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    平野 恭平氏 『「武藤山治の経営革新」−科学的操業法から精神的操業法へ−』

武藤記念講座(講演会事業)

第1086回武藤記念講座要旨

    2022年3月5日(土)
    於大阪「國民會館 武藤記念ホール」
    神戸大学大学院経営学研究科准教授
    平野 恭平 氏
 『「武藤山治の経営革新」−科学的操業法から精神的操業法へ−』


セミナー





はじめに
   私の専門は日本経営史・日本経済史で、これまで繊維産業を中心に研究をしてきました。主に1930年代以降の日本の化学繊維工業の歴史を研究してきましたが、繊維産業は幅が広いので綿紡績や毛織物の分野も研究しております。本日のテーマ「武藤山治の経営革新」は私の師匠であります桑原哲也先生が長らくテーマとして取り組んでおり、私は先生がご存命の時から一緒に仕事をしており、今もその研究の一部を引き継いでおります。
第一章 武藤山治とは
第1節 日本的経営の祖
   武藤山治をインターネットで検索しますと「日本的経営」とか「経営家族主義」という関連キーワードが出てきます。温情主義とか、経営家族主義とか、労使協調主義の経営を行った人物であり、戦後の日本的経営が非常に強さを発揮したことと共通するところがあります。彼は紡績業に限らず、日本企業全般の経営に非常に重みを持ったことを考えますと「日本的経営の祖」あるいは戦後の「日本的経営の原型」となるものを作ったということで評価される人物です。学会では武藤山治の経営家族主義や労使協調主義といった経営理念や経営イデオロギーを念頭に置いた研究は以前からありました。また労務管理で非常に先進的な役割を果たしましたので、労務管理史を研究する分野でも注目されてきました。さらに近年は、彼が紡績企業で優れた生産システムを作り出すことを考えていたことで、日本的生産システムとして名高いトヨタ生産方式につながるのではないかという見解もあります。本日は、武藤山治の経営革新について鐘紡の創業期あたりを中心にご紹介します。武藤山治のやったことは、単に当時の労働者が可哀そうだから温情をかけたものではありません。そういう単純な理由ではなく、経営的な狙いがあったということを中心にご説明していきたいと思います。
第2節 武藤山治の略歴
   習近平は、歴史決議の中でマルクス主義という言葉を40回以上使っております。マルクス主義で成長が起こるとはあり得ないことです。だからこそ、ケ小平は改革開放に向かったのです。今のままでは時代錯誤で、世界の現実を見ていないと思います。結局、革命党から執政党になり切れていないということです。
   武藤山治が鐘紡に入社する前の略歴ですが、彼は岐阜県安八郡に生まれ、その後慶應に入学し、そこで福澤の精神を学びます。その後アメリカに留学し、この時におそらく海外の優れた会社や職場、その他諸々の事を感じて帰ったのだろうと思います。この海外経験がその後の彼の人生に非常に意味を持ちます。帰国後武藤家の養子となり、新聞広告取扱業、新聞記者そして貿易商社を経て、三井銀行に入ります。この辺りから実業家武藤山治が始動していくことになります。特に慶應の先輩であった中上川彦次郎との出会いは、彼が紡績業の経営者としての思考を固めていく上で非常に重要な意味を持ったという事ができます。1894年に鐘紡に入社後すぐに兵庫支店の支配人に就任します。丁度この時期に、鐘紡は東京に工場がありましたが、第二工場として兵庫支店を作っているところでした。そこの支配人に若き武藤山治を充てます。1896年、兵庫工場が操業を開始しますと、この辺から鐘紡にいろいろな問題が生じるようになります。その問題解決の先頭に立ったのが支配人の武藤山治です。特に1902年、九州の小さな紡績会社の5工場を一気に取得することになりますが、この辺りから鐘紡の綿糸の品質不良が多発するようになり、大きな問題になっていきます。1908年には専務取締役に就任しますが、この辺りの時期を中心にご紹介したいと思います。

