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    篠田英朗氏 『国軍としての自衛隊を憲法は禁止していない     〜悪いのは憲法ではなく憲法学通説〜』

武藤記念講座(講演会事業)

第1087回武藤記念講座要旨

    2022年4月2日(土)
    於大阪「國民會館 武藤記念ホール」
    東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授
    篠田 英朗 氏
 『国軍としての自衛隊を憲法は禁止していない   〜悪いのは憲法ではなく憲法学通説〜』


セミナー





はじめに
   私は平和構築の政策や紛争分析が専門の国際政治学者です。今ウクライナが悲惨な状況になっていますが、昨年はアフガニスタンからアメリカが撤退し、タリバンがカブールを奪還する事件がありました。さらにエチオピアのテグレ紛争は本当にシリアスな状況です。世界中で紛争が50件くらい続いています。私が憲法と関わったのは2015年の平和安保法制の騒ぎがきっかけで、集団的自衛権を容認する法律が成立した頃です。私は学生時代から海外の難民救援にたずさわり、国連のPKO活動にも従事しました。カンボジアのUNTACで働く前に「自衛隊の海外派遣をどう思うのか」と取材を受けたり、反対運動に巻き込まれたりして疑問を感じておりました。45歳頃になりそれを解消しようと思い2016年に『集団的自衛権の思想史』を、その後『本当の憲法』『憲法学の病』『初めての憲法』と3年間に憲法に関する本を4冊書きました。「憲法学通説」は、国際政治学や国連平和活動で日本が貢献しようとする時、必ず重石のように圧し掛かってくるのです。
第一章 ウクライナ情勢と日本社会
第1節 ウクライナ問題とは
   今ウクライナ情勢が大変深刻な事態となっています。国際情勢の大事件であると同時に日本社会は憲法を巡る護憲派と改憲派によるイデオロギー的な論争が起こっています。
   東ヨーロッパにあって旧ソ連から独立した共和国はまだNATOに入っていません。NATOは東方拡大しましたが、旧ソ連を構成していた共和国は吸収していないわけです。なおバルト三国は例外です。旧ソ連が崩壊する前にバルト三国は独立しており、ソ連に吸収されたこと自体が、スターリンとヒトラーの密約による不正な違法行為であるという立場をとっておりますので、理論上は旧ソ連の構成国ではないのです。つまりNATOの東方拡大は、旧ソ連領域の一歩手前で止まっているという形になっています。NATOへ加入しようとする動きが止まらないのは、旧ソ連の共和国の方からです。ウクライナが悲劇的なことになっていますが、ジョージアも同じ問題を抱えていますし、中央アジア諸国も同様です。ソ連という帝国が終わった後のロシアは、いたるところで似たようなことをやっているのです。
第2節 「ウクライナ降伏論」では問題解決にならない
   元大阪市長の橋下徹氏は「人命を救うためにウクライナ政府は降伏せよ。降伏して苦い薬を飲むのも仕方がない」と言われました。しかし降伏しても問題解決にはなりません。東欧の歴史を見れば分かります。ウクライナではスターリンに二百万〜三百万の人達が殺されています。ウクライナはポーランドとソ連に分割統治され、いつもウクライナの国境線が動いております。この70年間ソ連の中にいたのが珍しいわけです。そして主人が変わるたびに、万単位の人達が虐殺されているのです。ウクライナの人達には「降伏すれば問題が解決する」という肌感覚がありません。「歴史的経過や現実感覚のない人が、中身のないことを言うのは如何なものか」と思います。仮に「強い者にある程度従わざるを得ない。妥協も必要だ」と言うことに一定程度の合理性があるとしても、今回の場合は、明確な侵略行為であり、国際法違反が起こっているわけなので、ウクライナが降伏してくれさえすれば問題が解決する、という結論を安易に強要するわけにはいきません。国際司法裁判所の仮保全措置でもはっきり判決が出ていますし、国連総会では141カ国が賛成票を入れて、ロシアの侵略行為であることが認定されました。反対票は僅か5カ国です。ロシアが国際法違反の行為を行っているのに「手打ちにしよう」と言うからには、ある程度責任を持たないといけませんし、「お前だけが我慢すれば、それでことは丸く収まるのだ
」という話とは違うと思います。
第3節 憲法学通説で国際政治は解決しない
   橋下氏は弁護士ですから、憲法9条が絡む安全保障の話になると「憲法学通説」を参考に国際政治を語ることが多いと感じます。彼の頭の中では「芦部信喜先生の日本国憲法の教科書は非武装中立と書いている。先生は日本で最も権威のある憲法学者であり、一介の国際政治学者がつべこべ言うな」と思っているのです。弁護士や公務員の試験は憲法学通説を一生懸命勉強しなければ合格できません。したがって、そのような世界観を持つと、国際紛争を解決する手段として、降伏するのが正しいと思うわけです。今、日本の多くの人達が、ウクライナのような状況に陥った時の政策論として、事前の準備や、柔軟に対応する法制度が整っていないと考えています。しかし日本人は精神的な面でも準備ができていないと思います。「降伏して問題解決しろ」と言っても問題は解決しません。降伏して、世界の皆が本当に幸せになるのであればよいのですが、その答えは出ません。裁判の世界では弁護士が判決に影響を及ぼすことができるでしょうが、国際政治の世界では永遠に結論が出ないことが普通です。ウクライナの問題は、複数あるリスクを的確に分析し、より大きなリスクを避け、体制を整える発想方法が必要です。皆が「ルールを守らなくてよい」と言い始めると、社会を運用することが不可能になります。国際政治では「取り敢えず目の前の戦争を終わりにしろ」、「誰か止めさせろ」という発想ではなく、大きなリスクが長期的に起きることを考え、常に国際社会全体の秩序を考えます。しかし日本人は国際政治を憲法学通説で分析して、政策論や法制度あるいは人間関係や政党間の折衝時についても憲法学通説に強い影響を受けています


