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    山本長次氏 『武藤山治の社会事業 』

武藤記念講座(講演会事業)

第1077回武藤記念講座要旨

    2021年3月6日(土)
    於大阪「國民會館 武藤記念ホール」
    佐賀大学経済学部教授
    山本 長次氏
 『武藤山治の社会事業』
  −大里児童育成会の設立を中心に−


セミナー





はじめに
  武藤は鐘紡の経営者として大変著名であり、最晩年は福澤諭吉の二大事業である「慶應義塾」と「時事新報」
のうち、時事新報という新聞の事業を継承する一方で評論活動を行いました。本日は時事新報を経営していた時代に武藤が大里兵蔵さんから百万円を託され「大里児童育成会」という財団法人を作り、社会貢献事業を行ったということを中心に話をさせていただきます。

第一章 武藤山治の事績と思想
第1節 近代鐘紡の経営者
  武藤山治は1867年(慶応3年)に生まれ、1934年(昭和9年)3月10日に亡くなります。今の岐阜
県海津市平田町の出身で、慶應義塾の学生として福澤諭吉と直接接していた世代で、演説会で激励を受けたりしました。卒業後は渡米し、パシフィック大学に入り、ヤマサ醤油の販売事業にも関わった後日本に戻り、新聞広告の代理店を立ち上げました。電通が開業する時も相談を受けているようです。その後雑誌社の開業を経て英字新聞のジャパンガゼット社に入社、ドイツ系のイリス商会を経て、三井銀行、鐘紡という経歴を辿っております
。鐘紡へは1894年(明治27年)に三井銀行から移籍という形で入り、兵庫支店の支配人に就任します。1900年(明治33年)全社支配人となり、実質的に経営を任されます。まだ、東京隅田の鐘ヶ淵工場と兵庫工場等の5工場でした。「鈴久事件」で一旦会社を辞めますが、復帰後、実質的なトップマネッジメントである専務取締役となります。その後社長となりますが、当時の社長は今の会長のイメージで、実業同志会を結成して政界活動をするようになります。1930年(昭和5年)1月社長を辞任し、相談役に就任します。武藤が鐘紡で行った労務管理上の一番の出来事は、民間企業として日本で初めて共済組合を作ったことです。また注意箱の設置や社内報の発行も行いました。注意箱とは提案制度のことで、トヨタの経営でQCサークルや提案制度が有名ですが、歴史的には武藤の鐘紡が日本で初めて採り入れたものです。また職工学校を作ったり、民間企業の社債発行で初めて外資を導入しました。1919年(大正8年)10月、第1回ILO(国際労働機関)会議がワシントンで開かれますが、武藤は経営者側の代表者として参加しており、非常にトピックな出来事でした。武藤の温情主義経営を巡っては大正デモクラシーの立役者といわれた吉野作造や社会主義者の河上肇と論争していますが、武藤が経営者の時代、鐘紡では労働争議が起こったことはありませんでした。
第2節 政界活動と救護法の制定
  1919年(大正8年)、営業税の廃止を求める話しから「大日本実業組合連合会」ができ、これが母体となり、1923年(大正12年)に「実業同志会」が結成され、その後「国民同志会」に改称されます。武藤は党首となり、1924年(大正13年)から1932年(昭和7年)まで衆議院議員としても活躍します。実業同志会の衆議院議員は少なかったのですが、憲政会と政友会の議員数が拮抗し、実業同志会がキャスティング・ボ
ートを握ることになります。武藤は政友会との間で救護法制定の政策協定を結んだという経緯があります。救護法とは今の「生活保護法」にあたる法律で、帝国議会で救護法の制定を進めたのは武藤の尽力によるものです。また国会議員になる前には軍事救護法の制定も進めています。軍人が怪我や病気をした時、また戦死者の遺族へは十分な補償をしていかなければならないと、民間の立場から軍事救護法の制定を進め、軍部から社会主義者と誤解を招いたこともありました。
  鐘紡の共済組合などに見られるように、武藤には軍人及びその家族に対しても、福祉的に資するという思想が
根底にありました。
第3節 武藤の社会貢献活動
  武藤は社会事業家の側面もありました。社会貢献活動として、鐘紡で工場診療所を住民に開放したことがあり
ます。兵庫支店の構内に20万円を投じ鐘紡病院を建設し、年間約2万5千円の経費を使い、近隣に住む生活困窮者に対し内科、外科、眼科の診療を行いました。当時は1円が今の1万円の時代です。1922年(大正11年)、第一次世界大戦後の慢性不況時には失業者の救済のため株主総会の同意を得て、東京・大阪・神戸の3市に各10万円、計30万円を寄付し、各市に職業訓練教育機関が組織されました。さらに南米移住事業の調査に対する資金援助を行っております。大正から昭和にかけて日本の人口増加が著しく、食糧問題の対応のため南米移住事業は社会問題の解決につながったと思います。なお武藤の社会貢献活動は単なる慈善事業ではなく、それを制度にしていくところがポイントです。武藤が鐘紡や時事新報を通じて行った社会貢献の考え方は「一個人も
、その一個人が多数集まった株式会社も人格を有していると考えると、一個人が公益のために私財を民間に対して寄付するように、株式会社もまた世間に対して寄与するべきである」ということです。そこで株主に諮りながら公益事業を実施しました。株主は鐘紡が高株価、高配当で業績が良いため社会貢献事業にも賛同しました。武藤の「会社組織が繁栄していくに伴い、社会公益のために寄与する習慣をつくりたい」との考えは、企業の社会貢献という観点で先駆的です。
  次に武藤個人としては、ハンセン病患者に対する救済事業を行っております。イギリス人のハンナ・リデルが
熊本に回春病院を作ります。病院はイギリスからの善意のお金で運営していましたが、第一次世界大戦で送金が途絶え、病院の運営が出来なくなってしまいます。リデルに面会を求められた武藤は、ハンセン病に貢献するリデルに感銘し、個人的に阪神間の経営者等に訴え寄付金を集めたことがありました。リデルとは熊本に鐘紡の工場があったことで接点が出来たのでしょう。そして時事新報時代の大里児童育成会の設立です。

