ホーム > 武藤記念講座(講演会事業)文芸評論家、関東学院大学教授
    富岡幸一郎 氏 『日本人よ、誇りを持て!     −三島由紀夫と石原慎太郎−』

武藤記念講座(講演会事業)

第1088回武藤記念講座要旨

    2022年5月14日(土)
    於東京「国際文化会館 別館2階」
    文芸評論家、関東学院大学教授
    富岡 幸一郎 氏
 『日本人よ、誇りを持て!   −三島由紀夫と石原慎太郎−』


セミナー





はじめに
   今年2月1日、石原慎太郎が亡くなりました。講演では石原と彼が大変尊敬し、大きな影響を及ぼした三島由紀夫の二人を取り上げ、話をいたします。なお三島は昭和45年11月25日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地において45歳で自決しており、石原は戦後の知識人として、文学者、政治家として活躍し、89歳の天寿を全うしました。この二人は13歳の年の差はありますが、二人が今私達に言いたかったのは「日本人よ、誇りを持て!」ということではないでしょうか。

第一章 石原慎太郎の逝去に際して想う
第1節 『国家なる幻影』−わが政治への反回想−
   石原の著書に、平成11年(1999)に発刊した『国家なる幻想』があります。石原は平成7年(1995
)4月14日、国会議員在職25年の永年勤続表彰を受け、その本会議場の挨拶の席で突然議員辞職を表明します。その時の辞職表明の言葉がこの本に収められています。最後の章で「振り向いてくれ、愛しきものよ」というタイトルです。まず内容を紹介します。
   「昭和41年の暮れから翌年にかけて私はある新聞社の特派員として、当時すでにデルタ地域にまで共産勢力が進出していたベトナム戦争の取材に赴きました。あのベトナムで私が強く感じた事は、首都サイゴンの知識階級の、自らの国で行われている戦争への驚くほどの無関心冷笑的な態度でありました。それゆえ私はあの国がやがて間違いなく共産化されることを確信していました。同時に私にはあの教養高いベトナムのインテリと、日本の知識人たちが、その政治姿勢に於いて互いに非常に似ているという気がしてなりませんでした。ということは祖国日本もまたいつかの将来、あるいは自由主義体制が侵食され崩壊する日が来るのではないか。ならばそれを防ぐためには自ら行動すべきではないかと。私が政界に身を投じる決心をしたのは、あの他国の戦争で感じたものの故にでありました。そしてその翌年、昭和43年の参議院全国区に立候補して当選し、後に衆議院に転じて以来今日に及びます。私の政治家への転身の動機は、その後の日本の発展と安定を眺めれば幸いにも杞憂に終わりました。すべて国民の英知ある選択と止むことのない努力のおかげであります。その間私も私なりに志を同じくした仲間と共に政治の金権性と戦い、あるいはアメリカや中国の対日関係における一方的な主張に反発し微力ながら戦いもしてまいりました。最も欣快とするのは、日本側の国益をなんら反映することのなかったあの日中航空協定に最後まで反対した我々青嵐会を、当時の周恩来首相が評して、彼らのいう事が当たり前だと。私が日本の政治家だったら彼らと同じことを言っただろう。と周辺に語ったという事をのちに複数の方々から聞かされたことでありました。しかしなお今日この表彰を受けてあらためて私は、自らの力の足りなさに慚愧せざるを得ません。政治家の経歴は決して決して長きをもってよしとするものではないということをあらためて痛感自覚し
、ただ恥入るのみであります。イデオロギーの生んだ冷戦構造が崩壊した今、政治の対立軸が喪失されて私たちは新しい軽薄な混乱の中にあります。新しい文明秩序の造形の為に多くの可能性に満ちているはずのこの日本の将来を棄損しかねないような問題がいくつも露呈してきているのに、現行の政治はそれにほとんど手を付けられぬままに、すべての政党ほとんどの政治家は、今はただいかに自らの身を保つかというもっとも利己的で卑しい保身の目的のためにしか働いていません。こうした政治の現況に、国民がもはや軽蔑を通り越して期待し裏切られていることにも倦んで、ただ無関心にすぎているという状況は政治の本質的危機としか言いようがありません