第二章 武藤山治の経営革新
第1節 問題の所在
   武藤山治はいろんな問題に直面し、その解決策を考えていきますが、そこで作られた経営管理が、日本の紡績業界での鐘紡の競争優位を築くことになります。その出発点を中心に彼の経営の先進性、革新性に迫っていきたいと思います。
   創立期の鐘紡の略史については、1887年に東京綿商社として創業、翌年鐘淵紡績と名称を変更し、その後第二工場として兵庫工場を作ることになります。自分達で作った工場は良かったのですが、1900年頃から1902年頃にかけて地方の不振に陥った紡績工場を買収していきます。この時期日本の紡績業界は日清、日露の戦争のたびに不況が来て、弱小紡績企業の乱立が足枷となっていました。武藤山治は「紡績大合同論」を持論として持っており、彼は弱小紡績を集約し、スケールメリットを発揮することで業界自体の構造をよい方向にもっていくため、地方の紡績会社を買収していきます。これは中上川彦次郎の考え方も影響しています。鐘紡は1902年時点で、東京から久留米まで10工場、当時の国内シェアの17パーセントにあたる生産能力を持つ企業にまで成長します。しかし工場が新しく加わるたびに綿糸の品質不良が発生することが大きな問題でした。この時期、日本の紡績業の機械はほとんどイギリスから買っており、原料も中国やインドから持ってきています。機械も原料もほぼ同じなのに同じ品質の糸が出てこない。つまり工場毎の作業がバラバラであったということです。勿論統一的なマニュアルもありません。ベテランの人達が決めたやり方に若い労働者は従わざるを得ないようになっており、工場毎にバラツキが出たわけです。鐘紡が直面した問題は、工場毎に品質が異なるため、工場別毎に値段が付いてしまうため、鐘紡ブランドで綿糸を売る事ができず非常に困りました。
   彼は工場毎の品質のバラツキを克服するため徹底的に管理することに行きつきます。各工場の責任者との往復書簡が「人事回章」として沢山残っています。寄宿女工の問題、生産の問題、技術の問題、機械の問題、原料の問題などの調査報告や指示など多岐にわたっています。彼が何を考え、どんな指示をして、どんな問題を解決しようとしたのか、解決の過程でどんな問題があり、苦労があったのか、ということを検証出来ます。そして品質不良の原因が、労働者の作業に由来しており、労働者が手順を守らない、やる気がない、投げやりになっている、という働く人の気持ちに関わるもので、作業自体が定められていないことに気づいていきます。彼は部下に調査させるだけでなく自ら工場を見て回ります。そして技術者や監督者が工場内をウロウロしているだけで有効な指示を出せていない。このような人達が作業現場を管理、監督するため、命令が徹底されず、労働者の規律がなくなり、作業現場が非常に混乱する。作業の不注意や手抜き、手順違反があたり前となるという問題に行きつきます。また紡績工場は多くの工程を経て最終的に綿糸が出来ますが、一つの工程に全ての問題の諸悪の根源があるのではなく、全ての工程が上手く機能することで製品が出来る。工程間の前後の関係や工程間の流れが大事だというところにも注目し、一貫して品質を作り込んでいくことを考えます。これは非常に先進的な考え方です。大工場を一つの機械のように規則正しく、しかも早いスピードで連続的に運転できるようにするため、工程間の分業、作業の設定をしっかり考え、管理することを意識していきます。彼の考えと取り組みは他の紡績企業に広がり、後には豊田紡織の人達が戦後トヨタ自動車に入り、思想的な流れが続いているのではないかともいわれています。彼の経営が生産システムでも注目される理由は、まさしく現代のトヨタ生産方式に通じる考え方だからかもしれません。
