正な裁判が行われるようになり賄賂の習慣が一掃された事、私有財産制度の確立、職業選択の自由、居住の自由、そして何よりも経済秩序が確立された事、教育の普及と医療制度の近代化をあげている。
  このように清の属国であった李氏の時代に比べると朝鮮社会はあらゆる点で改善を見た事は明らかである。ところが現在日本では「韓国併合」をただ一方的に日本が搾取して韓国人を苦しめ、虐げたかのように云われているが、それが間違いである事は、上記に述べたように明らかである。日本の功績を隠蔽して罪悪感を植え付けようとしたのはアメリカの占領政策である事は間違いない。また、アメリカの占領政策に乗りかかって韓国(大韓民国)が日本を攻撃するための手段として利用している事も明らかである。このように書いてくると日韓併合はロシアの南下により危機感を持った日本が朝鮮半島を自らの命綱という事を認識して清、更にロシア対峙してこれに勝利し、以後韓国併合を進めてその経営を順調に進めたという受取り方をする人達も多いと思う。しかし朝鮮を開国に導き最終的に日韓併合に到達する過程は我が国にとって茨の道であった。この経過を詳しく述べると次の通りである。

■第二章「我が国の日清戦争に至る過程」

第1節「大院君政権の鎖国攘夷政策への懸念」
  日本の徳川幕府が、1858年欧米5ケ国に対して開港したこと及び1860年に英仏連合軍が北京に侵入して北京条約が締結された事(北清事変)は当時大院君(国王高宗の父)が政権の座にあった李朝にも伝わっていた。また朝鮮半島沿岸に諸外国の船舶がしきりに出没し、国民の間にも外国の侵略についての危機意識が高まっていた。しかし大院君の政策は、鎖国攘夷に徹底的にこだわったものであったので、諸外国からのアプローチは一切拒否し続けていた。日本は、李朝が我が国のように早急に開国して近代化と、富国強兵を進めなければ早晩西欧列強の支配下におかれるであろう。もしそうなれば隣国である我が国は窮地に立たせることになる。そのためにはこの際日本は、武力をもってして強引に李朝を開国させなければならないという考え方が出て来たのである。これが西郷隆盛等を中心とする征韓論といわれるものであった。征韓論と云うからには朝鮮を侵略する目的があるように取られるが、真の目的は今述べたところにあった。もう一つふれなければならないのは、「攘夷」下にあった、李朝の王はあくまで中国の皇帝に臣従する朝鮮王であって、盟主である中国皇帝に対してすべておうかがいを立て、その指示に従うという態勢下にあった。開国をはたした日本からすればこのような李朝の態度は時代錯誤もはなはだしいものであった。
第2節「政策なき開国で閔氏政権は混乱」
  1872年(明治5年)日本は開国に関する国書を送り、これは1868年(明治元年)に朝鮮より受け取り拒否にあって以来のことになるが、再度軍艦2隻を伴い修交を求める。しかし、この通商要求に対しても大院君は強硬にはねつけたのであった。一方1873年(明治6年)大院君が失脚し、新たに政権を握ったのは高宗の妃、閔妃(ミンピ)の一族であった。
  閔妃自体大変な権力欲を持つ人物で、この閔妃一族が大院君の専制政治に不満を持つ勢力を結集して大院君の排斥に乗り出し、ついに大院君を引退に追い込んだのであった。
  大院君に代わって成立した閔氏政権は清とも相談の上、ともかくも日本との武力衝突を避けるため、1874年(明治7年)外交交渉を進めることにした。しかし日本、李朝共相手方に対するささいな事で理解、配慮を欠いた結果、肝心な交渉にまで至らなかった。業をにやした日本政府はついに1875年(明治8年)に砲艦外交に打って出る。
  日本は釜山に軍艦2隻を派遣して威圧を加えた上、黒田清隆を全権大使として条約締結交渉に当たらせる。これに対して李朝側は近代的な条約の意義に無知であったため、最初から双方がかみ合わないまま推移したが、最終的に1876年(明治9年)日朝修好条約が締結され、朝鮮は開国に踏み切った。
  閔氏政権は何等の政策も展望もなしに、ただ時代の流れに押されるままに開国したのであった。すなわち閔氏政権下の李朝において、世界の趨勢を見きわめている若手の開化派官僚が主導権を持って開国開化政策を進めたが、一方では国を反対の方に押し戻そうとする儒学徒の勢力も衰えていなかったため、国論が不統一の中で閔氏政権は難しいかじ取りをせまられた。
  ここで一大事件が発生する。信じられないような話であるが、当時の朝鮮の人口1300万人に対して、軍隊はわずか2千数百名しかいなかった。当然自力で自国を守ることは出来るはずもなく、事が起れば宗主国の清国に泣きつくしか方法はなかった。
第3節「壬午軍乱により清国の朝鮮干渉が強化」
  この為日本は朝鮮に新式の小銃を送り、近代的な部隊編成を勧め、新たに各軍営から80名の志願兵を選抜して、新たな別動軍を組織した。ところが旧来からの兵士は旧式の火縄銃しか持たない旧式の部隊で、彼らと新たに設けられた別動軍との間には、待遇の面で大きな差をつけられていた。さらに旧軍兵士に対する俸給米の支給が1年近くも滞っていたため、一挙に閔氏政権に対する不満が爆発して1882年(明治15年)下層市民まで巻き込んだ大暴動(壬午軍乱)が起る。
  彼等は官庁や閔氏一族の屋敷や日本公使館を襲撃して王宮にまで進入する。閔妃はかろうじて王宮から脱出するが、閔氏系の高級官僚、王宮内にいた日本人など多数が殺される。この軍乱により閔氏政権は倒れ、再び大院君が政権を掌握する。
  日本は直ちに居留民保護と韓国政府の責任追及のため軍艦4隻と陸軍数百名を仁川に集結させる。そして賠償金50万円や公式謝罪等を韓国政府に求める。一方清国もこのままの状況が続くと日本軍と韓国軍衝突は必至として、調停と称して3隻の軍艦と3000名の陸軍を派遣する。この結果としてこの状況を調整するためには、大院君を取り除く他なしとの清、日の間で協議が成立し、清国は大院君を捕え天津に連行、その他大院君一派を粛清してこの軍乱は完全に鎮圧される。
  そしてまたもや政権は閔妃一族が握ることになる。日本は済物浦条約を結び、日本に対する賠償金50万円の支払、日本人被害者に対する見舞金の支払、日本公使館への警備兵の駐屯などを取り決めた。一方清国はこの軍乱をきっかけにして、朝鮮に対する干渉を強化していく。具体的には首都漢城を軍事制圧下におき、不平等条約締結を強制。外交顧問の派遣等であった。
  李朝は全く自主性をもった内外政策を示す事が出来ず、復活した閔氏政権はもはや日本は恃むに足りない。矢張り巨大な宗主国中国との関係を維持するべきであるとの考え方に後退していったのである。
  この清国の朝鮮干渉の強化により、日朝修好条約の意義が残念ながら抜け殻化してしまった。清国は宗主国でありながら韓国に対して内政、外政にあからさまに介入しなかった。従って日本は清国と朝鮮との間に打ち込んだ楔である日韓条約を清国の介入なく、ただその権利を行使していればよかったのであるが、局面は大きく変わってしまった。正直云って清国は、当初は日本を軽視していたきらいがある。しかしその後の日本の帝国主義的動きを見て、従来とは違った韓国への干渉強化に乗り出す。この清国の方針変更に対処して、日本も方針の変更を余儀なくされたのであった。
第4節「開化派、独立党による甲申クーデター失敗」