。植民地支配によって成り立っていたヨーロッパ近代主義の繁栄が終焉し到来しつつある歴史の新しいうねりの中で、新しい世界の文明秩序が期待されている今、歴史的必然としてアジアに回帰し、他の誰にも増して新しい歴史創造の作業への参加の資格のあるはずのこの日本は、未だに国家としての明確な意思表示さえ出来ぬ男の姿をしながら、実は男子としての能力を欠いたさながら、さながら去勢された宦官のような国家になり果てています。それを官僚による政治支配のせいというなら、その日本国民の政治に対するその責任は、それを放置している我々すべての政治家にこそあるのではありませんか。現在の軽侮と不信は、今日このような表彰を受けたといえ、実は徒に馬齢を重ねてきただけでしかない。まさにこの私自身の罪科であるということをあらためて恥じ入り慚愧するのみであります。それでもなおかくも長きにわたってこのような私に期待し指示を賜った国民の皆様に、この場をお借りしてあらためて心より御礼を申し上げ、あわせて深い、深い慚愧の念を表す次第であります
。そしてその所以をもって私は今日この限りにおいて国会議員を辞職させていただきます。ありがとうございます。」と石原は辞職の表明をしております。
   平成7年、石原は63歳でした。この時代は平成に入って冷戦が終わり、東西冷戦構造の崩壊に日本は対処出来ませんでした。日本はまさに舵を失った船のように漂流しだしました。平成元年(1989)2月にリクルート事件で竹下内閣が倒れ、宇野、海部、宮澤そして平成5年(1993)8月には日本新党の細川非自民党連立内閣、平成6年(1994)4月には新生党の羽田内閣、平成6年6月、自民党と社会党が共同政権構想をもって「自・社・さ」の3党で村山内閣をつくり、副総理兼外相には河野洋平が就くという状況が続きました。石原はこのような政治状況の中で苛立ち、まさに慚愧の念を持っていたと思います。また平成7年は戦後日本史でも大きな事件が相次ぎました。1月17日、関西の大震災、3月20日、オウム真理教のサリン事件があり、4月14日に石原が議員辞職しています。日本の政治が揺らぎ、漂流している状況であった事をあらためて想起したいと思います。石原はその後、東京都知事として、東京から日本を変えていこうとしました。『国家なる幻想』はちょうどその時に出しました。これは一人の政治家の単なる回想録ではなく、戦後の「政治論」「国家論」として大変優れたものです。文学者の視点から、石原自身が体験した政治の状況が描写されています。特に田中内閣の金権政治に対し青嵐会が矢を放つ時の様子や、日中国交回復という戦後日本の大きな曲がり角に対する石原の想いが実に生々しく描き出されています。「日本は宦官のような国家になり果てている」ということがよく伝わってきます。
第2節 国家理性を失った戦後日本の漂流
   ドイツの歴史学者、フリードリヒ・マイネッケは著書『近代史における国家理性の理念』(1924年)で、国家とその指導者の定義について、国家理性とは近代国家が持つべき国家の存在理由であり、今日用いられているナショナル・インタレスト(国益)である。国家が自国の利益を追求する事は歴史的現実であり、問題はこの利益追求と道徳的価値との間の対立関係を国の指導者がどのように調整していくのか、ここに大きな課題がある
、と述べています。彼は第一次、第二次の両大戦を経験し、著書『ドイツの悲劇』で、ワイマール体制から何故ヒトラーという政治家が出て来てしまったのか?ドイツ国民は何故第三帝国ヒトラーを支持したのか?何故ドイツは敗北したのか?ということを書いています。国益の追求は指導者の最大の仕事です。ウクライナを突然侵略したロシアのプーチン大統領は“狂人”と言われています。「狂人とは理性以外の一切のものを失った人間である
」と思想家チェスターコンは言っており、国家利益しか考えないプーチンはまさに狂人と言えます。しかしロシアの国益を最大限に思っていることは間違いありません。指導者は国益と道徳的価値の間の対立関係の調整が大きな課題です。プーチンは悲劇的な政治家の姿を現しているのかも知れません。政治家となった石原にとっては
、戦後の日本がこの国家理性が著しく欠けていることが大きな課題だったと思います。
第3節 戦後日本への糾問者
   石原の国家イメージはどのように作られていったか、彼の数々のエッセイを読むと大変興味深いものがあります。石原は政治家になってからも創作活動を行っていますが、その中で『わが人生の時の時』は文学史に残る小説だと思います。そこに『戦争に行きそこなった子供たち』という短編があります。小説の冒頭は「終戦の年私は中学の1年生だった」と始まります。「湘南中学という海軍兵学校の予備校みたいな中学で、他の中学生はみんな勤労動員に駆り出されていたのに、私たちだけは毎日通学し、英語の授業まで受けるという恩典があった。