第二章 大里兵蔵の事績と寄付
第1節 大里兵蔵の事績
  大里兵蔵は1866年(慶応2年)の生まれですが、戸籍上は武藤と同じ1867年(慶応3年)の3月1日
生まれとなっています。1933年(昭和8年)6月時点で68歳という記録が残っております。なお亡くなられた年は不明です。埼玉県の粕壁町(今の春日部市)で綿糸綿布商の大里米蔵の長男として生まれ、小学校を終えた後、1890年(明治23年)、お母さんから託された700円を元手に日本橋の橘町に小売店を開業します。やがて1898年(明治31年)、兜町で東京証券取引所の仲買人の事業を始めます。当時の新聞広告に大里の株式仲買の記載があります。そして第一次世界大戦後の好景気で株価が一番ピークのタイミングで廃業しています。1933年時点で、東京麹町の息子さん家族と一緒に居住していた記録があります。大里は母たきから随分感化を受けたようで、非常に精神的レベルが高く倫理観のある人で、1907年(明治40年)と1908年に粕壁小学校へ2千円を寄付しています。その頃前妻、娘、お父さんと相次いで亡くし、その保険金を困窮児童のために寄付をしたということです。また1916年(大正5年)に粕壁中学へ1万円、1928年(昭和3年)には粕壁高等女学校に敷地を寄付しております。なお長男の一太郎は1933年(昭和8年)時点で44歳ですが、鹿児島の高等農林学校(今の鹿児島大学)を卒業し、新聞では「農業に従事し、農事改善に努力」と紹介されており、大地主で資産家だったようです。
第2節 大里と武藤の関係
  大里と武藤が直接会ったのは、1933年(昭和8年)6月、百万円を武藤に託す対面の時と、帝国ホテルで
の記者発表の時の二度です。もちろん大里は武藤を鐘紡時代から良く知っており、鐘紡の労務管理が非常に行き届いていることに感銘を受けていました。1900年代初め、大里は知り合いの医者で、東京瓦斯紡績会社(後の富士紡績)の嘱託医から「武藤が支配人を務める鐘紡の工場は、従業員を優遇し素晴らしい」ということを聞いていたわけです。女工哀史の時代にあって、武藤は旧来の悪弊を改め従業員を優遇して経営をやっている、しかも同年配であるということに非常に感服したということです。大里が木綿屋から仲買商に転じた理由は、染物屋に対し「ふあがり」(染色が上手くいっていない)と難癖つけ、必要以上に値引きさせる、弱い者いじめに愛想が尽きたからです。大里は正義感が強く、弱い人に対し労りの気持ちを強く持っていたということです。大里は病気のため良いタイミングで株式の仲買の仕事を辞めたのですが、その頃から物質的に恵まれているのは僥倖で得たものであるから、子孫が困らない生活を送っている以上は、自分の財産は社会的な方面で有効に使わなければならないと思い2、3万円ずつ住友銀行に預金していました。そのお金が百万円になったのが1933年です。時事新報に掲載されている武藤の「思うまま」に感銘し、しかも、鐘紡を経営していた武藤が、東京で時事新報を経営していることを知り、武藤に百万円を託そうと思ったわけです。
第3節 武藤に寄付を託した動機
  1933年(昭和8年)6月、二度の会見の後、「大里児童育成会」が設立されることとなり、武藤が理事長
を引き受けます。大里は非常に実務感覚がある人で、百万円の基金では、年間の運用が4%で、収入は4万円ぐらいになる、奨学金が30人で、欠食児童への給食については1日2千人が限度だろうと思っていました。ところが実際は2倍強の4、5千人近くの給食が出来ています。まさに武藤の運用方法によるものが大きいのに感服しました。武藤は児童救済という社会事業で、単にお金だけ出して、あとは市に任せきりにするという態度ではなく、鐘紡(東京本店工場)の大きな炊事場で毎日調理をして、温かいものをトラックで迅速に運びます。東京市の調査によると、大里児童育成会の給食の評判が一番高かったということです。武藤は一度仕事を始めると、あくまで完全に仕事をやり遂げようとする人です。大里は「武藤の弱いものに対する同情心といい、仕事についての熱心さは全く感服するほかない。武藤に託して本当に良かった」という気持ちを表しています。大里は、折角寄付しても本当に困っている人が救済されず、お金が他に運用され、寄付を食い物にする人がいるという新聞記事がよく目につき、寄付して、かえって罪人をつくる懸念がありましたが、全く心配はありませんでした。なお大里と武藤の対面は大里の親戚筋である山下卓爾氏が仲介しています。山下は1919年に大日本実業組合連合会が結成された時、繊維関係の事業で武藤と接点があり、実業同志会の活動の中で面識ができたと思われます。