  日本は明治維新以来富国強兵策をとり、驚異的な発展を示したが、しかし未だ経済力、軍事力両面において世界の強国に伍していける実力はなかった。即ち清国の朝鮮への干渉を排除したくとも、清国と事をかまえるまでの考えはなかった。日本はこれまで一貫して金玉均らの若手改革派による独立党を支援することによって、朝鮮の中国からの独立と近代的改革を目指していた。しかし、余りにも露骨な支援は独立党の動きがかえって難しくなると考え、独立党への支援も限定し、経済的利益の獲得により勢力を拡張していくという方向にシフトしていった。
  一方韓国内部の改革推進派も清国の干渉強化により、それを支持する閔氏政権を前にして干渉強化がされたにしても、従来通り韓国の近代化を推進していこうとする立場を明確にしていた金弘集らのグループと、金玉均らのあくまで日本の明治維新にならい清国からの独立を目指す近代化を強く唱える独立党に分かれ、その対立は次第に深まっていった。
  指導者の金玉均は、1851年生まれであるが、21才で科挙を首席で及第し、高等文官を養成する唯一の国立大学に官職を得た後、1873年(明治6年)大院君が政権の座を追われ、閔氏政権が成立した後、順調に出世をとげていく。彼は、早くから開国思想を持っていたが、その間開化思想を説く二人の先輩から大きな影響を受け、一層それに傾注するようになる。 彼は国を思う有志を糾合して、独立党を結成した。
  この団体は、両班政治家達の党ではなく、広く中人階級及び常民階級までを含む幅広い、李朝においては特別な政治集団であった。その後、金は近代化と富国強兵策を進める日本に傾斜していく。そして彼自身が自ら日本への派遣を国王高宗に働きかけたのであった。高宗自身にも、将来有望な若手官僚を日本に行かせ、見聞を深めることに異存はなかった。
  1882年(明治15年)3月、金は他の二名と共に長崎に上陸し、その後京都、東京を回り、特に福澤諭吉の紹介でさまざまな人物と会い意見を交換し、政治、経済、軍事の諸施設を訪問して見聞を広める。会った人物の中には井上馨、大隈重信、渋沢栄一、大倉喜七郎、榎本武揚などが数えられる。翌年帰国後金は、40数名の若手を日本に留学させ、福澤の手に委ねるのであるが、金のこのような近代化に向かっての政策には、守旧派から大きな反発が起こった。加えて詳細は省くが、福澤の仲介により朝鮮が日本より300万円の借款を得て、近代化を推進するという計画が、日本の方針転換により坐絶し、金の計画は水泡に帰したのであった。
  その後、閔氏の勢力が連合して金玉均排斥と、独立党の圧迫へと大きく動き出して来たため、独立党は四面楚歌の状態に陥った。このように300万円の借款が得られなかった最大の理由は、清国が対朝鮮政策を強化してこれを受けた日本政府が柔軟外交へと方針を転換した事に起因するのであるが、金が帰国してからまもなく日本政府は、それまでの消極策から再び金玉均ら独立党への積極的な姿勢へと方針を転換させるのである。
  この理由は1884年(明治17年)5月に清国とフランスとの間でベトナムを巡って争いが生じ、朝鮮駐在の清国軍の約半分1500名が本国に移駐したためである。更に8月には戦線が拡大したため、再び朝鮮への増派はあり得なくなったという判断による。この日本政府の方針大変化に対応して、これを絶好の機会ととらえ、独立党はクーデターを目論む。勿論高宗もこの考えに基本的には賛成であった。
  1884年12月4日、郵政局開局の祝宴において、日本公使率いる150名の日本軍、独立党関連の100名、そして李朝軍が一丸となり決起し、閔派の要人数名を殺害した。そして開化派を中心とする新政府を組織した。然し袁世凱に率いる清軍が反撃に移り、金玉均をはじめ日本公使などは退却を余儀なくされ、このクーデター(甲申クーデター)は失敗に終わったのであった。金玉均をはじめ独立党の面々はかろうじて仁川から日本の船により日本へ亡命した。
  1885年(明治18年)1月、日本と朝鮮との間でこの甲申クーデターの後始末のため漢城条約が結ばれ、朝鮮国の謝罪、日本人死者・負傷者、日本人商人の貨物への破損略奪に対する弁済、日本公使館の再建費用の朝鮮負担などが約束された。
  次いで4月3日天津で清国との間で天津条約が結ばれた。内容は、日清の両軍は朝鮮から撤退、日清両国は今後重大事変が発生した場合互いに事前通告し、事変が平定すれば速やかに軍隊を撤収させ駐留はしない事が主なものである。
  結論として、両軍とも「引き分け」にもって行ければ十分という考え方であったから、この事件の真相究明は行われず、甲申クーデターは政治的決着で幕引きとなった。一方ここで注意しなければならないのは、李朝とロシアの間でこの漢城条約締結に際し、朝鮮とロシアの間でロシアから軍人教官を招く、第三国が朝鮮を侵略するときはロシアは軍事力を行使する等が内容であるが、正式な文書になったものではない。これは朝鮮において政変後の権力回復を目指した閔氏一族が清国の横暴ぶりに耐えかね、しかし日本も頼りにならない。それならば当時世界最強といわれたロシアの軍事力に頼るのが一番ではないかと考えた結果であろう。
第5節「西欧列強の朝鮮半島進出と清国の統治」
  一方ロシアの関与について思いをはせると、同国は東では中国との間で国境紛争を起こして、すでに朝鮮と国境を接するところまで南下を続けていた。更に西ではアフガニスタンで英国と対峙するところまで勢力を伸張していた。英国は1885年(明治18年)4月、突然済州海峡にある巨文島を占領して、ここに海軍基地をおいた。これはロシアの太平洋艦隊が朝鮮半島の永興湾一帯の占領を阻止しようとするもので、もっと云えばウラジオストック封鎖を念頭においたものである。これに対して朝鮮は何等手を打つことが出来なかった。
  このようなロシアや英国の東アジア進出は、我が国にも大きな影響を及ぼした。ここで日本は李朝に対して柔軟路線をとり、これまでの対処方法を大きく変換させる。それまでの日本は朝鮮に対する清国の宗主権を認めない立場であったが、朝鮮の専制王権を抑えて日清両国が共同でコントロールしやすい政府によって国内改革を行わせるよう提案したのであった。王朝国家李朝を独立民族国家に変えようとするものである。そうしなければ、上記のように朝鮮半島はいつまでも西欧列強の進出にさらされ続けると考えたからである。
  もはや国内改革派の力はなくなり、自らによる国内改革が不可能な事は明らかで、今後は清国との共同管理によりロシア等の進出に対抗しようとするものであった。正直いって日本のおかれた立場は、それ以外に方法はなかったのである。しかし清国はこれを拒否し、あくまで宗主権にこだわり続けたのであった。この為日本は対朝鮮半島政策の実際的な手掛かりを失くしてしまった。
  一方で清国は1885年8月、先の壬午軍乱で幽閉中であった大院君を帰国させた。これは、ロシアにしきりに接近をはかる閔氏一族に対する牽制であった。更に10月、袁世凱を国王代理とも云うべき朝鮮統治の責任者に起用し、李朝の政治全般に目を配らせる。一方李朝はあらためてロシアとの密約交渉に動き出す。この事はたちまち清国の知るところとなり、清国は激しくこれを追及するが、李朝はその事実を否定し白を切ったためうやむやに終わってしまった。しかしこれを機会に更なる清国の厳しい締め付けが始まったのであった。

