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武藤会長「金言」

2020年2月28日 金言(第91号)
芥川 賞と直木賞

■はじめに

  芥川賞と直木賞は、我が国の文壇における二大登竜門として大きな影響力を持っている。今回はこの二つの文学賞について考えてみたい。

■第一章 「文学賞の創設の由来」

第1節 「芥川龍之介と直木三十五を記念して創設」
  大体最近の若い人は本を読まないから、この二つの賞についても全く無知とはいわないが関心が極めて薄いのではないかと思われる。芥川(あくたがわ)と読めない人も相当いるのではないか。しかし、この二つの賞は各々年二回ずつ選ばれており、結構この賞の行方については関心が払われている。毎年の受賞者についても下馬評がそれなりにたたかわされ、新聞紙上を賑わしている。この二つの賞は雑誌「文藝春秋」を発行する出版社、文藝春秋社が主催するものである。
  さて、先ず芥川賞であるが、これは大正時代を代表する小説家である芥川龍之介(1892〜1927年)の業績を記念して、友人でありかつ文藝春秋社の主宰者であった作家の菊池寛が創設したものである。そして菊池寛は併せて同じく友人の直木三十五(1891〜1934年)を顕彰して、1935年に芥川龍之介賞、直木三十五賞として同時にスタートさせたものである。最初に芥川及び直木の業績を簡単に述べておきたい。
第2節 「芥川龍之介の業績」
  芥川龍之介は東京都京橋区入船町(現中央区明石町)に、明治25年(1892年)に生を受けている。実家は牛乳製造販売業で新原というそれなりの商家であった。しかし姉が二人いたが、一人は彼が生まれる1年前に病死している。彼の人生に暗い影を投げかけた出来事がある。すなわち実母が彼の生後半年あまりで精神に異常をきたしたため、彼は母の実家の芥川家に預けられ伯母に育てられるのである。
  芥川家は徳川家に仕える士族で代々雑用、茶の湯を担当した家柄で、一家共々芸術、演芸を愛好して江戸の文人趣味を色濃く残していた家筋であった。11歳の時母が亡くなると同時に伯父(母の兄)の養子となり芥川姓を名乗るようになる。
  両国小学校を経て府立第三中学校に入るが、その後第一高等学校に成績優秀をもって無試験入学を許される。その後最難関の東京帝国大学英文科に入学する。帝国大学在学中の1914年(大正3年)一高同期の菊池寛、久米正雄と第三次「新思潮」を刊行し、作家活動を始めたのであった。さらに1916年(大正5年)上記の菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら5人で第4次「新思潮」を発刊し、今昔物語に題材をとった「鼻」をその創刊号に掲載して夏目漱石から絶賛される。その後続々と短編小説を発表している。
  その後私の父の師である慶應義塾の美術史家、沢木四方吉教授の推薦により同大学への就職が決まりかけたが実現せず、漱石にならって大阪毎日新聞に入社、1921年には海外視察員として中国(北京、上海)を訪問して見聞を広める。しかし、この旅行後心身の衰えが目立ち始める。そしてこの頃から創作が減っていく一方私小説的な傾向の作品が現れだし、この流れが晩年の「歯車」や「河童」などへつながっていくのである。
