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武藤会長「金言」

2020年12月25日 金言(第101号)
松岡洋右と大東亜戦争(1)

■はじめに

  今回は満州事変、対中国戦争、そして三国同盟、国際連盟脱退、ソ連との中立条約、大東亜戦争等の当事者で
ある松岡洋右を取り上げたのだが大変難儀した。何故なら彼の事を書くには、明治維新以来我が国がたどってきた歴史を頭に入れておかなければならない。そのためにいわば日本の近現代史から説き起こす事になってしまった。限られたスペースで日本のたどった歴史を紐解いていくのは骨の折れることであったが、今回は松岡洋右という良くも悪くも気骨のある日本人ばなれした人物について、先ず彼の生きた時代背景を取り上げ
、次回で彼の事績を評述したいと思っている。

■第一章 「朝鮮への勢力拡大を進めた日本」

第1節 「日清戦争と三国干渉」
  第二次世界大戦即ち大東亜戦争(太平洋戦争)における我が国の敗戦は、明治維新以来近代国家として歩んで
きた我が国に極めて大きな爪痕を残した。しかし残念ながら戦後の教育では近代史、現代史を教えないため、戦後生まれの大半の人々はこの大きな戦争が何故起こったのか、戦争の結果我が国がどうなったかについて、おぼろげな知識はあっても詳しく知っている国民はほとんどいないのではないかと思う。
  日本は1868年(明治元年)の明治維新以来富国強兵策を強力に進め、その結果驚異的な発展を示したものの、経済力、
軍事力双方において欧米の列強に比べなお弱体であった。日本は、朝鮮への勢力拡大を図って当時の宗主国清国の勢力排除を図り、1876年(明治9年)には日朝修好条約を結び韓国の開国を実現させたのであったが、清国はこれに対して巻き返しを図り、日本との対決を図って朝鮮に対する日本の勢力拡大を許さなかった。
  この間ロシアの勢力が朝鮮において増大し、同国も宗主国の清国を無視して強大な軍事力を持つロシアに頼ろう
とした。このため清国は、朝鮮に対して厳しい締め付けを行った。この後朝鮮で内乱(東学党の乱)が起こり、これを契機としてお互いに干渉を強めた日本、清国の間で摩擦が拡大して、ついに両国は衝突して日清戦争が始まったのであった。
  戦いは世界の大方の予想を裏切り、近代化された日本軍は清国の陸軍を圧倒し、一方海戦においても1895
年(明治28年)清国の北洋艦隊を壊滅させて日本の勝利が確定した。これにより日本は、清国から遼東半島を獲得するが、これに対してロシア、フランス、ドイツの三国が干渉し、我が国はこの干渉に屈して同半島の返還を余儀なくされた。また、日本の清国に対する勝利によって芽生えていた朝鮮の近代化が、この三国干渉により頓挫したため、急速に親ロシア勢力が台頭してくる。すかさずロシアは軍事力を行使して日本の勢力を圧倒して
、李朝朝鮮を傀儡化してしまう。この事によって日本は朝鮮におけるロシアの政治的、軍事的勢力を排除しない限り、朝鮮を日本の支配下(保護国)におく事は出来ない事を思い知ったのであった。
第2節 「ロシアの南下政策と日露戦争」
  ここへ来て日本は、満州を勢力下においたロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占すること
によって我が国の安全保障を確立することを目指して、ロシアと対決することとなった。
  もう少し詳しく当時の状勢を述べると、日本は清国を圧倒して遼東半島の割譲を受けるが、三国干渉により清
国への返還に応じざるをえなかった。
  ところがロシアは、この後清国と密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端旅順、大連を租借して旅順に太
平洋艦隊の大根拠地を作るなど、満州への進出を押し進めた。さらにロシアは、1900年(明治33年)に清国で起こった義和団の乱(義和団事件)に便乗して、事件の混乱を収拾するとして満州へ侵攻し、全土を占領したのであった。当然日、英、米がこれに抗議したためロシアは撤兵を約束するが、履行期限がきても撤兵せず更なる増強を行ったのである。
  本来ならアジアに大きな権益を持つ大英帝国は、ロシアと直接対決するところであったが、当時英国は、ボー
ア戦争(南アフリカ)に大きく戦費を使っていたため大きく動ける立場になかった。しかし、ロシアの南下が自国の権益に大きな損害を与えると危機感を募らせ、長年守ってきた孤立政策を捨て、日本との同盟に踏み切ったのであった(日英同盟)。ところがロシアは、この日英同盟により満州からは撤兵を開始したが、日本を甘く見て全兵力の撤兵は行わなかった。このような情勢下で日本政府内部にも対露主戦派と戦争回避派が激しく対立する。
  この間ロシアは朝鮮における利権を大幅に拡張しようとした。具体的には鴨緑江の山林事業を行うため、同江
の河口の龍厳浦に軍事拠点を築きはじめ(龍厳浦事件)、そのため朝鮮との間で龍厳浦を租借する条約締結を強行したので、日露間に緊張が高まった。
  1903年(明治33年)8月から10月にかけ日露両国は交渉を重ねるが、日本側が朝鮮半島を日本に、満州をロシアにと
いう提案を行ったのに対しロシアは、朝鮮半島の39度以北を中立地帯として軍事目的には使わないという強硬な提案を行った。これでは朝鮮半島全体が事実上ロシアの勢力圏となり、日本は危機的な孤立に陥らざるを得ないとして、加えて当時建設中であったシベリア鉄道の開通が近い将来見込まれており、もし開通が実現した場合ヨーロッパに配備されているロシア軍の輸送が容易になるため、日本はこの開通前に開戦を決断せざるを得なくなるのである。
  そして1904年(明治34年)2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を宣言し、2月8日旅順口のロシア太平洋艦隊を
攻撃して日露戦争の火蓋が切られたのであった。戦争を遂行するためには膨大な戦費が必要となる。日露戦争が始まったのは明治維新からわずか37年しか経っていなかった。いやむしろその10年前、明治27年我が国は強大な清国と戦っており、その際には多額な外貨が海外に流出した。戦費の総額は4億5,000万円と見積もられ、その1/3を外債に頼らなければならなかったが、当時の我が国の外貨保有量は5,000万円に過ぎなかったから、約1億円を調達しなければ戦争の遂行はおぼつかない。この難局を荷ったのが高橋是清であった。アメリカで経験を積んでいた高橋は、人脈をフルに活用して外債発行による物資調達に成功する。しかもその金額は13億円であった。因みに1903年の一般会計の歳入は2.6億円であった。そして国の一般会計・特別会計による戦費の総額は約18億3,000万円であった。
  日露戦争の山場はいくつかあるが重要なものは、旅順口封鎖、黄海海戦、遼陽会戦、三回にわたる旅順総攻撃、奉天会戦、日本海海戦などがあげられる。これらについて詳述することはこの場では避けたいと思う。日露戦争の全容については司馬遼太郎の「坂の上の雲」や日本海海戦に実際に参加したロシアの作家プリボイの「ツシマ」に詳しく述べられているのでこの辺でとどめておきたい。
第3節 「日露講和条約締結と国民の不満」
  日露戦争の結果は、兵力、火力で劣る日本陸軍が善戦して要となる会戦で勝利し、また旅順攻略にも多大な犠
牲を払いながら成功した。また海軍は、先ず旅順の封鎖に成功し、さらに世界最強のバルチック艦隊を日本海において迎え撃ちこれを全滅させたのであったが、この時点で日本には戦争継続の余力は残っていなかった。シベリア鉄道が開通してロシアは極東への輸送余力が大幅に増し、一方日本陸軍の力はほぼ尽きていた。このような中で英国とアメリカが動いた。アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトは両国の仲介に乗り出し、1905年ポーツマスにおいて日露講和条約が締結される。日本は、この戦争によりロシア帝国の南下政策を抑えることに成功し、両国間で交わされた日露協約により日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその関係は維持された。すなわちこの条約により相互の勢力圏が確定し、日本は朝鮮半島の権益を完全に確保した上ロシアの軍事的脅威を排除したのであった。さらに東清鉄道の一部であった南満州鉄道(満鉄)を獲得し、満州における権益を確たるものとした。
  このように、ロシアの脅威を排除するという我が国の最大の目標は達成されたのであったが、講和条約の内容は、領土として樺太の南半分と千島を獲得しただけで賠償金が取れないなど、国民にとって予想外に厳しいものであり、国民の間で不満が高まって日比谷焼き討ち事件などが起こった。これは、新聞などのマスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して、あたかも日本がロシアに完勝したというイメージを国民に植え付けたことが原因である。国民の多くはロシアに勝利したものの日本の国力は完全に疲弊しきっているという実状を、全く知らされていなかったのである。しかし大国ロシアに勝利した事は、同盟国であった英国やアメリカ、フランス、ドイツなどの列強諸国の日本に対する評価を高め、一応五大国の一角を占めることになった。
  一方敗北を喫したロシアは南下政策をあきらめ、侵略の矛先をバルカンへ向けるようになり、同じくバルカン
へ触手を動かしていたドイツと対立することになり、これが第一次世界大戦へと繋がっていく。

■第二章「中国大陸の利権を巡る争い」

第1節「中国進出の思惑が外れたアメリカ」
  注目すべきはアメリカである。アメリカはポーツマス条約を仲介することによって日本に恩を売り、満州に自
ら進出することを企んでおり、日露講和後に日本がロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合併で経営するという予備協定を、1905年10月当時の桂内閣と成立させ、満州に橋頭堡を築こうとした。しかし、この協定はポーツマスでの日本全権であった小村寿太郎外相によって一蹴されてしまう。アメリカとしては思惑が大きくはずれ、日本の外債募集や講和で協力したにもかかわらず何等利益を得ることがなかったため、不満が膨らんでいった。アメリカはその後も「機会均等」「門戸開放」を掲げて中国への進出を図るが、思惑通りにはならず、日、英、露により中国権益から締め出されてしまう。親日的であったセオドア・ルーズベルト大統領もポーツマス条約の後、急激に対日感情を悪化させる。後年の日米戦争の伏線はこの辺にあるのではないかと考える。 その頃から急激に国力を高め、存在感を増してきた黄色人種国の日本に対してアメリカにおいて人権差別感情が高まり、中国権益から締め出された焦りも手伝って黄禍論が高まり、日米関係は急速に悪化していく。
第2節「満州の利権を握った日本」
  又日露戦争の主戦場となった満州についてであるが、元々満州は清朝の母国であったが、満州民族による清国
全体の力が19世紀末のロシア進出により衰退の道をたどった。特に1900年の義和団事件以降満州は完全にロシアに制圧され、自国領土で日露が会戦するという事態におちいってしまう。清朝も局面の展開を図り、満州への漢民族の移住を図るとともに警察力、防衛力の増強を進めたため日露の行動には歯止めがかかった。しかし1912年に孫文による辛亥革命が起こり、清朝は崩壊し、中華民国が成立する。孫文が失脚した後、袁世凱が実権を握るが、彼は日露の持つ利権に対してはアメリカが資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚と日本側からの干渉が強く、はかばかしい結果を得る事ができなかった。さらに1917年、ロシアに革命が起こり、ロシア帝国は崩壊し、その後は日本が利権の一切を握り、1932年(昭和7年)には満州国を建国する。
第3節「「満州国」建国と中華民国の黙認」
  満州国の成り立ちを詳述すると、日露両国は、1904年から翌年にかけて日露戦争を満州の地で戦ったのであったが、日本は戦勝国となり、満州においては遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。日本は当初、満州の権益確保を独自に行うとしていたが、途中からロシアと共同して満州の権益確保に乗り出すようになった。先にも述べたように、中国大陸における権益確保に乗り遅れていたアメリカはこれに対して反発した。
  1914年(大正3年)第1次世界大戦に参戦した日本は、イギリス軍と共に膠州湾のドイツ租借地の青島を
攻略した。そしてその権益処理のため対華21カ条要求を行い、満州における日本の特殊権益を固定化したのであった。しかし、この後この条約の継続有効(日本)破棄無効(中国)をめぐり日中間の大きなしこりが残ったのであった。その後1917年(大正6年)のロシア革命によりソビエト連邦が成立する。そうなると共産主義の拡大に対する防衛拠点としての満州の重要性が高まり、日本にとって満州は自己防衛のための生命線となった。
  満州においては、清朝末に袁世凱が自己の勢力拡大のため日本、ロシアの権益独占状況を打開しようとしたが、
袁が亡くなった後、張作霖が台頭して独自の勢力を伸ばそうとした。日本はなんとか張作霖と手を結び権益の確保につとめたが、張はなかなか日本の思惑どおりにはならず、その間中国本土では蒋介石率いる中国国民党軍が北伐を開始して、一時は中国本土へ勢力を伸ばしていた張作霖は、満州に撤退した。日本陸軍(関東軍)は手強い張作霖を何とか手なずけようとするが、張は独自の動きを展開したため、ついに張作霖の爆殺に及んだのである。これにより張の息子の張学良は国民党寄りの姿勢を強めたため、関東軍は1931年(昭和6年)9月、満州事変(柳条湖事件)を起こし、満州全土を占領した。その後、関東軍主導の下で同地域は、中華民国からの独立を宣言し1932年(昭和7年)3月に満州国が建国されたのであった。
  そして、元首には清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が皇帝として就任した。満州国の建国は、当然中華民
国にとって不満であったが、日本の圧力は強く、中国国民党も台頭する中国共産党に手を焼き、日本との関係を改善して先ず共産党の包囲作戦に全力を傾け、国内を統一してから日本と戦う基本方針を採用したため、日本側の広田弘毅外相も「和協外交」を展開したことにより、中国における排日運動もおさまり、満州国は中華民国により黙認されたのであった。

■第三章「日中の全面戦争」

第1節「リットン調査団と国際連盟脱退」
  第一次世界大戦の後、アメリカ大統領ウィルソンの提案により、国際的な平和維持機関である国際連盟が設立
された。アメリカは事情により加盟していなかったが、日本のこの満州国建国について、リットン調査団(正式には国際連盟日支紛争調査委員会)が組織され、日本、中国、満州の調査を行った。内容は必ずしも日本の行動を全面的に否定するものではなくて、満州に対して中国が従来から無関心であったこと、しかし張作霖の爆殺は日本側に非がある。柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は自衛的な行為とは言えない。満州国は、地元住民の自発的な独立とは云い難くその存在自体日本軍に支えられている。結論として日本の行為は侵略であるとしている。しかし、満州に持つ日本の条約上の権益、居住権、商標は保護されるべきである等が指摘されている。国際連盟総会は1933年(昭和8年)3月リットン調査団の報告書を審議して、反対は日本のみで賛成42票で可決された。その結果松岡洋右主席全権率いる日本代表団は、国際連盟脱退を宣言して退場したのであった。
第2節「盧溝橋事件の勃発」
  1937年(昭和12年)2月に廣田内閣から林内閣に変わると佐藤尚武外相は、日本の対中優越観念の放棄
や中華民国への軍事的な威嚇方針を中止して、平和的な交渉に移るよう外交方針を変更し、また陸軍参謀本部の石原莞爾戦争指導課長も中国に対する従来の帝国主義的侵略政策をやめるよう唱えた。しかし、一方関東軍は対高圧政策をあらためず、対中国一撃論を変更しなかった。
  誠に残念であったのは、同年5月中華民国は、イギリスに財政基盤強化のため借款を要請し、イギリスは日本に
も参加要請していた。5月31日に林内閣が総辞職して国民から期待されていた近衛文麿が首相として登場する。イギリスから要請を受けた駐英大使の川越氏は借款供与提案を受託するよう上申し、この電報は盧溝橋事件の前日7月6日に外務省に届いたのであった。もし日本の借款供与が実現していたら日中関係は緩和していたのではないか。
  1937年(昭和12年)7月7日、当時中国北部に駐屯していた日本軍の夜間演習中に実弾が二度撃ち込まれ、これを契機として日本軍は中国軍陣地に攻撃を加え、その後国民党軍と衝突して盧溝橋事件が勃発した。日本軍が駐留していた場所は豊台といい、そもそも義和団の乱の際国際的な事後処理として定められた正式な駐留可能地ではなく、中国側から見ると法的根拠のない駐留で、当時この地区の居留民保護として駐留していたもので、他にフランス、アメリカ、イギリス、イタリアの各兵が、各国の駐留民約18,000名を保護するためのものであった。しかし中国側は猛反発して日中が闘うことになる。近衛内閣は不拡大方針を決めるが、一方で関東軍は増派して中国側の責任を追及した。しかし、中国共産党は、国共合作による全面抗戦を主張したため、中国軍は再び盧溝橋付近で日本軍を攻撃した。
第3節「日中全面戦争へ発展」
  その後事件は上海にまで拡大して、日本軍も陸軍を派遣したため日中全面戦争に突入してしまう。日本は上海、南京、杭州、南昌の空爆を決行したため列強から強く非難される。上海攻略後戦争は次々と拡大していくが、その間行われた和平交渉は決裂して、ついに日本軍は12月13日首都南京を占領する。続いて日本軍は徐州、漢口、広東、武漢を陥落させたため、蒋介石は重慶に政府を移すことになる。
  1938年(昭和13年)近衛首相は「蒋介石政府はすでに地方政府に過ぎず、日本の目的は東亜新秩序の建
設に在り」と宣言する。これに対して蒋介石は猛反発するが、それよりもアメリカ合衆国が日本の中国に対する対拠方法を真向から批判するようになる。
  このように対中国戦争は泥沼化していくのである。そして日本の対中国戦争遂行についてアメリカ、イギリス、フランス等の列強は、強く批判を加えるようになり、蒋介石援助のための援蒋ルートが各方面から開かれるよう
になった。従って日本の攻撃は、ただ中国内の点を攻略するだけで、重慶の蒋介石を完全に打倒する事はいわば不可能となってきた。それに加えてソ連も満州、蒙古への関与を深めようとして1938年(昭和13年)5月ノモンハンにおいて日本軍を攻撃する事件が起こった。松岡が外交戦略を展開した背景はこのよう情勢下であり、次回に彼が各場面においどのような行動をとったかを詳述したいと思う。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2020年11月28日 金言(第100号)
尖閣諸島の防衛について憂う