   武藤山治の思想は、先ず品質不良の原因となる糸切れを減少させる。これができると生産性が飛躍的に向上し安く生産できる。これが鐘紡の競争力となる。彼が目指したのは、働く人の技術を生産現場で最大限に引き出すことでした。労働者を適切に管理し、協力的な態度を引き出す。その努力を行う仕組みを組織的に作り出すことによって、鐘紡の競争力を高め、市場競争に打ち勝つというのが彼の狙いでした。これが「精神的操業法」というところに行き着くことになります。
第2節 「科学的操業法」の確立
   武藤山治の「科学的操業法」の取り組みは1902年頃です。先ず監督者層の工頭・什長・伍長を主席工にまとめ無駄な管理組織の再建に着手します。これまでの組織は、官営の紡績工場の組織をそのまま移転したという説や、イギリスの組織をそのまま採用したという説がありますが、彼は階層が多すぎてコントロールできず、無駄な人が出る原因になっていると考えました。彼は作業現場で働く人達に正しく指示、指導できない監督者を解雇し、自分の考えを実践してくれる人達を育て、抜擢することで、組織と監督者のマインドを変え、会社を作り変えようと進んでいきます。さらにこの時期に監督者から労働者までの職務分析を始めています。この作業に何人必要なのか、作業場の各階層がどんな役割を果たしたらいいのか、権限と責任の関係を明確にし、合理的な作業と分業関係を作り出しました。色んな工場を買収しますが、それらの工場がバラバラのやり方でやっている。それでは品質のバラツキを解消することができない。彼は作業の内容や分業を明確にした上で、作業方法を根底から変えるため、労働者の技能教育を始めます。1902年、鐘紡は男性の保全工を念頭に幼年工員養成課程を開始、その後鐘紡職工学校に発展していきます。また新入の若年女性労働者を念頭に4週間〜6週間の座学と実習を組合せた新入工員養成プログラムを作りました。これにより成果が着実に出てきていました。
   彼の評価が高いのは、分業の成果を上げるため第2弾の取り組みを進めたからです。彼は1908年頃から「科学的管理法」に類似したものを取り入れます。アメリカの生産技師フレデリック・テイラーの「作業現場は科学的な動作研究や時間研究の見地に基づいて、作業はこうすべきだ、分業はこうすべきだと定め、合理的な組織や分業、賃金を決めていく」という科学的管理法は、全米から世界に広がり、経営学で高い評価を得ていました。ほぼ同じ時期に彼は「問題の原因が何処にあるか」ということを科学的、数字的に原因を究明し、それを克服するために作業を徹底的に分解し、作業の内容を標準化していく。労働者はその作業手順に従って部分最適を目指していくことを先進的に行いました。テイラーの科学的管理法が日本に紹介されるのは1911年以降です。武藤山治の場合はそれより早い時期に取り組みを始めていました。製品出荷で出た品質の問題はどこに原因があるのか、当該工程なのか前工程なのか、工程間を意識して検討していく。さらに運転に問題があるのか、機械のメンテナンスに問題があるのか、原因を丁寧に読み解き、問題解決に当たっていく。分秒単位で細かい作業研究をしていることが資料に残っています。
