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    楊 逸氏 「『理解者』という愚かもの」

武藤記念講座(講演会事業)

第1081回武藤記念講座要旨

    2021年9月25日(土)
    於大阪「國民會館 武藤記念ホール」
    日本大学芸術学部教授、作家
    楊 逸氏
 「『理解者』という愚かもの」


セミナー





はじめに
   今日お話しする「理解者」とは私のことを言っています。経済が目覚ましく発展する母国を外から眺め、いずれ中産階級が一定数増加すれば民主国家の仲間入りをするだろうと期待していました。ところがそんな夢は香港の時代革命とコロナ禍を経験し、愚かであったことに気がつきました。共産党の独裁政権がある限り、安心して安全に暮らせる場所など存在しない。このまま何も言わず黙っていれば犯罪に加担することになる。中国の実態を話さなければならないと思い、声を上げるようになりました。この2、3年多くの日本人が日中友好の理解者になっている気がします。日中友好のあり方も考え直したほうがよいと思っています。

第一章 私の体験した中国共産党の非道
第1節 私の出自について
   1949年、中華人民共和国が建国すると、全国で「土地改革運動」が展開され、その後「反右派闘争」が起こりました。私は1964年に中国ハルビンで生まれましたが、中国が徐々に「文化大革命」に入っていく時期でした。母は小学校の教師で、父は大学で漢文を教えていました。一家の収入はたいしたことはありませんでしたが、中国北東部の大都市ハルビンの片隅で平和に暮らしていました。ところが1957年頃から「反右派闘争
」で、知識人に対する粛清が始まり、言論・自由に対する弾圧が行われるようになりました。大学を卒業したばかりの従兄は「太陽だって雲に遮られて暗くなる時がある。人間だから必ず過ちを起こす」と職場の同僚にうっかり話をして右派と見做され、田舎に追いやられました。そうした中、自然災害のため1959年から1962年にかけて大飢饉が起こり、約2,000万人が餓死したと言われています。私はそのような時期に生まれました。その後、この大飢饉時代を乗り越え、少しずつ落ち着いた平凡な暮らしに戻れると多くの中国人が期待していたところ、1966年「文化大革命」が勃発します。私は生まれてから平和な時代を過ごしたことがありません。年が11歳離れた一番上の姉は高校卒業の直前、東北ロシアとの国境へ学生下放されました。姉は年1回ぐらいしか家に戻れず、私は姉との暮らしを覚えていません。
第2節 前触れもなく下放生活へ
   姉が下放されて1年後、1970年1月の春節直前、私の一家5人(両親、兄、2番目の姉、私)は、「農村に行って、再教育を受けろ」と命じられ、ハルビンの北、蘭西県の農村に下放されました。東北部は一番寒い時期でした。ハルビン市教育局が、思想に問題があり、上層部の言うことを聞かない人間だけを選んで田舎に追いやったのです。教育局が仕立てたバス8台と家財道具を運ぶトラックで田舎に送られたのですが、その時恐ろしい体験をしました。私の一家は2台目に乗っていたのですが、当時田舎への道は泥道が凍りついて凸凹で、車1台がやっと通れる狭い道を走っていたため、前のバスが横転し、道が塞がってしまったのです。徹夜の復旧作業の間中、立ち往生したバスの中で5歳半の私は取り残され、とにかく寒くてたまりませんでした。「このまま死ぬんじゃないか」という思いをしました。怪我人や死者がどのくらい出たかは覚えていませんが、横転したバスに乗っていた人たちは、多分そのまま病院に運ばれて、結局下放されずに済んだのではないかと思います。
第3節 下放先での過酷な暮らし