■はじめに

  私は2012年8月22日付の金言(第1号)で、「竹島、尖閣への弱腰姿勢を憂う」と題して尖閣諸島、竹島に関する日本政府の弱腰姿勢を論じたのであったが、あれから8年以上経過した今も尖閣に対する中国の攻勢はとどまることを知らず、今年に入ってからは尖閣の海域に対する中国海警局巡視船の侵入が、毎日のように行われている。
  具体的には本年4月14日から8月2日まで連続111日に亘り、中国公船が尖閣諸島周辺を航行し、我が国の領海内に迄長時間の侵入を繰り返し、尖閣周辺で操業している日本漁船を追尾するなどの、許されざる行為にも出ている。さらに8月16日には中国側が設定している禁漁期間が明けるとともに、膨大な中国漁船が尖閣諸島周辺海域にも出現して、操業を行っている。

■第一章 「尖閣諸島をめぐる領土問題」

第1節 「我が国が抱える三つの領土問題」
  さて、我が国が直面している領土問題は先ずロシアとの間の北方領土問題。これについては1945年のソ連の侵略により国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島の四島を失って現在に至っているのであるが、歴代の首相はこれの返還を求めている。しかしロシア(ソ連)は巧妙に拒否を続け現在に至っている。安倍前首相はプーチン大統領と、過去7年間に11回も訪露して実に27回の首脳会談を行い、北方領土問題解決に積極的に取り組んできたが、誠に残念ながら経済協力を進めながら領土問題を解決する「新しいアプローチ」を打ち出し、国是だった「4島返還」を「2島プラスアルファ」に転換して交渉を進めたが、このような努力もロシアには全く通じず、直近では歯舞、色丹2島の返還をうたった1956年の日ソ共同宣言を基にした交渉にさえも、「ゼロ回答」というロシアの強硬姿勢により現在に至っている。
  二つ目の領土問題は韓国との間の竹島の問題である。竹島は戦前から島根県に属する我が国の領土であって、戦後発効したサンフランシスコ平和条約においても日本帰属が確定していた。ところが当時の韓国大統領、李承晩が一方的に海洋主権宣言を行い、竹島の領有を宣言して、同島を自国の領海(李承晩ライン)に取り込み、以後武力によって不法占拠支配を続けており、我が国の施政権が及ばない状態が続いている。三つ目が今回述べている尖閣諸島の問題である。
第2節 「尖閣諸島を領土化した歴史的経過」
  尖閣諸島はその存在する位置から明治時代(19世紀末)から清国領なのか、日本領なのか微妙な立ち位置にあった。しかし、石垣島や宮古島、沖縄本島の糸満の漁民などがこの周辺海域で活発な活動を行い、漁場として開拓、活用していたのであった。そして沖縄県は1893年無人島を含む海域での漁業秩序を確立するため、尖閣諸島を沖縄県の行政区内である事を認めてほしいという内容の要請を日本政府に行った。これは沖縄県が、この島々を実効支配すべきであるという理由であったが、同時に沖縄県と清国との間にある島嶼がいずれに属するのか、はっきりさせておきたかったからである。1895年1月、日本政府は国際法の原則である「無主地先占」に基づき、正式に尖閣諸島を日本領に編入して沖縄県の一部とした。この際当時の清国政府はこれらの島々に格別の配慮を示さなかったため、日本政府はこのような処置をとったのであった。尖閣諸島は魚釣島、久場島、南小島、大正島の四つに分かれているが、政府はこれを国有化した。そして大正島を除く4島は、福岡県の民間人である古賀辰四郎氏に30年間の期限で無償貸与された。この時点から日本による実効支配が始まったのであった。
  古賀氏は政府より開発許可を得て、鰹節工場を経営し、さらに多額の資本を投じ、桟橋、船着場、貯水場など
のインフラ整備を行った。こうして最盛期には同島には99戸248人の日本人が暮らしていた。
  日本政府は、尖閣諸島が歴史的にも一貫して日本領である南西諸島の一部を構成している事を確認しており、1885年頃から沖縄県を通して何度も現地調査を実施し、さらに前出の民間人古賀氏は全島の探検活動を行い
、尖閣諸島が無人島であるだけではなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認した上で、日本領土として正式に編入したのであった。もう一つ特記しておかなければならないのは、尖閣活動は日清戦争の結果、日本が清国から割譲を受けた「台湾及び澎湖諸島」には含まれていないということで、これは対中国に対して極めて重要な事である。
  その後南洋諸島からの安価な鰹節が出回り出して、同島の経営を圧迫した。その結果1940年に燃料の欠乏などにより工場は閉鎖され、尖閣諸島は再び無人島となった。なお島の所有権は1972年の沖縄返還後に別人に譲渡され、2012年に久場島を除く3島は国有地となった。
  このように1885年以来、我が国が正当な手続きを踏み無人島であった同諸島を我が国の領土とした事は、国際法上からも全く問題ない。さらに1951年のサンフランシスコ講和条約において、同諸島が、日本が放棄した台湾、澎湖諸島、西沙群島に所属していない沖縄の一部である事が確認されている。
第3節 「中国、台湾の姿勢」
  一方中国の姿勢は、1953年1月8日付の中国共産党の機関紙、人民日報で「当時米軍によって占拠されていた琉球群島について、当地は中国(台湾)と日本の九州島西南の海上に位置する。そこには尖閣諸島、先島諸島
、大東諸島、沖縄諸島、トカラ列島、大隅諸島などの7つの島嶼からなっており」と紹介している。すなわち琉球諸島に尖閣諸島が含まれていることを公然と認めている。これに対して中国側は2011年になって、この記事は日本側の資料を翻訳したもので、中国側が公式に認めたものではないとの反論がなされている。たしかにこの記事は、大隅諸島を琉球群島に含めるなど日本側から見ても正確さを欠くが、肝腎の中国が「自国の固有の領土」と考える島々を、この時点では中国の固有の領土とは認識しておらず、沖縄の人々の生活圏であると認めていたと思われる。
  さらにアメリカの軍政下のもとで米軍は、尖閣諸島の二つの島、久場島、大正島を射爆場として使用していたが、もし仮に中国が当時から尖閣諸島を固有の領土として認識していたとするならば、己の固有の領土をアメリカ帝国主義が侵しているとの抗議があってもおかしくなかったのであるが、そのような事実は全くない。さらに特記しておかなければならないのは、米軍の施政下でも沖縄の漁民は、返還前の1950年代にも尖閣諸島で鰹節の半製品の製造も行っている。さらに冬期においては尖閣の海域でカジキ漁を始めとする大掛かりな漁を行っていた。一方台湾漁民は尖閣諸島近海が好漁場であったため、たびたびこの場所での操業を行い日本の漁民との間で摩擦が生じていた。さらに台湾の漁民は無人島である事を良い事にして、島に上陸してアホウドリやカツオドリを密漁し、これらの鳥は激減したといわれている。
  そのような既成事実が重なる事で、当時から地元の南西群島の住民の間では、第二の竹島になると危惧されるようになった。これを受けて当時の琉球政府は尖閣諸島が石垣市に属することを前提に、警察本部の救難艇によるパトロールを実施し、台湾漁民の退去を命じるなど、積極的な活動を行うようになった。そして1970年7月には領域表示板を立てている。

■第二章「石油資源の発見で潮目が変わる」

第1節「中国、台湾の主張に変化」
  1968年になって、ここに大きな問題がクローズアップされたのである。すなわちこの年国連が行った東シナ海における海底調査の結果、ここの大陸棚には大量の石油資源が埋蔵されている可能性が指摘され、1970年には台湾が領有権を主張しはじめ、これに中国が追随したのであった。1969年から1970年にかけての国連の海洋調査では、推定1095億バレルという、イラク一国の埋蔵量に匹敵する膨大な量の石油があるとの可能性が報告された。1970年に台湾の公的機関である水産試験所の船が魚釣島に上陸して、国旗を立てるという事件があったが、琉球政府はこれを撤去したのであった。そして1971年6月に台湾が、12月に中国が相次いで領有権を主張したのであった。
  一方長年にわたる祖国復帰運動が実り、1972年(昭和47年)5月15日沖縄は日本に復帰した。台湾、
中国の領有権主張は沖縄返還より前だったのである。彼等の主張の根拠は、尖閣諸島は中国側の大陸棚に接続しており、又これはとても根拠にならない事であるが、古文書(?)に尖閣諸島を目印として航海に役立てていたという記述がみられる事で、最も古くから同諸島の存在を把握していたという解釈によっている。すなわち中国人が先に発見したから領有権を主張出来るというものである。但し、1970年以前に用いられた地図や公文書によれば、両国とも日本領であると認識していた事は明らかで、米国の沖縄施政時代にも両国とも米国統治に抗議した事は全くない。従って急に領有権を主張しだした理由は、石油発見以外に考えられない。そのため国際判例では、以前黙認した関係に反する主張は後になって許されないとする、「禁反言」の法理が成立すると云われている。我が国は「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も明らかに日本の領土であり、かつ実効支配していることから領土問題は存在せず、解決すべき問題はそもそも存在しない」という立場である。
第2節「国境問題を固定化させた日中平和友好条約」
  中国が自国領であると主張する根拠に、海底油田という要素の他に中国で流布されているものとして、日本が
台湾(中華民国)を捨てて中華人民共和国との国交樹立締結に走った事に怒った台湾が、国交締結前日に嫌がらせとして提出した領土主張に対し、機を見るに敏な中華人民共和国が同じ日に領有問題の主張を追加したところ、これを当時の国交交渉担当であった福田首相、大平外相が「棚上げして後世に託す」という玉虫色のまま国交を回復させ、今日の領土問題の主張に日本側にとってのマイナス材料をつくってしまったというのである。
  1978年12月に日中平和友好条約が締結されたが、それより少し前の4月、武装した100隻を超える中国漁船が海上保安庁の退去命令を無視して領海侵犯を繰り返した。日本側が抗議すると中国側は、事件は「偶発的
」なものであると応えた。1978年8月ケ小平は「再びこのような事件を起こすことはない」と約束し、福田内閣は日中平和友好条約に調印したのであった。この時ケ小平は「我々の時代では知恵が足りないので話し合いはまとまらないが、次の世代ではもっと良い知恵も浮かんでくるであろう。その時には誰もが受け入れられる解決方法が見い出されるだろう」と発言している。しかし、これは実質的には棚上げで、何時になるかわからない次世代に問題を託すとしながらも、長期に亘って尖閣諸島問題を国境問題として固定化することに成功したのであって、これこそ国境問題が未解決として中国が迫ってくる根拠となっている。
  もう一つ、台湾の主張に触れておきたい。先にも触れたように尖閣諸島は、1895年の日本による台湾併合により日本に領有権が移ったというのが台湾の公式見解である。しかし、1970年以前に用いていた台湾の地図や公文書には、はっきりと尖閣諸島は日本領であると認識されており、アメリカが統治していた事にも一切抗議しておらず、急に領有権を主張し出したのは国連の調査結果が発表されてからである。しかし台湾の狙いは領土より漁業権にあると思われる。