第二章 国際法に合致した日本国憲法
第1節 「ポツダム宣言」が憲法制定の論理
   国際政治学者や国際法学者は「大日本帝国時代に日本は国際法から逸脱した。現行の日本国憲法は、日本が国際法を遵守する国に生まれ変わるため、国際法の内容を国内最高法規に入れ込んだ」と理解しております。ところが憲法学者は「憲法優越説」を唱え、国際法と憲法が衝突した時は憲法を優越し、憲法学者が解釈して決めると考えます。憲法制定の趣旨を冷静に考えれば、憲法を起草した人達が、国際法に挑戦する憲法を日本国民に与え、国際法から逸脱した国になることを考える筈はなく、真逆です。
   日本の憲法学会は、大日本国憲法の時代から、常にドイツで憲法を学んだ東京大学法学部の第一憲法学担当教授が頂点にいました。常に憲法はドイツ国法学で解釈することが正しいわけです。現行の日本国憲法は新しいテキストとして起草されましたが、その制定は大日本帝国憲法の改正手続に従っています。当時の東京大学の憲法学担当教授は宮澤俊義です。彼は「憲法改正の範囲は主権者の交代を伴わない。それをやってはいけない」と講義していました。これまでの大日本帝国憲法は天皇主権でした。ところがGHQが示した憲法草案は国民主権です。主権が交代するわけです。そこで政治思想史の丸山眞男が「革命が起こったという説明しかない」とのアイデアで、宮澤は1946年に「8月革命説」を唱えるわけです。日本が「ポツダム宣言」を受諾した時、国民が主権を奪い、革命が起こっていた。国会の審議を経て、裁可された日本国憲法の改正手続きは全て嘘だ、と言ったのです。このような憲法学通説で、司法試験や公務員試験が行われているのです。
   実際は、日本が「ポツダム宣言」を受諾し、それが日本国憲法の根拠になっています。太平洋戦争の終結にあたり、日本はポツダム宣言という国際条項に同意し、天皇の名において署名し約束した国際条約です。憲法96条には国際法遵守義務がありますので憲法と同じ効力を持っています。
第2節 「ポツダム宣言」とは
   ポツダム宣言を要約すると「大日本帝国は戦争指導者の指導によって国際法を逸脱する行為に及んだ。それが太平洋戦争である。したがって連合国としては、是非大日本帝国に国際法を遵守する国に生れ変わって欲しい。それまでは心配なので占領統治をする。但しその心配がなくなれば占領統治は終了させる」という内容です。無条件降伏ではありません。ポツダム宣言の内容を実現するまでは占領統治する、という条件付き降伏です。基本的人権の尊重を確立し、民主的政権ができるまでは、日本国は占領した連合国と共にポツダム宣言の内容を実現させる国際条約上の義務がある、というロジックです。公務員や法律家が信じている「憲法学通説」とは全く違います。「ハーグ陸戦法規では占領統治下において、その被占領国の法律を替えることはできない。日本国憲法は根本的に違法である」と言う人がいますが、「特別法は一般法に優先する」という原則から、一般法のハーグ陸戦法規よりも特別法の休戦条約が優先します。ポツダム宣言の履行義務が日本にあるのは当然です。憲法を制定し、新しい民主的な政権が動きだしたところで占領統治が終わります。つまり「サンフランシスコ講和条約」で占領統治が終了し、それと同時に「日米安全保障条約」が結ばれました。また憲法学者が「サンフランシスコ講和条約は不正な片側講和で、国連精神に反している」と言います。しかしポツダム宣言の趣旨は、国際法を遵守する国に生まれ変わった暁には、国際社会の秩序を維持し、その発展に貢献する側に回り、国際社会の仕組みの中で、自国の安全保障を確保する、というロジックです。独立主権を日本が回復すると同時に、国際法に合致した安全保障の仕組みとして、日米安全保障条約を結ぶことは全く論理的です。ポーランドやルーマニアが北大西洋条約機構(NATO)に加入して、国の存在と安全保障を守る仕組みを作ったことと同様です。
   さらに憲法学者は「国際社会の非武装中立の精神に反している」「特定の国と結ぶ安全保障条約は、国連の集団安全保障体制を脅かす」と言います。しかし国連の集団安全保障だけでは不充分であることは国連憲章を決めた時からの常識です。そこで安全保障の仕組みを二重、三重に掛けているわけです。国連憲章の第51条で「集団的自衛権の取り組み」を、第8章では「地域的取極による国際秩序の維持」を定め、普遍的な安全保障、各国家による個別的安全保障と地域的な集団的安全保障と三重の安全保障の傘をかけています。日本には極東地域の地域的安全保障組織が存在しませんので、合衆国と安全保障の第二層をかける仕組みを採りました。日米安全保障条約の冒頭で、国連憲章第51条に則りと書かれています。憲法学者は法律論ではなく、イデオロギーで憲法の話をするわけです。