   田舎に着いたのは真夜中だったように思います。着いた先で住まいとして提供されたのは、何年も人が住んでいないような廃屋です。窓とドアは枠しかなく、シベリアからマイナス20度、30度の寒い風が吹き込んで、瞬時に体が凍りつきそうでした。私は「よく生きてこられた」と奇跡のように思うわけです。下放された農村で3年半暮らしました。電気も水道もなく、本当に原始的な生活をしながら、農民達の暮らしの現状を目の当たりにしました。東北ではトウモロコシ、小麦とコーリャンを若干栽培しています。夏はすごく短く、10月を過ぎれば農民たちは収穫が終わり暇になります。することがないので、毎晩賭博をして過します。当時農地は全て国家のもので、農民は給料制です。朝5時から夕方5時まで働き一人当たり1点と計算します。給料は毎月出るのではなく、年1回春節前に計算します。1年間の食べ物は、自分で養殖している鶏や卵、若干分配される食料を食べますが、足りなくなれば人民公社から借りるわけです。借りた点数もメモして年末に清算します。年末、農民が手に出来る現金は、たばこ一箱分ぐらいです。多くの人が赤字となり、村中が悲しい雰囲気になった記憶が残っています。また飼い犬が盗られたとか、食べられたという話ばかり聞きました。私は下放して2年目に小学校に入ります。姉のお下がりの白いスカートをはき、ハルビンから持ってきたクレヨンを鞄の中に入れていたところ、虐められ、クレヨンは奪われました。田舎の子は女男関係なくパンツ一丁で学校に行きますので、それ以降私もパンツ一丁で学校にいくようになりました。3年半で見事に虱が頭から全身に棲みつきました。さて私たち一家が下放されたのは、母方の家が地主だったからです。父方の家は農民でしたが、そんな二人が結婚して、搾取階級の教師と見做されたのです。つまり資本主義の思想を学生に教えると考えられたのです。「田舎で貧農の労働を体験させ、思想改造しなければならない」と共産党の迫害対象になったのです。
第4節 ハルビンへ戻り再び苦労する
   すっかり田舎の子になって3年半、1973年の夏「ハルビンへ戻れ」という命令をもらいました。ある日突然ハルビン教育局のトラックが来て、兄が「ハルビンに帰れる」と喜びながら学校へ私を呼びに来ました。その日の夜中、ハルビンに戻りましたが、元の家はありません。今度は高校の教室に放り込まれました。3階の端です。もちろん水道や台所はありません。父が泥レンガでストーブを作り、石炭を燃やしてご飯を作りました。毎朝、学生が来る前までに食事を済ませなければなりませんので、両親は朝4時、5時には火を起こし、ご飯を作るのです。ところが煙を出すパイプがなく、家中に煙が充満し寝ていられません。冬どんなに寒くても外に脱出しました。母親は煙で涙を流しながらご飯を作っていました。また夕方は学生が帰った後でご飯を作るという生活が約2年続きました。とうとう両親は「これは住むとこじゃない」と訴え、学校内の積み木工場の端の部屋に住むことになりました。1月、春節が迫って時間がなかったので、家財道具などの多くは教室に残したまま移動しました。ところが、春節の3日目、学校が火事になったのです。夜中、L字型建物の反対側の隅の部屋でテレビが爆発し火事が起きました。父親と兄は火を消すため手伝いにいきましたが、その時、教室に残していた我が家の荷物を運びだせばよかったのですが、いつの間にか火が回り、我が家の荷物は全部燃えてしまいました。ハルビンは寒暖の差が激しいので、衣類などは冬物、春物、夏物と別れています。ところが火事で全て燃えてなくなってしまい、母が泣き出したことを鮮明に覚えています。新しく買い揃えたいのですが、当時は定量供給の時代で、布を買うのも、靴を買うのもチケットが必要で、本当に辛い時代でした。その後、再び兄は別の農村へ学生下放されました。そしてお正月、家に戻り血を吐きます。肺結核でした。また1976年、23歳になった一番上の姉が下放先で事故に遭い亡くなりました。「私たちだけが何故不幸になるのか。何故酷い目にあうのか」と考えますが、当時は「搾取階級出身だから仕方がない」と納得していました。母方のお爺さんや叔父さんは家を全部没収され、母が12歳の時、蒋介石について台湾に逃げました。生まれつきの罪、身に覚えのない罪を着せられ、「自分は搾取階級の家に生まれて恥ずかしい。共産党が悪いのではなく、お爺ちゃんや親が悪い」と教育を受けて、これまで納得していたことが悲しくなります。