  芥川の小説について、初期の作品は、先にも触れた古典などの説話文学に依拠した「羅生門」「鼻」「芋粥」などの歴史物、これは人間の内面やエゴイズムを描き出しているものが多いが評価は高い。中期の作品としては「地獄変」が代表作であるが、とにかく芸術至上主義がうかがわれる。晩年は病に侵され河童の世界を描くことにより人間社会を痛烈に批判しており、問題提起の点は好感が持てる。しかし「歯車」となると精神の均衡に問題があるとみる人もいる。そして1927年(昭和2年)彼は田端の自宅で服毒死をとげる。私の父親は小島政二郎氏や沢木教授などを通じて芥川の事は知っていたようであるが、あのような小説を書いていたら矢張り行き詰るのではないかと云っていた。
第3節 「直木三十五の業績」
  直木三十五(1891〜1934年)といっても最近の人々は余程文学にくわしい人以外、即反応する人は少ないと思われる。直木は本名を植村宗一といって出身は大阪市である。ペンネームは「植」の字の左右反転と、小説を書き出したのが31歳で三十一、その後三十二、三十三、三十四、三十五と毎年変わっていく。父は大丸呉服店勤務の後古着屋を商っていたが、決して豊かなものではなかった。
  彼は父親が40歳の時の子供であったから相当甘かったのではないか。なかなか資料が見つからず、彼が亡くなる3年前に書き未完に終わっている彼の自叙伝「死までを語る」を読み、初めて彼の破天荒な人生を知った。
  彼は生まれてから10年目に弟植村清二が誕生する。後に東洋史学者として名を成した人である。小学校の成績はよく、高等小学校を出てから市岡中学校に入学した。著名な画家小出楢重は4年先輩になる。中学に入ってからの学業は振るわなかったが、早くから読書欲に目覚めて特に歴史には詳しかった。しかし英語と数学はからっきしであった。旧制高校は岡山を目指したが初日が苦手な数学だったのでやる気を失い棄権してしまった。当然浪人である。家でフラフラとしている中、母親の弟の親友に薄恕一という医師がいた。彼は相撲界でパトロンをさす「タニマチ」のそもそもの語源となった人で、谷町6丁目で薄病院を経営していた。子供の頃から病弱であった直木は幼児の頃から通院し、19歳の頃からアルバイトをさせてもらうなど、物心両面で世話になっていた。この薄氏が小学校の代用教員の職を世話してくれた。この後彼は父親の反対を押し切り、早稲田大学英文科予科を経て同大学高等師範部の英文科へ進学する。その間いろいろな仲間と知り合うが、月謝未納で中退となるが大学へは登校し続け、その間里見淳や久米正雄、吉井勇、田中純らと懇意となり、彼等によって創刊された「人間」の編集を担当するようになる。
  大正12年(1923年)の関東大震災以降は大阪のプラトン社という出版社に勤務して、川口松太郎と共々娯楽雑誌「苦楽」の編集に当るが、これより以降次第に時代小説を書くようになる。
  1925年(大正14年)映画のマキノプロダクションの主宰者であるマキノ省三と親しくなり映画製作、脚本家として活躍するが、その人間性からマキノ省三には相当迷惑をかけたようである。1927年(昭和2年)マキノ省三から多額の出資をさせて製作した映画が全くの不振に終わり、映画界から姿を消す。しかし1929年(昭和4年)由比正雪を描いた「由比根元大殺記」で大衆作家として認められ、以後「水戸黄門廻国記」は映画化もされ直木の名は高まった。他に直木作品は50本近く映画化されている。代表作は昭和5年(1930年)に書かれた島津薩摩藩のお家騒動を描いた「南国太平記」である。無頼の作家直木三十五は昭和9年(1934年)43歳で病没した。
  菊池寛と直木三十五とのつながりであるが、親分肌の菊池は直木の才を買い「文藝春秋」に彼の作品を載せていた。また直木の毒舌を発揮する場所としてかなりの期間、毎号彼のコラムを載せていた。当時、今でいうコラムは6号記事と云われており、直木は健筆を振ったがその筆鋒の鋭さは読者を喜ばせたという。