第3節 憲法が依拠する原理
   「憲法には三つの原理がある」とよく憲法学者が言います。しかし「憲法前文」は一つの原理しか書かれていません。それはポツダム宣言から論理的に繋がっている原理です。日本国憲法は英文でドラフトされ、日本語に訳されたものです。つまり英文で書かれた日本国憲法を見れば憲法の起草過程が分かります。前文では「これは人類の普遍的な原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」(This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded)と単数形で書かれており、その原理は「国政は、国民の厳粛な信託によるものである」(Government is a sacred trust of the people)となっています。そして同格のコンマで「人民の、人民による、人民のための政治」とリンカーンの有名なゲティスブルグ宣言のワンフレーズを引用しています。GHQの役人も流石に直接的な引用をさけ「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」(the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people)と書いたわけです。日本国憲法は、「国民の厳粛な信託」から始まり、将来の改憲の範囲は、その原理から逸脱しないと決めているのは社会契約論の考え方です。アメリカの独立宣言は「人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る」と書かれています。アメリカでは、政府は人民の幸福を達成する為に、契約によって、人民によって設立されるものであるという社会契約の考え方があります。イギリスの名誉革命時代、ジョン・ロックが提唱し、その思想がアメリカの独立革命に影響を与え、トーマス・ジェファーソンが独立宣言を起草し、それが日本国憲法にも書かれたのです。
第4節 憲法が標榜する責務
   合衆国憲法は「establish justice」(正義を樹立)という言葉で要約されます。憲法前文にも「justice」(公正)という言葉が入っています。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という有名な言葉です。「平和を愛する諸国民」とは、当時の連合国と51の国連加盟国(United Nations)のことです。「大西洋憲章」や「国連憲章」で、自分達のことを「peace loving nations」「 peace loving peoples」と同じ文言を使っています。つまり「justice」とは、国連加盟国が信じている「正義」であることが分かります。また同じように「恐怖と欠乏」という文言が前文に入っていますが、これはフランクリン・ルーズベルトの言葉で、国連創設の精神的オリジンである「大西洋憲章」に出ています。さらに憲法13条「自由のもたらす恵沢」という文言は、合衆国憲法の「Blessings of Liberty」(自由の恵沢)のことであり、国連憲章第4条1項には「peace−loving state」(平和愛好国)という言葉があります。つまり日本国憲法は「独立宣言」、「合衆国憲法」、「不戦条約」、「国連憲章」などのイメージと重なり合うわけで、要するにGHQが起草した英語の憲法草案は、ほとんどが「コピペ」と言ってもよいものです。その英文を日本だけが違う意味で推察する根拠は一切ありません。むしろ同じ意味で使ったことは明らかです。そういう視点から日本国憲法の前文を解釈すると、「日本国憲法は、人類普遍の原則である国民の厳粛な信託に則って作られ、連合国や51の国連現加盟国の正義を信頼して、日本国民一人ひとりの人権を守るとともに、集合体としての日本国の安全を守るという仕組みをとった」と書かれているわけです。ところが憲法学者は国際的、標準的な理解を必死に否定します。それは憲法学者が、大日本帝国時代からドイツ国法学を推進し、戦後もそれを捨てきれず、また憲法を非常にイデオロギー的で見たり、アメリカを否定しているからだと思います。