第二章 日本で母国が良くなることを願う
第1節 とにかく中国から出て行きたい
   母方の叔父が台湾に逃れた後、1950年代に横浜に移り住んで華僑になります。1980年代、私が中学、高校ぐらいになって連絡がとれるようになり、写真などを送ってくれるようになりました。カラー写真を見たのは初めてでした。美男、美女、綺麗な服を見て非常に衝撃でした。母親の出身問題で色々と迫害されてきましたが、日本に住んでいた母親の親戚のおかげで、私は日本に留学できることになりました。それはすごいラッキーでした。私は23歳以降の人生を大きく変えることができました。日本では初めてのことばかりでした。海も初めて、コーラも初めて、カレーライスも牛丼も全部初めての経験でした。自販機の音楽を聞くのが楽しくて、何でこんなに素晴らしい国があるのかと思いました。日本に来てすぐにアルバイトを始めました。工場で1日15時間働いて9,800円の給料をもらいました。両親の給料の数カ月分以上の大金です。留学費用はアルバイトしながら払いました。日本語学校で「授業料の安い大学に行きたい」と先生に尋ねたところ、「お茶の水女子大に行ったらどうか」と勧められ入学しました。アルバイトは大変でしたが、しかし楽しい思い出ばかりです。
第2節 天安門事件で意気消沈
   私が来日して2年目、1989年に「天安門事件」が起こりました。日本に来る前の中国は、抑圧的な環境で
、灰色一色の記憶しかありません。当時、日本はカラフルで、素晴らしい社会でした。「中国も日本のようになって欲しい」という気持ちで、居ても立っても居られませんでした。1989年5月27日、中国の民主化運動を応援するため北京に戻りました。空港では北京市民の熱気を肌で感じました。「町に軍隊が入ってくる」という噂を聞きつけた市民達が、バリケードを築き、通行検査で乗客の素性を確かめていました。当時私が乗った飛行機はユナイテッド航空で、夜の10時頃北京に到着し、空港を出るのは11時を回っていましたが、「軍隊を北京に入れない」という市民の情熱を見て、バスの中で目がウルウルしました。「これで国が変わるかもしれない」という期待感がありました。私は色々な運動に参加し、募金活動を行いました。しかし6月4日、「民主化
」を求めて天安門広場に集まった市民や学生に向かって軍隊が発砲し、多数の死傷者が出ました。国の変革のささやかな希望は一瞬にして砕け散りました。6月5日再び上京し、武力鎮圧された後の恐怖を身をもって体験しました。のちに日本に戻り、それから数年間、意気消沈したままでした。
第3節 経済発展した中国への違和感
   そうした中で、北京オリンピックの開催、世界貿易機関(WTO)の加盟、香港の返還と立て続けに起こり、日本のテレビや欧米の学者は「中国も中産階級が一定数増えれば、必ず民主化するだろう」と言いました。それを聞いて希望が見えるような気がしました。本当に信じたかった。「自分の国が良くなって欲しい」と思いました。そんな時、父親が日本に遊びに来て「中国は十億人いるのだから、その人たちにお腹いっぱい食べさせることは簡単ではない」と言います。これまでずっと迫害されてきた父親が言うので、私は「理解し、黙って見守ったほうが良い」と考えたのです。今振り返ると私はずっと理解者側に立っている人間でした。「愚かもの」だったと思います。香港が返還され、オリンピックが開催され、上海万博も開催され、中国はだんだん経済発展して
、毎年のGDPは二桁の成長です。日本も欧米も中国に投資して、「中国はお金持ちが増えた」というニュースも見ました。銀座に行くと、中国人観光客の買い物ぶりは物凄く、中国は強くなったという感じが見受けられ、これで民主化すると期待しました。ところが逆に、政治的な締め付けはどんどん厳しくなり、しかも中国人観光客のお金の使い方は、自分と同じ国の人間には見えないほど横柄で違和感を覚えました。また中国留学生は買い物と恋愛ぐらいしか興味がないようです。私の時代の留学生は貪欲に勉強し、目がキラキラしていました。違和感いっぱいです。そんな中で中国の人権や臓器移植の問題をニュースで聞くと、自分が消化できない部分が凄くありました。