」ただ鎌倉、逗子は直接空襲がありませんでした。しかし米軍機が時々飛来して機銃掃射をしていったということがあり、実は学友がそれに撃たれて亡くなったという出来事もありました。「ある日、空襲警報が出て、学校を退去して駅に向かって帰った。その時に、渡りかけていた麦畑の真ん中で突然背後から爆音が響き、初めて目にする敵機が超低空で飛んでくるのを見た。それは今まで遠く高く仰いでいたB29とは違って、猟犬のように精悍な艦載機だった。そしてほとんど本能的に私たちはようやく穂をつけた麦の畑の間に身を投げて突っ伏した
。次の瞬間、爆音は背中に響いて私たちを発見するのが遅すぎた。敵機は前方のさつまいも畑に掃射の銃弾をばらまいて頭上を過ぎた。その瞬間私は怖いもの見たさというより、それが責務でもあったかのようにわが身が強いて敵の姿を確かめるべく身を起こして、今自分を襲ってきたものを目で追った。それは旋回して急上昇しようとしている敵機の胴体に描かれたどぎつい極彩色の何やらの漫画を見届けた。その印象の強烈さを今でも覚えている。あれは世界から隔絶されながら戦っていたこの国に突然もたらされた異文化の象徴だった。ちょうど嘉永6年に黒船がやってきたように、異文化が突然石原少年の目に入った。更に、それでも私たち深さ20cmほどの芋畑の間に身を投げ、体に食い込む敵機の銃弾を予期して身を縮めた。もう一度やってくる。しかしなぜか辺りを掃いて過ぎる敵機の掃射の弾丸の感触はなかった。助かったと悟った時、私はわけを確かめるためひるみながら頭を上げて、たった今頭上を飛び去った敵機を目で追った。先刻の敵機と違ってくすんだ褐色に塗られた戦闘機が向かおうとしていた前方の松林の梢をかすめて反転するのが見えた。そしてその褐色の翼と胴体につるされた白く縁取りされた日の丸を見た。あの瞬間の震い付きたくなるような感動を多分一生忘れないだろう。それをなんと言おう。身の知れるような、泣いてすがりつきたいような激しい懐かしさだった。あれは私にとって有無を言わさず、歴然としてある生命を捧げて、敵と味方なる関わりを悟らされた初めての瞬間だった。そして今自分が抜き差しならぬ形で国家なるものに属しているのだということをあの時知っていたと思う」と言っています。まさに石原少年の体験、国家とは何か、決して抽象的なものではなく、実際にアメリカの戦闘機を追っかけて日本の戦闘機が自分の頭上を反転していった時に日の丸の翼が見え、石原は非常に肉体的な経験をした。政治家となった石原は「いかなる人間も、自らの肉体の意識なしに、自らの属する国家なり民族なりについて自覚し
、その本質的な感触を得ることは出来やしまいと思う」「今日の過剰な情報がもたらす浅薄な観念の肥大は、人
々から肉体への自覚を奪い、肉体の意識を喪失した人間たちはそれを包む国家社会を感じることをできはしない
。ならば愛国とか友国のはるか以前に、国家社会の規模に渡る共通の倫理に対する責任も在りようはあるまい。自らの肉体の意識を日本人はしっかり持っているのか」と書いています。
   福澤諭吉が「一国独立し、一身独立する」と言っていますが、一身独立する個人という明確な意識を日本人が持つことで、国民国家が出来るということです。逆に言えば、日本人は国家がしっかりと独立しない限り、日本人一人ひとりは明確な自らの肉体の意識すらないと思います。石原はスポーツをやり、海を描き、ヨットを操り
、そういう青春を『太陽の季節』で描きました。しかし単にスポーツをやっていたということではなく、国家そのものを一つの身体と意識し、国体すなわち天皇を国家のイメージとしてはっきり持っていたところがあります
。人間の肉体という自らの基本的な現象的、原始的な原点から発せられているところに石原の国家論があり、決して観念やイデオロギーではありません。戦後日本の知識人は、非常に肉体感覚を欠いた観念論を振り回してきました。それが進歩史観であり、社会主義、共産主義の思想です。未来のユートピアを想定しますが、実はこれはディストピア(暗黒世界)です。身体性を欠いた頭でっかちのイデオロギーです。1972年の連合赤軍事件から今年で50年です。あの事件はまさに革命という観念の肥大です。自らの仲間を殺すという革命の袋小路が
、戦後の観念的共産主義思想の最後の形です。石原にはまさにマイネッケの「国家理性」、「国家の身体性」がはっきりとあったのではないかと思います。