■第三章「韓国併合への過程」

第1節「東学党の乱から日清戦争勃発」
  1894年(明治27年)3月亡命先の日本から上海に渡った金玉均が、上海のホテルで李朝の放った刺客により暗殺された。そして同年5月甲申農民武装蜂起いわゆる東学党の乱が起る。
  東学とは、儒教、仏教、道教を合わせた独自の教義を持つ民衆宗教で、西のキリスト教に対して東の学、すなわち東学という。東学党は、日本と西洋の干渉を排し、朝鮮の大義を進めるという宗教運動を展開していたが、徐々に農民を圧迫する地方官吏の横暴な徴税に対する農民闘争となっていった。
  1894年2月全羅道においていた東学教団が、ついに1000名の農民を率いて郡庁を襲撃したことからこの乱は始まる。政府はなんとかこれを鎮めようとするが、その対処を間違ったため農民8000名が決起し、軍隊をもってこれを鎮圧しようとしたところついに反乱の規模は7万名にまで膨れ上がり、政府軍は敗退して、全羅道の道都全州が陥落してしまう。
  これに対して高宗と閔氏政府は清国に鎮圧を要請する。清国は天津条約により日本に対して軍隊派遣の事前通告を行い、軍艦を仁川に派遣した。一方日本も同条約に従い事前通告を行い、日本公使館と日本人居留民の保護を理由に仁川に軍隊を派遣するとともに、陸軍の一部を漢城に入れる。
  李朝政府はあわてて農民軍の税制改革案等を認め、また農民軍への安全保障を約束したため農民軍は全州から撤退する。これにより李朝政府は、日清両国に軍隊の共同撤退を提案するが、清国はこれを拒否し、一方日本も李朝の内政改革を提案するが李朝政府はこれを拒否する。
  日本政府は内政の改革を行わなければ内乱が再発することは必至であるから、改革に応じなければ軍隊撤収をしないと回答してあくまで内政の改革にこだわった。高宗も改革の必要性は十分認めていたが、具体策には何等手を付けることがなかった。また農民軍は依然武装を解除したわけではなく、閔氏政権が続く限り再蜂起は十分考えられ、「具体的な改革が行われるまでは日本軍の駐留は必要」という日本政府の主張を変えることは難しかった。
  こうして日本は7月22日を回答期限として次の要求を李朝政府に突き付ける。即ち清軍の撤兵要請、実質的な宗属関係を規定する朝清通商貿易章程を破棄すること。これに対して李朝はこれを無視したため、これが最後通牒となり、翌23日日本軍は漢城城内に入り、諸門を固め、さらに王宮に侵入した。一方国王に大院君を執政とするとの詔勅を出させ、閔氏一派を政権から追放、朝鮮軍の武装解除を行った。そして25日には日本海軍が牙山湾沖で清国の軍艦を砲撃して、日清戦争の幕が切って落とされたのであった。
  日清戦争の最中勝利を確信していた日本は、8月17日に閣議において戦後朝鮮をどうするかという基本方針を討議する。その内容は、@朝鮮自主独立放任 A日本による保護国化 B日清両国による共同統治 C朝鮮の永世中立の、四つの案であったがA案の方向で進むという方向が有力であって、確たる基本方針は示されずに終わった。
  「保護国とは隷属国の統治機能の一部を行使する保護関係を条約により設定する国家関係」と云われている。日清戦争は、世界の大方の予想に反し、日本側が有利な戦いを進めた。緒戦の平壌の戦い、黄海海戦で日本は清国軍の出鼻をくじき11月には旅順を攻略、翌1895年(明治28年)の清国北洋艦隊の壊滅により日本の勝利が決定的となった。
  そして同年4月日清条約が締結される。この講和条約において、日本は清国から遼東半島を獲得するが、ロシア、フランス、ドイツがこれにクレームを付け、我が国から清国へ返還をするように求めたのであった。すなわち「三国干渉」といわれる帝国主義的手段であたった。
  日本はこれに屈せざるを得なかった。この条約で日本と朝鮮との関係については中国と朝鮮の宗属関係が廃棄され、朝鮮は「独立自由の国」と規定され、旧来からの朝貢が否定されたのであった。
第2節「李朝政府はロシアの傀儡政権へと移行」
  このような状況の中の朝鮮は1894年(明治27年)に第一次甲午改革といわれる新改革派官僚による改革が進められていった。すなわち相変わらずの高宗や閔妃派、大院君派官僚の圧力はあったものの、それをはね返して近代化が進められたのであった。しかし日本が三国干渉に屈したため急速に親露派が台頭してくるのである。
  彼等は改革派を圧倒して閔妃派や親欧派が力を持ってくるのである。甲午改革は朝鮮の近代史の中で一際光る諸施策が含まれていたが、この改革は国主を始めとする守旧派によりことごとく妨害され実を結ばなかった。
  日本は日清戦争に勝ったものの李朝政府は親日的な官僚を排除し、閔妃一派は益々ロシアとの接近を図っていったため、日本主導の改革は頓挫せざるを得なくなった。1895年(明治28年)10月8日日本軍守備隊は王宮を占領して閔妃を斬殺する。日本としては何としても外威政治の悪弊を排除したかったのである。
こうして閔氏一族は追放され、またしても大院君が執政として登場する。そして全弘集による開化派の内閣が成立する。しかしこの日本を後ろ盾として内閣に対する反発は強く、1896年(明治29年)早々から農民の蜂起が見られるようになった。この動きは急速に全国へ拡大していった。親日政権と対する武力闘争の始まりであった。
  この義兵闘争といわれる農民に対して政府が援兵を送ったところ、それが王宮の衛兵が手うすになったところを見はからい、ロシアの手を借りた親露派のクーデターが起きたのである。当時の駐朝ロシア公使が仁川に停泊中のロシア軍艦から将兵をロシア公使館に入れると同時に、国王をロシア公使館に移してしまった。親露派官僚達は国王に国王親政を宣言させ、開化派の政権首脳5名の逮捕死殺令を布告させた。
  こうして李朝政府は、日本の影響力を完全に遮断することに成功した。李朝政府は、ロシアの堅塁を頼って自らロシアの手中に入ることを望んだのである。このことは自主独立とは名ばかりで、まさにロシアの傀儡政権となったのである。この事によって日本は、朝鮮におけるロシアの政治的、軍事的勢力を排除しなければ朝鮮を保護国化する道は決して開かれないと思い知ったのであった。
第3節「日露戦争で朝鮮半島は日本の統治下へ」
  1899年(明治32年)フランスは中国広州湾を租借する。一方ロシアが関東州を設置するなど列強の清国進出は急を告げるなか、清国の国内では1900年(明治33年)6月義和団事件(北清事変)が起る。義和団は元々拳法を行う民間団体であったが、西欧のキリスト教と列強の清国侵略を攻撃していた。このため清朝政府は義和団を1898年(明治31年)近代的な装備をもって正規軍と共に闘う民間人の軍団、すなわち民団として公認した。するとこの民団に貧農や流民が大量に流れ込み、一気に大集団となったのである。この義和団が「清朝を扶け西洋を滅する」ことを旗印にして一般農民を集め、一大暴動を引き起こした。そして外国人宣教師を殺害したのをきっかけに外国軍隊が出動する。具体的には日、英、米、露、独、仏、伊、墺の連合軍が中国に軍事出動して暴動は鎮圧されたのであるが、ロシアはこの乱が終結してもなお、4,000名の軍隊を満州に駐留させたまま撤兵せず、事実上の占領を続けたのであった。
  これに対して日本は1902年(明治35年)日英同盟を結びロシアを牽制するが、ロシアはフランスと結び南下政策を続行した。このような状勢下、清国は満州からの撤兵をロシアに強く求め、撤兵協定を結ぶことに成功する。しかしロシアは完全な撤兵を行わず、韓国との国境に厚い防御線を構築し始める。その間にシベリア鉄道が完成し、ロシアの南進を進める条件は完全に整ったのであった。
  1903年(明治36年)8月、日露の間で協商が開かれるが、日本がロシアの満州からの撤兵を要求したのに対して、ロシアは強硬に出てくる。すなわち北緯39°をもって韓国を分割して、それぞれの勢力の下におくという提案を行い、日本は断固これを拒否したのであった。こうしてロシアは完全な満州全土の完全占領を宣言したのであった。ここにおいて日本とロシアは韓国を巡って、もはや妥協の余地は全くなくなり、ついに1904年(明治37年)日本軍は仁川に上陸、さらにロシア艦隊を旅順港外で攻撃して日露戦争が開始された。
  翌1905年(明治38年)1月旅順が陥落し、3月の奉天会議、さらに5月の日本海海戦において日本はロシア艦隊を全滅させ、日本の勝利が確定したのであった。そして9月にアメリカのルーズベルト大統領の斡旋でポーツマスに於いて、日露講和会議が行われ講和条約が締結された。このポーツマス条約の中で日本は、ロシアから韓国における政治、軍事、経済上の特権を引き継ぐ事が認められた。他に樺太南部の領有などが認められたが、何にもまして日本の生命線である韓国を保護国化することに成功した事は大きな成果であった。
  日本はポーツマス条約に基づき同年11月に第二次日韓協約を結び、韓国の保護国化を成功したのであった。1910年(明治43年)8月、日韓併合条約が調印され、大韓帝国は消滅して朝鮮半島は日本の統治下に入った。これをもって一般には日本が朝鮮を植民地化したと云われるが、これはあくまで日本が朝鮮を併合したのであって、植民地化というのには語弊がある。何故ならこれ以前韓国側からロシアのくびきから逃れるため、進んで自ら日本と合邦を目論む計画があった事を忘れてはならない。また日本の韓国統治は先にも述べたように、欧米の収奪を目的とする経営ではなかった事を特に強調しておきたい。

■おわりに

  昨今韓国との摩擦が高まり、今日韓関係は最悪といってよい状況にある。我々日本人は、中学、高校において近代史の学習が充分になされていないため日本と朝鮮との間に過去においてどのようなことがあったのか理解していない国民が多いのではないかと思う。歴史に学べとはよく言われることであるが、肝腎の歴史に無知では手の打ちようがない。そこで今回は過去の「日韓併合」の具体的な内容を明らかにしてみた次第である。
「日韓併合」につてはいろいろな書籍があるが、今回私は崔基鎬氏の「歴史再検証、日韓併合の真実」と呉善花氏の「日本統治は「悪」だったのか」を参考にさせて頂いた。特に併合の流れについては呉氏の著書に負うところが大きかった。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2019年2月26日 金言(第79号)
『瀬島龍三の謎』