   兵庫工場で試行錯誤しながら標準動作を作り出すプロセスがあります。テイラーの場合は科学的管理法を実践していく中で効率化が起こってきます。彼の狙いの本質は労使対立の解消で、労働者が一生懸命やれば報われる、会社も報われる、だから皆で頑張っていきましょう、ということを目指していました。誰もが納得できる科学的、合理的、客観的に決めていく手続きで、真面目に働く労働者が報われるという労働意欲を喚起する仕組みを作ることを考えました。武藤山治とテイラーは、日本とアメリカという離れたところで起こっている現象ですが、近代工場の現場で管理する時に直面した問題は同じでした。その中で彼らは科学的管理法に行きつき、それは近代工場を管理する上で一番大きな前進でした。それを実現した武藤山治の先進性は非常に評価されるべきと考えます。1911年にテイラーの本が日本で紹介された時、彼は「新しい方法とは認められない」と言っています。その後彼は「科学的操業法」という形で体系化し、業界のスタンダードになっていくのです。
第3節 「精神的操業法」へ進化
   武藤山治を更に評価しても良い所があります。彼は科学的管理法で何をするのか決め、働く人がその通り働くように仕向けることは必要であるが、それだけで品質不良の問題は解決できないと考えました。品質不良の原因は労働者のやる気、勤労意欲の問題と考え「精神的操業法」に進んでいきますが、彼の労働者観も注目に値するところがあります。「現場の作業は労働者が全て知っている。綿糸は労働者の手によって作られるのであり、機械が糸を作るのではない。工場の生産における価値の主役は労働者である」と考えています。非常に先進的で現代でも通用すると思います。そして技能の発揮は労働者のやる気に左右される。彼は「労働者は機械の部品のように容易に交換できる存在ではなく、自尊心とか、責任感をもつ能動的、主体的存在である」と見ようとしました。工場を機械のように正確に動かしたいけれども、これを構成する労働者はあくまでも人と見ました。当時、紡績業界で鐘紡だけが特異な動きをして、紡績連合会に加わらなかったのは、こういう考え方を持っていたからです。やや後に『女工哀史』という本が紡績業に非常にネガティブなことを書いています。我々の戦前の紡績業の労働者観はこの本によって大分刷り込まれています。唯一例外的に書かれているのは鐘紡で「比較的ましである」と書かれています。
   当時の紡績工場は長時間労働、低賃金、寄宿舎生活なども非常に劣悪で健康被害も出ていました。定着率が悪く逃げ出す人もいました。彼は鐘紡の兵庫工場でいろいろな施策を展開しています。寄宿舎、食堂、浴場を改善し医療体制を整えました。さらに娯楽もしっかりと提供しています。働く人のほとんどが家計補助のために出稼ぎできている若年の女性で、普通教育も受けておらず、料理や裁縫、礼儀作法も身につけていません。この人達は短ければ3年、長くても5、6年で国元に帰り結婚します。そこで鐘紡は読み、書き、そろばん的なことや礼儀作法、茶道、華道、料理、裁縫などを身に着けさせることをやりました。普通教育も仕事の理解を高める上で大事な意味を持っていました。鐘紡では、現場の労働者が色んな作業の改善や提案できる「注意箱」という制度がありました。そういう提案をする上でも教育的な素養が必要です。そういう自発的な労働者を育て、ボトムアップの部分を育てていきました。またドイツのクルップ社を見習い日本初の「共済組合」を作り労働者達を助ける、日本初の社内報『兵庫の汽笛』『鐘紡の汽笛』を発行して、会社からの一方的なメッセージだけではなく、労働者の提案もそこで汲み上げていくという双方向的なことも見られました。職工係という女性労働者の管理を専門に行う人達を置き、慶応出身者など非常に優れた人材を配置してマネジメントをしようとしました。働いている人達からは、非常に画期的なこととして好意的に受け止められました。こういう仕組みを作ることで人材の調達もし易くなります。