第二章 石原慎太郎を積極的に文壇に迎え入れた三島由紀夫
第1節 55年体制への無意識の文学的反逆
   石原は昭和30年『太陽の季節』で文壇にデビューしますが、この時期は自由党と保守党が保守合同し、日本社会党も左派と右派が統一し、戦後の日本の政治体制が、アメリカに従属する日米安保体制を、右も左も継続しようとする55年体制が出来た年です。昭和31年の経済白書では「もはや戦後ではない」と謳い、政治と経済が戦後を肯定していく時代です。日本共産党は第六回全国協議会(六全協)で、戦後の暴力闘争を大きく転換する表明をします。それまで革命を目標に徹底した暴力闘争を行っておりましたが、この路線が国民の支持を失い
、終止符を打ちます。これは当時の若者たちに大きな衝撃を与えました。東大の助手でドイツ文学者の柴田翔は
、昭和39年に『されどわれらが日々』で芥川賞をとります。「あの夏。党(共産党)無謬性(間違いがない)が私たちの前から崩れていった時、私たちのなかで同時に崩れていったものは、党への信頼であるよりも先に理性を敢えて抑えても党の無謬性を信じようとした私たちの自我だったのです」つまり革命路線は正しいと信じようとした自我が崩壊したということです。日本共産党はソビエト・コミンテルンの日本支部として100年前に誕生した非合法政党で、戦前から日本の共産主義運動は問題をはらんでいました。この革命へのユートピア、くどいようですがディストピアは、当時の若い青年たちを惹きつけました。明治以降、キリスト教よりはるかに大きな近代思想として入ってきたのが社会主義思想であり、マルクス主義思想です。日本の資本主義が次第に高度化していく中で大きな社会問題、労働問題が起こり、その中で社会主義思想が真面目な青年達を惹きつけ、日本共産党がその一つの役割を担ったわけです。プロレタリア文学者の島木健作は昭和9年に『癩』(ハンセン病)という作品を発表しています。島木は19歳頃から左翼運動に関わり、農民の生活を知る為に四国に渡り、色々な政治運動をやり、その後転向します。小説では政治犯として刑務所に服役させられる太田という名前になっています。彼は肺を病んで刑務所から隔離病舎に移されます。そこで偶然かつて左翼運動の同士であった岡田と出会います。岡田はハンセン病を病んでいますが、徹底して社会主義の思想を信じて転向を拒否します。7年の刑を受け、さらにハンセン病に侵されながらも、自信を持って自分の生き方を太田に語ります。マルクス主義、社会主義思想が自分の肉体の中に入っているわけです。彼の思想が、彼の暖かい血潮の中に溶け込み、彼の命と一つになり脈々と生きていることを感じたと書いています。この島木の作品に注目したのが三島由紀夫です。三島は昭和43年の日本文学40巻の解説で『癩』という作品に注目しています。三島はマルキシズムが個人的な宿命としての『癩』を精神的に救済する思想であるかどうかは疑わしい。現に『癩』はプロミンの発見によって不治の病ではなくなった。純然たる科学的、医学的研究の成果であるが、マルキシズムが肺病や癩の極限状況下であっても一つの救済原理として働くというところに島木および当時の日本の最も強烈なマルキストの誠実な形があったといったことは疑いを入れない。そこでは肉体と思想との相克のドラマが極限まで追いつめられて、そこで人間精神の一貫不怠が試された結果、実に日本的な形態に置いてマルキシズムはより高次の異質の信仰に変貌した。つまりマルクス主義は近代日本で一つの信仰の対象で、六全協で自我の崩壊したのは決して大げさなことではないのです。戦前からの日本の西洋思想としてのマルキシズム進歩史観がいかに強いものであったかは明らかだったと思います。柴田翔が「六全協で党の無謬性が崩れ、自我が崩れていった」と書いた、まさにこの時、石原が『太陽の季節』を引っ提げて登場しました。目的意識を失った青年の情熱を何処に活路を見出すか、『太陽の季節』はこうした時代を象徴しています。表面的には「太陽族」とか「慎太郎刈り」という流行がありましたが、もう少し深く見ていくと、それまでの青年達の拠り所であったものが失われていった時、どのような価値が日本の社会においてありえるのかということです。逆にそれが失われた時のニヒリズム、虚無感が『太陽の季節』の時代的背景にあり、竜哉という主人公がボクシングで敵を倒す。その時の様々な情熱がこの作品にある。この小説は男女の性的なものとか、風俗の紊乱というより、政治と経済の55年体制、六全協問題という深い問題が背景にあった。そのような中で石原が小説家として出てきた。そしてこの石原を大変評価したのが三島でした。
第2節 石原は「エトランジェ」