■第二章「文学賞を創設した菊池寛とは如何なる人物か」

第1節「若くして文学に目覚める」
  芥川、直木両賞を創設した菊池寛とは如何なる人物かを次に書きたいと思う。菊池は1888年(明治21年)香川県高松市に生まれた。菊池家は、江戸時代は高松藩の儒学者の家柄であったが寛が生まれた頃はすっかり没落し、父親は小学校の用務員をしていた。彼は家が貧しかったため、高等小学校の時は教科書すら買ってもらえず友人から教科書を借り書き写して勉学した。このころから文学に目覚め、幸田露伴や尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しむようになった。1903年(明治36年)高松中学校に入学するが、非常な勉強家で中学4年の際には主席となった。菊池の勉強振りを語る逸話として、中学3年の時に高松に初めて公立の図書館が出来るとここに毎日のように通って本を読みふける。そして蔵書2万冊の内、興味のあるものはすべて借りたという。中学を卒業後、成績優秀により東京高等師範に進学するが本人は教師になるつもりはさらさら無く、芝居見物などに熱中して除籍されてしまう。しかし篤志家の援助で明治大学、早稲田大学に籍をおくが、本人が目指したのは文学の道であった。そのため第一高等学校への入試を熱望して勉学にはげんだ。
第2節「「真珠夫人」で一躍人気作家となる」
  菊池寛は今述べたような事情により22歳で第一高等学校に入校したのであった。そしてここで芥川、久米、成瀬と出会い、第三次、第四次「新思潮」で行動を共にするが、ある事件に連座して退学のやむなきに至り、その後成瀬の実家(財閥の川崎家)の援助により京都帝国大学に進むが、その際も旧制高校卒の資格がなかったため資格取得のために足踏みを余儀なくされる。その後第四次新思潮に問題作「屋上の狂人」を発表する。彼はそのまま東京帝国大学に進み上記の友人たちと合流するつもりであったが重鎮の詩人でもあった上田万年教授より拒絶され、やむなく京大に止まった。
  芥川を中心とする仲間達の華々しい活躍を横目に彼は京都で失意の日を送るが、この時の体験を綴った「無名作家の日記」が評判となった。勿論フィクションはあるが、東京で活躍する芥川等を横目に恵まれない現状を切々と綴ったこの小説は評判となる。1916年(大正5年)京大を卒業してその後上京し、芥川、久米などと共に活躍することになる。そしてその後時事新報の記者となるが「新思潮」に有名な「父帰る」を発表し、1919年には「中央公論」に代表作「恩讐の彼方に」を発表し、それを契機に時事新報を退社して執筆活動に専念することになる。翌年東西の毎日新聞に連載した「真珠夫人」が大評判となり一躍人気作家となった。
第3節「新人作家を世に出すため文学賞を創設」
  私の父は芥川や菊池、久米などに傾倒していたので私が中学生の頃戦災を免れた父の本棚には芥川や菊池、久米、有島などの本が多数残っていた。やや早熟な文学少年であった私は芥川や菊池の作品をこの頃読みふけった。父の本棚の中には芥川の「傀儡師(クグツシ)」なる1冊があり、この中には「蜘蛛の糸」や代表作の一つである「地獄変」などがおさめられていた。また菊池の短編を一冊におさめた本があり、「恩讐の彼方に」をはじめ「忠直卿行状記」や、歌舞伎役者の坂田藤十郎が人妻に舞台に生かすため偽の恋を仕掛ける「藤十郎の恋」、杉田玄白と前野良沢の激しい腑分け(解剖)についての競争を書いた「蘭学事始」など菊池の本領を表す作品が網羅されていた。しかし何といってもこの頃一番感銘を受けたのは先にも少し触れたが「無名作家の日記」であった。これは重複するが、フィクションも相当あると思うが京都にあえなく都落ちした菊池が東京での芥川や久米の華々しい活躍を横目にして焦燥を感じる様を見事に描いている。そして人気作家となって菊池は1923年(大正12年)若い作家のための雑誌「文藝春秋」を創刊し、その後文藝春秋社という出版社を立ち上げる。この出版業においても菊池は大成功したのであった。
  そのような中で1935年(昭和10年)新人作家を世に出すための「芥川龍之介賞」と「直木三十五賞」を設立したのであった。以上芥川賞及び直木賞が出来たいきさつを述べたが最後に両賞がその後どのような形で現在に至っているかを述べたいと思う。