第三章 憲法九条とは何か
第1節 国際法遵守宣言としての9条一項
   憲法9条一項で「国権の発動たる戦争」(war as a sovereign right of the nation)を放棄しています。冒頭の部分で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言が入っていますが、これは「芦田修正」と呼ばれているものです。憲法学通説では「芦田均という国会議員が、姑息にも本来の9条の意味を変えようとして前書きを入れた。しかしそのあがきは失敗した」と解説しています。しかし芦田修正が意味していることは、前文を読んで、9条を読んでくれ、ということです。元々9条は1条でしたが、大日本帝国憲法が天皇の条章から始まっていましたので、それに合わせるため9条に回された。本来9条は前文の一部として読まれてもよいもので、前文にある国際協調主義の精神を考えて9条を読むようにということです。
   そこで国際法に則り9条を読むと、一項の「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という文言は、「不戦条約」(ケロッグ・ブリアン協定)の内容と「国連憲章第2条4項」のコピペであることが分かります。したがって、ここでいう戦争は「国際連盟規約」、「不戦条約」、「国連憲章」で積み重ねられた国際法上の戦争となります。国際法で「戦争は違法」ですから、その意味で「戦争を放棄する」ということです。つまり9条一項は「戦争は違法である」と宣言しているだけです。
   憲法学者は「戦争とは宣戦布告を通じて行うもので、それ以外の武力行使は宣戦布告をしない事実上の戦争である」と考え、「侵略戦争だけでなく、自衛戦争も放棄している」と解釈します。しかし国際法では戦争は一般的に禁止されており、自衛権の行使をあえて戦争と言い換える意味はありません。憲法学者の考え方は19世紀のドイツ国法学の考えです。世界は21世紀の国際法で動いており、戦争に侵略も自衛も区別はなく全て戦争は違法です。しかし自衛権の行使は合法です。
第2節 9条二項の前段は大日本帝国軍解体の確証
   9条二項の前段で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」、後段では「国の交戦権は、これを認めない」と書いてあります。「戦力の放棄」と「交戦権の否認」の二つのことを言っています。憲法学者の教科書では「第一項では有力な二つの説がある」と書いています。第一が「あらゆる武力行使は全部放棄した」という絶対平和主義の考え方です。これが憲法学通説です。第二が「国際法に合致する解釈で、自衛のための武力行使は放棄していない」という考え方です。私はこれしかないと思っています。さらに少数説として「9条一項で自衛戦争までは放棄していないが、二項で戦力の保持と交戦権が認められていないので、結局一項に立ち戻って、解釈を憲法学通説に合わせる」という説です。東大法学部系の憲法学者の考え方です。しかしこれは法体系上、普通一項の解釈を二項で厳密にするのですが、二項の矛盾から一項に立ち戻って解釈を変える、というのは破綻した法律です。二項は一項と合致して読むのが普通の読み方です。また「戦力不保持」の解釈は、陸海空軍その他戦力という言葉で括られていますので、戦力としての陸海空軍は放棄されているが、戦力ではない陸海空軍は放棄されていないと解釈すべきことを指示した文章です。放棄されているのは「戦力」(war  potential)です。
   憲法制定当時、大日本帝国軍陸海空軍の解体作業がまだ終わっていないという事情で、これを解体する国内法の根拠が必要でした。日本政府が出した憲法草案では、大日本帝国憲法とほぼ同じであったため、マッカーサーが「これでは絶対に極東委員会が反対し、天皇制の廃止を要求される恐れがあり、日本国内が大混乱する」と判断し、GHQに命じ1週間で起草したのが、現在の日本国憲法です。その時の部下に指示した走り書きの「マッカーサーノート」では、「陸海空軍は保持しない」という文言だけが書かれています。つまりホイットニー等の憲法起草担当者は、マッカーサーノートの内容を反映しつつ、概念を精緻化し「その他戦力」(other war potential)という文言で整理したわけです。ポツダム宣言で日本は「大日本帝国軍は違法行為を行った軍隊だから解体する」と合意しましたが、将来、日本は正当な国際法の根拠に基づいて、自衛権を行使する手段として、合法的な陸海空軍は保持できる。