   三島は「エトランジェ」(異邦人)として石原を激励しました。石原の評論集『文士の肖像』に石原と三島の対談が三つ収められています。一つ目の対談が1956年の「新人の季節」です。石原が『太陽の季節』でちょうど文学界新人賞をとり、翌年に芥川賞とった直後の二人の対談です。三島は冒頭で「この十年間いろいろ小説を書いてきて、みんな戦後文学の作家たちが佐官級になったわけだ。僕は万年旗手で、いつまで経っても連隊旗手をやっていたのだが、今度、連隊旗を渡すのに適当な人が見つかった。石原さんにぼろぼろの旗を渡したい。それで石原さんの出現を嬉しくおもっている。この人なら旗手適任でしょう。それで石原さんになぜみんな騒いでいるかというと、原因は簡単なんで、この人はエトランジェなんだね。日本は神代の昔から、異邦人を非常に尊敬した。自分の部落とちがう人種がはいってくると、稀人であり、客人であり、非常におもしろがられて、珍しがられた。そういうふうにしてあなたははいってきたわけだ。」三島は日本の文壇にとって石原はエトランジェで、自分は非常に歓迎すると言っています。それまで石原は『処刑の部屋』や『完全な遊戯』などものすごく切れ味のいい文体で、日本の近代小説にはないスタイルで小説を書いています。三島は「これまでの戦後を引きずってきた進歩主観的な日本文学のあり方から完全に切れたエトランジェが現れた」と石原を激励しました。おそらく戦後文学だけでなく、明治以降の日本の小説史、自然主義の人達とも違うエネルギーを持った作家として石原が出てきたことで、三島は積極的に文壇に迎え入れようとしました。三島は大正14年生まれで、昭和20年の終戦の時に20歳となり、自決した昭和45年が45歳です。東大法学部を出て、一時大蔵省に入りますがその後作家になります。三島は学習院の中等科、13歳の頃から詩を書き、16歳の時『花ざかりの森』という小説を、日本浪漫派の雑誌「文芸文化」に発表しています。学習院で国語を教えていた清水文雄先生が「文芸文化」の同人であったからです。学外の雑誌なので本名の平岡公威ではなく、三島由紀夫というペンネームでデビューしました。戦争中は兵隊の召集を受けますが、非常に病弱な体であったため、軍医の誤診から帰郷となります。同世代の多くの若者が戦争で散華した中で、三島の負い目になりました。自決もそういうことが影響しているかもしれません。いずれにしても詩を書き、小説を書く。そういう手弱女ぶりの文学少年でした。しかも戦前からもてはやされた日本浪漫派の流れをくむグループから天才少年作家として出てきて、終戦を迎えるわけです
。そうすると価値観がガラッとかわる。戦後出てきた作家たちは、戦前に社会主義運動で投獄された人たち、あるいは戦争を体験した戦後文学の人たちです。三島が作家として文壇に出るには、それまで持っていた日本的な浪漫主義の着物を全部脱ぎ捨て、一種の変身をして、硬質な文体をものにして、『仮面の告白』で戦後の作家としてデビューしていくわけです。
第3節 文学・思想の中に異なる世界像
   三島は戦後の文壇、文学に対する違和感がすごく強かった。そこに石原が現れてきた。石原の文学の本質にあるものは人間の身体、人間の肉体を通した浪漫主義で、三島と非常に重なるテーマがあった。思想的な流れからも影響があったのではないだろうか。石原青年が現れた時、三島は自分の頭の上にあった戦後の雲が晴れたようで、思わず連隊旗を渡したいという言葉になった。石原文学は浪漫主義的な物語性、人間の捉え方、人間の死を直視するところがある。同時に三島と根本的に異なる世界像(汎神論的)を持っているように思う。石原の小説では至る所に神様がいる。自然の中に神様がいる。多神教や八百万の神様がいる世界です。石原の小説には海をテーマにしたものが非常に出てきますが、その世界はまさに自然の中にある神々であり、人間の力を超えたあるものを見ています。初期の長編小説『星と舵』は、石原自身が太平洋横断のヨットレースに出て、そういう自身の体験も含め太平洋を渡っていく様子を書いています。「その瞬間、目の前に横たわる島は沈んだ。青黒い表情から一変し、最後の日の光に照り輝く、オレンジ色に輝く死体となって陽のあたる断崖の下で船を止め、釣り糸を投げる人達が手を振っている。僕らは誰よりも岬がヨットをかわしていく。そしてその次に開けるものに向き合った時、僕は息をのみ立ちつくしていた。他の誰しも風下の彼方に何もありはしなかった。ただ無限の狂おしいほどの量感の水の繋がりだけがあった。それこそ僕らの願いだった。僕らの目的の水の大草原であった。遥か東方の僕らが立ってきた母国に向かっての何万何千キロの距離何ヘクタール広さにある海、今という瞬間に目の前に夕焼けに染まりながらも青い鈍色にぬめって連なる水のかなたを同時に月が照らし、星が流れ落ちこの大きな海、やむことなくうねり四つの大陸の岸辺を洗い拭い億年の歴史、億万の夢、沈めまた蘇らせる。そして大きさの前に虚無に近い一点でしかない僕らとその船は今それに向かって挑み渡ろうとしているのだ。」三島は石原作品を何回か論じていますが、海を描いた作品をエロティシズム、非常に官能的なものとして描かれていると解説しています。ヨットが女性で、海とヨットがエロティシズムとして描かれ、海と船と女に関わる物語である。『星と舵』は、海自体が一つの神々しい世界で、自然を汎神論的に描いているところに特徴があると見ています
。三島も勿論日本の文学者として自然を描きました。『潮騒』『真夏の死』、最後の『豊穣の海』と、まさに海を好んで選びました。三島の『午後の曳航』という作品は、横浜の港と船乗りの話で、石原の影響を受けたように思います。ただし三島の思想と文学の根幹は汎神論ではありません。むしろ極めて一神教的な思想が文学の根幹にあると思います。三島と石原の文学はクロスするところと、根底においては全く異なる世界観、宗教観があり、その辺りをお互い意識したのかも知れません。三島はそのような感覚を持って石原文学を見て高く評価したのではないかと思われます。