■第三章「ジャーナリズムで大きく取り上げられる両賞」

第1節「「太陽の季節」が社会現象を呼び起こす」
  両賞とも今でこそジャーナリズムで大きく取り上げられているが、当初は菊池が考えていた程世の耳目を集めていたわけではない。転機となったのは1956年に石原慎太郎が「太陽の季節」により受賞した事であった。当時学生であった石原の作品が大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーになったばかりではなく「太陽族」という言葉が生まれ、一種の社会現象を呼び起こしたのであった。それ以降両賞の社会的な存在は大きなものとなった。芥川賞はその対象を「無名あるいは新人作家」としており、特に発足の初期は、その事が議論の対象となった。というのは戦争中4年間この賞は中断しており戦後復活した時点で新人かどうかが問題となったのであった。現在ではデビューしてから相当年数を重ね他の文学賞を受けている作家が受賞するような事が当たり前となっている。作品の長さにも一応の基準があり、第一回の受賞作石川達三がブラジル移民を書いた「蒼氓」が原稿用紙150枚であったためこれが目安となっているが、現在ではその倍の枚数のもの迄現れている。
第2節「あいまいな両賞の境界」
  純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木賞との境界はしばしばあいまいである。その例を挙げるなら、著名な純文学作家井伏鱒二が1937年に直木賞を受賞し、社会派作家として有名な松本清張が1952年に直木賞ではなく「或る『小倉日記』伝」で芥川賞受賞となったのは両賞の境界のあいまいさを表している。極端な例は柴田錬三郎が1951年芥川賞と直木賞の両方の候補となり、結局直木賞となったのもおかしいと云えばおかしいのである。 両賞のジャーナリスティックな性格はしばしば問題となるが「文藝春秋」という商業誌が行っている行事であるからそうなるのは当然であろう。その事は両賞の設けられた当初から文藝春秋誌上ではっきりと謳われている。
第3節「芥川賞にまつわるエピソード」
  芥川賞に関して落してはいけないエピソードがある。太宰治は今日でも読者の多い作家であるが、太宰は当時生活が乱れており薬物中毒であった。彼はどうしても第一回芥川賞がほしかった。受賞する事により生活を立て直したかったのであろう。選考委員の佐藤春夫は太宰を推したが川端康成は反対して受賞はかなわなかった。
  私は若い時は両賞が発表される毎によく読んでいたが、最近はとんと関心が薄くなってしまった。最近の若い作家の作風については老化した頭では到底ついていけないのである。只最近といっても2010年に朝吹真理子氏が「きことわ」という作品で芥川賞を受賞したが、朝吹さんの曽祖父、朝吹英二氏が大実業家で祖父、山治の恩人の一人でもあったのでよく読ませていただいたのを覚えている。しかし早やあれから10年経過しているのには驚きである。朝吹さんが受賞した時、新聞各紙は、朝吹家は文学一家(父は詩人、祖父の妹はフランソワーズサガンの翻訳で有名)としか紹介していなかった。朝吹英二に触れた新聞は無かった。まったく最近の記者の知識はその程度である。
  もう一つ付け加えさせていただくと昭和27年頃と思うが中学校のある教室の引き出しの隅に、戦時中の粗悪な紙を使った薄っぺらな「文藝春秋」が一冊入っていた。何気なしにページをめくると1943年(昭和18年)下半期の芥川賞受賞作の東野辺薫氏の「和紙」という作品が掲載されていて、これが芥川賞というものかと思い一読した。余り記憶には残っていないが純文学とは難しいものだなあという強い印象を受けたのを覚えている。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2020年1月30日 金言(第90号)
海上自衛隊の中東派遣に思う

■はじめに

  政府は昨年12月27日、中東海域を航行する日本関連船舶の安全を確保するため自衛隊を派遣することを閣議決定していたが、いよいよその第1陣となる海上自衛隊の哨戒機の部隊が1月11日現地へ出発した。部隊は、この20日から情報収集後活動を開始している。