その内容を「戦力としての陸海空軍は保持しない」という文言で整理したわけです。つまり陸海空軍には違法なものと、合法なものがあり、違法なのは9条一項で違法だとさだめた戦争(war)を行う潜在力である「war pontential」の意味の「戦力」であり、「戦力」でなければ違法ではないということです。「war potential」(戦力)は、GHQの行政文書にでてくる特殊な言葉で、その概念は「武器の生産能力をも含めた広義の違法行為遂行能力」という意味で使っています。「戦争という違法行為を行う能力を解体する」というのが文言の本質で、軍隊に関係するものを全部禁止するという意味ではありません。むしろ真逆で、軍隊に関係するものでも、合法のものは良いということです。そして戦力の解体の国内法の根拠として、9条一項で戦力を具体的に表現し、大日本帝国軍の解体の国内法上の根拠を9条二項に入れたというのが「戦力不保持条項」です。自衛権の行使のための自衛隊を違法とする根拠は存在していません。
第3節 9条二項の後段は大日本帝国憲法の思想の否認
   9条二項後段の「国の交戦権は、これを認めない」は現実を変更する内容を持つ条項ではありません。「国の交戦権」という概念は、国際法上存在しません。憲法学者は「交戦権を認めない」という言葉を根拠に、70年にわたり自衛隊を拘束してきました。しかし現代国際法には「交戦権」という文言は存在していません。「実在しないものに従って、国家の運営はしない」と誓っているのが9条二項の後段です。当時マッカーサーは連合国最高司令官であり、最高のインテリジェンスを持っていました。大日本帝国軍の「戦時国際法マニュアル」を把握していたのは自然な理解です。大日本帝国軍が採用していた信夫淳平の『戦時国際法講義』(1941 年)、『戦時国際法提要上巻』(1943年)には「国際法には交戦権があり、宣戦布告すると戦争ができる」「その根拠は国際法の管轄権以外だ」と書いています。信夫は大日本帝国憲法の「統帥権」を想定したようです。国際法に規定がなくても、大日本帝国憲法に「統帥権」の規定があるので、それを根拠に国際的に「交戦権」なるものを主張できる。それが信夫の議論でした。日本国憲法が否定しているのは、こうした信夫のような議論です。国際法上は幽霊のようなものでしかない怪しい「交戦権」なる概念を根拠に「国が宣戦布告をすれば何時でも戦争を開始ができる。それは国際法上も認められる」という主張を、日本は二度としないというのが、9条二項の後段の「国の交戦権は、これを認めない」という意味です。信夫淳平の「戦時国際法講義」を自衛隊の戦時法マニュアルにしなければ、もうそれだけで9条二項を遵守したことになるわけです。70年間にわたりイデオロギー的に考えすぎたということです。素直な解釈でいけば、国連憲章そして日米安全保障条約にまで共通のロジックで働いているということです。
   「8月革命説」を教科書に入れた宮澤俊義は、戦時中「アングロサクソン人が世界中でのさばっているのは本当に頭にくる」、「真珠湾攻撃をニュースで見たときには、本当に喝采を送りたくなった。日本がんばれ。このままアングロサクソンをやっつけろ」といった趣旨のことを戦時中に本に書いています。1947年の『新しい憲法』では「世界に先駆けて戦争を全部放棄した。アングロサクソンの連中はこの素晴らしい日本を見習え」と言っています。そういう人が日本の平和主義の象徴となり、神様のような存在になっています。
   冷戦終焉時に東京大学で憲法学を教えていた長谷部恭男氏は、2003年「自衛権を全部否定するのは不自然で、自衛権は持っている」と本に書いて憲法学会に大混乱を招き、2014年の国会では「集団的自衛権は違憲だ」と意見陳述して、憲法学会の会長に就任しました。最近の岩波文庫の日本国憲法解説では、「9条二項前段の戦力(war potential)は、英語の言葉を考えると、決闘としての戦争を遂行する能力の保持を禁ずるものと理解するのが素直である。ヨーロッパ国際法に基づいた主権の概念のもとに、戦争行為を宣戦布告によって行うことができるという国際連盟規約以前の国際法に基づいた戦争概念は、「国際連盟規約」「不戦条約」「国際連合憲章」によって違法化されている」と解説し、「個別的自衛権は合憲であるが、集団的自衛権は内閣法制局が長い間違憲だと言っていたので、違憲のほうが妥当である」と言っています。全く論理的ではありません。そもそも「戦力はWar Potentialである」という指摘から、議論を進めていくのは、私の方が先に行ったことです。せめて私を参照してほしいですね。