第三章 財団法人大里児童育成会の概要
第1節 設立
  大里児童育成会は1933年(昭和8年)8月23日に設立されています。その趣旨は社会事業で小学児童の
健全な発達に資するということです。東京市内で欠食児童が1万1千人ほどいました。また非常に優秀ながら貧しいため進学できない児童も沢山いました。このような社会の欠陥を絶滅させて小学児童の育成に貢献していこうということです。目的は小学校教育における普及奨励です。具体的な事業は、東京市内の小学校における欠食児童の救済と奨学金で、優秀な児童で困窮のために就学が困難な人に学資を支給するということです。基本財産は百万円と篤志家の寄付金で、運営経費は基本財産から生じる収入や寄付金です。なお武藤は、基金は救済が対象で人件費は総収入の5%以下に抑えていくことを強調しています。役員は理事5名、監事2名、評議員10名の構成です。理事は武藤と大里兵蔵の息子の一太郎の二人を終身理事とし、理事長は武藤です。なお武藤は翌年1934年(昭和9年)3月10日に亡くなりますので、その後は奥さんの千世子さんが常任理事に就いています。そのほか、山下卓爾(1933年3月逝去)、時事新報取締役の川邊喜一郎と千葉三郎が理事についています。千葉はブラジル移民でも活躍し、労働大臣にもなった政治家で1979年(昭和54年)までご存命でした
。監事は会計検査院委員長の河野秀男と貴族院議員の有馬頼寧です。有馬は競馬の有馬記念にもゆかりのある九州久留米の大名の子孫で、武藤と懇意でした。ブラジル移住事業の時も役員に入っています。評議員は内務省の社会局長や東京府の学務関係のトップ、文部省の学務局長、東京市の教育局長、社会局長が役職で入っており、時事新報社員の石井満は会の記録を多く残していました。毎年2回評議員会が開かれ、理事会が随時開かれて運営が行われました。
第2節 基金の運用
  1933年(昭和8年)5月、大里が山下を介して「百万円を手続き、形式にこだわらずに、気の毒な人達に
対して役立つように使ってほしい」と武藤に寄託されます。当初は欠食児童の話にはまだ出ていませんでした。5月18日に武藤が住吉(兵庫)から上京する自動車の中で、側近に「今百万円をもらったら何に使うか」と尋ねたということで、その時はまだ具体化していませんでした。側近の人は以前、河上肇が『貧乏物語』でイギリスの欠食児童救済の話を読んで関心を持っていたことから、「欠食児童の救済に使ったらどうですか」と答えたことで、そのことが多少ヒントになった可能性があると『武藤山治全集』に書かれております。育成会が設立され、武藤は定期預金の利子3千8百円も含め基金とし、アメリカ国債で運用を行います。年間で7万5千円ほどの収入が入るというところがポイントです。1920年代後半、武藤は「急激な円高が進むと日本経済が破綻する」と新平価(実勢レート1ドル2円20銭余り)解禁へ方向転換していましたが、大蔵大臣の井上準之助は1
930年(昭和5年)1月、旧平価(1ドル2円)で金解禁を行います。1929年(昭和4年)10月24日
、ブラック・サーズデー(暗黒の木曜日)でアメリカの株価は大暴落しますが、井上は世界大恐慌に繋がるとは考えていなかったと思います。アメリカに輸出していた生糸価格が大暴落し昭和恐慌になります。1931年(昭和6年)12月に金輸出が再禁止され、1932年(昭和7年)以降、1ドル3円ぐらいになっていきます
。当時アメリカ国債の金利は5%、1ドルが2円から3円へと円安になるので、更に1.5倍に増えるわけです
。当初1日2千人ぐらいと思っていた欠食児童の給食が、5千人ほど賄うことができる話になっていきます。武藤は「旧平価の解禁は、嵐に向って扉を開くようなものだ」と言ったといわれていますが、武藤は円安の中でアメリカの国債を持っていたので運用も上手くいったわけです。経済的な絡みで外債を買うという発想が当時の武藤にあったということです。武藤は国際通で、運用面において経済的に円安になるところでアメリカ国債を買っ