   鐘紡の兵庫工場は新鋭工場で寄宿舎、食堂など福利増進の優れた設備を有し、明治期の紡績業のモデル工場と言われました。その後他の紡績会社も同じような事をやるようになり、日本の紡績工場のスタンダードをつくったと言っても過言ではありません。鐘紡はもの作りの組織である工場に、生活共同体の機能を内包させ、従業員がそこに住み、暮らしができあがる。それを快適で豊かなものにしていくことによってコミットメントを高めることを行いました。「職工優遇策」の成果だけではありませんが生産性が向上し、1900年頃の兵庫工場の労働者一人が1梱を作るのに要した時間は355時間でしたが、この施策が軌道に乗った1912年頃には209時間まで減少しました。ほぼ同じ機械を使って、これだけ改善できたのは、作業の分業体制や勤労意欲が高まった成果でもあると言えます。
   この時期、日本の紡績業は諸外国からソーシャル・ダンピングといわれ、女性を犠牲にして低賃金によって競争力を発揮していると非難されてきました。確かに女性労働者の賃金はヨーロッパに比べると安かったわけですが、日本よりも先に紡績業が勃興しかつ原料を自給できたインドや、日本より工業化が少し遅れたものの大きな市場を持ち綿花も自給できる中国の労働者のコストは日本よりはるかに安かったわけです。しかし国際市場で競争力を発揮したのは日本の糸でした。それは非常に優れた作業手順や分業体制を作り、勤労意欲を高める労務管理を行った日本のマネジメントの力ではないのでしょうか。
   1928年、イギリスにあった万国綿紡織連合会のピアース書記長は、日本や中国の実態を調べた報告書の中で「労務費はヨーロッパに比べると安いが、生産性も凄い」「一人当り平均織機持合数はヨーロッパで3台、イギリスで4台、それに対して日本は5.5台も受持つことが出来ている。これは働く人の意欲の問題であり、技能が高められた成果であろう」と書いています。さらに彼が注目したのは「女性労働者達は読み書きができ、ヨーロッパの労働者よりも一般的な教育水準が高く、生活も近代的で快適なものである」といことです。つまり生活環境の改善が大きく進んでいた証ではないかと思います。武藤山治の経営革新は、単に利益を上げるというだけではなく、労働者にも安心して働くことのできる環境を整備した。労働者に対する接し方にも細かな配慮をして、物的、精神的な欲求を充足することで、この会社のために働こうという勤労意欲を引き出していった。それが会社への忠誠心やコミットメントを高め、会社の生産性を高めていった。それが「精神的操業法」に結実し、後に「経営家族主義」という表現で使われていくようにもなったと思います。
   さて武藤さんはお膝元の兵庫工場で品質のバラツキ問題の試行錯誤を行い、最も良い作業方式、分業体制を考え各地の工場に移転していきます。兵庫工場で育成した管理者や労働者を各工場に配置します。マニュアル・べ―スだけではなく、人を通じて管理を移転します。各工場から兵庫工場に労働者を集め、標準動作を教え込み、再教育もやりました。ベテランクラスを意図的に選び訓練し、その人達が帰って指導するようにしました。また労働者から生まれてくるボトムアップの意見を非常に上手く取り入れ、中間管理者の横の繋がりとして独自の研究会を立ち上げ、報告をしたり、討論したりする風土を作りました。トップダウンとボトムアップが上手く組み合わさり、強さを発揮した面が見られます。理想的な組織になっていたと言えます。なお彼の育てた学卒の管理者は労務を中心とする事務系の人が多かったように思います。実は事務系の人が工場長として派遣されるのも鐘紡の特徴です。工場は確かに生産を担う重要な拠点ではありますが、広い視野で管理しないといけないという思想で事務系の方を積極的に評価していたと見て取れます。こうした取り組みがあって戦前の日本の労務管理が出来上がり、それが日本企業全般の一つの特徴として広がっていったと言えます。