おわりに
   日米安全保障条約は、国連憲章第51条の個別的、集団的自衛権の固有の権利を有していることを確認して制定された条約であり、国際法に合致している安全保障上の仕組みです。これを国際法に沿って適正に運用し、そのための手段として、自衛隊を整えると読むのが正しい解釈です。自衛隊は、違法行為を行うものとしての戦力「war potential」ではなく、世界各国の政府が自衛権の行使の手段として持っているものと同じ組織です。つまり「自衛隊が軍隊であることに何ら問題はなく、憲法はそれを禁止していない」というのが自然な解釈です。安倍政権時代の国会における政府答弁で「戦力は違憲である。しかし自衛隊は戦力ではない。自衛隊は国際法上、一般的には軍隊として取り扱われている。それは違憲ではない」と言っているものがありますが、この解釈は正しいと思います。これで政策を進めていけばよいのです。憲法改正も、この解釈を確定させる文言を一言入れれば、それで十分であると思います。

質疑応答
「質問1」

  憲法改正しなくても法律上は軍隊を持つことが可能であり、改正するかどうかは政治的問題であると理解してよいのですか。また憲法は「欽定憲法」と「民定憲法」のどちらになるのですか。護憲派が多数を占める憲法学会からの反論はありますか。

「回答1」

   私の解釈では、日本国は当然軍隊を持つことができます。憲 法に軍隊の保持を禁止している条項は存在しません。軍隊をどう使うかが問題で す。他国を侵略するために武力を行使すれば、軍隊の保持は合法でも行為は違法で す。なお改憲については第9条に3項を加え、解釈を確定させることを提案しています。実態として憲法学通説が存在し、内閣法制局や国内法のエキスパートが国際法を無視する状況が生まれているのは事実です。解釈を整理するために3項 で「国際法に合致した自衛権を行使する軍隊の存在を憲法9条は禁止していない」とはっきり言えばよいと思います。ただし憲法に組織の名称である自衛隊を入れることは適当でないと思います。
   次に日本国憲法は民定憲法です。大日本帝国憲法の手続きにしたがいつつ、国民投票も経て制定されたのが日本国憲法です。憲法前文の冒頭で、日本国憲法は「人類普遍の原理」(a universal principle)」である「国民の信託行為」(Government is a sacred the trust of the people)によりできていると言っていますし、国民投票を経ないと改正できないとうことですから、カテゴリー的には民定憲法です。憲法上のテキストを引用すれば「社会契約論に基づいた政治思想を根底にして、この憲法は出来上がっている」というのが正しい言い方です。
   また憲法学者からの私に対する批判はありません。誹謗中傷だけはあります。憲法9条をテーマにディベートを期待しているのですが、憲法学会は誰も応じてくれません。緊急事態条項も、国際人権法に基づいた運営をするべきですね。緊急事態時に制限できる人権と制限できない人権が、国際人権法では明確です。日本国憲法もこれにならうべきでしょう。