■第三章「棚上された尖閣諸島問題の再燃」

第1節「きっかけは中国漁船の衝突事件」
  さて尖閣諸島の領有の問題についての経過は上記の通りであるが、中国が日本の固有の領土である同諸島に露骨な干渉を示し出したきっかけは、2010年9月7日に起こった中国漁船衝突事件であった。この事件は同日午前、尖閣諸島付近で操業していた中国漁船と、これを違法操業として取り締まりを実施していた海上保安庁の巡視船との間で起こった事件である。詳しく述べると尖閣諸島付近の海域をパトロールしていた巡視船「みずき」が中国籍の不審船を発見して退去を命じたにもかかわらず、同船はそれを無視して違法操業を続け、その後逃走中に巡視船「みずき」と「よなくに」にわざと衝突して、この2隻を破損させたのであった。海上保安庁は直ちに同漁船の船長を、公務執行妨害で逮捕して取り調べのため石垣島へ連行、また同船及び残る船員をも石垣島へ回航して事情聴取を行った。そして翌々日の9日、那覇地方検察庁石垣支部に送検した。中国政府はこれに対し
、中国固有の領土であると猛烈に反発し、船長、船員の即時釈放を要求した。これを受けて中国漁船を返還するとともに船員を帰国させたが、船長については国内法にのっとり起訴することとし、19日(10日の拘留期限)の延長を決めた。ところがこれに対して中国側はさらに強く反発して、即座に日本に対してレアアースの輸出禁止、中国在住の邦人拘留など直ちに報復に打って出たため、当時の民主党政権の菅首相はすっかり動揺してしまい、船長を釈放してしまったのが一連の事件のあらましである。
  当時中国漁船ははっきりと領海を侵しており、なおかつ衝突の記録動画によれば意図的な中国漁船の犯行である事は明らかである。当時野党であった自民党は「国内法、領土を守るという国家として当たり前の事を放棄した
」として菅内閣の弱腰外交を糾弾している。
第2節「野田内閣は尖閣諸島の国有化を決定」
  事件の起こる前々年2008年頃から、中国の海洋調査船が尖閣諸島の領海に侵入していたが、この2010年の事件以降中国の公船が領海侵犯を繰り返して、尖閣諸島の日本の実効支配を打破するための攻勢を強めてきた。それらの動きを受けて、2012年、当時東京都知事であった石原慎太郎氏がワシントンにおけるヘリテージ財団で行なった演説の中で、尖閣諸島を東京都が地権関係者から買い取る事で合意した事を、明らかにしたのであった。石原氏の意図は、これにより島に港湾施設を整備して日本の実効支配を確実にするためのものであった。東京都は購入資金を捻出するため、寄付金を募集して実に14億円強の資金が集まった。日本人の愛国的な行為には頭が下がる。
  東京都は「購入する前に上陸調査をする必要がある」として、当時の民主党政府に上陸を申請したが、中国を慮る民主党政府はこれを却下したので、しかたなく船舶をチャーターして洋上からの視察を行った。当時の丹羽宇一郎駐中大使は「購入は日中関係に重大な影響を及ぼす」と発言し、与野党から批判を浴び、その後更迭された。
  この東京都が購入する計画に対して中国政府は激しく反発したため、当時の野田内閣は反発を和らげ、かつ今後安定的な維持管理をはかるため、国有化を決定したのであった。これに対して中国政府は日本政府の意図とは全く別方向に傾き、メディアを含めて大々的な反日抗議活動を展開したため、日本人や日系関連の工場や施設に対する破壊、また暴力的なデモが展開された。
第3節「エスカレートする中国船舶の領海侵入」
  中国が尖閣周辺の日本領海内や接続水域に監視船を派遣し始めたのは、2008年12月であったが、2010年9月の漁船衝突事件以降は、ほぼ毎月のペースで中国公船が派遣され、領海侵犯を繰り返しており、年を追ってその頻度は増している。特に本年になってからの領海接続水域への侵入は11月になって年300回を超えた。このような中国の動向を「問題は尖閣諸島が中国の手に落ちるかどうかではない。何時落ちるかである」と評する向きもある状況で、中国の日本に対する圧迫ぶりはこのような段階にまできているのである。
  海上保安庁は水産庁を通して漁師たちに危険水域には漁に出ないように自粛を求めているが、本来なら海上保安庁が守ってでも漁をさせるべきなのに、中国の出方をおそれて過剰に配慮しているといわれても仕方がない。一方外務省も同様で、「対抗している」と繰り返すが、現実には「遺憾」と云うばかりでこれではなめられるばかりではないか。
  尖閣諸島周辺に現れる中国の公船は長い間2隻体制であったが、平成29年から4隻体制になっている。しかも5,000トンクラスと、海上保安庁の1,000トンクラスに比べて大型化しており軍艦なみの大型の機関砲を装備した船まである。また以前は4隻がまとまって動いていたが、昨年後半頃から2隻ずつに分散して行動するようになり、これに対抗するためにはより多くの巡視船が必要になる。現在石垣管区の巡視船12隻で対応しているが、日本側の負担は増すばかりである。先日國民會館で講演していただいたジャーナリストの井上和彦氏は、当面の対策として自衛隊艦隊の艦艇は30年で退役してスクラップ化されるが、諸外国は50年であり、また一般自衛官の定年は50歳代であるから、現役の定年期限を延長して艦船とともに尖閣に投入してはと提案されていた。名案と思うが如何であろうか。
  さらに、ここ数年の中国側の動きは10日に1日程度のペースで領海に侵入して数時間居すわった後、接続海域に出るというパターンであったが、本年5月突如としてこのパターンからはずれ、日本の領海に侵入してそこで漁をしていた日本漁船を追尾するという事件が起こり、この時は海上保安庁の巡視船が間に入り接近を食い止めたが、その後も中国船は同じような行動を繰り返している。また領海内に居坐る時間も増え、直近では50数時間にも及んだ。
  また中国外務省は「日本漁船が中国の領海内で操業したため、取り締まりを行い海域から出るよう求めた」と批判した。これは「我々は主権を行使しているものである」と主張している事になるが、いずれも海上保安庁の船が間に入って接近を防いでいるので取り締まりは行われていない。しかし、これは中国政府があたかも取り締まりが行われ、主権を行使したかのように発表して、あたかもこの海域が中国の管理する海であるかのように宣伝することを狙っているものと思われる。
  このように中国は、時間をかけて中国の公船がその海域にいるという既成事実を積み上げて、自己に都合のよい情報発信を繰り返して尖閣を手中にすることを目論んでいる。最近中国は日本の「海上保安庁法」にあたる「海警法」を改正して、中国海警局の武器使用規定を新たに設定し、具体的には日本漁船に対する発砲を認めるとの事が盛り込まれた模様である。
第4節「我が国は中国に毅然と対処すべし」
  さて、我が国は現在中国がとっている「戦わずして勝つ」という孫子の兵法の軛から逃れるため、毅然とした対処を行うべきである。それは先ず日本の実効支配体制の確立である。実効支配が行われていなければ、「日米安保条第5条」は適用されない。アメリカは尖閣有事の際、日米安保は適用されると云っているが、現状では心許ない。具体的には日本人を尖閣に住まわすことである。そして漁民のための臨時の船着場、簡易宿泊施設、気象観測所、ヘリの発着基地などを整えることである。また中国の経済制裁をかわすため、日本の経済依存度を低くする努力をし、逆に中国の対日依存度を高める品目を作っておかなければならない。次に日本は世界に対し、1895年以来尖閣諸島が日本の沖縄県に属している事をもっと広く世界に積極的に喧伝すべきである。現在の欧米の受け取り方は正直「尖閣?ああ、あの岩か」といった感覚である。実際尖閣は竹島と比べ物にならない大きな島であり、台湾防衛とも密接にかかわっている。日本政府は、具体的な実行支配に消極的で先般も尖閣の生物等の調査についても上陸を許さず、衛星の利用による調査にとどまった。

■おわりに

  最後に尖閣諸島乃至その海域で軍事衝突があった場合、米国の次期大統領は日米安保条約第5条に基づき日本支援を確約しているが、そのための協議体制を至急立ち上げておくべきである。いずれにしても現状では政府は実効支配のための有効な手を何等打っていない。このままの状況では尖閣が中国の手に落ちるのは時間の問題である。さらに憂慮すべきは、中国の次の狙いは沖縄、そして台湾である事は目に見えている。そういう意味で、ここで日本が積極的に動けばアメリカも腰を据えて対処せざるを得ないと考える。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2020年10月26日 金言(第99号)
「日本学術会議」を考える

■はじめに

  菅首相は日本学術会議が推薦した新会員候補105名の内、6名を会員に任命しなかった。この処置は大変反響を呼び、大新聞においてもそれはおかしいと頭から否定する朝日新聞、毎日新聞に対し、産経新聞、読売新聞は肯定、日経新聞はどちらかというと肯定するが、私の見たところ余り事をかまえたくないという態度である。
  さて、これを読んで頂いている皆さんも、この「日本学術会議」とは何かはっきりと知っている人は少ないのではないかと思う。かく云う、日々の新聞には相当詳しく目を通している私ですら、この存在は知っていたが、はたしてどんな事をやっている団体なのかよく存じていなかった。

■第一章 「日本学術会議とは」

第1節 「概要」
  日本学術会議とは、日本の国立アカデミーであり、日本科学界の代表的な研究者らをメンバーとする内閣府の特別な機関の一つである。この機関は科学の向上ならびに発展を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させる事を目標としている。さらに、日本学術会議法においては首相直属の組織であり、独立して科学に関する重要事項の審議を行うと定められている。その経費については国の予算等でまかなわれるが、その予算総額は約10億円である。
  会員は210名であるが、「優れた研究、業績がある。」と学術研究団体から推薦された会員候補者のうちから選ばれた210名の会員と、約2,000名の連携会員により構成されている。
  会員の任期は6年で、3年毎に半数が入れ替わる。会員は再任出来ないことになっている。定年は70歳である。会員は、会員の意見を参考にして学術会議が新会員を推薦し、内閣総理大臣が任命する。

■第二章「日本学術会議の問題点」

第1節「会員選出方法の問題」
  現在の推薦制度が始まったのは2004年以降で、それまで会員は、研究者による直接選挙で選ばれていた。1984年から各分野の学術協会推薦に変更となり、2005年からは現会員が、次の会員を選ぶコ・オプテーション方式(現会員による新会員の選出)になっている。この現会員が会員を選ぶ制度については資質がある後継者を選ぶことに適していても、すでに会員となっている者と、思想や意見が相違している集団から選ぶことには適していないとの指摘がある一方、このようなやり方は「一部のシニアで偉い先生方の仲良しクラブになってしまっている」「一つの団体が権威を持って特定の考えをすべての研究者に押し付けている」「各大学や機関は学術会議の圧力に屈せず、研究者の自由と権利を守ることを第一に考えるべきだ」「このような非民主的かつ閉鎖的な組織が日本の学術界で最高の権威を持ってしまっていて、ひとたび声明を出せば大学や学界を委縮させ、研究者の自由な活動が奪われてしまうのは大変深刻な問題である」等、前々から会員、組織について問題が投げかけられていた。一方、1970年代から大学は「大学自治と称するカーテンによって閉鎖された特殊社会であり、そこを職場とする教師達には独特の甘えがあり、独りよがりの色合いが濃く、又おしなべて反権力的である」「このような環境は進歩的左翼が育つ絶好の場で、学術会議は主にこのようなところから送り出されたメンバーによって構成されている」という指摘があった。
  現行の学術会議の新会員を、会議が推薦して首相が任命する制度が始まったのは2004年であるが、首相が推薦候補を任命しなかったのは初めてである。しかし、国費で運営される学術会議のメンバーは特別職公務員の身分を持ち、今回の処置について「国の関与は当然である」との見方もある。
第2節「学術会議が研究対象を選別するのは疑問」
  一方学術会議は、平成29年科学者は軍事的研究を行わないとする声明を出した。これは昭和25年、42年に出した声明を継承したものである。声明は「軍事に関する研究を行えば、政府による研究者への干渉が強まる」などとしているがどうであろうか?
  また防衛省創設の研究助成費を批判しているが、これは技術的な優位を確保する日本の取り組みを阻害しかねない内容である。加えてこの声明の作成過程では、自衛隊の合憲性に疑義が出るなど、まさに浮世離れした意見が続出したのであった。
  さて欧米諸国のような先進民主主義国でも、防衛当局と産業界が協力して先端技術を開発するのは当たり前のことである。軍事研究を行わないとする一方で、海外から集めた先端技術の軍事利用を積極的に進める中国から、多数の科学者を受け入れている事実には頬被りなのはどうした事か?自民党の山谷えり子氏は「日本の平和を守るための研究を禁じる一方、中国には非常に協力的である」と同会議に疑問を呈している。
  憲法15条は、その第3章「国民の権利及び義務」の条文で、その1項には「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と示し、2項においては「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定する。そうであるならば、特別職の国家公務員である学術会議の会員が研究対象を選別すべきでないことは、自明の理ではなかろうか。
第3節「薄れていった政策関与の役割」
  さらに学術会議の重要な役割は、政府への答申や勧告、要望なのであるが、肝腎のこれらが10年以上出されていない事は、自らの役割放棄ではないであろうか。たしかに学術会議は、発足後しばらくは法律に基づく政府への勧告などで、影響力があったのは事実である。東京大学原子核研究所や国立極地研究所など、学術会議の勧告によって設立された研究機関も少なくない。しかし、1959年の政府による科学技術会議や、学術審議会の設置を受け、政策への関与は薄れていった。その結果上に述べたように、勧告は、科学技術基本法の見直しなどについて2010年に出したのが最後で答申にいたっては07年以降出されていない。省庁からの審議依頼への回答も、過去10年にたった8回しかなされていない。

■第三章「日本学術会議の会員の任命権」

第1節「御手盛りが許されない公的機関構成員の任命」
  政府は、10月6日学術会議の推薦通りに会員を任命する義務を首相は持たないとする、内閣府の見解をまとめた平成30年11月に作成した文書を公開した。これによると定員を超える候補者の推薦を会議に求め、首相がその中から任命することを認め、「首相は人事を通じた一定の監督権行使が出来る」と明記している。
  野党の連中は、会議が推薦した候補者を日本学術会議法に基づき、任命権者の首相が形式的に任命すべきであると主張するが、会議体のメンバーはあくまで御手盛りは許されない。一定の監査(フィルター)が必要である。国会議員は選挙により選ばれるし、その他公の機関の構成員は会員の内部の推薦だけで選ばれるのではない。過去において問題となった、株式会社の取締役を例に挙げると、これは商法では会社が推薦した候補者を総会で承認する事になっているが、少し前までは全く有名無実で総会を牛耳る会社の意向通り決まっていた。しかし、何度かの商法改正により、また近年株主の質も変わってきて俗にいう「物云う株主」が増加して、必ずしも会社の意向通りにはなっていないのである。従って学術会議の会員選考についても、今回のように政府の意向により任命拒否があってもこれは当然の事と思うのである。
第2節「大多数の国民が納得できる会員を任命」
  菅首相はその理由を「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断した」と述べており、よく意味がわからないと反論する向きもあるが、私としてはよく理解出来る。任命された会員について国民の大多数が納得できるものでなければならないという事である。任命されなかった6名の方々の行動についてはこの後述べるが、国民は納得出来るのではないか。ただ政府は従来の形式的な任命から、何故このタイミングで方向転換したのか、その理由をもっと語るべきであったのではないであろうか。また政府は、学術会議のやってきた事すなわち中国よりの行動などについてもっと広く国民にPRする必要があったと思う。
  具体的には、国内外の環境の変化についてどのような考え方を持ち、いかなる理由により従来の一律的だった任命方法を変えたのかということである。これについては我が国を取り巻く安全保障環境が悪化する中、国民の生命、財産と安全を守る防衛研究に異議を唱え続ける学術会議こそ、国益を害しているのであるからこの際はっきりと従来からのやり方を変更したと断言すべきであった。
  しかも先述した通り学術会議は、平成27年9月に中国科学技術協会との協力促進を図ることを目的とした覚書を締結している。軍事研究を行わないとしながら、学術研究の軍事転用を積極的に進める中国との学術協力を行うのは背信行為であり、まさにダブルスタンダードと云われても仕方がない。一方で同会議は、政府の4兆円の研究予算配分に一定の影響力を持っている。学術会議が大型研究プロジェクトに関する「マスタープラン」を策定する。文科省はこれを参考にして優先的に研究計画を決める。政府関係者の話によると、学術会議は安全保障分野への予算配分に極めて慎重で、日本の防衛装備の技術開発が進まず中国に遅れを取る原因は、ここにあると云っている。中国でも米国でも軍装備は官民合同でやっている。首相は、正直なところ産業界と防衛省が一体となって軍事問題に取りかかれという提言こそ、学術会議に求めているのであって、今回会員になれなかった連中が「理由は全くわからない」などと云っているのはナンセンスという他はない。
  今回の件で、学問の自由への侵害という批判が大々的に行われているが、学術会議のメンバーに任命されない事が、そもそもどうして学問の自由の侵害なのか理解出来ない。学問は個人個人が行うものであるが、会員にならなければ自由な研究が出来ないなど絶対に有り得ない話である。
  もう一つ批判の中で、菅首相の人事介入との批判もある。たしかに学術会議法で「独立して職務を行う」と規定があるが、会員は広い意味で行政機関の一員ではないか。従って首相の下の行政機関である学術会議において、学術会議が推薦する会員をそのまま任命する方法こそ間違っており、政府側が責任をもって人事を行うことこそ当然の行為と思う。
第3節「日本学士院へのステップではない」
  余談になるが、我が国の国立アカデミーとして、文部科学省の特別機関に日本学士院という組織がある。この組織は1879年(明治12年)に創られた初代会長は福澤諭吉という、我が国最高の特別機関で「学術上功績が顕著な科学者を優遇するための機関として、学術の発達に寄与するための事業を行う」とされている。会員は終身で定員は150名。人文科学部門と自然科学部門があり、合計7分科に分かれている。死亡により欠員が出た場合は、各分科の会員の選挙で選ばれる。会員は特別職の非常勤国家公務員であり、年金250万円が授与されている。学士院は功成り名をとげた学者の集団とも云えるが、それなりに毎月定例研究会がもたれ、活動している。今回の日本学術会議の会員問題が発生した時、勉強不足のテレビの解説者が両者を混同して間違え、日本学術会議の会員には250万円の手当が支給されると発言して物議をかもしたのであった。
  これは勘繰りであるが、日本学術会議の会員になりたがるのは、将来の日本学士院会員へのステップとして考えているのではないかと疑いたくなる。
第4節「就任が見送られた6名の人達」
  さて、今回学術会議が推薦した105名の内、6名が就任を見送られたわけであるが、この6名がはたしてどのような方々なのかはっきりとさせておきたい。この6名に共通するのは、集団的自衛権の行使を限定的に容認した安全保障関連法など安保、治安立法に反対した人達である。以下詳述すると、
  • 1.東京大学 宇野重規教授(政治思想史)
     2013年に成立した「特定秘密保護法」に反対して、また「安全保障関連法案に反対する学者の会」呼びか
        け人
  • 2.早稲田大学 岡田正則教授(行政法学)
     「安全保障関連法の廃止を求める早稲田大学有志の会」の呼びかけ人で、沖縄辺野古基地を巡り政府に抗議す
        る声明を発表
  • 3.京都大学 芦名定道教授(キリスト教学)
     「安全保障関連法に反対する学者の会」や、安保関連法案に反対する「自由と平和のための京大有志の会」賛
        同者
  • 4.東京慈恵会医科大学 小沢隆一教授(憲法学)
     2015年7月13日の安全保障関連法案の特別委員会において「憲法9条のもとで個別的、集団的を問わず
        自衛権の行使であっても戦争や武力の行使は出来ない」と主張
  • 5.立命館大学 松宮孝明教授(刑事法学)
     2017年6月1日の組織犯罪処罰法改正案に関する参議院法務委員で、「戦後最悪の法案立法、これにより
        市民生活の自由と安全が危機にさらされる」と批判
  • 6.東京大学 加藤陽子教授(日本近代史)
     「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人で改憲や「特定秘密保護法」に反対し、左翼擁護の発言が多い
  •   以上が就任を拒否された学者のプロフィールであるが、これをご覧になってどのように思われるか。就任を拒否された全員が左翼の学者で、日本を亡国に導くことを是とする面々である事に気づかれたと思う。