第三章 経営家族主義
第1節 農村社会との信頼関係の構築
   もう一つ大事なことは「職工優遇策」は必ずしも労働者だけに向けた問題ではなく、その背後にある農村社会に対して向けられたものでもありました。働きに来る人達は、限られた時期だけ来る出稼ぎ労働者で、農村に帰れば結婚して農村社会を支える存在になっていきます。紡績工場に働きに来てもらう人達を確保しながらも、農村社会の期待を裏切らないよう信頼関係を作っていくことにも取り組んでいます。
   その時に重要な役割を果たしたのが募集人の存在です。どの地域に、どれだけの人が住んでいて、どのような家族構成で、どこの家が子供を工場に働きに行かせても良いと思っているのか、という情報は工場では殆どわかりません。その地域の事情に精通した人達にリクルートをお願いしないといけません。そういう募集人の存在が、農村の余剰労働力を必要としている都市の産業部門に結び付けるという、日本の工業化に果たした役割は極めて大きいものがあります。この人達がいなければ、おそらく繊維産業は成り立たなかったと言ってもよいぐらいの貢献がありました。ただし、その人達の一部には手数料を稼ぐために悪い事をした人達もおり、それが『女工哀史』で過剰に強調され、ネガティブな印象になっています。実はそこが農村社会との信頼関係を作る上で大事なポイントでした。武藤山治は「各社とも人手を確保したいので、募集人に手数料を多く払い、とにかく連れて来くる。帰省するときだけ豪華な服を着せ、宣伝させるのは本質的ではないだろう」と当時の募集人募集の在り方に批判的でした。後々、彼は募集人募集を廃止して自分達の社員を派遣し、募集することに切り替えます。
   ただし職工優遇策を展開していた時期は、まだ募集人に頼らないといけない時期で、紡績工場で働いた人達が非常にネガティブな情報、風聞を流す可能性があったので、それを少し是正しようとした気配が見られます。絵葉書や写真を利用して農村社会に働きかけることを行なっています。信頼して働きに来てくださいと農村社会に訴え、実際にこの会社で働いてよかったという信頼関係を築く。その信頼関係が一旦築かれると、その後も農村から鐘紡なら働いてもよいという評判を作ることをやっていました。鐘紡の1905年頃の回章に「労働者の郷里と工場に勤めている女性労働者たちの通信を積極的にしなさい」という文書があります。当時は工場の中の厳しい状況を手紙で赤裸々に語られてしまうと、農村では警戒して二度とあの会社には行かさない方が良いとなってしまうので、通信はあまりさせないというのが当たり前でした。しかし鐘紡はその逆でどんどん奨励しました。絵葉書を配布し、手紙の代筆をする人達を配置しています。とにかく鐘紡で働いたら、適正に評価してくれるということを、働いている娘の口から農村の親元に伝えてもらう。今まで募集人に募集を頼んでいましたが、それを使わず自発的に勤めたいと言ってくる人達が増えてきたという意見が書かれています。1909年の毎月の平均代書数は一つの工場で大体2,000通とも言われています。
   最初の絵葉書には通信欄の上の部分に工場の写真を載せていました。娘の顔か姿が映ってなくても、娘のメッセージとともに働いている場所の風景が写っているという生の情報は親御さんたちには非常に有難いものです。鐘紡の評判は、農村の潜在的な労働力である妹や親戚の子に対して高まったのではないでしょうか。他にも1906年の東京の新聞に鐘紡は一面広告を出しています。内容は鐘紡の職工優遇策を宣伝したものです。この時期、写真はなかなか使えない時代です。1909年の鐘紡の募集案内『織布工手志願者之栞」』の中にも写真をたくさん載せています。しかも文書と関連した写真が載っており、積極的にビジュアルで訴えようとしています。写真は農村社会への一つのコミュニケーション手段と位置づけられていたと思います。紡績業や工場労働の実態を知らない農村の人々に募集人が言うことは本当なのか、正しくリアルを伝える意味をもっており、鐘紡の職工優遇策が充実し始めた時期とメディアとして写真が使われるようになった時期とがほぼ一致しており、これも非常に先進的なことだったと思います。武藤さんは農村社会との関係を非常に大事にしていったということです。
第2節 「経営家族主義」へ
   最後に武藤さんの経営者としての役割です。彼は近代工場での科学的かつ合理的な経営管理の実践に非常に貢献がありました。先進的な科学的管理法を導入し、さらには人の内面まで切り込んで、精神的な経営で非常に成果を上げることができました。それは株主や労働者の利益にもなり、紡績業のスタンダードを提示することでも重要な意味がありました。さらに労働者や農村社会との間の信頼関係を構築し、長期的な関係を構築することも大きな貢献だったと思います。彼は労働者の勤労意欲を引き出していくためには、人として扱っていることを正しく農村の人達に伝え、この会社なら信頼して子供を送り出すという気持ちを作ることが大事だったと思います。そういうところが彼の「経営家族主義」に行き着いていきます。会社を一つの家族とみなし、労働者に対する手厚い福利厚生投資を行い、労使の一体化と共存共栄を追求していくことに到達していくことになるかと思います。彼の職工優遇策の解釈はこれまで「技術者でなく、紡績の事を勉強してきたわけでもない支配人が、労働者の信頼を得るため、労働者向けの施策を展開し信頼を勝ち得ようとして、組織的に温情主義を浸透させていった」というような評価でした。しかし現在は「会社の発展を導くための投資として労働者に対するいろいろな施策を展開していったことを評価すべきである」と武藤山治の経営に対する評価になっていると思います。
   また「経営家族主義」を考える上で、これが戦後の日本的経営の原型になっているのですが、家族主義というと、家とか、日本文化とか、歴史に根差して係る問題で、すごく日本の特殊なもののように思われる部分もあるかと思いますが、彼が取り入れた施策は、日本企業や日本の歴史、日本の文化だけではなく、欧米企業のクルップやNCRやコダックも行っていた事です。海外でも鐘紡と同じようなことをやっている会社は一杯あります。そういう会社は労働者の勤労意欲を向上させるために、生活共同体的な機能を会社や工場の中に取り入れて経営システムを作り出したりしています。経営管理の機能的な部分に着目すると、欧米企業の労務管理とも共通する側面があります。近代工場を如何にマネジメントするのか、しかも効率性を持ったうえでマネジメントするという点では共通的なものです。