第三章 「『理解者』という愚かもの」に気付く
第1節 政府に信頼関係がない中国
   2019年、香港で時代革命が起こりました。中国の全人代は、香港での国家分裂や政府転覆などの活動を禁ずる「国家安全法制」を打ち出し、香港からの犯人の引き渡しができるようにしました。中国は民主化するどころか、民主化以前に戻っています。香港に対する締め付けがどんどん厳しくなり、香港が大陸化されていくのが凄く分かりました。しかも香港の時代革命は、学生や市民達が町に出て抗議する中で、やがて北京語しか喋れない横柄な人間が香港警察の服を着て、市民を殴る蹴るの暴力をふるい、香港の民主化リーダーは逮捕され取り調べを受けます。中国はこれまで何のために経済発展してきたのか。中産階級の人が半分ぐらいになっても全然民主化されません。逆に中国のお金持ちは、毛沢東時代の軍服を着て、毛沢東ゆかりの革命聖地を巡るツアーをしたりして、「革命」をアピールするのです。全く逆戻りです。去年コロナ感染拡大で感染の疑いがある人達の家を封鎖しました。心臓病を患っている人、食料品のストックがない人の事情も考えず、暴力的に封鎖するやりかたを見ていると、五歳半の時に下放された自身の体験を思い出し、あの頃とまったく変わってないと思いました
。3.11の東日本大震災で岩手のボランティア活動に参加しました。被災者は家がなくなり、行方不明の親戚があったにも関わらず、おにぎりを配る列に黙って並ぶ。その情景をみて「日本人は何故このようなことができるのか」と考えました。四川省の大震災では皆が群がり奪い合う。あの野蛮な行動と日本を対照的に考える時、国民と政府との信頼関係を考えました。「黙って並んでいれば、必ずおにぎりを運んでくれるだろう」と被災者は信じているわけです。このような国民と政府の間の信頼関係が中国にはありません。中国政府は「あなたが死んでも全然構わないよ」という考え方です。五歳半の子を寒い中に放り出しても構わないという考え方です。そんな政府を信じる人は死ぬしかありません。中国は習近平や江沢民といったリーダーの問題ではなく、政治制度が問題なのです。政府は国民から搾取して、奴隷のように働かせて、利益は全部自分のものにすることを徹底的に行うわけです。それに気づいて、自分が可哀そうになり、私が声を上げなければ皆分からないと思ったのです

第2節 中国の腐敗文化
   これまでに中国は「アフリカなどの国際支援を積極的にやる」と大金を出していました。中国には貧しい人が沢山いるのに、何故支援するのか理解は出来ませんでした。しかし実は支援金の大部分はキックバックされて中国共産党の幹部達の海外資産になることが分かりました。フランスで豪邸を買う。東京で億ションを買う。そのお金は全部そこから出ているのです。「中国の腐敗文化」です。それが今他国に浸透しています。昨年、WHOは、武漢のコロナウィルスがどこから来たのか現地調査するはずでしたが、武漢入りせず、北京で行われた説明会に参加したWHOの幹部は、会議中ずっと隣の美女の背中をさすっていました。その様子を撮った動画がネットに流出したのです。中国の買収方法です。お金だけではなく、女子を使うのです。共産国家は女を絶対に使わないと信じていましたが間違いでした。もう一つ中国の腐敗経験を学んだという笑い話のような本当の話を紹介します。アフリカのある国の代表団がマレーシアを訪問し、国土開発担当大臣から接待を受けます。大臣が「こんな立派な道をつくり、立派な建物を建てた」と説明した後、大臣の立派な邸宅に招待されます。代表団は「何故こんな立派な邸宅に住めるのですか」と聞きますと、大臣は代表団をベランダに案内して、「この道路が見えますか」と言います。代表団は立派な道路を褒めるのですが、大臣は「この工事費の10%は自宅に使った」と話すのです。一年後、今度はマレーシアの代表団がアフリカの国を訪問することになり、当時団長だった大臣が接待します。いろいろ案内したあと大臣の自宅に招待します。代表団が大臣の家に行くと、立派で、金ピカの大邸宅で、オリンピックサイズのプールもある。代表団が「何故あなたは豪邸に住めるのか」と聞きますと、大臣はベランダに案内し「目の前の道路は見えますか」と聞くわけです。代表団は「どこに道路がありますか?見た限り何もないじゃないですか」と言うわけです。大臣は「道路の工事費100%がここにある」と話すのです。これは中国腐敗からの経験です。日本でこういうことを堂々とする人はいないと思いますが、中国と関係を持つ人は絶対いると思います。
第3節 中国への妥協は禁物
   コロナの前、空港で「中国観光客熱烈歓迎」の垂れ幕を持って、中国人観光客を迎える場面を見て、私は「それで良いのか」と思いました。中国の外交は威圧的です。「俺の言うことを聞かないと制裁するぞ」「オーストラリアのワインやオージービーフは買わないぞ」「台湾のパイナップルは買わないぞ。留学生は行かせないぞ」と威圧的な外交で相手を困らせ、嫌がらせをします。そんな中、日本の一部で「中国なしでは日本経済はどうなるのか」「世界の平和はどうなるのか」と中国と妥協するように言う人がいます。このような歪な平和を保つため、妥協してよいのでしょうか。私は五歳半で下放されましたが、皆さん方も同じ目に合うかもしれません。私は去年「我が敵『習近平』」という本を出版しました。すぐに、ハルビンに住んでいる家族や親戚が中国の公安局から呼び出しを受けました。私は本を出す前から覚悟を決め、ウィーチャット(メッセンジャーアプリ)を削除し、中国との連絡で使わなくしました。またこのような話は一切家族に話しません。本の情報源も一切言いません
。妹からすぐ帰ってくるように言われましたが、もちろん帰りません。脳梗塞で3年寝たきりの父に、今年のお正月の挨拶と子供の動画を送りましたが見事に拒否されました。みんな怖くて一切拒否したわけです。一方日本でも恐喝、無言電話があります。私は基本的に在日中国文化人グループとの接点はありませんが、そのグループと接点のある友人から「何故そんな本を書いたの」と色々聞かれ、批判されました。また出版関係のインタビューや原稿もいくつかキャンセルされました。中国の脅威は日本にいても安全ではありません。言論の自由があってないようなものです。そのようなことは信じていませんでしたが、本当に経験すると、その怖さが日々忍び寄ってくることを実感します。また「『言葉が殺される国』で起きている残酷な真実」という本では、文学を切り口で対談しました。この本の中で紹介したのは、莫言の「酒国」という作品です。それを読めば、部外者を自分の共犯にする手口や、接待の裏にある中国の接待文化が分かると思います。