    ■第四章 「今後の日本学術会議」

    第1節 「欧米のアカデミーの運営方法」
      元々現在の日本学術会議の存在自体がおかしい。欧米にも「アカデミー」と呼ばれ、政府への助言、提言を行う科学技術団体は各国にあるが、我が国の学術会議とは異なる点が多い。学術会議が政府機関なのに対して、米科学アカデミーは民間非営利組織であり、フランスの科学アカデミーや英国の王立協会も非政府組織(NGO)であり、欧米の組織は独立性が高い。資金の支援を受ける団体もあるが、予算に国費が占める割合はほとんどが30%〜50%程度で、寄付や基本財産の運用益、財団からの助成金などにより運営されている。
      会員が特別職の公務員というのは日本だけで、欧米では会員は全員民間人で、トップのみに報酬が支払われる組織が大半である。会員の選出方法は現会員が推薦する方法が多く、終身会員が中心となるため審査には研究の成果などの学術的な功績に重点がおかれているため、人選を巡る批判はほとんどないらしい。
    第2節 「学術会議のあり方を検討する契機」
      今回の新会員問題を契機に、政府は会議のあり方を検討する事になった。かつて橋本龍太郎氏が首相の時、行政改革の一環として日本学術会議の改組が検討された事があったが、実現せず今日に至っている。
      今回菅首相の主導により、推薦された学術会議会員の一部が就任を拒まれたのであるが、前々から学術会議についてはその組織の在り方、会員の選出方法等について問題ありとして改めるべきであるという考えがあったわけであるから、政府としては、遅まきながら会議の内容を十分に吟味して、改正の方向を打ち出してから人事に手をつけた方がよかったのではないであろうか?しかし菅首相としては、我が国を取り巻く緊迫した状勢の中で就任早々の事でもあり、少しでも早く我が国を亡国に導く連中の会員就任を阻もうとしたのであろう。

    ■おわりに

      最後になったが、今回の日本学術会議会員問題についてのメディアの取り上げ方について、一言触れておきたい。先にも述べたが本問題に関しては五大紙においては朝日、毎日対読売、産経、日経とはっきり主張が分かれた。特に毎日新聞は連日政府の責任を追及し、学問の自由の侵害と声を大にして叫んでいる。具体的には本問題を主題とした社説を10月の半ば迄に4回も載せている。新聞の社説はその時点での我が国にとって一番重要な問題を題材として取り上げるべきで、このようなやり方は新聞としての存在意義が疑われても仕方がない。このままでは益々新聞として斜陽の道をたどるのではないかと思っている。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年9月30日 金言(第98号)
    ゾルゲ事件(ゾルゲと尾崎秀実)

    ■はじめに

      ゾルゲ事件とは、ドイツ人リヒアルト・ゾルゲと元朝日新聞社員尾崎秀実を中心とする国際諜報団(ラムゼイ機関)による第2次世界大戦前夜の日本の政治、外交、軍事等の情報を、ソ連共産党(コミンテルン)に通報していた極めて大がかりなスパイ事件であった。近代史をほとんど教えない現在の学校教育の下で育った人達は、ほとんどこの事件の事を知らないのではないかと思う。かくいう私も昭和12年生まれで第2次大戦の実際について知っている最後の世代であるが、実際の教育は戦後の新しい占領軍の指示による教育を受けたわけで、それ程近代史を学校で受けていないので、このゾルゲ事件についても詳しく教わった記憶は全くない。
      只、私の小学校高学年の際、担任であった常深さんという先生が大変な読書家で、自分が読んで印象に残った本の概要をやさしく生徒に話してくれた。昭和23年、24年頃、すなわち朝鮮戦争が始まる前頃は、戦時中の国家による文化に対する締め付けから解放された時代で、検閲がなくなった反動で出版業界は活況を呈し、自由な出版が次々と行われたのであった。当時は勿論テレビではなく、書籍と映画が自由を謳歌した時代で、出版においてベストセラーという言葉が生まれたのもこの時代である。
      小学生にしてはいささか早熟で夏目漱石、森鴎外などをかじっていた私ではあったが、当時のベストセラーにまで目が届く筈はなかった。しかし常深先生はいろいろな本に目を通していて、自分が読んで感激した書籍の内容と感想を話してくれた。それは何冊かに及んでいたが、私は尾崎秀実の「愛情はふる星のごとく」と藤原ていの「流れる星は生きている」の内容が頭にこびりついている。常深先生の話し方もうまかったのであるが、歴史についてその頃から大変興味を持っていた私は、この本の内容を聞いたおかげで「ゾルゲ事件」の存在を知り、それ以来このスパイ事件について興味をもつようになり、中、高、大学へと進む内にこの事件に関係する本をよく読むようになった。

    ■第一章 「事件の概要」

    第1節 「主役は二人」
      ゾルゲ事件の主役は、何と言ってもロシア生まれのドイツ人リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実の2人である。この事件について書かれた本は海外で書かれたものの翻訳を入れれば優に50冊以上はあると思われる。この稿を起こすにあたって、その全てに目を通すわけにもいかず、私の力の及ぶ範囲でこの事件について勉強したのであったが、事件の余りにも大きな広がりを感じて、とても私のような微力なものには手に余るのではないかと思い、今回はやめておこうかと一時考えた事もあった。しかし乗りかかった船であるからと気を取り直し、何とか取り組んでみた次第である。
      先ほども触れたように主人公はゾルゲと尾崎の二人である。しかし、この事件を吟味して行くと、ゾルゲと尾崎にははっきりとした違いがある。二人は共産主義の信奉者であったが、この二人にはその生き方にはっきりとした違いがある。ゾルゲは自己の主義主張の母国共産主義ロシア(ソ連)に忠誠を尽くすため諜報活動を行ったが、尾崎の場合はもっと複雑である。尾崎は「自分は共産主義者であるが共産党員ではない」と云っているし、彼が諜報活動に走ったのはソ連に共感してソ連の安泰を図る事が第一であったのかもしれないが、矢張り彼は共産主義者と云えども愛国者であった。何とか泥沼におちいった中国との戦争を回避させるためにゾルゲに協力したのであった。
      ここであらためてゾルゲ事件の概要を述べておきたい。この事件は、ロシア生まれのドイツ人リヒアルト・ゾルゲが1933年(昭和8年)9月にフランクフルター・ツァイトゥング紙の日本特派員として来日し、これ以後8年余にわたって当時の近衛内閣のブレーンの一人であった元朝日新聞記者尾崎秀実他の協力を得て、日本とドイツの政治、経済及び軍事に関する最高機密情報を入手し、ソ連に通報して1941年(昭和16年)10月に検挙され、そして3年後の1944年(昭和19年)11月尾崎と共に処刑された事件である。
    第2節 「首謀者 リヒアルト・ゾルゲの生涯」
      リヒアルト・ゾルゲは1895年ロシアのカスピ海沿岸の都市、バクーの近郊で、ドイツ人の石油技師を父として生まれた。母親はロシア人であったがバクーの有力者の娘であった。その後、一家は帰国してベルリン郊外に移住したが、彼の高校在学中に第1次世界大戦が勃発し、ゾルゲはこの大戦に3度出征して3度重傷を負っている。その間高校卒業資格を得た後、1916年にベルリン大学に入学するが、3度目の負傷を受けた頃から反戦主義者となり、特に入院中に社会主義者の医師や看護師の影響を強く受け、マルクス主義に関する文献を渉猟するようになり、共産主義の信奉者となった。この間1920年にベルリン大学を卒業し、さらにハンブルク大学で政治学博士の学位を取得している。その後大学の助手をつとめながら共産党の活動に参加して、1924年に開催された非合法共産主義大会で、ソ連から派遣されたコミンテルン委員と親しくなり、コミンテルン(191
    9年から43年迄存在した国際共産主義運動の指導組織)行きを勧誘され、ソ連を訪問する。そして1925年にコミンテルンの情報局員となった。そして同年正式にソ連共産党員となった。その後は1929年迄イギリスやスカンジナビアの諸国で共産主義活動に従事し、その年コミンテルンからソ連の赤軍第4本部(GRU)に移る。彼の諜報団は、世間一般からコミンテルン所属といわれているが、実際にはソ連赤軍第4本部の直属となった事は注意すべきことである。赤軍第4本部に移った後、彼は偽装のためベルリンに帰ってドイツの雑誌社ゾチオロギシュ、マガジン社の特派員となり、中国へ派遣されるのである。その後の3年間は諜報機関を組織して、主として上海を舞台として活動し、ここでアメリカ人の新聞記者アグネス・スメドレーを通じて朝日新聞記者尾崎秀実と知り合う。1933年モスクワに帰り、同年日本に派遣されることになる。そこで偽装の為再度ベルリンに戻り、フランクフルター・ツアイトゥング紙と、他にオランダの1社と特派員として契約する。また一方では念には念を入れ、ナチス党に入党を申請して(正式入党は来日後)同年(1933年)9月に東京に現れる。以後約8年間にわたって1935年に1度モスクワに帰国しているが、ラムゼイ機関といわれる諜報団を組織して、自身は大使を始めとするドイツ大使館員の絶大な信用獲得を基盤にドイツ大使館を中心に、また尾崎らの協力を得て、日本とドイツの政治、経済、軍事上の機密情報を次々と入手してソ連に送り付け、ソ連の存在に大きく貢献したのであったが、1941年10月に検挙され諜報団は壊滅した。
    第3節 「国家機密情報を流し続けた尾崎秀実」
      一方尾崎秀実の出自については秀実の異母弟、秀樹による「ゾルゲ事件」に詳しく書かれているが、岐阜県出身で、先祖は楠木正成につながる一党であるが父親の秀眞は漢学者であった。1901年(明治34年)に東京で出生、父が台湾の台湾日日新報の編集者であったため、幼少年期の18年間を台湾で過ごす。この時代に一家は台湾総督府のトップであった民生長官の後藤新平と深いつながりが出来て、後年彼が朝日新聞に入社したのも後藤の口利きと云われている。彼は一高から東大法学部に入学、卒業するが意外にも高等文官試験に失敗し、やむなく大学院へ進むが、大学院在籍中東大新人会などで共産主義思想の洗礼を受けたと思われる。その後朝日新聞社に入り、1928年(昭和3年)に大阪朝日の特派員として上海に派遣される。1930年(昭和5年)アメリカ共産党員の鬼頭銀一および前出のアグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合い、思想的に共鳴してその活動に協力するようになる。1932年(昭和7年)に帰国して大阪朝日に復帰する。そしてその2年後、来日していたゾルゲと再会して旧交をあたためゾルゲのラムゼイ機関のメンバーとして彼に情報を与えることを承諾したのであった。
      1936年(昭和11年)アメリカのヨセミテで開催された太平洋問題第6回会議の日本代表の一員として参加した尾崎は、ここで元老西園寺公望の孫である公一と知り合い、また犬養健とも親しくなる。その関係で近衛文麿、風見章(後の近衛内閣書記官長)に接近して、また近衛の政策研究団体であった昭和研究会に入る。さらに1938年(昭和13年)には第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛率いる新体制運動に参画することとなった。そして近衛のブレーンスタッフの集まりである朝飯会(後に水曜会)の主要メンバーとして活躍、翌年近衛内閣が総辞職した後は我が国で最も情報の集まる満鉄の嘱託となり、この間中国問題の専門家として論壇において華々しく活躍する一方、近衛グループから集めた情報をゾルゲに流し続けたとされている。
    第4節 「ラムゼイ機関の主要メンバー」
      さて、ここでゾルゲ、尾崎以外の主要なメンバーについて触れておく。
    @ブランコ・ヴーケリッチ
      彼は1904年クロアチアの陸軍上級将校の家庭に生まれるが、1922年ザグレブ大学に入学し、マルクス主義研究会に入る。そして当局から要注意人物とマークされ、その後大学を中退した後フランスに赴きソルボンヌ大学に入るが、そこでも革命運動を指導し卒業後1931年に帰国して軍隊に入るが除隊後パリに戻り、そこでソ連の諜報組織に入り、その指令によりフランスの週刊誌及びユーゴの日刊紙の記者として、体操教師であった妻と共に1933年横浜に上陸した。(これはゾルゲが来日する半年前であった)以後在日のフランス、イギリス、アメリカ各大使館に積極的に出入りして重要な情報を入手してゾルゲに流し続けたが、1941年検挙され
    、1944年終身刑の判決を受けるが翌1945年終戦を待たず網走の刑務所で死亡する。
    A宮城与徳
      彼は主要メンバーの一人で、ゾルゲが英語の出来る助手がほしいという事でアメリカ共産党から派遣された人物である。1903年(明治36年)沖縄に生まれるが師範学校を中退して、先に渡米していた両親のもとに行き
    、画才を生かしてロスアンゼルスの美術学校、サンディエゴの美術学校に学ぶが、徐々に無政府主義思想を抱くようになり、共産主義に傾いていく。1933年にはアメリカ共産党員となり、ゾルゲ事件が明るみになるきっかけをつくった北林トモとの付き合いが出来たのもこの頃の事である。1933年党の指令で来日して、ラムゼイ機関の一員となる。また得意の画業を生かして日本軍人を描いて軍の機密を聞き出したり、アメリカ時代の仲間の協力を得たりして情報を入手しゾルゲに流していた。1941年10月に検挙され、1943年判決の出る直前獄中で病死する。
    Bマックス・クラウゼン
      1899年ドイツのノーハムに生まれるが、元々は蹄鉄工で下層の出身である。蹄鉄工をしながら夜間高校を卒業して1918年第1次世界大戦中に通信隊に入り、無線通信技術を習得するが、除隊後はハンブルクで水夫になる。元々共産主義思想の持主であった彼は、1927年ドイツ共産党に入党し党員の細胞として活発な活動を行うが、翌28年コミンテルンから誘いを受けて訪ソし、同年赤軍第4本部から情報機関の無線係として上海に派遣され、その後1935年(昭和10)東京行を命ぜられ同年12月に横浜に上陸した。彼は直ちに上京してゾルゲと会い、ラムゼイ機関のメンバーとなる。1936年に無線機の組み立てを完了して発信を開始し、194
    1年10月に検挙されるまでゾルゲの情報を発信していた。日本の当局も東京の空を飛び交う彼の発する怪電波には早くから注目していたが、マックス・クラウゼンはたくみにその裏をかき、ついに逮捕される迄しっぽをつかまえさせなかった。マックスの妻はアンナと言い、来日後は機関の伝書使としてたびたび上海に派遣され、官憲の目をくぐりゾルゲの情報をソ連に伝達していた。1941年10月にマックス、11月にアンナがそれぞれ逮捕され終身刑、懲役3年の判決を受けたが終戦により1945年10月夫婦共に釈放された。ゾルゲ事件のヨーロッパ人の被告で生き長らえたのはこの両名にすぎない。