たということです。
第3節 事業活動1(欠食児童の救済)
  武藤は東京市の教育局と連絡を取り、先ず欠食児童状況の調査を行います。そして鐘紡の東京本店工場の炊事
部で給食を作ることにします。石山吉太郎氏が責任者になりましたが、設備費が節約となり、しかも温かくて、美味しいということで、東京府内で1番の給食という折り紙がつけられたということです。東京墨田の本店工場の周囲の荒川区、向島区、城東区、麻布区、足立区、葛飾区、江戸川区の小学校で4千5百人余りの児童に給食が配られました。ほかに上智カトリックセツルメントです。また東京水上尋常学校や鐘淵託児所には現金支給を行っています。1933年(昭和8年)10月16日、朝8時20分に鐘紡本社工場を出発し、荒川区の小学校と上智セツルメントの1千5百人ほどの欠食児童に第一回の配給を行いました。初回の献立は油揚げ、野菜、赤しょうがの混ぜ飯と沢庵です。やがて範囲が広がって10月末には向島区、11月に城東区、麻布区、足立区、12月に入って葛飾区、1月江戸川区の学校へ配給という形で拡大していきます。10月から3月までの120日、延べ約50万人の児童に配給されていきました。大里児童育成会の事業が始まると、東京市は4千人の給食代がうき、財政的にも助かったということです。東京市が配給していた時は、1年間で110日ほどしか配給できず、二日に1回も食べられませんでした。しかし大里児童育成会の事業が始まってからは、247日給食を受けることになりました。しかも東京市の教育局体育課から、府下第一と認定された美味しい給食を食べることができたわけです。また武藤は非常に心遣いもできる人で、今まで給食事業を請け負ってきた民間の食堂等に対して、売上高に応じて心づけを贈ったということです。これは武藤が鐘紡時代、兵庫工場で蒸気機関の冷却に海水を使うのですが、その排熱を利用して無料公衆浴場を作り、地域貢献に資そうとしたことがありました。ところが善意のつもりが周囲の銭湯から苦情が出て、補償金を支払ったという経験があり、「如何なる善行でも、それが経済活動となると、一方で問題も及ぼすことがある」と、『通俗実経済の話』中で戒めを述べております。さて当時、東京市内約400校の小学校の調査で、近隣の食堂などから請負で支給されている給食が151校(約38%)、大里児童育成会支給81校(20%)、パン支給が64校(16%)で、概ね請負、パン支給、現金支給によった状況です。また自分で調理する学校も、一部ありました。また、東京市全体では児童数が約67万人、欠食児童、要給食児童が1万2千人ほどいたということです。その中で給食を受けられた人が約1万人、受けられなかった人が2千5百人です。欠食児童の割合は約2%です。調査した学校は541校で、小学校の総数に近いところだと思います。そのうち要給食の人がいる学校は400校です。なお欠食児童の定義は二人世帯の場合で、月当たり12円50銭以下の収入の場合を対象としております。
第4節 事業活動2(奨学金の給付)
  東京市内の尋常小学校は年齢が12歳ぐらいで卒業していますが、学力、品性、健康は優秀だけれども、一家の事情で上級学校に進級できないものに学資を補給しています。義務教育は尋常小学校までで、その後尋常高等小学校や旧制中等学校に入る人もいましたが、奨学金の条件は3年以内に卒業できる実務学校(工業、農業