「質問2」

  War(戦争)が基本的に侵略戦争ならば、自衛のための戦いは英語でどう言うのですか。また中国は国際関係で憲法を優先すると言っているように思いますが、憲法と国際法はどちらが優先されるのですか。

「回答2」

   侵略戦争、自衛戦争という概念自体が、戦前の日本が採用していたドイツ国法学的な考えです。「国際連盟規約」で「戦争という概念は違法な行為である」と宣言され、「不戦条約」(ケロッグ・ブリアン協定)でも、戦争は違法です。この場合の「戦争」は、大きくは「侵略(aggression)」のことだと考えてよろしいでしょう。したがって、「自衛戦争」という概念構成それ自体が、「ああ、結局は自衛も戦争なら、どっちもどっちで、全部違法ですね?」という結論を導きだすための概念操作と言ってよいです。「自衛戦争は合法だ」と強弁した戦前の軍部の立場を逆手にとった、反対側からの国際法無視の極端な意見です。大日本帝国時代、軍部が自衛戦争は合法であると言って、満州事変や真珠湾攻撃を正当化しようとしました。戦後、吉田茂は国会答弁で「近年の戦争の多くは、国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。ゆえに正当防衛権を認めることが、ますます戦争を誘発する所以であると思うのであります」と自衛戦争を否定したことは有名な話です。そのため憲法学者は自衛権を認めるのは矛盾だと主張します。しかし国際法で「戦争」と「自衛権の行使」とは違います。戦争は違法で、宣戦布告を根拠にして武力行使を正当化するロジックは違法です。「侵略行為であるか」「自衛行為であるか」の事実により「侵略」と「自衛権行使」を分けて、「合法か」「違法か」を見分けるのが国際法の考え方です。憲法学者がドイツ国法学の考え方に染まっているため、国際法を説明することが無理になってしまっています。
   国際法と憲法の考え方が衝突する場合にはどちらを優先するかについては、第一に日本国憲法は国際協調主義を掲げており、限りなく調和を求めています。多少の矛盾がある場合には、努力して矛盾を補う義務が日本国側にあり、矛盾を解消するよう努力することが日本国憲法を遵守することです。なお修正が行われるまでは法運用の政策論になります。国際法適用場面なのか、憲法適用場面なのか、を都度判例を作っていくということになると思います。「自衛権の行使」は国際法上の概念で、日本国憲法には自衛権という言葉はありませんので、自衛権に関する議論は、国際法に調和を図っていくのが妥当な解決策であろうと考えます。


「質問3」

  「自衛隊は憲法上、自衛のための必要最小限度を越える実力を保持し得ない等の制約を課せられており」という解釈は、何処から出たものなのでしょうか。

「回答3」

   この概念が出てきた経緯は、国会答弁の積み重ねで出てきたものです。憲法上の根拠はありません。山のような国会答弁が訓詁学みたいになっています。政治家が腹をくくれば整理できます。「自衛のための武力行使は認められる」というのが基本的な考え方で、国際法上も認められていますので、「自衛の為の武力行使には、国際法に則って必要性と均衡性の原則というものがあります」と議論すべきでした。ウェブスター判例など沢山ありますので、「自衛権の内容というのは慣習国際法上で決まっている」と答弁すれば良かったわけです。「最小限度しかやりません」と答えたため、誰もよくわからないという状態になりました。必要最小限度とは、自衛権の行使を、自衛権の行使に適切な範囲内で行う、ということで、あまりにも過剰なことはしないことです。国際法上は「必要性(necessity)と均衡性(proportionality)の原則によって自衛権を解釈する」ということです。戦車に対しては、基本的には戦車で武力を行使するのが自衛権です。戦車1台に対し、核兵器を使うのは均衡性がありません。相手の戦力によって必要性と均衡性の概念の応用が具体的に変わってくるのは当然です。一般国際慣習法で認められている自衛権の内容にそって運用するということです。


   以上は、東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授 篠田英朗氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです.。

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