■第一章 「中東派遣部隊の概要」

第1節 「任務は情報の収集」
  この哨戒機は、海上自衛隊那覇基地に属するP3C機2機で、アフリカ、ソマリア沖で海賊対策活動に当たっている部隊と交代して情報収集に従事する。具体的にどのような活動をするかは、船舶の位置を知らせるためのAISと呼ばれるシステムを切ったまま航行するなどの不審な動きをキャッチするなどして船の種類、進路などについての情報を集めることがその任務となる。人員は60名となっている。さらに2月2日にヘリコプター搭載可能護衛艦「たかなみ」(乗込員200人)を派遣する。この作戦はホルムズ海峡の民間船舶の安全確保を目指すアメリカが主導する有志連合「海上安全保障イニシアティブ」が実施する、作戦名「センチネル(番人)作戦」への協力である。この作戦は、米国を含め英国、オーストラリア、バーレーン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、アルバニアの7カ国が参加するもので、11月の上旬にバーレーンに司令部を設けて2020年1月から本格的な活動が始まった。当然ホルムズ海峡は、我が国にとっての原油輸送の生命線であるため、アメリカからの同盟国としての日本に対する呼びかけに当然応えなければならなかったのであるが、日本としては昨年6月にタンカーが、ホルムズ海峡で攻撃を受けるなど、危険な地域への自衛隊の派遣にはリスクが伴うから、加えてアメリカとは同盟国ではあるが、一方イランについても長年にわたって友好関係が保持されているため両者の間に立ってギリギリの検討が加えられたのであった。
  昨年9月サウジアラビアの石油施設がイランのものと思われる無人機の攻撃を受け、安倍首相は自衛隊独自の中東派遣を決定したのが実状で、この決定には実に5ヶ月間を要した。
第2節 「活動範囲はパベルマンデブ海峡東側の公海に限定」
  今回の中東派遣の活動範囲は、地図を見ていただかないとすぐには理解できないと思うが、日本にとって最重要海域は、ホルムズ海峡である。ここは西のペルシャ湾と東のオマーン湾を結び、イランとオマーンの領土に挟まれてペルシャ湾に面しているサウジアラビアやUAEなどの重要な産油国からの原油や石油製品を運ぶ最重要海上交通路であり、かつ極めて狭小な海峡である。
  実際我が国の原油輸入の88%は中東に依存していて、そのほとんどがこの海峡を経由する。日本政府の発表によると年に約3,900隻の日本関連船舶が航行し、内タンカーは2,600隻を占めており、仮にイランとアメリカが事をかまえてイランがこの海峡を封鎖すると我が国に対する打撃は計り知れないものがある。幸い現在日本では公民合せて原油200日分の備蓄があるから即日油が止まるというリスクは免れるが、これが長期間に及べばパニックは必至である。本年1月3日イランの革命防衛隊「コツズ部隊」のソレイマニ司令官がアメリカの無人機により暗殺され、一方イランも報復を宣言して早速イランの米軍基地にミサイルを撃ち込んだ。しかし幸い双方ある程度自制のきいた行動を今のところとっているため、両国の全面的な衝突は避けられている。
  さて、今回の自衛隊の行動の範囲は、オマーン湾、アラビア海北部とアデン湾と紅海をつなぐパベルマンデブ海峡の東側の公海に限定されており、問題の多いホルムズ海峡は含まれていない。ホルムズ海峡は、自由に往来出来る公海の部分が小さく危険度が高い他、沿岸国であるイランを刺激しないように配慮して近辺での活動を避けたのである。
第3節 「攻撃を受けた場合の行動範囲」
  活動の主体は情報収集であるが、部隊が直接に攻撃を受ける可能性は多分にある。このような場合は自衛隊法による「武器等防護」で対応する。仮に日本関係の船舶が部隊の目の前で攻撃されれば「海上警備行動」の発動の是非を検討する。これは緊急性を必要とする場合は電話による閣議でも了承できる。
念のためこの警備行動の発令とは、海上における人命や財産の保護並びに治安を維持するための自衛行為で自衛隊法に基づくものである。
  元々海上保安庁の対処能力を超える治安の悪化が生じた場合、防衛相が自衛隊の出動を命令する。対象は「日本国民の生命と財産」に限られており、日本に関係ない船は守れない。そして「警察官職務執行法」を準用して必要最低限の武器使用が認められている。過去において一番印象として残っているのは1999年の能登半島沖の北朝鮮の不審船事件であろう。なお今回の中東派遣は、防衛省の任務を定め自衛隊が警戒監視や情報収集活動を実施するための根拠となる防衛省設置法に基づくものである。
  武器使用を伴って防護出来るのは国際法にいうところの「旗国主義」が適用され日本国籍の船に限定される。但し、呼びかけや接近などの保護は日本人や日本の貨物が乗った他国の船舶でも可能である。自衛隊があらゆる事態に対処するよう定めた「安全保障関連法」が2015年に成立してから今回が初めての本格的な部隊派遣になる。
  今回は、同法4条の「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うこと」の規定により中東に派遣するものである。地理的な制約はないが、武器の使用は認められず、敵から攻撃を受けた場合は自衛隊法に基づく「武器等防護」により自ら防衛に当たる。防衛相の判断で活動出来るが、これはあまりにも間が抜けた法律ではなかろうか