第三章 「政治と文学」の対立点から考える
第1節 石原が政治家へ転身するきっかけ
   石原は昭和43年(1968)7月、36歳で参議院に出て301万2,252票という圧倒的な票を得ました。裕次郎の影響があったかもしれませんが、石原慎太郎というアピール度もあったと思います。政治家に転身する大きなきっかけはベトナムの体験です。昭和41年の暮れ、当時流行作家として活躍していた時、「週刊読売」からベトナム戦争のクリスマス休戦時に、南ベトナム取材の依頼が入ります。そして11月から翌年1月にかけて南ベトナムを旅行しました。この時の体験が石原を政治家に突き上げました。それは南ベトナムの多くの国民が戦争に無関心であることを目の当たりにしたからです。彼は「凡そただの野次馬として出向いた私が、国家を人格としてなぞらえる瞬間だった。結果としてそれが政治に向かわせたのである。相手が小さな国であり、しかも瀕死の病人だっただけに、病人の運命のように想像ではなく、はっきりとあの時期、あの国にあって、どんな人間であろうと、国の近い将来に例え細やかであっても、何か希望の予兆を抱いたものを、どんな拙い戦だろうと、一度手を取って、脈を測って、匙を投げた病人自身が自分を投げてしまっていたのだから。南ベトナムという国がもうほとんど国家として成り立っていない。すべての人が自分の国に対して無関心になっている」と言っています。これを見て石原は政治家になろうと思った。つまり日本も南ベトナムのようになるのではないか
。それは単に共産主義の脅威ではない。そういう思いが若き石原の中で、一つのきっかけになったと思います。帰国した石原は、短篇小説『待伏せ』を書きます。ベトナムの最前線へ取材カメラマンと潜入し、夜間にベトコンを要撃する修羅場を体験したことを描いています。戦後の日本の小説の中でも最も優れたものの一つだと思います。密林からベトコンがやってくる、敵の凶暴な原始的な武器、米軍の基地でベトコンはこういう武器をも使う注意しろと、石原とカメラマンに米軍の将校が言うわけです。先ずナイフ、棍棒、弓矢、後ろから襲いかかって首を絞める木の片にピアノ線がくっついている。まさに原始的な凶器です。闇の中から米軍を脅かして、その部隊を待ち伏せして一気に殲滅するのがこの作戦だと。実際にその戦場で非常に長い時間、まさに地面に体を着けて待っている。沈黙も静寂とも違っていた。音はしない。音の代わりに石のような重い沈黙が我々を防いでいた。沈黙が闇であり、闇こそが沈黙である。それは俺が今まで見たことも覗いたこともない、誰に聞かされることもない全く未知の世界に感じられた。恐らく石原本人の感覚でしょうか。この小説の中で非常に重要なポイントがあります。それは米軍の将校が一緒に行く時、お前も武器を持てと促され困るのです。戦争にいくのではない。俺は紛れもなく第三者だ。取材に来たのだ。しかしカメラマンとともにこの状況で闇の中に閉じ込められる
。その時、自分が武器を持ってないことが間違っていたことを痛感します。「敵か味方か、殺す側か殺される側か、俺はまさしくこの渦中に居ながら、この手に武器がない。この中で俺に一体なにができる。一体なんのために埒もなく繰り返し、そればかり考える。俺は多分生まれて初めて、本心で自分に愛想をつかしていた。ベトコンと米軍のどちらにもつかない中立的な日本人としての俺が殺されるかも知れない場所で、敵でもない、味方でもない、武器ももたないで何もできないでいる。恐怖。これが闇の中からやって来る。」この体験は石原にとって、少年の頃の機銃掃射と日の丸に匹敵する決定的な体験で、それが小説として見事に昇華された作品です。10ページ足らずの短い作品ですが、非常に深く、迫力があり、そして非常に大きな問いを持った作品です。石原自らがこの武器をもたない中立的な日本人で、この姿はまさに本当に自分の姿であり、日本国の姿であり、戦後日本の姿です。また石原は国会議員として初めてアメリカの核基地、巨大なICBMの基地を視察します。日米安保条約によって、日本が攻撃された時はアメリカが核の傘によって守ってくれる。我々は今もそう思ったふりをしていますが、当時石原は「アメリカはICBMを自国に攻撃された時に使うが、それ以外は決して使わない
。そのことをアメリカの巨大な核基地、核シェルターを実際に見て痛感した」と、まさに『待伏せ』で言っています。日本は武器を持たないで戦場の中にいる存在である。ですから石原は核武装の問題も決して観念的ではなく、自分の経験そして政治家としての信念で語り続けたのではないかと思います。
第2節 政治の有効性と時代への予言性
   石原は政治家として参議院議員そして衆議院議員になり、その後東京都知事として活躍、最晩年も橋下徹を応援し、政治家としての思い、政治家の有効性を最後まで貫き通したと思います。三島は時代への予言性という意味で、昭和45年11月25日朝の自衛隊での割腹自決があったと思います。あの事件はすでに半世紀以上が経っていますが、三島は自衛隊の将官に対し「憲法を改正しろ。9条を改正しろ」と言いました。GHQの占領下でつくられた憲法の改正です。三島が自衛隊で撒いた檄文は、もちろん憲法改正という具体的な問題が語られていますが、そこに込められたのはもう少し深い問題です。檄文は「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。」と書いています。憲法9条を改正し、自衛隊を憲法の中で法的に軍隊として、防衛軍として位置付けることはもちろん大事ですが、三島が最も憤ってきたのは「日本人の魂の腐敗」です。道義の頽廃の根本原因はここにあるということです。人に嘘をつくのはよくない。ただもっと悪いのは自分に嘘をつくことです。日本人は戦後ずっと自分に嘘をついてきた。憲法9条は明らかに違憲です。陸海空軍はこれを所持しない。国の交戦権をもたない。明らかに自衛隊は違憲です。でも解釈改憲をしてきた。解釈改憲はまさに欺瞞です。つまり日本人は自分に嘘をついてきたから、日本人の魂が腐敗していると、三島が大きなメッセージを込めて自衛隊の将官に訴えたと思います。石原もあの事件に衝撃を受けたようで、後に『三島由紀夫の日蝕』という本を書き、また三島の評伝を書いた評論家の村松剛に「三島さんは憲法改正を訴えた。自分は日本の核武装の問題をやる」と言ったそうです。