■はじめに

  元大日本帝国陸軍大本営参謀、終戦後はシベリア抑留、そして帰国後は、伊藤忠商事の中枢に君臨して会長にまで登りつめ、退任後は、第二臨調(臨時行政調査会)の事実上の指導者として政財界に重きをなした瀬島龍三ほど、謎に満ちた人物はいない。私は昔からこの人物に興味を持っていた。
  今回この金言で久し振りの「人物論」に彼を取り上げるのは、この瀬島が鐘紡を倒産に追い込んだ、元凶伊藤淳二を旧日本航空の副会長を経て会長に送り込んだ裏にはこの瀬島がいると思うからである。伊藤は、取引先である伊藤忠商事の元社長で、中興の祖と云われる越後正一氏と親しい関係にあった。労使関係がうまくいかなかった旧日本航空に労使協調路線を標榜して、一見円滑に会社を運営し労務問題の専門家といわれていた伊藤を越後氏は、当時伊藤忠の要職にあって中曽根首相とパイプの太かった瀬島を通じて日本航空に推薦したのではないかと私は思っている。伊藤は、老人殺しと云われる程財界の長老に食い込むのがうまく、越後さんや当時は三井銀行の小山五郎頭取などにも可愛がられていた。

■第一章「終戦までの経歴」

第1節「軍のエリート官僚の道を歩む」
  さて、瀬島龍三は富山県の現在小矢部市(旧西砺波郡松沢村)に1911年12月に生まれるが、幼い時から秀才の誉れが高く県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て1932年陸軍士官学校を次席で卒業、さらに1938年陸軍大学校を首席で卒業し、関東軍第四師団の参謀を経て、1940年には大本営陸軍部作戦課に配属される。この間関東軍参謀時代には、対ソ連戦の示威演習である関東軍特殊演習(関特演)の作戦担当として作戦の立案に係る。そして1941年には、同上第一課の作戦班長補佐となり、同年12月8日に太平洋戦争が開戦すると以後45年7月に関東軍参謀として満州に転出するまで陸軍の主要な南方作戦を軍事参謀として指導したのであった。
(主要な作戦・・開戦初期のマレー作戦、フィリピン作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦(特攻作戦)、対ソ防衛戦など)
  この間1944年にはクーリエ(一種の公認の軍事スパイ)としても、モスクワに2週間出張している。この事が後にソ連側からスパイとして追及される。
1945年7月に竹田宮恒徳中佐の後を受け関東軍作戦参謀となるが、同年8月15日の日本の降伏後の8月19日にソ連軍との停戦交渉にのぞむ。
第2節「参謀時代の汚点」
  話は前後するが、1944年10月12日から16日に行われた台湾沖航空戦は、日本が米軍のフィリピン上陸を阻止すべく準備していた中、米海軍機動部隊は突然台湾の航空基地を攻撃したため、これを迎撃した日本軍との間で熾烈な戦いが繰り広げられたのであった。アメリカ軍の損害は軽微なものであったにもかかわらず、日本軍は大戦果と発表したため、比島防衛がおろそかになっていたところに、意表をついて米軍は、フィリピン本島ではなくレイテ島へ来襲したため容易に上陸を許したのであった。この大戦果が誤報である事を再三大本営に連絡した堀栄三参謀の電報をあろう事か握りつぶしたのが瀬島である事は、本人自身が明らかにしている。この行動により、瀬島は「小才子で大局の明を欠く」と批判されている。彼の握りつぶしにより、どれだけ多くの将兵の血が流されたかは事実が証明しているが、彼の参謀時代の大きな汚点であろう。
第3節「ソ連との停戦交渉における密約疑惑」
  さて話は元に戻し、彼は8月19日のジャリコウヴォで極東ソビエト赤軍総司令官ヴァシレフスキー元帥他2名の元帥、将軍と関東軍参謀長秦彦三郎中将及び通訳の宮川舟夫と3名で交渉に当たった。その停戦交渉の内容の詳細について、おそらく停戦交渉は交渉とは名ばかりの一方的なソ連側からの命令に終始したのではないかと想像出来るのであるが、その後シベリアに抑留され、厳寒と粗食、そして強制的な重労働にあえいだ日本人は約57万5千人といわれ、内約5万9千人がシベリアの土となった。これはポツダム宣言に違反するものであったが、このような事実のもとになった停戦交渉の詳細を、一切瀬島は明らかにしていない。実際に抑留された人の中からはこの交渉の中で、捕虜を人的な賠償として差し出すという密約が取り行われたという疑いは十分にあると言い切っている者が多数いる。歴史の証人として瀬島には、その責任が十分あったにもかかわらず、重ねて言うが その詳細は一切つまびらかにしていない。