おわりに
   日本と中国は近いので、友好であってほしいと思いますが、原則を守った上での友好です。一方的に威圧されて友好を妥協するのは本当の友好ではないと思います。原則のない理解者は止めた方が良いと思います。中国との付き合い方はもう一度考え直した方が良いと思います。

質疑応答
「質問1」

  習政権と戦うと決意した意志の一端をお聞きしたい。

「回答1」

   中国は中産階級が一定数を超えれば民主化するというのは幻想です。そういう理論は信じない方が良い。本質的な部分を見てほしい。政治制度がすごく大事で、日本は、自由、民主主義、人権が中国の浸透により失われつつあるように思います。私が本を出版した後、インタビューや他の本の出版がキャンセルになったという事は、言論の自由がないということです。理解者と言って嘘を言う、あるいは黙っていればよいというとそうではない
。失うものは大きいかもしれませんが、覚悟して、私が小さい頃から繰り返されている中国の実情に声を上げるということです。民主国家が中国に汚染されないようにという思いで、本当に声を上げています。


「質問2」

  中国の不動産会社、恒大集団が破産すれば世界経済や日本経済にどのような影響があると思われますか。

「回答2」

   経済への影響はよくわかりません。しかし実際、水曜日に日本の株式は600円ぐらい下がりました。あれは恒大の影響があると思います。日本の年金基金も恒大に投資していたという話です。当初、中国でアパートを買った人が、頭金を払い、ローンが残る。気の毒だと他人事のように思っていましたが、日本の年金も投資していたということは、私たちも被害者だということで、皆さん方も絶対に影響を受けるわけです。


「質問3」

  中国の文学者、作家の現況について、@現在政権を批判している中国の作家、A日本で翻訳、出版されている中国作家の主な作品、B現在、中国でベストセラーの文学作品を教えてください。

「回答3」

   中国の体制を批判したい作家は絶対にいると思いますが、政府は出版させません。批判を口に出せば、多分刑務所に入れられると思います。一方批判という立場をとって、実は政権の味方をしている政権の理解者もいます
。日本語に翻訳された中国の作品では、大阪在住の劉燕子(リュウ・エンシ)という翻訳家がいます。7月、共産党成立100周年ということで、如何に共産党が怖いかという対談が本になりました。また私が選ぶ文学者は6人います。そのうち中国人は3人で、魯迅、莫言、王小波です。王小波さんは90年代に若くして亡くなりましたが、すごく好きな作家です。彼の初期の三部作の中の1冊に「黄金時代」という日本語に翻訳された本があります。中国の60年代の学生下放がテーマで、彼自身も雲南省に下放され、その経験を投影して書かれたものです。いかに共産主義的な洗脳をするのかということが分かります。是非お勧めします。近年、中国のリアリズムを出版すると怖いことになるので、ファンタジーやSF小説が流行っています。その中で日本語に翻訳された「三体」(劉慈欣著)という本は、日本でも結構売れているような気がします。


   以上は、日本大学芸術学部教授、作家 楊逸氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです.。

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