第3節 「守るべきものの価値」の相違点
   昭和44年(1969)、三島と石原の最後の対談がありました。雑誌「月刊ペン」11月号に載った対談で、三島が自決する約1年前だと思います。タイトルは「守るべきものの価値−我々は何を選択するのか」です。冒頭から、いきなり三島の方から問いかけています。
三島 石原さん、今日は「守るべきものの価値」につい話をするわけだけど、あなた何を守ってる?」
石原 戦後の日本の政治形態があいまいだから、守るに値するものが見失われてきているけど、ぼくはやはり自
         分で守るべきものは、あるいは社会が守らなければならないのは、自由だと思いますね。自由はなにも民
         主主義によって保証されているものではないんで、ある場合には、全然違った政治形態によって保証され
         るのかもしれない。しかし、われわれはどんな形の下であろうと、自由というものを守ればいいんです。
         僕のいう自由というのは、戦後日本人が膾炙してしまった自由と違って、もっと本質的なものです。
   石原は「守るべきものは自由だ。本質的な自由だ」と言っているのですが、三島は自由というのが不満です。君はずいぶん西洋的だなあ(笑)と言っています。
三島 おれは。最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
石原 三種の神器って何ですか。
三島 宮中三殿だよ。
石原 またそんなことを言う。
三島 またそんなことを言うなんて言うんじゃないんだよ。なぜかというと、君、いま日本はナショナリズムが
         どんどん侵食されていて、いまのままでいくとナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ
         。
石原 そんなもの取られたっていいんです。三種の神器にいくまでに、三島由紀夫も消去されちゃうもの。
三島 ああ、消去されちゃう。おれもいなくていいの。おれなんて大した存在じゃない。
石原 そうですか。それは困ったことだなあ。(笑)ヤケにならなくていいですよ。困ったな。
三島 やけじゃないんだ。
石原 三種の神器というのは、ぼくは三島さん自身のことかと思った。
三島 いや、そうじゃない。
石原 やはりぼくは世界のなかに守るものはぼくしかないね。
三島 それは君の自我主義でね。いつか目がさめるでしょうよ。
石原 いや、そんなことはない。
   三島も笑いながらケンカ腰です。もちろん三島の守るべきものは三種の神器です。皇室が持つことで三種の神器ですから、三種の神器とは皇室であり、究極の価値は天皇です。しかし石原には全くわからない。感覚が違うのです。三島が自決前に書いた「文化防衛論」(昭和43年)の中で、日本文化の根源を支えるのは天皇であると書いています。文化概念としての天皇です。三島は戦前の大日本帝国憲法の天皇制は非常に政治的になっていると批判的で、もちろん戦後の天皇制の在り方にも批判的です。もっと根源的な日本の文化としての天皇制、日本の文化全体を包摂する存在、文化概念としての天皇制こそ我々日本人の守るべき価値であり、天皇の存在は日本文化そのものの本質として捉えています。戦後の日本は『菊』(天皇)と『刀』(軍隊)が切り離されましたが、天皇は軍隊をも包括する存在であると捉えています。石原は昭和42年9月に『巷の神々』という本を書いています。これはルポタージュで、昭和40年11月から翌年12月まで産経新聞に連載さました。新興宗教を非常に丁寧に取材し、石原自身のある種の宗教感覚に基づいたように思います。まさに戦後は天皇という人工の神がなくなり、神話が解体され、国家神道が崩壊したことによって新興宗教の神々が誕生した。石原はその神々を自分は取材してみたいと言っています。これが石原の天皇観です。三島の場合は、昭和21年元旦の「昭和天皇の人間宣言」が非常に大きなネックになって『英霊の聲』という作品を書きます。特攻隊の青年たちの「自分たちは天皇が神である」二・二六事件の青年将校たちの革命は決して政治的なクーデターでなく、大御心に待つ
、まさに神的な天皇の御心に待つ世直しである。三島の中にはそういう天皇観がありました。このあたりが石原と三島の天皇観の違いになっていったと思います。しかし「日本の伝統を守る。皇室を守る」ということについて、石原も強い思いを持っていたのは間違いありません。ちなみに三島は「文化防衛論」で大変面白い事を言っております。シビリアンコントロールは非常に重要であるが、現行憲法においても、天皇は自衛隊に軍事上の栄誉を与えることができるだろう、と言っています。日本国憲法第7条で「天皇は内閣の助言と承認により、国民のために左の国事に関する行為を行ふ」とあり、国会を召集する、衆議院を解散するなど10項目があります。その第7項に「栄典を授与する」とあり、これはまさに自衛隊に対して栄誉体験ができるはずで、栄誉体験の実質を回復する。軍の儀杖を陛下に受けて頂きたいと、三島は言っています。このように三島は文化概念としての天皇を考えています。三島と石原の中での天皇への様々な思いは交錯していたと思います。