■第二章「シベリア抑留時代」

第1節「極東軍事裁判ではソ連側証人として証言」
  その後、瀬島はシベリアに11年間抑留されることになる。この11年間瀬島は、将校としては労働義務がないにもかかわらず、強制労働に従事させられたといわれているが、後に述べるように彼の言動には疑われる節が多い。この間、彼は連合国側から極東軍事裁判にソ連側証人として出廷する事を命じられる。
  1946年9月17日、関東軍鉄道司令官草場辰巳中将と総参謀副長松村知勝少将と共に、ウラジオストクから空路証人として市ケ谷に送られる。草場中将は、東京裁判における法廷での証言を潔よしとせず、東京へ連行された3日後の1946年9月23日服毒自殺をとげた。彼は、ソ連側の検事証人という旧帝国陸軍軍人として屈辱的な役割を受け入れさせられた時から自殺を決意していた節がある。その日記には、自殺に至る心境が綿々と綴られてれていたようである。何故自殺を選択しなければならなかったかについては、証人訊問調書で、彼は日本陸軍が対「ソ」戦準備を実行して戦争計画を持っていたと証言し、これは、日本陸軍内部で計画されていた戦争準備案が即実行に移される「対ソ侵略計画」であるというソ連の告発理由を、十分に裏付けるものであった。他の二人、松村、瀬島の自筆の供述書もワシントンのナショナルレコードセンターに残されており、草場と同様あるいはそれ以上に饒舌に参謀本部内の対ソ連計画をソ連側に告白したものと思われる。特に瀬島は、大本営参謀として知り得た作戦計画及びその細部を語っている。又松村も作戦計画が生み出された背景を詳細に語っている。ソ連側としてはこの二人の証言を組み合わせれば「対ソ侵略計画」が裏付けられると判断したのではないか。ソ連の検事団は、日本陸軍は対ソ侵略を計画していたと告発していた。そしてその証拠として次のような瀬島の供述書を読み上げる。「昭和17年度に於いて参謀本部の計画は攻撃計画であり、作戦は急襲的に開始する予定でありました」即ちソ連はこの「攻撃計画」を「対ソ侵略計画」とみなしていたのである。瀬島は、この「攻撃計画」は単なるペーパー上の年度計画であり、「対ソ侵略計画」には当たらないのではないかという弁護人側の反対訊問を否定してしまう。具体的には「昭和16年、17年の計画は攻撃計画であり、昭和19年、20年の計画は守勢計画であった」と供述してしまう。これは、16年、17年には攻撃計画が存在していたことを意味してしまうのである。
  もう一つ瀬島の供述で重大な点がある。すなわち「参謀本部の作戦計画に関東軍は関係を持たず、参謀総長が天皇に会って裁可を頂き、これを関東軍司令官に伝達し、これに基づき関東軍司令官は自己の作戦計画を立案する」と証言、さらに「関東軍司令官に与えられているものは大元帥陛下の命令であります」この証言から導き出されるものは、関東軍の攻撃作戦計画も天皇の裁可を得ている以上、天皇の責任ということになる。この事はあらためて天皇の戦争責任にふれる重大な意味を持っている。
  瀬島を賛美する著作の中で天皇の責任には一切ふれなかったとか、かつての上官を守るために論を展開したとか云っているが、実際には上記の通り「攻撃作戦計画」の存在や天皇の戦争責任を間接的ながら証明したものであった。
  極東軍事裁判に出廷した3人の内草場中将は自殺し、松村少将は昭和31年に帰国し、その後ソ連問題研究家として生き、その間「関東軍参謀副長の手記」を公刊するが、その中でソ連側の証人になったいきさつには一切ふれていない。家族にも収容所の生活について何一つ話していない。一方瀬島は、抑留中の詳細な事実には一切口をとざしている。そして抑留から帰国後、商社経営の中枢として、また臨調の重鎮として活躍し、他の2人の証人との落差は余りにも大きい。瀬島は、東京裁判へ出廷した事実を大本営の2000日」の中でわずかに語っている。それによると「最初は何で突然連れて来られたのかわからなかった。羽田から丸の内の三菱のビルに連れて来られた。そして2〜3日してから東京裁判の証人として連れてこられたことがわかった。証人台に立ったのはたしか9月18日であった」と云っている。全てうそである。同じく証人として連れてこられた草場中将は、詳細な日記を残しており、それによると「最初はなんで突然連れて来られたのか全然わからないんです」という話は事実に反している。日記によると、東京に来る1ヶ月半以上前に瀬島は他の3人(草場、松村、樺太庁長官大津)と一緒にソ連軍将校と食事をとりながら、東京裁判に証人として出廷することについて話し合っているからである。また「証人台に立ったのは9月18日」も事実に反している。正確には10月18日である。
第2節「主人公を極端に美化している小説「不毛地帯」」
  昭和史研究の第一人者である保阪正康氏の推理によると10月18日を9月18日としたのはある文学作品、すなわち昭和48年から53年迄「サンデー毎日」に5年間にわたり連載され、後にベストセラーになった山崎豊子氏の「不毛地帯」の主人公、元大本営参謀「壹岐正」が9月18日に東京裁判のソ連側証人として立ったことになっており、それが頭にあったのではないかということである。「不毛地帯」はあくまで小説であるが、大日本帝国陸軍参謀の主人公がシベリアで辛酸をなめ、11年間抑留の後帰国、総合商社に入り、以後最初は民間の仕事になじまなかったが戦闘機の輸入に関する仕事に携わり、旧陸軍のコネクションなども生かしその輸入に成功して異例の出世をとげる。その後日米の自動車会社の提携や中東における石油堀削プロジェクトにも成功するが、最後に社長と対立して会社を辞め、シベリア現地で死んだ日本人の墓参と遺骨の収集に向かうのである。主人公壹岐正のモデルが瀬島龍三である事は間違いないが、先にも述べたようにあくまでこれは小説である。付言すると瀬島龍三も利根川首相(中曽根康弘)のブレーンとして登場する。しかし、山崎豊子の書く小説では他にも旧日本航空において会社側と対立した労働組合委員長小倉完太郎氏をモデルとした恩地元と、伊藤淳二をモデルとした会長国見正行を主人公とした小説「沈まぬ太陽」があるが、両書共に共通するのは極端に主人公を美化しているのである。これは文学作品であるからいたしかたないであろう。瀬島にインタビューした保阪氏によれば、瀬島自身も証人として東京に来た時、家族に会わせるとのソ連側の申し入れを絶ったとしているが、実際には家族に面会しており、彼は法廷で証言した後1カ月近く東京に滞在していたのに、保阪氏には「わずか1週間ほどしか東京にいなかった」と語っておりその期間は「不毛地帯」に述べられている期間と一致している。
第3節「シベリア抑留時代の謎」
  裁判後シベリアに連れ戻され1950年の後半迄抑留生活を強いられた。その間の詳細について彼は明らかにしていなかった。彼が公式にシベリア収容所の体験を公にしだしたのは第二臨調委員に就任してからである。しかし、その内容も全く一つのパターンが繰り返されていたに過ぎない。その内容は「昭和21年自分は大本営参謀であったというかどにより、即決で重労働25年の刑を云い渡された。そして翌日から重労働に服した。そして昭和31年日本に帰るまで11年間労働に服した。伐採や石炭堀、シベリア鉄道の貨車の荷下ろしもした。その他土工作業も経験し、およそ重労働のほとんどを体験した。しかしあの厳寒の地で重労働では25年は生きられないと思い、手に職を付けた方がよいということで左官屋に弟子入りして左官屋すなわち壁塗りである。そして帰国するまでこの仕事を続けた」彼はいろいろな席で語っているが今述べた全てがワンパターンである。
  一方「明日の命がどうなるのかわからない。毎日おなかペコペコで労働はきつく恐らく人間の「生活」ではなく人間の「生存」という11年間でありました」このようにシベリア収容所で人間の極限を見、これを機に人生観が変わったという。その人生観が変わったということを彼は著書「大本営の2000日」の中で、「自分は陸軍のエリート生活の中で階級がすなわち人間の価値だと信じていたが、シベリアの生活から階級とは単に一つの組織を維持する手段に過ぎない。人間の価値とは全く別のものである事に気がついた」とも述べている。以上が瀬島が語るシベリア体験であるが、瀬島には十分に語っていないことが多々あるのである。というのは瀬島がシベリアにおいてその所在がはっきりとしていた場所は1946年7月6日から翌47年1月中旬までハバロフスクの収容所から「夏の家」という別荘に移され、東京裁判の証人として東京に連行された6ヶ月間、そして1945年4月から1951年8月の帰国まで戦犯として収容されていたハバロフスクの第二十一分所で生活した期間だけなのである。その他の年月はどの収容所でどのように過ごしていたのか明確になっていない。1947年末から1950年4月まで瀬島は、モスクワ近郊にあった第7006捕虜収容所に大本営情報参謀朝枝繁春少佐と関東軍情報主任参謀志位正二少佐、元大本営戦争指導班内閣嘱託の種村佐孝少佐と共に収容されていたと見られている。朝枝、志位はその経歴からみて、25年の刑を宣告されてもおかしくないのに1950年、1949年に帰国している。その後1954年に発覚したソ連の対日スパイの元締ラストボロフ事件にからみ、帰国していた志位、朝枝の両名が、自分等はラストポロフに協力していたと警視庁に自首したのであった。前記の第7006収容所は日本へ帰国した後民主化運動、共産主義運動のリーダーとなるべく機密要員を訓練する学校でラストボロフはその教員の一人であり、ここには11名の日本人が収容されていたとされ、その内氏名が明らかになっているのが種村、志位、朝枝、瀬島であったという説があるが確認されてはいない。しかしいずれにしても瀬島にはスパイではないかというグレーな部分が付きまとっている事は確かである。
  元警察官僚で浅間山荘事件を指揮した佐々淳行氏は一貫して瀬島スパイ説を主張している。実はかつて國民會館で佐々さんに講演していただいた事があった。講演後の雑談の中で瀬島はスパイかと思い切って聞いてみた。答えは直接的ではなかったが、私は肯定と受け取った思い出がある。瀬島の体質は東条英機、服部卓四郎、辻政信と全く同質の陸軍官僚の典型といってよい。