おわりに
   武藤山治という人は、非常に革新的なことを、早い時期からずっとやり続けた人であります。それが当時の労働者に対しても、同業他社の経営者に対しても、非常にいろんな影響をもつことになりました。彼を近代日本の「啓蒙的実業家」と評価しても良いと思っています。先進的な経営を日本に取り入れ、根付かせていったという点で、彼の功績は非常に大きかったものがあると思います。

質疑応答
「質問1」

  武藤山治の近代経営の進め方が、戦後のトヨタの超合理的な生産にまで発展し脈々と続いている、とお伺いし感激を新たにしました。

「回答1」

   武藤山治の生産管理がトヨタに結びつくところは、まだ実証が足りていないのが現状です。しかし紡績業界で行われたことが他業種に対して大きな意味を持ったことは間違いありません。特に豊田紡織やトヨタ自動車に繋がる大野耐一さんに影響があったことを研究しようとする動きもあります。そういったところに注目していただき、日本のモノづくりの強みであるトヨタ生産方式の源流を考えてもらうと面白いと思います。


「質問2」

  労働効率化が図られたと言うことですが、離職率の改善など具体的な数字はあるのでしょうか。

「回答2」

   紡績工場は多くの労働者を抱えており、人事回章には、毎月の入社人員、退社人員などの報告も多く含まれています。1912年前後の時点で離職率は大きく改善した統計的な数字が出ていました。


「質問3」

  鐘紡と他社との離職率の差はありますか。

「回答3」

   鐘紡の離職率は低いです。当時、職工が他社を辞めて鐘紡の工場に入りたがるということで、紡績業界の中で「引き抜きを止めよう」と問題になりました。鐘紡は「労働の高い会社群と職工優遇策を展開している鐘紡で温度差が出ました。鐘紡はリクルートをしなくても人が入ってきたともいわれます。鐘紡の離職率に対する鐘紡の評価と言えると


「質問4」

   武藤山治は人を育てる施策を積極的に取り組んだと思います。この30年間日本経済が沈滞化しているのは、企業が人材投資を疎かにしたことが原因の一つにあると思いますが、如何でしょうか。

「回答4」

   当時の一般の経営者は、職工優遇策はコストがかり、そんなことはしたくないというのが当たり前でした。ただ武藤山治は、人にお金をかければ、それだけのリターンが得られるという見通しを持っていました。多分、人についての費用は、未来に帰って来る投資として見ていたと思います。今の日本の企業も内 部蓄積は増えていますが、従業員に対する還元が進んでいません、投資を渋った分、それが将来の会社の成長につながるのかなという気はします。日本企業や日本経済が成長していた時期を見ますと、従業員や会社を構成するメンバーに対してしっかり還元がなされていた時代だと思います。それができていないことはすごく気になるところです。





会長挨拶 大変お忙しい中、武藤山治の事績につき懇切丁寧にお話を賜りまして誠に有難うございます。武藤山治が亡くなりまして88年になりますけれど、彼の残した経営方法は現代にも十分通用することだと理解しております。今後とも山治のやってまいりましたことにつき、更に詳しくご研究を進めて頂きたいと切望する次第でございます。本日はどうも有難うございました。
   以上は、神戸大学大学院経営学研究科准教授 平野恭平氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです.。

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