    ■第二章「事件発覚の経緯」

    第1節「重大なミス」
      しかしゾルゲ、尾崎の活動については捜査当局もゾルゲはドイツ大使館との深いつながり、尾崎には近衛との関係からなかなか捜査の手を伸ばすには至らなかった。しかし、日米関係がこじれ始めた1940年(昭和15年
    )頃から、日本の外事警察は特高と協力してアメリカ帰りの共産主義者のリストをつくり、その行動を内偵するようになったが、これは元々対英米スパイ活動を防ぐのが目的であった。そのリストの中に北林トモ及び宮城与徳が入っており、当局の捜査線に浮かんでいた。しかしそれまではただ監視の域を出なかった宮城の身辺と交友関係が徹底的に洗われるようになるのは、尾崎の後輩である戦後もいろいろと物議をかもした伊藤律の自供によって北林トモが検挙されてからである。
      ゾルゲ、尾崎、宮城らに対して日本の官憲が疑惑を持ち秘密裡に彼等を監視してきたが確証を得ることが出来なかった。特にゾルゲにはドイツ大使館が、尾崎には近衛側近という有利な防壁があって、警察当局としても軽々には立ち入って調べることも出来ず、また宮城にしてもアメリカ共産党員というだけで逮捕するわけにはいかなかった。
      また怪電波の正体についても見破ることが出来ず、ラムゼイ機関は警察に挙げられる決定的な証拠を押さえられることのない状況にあったのである。しかし彼等はたった一つの重大なミスを犯していた。そのミスさえなければ無事に仕事を終えて解散し、国外への退去ができたかもしれなかった。そのミスとは、宮城と左翼運動家とのつながりであった。ゾルゲ自身は、日本の共産党員をはじめとする左翼の活動家を仲間には絶対に入れなかった
    。ゾルゲは尾崎に対しても日本の官憲は必ず彼等を次々と狙うことを知っていたので、彼等との接触を厳に禁止していた。
      宮城には昔からの仲間であった北林トモに情報をとらせていたのはゾルゲの最大のミスと云われている。とにかくここから破綻をきたしたのであった。ラムゼイ機関にカタストロフをもたらしたのが前出の伊藤律であった。伊藤は尾崎と同郷で一高の後輩に当たり、尾崎の家にも足しげく出入りし、尾崎は、自分が満鉄に移ってからも論文の代筆をさせるなどまるで自分の片腕のように可愛がっていた。1939年(昭和14年)11月共産党再建運動にのめり込んでいた伊藤は警察に検挙され、党再建について激しく追及される。伊藤はおそらく当局の心証を良くしたいという考えから、かねてから知り合っていた北林トモを密告したと云われている。この密告がき
    っかけとなり組織が次第に明らかになっていった。もっとも伊藤は、北林がゾルゲとつながっているスパイである事を全く知らなかった。したがって伊藤の密告は結果的に尾崎を裏切ったわけで、伊藤は北林の事を喋った後仮釈放され満鉄に復帰して尾崎と一層親しくなり、その頃から満鉄と尾崎に対する特高の監視が厳しくなったことから、伊藤は特高のスパイで組織の存在を知っていたのではないかとの説もある。
    第2節「ラムゼイ機関の壊滅」
      さて、従来ただ元アメリカ共産党員として調査の対象にすぎなかった北林に対する当局の捜査が、ある時点から急激に厳しくなり、ついに1941年(昭和16年)9月28日に検挙されるに至ったのは、矢張り何か大きな理由があったに違いない。このように郷里の和歌山県で逮捕された北林トモは東京へ護送され、激しく追及される。彼女が取り調べを受けたのが六本木署であったが、ここは偶然にも一味の宮城のアジトに近かったため、北林は宮城も検挙されたものと早合点し、不用意にも宮城の名前を洩らしてしまう。そのため10月10日に宮城が検挙され、その自白により同15日に尾崎が、18日にゾルゲ、クラウゼン、ヴーケリッチの3名が相次いで逮捕され、ラムゼイ機関は完全に壊滅した。
      1943年(昭和18年)東京地裁においてゾルゲ、尾崎に死刑、マックス・クラウゼンとヴーケリッチに無期懲役、アンナ・クラウゼンに懲役3年の判決が下った。なお宮城は判決の1ヶ月前に拘置所内で病死、また北林トモ、川合貞吉他組織に協力したものも次々と検挙され、それぞれ2年から15年にわたる懲役刑となった。注目された西園寺公一は尾崎に情報を洩らしたとして執行猶予3年付きの懲役2年の判決を受け、犬養健は無罪であった。ゾルゲと尾崎は1944年(昭和19年)11月7日処刑され、ヴーケリッチはその翌年網走刑務所で獄死した。クラウゼン夫妻ら終戦迄生き延びた者達は1945年(昭和20年)10月に全員釈放された。

    ■第三章「ラムゼイ機関の活動とその成果」

    第1節「ゾルゲの任務」
      さて8年余にわたるラムゼイ機関の活動がいかに見事な成果を上げたかについては尋問中のゾルゲの言葉「もはや日本から盗むべき機密はない」につきている。1933年に日本に派遣されたゾルゲの任務は「満州事変以後の日本の対ソ政策を観察して対ソ攻撃計画がどのように動くかを綿密に研究し、それを報告する」ことであった
    。具体的にはソ連攻撃のおそれのある日本陸軍(関東軍)と航空部隊の状況、さらにヒットラーの政権獲得後の日独関係、日本の中国対策、対米英関係、さらには日本の対外決定に果たす軍部の役割と戦時経済の動向などがゾルゲの研究、情報収集の対象であった。
      ソ連が一番関心を持っていたのは1931年以降1935年にかけて続いた日本の満州攻略がその後どうなるかであった。すなわちソ連はかねてから保持していた満州の東支鉄道の権益にからみ日本の北進には重大な関心を抱いていた。この時期ゾルゲは尾崎や宮城の報告、あるいは駐日ドイツ大使から得た報告をもとに日本の対ソ政策を分析して1935年の時点で日本はソ連を攻撃対象とする北進政策よりも中国問題に傾注していることをモスクワに報告している。
    第2節「ラムゼイ機関の成果」
      ゾルゲがその名を上げたのは1936年(昭和11年)2月に起こった2.26事件の時であった。ゾルゲはこの時ドイツ大使館の駐在武官オットー(後に大使)から日本の陸海軍の情報を得た上、更に尾崎、宮城からも詳しいデータを得て他国の大使館よりすぐれた見解を述べたのであった。そしてこの時の情報をまとめて「東京に於ける軍隊の叛乱」と題してドイツの雑誌に投稿し、これがモスクワでプラウダに転載され、ゾルゲのもたらす情報の正確さが認められるようになった。さらに同年11月に締結された「日独防共協定」についてはドイツ大使館の有力筋から事前に内容をつかみ、ドイツは軍事同盟を希望していたが、日本はソ連と事を構えることを欲せず防共協定に終わった事情を正確にモスクワに報告している。
      1937年(昭和12年)7月日華事変が起こると、日本の対華工作や日本軍の動員状況についての情報や日本が華北問題の解決をあせり、早期解決に失敗して戦争は全面的に拡大するという尾崎の見解をモスクワに報告していた。
      1939年(昭和14年)夏、ノモンハン事件が起こった。世間一般では日ソの全面戦争に発展するのではないかと危惧するものが多かったが、ゾルゲは関東軍の対ソ開戦論に対して軍中央部はブレーキをかけている事を尾崎、宮城からキャッチして日本政府はこの事件を本格的な戦争に発展させる計画のないことをモスクワに打電している。同じ年8月突然「独ソ不可侵条約」が締結されるが、ゾルゲはドイツ大使館の秘密文書や大使館員オットーから直接にもたらされる情報により、この条約の交渉過程や内容を2週間後にスクープしている。さらに当時の平沼内閣では日独軍事同盟を進める事が懸案であった。しかしこれは上記の不可侵条約で中断されたのであったが、翌1940年(昭和15年)に日独伊三国同盟として結実する。この条約の内容にはゾルゲ自身がドイツ大使館において参画したと云われており、その内容がソ連側に筒抜けになったことは言うまでもない。
      1940年にはヨーロッパ戦線の動きが活発になりソ連としては三国同盟の内、日本の動きに強い関心を払うようになる。具体的には日本の兵器、飛行機、自動車、鉄鋼などの生産能力についてであるが、ゾルゲはドイツ大使館と宮城からの情報をもとに報告していた。1941年(昭和16年)はラムゼイ機関の活躍がクライマックスとなった年であった。それは同年6月22日ドイツのソ連攻撃(バルバロッサ作戦)が始まった事であった。ゾルゲは大使に昇格していたオットーの側近ともいうべき私設情報官となっていたが、この作戦の内容を全て詳細にキャッチできる立場にあった。ゾルゲは、作戦が開始されるのは6月20日頃であるとモスクワに投入される正確な兵力をそえて報告し、見事にそれは的中していたのである。
      さて西からドイツ軍の破竹の進撃を受けたソ連にとって、一番の関心事はソ満国境における日本軍の動向であった。ソ連赤軍にとって日本軍が出てくるかどうかは、極東軍を西部に移動してドイツの猛攻を防ぐことが出来るか否かにかかっていたのであった。ゾルゲはなんとか日本軍の決定的な動きをモスクワに報告したかったのであるが、三国同盟を締結しているドイツとしては、ソ連極東軍を東部にはり付けようとして日本がソ連軍の攻撃を開始するよう日本政府を説得していた。当時日本のおかれた位置は大変微妙なものがあった。日本の国力からして、ソ連と英米両国に敵をかかえる両局作戦は不可能であった。しかし、全く資源のない日本にとって中国戦線が膠着状態にある中で東南アジアに進出(南進)して先ず資源を確保する道―それは英米と戦うということであるがーをとる事が考えられていた。1941年(昭和16年)7月2日の御前会議においては日本陸軍の南部仏印進駐が決まったが、なお日ソ中立条約を維持しつつも日ソ戦の可能性をも捨てていないというもので、これにはゾルゲも困惑したと思われる。しかしこの仏印進駐を契機として日米関係が急速に悪化して対日経済封鎖がとられ、日本に対する包囲攻勢が次第に高まっていった。
      ゾルゲは、日本の戦力を推定する上で最も重要な事項の一つである石油の保有量につき、ドイツ大使館や尾崎、宮城からの情報により海軍2年分、陸軍1年半分、民間半年分とモスクワに正確に報告している。一方その頃からヨーロッパにおけるソ連軍が反攻に転じ、戦況は膠着状態となってきていた。従ってこの時点で日本の対ソ作戦の可能性はなくなってきていた。尾崎は、9月に自ら満鉄に出張して現地の日本軍の動静から対ソ戦の可能性はないと判断し、さらに近衛の側近を通して得た海軍の情報から南進政策がとられたことをはっきりと掴む。
      これらを踏まえて10月に入るとゾルゲは、関東軍によるシベリア国境を越えてのソ連攻撃はないと報告しており、以後ゾルゲの関心は専ら日米交渉に向けられるようになる。そしてラムゼイ機関は10月中旬までに対米交渉の成果がなければ日米は開戦に踏み切るという情報を得てこれをモスクワに報告している。
    第3節「「軍国日本打倒」の信念で行動した尾崎」
      最後になったが尾崎秀実についてもう少し付け加えておこう。ゾルゲは前に少し触れたがソ連を母国と仰ぐ生粋のコミュニストである。彼は尾崎に遅れる事45分後に処刑されたのであるが、首にロープをかけられた時彼は「コミンテルン万歳、ロシア万歳、赤軍万歳」と叫んだという。まさに共産主義に殉じたわけである。一方尾崎の場合は複雑である。昭和17年春の「国際諜報団」に関する司法当局の発表では尾崎が共産主義者であった事が強調され、共産主義が当局の弾圧で壊滅して、日本人のすべてが国家主義者、民族主義者となっていると思われる時に、尾崎は金銭の為に国家の為に機密を売った罪を押しつけるような存在ではなく、人格的に尾崎には全く非難すべきところはなかったと当局は認めている。当局としてはかくのごとき信念的な共産主義者が残存していたことに特別の怒りを感じていたのであろう。
      一方ゾルゲ事件は、もっぱら近衛内閣を打倒して対米戦争を開始するための軍閥の陰謀に外ならぬという主張をする向きもある。尾崎は軍閥の犠牲者であって彼は戦争を防止しようとしていたが、外国人と協力してそうしようとしていたわけではない。そういう意味で尾崎は同情と尊敬に値するという見解すらある。如何であろうか。尾崎、ゾルゲ事件は軍閥に利用されたが決して軍閥の陰謀ではない。たしかに、それは第3次近衛内閣の打倒に巧妙に利用されたのは事実である。しかもこの事件の裁判は軍閥の干渉と圧迫下で行われた。このような大事件が極めて短期間に終結したのはそのためである事は否定出来ない。しかし、事件はあくまで軍閥のでっちあげた虚構ではない。
      尾崎が国内の政治、経済、軍事上の秘密をゾルゲに通報したのは事実である。これは過失などではなく尾崎自身によってその意思に基づき行われたのである。尾崎は上海時代にコミンテルンの人物であったゾルゲと知り合った。その後ゾルゲは来日したが、ゾルゲはナチス・ドイツの日本大使館員であった。そして尾崎とゾルゲは米国帰りの共産主義者、宮城与徳を通じて再会する。その際ゾルゲは彼の特殊な任務について尾崎の協力を求める。それを承諾することについて尾崎は深刻に懊悩する。彼の信念は現在の帝国主義日本、軍国日本こそ打倒しなければならない対象であった。そのために彼はゾルゲへの協力を決意したのであった。たしかに尾崎は祖国を売ったことは間違いない。しかし上述の軍国日本、帝国主義日本を倒すために行動したのであって、もし祖国の意味が日本国民の圧倒的多数である勤労大衆を指しているとするならば、尾崎は断じて祖国を売ったわけではないと主張する人もある。尾崎は祖国の繁栄のために命をかけて行動したのではないか。また彼が闘ったのは
    、これから起ころうとする戦争に対してだけではなくすでに行われている対支戦争に対しても闘った。彼は日本の起こした帝国主義戦争である対支戦争を内部から崩そうとして、時の為政者や軍人達の間に入り込み支那問題の評論家として日本の対支政策に影響を与えるため懸命に政治活動を展開した。彼の考え方は一貫して日本帝国主義の敗北、すなわち中国の勝利であった。尾崎が敗北主義者といわれる由縁である。しかし、尾崎は日本国民を愛する愛国者であるが、中国国民にも一方ならぬ思いを抱いていた。それは植民地台湾で18年間育ったところにおそらくルーツがある。尾崎は近衛のブレーンとしてしきりに日本帝国の南進を進言した。南進するということは巨大な英米の勢力と激突することである。南進によって、共産主義ロシアは救われるかもしれない、それこそが彼の望んでいたことであろうが、英米と戦っておそらく日本の勝つ見込みはない。賢明な尾崎はおそらくその先まで読んでいたであろう。これも敗北主義者尾崎と云われるかもしれないが、英米との戦いに敗れ軍国日本は亡び、その後どうなるかということについて、どの程度まで彼が読んでいたかは今となってはわからない。

    ■おわりに

      最初に戻るが、彼が獄中から妻、娘に宛てて書き残した書簡集「愛情はふる星のごとく」について最近本当に何十年振りかに全部ではないが読み返してみた。獄中で妻、娘を思いやる細やかな愛情、そして迫りくる裁判の最終結果への思いなどあらためて感激したのであった。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年8月31日 金言(第97号)
    ミサイル防衛と「敵基地攻撃能力」

    ■はじめに

      近年増強が進む北朝鮮のミサイルに対する防御策としては、攻撃を受けた際先ず海上のイージス艦から迎撃ミサイルを発射して、打ちもらした場合は着弾前に迎撃ミサイルのPAC3(パトリオットミサイル)が迎撃するのが、現状におけるミサイル防衛の仕組みである。しかし、昨今の敵ミサイルの性能向上や多数のミサイルの一斉発射などに対して、この仕組みでは十分に対応出来なくなってきたため、これを強化するため日本全域を24時間365日、切れ目なく防護する、射程の長い「陸の盾」であるイージス・アショアを2018年以来秋田、山口両県に配備することを閣議決定したのであった。この兵器は実に4,500億円の巨費を必要とするものであった。