おわりに
   石原の『国家なる幻影』の最後に“振り向いてくれ愛しきものよ”とありますが、愛しきものとは『国』のことです。誰しも自らの繁栄を望まぬものはなかろうが、その安定や繁栄が、所詮自らの属する国家社会と表裏一体のものでしかないという自明の理を覚悟し直すことでしかない。有色人種の中で日本人だけが為し終えた近代国家の成立を、かつて雄々しく支えたつい以前の明治の人々の気骨を表した福澤諭吉の“独立の心なきもの国を思うこと深切ならず。立国は公にあらず私なり”という雄渾の言葉を、我々は再び自らのものとして取り戻さねばならない。そうやってはじめて我々は愛しきものを振り向かせ取り戻せることができるはずなのだ」と最後を結んでいます。つまり我々は国家を取り戻すことで初めて我々は愛しきものを振り向かせ、取り戻すことができる筈だ
。三島が檄文の最後で「我々が愛する歴史と伝統の国日本だ」と自らの命によってある種現代への予言者になったという気がいたしますし、「この日本を骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか」という思いで石原は89歳の長寿を全うされましたが、生涯闘い続けたと思います。

質疑応答
「質問1」

  ウクライナの問題で日本人は覚醒するでしょうか。

「回答1」

   4年前に亡くなった評論家の西部邁先生は「日本人は覚醒しないといかん」、しかし「覚醒しないかもしれない」と憤っていました。ウクライナ問題は今までとは状勢が違います。明らかにロシアが地上軍を投入し侵略戦争をやっている。しかも国連常任理事国です。アメリカが地上軍を派遣する可能性がないと考えると、冷戦後の多極化する新たな帝国主義時代しかも戦闘を伴う時代に突入したのは間違いありません。日本は今「日米安保」という命綱しかありません。日本は覚醒しないと大変です。具体的には台湾有事です。石原が尖閣にこだわったのも、1972年の日中国交回復50年の問題で、それが今日の台湾有事まで引きずってきていると思います。日本人は今覚醒しなければ困ることになると思います。


「質問2」

  三島、石原両先生は文壇から政治にメッセージを発し影響を与えましたが、今後、文壇あるいは広く表現の世界から日本人の覚醒を促すことが出来るでしょうか。

「回答2」

   今の文壇は政治的に圧倒的にリベラルです。特に純文学の作家はベテランも中堅も基本的にはリベラルです。今回、日本文藝家協会はロシアの侵攻に対し異議申し立てを出しました。一方日本ペンクラブは政治的な団体で
、大江健三郎が反核宣言や反核兵器宣言をやってきてリベラル左翼が多いと思います。マルクス主義的なイデオロギーは崩壊しましたが、アカデミズムも文化人も、基本的にはマルクス主義のイデオロギーが別な形になっているわけです。それがLGBT、差別、多様性、フェミニズムという細々した左翼に拡散しています。また日本共産党も基本的に進歩史観は変わっていないと思います。「雀は大砲で撃ち落とせない」という意味で危険です


「質問3」

  細々とした左翼ということで、悪く言えば矮小化しているように思いますが

「回答3」

   矮小化しているわけではありません。


「質問4」

  政治家の使命は国益と道徳的価値のバランスをとることだというお話をされましたが、今まさに道徳的価値の攻撃、文化的戦争の時代であると思います。例えばジョンレノンの「イマジン」は国家を否定するという歌詞がポイントで、それがあたかも美しいものであるかのようなプロパガンダが浸透しています。私たちが「国を守ろう
、日本を守ろう、国家を守ろう」と言っても、多くの若者がこれにアレルギーを植え付けられていると思うのですが、先生はどのようにお考えですか。

「回答4」

   マイネッケの言っている道徳は、今リベラル左翼が言っている普遍的な、人類とか、道徳ではありません。国家、国民、あるいは民族の中に内在している感覚というものです。ここが非常に重要です。西洋では超越的な価値としての神が当然あり、人間自らが神のようになることをどこかで押しとどめています。そういう意味で為政者の道徳があったと思います。今の危ないのは、道徳がダイバーシティや人類の共通のもので、特定の民族や国家のナショナリズムを批判し、それを抑圧する構造になっていることです。人類というわけのわからない価値観が、その国や民族、その固有の文化を閉じ込めようとしている。また破壊しようとしている。そういう動きは非常に危機としてあると思います。若い人が保守的になっているかどうかは分かりませんが、団塊の世代よりははるかに良いと思います。今の若い人はそれなりの感覚があります。国家、民族が、一般化された道徳や人類の価値との混交に非常に危ういところがあると思います。


「質問5」

  天皇家と秋篠宮家の今の動き、もう一つ中国が一帯一路政策で戦略的に世界に出て行っていることを、どう見たらよいのでしょうか。細々とした左翼ということで、

「回答5」

   石原は日中国交回復以降の中国の台頭を見て、中国は脅威であり、戦後の日本は、中国との政治の舵取りが非常によくなかったという思いが強くあります。三島は共産主義の脅威を中華人民共和国の脅威と言っており、また共和制下の天皇制もありえると『文化防衛論』で言っています。今、日本は憲法の天皇条項に関し議論をする時期に来ていると思います。第1条「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」、第2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」となっています。第1条の象徴は広く文化的と言う意味で解釈をすればよい。しかし「主権の存する日本国民の総意に基づく」とはどうでしょうか。2条は実質的に世襲ですから、この1条と2条の間に矛盾があり、それを解消する必要があると思います。第1条後半の「主権の存する日本国民の総意に基づく」を「日本国民の歴史的な総意に基づく」又は「天皇は日本の文化的代表であって、その地位は日本国民の歴史的総意に基づくものであり、したがって日本国民がその地位を定めるのに関しては、日本の歴史と伝統の制度に則るべきである」と明記すべきだと思います。日本国民、今いる国民だけでなく、我々は歴史や伝統を背負った存在としてある、という自覚を促すように明確に条文に記した方がよいと思います。



   以上は、文芸評論家、関東学院大学教授 富岡幸一郎氏の講演を、國民會館が要約、編集したものです。文章の全責任は國民會館が負うものです.。

お問い合わせ

イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

※メールソフトが開きます

お問い合わせ