■第二章「無責任な自衛隊派遣反対」

第1節「自衛隊派遣に反対する野党」
  さて今回の派遣については、野党から早速反対の声があがっている。例によって反対のための反対としかいいようがないのであるが、立憲民主党の安住国対委員長は「戦闘状態に近い状態まで緊張が高まっているという認識が高まっている中で、自衛隊の艦艇を1隻派遣してわざわざ調査研究するという感覚はちょっと信じられない」とぶち上げた。危険な事は国民も充分に認識している。
  そして、我が国が今回は入口までとなっているが、ホルムズ海峡を含めたこの海域が我が国のエネルギー輸送の根幹である事も国民の大半は十分に理解している。念のため我が国が輸入する原油の量は2017年の統計によると、日量は約322万バレルで、内訳はサウジアラビア40.2%、アラブ首長国連邦(UAE)24.2%
、カタール7.3%、クウェート7.1%、イラン5.5%、ロシア5.8%、その他が9.9%となっており中東からの輸入は群を抜いている。原油の他にLNGの輸入も中東からの分が30%以上となっている。そうとなればエネルギーの自給率が極端に低く、原油や天然ガスを全面的に輸入に依存している我が国にとって供給先の多様化を促進することは喫緊にして重要なる課題と云える。さらに、中東や南シナ海において有事が発生した場合を含めてその「地政学的リスク」を考慮した上での輸送ルート並びに緊急時の対策強化は避けて通る事の出来ない課題である。
  一方アメリカにおいて近年技術革新が進み、従来取り出す事が不可能であったシェールオイルとシェールガスの生産量が大幅に増加していることは衆知の通りである。この北米における「シェール革命」は新たな可能性を我々に突きつけ始めており、長期的な観点から我が国のエネルギー、安全保障戦略で重要な位置付けとなっていくであろう事を我々は認識しておかなければならない。
第2節「我が国が中東で「人的貢献」するのは当然の措置である」
  このように中東情勢の中で我が国としては自衛隊派遣を決定したのであるが、これは当然の処置であろう。日本国民の意識の中には2003年3月から5月にかけて行われたイラク戦争において我が国は戦費の供出だけで人的な貢献を何等行わなかったなめ世界中の笑い者になった事が、トラウマとなって強く残っている。このため、その後我が国は人的貢献をするためイラクへの自衛隊派遣など、種々の方策を実行してきたのは衆知の事である。今回ホルムズ海峡の民間船舶の安全の確保を目指すアメリカの主導による有志連合「海洋安全保障イニシアティブ」、作戦名「センチネル作戦」が実施される事になり、我が国はそれに独自に協力する事になったのは前述の通りである。
第3節「派遣に反対なら「代案」を出すべき」
  しかしながら、今回の派遣について国内のマスコミの論調には厳しいものがある。マスコミが問題とするのは、今回の派遣が国会の論議を経ていない上、立憲民主党など野党が何故これ程緊迫している中東情勢の中で自衛隊を派遣するのかと疑問を呈し、派遣の中止を求めているからである。しかし、これは中東の石油を、我が国が放棄せよと言っているのに等しい。イランの核問題を中心に複雑な中東状勢がさらに緊迫しており、極めて危険な状勢下にある事は国民もよく理解している。
  自衛隊の派遣が行われないですめばそれに越した事はないが、主要な国々だけではなくアルバニアのような小国ですら派遣を決めている。日経の最新の世論調査によれば中東への艦船派遣については57%が賛成という数字が出ている。
  「金だけ出せばよい」という時代は終わっているし、現に我々はそのような行為をとったため如何に痛い目にあったのか忘れているのでないか。まさに平和ボケした何でも他力本願の野党は政権の批判以外に何も出来ない体たらくである。小中学生の方がまだ自分の意見を持っているのではないか。反対するなら反対するで、現在我が国がおかれている厳しい状況に対応して対案の一つも出すべきであろう。