■第三章「シベリアから帰国した後の経歴」

第1節「華々しく昇進していった伊藤忠商事時代」
  彼が興安丸でシベリアから帰国したのは1956年8月18日であった。帰国後彼は1958年1月伊藤忠商事に入社する。伊藤忠は、大阪から出たいわゆる五綿といわれる繊維専門商社の一つであったが、社風はねばり強く質の高い人材をそろえていた。彼は1等から5等まである社員資格の内、4等社員として入社したのであるが、この地位は高卒女子社員と同様の扱いであった。一方仕事も特別なものが与えられたわけではなく、一日中日比谷の図書館に通い古い新聞などを読み、自己に足らぬところを埋めることに費やしていたようである。瀬島が入社した昭和30年代にはまだまだ旧軍人に対する風当たりはきつかった。瀬島に陽があたり出したのは1960年10月に越後正一氏が社長に就任してからであった。越後氏は伊藤忠兵衛氏子飼いの典型的な近江商人で、その才覚は抜きん出たものがあった。越後氏は、この一繊維商社であった伊藤忠を大手総合商社にまでのしあげた功労者であった。越後氏が社長に就任した当時、同社は94%を繊維に依存しており残りの6%は染料であった。越後氏は伊藤忠の業務の内容を鉄鋼、木材、化学品などに拡大していくのである。越後は、旧陸軍参謀本部で参謀であった瀬島の事を聞きつけ、軍人であったからには軍人時代のコネクションを持っているのではないかと考え、彼に軍用機の営業をやらせてはどうかと考える。当初は越後といういわば参謀本部長に仕える参謀という役割であったが、彼は持前の才覚で事を進めたため社内には反瀬島の空気が生まれた事もあった。しかし総合商社への脱皮を目指す越後は瀬島を巧みに使い、社内もその方向に動かざるを得なかったから瀬島の役割には重みがつき、その後、彼は異様なほどのスピード昇進をはたしていった。すなわち1960年7月には航空機部長、翌年10月には業務部長、1962年4月業務本部長、5月には取締役となり、1963年常務取締役、1968年5月専務取締役、1972年5月副社長、1977年に副会長、そして1982年6月に会長に昇進している。1986年には会長を退き相談役、1992年7月に特別顧問となった。
  この華々しく昇進した時期は越後の悲願であった防衛庁への米国戦闘機の売り込み商戦において、伊藤忠が勝利を収めた時期に符合している。繊維商社に過ぎなかった当社が当時500億円という大規模な航空機商戦に勝利したことをきっかけに、当社は総合商社へと大きく変貌していくのである。然しその中味については注釈がいる。瀬島が入社する前年、1957年6月に政府は国防会議において旧来のF-86F戦闘機に替わり、新戦闘機のライセンス生産を行うことを決定した。そして紆余曲折の結果、他の有力機を押さえて伊藤忠のかつぐグラマンのF-11Fに決定したのであった。伊藤忠は、自民党の党人脈(河野一郎など)に食い込み勝利をものにしたのであったが、決定後ロッキードが猛然と反撃に出て1958年9月にこの決定を白紙に戻してしまう。結果として伊藤忠の政治工作に手抜かりがあったといわれている。そして1959年11月に正式にロッキードF-104Cのライセンス生産が決定する。
  越後は、グラマンがロッキードにひっくり返された後社長に就任したのであったが、瀬島を重要視したのは今後の商戦に当たり、旧日本陸軍の人脈を活用するという意図を持っていたからである。このため瀬島は1960年4月に航空機次長になるとその3ヶ月後部長となったのであった。そして翌年7月政府は国防会議を開き二次防を決定したのであったが、その目玉となったのは「自動防空警戒システム」バッジシステムといわれるもので、これは日本の防空設備、施設をコンピューター化するという大規模な防衛設備で、総額500億円になるものであった。この商戦にはヒューズ、GE、リットンの3社が名乗りをあげ、いろいろ問題はあったが最後にヒューズ社をかついだ伊藤忠が商戦を勝ち抜き、前回の戦闘機商戦の雪辱をはたしたのであった。
  伊藤忠に業務部ができたのは1958年であったが、瀬島は翌10月に3代目の部長に就任し翌年業務本部長となる。当時の伊藤忠はタテ割りの組織であった。例えば繊維部門の中で方針が決まると、そこでプロジェクトチームが出来、営業もその範囲の中で行っていく。鉄鋼部門も同じやり方であった。瀬島はタテ割りの組織に反感を持っており全社的に業務を統合出来るスタッフが必要と考えていた。すなわちこの業務本部を頭脳集団として、営業はその方針のもとで働くということである。これは大本営の作戦参謀が個の派遣軍に命令を下すという方式そのものである。その後新しいプロジェクトはすべて業務本部が中心となりとり行われるようになり、まさに業務本部は社内の中枢部門となっていき、瀬島機関と称されるようになり若手のあこがれの部署となるが、それが又別に社内の軋轢の種ともなる。
第2節「伊藤忠商事での活動における評価」
  それでは瀬島の伊藤忠における功罪をどう評価するかであるが、先ず功の方ではバッジシステムでの成功、さらに瀬島自ら自慢するGMといすゞの提携をまとめた事、プリマハムを世界最大の食肉メーカー、オスカーマイヤーと提携させた事、洗剤メーカーP&Gと日本サンホームの提携に成功した事、一方罪の方では土地問題や東亜石油の問題は根が深く、伊藤忠の経営を長年にわたって苦しめたのであった。又安宅産業との合併についても瀬島は反対であった。瀬島の活動についてのマスコミの評価は「可もなく不可もない」という見方と「失格」という厳しい考え方をする向きも多くある。
  私はダイワボウという繊維の会社に勤めていたので、ある時期伊藤忠さんには毎日のようにお邪魔していた。それだけに知人も多かったが、概して繊維部門の社員の瀬島に対する態度には冷たいものがある。私が携わっていた当時毛糸部門の課長で、その後副社長に迄行かれた方に瀬島氏の事を聞くと、「自分とは世代の違いもあり直接話した事は少なかったが、一度こういう事があった。東南アジアの確かタイで現地との合弁で生産工場を立ち上げるという案件で、自分がその担当であったので瀬島氏の所に案件の説明に行った事がある。瀬島氏は前々から繊維部門には冷たかったが、その時も今更タイに繊維工場をつくってどうするのかと頭から否定的であったのでやむを得ずそのプロジェクトを進める事が出来なかった。後日その案件は競争会社の丸紅が取り上げ大変な成功をおさめたと聞いている」
  もう一つ、中高時代の友人で後に海外有名メーカーとの合弁会社の社長を歴任した彼はこう云っている。「瀬島氏は1958年小菅社長時代に入社し、越後社長(60〜74年)時に業務本部長(その後取締役、副社長、副会長、会長)となってから伊藤忠全体を見る立場になった。「儲けること」が最優先で、伊藤忠の屋台骨を背負う気概だけは強い繊維部門からは実に煙たい存在で、その後の戸崎社長時代には繊維部門は瀬島氏からとことんいじめられたと聞く。当時の繊維部門の中堅上層部にとって良い思いは全くないはずである。表面的には78年の会長退任で伊藤忠における表舞台を去るが、その後政財界に影響力を発揮、実際は2000年の特別顧問を退任するまで伊藤忠には隠然として影響力を持っていた(いわゆる「瀬島機関」などと云われるKGB的なものが社内にあったと聞く)」と話してくれた。
第3節「第二臨調を私物化」
  さて、実権のない会長となって彼は1978年頃から財界活動をするようになった。(日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭など)そして1981年当時まだ会長であった瀬島のもとに、当時の首相鈴木善幸から「今度出来る第二次臨時行政調査会の委員を引き受けてほしい」という依頼があった。一度は断るが、日本商工会議所会頭の永野重雄から再度口説かれる。さらに会長に擬せられていた土光敏夫に呼ばれ「今度の行政改革は国家民族の将来にとって絶対にやらなければならないことである」と委員就任を要請され、委員就任を引き受ける。一方当時行政管理庁の長官であった中曽根康弘も働きかけたと云われている。
  第二臨調の発足にあたって、土光が鈴木や中曽根に要求したのは「増税なき財政再建、3K(国鉄、コメ、健康保険)の赤字解消、地方行政改革の断行、答申の完全実施」でこれが受け入れられなければ第二臨調をつくる意味はないと言い切った。
  調査会のトップを司る委員は9人であった。土光を会長にして会長代理が日経新聞顧問の円城寺次郎、委員は日本赤十字社社長の林敬三、旭化成社長の宮崎輝、伊藤忠会長後に相談役の瀬島龍三、国際基督教大学教授の辻清明、東京証券取引所理事長の谷村裕、同盟副会長の金杉秀信、総評副議長の丸山康雄の8人であった。この委員会の下に専門委員21人、参与(発言力を持つ)55人、顧問が5人、総計90人という大組織である。当然9人の委員で構成する委員会が総理大臣に答申する基本方向を決定するはずで、決めた方向に従って問題ごとに専門部会に検討を委ねることになっていたが、最上位の位置にある9人の委員は現役で活躍している人がほとんどで、実際の業務を仕切るのは事務局中心となってしまい、これは伊藤忠の会長をはなれ、相談役となった瀬島の独壇場ということになってしまったのである。彼は実際に9人で構成する委員会を骨抜きにしてしまった。そして瀬島と多分中曽根に近い専門委員あるいは9人の委員の内の何人かで組織を動かしていった。それにはあく迄実現可能な範囲で実行していくという線引きをして動かすようにしたのであった。これが俗にいわれた裏臨調の姿であった。すなわちこの裏臨調を仕切ったのが瀬島だったのである。中曽根はこの瀬島の「実現可能な範囲の答申」とは自己の意に沿った答申が出されるものと考え、瀬島の動きを歓迎した。1981年(昭和56年)7月に第一次答申を出したがその内容は「行財政需要の惰性的な膨張を思い切って抑制するために行政の制度、施策の抜本的な見直しを行うことにより支出の節減と合理化を図る。各省庁の歳出額は原則として前年度と同額以下に抑制する」というもので、これは1982年(昭和57年)予算のゼロシーリング、1983年(昭和58年)予算のマイナスシーリングとなって実現した。さらに大きな答申としては1982年(昭和57年)7月の第三次答申で、これは三公社の民営化に関するものである。少数派閥の中曽根は何とかこの臨調を自己の政権獲得の道具として使いたかったのである。中曽根が首相になって瀬島や部会の専門委員がブレーンとして中曽根と意を通じて動く以上、もう臨調は諮問機関ではなく、首相の政策を後追いしていく機関に過ぎなくなった。要するに中曽根、瀬島は第二臨調を私物化したのであって、瀬島のはたした役割は第二臨調の歴史的な役割をあまりにも矮小化してしまったのではないか。