    ■第一章 「イージス・アショアの配備計画」

    第1節 「当初より懸念が示されていたブースターの落下」
      さて、イージス・システムは本来米国の海上弾道ミサイル防衛システムであるが、このシステムの中で陸上に設置されるのがイージス・アショアである。これは弾道ミサイルによる脅威が一段と増大したことに対処するために開発されたものである。しかし、配備を予定していた秋田、山口両県共知事が反対するなど、配備の実現にはなお流動的なものがあった。具体的には山口県では、迎撃ミサイルを発射した際に切り離す推進補助装置のブースターが、当該演習場外に落下するのではないかとかねてから懸念が示されていた。防衛省の発表では山口県に対して「ブースター」は「演習場内に確実に落下させる」と繰り返し説明し、不都合が発生しないよう万全の措置を講じると約束していた。
      付言すると、この迎撃ミサイルの「ブースター」は、「イージス・アショア」で運用される迎撃ミサイル「SM3ブロックUA」を発射直後、垂直に推進させる部品である。発射されるミサイルは3段式で全長は6.7mある。この内発射して最初に切り離される1段目は長さ170cm、直径53cm、重さは約200kgもある。もしこれが基地外に落下したとすると、相当大きな衝撃となる事は確かである。その後防衛省はブースターが安全に落下する措置を考えてきたが、迎撃ミサイルを発射した時、ブースターを自衛隊の演習場内に完全に落とすことが出来ない事が判明してしまった。
    第2節 「ソフトウェアの変更は非現実的」
      具体的にはブースターを安全に落下させるには次のような措置が必要である。いささか専門的な話であるが。先ず第一にミサイルの速度と飛翔方向、次に上空の風向きと風速、さらに落下時のブースターの姿勢という3つの条件を考え、その上で算出した落下位置をあらかじめ算出する。その上で算出した落下位置にブースターを落せるように燃焼ガスを噴出するノズルの向きを、ソフトウェアにおいてあらかじめ変更してミサイルの飛翔経路をコントロールしなければならない。ところが海上自衛隊の専門家の指摘によると。この処置は非現実的ということである。何となれば迎撃ミサイルの本質は敵のミサイルにぶつけるのが目的で「より遠く、より早く、より正確に」が肝要である。北朝鮮からミサイルが発射された場合、日本に到達するまで約8分を要するとされている。当然ここは時間が勝負であり、ブースターの落下を計算して発射すれば時間にロスが出る。攻撃は早ければ早い程よく、早く撃てば反撃する第2撃が可能であるが、ブースターの落下にこだわっている限り有効な反撃が出来ない。元々ミサイルの設計は、弾道ミサイルに命中させることが第一義であるから、ブースターを落下させるためのソフトウェアの変更など、当初から考えられていないのでこの点からも問題である。
    第3節 「突然の配備計画停止表明」
      山口県で予定されている演習場は海迄の距離が約10kmもあり、その間住宅地もあるので住民の理解を得ることが必要である他、ソフトウェアの改修にはアメリカ側との調整が必要である。ところが予定地は大変複雑な地形をしており、防衛省でシミュレーションを重ねた結果、「100%演習場内に落下できるとは言えないのではないか」という疑念が生じてきた。このため日米の担当者間で「1段目のブースターを小型化して早く落下させてはどうか」などのシミュレーションが行われたが、1段目を小さくすると2段目を大型化しなければならないことや、ミサイルの直径の拡大、さらにはミサイルの改修だけではなく、発射装置まで改修しなければならない可能性が出てきた。さらに日米共同開発の「SM3ブロックUA」はすでに12年の歳月と2,000億円の巨費をつぎこんでおり、もし改修することになると、これに匹敵する歳月と費用がかかることになり、ついにイージス・アショアの配備計画は中止せざるを得なくなり、6月15日河野防衛大臣は「イージス・アショア」の配備計画の停止を突然表明したのであった。

    ■第二章「ミサイル防衛の新たな方策」

    第1節「急激に進捗するミサイル攻撃能力」
      米防衛省は「イージス・アショア」は先程来ふれているように「24時間365日切れ目なく長期にわたって」我が国を他国から守るミサイル防衛の柱になるとしてきた。その肝腎の「イージス・アショア」が白紙撤回となった今、我が国として如何なる方策をとるべきかが大問題となってきたのである。
      先日8月26日、日本経済新聞は一面で「東アジア崩れる軍事均衡」と題して大変ショッキングな記事を載せている。「2017年4月29日、弾道ミサイル発射を繰り返し日米を威嚇していた北朝鮮が奇妙な行動に出た。この日北朝鮮が発射したミサイルは高度71kmで爆発した。発射は失敗したとの見方が出る一方、一部の日米関係者は「北朝鮮は禁じ手の攻撃を行ったのではないか」と青ざめた。これは何かというと、大気の希薄な高高度で核爆発を起こすと極めて強力な電磁波が発生し、地上の電子機器や人工衛星が機能不全に陥る。北朝鮮のミサイルが爆発したのは、それを起こすのに最適な「電離層」という高度であった。電磁波攻撃だけではなくて、同一目標への多数のミサイル発射や変則的な軌道で突入してくる新型弾頭、北朝鮮はロシアなどの支援を受けて攻撃能力を急速に高めてきた。にもかかわらず日本政府は一時期まで、北朝鮮のミサイル攻撃能力の急激な向上という「不都合な真実」をなかったことのように扱ってきた。これは米国から調達を計画していた地上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備方針を維持するためとみられていた。米国がこれまで導入してきたイージス艦や迎撃ミサイルなど、従来型の装備は、放物線を描いて落下してくる弾道ミサイルを想定している。新技術を用いたミサイル攻撃はこれらを一瞬で無力化する。北東アジアの軍事バランスは、ここ数年で劇的に変化した。北朝鮮の他にも軍事技術を効果的に使って巨大な米軍を揺さぶる国がもう一つある。それは、軍事費は公表では米国の3分の1程度とはいえ、膨張し続けている中国である。中国が増強するのは空母部隊やステルス戦闘機などの従来型の装置に限らない。高速で滑空する超音速ミサイルの実用化は米国に先行している。
      このようにイージス・アショアでさえ進歩するミサイル攻撃には耐えられない状況の中で、これを白紙とした日本は北朝鮮の変則的な軌道を描く新型弾道ミサイルに対して、又上記のような中国の超音速滑空ミサイルにどのように対処していくのかが、国家の死命を制する大問題として突きつけられているのが現状で、我々は如何に行動すべきか問われているのである。
    第2節「「代わりとなる柱」が喫緊の課題」
      弾道ミサイル防衛の新たな柱としていた「イージス・アショア」の配備を事実上撤回した安倍政権であるが、今後「代わりとなる柱」をどう構築していくかが喫緊の課題となっている。「当面の間はイージス艦と地上配置型の迎撃ミサイル、パトリオットでやっていく。海上自衛隊に頑張ってもらうしか方法はない」と河野防衛大臣は述べている。即ち新たな方針とそれに基づく体制が固まるまでは、イージス艦を中心に対応するしか方法はないということである。しかしイージス艦8隻体制から増やしていく案が先ず第1案であるが、艦艇を建造するだけで5年はかかるし、そもそもイージス・アショアの導入が決定したいきさつには、海上自衛隊の人員不足が理由で決められた経緯もあり、防衛省としては「イージス艦の増強だけでは抜本的な解決にはならない」という見方が強い。因みにイージス艦2隻を増強すると600人の人員が新たに必要となる。
      次の第2案は、地上に管制レーダーを、艦艇に発射装置を配備する案である。すなわち発射装置を陸と海で分散して配置し、ネットワークで結び探知及び追尾のデータをやりとりするのであるが、課題は通信の安全性に不具合が出れば迎撃システムが機能しなくなる。
      もう一つ、第3案は人口浮島(メガフロート)をつくり、その洋上施設に管制レーダーと迎撃ミサイルを配置する、いわゆるメガフロート案であるが、たしかにこの案では今回のイージス・アショア断念の元になったブースター問題や、地元の反対は回避できるものの、洋上施設のための気象や災害の影響を受けやすく、潜水艦からの魚雷攻撃を受ければひとたまりもない。
      これらの案は一長一短であるが、いずれもイージス・アショアのために防衛省は、探知や追尾に基づいて発射管制を行うシステム2基やミサイル(SPY−7)の費用としてアメリカと1,800億円の購入契約を結び、すでに約200億円を支払っているため何とかこれを取り戻す、あるいは活かせないかという考え方に基づいている。
    第3節「俎上に載った「敵基地攻撃能力」」
      このような難しい局面の中で政府は、今迄全面的に否定してきた「敵基地攻撃能力」の保有を求める自民党内にある意見に対して、少なくとも議論を展開していくべきではないかという考え方に傾いてきているのである。自民党は3年前に「北朝鮮の脅威が新たな段階に突入した」として弾道ミサイル防衛の強化について提言をまとめている。この中でイージス艦などによる従来のミサイル防衛能力の強化に加え、「敵基地反撃能力」を検討するよう求めていた。これは日米同盟に基づいた「総合力」で対処する方針を維持しながらも、抑止力の一層の向上を図るためには巡航ミサイルなどを使用して敵の基地を直接たたく事のできる能力を、「弾道ミサイルの脅威に対処するため保有を検討すべきである」としている。

    ■第三章「「敵基地攻撃能力」の検討」

    第1節「政府のこれまでの考え方」
      ただ、政府はこれまで「敵基地攻撃能力」については「憲法に定める自衛権の範囲に含まれ、保有する事は可能であるが、一方では装備としては保有しておらず、また保有する計画もない」と説明してきた。このような政府の考え方の基になるのが1956年2月の、当時の鳩山一郎総理大臣の答弁にある。これは「我が国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段として我が国土に対して誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨だというふうには、どうしても考えられないと思うのです」「そういう場合にはそのような攻撃を防ぐのにやむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾による攻撃を防御するのに他に手段がないと認められる限り、これらの基地をたたくことは法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」「普通の場合、つまり防御の手段があるにもかかわらず、侵略国の領域内の基地をたたくことが防衛上都合がよいという場合を予想して、安易にその基地を攻撃するのは自衛の範囲には入らないだろうという趣旨で申したのであります」この鳩山氏の答弁を根拠に自民党は敵基地攻撃能力を持つべきだという提言はしたが、党内が一枚岩でまとまっているわけではない。ましてや与党の公明党においては、例によって「他国内の武力行使は認められない」「イージス艦で防御出来るのに、必要性はない」など反対意見を展開している。
      一方自民党内でも「攻撃能力の保有を議論するのは唐突だ」という指摘や、基地攻撃をいきなりやるのではなく「サイバーや電磁波の能力を高め、発射ができなくなるような手段を検討すべき」という意見もある。さらに野党からは「敵基地攻撃とは先制攻撃であり、攻撃的兵器の保有は自衛のための必要最小限度の範囲を超えており、完全に憲法を蹂躙するものだ」として保有は憲法違反であるという声も上がっている。
    第2節「敵基地攻撃の具体的内容」
      それではこの敵基地攻撃の具体的な内容について触れると、河野防衛相は国会で一般論として次のように述べている。先ずその手順であるが、@敵のミサイル発射機や発射基地をリアルタイムで把握する。A次いで敵の防空用レーダー、対空ミサイルを無力化して制空権を一時的に確保する。Bそうしておいて発射装置や地下施設を破壊する。C攻撃の効果を把握し、さらなる反復攻撃をする。以上の通り展開がはかられるが、一方で政府は敵基地攻撃が認められるのは「相手が日本に対する武力攻撃に着手した時」としており、「武力攻撃するかもしれない」というようなあやふやな状態では認められない。しかし「相手が武力攻撃を実行して我が国に被害が発生した後初めて反撃出来る」ということではない。要するに先制攻撃ではないが、相手が確実に攻撃しようとする場合はミサイルなどの発射直後に加え、発射直前に攻撃することは可能としている。
      それでは「相手が日本に対する武力攻撃に着手した時」の着手とは、具体的にどのような状況なのかについては「国際情勢や相手側の意図などで判断する」としており、政府は具体的な基準を示していない。先に述べたように日本政府は日本を守るために他に方法がなく、必要最小限度であれば理論上は相手の領域内で迎撃するのは可能と考えているが、一方政策判断として敵基地攻撃を目的とした装備を持たないという方針を受け継いできた。したがって現状では自衛隊は敵基地攻撃能力を保有していない。F35のような最新型のステルス戦闘機においても、そのような攻撃能力はあえて取りはずされている。
    第3節「自衛隊は「敵基地攻撃能力」を早急に保持すべし」
      それでは、ここであえて敵基地攻撃能力を保有することにどのような問題があるかを考えてみたいと思う。日本政府がこの能力を保有してこなかったのは、日米安全保障条約に基づいて日本が「盾」で米国が「矛」であるという、役割分担及び専守防衛の理念から他国の領域に対する攻撃を想定していなかった事による。仮にその方針を転換してその能力を保有することになれば、武力行使を放棄した憲法9条の自衛のための「必要最小限度」の範囲を逸脱するとして、大騒ぎになる事は必至である。
      しかしあらためて私は主張したい。憲法第9条第1項の「戦争の放棄」はまずやむを得ないとして、第2項「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」との条項は現状では全く有名無実である。何となれば自衛隊は立派な軍隊であり、その規模は世界第5位にある。現実に合致しない憲法第9条は改正しなければならないのであるが、この条文を金科玉条とする左翼勢力がこれを阻んでいるのが現状である。
      それはそれとして私はこれだけ北朝鮮、中国、ロシアの保有するミサイル技術が進んだ現在、導入しようとしていたイージス・アショアさえ、すでに時代遅れになっており、現在の最先端のミサイルには対抗出来ない事が明白になっている今日、不完全であっても取りあえず「敵基地攻撃能力」を自衛隊は早急に保持すべきと考える。これは、敵基地攻撃能力を保有する事が即ち抑止力になるからである。たとえ完全なものでなくても、このままでは座して死を待つ状況に追い込まれてしまう事は必至である。

    ■おわりに

      日本の左翼関係者は余りにも無知である。北朝鮮等は小型核弾頭の開発に成功していると云われている。仮に東京のど真ん中に一発それを見舞われた場合、我が国の中枢は麻痺してしまう事がわからないのであろうか。しかし実際問題として、敵基地攻撃能力を保有するためには予算面での課題もあるし、相手国が移動式発射台や潜水艦からミサイルを発射すれば事前に兆候をつかむことは難しい。このため相手のミサイルなどを探知、追尾する人工衛星のさらなる整備により、情報収集能力を高める必要があるが、これは高い技術とコスト、時間をかけなければ今すぐには実現しない。しかしながら我々としては早急にこの能力の取得に努めなければならないという事は自明の理ではないであろうか。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年7月31日 金言(第96号)
    侵略 国家アメリカの全貌

    ■はじめに

      最近アメリカ政府は「中国は侵略国家である。すなわちチベット、モンゴルなどに侵略の手をのばし、さらに
    ベトナム、インドなどとも国境紛争を起こし、南シナ海や東シナ海においても国際法を無視する行動に出ており
    、最近では台湾の併合にも武力行使をも辞さないと主張している」と非難している。しかし、それでは、かくいうアメリカ自身この200年間どのようにして現在の52州にも及ぶ大国になったか考えてみたらどうであろう

      それは、英国から独立戦争によって勝ち取った13州が、最初には原住民であるインディアンを制圧して西へ
    西へと開拓と称してその勢力を拡張していった結果に加え、英国との戦争、フランスとの戦争、メキシコとの戦争、スペインとの戦争、ハワイの併合、そして太平洋を制圧し中国での権益を目指して、その結果日本との戦争を引き起こしたのであった。今回は中国を侵略国家であると非難するアメリカこそが、実はいかに侵略を繰り返して現在の姿になったかについて明らかにしたいと思う。