、商業)入学です。今の商業高校、工業高校等です。年齢的には13〜14歳ぐらいで、人数は30人です。1期は163人が志願して、口頭試験と家庭調査の結果、33名を合格としました。1934年(昭和9年)4月15日、すでに武藤は亡くなっていますが、学資授与式が時事新報社で行われました。川邉理事が、かつて武藤が鐘紡職工学校で行った訓話を援用し、健康、研究、正直の3点について訓戒したということです。また11月4日には、北鎌倉の武藤別邸に、東京から奨学金を受けている31名の学生が訪問し、千世子さんから「よく勉強して昭和の甚五郎、あるいは日本のエジソンになってほしい」と訓話を受けたということです。その後武藤邸の庭でお弁当を食べたり、円覚寺や鶴岡八幡宮を参拝したということです。なお奨学金を受けた方が、3年後どこの会社等に就職しているかという記録が残っています。新潟鉄工所、三菱重工業、陸軍省、横須賀海軍航空廠
、沖電気、日立、鐘紡、東京電気(現、東芝)、商工省、日本電気(NEC)、日本工学(ニコン)、逓信省関係などで、上級学校に進学した人もいます。
第5節 会計状況
  昭和9年度、1934年4月から翌年3月にかけてを事例で説明します。
  基本財産の百万円の運用は、先ず5分5厘のアメリカ国債を22万ドル分買いました。日本円で約56万3千
円です。1ドルが2円余りの頃です。次に買ったのが6分5厘のアメリカ国債を13万ドル分でした。これが日本円で約38万2千円ほどです。買った時点は1ドルが2円94銭で、円安が進んでいる時です。あとは住友銀行に預けている預金です。結局、収入合計8万6千円余りで、うち公債利子が7万1千円、年利で計算すると7分6厘の運用実績ということです。この時点になると、1ドル3円48銭ぐらいまで円安が進んでいますので、アメリカ国債を買って円安のレートになっていることから、運用実績が良かったということになります。
  支出は人件費が4.6%で、5%以内となっています。欠食児童に対する費用は5万6千円です。年間で延べ120万人ぐらいに給食を支給しており、1食当たり4銭6厘の計算です。当時の1銭が現在の50円ぐらいですから、1食200円ぐらいです。学資は31人に対し3千7百円ですので、1人当たり百円余りで、今の計算で大体50万円強ぐらいです。
  また給食関係では、武藤の一周忌にお菓子を出し、祝日にはのし餅を出したりしています。そして調査費、新聞広告で奨学生を募集する費用や自動車交通関係、事務経費を支出しています。次年度への繰越しは約1万6千円で、光熱費、通信費、文房具代なども細かく書いてあります。繰越金は住友銀行に預けられ、棚卸では白米がどれぐらい残っているとか、沢庵が何樽ぐらいあるかとかなど、きちんと実務的な計算がされています。

おわりに
  戦時中はコメの配給制度の時代になり給食はできなくなります。また戦後は、物価が100倍ぐらい急激に上
がります。昭和初期には1ドル2円でしたが、戦後は1ドル360円になるわけです。戦争が終わるとインフレが100倍ぐらいに進み、現在の感覚で、50億円ぐらいの基金が5千万円ぐらいになってしまいます。当然欠食児童の救済はできなくなり、奨学金もできなくなりました。戦後、大里児童育英会がしばらく残っていたという記録はありますが、事業活動の記録は残っていません。なお兵庫の旧鐘紡病院では、武藤千世子さんの社会貢献事業の一つとして、赤ちゃんが生れた時、写真のアルバムが寄贈されるという話がありましたが、大里児童育英会との関連はよく判りません。また大里家は大地主でもありましたので、戦後、農地改革等の影響を受けたのではないかという話で、末裔の方がどうなっているか、私には判らない状況です。

  以上は、佐賀大学経済学部教授 山本長次氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです.。

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