■おわりに

  最後に保阪氏のスタッフが第二臨調に加わっていない五十代、六十代の財界人にインタビューした時、その一人が声をふるわせて述べた一言こそ瀬島氏に対して持っている一般の方々の感想ではないかと思う。
  「瀬島さんのことについてインタビューはお断りします。あの方はこれまで責任というものを一度もとられていません。大本営参謀であったのに、その責任を全くとっていないじゃありませんか。伊藤忠までは許せます。戦後は実業人として静かに生きていこうというなら個人の自由ですからとやかくいうことはありません。それが臨調委員だ、臨教審委員だとなって、国がどうなのか教育がどうなのかという神経はもう許せません。私達学徒出陣の世代だって次代の人に負い目をもっているのに瀬島さんは一体何を考えているのか全くわかりません」と電話口で語気を強めた。その他官僚OBや学者、あるいは何人かの財界人からも戦場での辛い戦闘経験を持つものには瀬島の存在がどうしても合点がいかぬとの声があると云っている。
  私は前々から瀬島龍三なる人に大変興味があったので一度書いてみたいと思っていた。一般には山崎豊子氏の「不毛地帯」のモデルが瀬島氏であるとして大変好感を持つ人も多くいるのであろうが、私は昭和2桁の最初の頃の生まれで戦争を知っている最後の世代として、どうしても彼の真実を語ろうとしない態度が納得出来なかった。今回この稿をおこすに当り次の3点の書籍を大いに参考にさせていただいた。
  •   @共同通信社会部編「沈黙のファイル」「『瀬島龍三』とは何だったのか」
  •   A保阪正康著「瀬島龍三参謀の昭和史」
  •   B保阪正康著「昭和の怪物七つの謎」
  • 特にAについては全面的に参照させて頂いた。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2019年1月30日 金言(第78号)
    『護衛艦「いずも」は空母か?』

    ■第一章「新たな防衛大綱と中期防衛整備計画」

    第1節「新たな段階に入った装備計画」
      政府は、昨年12月18日に国家安全保障会議を開き、今後10年間の国防の指針である新たな「防衛計画」の大綱(防衛大綱)並びに2019年〜23年度の装備品調達に関する中期防衛整備計画(中期防)を決定した。
      この計画は、これまでの陸、海、空に加えて宇宙やサイバー、電磁波などの新しい領域で自衛隊の対処能力の強化を盛り込んだ「多次元統合防衛力」を掲げた方向性については、現状に即したものである。ただ、この中で一際目を引くのは、中国の東シナ海、南シナ海、さらに太平洋への露骨な進出を念頭に、短距離垂直着陸(STOVL)機(具体的にはF35B)を導入して海上自衛隊が保有する、最大の艦船である「いずも」型護衛艦を事実上の航空母艦として運用する事を明記したのであった。
      新たに高額の装備品を調達する事に伴い、5年間の予算総額は過去最大となる27兆4,700億円に達することになる。
      政府は前々から、「攻撃型空母」の保有は憲法上の専守防衛という立場を逸脱するものとして認めていなかったのであるが、今回の決定で自衛艦に戦闘機を搭載することに踏み出した事は、集団的自衛権の行使を可能とした「安全保障関連法」に加え、日本の防衛政策が装備の面に於いても新たな段階に入った事を表している。
    第2節「「いずも」型護衛艦の改修」
      防衛大綱は、今後10年間を見据えた安全保障政策の基本方針であり、中期防はこれから5年間の防衛予算の総額や、どのような装備を購入していくかを決めるものである。前回の大綱決定は2013年に決められたものであるが、その後我が国を取り巻く情勢の変化は目まぐるしいものがあった。すなわち、北朝鮮の核・ミサイル技術の飛躍的な向上や、中国の軍事力急拡大と積極的な海洋への進出、また2014年にロシアがウクライナに軍事介入した際展開した、サイバー攻撃を組み合わせたいわゆる「ハイブリッド戦」による脅威など、安全保障環境は急激に変化した。
      今回のいずも型護衛艦の「空母化」については、太平洋側の防空体制の強化を目的とするもので、大綱には「現有の艦艇からSTOVL機の運用を可能とするよう必要な措置を講ずる」としている。具体的には先にも触れたように現在の主力戦闘機F15の代替として、米最新鋭ステルス戦闘機F35を45機導入し、内18機をSTOVL機のB型として、この運用のため現在ヘリコプター搭載を目的とする「いずも」型護衛艦に改修をほどこす事を盛り込んだのである。
    第3節「空母化に対する低次元の認識と政府の詭弁」
      ところが、この新たな自衛艦の空母化について、例によって極めて次元の低い認識しか持ち合わせていないマスコミは、「専守防衛」の我が国において空母は全く必要がない。何故なら憲法9条は戦争放棄と戦力不保持に基づいて、相手方から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使して、自衛のために必要最小限にとどめる「専守防衛」を掲げてきたというのである。そして歴代内閣は「自衛隊の空母保有は必要最小限の実力を凌駕するもので、憲法上では許されない」との見解を踏襲してきた。しかし、政府与党は搭載するF35Bについては有事発生時や、警戒、監視、災害発生時の対処など「必要な場合に限る」としている事を理由に、これは「空母化ではない。多用途運用護衛艦である」と主張している。そして防衛相は「空母は戦闘機や支援戦闘機、早期警戒機といった相手国を壊滅させる破壊力を持った攻撃力を持った部隊を塔載する戦闘艦である」と云っている。これは詭弁にすぎないと私は思う。すなわち戦闘機を常載しないから、いずも型は空母に当たらないという論法である。
    第4節「安全保障の矛盾の根源は憲法9条にある」
      大体このようなまやかしの論法を政府は何時迄続けるつもりなのか。このような事に論及するのには反対もあるであろうが、もともとの矛盾の根源は、憲法第9条にある事は明白である。憲法9条は、「戦争の放棄」「戦力不保持」を規定した世界にもまれな条文である。戦後アメリカとソ連両陣営が激突した冷戦の中で、本来であれば占領終了時に即刻改正すべきものであったが、護憲運動が障害となり、未だに存続しているという世にも不思議な状況が継続しているのである。現在の憲法9条に照らせば法律学者が如何に理屈をこねまわそうと自衛隊は違憲である。本来であれば即刻改正すべきところを、左翼勢力やえせ平和主義、民主主義者の反対により未だにまともな型になっていないのである。
      この第9条が出来たいきさつは長くなるので少しにとどめておきたいのであるが、元々これは、まさに米国ルーズベルト大統領の世界政策の大失敗の産物である。
      戦後米国は、日本に2度と戦争を引き起こさせないよう武力は9条で我が国を金縛りにし、その他日本の持っている家族主義的な良い点を破壊して、日本から工業力を奪い明治時代の農業国に迄貶めようと画策したのが9条を含む現憲法である。
      ところが、昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が勃発し、あわてたアメリカは、今更憲法をどうする事も出来ず日本に戦力を復活させることを目論み、できたのが警察予備隊、後の自衛隊なのである。すなわち上に触れたように日本を弱体化するため考えられたアメリカの対日政策の大失策なのである。
      そしてこの憲法を逆手にとって、日本の経済復興をはたしたのが吉田茂から現在に迄つながる保守勢力である。しかし、歴代の内閣は憲法の改正がはたせないため、憲法9条と現実との間を如何に調整してきたかは真に涙ぐましいといえる。自衛隊は戦力ではないというのは詭弁にすぎない。