■第三章「ペルシャ湾に「旭日旗」を掲げることが重要」

第1節「問題の根幹は「属国憲法」にある」
  立憲民主党の安住氏は、先に述べたように戦闘状態に近い状況の中でわざわざ艦船を派遣することは信じられないなどと云っているが、私は何もしない事の方が信じられないのである。これは過去から現在に至るまで我が国の行動が世界から立ち遅れている中で、さらに我が国の立場を後退させてしまう事になると思う。野党の連中は、日本は、アメリカの「ポチ」だといって笑い者にする。ちょっと待ってほしい。「ポチ」にならざるを得ないのはどうしてか?国の根幹たる防衛を、アメリカに任せざるを得ない現在の属国憲法にそもそもの原因がある事は明白である。このような馬鹿馬鹿しい憲法を改正して自分の国は自分の力で守るという根本を、野党は否定して平和憲法の死守を叫び、憲法改正に反対している。そして国会で改憲を議論することにさえ反対している。最も野党だけでなくかつて自民党の幹事長を務めた重鎮までが最近派閥の会合で9条は宝である、したがって9条に自衛隊を明記することに反対すると述べているなど噴飯ものとしか言いようがない。
  安倍内閣は確かに批判もあるが、我が国の集団的自衛権を巡る憲法解釈変更を含めて属国憲法のもとで私は筋を通していると思う。仮に一連の安倍内閣における集団的自衛権解釈の変更がなかったならば、おそらく今頃迄自衛隊派遣を巡り特別法の制定などに時間をかけていたのではないかと思う。
第2節「マスコミが指摘する問題点」
  確かに前後するが今回の派遣については、その派遣の根拠を問題とするマスコミは多数ある、重複するが国会の事前承認を必要とせず、防衛相の命令だけで防衛省設置法の「調査、研究」を根拠にしているのであるが、しかし不測の事態に遭遇すれば自衛隊員による武器使用もありうる。「調査研究」での派遣は安易すぎるというのが反対の論法である。しかしながらこのようなことでは我が国が国際的に通用しないことがすでに立証されているのは、御承知の通りである。マスコミの一部では日本による自衛隊派遣は「意義より形式的意味合いが大きい」と「調査研究」が目的であるため、自衛隊は攻撃を受けた場合だけしか反撃できず、仮に石油輸送船などが攻撃された場合自衛隊は武力反撃出来ず、他国の支援を求めることが必要であり、日本とアメリカとの同盟関係を考えると「親米」のイメージが固定化されているので、自衛隊そのものが攻撃にさらされる可能性が高く「航行の安全の保障」には疑問の余地があるというのが彼らの言い分である。
  さらに「結局日本は間接的とはいえアメリカの有志連合に参加することになり、日本の外交は中東問題では、従来通りアメリカに追随することになる」と述べている。このように今回の派遣についてのマイナスイメージをことさら言いつのるマスコミは多い。

■おわりに

  しかし、最後に私が云いたいのは、日本はあくまで独自に行動してペルシャ湾に「show  the flag」すなわち堂々と旭日旗を掲げる事こそが重要な事なのではないかと思う。これは先にも述べたように湾岸戦争で130億ドルという戦費を負担したにもかかわらず人的貢献がなかったため日本の評価が全くなされなかった事に対する雪辱でもある。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

武藤会長「金言」

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