    ■第一章 「多民族国家アメリカの成り立ち」

    第1節 「先住民はアジア系の人々」
      アメリカ合衆国は本土48州、それに北アメリカの北西部の角に位置するアラスカ州と、中部太平洋の島嶼群
    であるハワイ州を加えた50州と、太平洋とカリブ海に5つの海外領土及び9つの無人の海外領土を保有しており、その総面積は985万uと世界第3位(4位だと云う人もいる)で領土の面積としてはほぼ中国、ブラジルに等しい。人口は3億2700万人で世界第3位である。(アメリカは移民の国であるからその総数は絶えず増加している)
      アメリカ大陸に最初に住んだのはアジア系の人々で、およそ3万年前から1万年前にかけてアジアから当時凍結して渡りやすかったベーリング海峡を越えて、シベリアからアラスカを経由してたどりついたのであろう。そしてその後数千年の間に中米から南米にたどりつき、広がっていったのである。これらアジア系の人々は母系社会を持つ独自の文化を持っていた。俗に先住民はアメリカインディアンと云われていたが、現在では「インディアン系アメリカ人」とか「先住アメリカ人」という表現が普通に用いられるようになっている。
      さて、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、中米や南米には1000万人を超える住民がいたにもかかわらず、北米にはたった100万人を超える程度の人口と推定されていた。しかし近年の研究では300万人を超えるという説が有力になっている。
      北米に住まいしていたアジア系の人々は、南米のインカ帝国やアステカ帝国のようなまとまった部族の統一体ではなく、言語でさえ50種類あまりもあったのである。しかし近世迄は、北米には中南米に匹敵するインディアンの文明は存在していないとされてきたが、近年になって発掘が進み、8世紀から16世紀頃まで続いたとされる大規模なミシシッピ文化の存在が明らかになってきて、従来の見方は全面的に否定されている。
    第2節 「欧米列強の新大陸進出」
      そして、欧米列強の新大陸への進出が始まるのであるが、一番よく知られているのは1492年のコロンブスによる西インド諸島の発見、そして1498年には英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し、英国の領土としてニューイングランド植民地を領有した。
      一方フランスは、1534年にセントローレンス川を遡ってフランスの植民地、すなわちカナダ植民地を確立した。一方これらは勿論平和裡に行われたものではない。これら南北アメリカの探検開拓によりインディアンの領土略奪と虐殺が行われたのであった。南米におけるスペインのピサロによるインカ帝国征服は最もなげかわしい事件であった。現在のアメリカ合衆国における植民地活動としての「開発」は当初から民族国家となる運命を辿るように実施されていたのであった。
      少し具体的に述べるとバージニアやカロライナにはイギリス人により、いわゆる(ニューイングランド)が建設され、ルイジアナにはフランス人が(フレンチ・ルイジアナ)植民地を開くなど、主にイギリス人とフランス人の二つの民族により行われてきたのであった。一方それだけではなくて、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人が(ニューネーデルランド)を、またデラウェアにはスウェーデン人が(ニュースウェーデン)を、スペイン人がフロリダに(ヌエバ・エスパーニャ)をと、彼らの思いつくままに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を開いたのであった。
      このようにアメリカの東部にはすでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化に繋がるヨーロッパの文化が移植されていったのであった。勿論宗教の点において、当初の移民はカトリックが本流であったが、16世紀にルター による宗教改革が行われ、プロテスタントが出現し、数々の宗教戦争が行われたのは御承知の通りである。この結果ピューリタン(清教徒)による1620年のメイフラワー号の移民が契機となり、新大陸へ新天地を求めて新教徒が多数入植したのであった。
    第3節 「アフリカ大陸からの黒人奴隷」
      ヨーロッパ人は植民地において砂糖やコーヒー、綿花、タバコなどの農園を作り出した。一方彼等は労働者の不足に悩まされることになる。このためインディアンの奴隷化が進むが、さらに、北米では南部の大規模なプランテーション農業が進んだのに対応して、また中南米においても北米の一部と同様にアフリカ大陸からの黒人奴隷が導入され労働力の主力になってくる。一方17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ本国では英、仏両国の激突が繰り返された。英仏が戦争を行うたびに植民地においても英仏が対立し、戦争が行われたのであった。即ち先に述べた英国のニューイングランド植民地と仏国のカナダ植民地は鋭く対立した。この北米における植民地戦争は、1700年に本国において英国が7年戦争に勝利し、さらに北米の植民地においては、フレンチ・インディアン戦争が1763年迄続いた。さらに英国は次々とフランス、スペインの植民地を獲得し、さらにスペインの持っていた南部にまで広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得るのである。
      このように英国は北米大陸の大西洋岸をほぼ自らの手中に収め、大英帝国の礎を築き上げたのであった。一方原住民たるインディアン達は英仏どちらにつくか選択を強制され、結果として英仏の代理戦争を引受けさせられたのであったが、どっちが勝っても彼らの領土は没収され、部族は離散の運命におちいった。まさにインディアンの悲劇と云ってよい。北米東海岸を掌握した英国は、先住民インディアンを完全に駆逐して西方へと領土を拡大していった。この段階で13州の植民地が建設され、白人の人口が州によってはインディアンを上回る地域が生じたのであった。

    ■第二章「アメリカ合衆国の誕生と孤立化」

    第1節「アメリカの独立戦争」
      18世紀に入ると、気候的に比較的農業に不向きであった北東部において、造船、運輸や醸造などの産業が急激に発達し、英国本国の経済を圧迫するようになる。元来植民地は新教徒が多数を占めていたため、イングランド国教会の本国とは何かと軋轢があった。そしてこの頃には精神的にも本国との考え方の相違が顕著となってきて、経済的にも自立を目指すが、英国はかねてから種々の法律を設け植民地の工業発展を妨げ、また英国以外との独自貿易を禁じてきた。そしてこの頃から更に本国に有利な重商主義政策を敷くことによって、さらに植民地を圧迫した。またフランスとの長い戦争の必要戦費を捻出するため、植民地住民に対して重税を課した。その最たるものが貿易の独占のための「印紙税」であったが、住民達は反発して反課税と反「印紙法」の撤廃を主張し激しく対立した。この結果本国側は「印紙税」は撤廃するが、これに代わって茶の貿易を独占するため「茶法」を成立させた。憤激した住民は1773年ボストン港を襲撃して有名なボストン茶会事件を引き起こす。これに対して英国側もボストン港を閉鎖して強硬な姿勢を示すが、植民地側もフィラデルフィアに全米13州の代表を集めて会議を開き、英国に対して植民地の自治権を求めて反抗する。そして1775年4月英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突して、アメリカ独立戦争が始まる。民兵側は、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を発足させ、独立戦争を遂行したのであった。
      このアメリカ独立戦争は、フランス、スペインの軍事的な援助を受けたアメリカ軍優勢のまま推移する。またアメリカに有利であったのは、強国ロシアが中立を保った事であった。このためさすがの英国も軍事的に孤立して次第に劣勢に追い込まれ、1781年のヨークタウンの戦いで英国軍が完敗すると、本国内でも独立容認の気運が生まれてきた。この結果1783年アメリカと英国との間でパリ条約が結ばれ、これによって大陸13州が独立をはたし、加えて英国よりミシシッピ川以東の英国領ルイジアナ植民地を獲得した。
      さて13州の合衆国が誕生したものの、州毎に内外に対する政策は違い、いわば国家としての統一が果たされておらず不安なものがあった。そこで1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催され、ここで主権在民の共和制、三権(立法、司法、行政)分立の連邦制を定めたアメリカ合衆国憲法が制定され、ニューヨークを首都とするアメリカ合衆国が生まれたのであった。そして初代の大統領としてジョージ・ワシントンが就任する。さらに首都についてはその後フィラデルフィアに移されるが、国民からいろいろな批判が出て、結局現在のメリーランド州とバージニア州の州境に新首都が建設されることになり、1801年現在のポトマック川に面する新首都ワシントン市が誕生したのであった。
    第2節「アメリカの精神的な自立と工業の発展を進めた米英戦争」
      その後ヨーロッパ大陸ではフランスにナポレオンが台頭するが、合衆国はナポレオンからミシシッピ川以西の広大なフランス領を買収した。しかしナポレオンはヨーロッパの覇権をめぐり英国と対立し、ルイジアナの買収後戦争状態となった。合衆国の生命線は農産物のヨーロッパへの輸出であり、これにより外貨を獲得していたから両国との良好な関係を保つよう努力していた。ところが英国は、フランス艦隊を1805年トラファルガーの海戦で全滅させた結果、フランスに対して海上封鎖を実施し、さらにアメリカに対してもその貿易政策に対し海上封鎖を実施した。当初アメリカは、英国はアメリカ以外の他国から農産物を買えないであろうと思っていたため英国の海上封鎖の解除を狙い、外国との貿易を停止した。ところがアメリカの目論見ははずれ、英国は他国からの農産物輸入を実施してしまう。これによりアメリカの経済は大打撃を受けた。そして1812年、英国がミシシッピ川西部とカナダの先住民を支援している事を口実として、南部と西部の議員が中心となり英国に対して宣戦布告し、ここに米英戦争が開始される。南部と西部へ入植した白人達は、インディアンの土地を得ることと農産物の輸出拡大に期待していたためこの戦争を積極的に応援した。しかし、反対に北部の折角英国からの独立をはたした連邦主義者とも云える人達は、英国と事を改めてかまえる事には消極的であった。しかし緒戦ではアメリカ軍は勝利を重ね、反戦論は霞んでいくが、英国軍は陣営を立て直して徐々に英国有利の展開となり、181
    5年にアメリカ側が形勢不利の中で停戦となった。この結果、米英の領土は戦前に戻された。
      この戦争によりアメリカはヨーロッパとの関係が途絶え、経済的また文化的にも孤立したのであったが、かえってこれがアメリカ人にとって「ヨーロッパ何するものぞ」という精神が芽生え、アメリカ人の精神的な自立と自国内の工業の発展が進むことになった。
    第3節「アメリカ大陸の孤立化と先住民の掃討」
      一方ラテンアメリカにおいて独立運動が盛んになると、当時のモンロー大統領は、ヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉をうたったモンロー宣言を発表して、これが後にモンロー主義と云われるアメリカ大陸の孤立化(アメリカ合衆国の孤立主義)をうたったもので、以後100年続く合衆国の基本外交方針となった。このモンロー主義は云い換えれば「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」という宣言であり、これにのっとり合衆国は、1890年の「フロンティア消滅宣言」の頃迄アメリカは国内でインディアンの土地の取り上げを目的とした「アメリカ合衆国内の先住民の掃討」を遂行した。アメリカはこのように先住民の掃討が完了した1890年頃以降、太平洋やラテンアメリカへの政治的、軍事的介入を展開していく。
      話は前後するが、1830年代、時の大統領ジャクソンは「インディアンは白人とは共存し得ない。野蛮人で劣等民族のインディアンはすべて滅ぼされるべきである」と唱え、これはミシシッピ州以東の大多数のインディアンを強制的に移住させ白人社会に同化させ、またこれに従わない部族は絶滅させるという民族浄化政策であった。
      現在中国で行われているウィグル、チベット、モンゴルその他少数民族に対する弾圧と軌を一つにしたもので、人権、人権と今になってアメリカ人が騒ぐのは如何なものかと思う。しかし、植民地における原住民に対する過酷な弾圧は世界中いずこを取っても同じである。戦前、戦時中の日本の植民地経営が過酷であったという向きも多いが、ラテンアメリカにおけるスペインの植民地経営、アメリカのインディアン殲滅、英国のインド、南アフリカ経営、オランダのインドネシア経営、英国のアヘンを使った中国侵略などの史実を知ると、その度合いは較べものにならないのである。

    ■第三章「アメリカ大陸の中の自国領土の拡大」

    第1節「隣接する土地を次々と獲得」
      さて話はアメリカに戻るが、インディアンを徹底的に弾圧したジャクソン大統領の時代アメリカも産業革命を迎え、鉄道、航路が発達し国内市場が拡大した。1850年代までに北東部を中心に重工業化が進み、労働者が大量に暮らす大都市圏が登場、それと同時に企業経営者や企業に出資する資本家が台頭して資本主義社会が形成されたのであった。
      米英戦争によってヨーロッパ政治への介入に懲りたアメリカは、専ら自国の領土拡大に方針転換する。すなわち、英国とは旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、スペインからは1819年フロリダを購入した。一方米英戦争の直後から元々仏領であったルイジアナへの移住を進め、さらに1840年頃から太平洋岸の新天地オレゴンを目指すようになった。1845年にはメキシコから独立していたテキサスを併合し、先に述べたインディアンが居住するオレゴンは、1846年アメリカに併合された。さらに同年メキシコとの間で戦争を起こして(米墨戦争)勝利してニューメキシコとカリフォルニアを獲得、10年後にはメキシコの北部を買収した。
      上記のテキサス併合も当時国力が弱体化していたメキシコの弱みにつけ込み、当時多くのアメリカからの不法移民に占領されていたテキサスを力ずくで合併したといってよい。そして旧メキシコ領カリフォルニアで1848年に金鉱脈が発見されるといわゆるゴールドラッシュが起こり、一攫千金を狙った多くの白人が移住した。このため原住民のインディアンはこの時絶滅の憂き目にあった。
      インディアンを虐殺してその土地を奪い、メキシコと事をかまえてその広大な領土を獲得して西へ西へと発展の一途をたどったアメリカは、自国大陸の中ではその目的をはたしたのがこの時期1850年頃であった。そして次に彼等が目指したのは、当時多くの西ヨーロッパ列強の植民地であった東南アジアには手が出せなかったため、まだ西欧諸国の勢力が及んでいなかった東アジアに積極的かつ強圧的な外交を展開し始める。すなわち1800年代初めから大清帝国や李朝朝鮮に急接近し、1853年には日本に開国を迫り開国させる事に成功する。
    第2節「南北戦争で外交は一時停滞」
      しかし時を同じくして起こった南北戦争によって、アメリカの東アジア外交は一時滞ることになる。南北戦争の詳細のついては今回進めている話には大きな関係を持たないが、ざっとそのあらましを述べておくと、1860年に大統領となった共和党のエイブラハム・リンカーンは、黒人奴隷解放を政策として北部の資本家から支持を得ていた。一方南部の奴隷州は大反発してアメリカ連合国(南部連合)を結成して離反したのであった。当然合衆国としてはこれを許すはずはなく、ここに南北戦争という形で火を噴いたのであった。当初は南軍有利の形で戦争は進んだが、北軍は海上封鎖などで対抗し、1863年にリンカーンが奴隷解放宣言を行うと急速に北軍への支持が拡大して、有名なゲディスバーグの戦いで北軍が勝利すると南軍の力は弱まり、1865年南部連合は降服してアメリカは再び統一された。
    第3節「大陸横断鉄道の建設とインディアン弾圧」
      このように領土は、大西洋から太平洋へと大きく拡張したのであったが、何といってもアメリカの国土は広い。当時の交通は馬車か船舶で、馬車で大陸を横断するには半年を要し、船舶は当然南米大陸の突端を経由するため4か月を要した。このため西部の開発は遅れに遅れ、北部との途絶が目立った。まして南部と北部の関係は南北戦争後も完全な融和には程遠く、リンカーンは大統領就任当時から大陸横断鉄道の建設を進めていた。しかし、この鉄道の建設は困難をきわめた。すなわち、この建設には多大な労働力を要し、当時西側に入ってきていた中国からの移民、東部の食いつめた白人、さらに現地インディアンが駆り出されたが、それらの融和が難しかったからである。しかし政府は軍隊まで動員し鉄道建設を進め、1869年には何とかこの横断鉄道を完成した。これにより北部、南部、東部の一体化がようやくなされ、アメリカは実質的に一つの国土となったのであった。
      しかし、その裏でインディアンに対する弾圧は徹底的に行われた。その方法の一つが彼等の食糧であるバッファローの皆殺しであった。このように鉄道の開通により膨大な人口が西部へ移入した。太平洋岸に達したアメリカの領土であるが、さらに1868年には北部アラスカをロシア帝国から安値で買い叩き入手する。このため移入人口がさらに増加したため、急速に生活圏を侵食されたインディアンは1860年代から70年代にかけて各部族が一斉蜂起し、ここに20年以上に及ぶインディアン戦争が勃発する。しかし現実は厳しくインディアン蜂起は次々と鎮圧され、最終的にはインディアン社会は根本から破壊され彼等の土地はほとんどが白人農業者の所有するところとなった。そうして合衆国は、インディアン部族は独立国家とみなさないとしてインディアンの同化政策を進めたのであった。