    ■第二章「「空母化」は我が国の防空体制強化に寄与」

    第1節「「いずも」型護衛艦は明らかに「空母」」
      ヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」が2015年に登場した時、これは艦の全長が248m、全幅38m、排水量は規準19,500トン、満載で26,000トンと発表されているので、これはもう正式な空母ではないかと考え、元空将で防衛省高官であった友人に「あれは空母なのではないか、戦闘機の搭載が可能なのではないか」と質問した事があった。答えは、当然彼の立場から答えられる範囲は限られていたのであるが「甲板の厚さを補強すれば戦闘機搭載可能、又エレベーターも変える必要があるのではないか」であった。この答えから自衛隊は、空母への転換を考えているのである事を確信したのであった。
      事実「いずも」はかって真珠湾攻撃に参加し、ミッドウェー海戦で沈没した旧帝国海軍の主力空母「赤城」「加賀」と比較して、ほとんどその規模に於いて兵装を除き大差はない。更に同じく当時のアメリカの主力空母サラトガとも大差はない。「いずも」について二番艦の「かが」が2016年に就役している。これによりおそらくF35Bを両艦に約10機ずつ搭載するとして、アメリカの第七艦隊を十分補完して我が国の防衛に寄与出来るのではないかと信じている。
      しかし、政府は連立を組む公明党からの疑問提示により、この空母化については与党の了承手続に大変時間を要してしまった。私は防衛相が云う、戦闘機は常時搭載しないからいずも型は空母に当たらないという解釈には疑問を持っているのである。
    第2節「「安全保障法」は空母保有を可能にした」
      現実には、自衛隊が戦後初めて戦闘機の離着能力を有する艦艇を保有し、「いずも」が真に攻撃型の空母かどうかは別にして、このような能力を持つ事は画期的な事であり、一線を踏み越えた事は確かである。そうならば空母か否かが問題になるのではなく、あくまでその能力を如何に時の政府が使うかにかかってくると思われる。
      2015年の「安全保障法」では自国と密接な関係にある他国の武力行使を、自国が直接攻撃されていなくても実力をもって阻止する集団的自衛権の行使が限定的に可能となった。この時から「専守防衛」は事実上変更されたと元内閣法制局長官の阪田雅裕氏は説く。
      すなわち「集団的自衛権の行使はたとえ限定的と云えども国外での武力行使を意味する。そうであるならば、それに必要な装備の保有が許されなければおかしい。従っていずも型の空母化も安保関連法との関係からは整合性がとれている」と主張する。
    第3節「「空母保有せず」という政府見解を改めるべし」
      ところが、政府は今尚国会における安保関連法の審議において「相手からの武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使する。いわゆる受動的な防衛戦略の姿勢である専守防衛についてはいささかの変更もない」と主張している。これに対して阪田氏は「『変えない』といって『変える』のは一番不適切な行為である。国民に充分な考慮の時間を与えず実態は『実は変えられていた』という状況は、法治国家のあり方としては実に不適当である」と指摘している。実際専守防衛や空母は保有せずといった長年にわたる政府の見解は、既成事実の積み上げによってどんどん変わってよいのかは疑問である。
      確かに日米同盟が我が国の外交、安保の基本である事は間違いない。従って国際情勢の変化に臨機応変に対応していく必要はある。従ってアメリカの要望に応じて戦闘機を含む軍備を増やしていく事はやむを得ない事である。また先にも触れたようにアメリカの太平洋軍に協力するため、空母の保有も是非進めざるを得ないのが我が国の実状である。しかし集団的自衛権の限定的行使が可能となった現在、自衛隊の装備も又変わらざるを得ない事を、率直に認めるべきではなかろうか。

    ■第三章「我が国を取り巻く厳しい情勢の変化」

    第1節「中国の脅威と空母強化の実情」
      我が国を取り巻く情勢は極めて厳しいものがある。最も我々に関係してくるのは中国である。中国は尖閣諸島の存在する東シナ海、また南シナ海においては勝手に島々の周辺を埋め立て自らの領海化を図っている。最近では我が国の最南端の南鳥島付近にまで出没している。そして、中国の国防費はこの30年間に51倍にまで膨張している事を、もっと真剣に我々日本国民は受け取るべきではないか。
      このように厳しい情勢の中、中国は空母の強化に力を入れている。中国の空母はアメリカ海軍の空母に比して著しく劣っている。太平洋に進出してアメリカ海軍とわたり合って行くためにはどうしても空母が必要である。しかし、中国には勿論空母の建造能力がなかったから、彼等は先ず、崩壊直前のソ連がウクライナで建造に取りかかっていた空母「ヴァリャーグ」がその後の資金難で完成の見込みがなくなり、ロシアが処置に困り、ウクライナ管轄のまま放置されていた当該艦艇を、スクラップにするという名目で買い付けたのである。その後2002年大連にまで回航され、そのまま係留されていたが、その後2005年から空母として再生がはかられ、2011年にようやく中国初の空母として出航にこぎつけた。2012年には「遼寧」と命名され、全長305m、幅75mでアジア最大の空母である。
      カタパルトによる艦載機発進は不能で、いわゆるスキージャンプ式の発進であり、効率は悪い。又現状では艦載機乗組員の技能も低い。当艦は2016年12月初めて遠洋訓練の為ミサイル駆逐艦3隻、ミサイルフリゲート2隻を随伴し宮古島、北東水道を抜け、東シナ海から太平洋に向けて航行した。本艦はあくまで練習艦の色彩が強く、現在建造中の新しい空母を含めてアメリカに肩を並べる空母打撃群にまで成長するにはかなりの時間を要するか、場合によっては不可能ではないかと思う。
    第2節「世界の空母の運用実態」
      現在世界では20隻の空母は運用されている。その大半はアメリカであるが、他に英国1隻、インド1隻、中国1隻、イタリア2隻、フランス1隻(アメリカ以外で唯一の原子力空母)、ブラジル1隻(フランスより購入)、タイ1隻、ロシア1隻、アメリカは11隻である。
      空母打撃群は1隻の航空母艦を中心に空母を護衛する5〜10隻の護衛艦(イージス巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)さらに1〜2隻の補給艦から構成されている。さらに空母には数十機の航空団(戦闘機、攻撃機、早期警戒機、電子戦機、輸送機)が配置されており、護衛艦は合計300発以上の各種類のミサイル(艦隊防空、個艦防空、艦対地、艦対艦、巡航、対潜、弾道弾迎撃)を備えている。
      空母打撃群を世界の海に展開する能力は、アメリカだけで現在11の打撃群が存在する。アメリカの空母打撃群は現代の世界においてはほとんど無敵である。中国は何とかしてこの米国優位を覆そうとしているが、この打撃群を維持していくためには膨大なコストを要し、アメリカですら最近の原子力空母の新規建造は1隻にとどまっているのであるが、中国は昨年4月に2隻目となる空母を進水した。中国はより大型の新型空母を2013年に起工し、就役は2020年となる模様であるが、アメリカに追いつく事は当面不可能なのではないか。
      空母の運用は極めて難しく、第2次世界大戦、戦後を通じて空母を中心とする機動部隊(現在の空母打撃群)を運用する事が出来た国はアメリカ、英国、日本の三国にすぎない。ドイツは最初ヒットラーが興味を示したが挫折し、ソ連海軍も現在唯1隻大型空母クズネツォフを保有し、最近ではシリア内戦に投入されるが目立った活動はしていないし、米空母打撃群には遠く及ばない。
    第3節「離島防衛に適している「いずも」型軽空母」
      さて、今回の我が国「いずも空母」が仮に改修により転用された場合、その運用はどうなるのであろうか。日本は第1次世界大戦で世界に先駆けて空母を中心とする作戦を展開し、太平洋戦争ではアメリカ機動部隊と互角にわたりあった。むしろ戦艦対戦艦のいわゆる大艦巨砲主義から航空機を主体とする戦術への転換を図った先駆者である。しかし、言うまでもなく戦後の平和憲法なるものは「攻撃的兵器」を認めていないため、「いずも型」をめぐる空母保有論は常に「攻撃的兵器」なのか「防衛的兵器」なのかという議論になる。しかし米国の識者は「空母の能力は攻撃的役割に限定されるものではない」と指摘する。さらに空母の能力は「攻撃だけではなく防衛任務や偵察にも活用出来る」と指摘している。具体的には、味方の水上基地を敵の攻撃から守るため戦闘機を発進できるし、敵の艦艇や潜水艦の位置を把握出来たりする。そこで現実的に現在日本が特に注力する尖閣諸島などの離島の防衛に空母は適している。当然「日本の空母への回帰は太平洋戦争時代のイメージがついて回るから中国や韓国は反発するであろうが、日本のような島国では離島を守り、領海をパトロールするには数隻の「いずも型」のような軽空母の運用は適している」と指摘している。
    第4節「空母保有を日米同盟維持の現実的な対応として評価すべき」
      今回のいずも型の空母化はトランプ大統領の同盟国と云えども、防衛に関して応分の負担を求めるのに対応したものではなかろうか。日米同盟を維持するためにも、これの負担の一部を空母化で答えたことは、現実的な対応として評価するところである。重ねて云うが、確かに日米同盟が我が国の死命を制する基本である以上、その変化に臨機応変に対応していく事は必要であるが、矢張り長年にわたって守られてきた専守防衛や空母は保有せずなどという時代遅れの考え方は、この際国民の前で清算して、自衛隊の準備についても集団的自衛権の行使が限定的ながら可能になった今変わらざるを得ない事を、はっきりと国民に理解させなければならないのではなかろうか。
      今回の「いずも型空母」問題については、朝日を始めきわめてこれに対して懐疑的な論調が多かった中で、最近左倒傾向の強い毎日新聞の1月16日付「記者の目」木下記者の記事は、大変納得出来るものがあったのでその考え方を参考にさせて頂いた。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    武藤会長「金言」

    お問い合わせ

    イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

    ※メールソフトが開きます

    お問い合わせ