    ■第四章「帝国主義国家アメリカの海外進出」

    第1節「ハワイの併合」
      こうして西部開拓時代は終わり、アメリカ人は次の目標を海外に求めていくのである。彼等の目は先ずラテンアメリカに向けられていったが、先に述べたモンロー主義によるアメリカ合衆国の外交政策は引き続き継承され、植民地獲得には消極的であったがドルを振り回すドル外交により経済的な進出に力を入れていった。
      次にアメリカ人は一斉に太平洋の島々へ移住していった。1898年に彼等はハワイを併合した。ハワイは王国で、1839年には憲法を制定して独立した立憲君主国であった。しかし1820年代に入ってからイングランドの宣教師や捕鯨業者、商人が入り込み、その一方でアメリカ人が次第に砂糖やパイナップル事業に進出して、1890年頃には事実上ハワイを政治的にも又経済的にも支配するようになった。一方「ハワイ人のためのハワイ」を主張するリリウオカラニ女王に対し、アメリカ人入植者はアメリカ海軍の援助を得て革命を起こし、新政府を組織するが本国ではこれを認めなかった。しかしハワイ王国に同情的であったクリーブランド大統領にかわり、1897年マッキンリー大統領が登場すると局面は変わり、ハワイ併合が推進されるようになり、1898年8月ハワイはアメリカ領となる。
    第2節「キューバを実質的に支配」
      1898年キューバを巡るアメリカとスペインとの間で戦争が起こる。これはアメリカ帝国主義のまさに典型的な政策であった。これによりアメリカはキューバを実質的に支配下におさめ、明確に帝国主義国家への転換を明らかにしたものであった。一方この戦争により、スペインの植民地帝国の時代が完全に終わったことを意味して、いわば世界史にエポックをきざんだものであった。
      この戦争の発端は、1895年に起こった第二次キューバ独立戦争にある。すなわちコロンブス以来のスペインの砂糖プランテーションを中心とするキューバ経営は、奴隷制度を含めて極めて厳しいものがあった。これに反抗して独立戦争が始まるのであるが、スペインの弾圧は依然として続き、一方キューバの砂糖資源に投資を行っていたアメリカはこれを失う事を懸念して、1898年2月アメリカ軍艦メイン号の爆沈に乗じて同年4月、スペインに宣戦して米西戦争が始まったのであった。アメリカ海軍はラテンアメリカの各地、さらに太平洋のフィリピン、グァムなどのスペイン植民地を攻撃して、スペイン軍との戦闘の結果わずか4ケ月でアメリカが勝利したのであった。
      同年12月両国の講和が成立し、その結果キューバの独立が承認されたのであったが、アメリカはフィリピン、プエルトリコ、グァムを領有した。又キューバは保護国となった。この事によって、アメリカは海外に植民地を持つ世界の強国の仲間入りをした。
      もう一つ時々新聞を賑わすが、アメリカがキューバに上陸した地点を米西戦争終結後も永久租借地として、カストロによる社会主義革命後もアメリカは返還せず租借し続けている。これこそ悪名高きグァンタナモ海軍基地である。
    第3節「フィリピンの植民地支配とマッカーサー一家」
      米西戦争によってアメリカは最も価値の高いものを手にした。それはフィリピンの植民地支配である。1898年5月、アメリカ海軍はマニラ湾のスペイン艦隊を一夜にして全滅させ世界を驚かせた。しかし、陸上に拠点を持たなかったためフィリピン独立派を利用することを考える。すなわち海外に亡命していた独立運動の指導者アギナルドを亡命先から呼び戻し、「独立」を餌に陸上戦に従事させる。しかし陸上戦においてアメリカに協力して戦ったフィリピンの独立派アギナルドは、戦後アメリカに見事に裏切られフィリピンの独立は認められず、フィリピンはアメリカの植民地となった。アメリカは当地を足場に長年の夢である中国への進出を図る拠点を得ることになる。
      さて、もともとキューバを巡る争いが発端であった戦争が、フィリピンを舞台に戦われたのであるが、これは何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいという、長年にわたるアメリカの悲願の実現であったからである。アメリカはカリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」を誕生させたのであった。太平洋戦争後連合国最高司令官として君臨したダグラス・マッカーサーはフィリピンとの深いつながりを持っている。すなわち彼の父アーサー・マッカーサーは南北戦争に従軍したたたき上げの軍人であるが、一時除隊したがその後は軍隊に戻り昇進する。1898年米西戦争が始まると、准将となっていた彼はフィリピンに出征して、この時からマッカーサー一家とフィリピンとの深い縁が始まる。フィリピンがアメリカの植民地となると、少将で師団長となっていた彼はその後米比戦争で活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官となる。その二男がダグラス・マッカーサーで、マッカーサー一家はフィリピンに多くの権益並びに資産を保有していたとされている。父は事実上のフィリピン総督であった。米西戦争に勝利したアメリカは、上記のように現在の北米、太平洋圏におけるアメリカ領土を確立したのであるが、さらに1899年から1913年にかけてフィリピンを侵略し、米比戦争といわれるこの戦いの中で、数十万人のフィリピン人を虐殺して独立運動の息の根を止めた。
    第4節「中国権益の日米対決が太平洋戦争へと繋がる」
      さらにアメリカはアジアへの野心を隠さず、「門戸開放」「機会均等」「領土保全」の三原則を掲げ、中国への進出を虎視眈々と狙っていた。
      最初に清国に手を出したのは1900年に起きた義和団事件鎮圧で、連合国の一員として出兵したのであった。アメリカは日露戦争において日本が善戦したのを見て、1905年ルーズベルト大統領はその調停役を買って出て、日本に恩を売る。日本は1894年〜1895年の日清戦争に完勝して、途中で三国干渉はあったが朝鮮を保護国とし後に併合する。日本が日清戦争を起こしたのはロシアの南下策に対抗するものであったが、朝鮮併合後もロシアの圧迫は強まり、ついに1905年ロシアと戦端を開き、満州を主戦場とする日露戦争が開始された。世界一の陸軍国ロシアへの挑戦は無謀とも思われたが、予想に反して日本陸軍は善戦して陸軍は五分の戦いを展開し、一方海軍はロシア極東艦隊を撃滅した上、極東に遠征してきたバルチック艦隊を日本海において全滅させたため、ロシア側からも講和の気運が出て前出のようなアメリカの仲介もあり停戦講和となった。しかし日本陸軍にはすでに余力がなく事実上は引き分けであった。しかし曲がりなりにも大国ロシアを破ったという事で日本の評価は上がった。この戦争により日本は満州に大きな権益を獲得したのであったが、そこは前々からアメリカが狙いを付けていた地域でもあった。ここでアメリカの帝国主義政策に日本は真っ向から立ち塞がることになる。この結果が日米両国が対決する太平洋戦争へと繋がっていくのである。アメリカは日本を破るが、極東における権益を今に至るも確保する事は出来なかった。結局アメリカは、日本を叩き蒋介石の国民党政権に肩入れしたが、中国が共産化するのにわざわざ結果として手を貸した事になり、今や大国共産主義中国の抬頭に悩まされているのである。

    ■おわりに

      以上、アメリカは建国以来きれい事だけで大国になったのではなく、本質的にはあくまで自己中心の帝国主義国家で、その歴史に大きな汚点をいくつも持ちながら現在がある事を忘れてはいけない。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年6月30日 金言(第95号)
    中国の香港締め付け(国家安全維持法)

    ■はじめに

      例年の中国共産党全人代(全国人民代表大会)、これは日本の国会に相当するものであるが、要は中華人民共和国の立法府で、国家の最高権力及び立法機関として位置付けられる一院制の議会である。
      これは1954年に制定された憲法に基づいて設立され、文化大革命の混乱期を除いて毎年1回、3月に開催されることになっている。しかし、2020年は新型コロナウィルスの蔓延のため5月22日からの開催となった。そして5月28日に世界中から注目する中、香港の統制を強化する「国家安全維持法」の新設が決まったのであった。

    ■第一章 「「香港国家安全維持法」の概要」

    第1節 「法律の骨子」
      この新しい法制の内容はその後全人代の常務委員会で詳細が詰められ、ようやく6月20日、正確にはこの「香港国家安全維持法」の概要が発表された。
      この法律の骨子は
  • 1.国家分裂、政権転覆、テロ活動、外国勢力と結託して国家安全に危害を加える行為を処罰する。
  • 2.中国政府は指導、監督のため香港に「国家安全維持公署」を設置する。
  • 3.香港政府は「国家安全維持委員会」を設立し、ここに中国政府は顧問を派遣する。
  • 4.中国政府は特定の情勢下では、犯罪案件で管轄権を行使する。
  • 5.国家安全の事件を取り締まる行政長官が裁判官を指名する。
  • 6.国家安全維持法は香港の全ての法律に優先する。
  • この法律により中国当局は、香港に対して強い影響を及ぼすことになり、現在の香港における「一国二制度」が中国当局の主張とは裏腹に、はたして維持できるかどうか欧米諸国は強い疑いを抱いているのである。
    第2節 「宿願であった国家安全法制の整備」
      全人代常務委員会においては6月20日に3日間の審議を終わり、法案は審議継続となり、7月上旬までには成立する可能性が高い。しかし国家安全法制の整備は1997年に香港が英国から中国に返還されて以来中国の宿願であった。というのは、本来香港の憲法に相当する「香港基本法」が存在し、この法律は英国統治下から中国に返還された時につくられ、いわば香港の「一国二制度」を担保するものである。そしてその第23条において、香港に対して国家の分裂や中央政府の転覆を禁じる法整備を義務付けるが、香港の世論は鋭く反発して今なお実現していない。
      特に昨2019年6月から本格化した厳しい抗議活動を受け、中国当局は強い危機意識を持ち、いわばしびれを切らして強硬手段に打って出た形である。
      今回中国が目論む国家安全条例は、中国共産党にとって悲願といってよい。仮にこの法律がないと、いつか香港から共産主義を否定する民主化の波が押し寄せてくるのではないかという強い懸念を持っている。
      実際香港においては西側の工作員が活発に活動し、中国本土で邪教として追放された「法輪功」の学習者や、その他文化大革命や天安門事件に連座した反共産党分子が香港に集まり定着している。
    第3節 「「一国二制度」の締め付け強化」
      話は前後するが、そもそも「一国二制度」とは何かあらためて触れておきたい。 これは共産主義中国において、資本主義を併存させる事の出来る制度である。そしてこの事を可能にしているのは、中華人民共和国憲法31条の「国家は必要のある場合は特別行政区を設置することが出来る」との規定により、1997年英国より返還された香港と99年にポルトガルから返還されたマカオが、全人代の定める「特別行政区基本法」により「特別行政区」になっているのである。
      香港の場合、先に述べた憲法に相当する香港基本法は返還後も資本主義を50年間維持し、「高度の自治」を認めると規定している。また言論、集会の自由をも約束する。一方外交や防衛は中国政府が担う。また、政治改革などの重要案件は中国の承認が必要と定められている。この一国二制度は、元々台湾統一政策として考えられたものであり、最近も中国首脳はこの制度の適用による統一を台湾に働きかけ一蹴されている。
      この「二制度」により香港人は、基本的には英国統治の時代とほぼ同じ生活スタイルを保ち、法的権利を享受している。我々にも中国本土と香港は「違う国」に見えるのではないか。しかし一方中国本土政府は、いずれ完全に返還される香港への統治方法を徐々に強化してきている。締め付けの強化といって差し支えない。
      例えば中国国務院の担当部署からは「一国二制度は香港固有のものではなく、全て中央政府から与えられたものである。」と明文で定義している。裏を返せば中央政府がいつでも剥奪出来るという意思を明確にしているのである。
      また、2017年からの香港の普通選挙についても事実上の香港親中派優遇、民主派締め出し策を発表した。この頃から、香港人の中国本土の支配力強化に対する強い不安が持ち上がってきたといってよい。いろいろな場面でのデモが強く行われるようになり、一国二制度への不信、不安が高まっている中で強行されたのが今回の「国家安全法制」である。
    第4節 「「二つの中国」はタブー」
      さて昨年6月の「逃亡犯条例」改正案の審議の際には活発なデモが行われたが、今回の「国家安全法制」に反対するデモには今迄と違い、香港政府当局の圧力は極めて大きくデモは身動きが出来なくなっている。また2019年の「逃亡犯条例」改正の際には一部親中派も慎重姿勢を示したが、今回の安全法制ではこぞって親中派は法制支持に回っている。
      2047年が当初決められた「一国二制度」の期限であるが、中国本土人は2047年になれば当然中国と一体化するのであるから「何を今更、文句を言うな。」という考えである一方香港人にとっては「中国の発展の原動力こそ我々であった」という自負と誇りもあり、中国本土人の考えは、その傲慢さが許せないのではないかと思う。昨年デモが盛り上がった時点で中国は、香港との境界線近くまで軍隊を派遣したのであったが、これに香港人は一層警戒感を強めている。
      このような情勢の中から香港人として出てくる発想は「独立」である。勿論中国にとって将来台湾統一という事を視野におくからには、香港の独立すなわち「二つの中国」などあってはならないタブーである。
      さて、なぜ中国と香港の内に1997年以来すでに23年を経過している中でなお強く抜きがたい確執が続いているのか。それは、香港は現在中国の特別行政区にはなってはいるが、一国二制度の下にあり、あくまで何事についても自由なのである。この自由を束縛しようとする動きに香港人は抵抗するからではないか。

    ■第二章「香港の成り立ち」

    第1節「中国清朝と英国が戦争に至った経緯」
      さて、現在香港は中国の特別行政区ではあるが独自の通貨を発行し、金融センターとして確固たる地位を保ち、いわば独立国としてどうして存在しているのか、これについてあらためて述べておきたい。「香港」は、その成り立ちについてはよくわかっているよという方も多いと思うが、どうしてこのような事実上の独立国が存在しているのか、かならずしも詳しく理解していない方もおられると思うので「香港」の成り立ちについて触れたいと思う。
      そもそも香港島が中国清朝から英国の植民地となったのは、阿片戦争の結果である。元々中国清朝は1757年以来広東においてヨーロッパ諸国との交易を実施していたが、北京政府の特別な許可を得た商人にしか、ヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった。この制度を公行(広東貿易制度)という。一方ヨーロッパ側で中国貿易のイニシアティブを握っていたのは英国東インド会社であった。そして同社は現地に代表機関を設け中国側との交易を行おうとしていたが、そこは何でも中国自体が中心でなければおさまらない国柄から、北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」として認識していたため、直接の貿易交渉には応じなかった。このため東インド会社の出先機関である「管貨人員会」は公行を通じて請願書を広東地方当局に提出してようやく交易ができるという、中国市場の全面的な開拓を目指す英国にとって満足のいくものではなかった。同国は広東貿易制度の廃止と北京政府の朝貢意識を是正することにより、英中自由貿易の確立を目指していた。
      一方インドを植民地とする東インド会社は、インドのベンガル産の阿片の専売権並びに製造権を1773年、1797年に獲得して中国に、組織的、積極的な売り込みを開始し出した。北京政府は当然阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人阿片商人が官憲を買収して阿片の密貿易に応じたため、阿片貿易は急速に拡大して、1823年には阿片がインド綿花に代わって、中国向けの最大の商品となってしまった。このため広東貿易制度はその枠外で広がっていった阿片貿易のため、事実上崩壊してしまった。当時の英国は清国から茶、陶磁器、絹などを大量に輸入していたが、英国には大量輸出するものがなかったため、英国の大幅な輸入超過となっていた。このため英国はインドで栽培した麻薬である阿片を密輸出することにより、バランスをとったのであった。
      中国における阿片の吸引の習慣は明の時代に始まり、清朝に代わっても何度も阿片禁止令が発せられるが阿片の密輸入は止まらず、その後も何度も発せられた禁止令の効果はなく国中に阿片吸引の悪弊が広まり、健康を害する者が増加する一方風紀の退廃と民度低下から、国力の低下が著しいものとなってきた。加えて阿片の輸入量増加により貿易収支が逆転して、阿片の代金決済が銀で行われていたため、清国内の銀保存量が激減して銀価格の高騰を招いたのであった。
      危機感を持った清国道光帝は1838年、清廉潔白な林則徐に全権を与え欽差大臣(外交問題に全権を持つ特別官)に任命し、広東に派遣して阿片密輸の取り締まりに当たらせた。林則徐は阿片商人からの贈賄には一切応じず極めて厳しい阿片密輸取り締まりを行う。具体的には「今後一切阿片を清国内に持ち込まない」という誓約書の提出を要求し、違反した場合「死刑」を通告した。さらに同時に当時英国商人が保存していた阿片を没収し、焼却処分とした。さらに誓約書の提出を拒む阿片商人達を広東から追放した。
    第2節「「阿片戦争」の勃発と中国清朝の敗戦」
      一方英国も阿片禁止論が強まっていた1836年、現地人保護のため経験豊富な外交官チャールズ・エリオットを広東に派遣する。1839年3月に林則徐による阿片取り締まりが始まると、エリオットは英国商人の保持する阿片の引き渡しには応じたが、誓約書の提出は拒否したのであった。エリオットは5月24日広東在住の全英国人を連れてマカオに退去する。林はそれに対して8月15日にマカオを武力封鎖し、兵糧を断ち、井戸へ毒を撒く。この結果エリオットたちはマカオを放棄して船上に避難する。英国現地と東インド艦隊との連絡が不十分で後手後手に回っていた丁度その時、ようやく艦隊の一部が到着し、エリオットは艦隊を使って反撃に打って出る。
      一方英国本国においても遠征軍派遣が検討されたが「阿片の密輸」という開戦理由には反対意見も続出し、下院においてはわずか9票差で遠征が承認され、1840年8月軍艦16隻、輸送船27隻、その他の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000名の遠征軍が中国に到着し、意表をついて林則徐が大量の兵力を集めていた広州を避け、兵力が手薄な北方の沿岸地域を襲い、首都北京に近い天津沖に侵入した。天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は強硬派の林を免職し、代わりに和平派のキシャンを後任として英国との交渉に当たらせる。英国側もモンスーンの接近や一部疫病の流行もあって一時撤収した。1841年1月20日、キシャンとエリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル、公行廃止等で後の南京条約に比べると比較的清に甘かった)が締結された。
      ところが英国軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免し川鼻条約の締結を拒否してしまった。それを知った英国軍は直ちに軍事行動を再開して艦隊は厦門、舟山諸島、寧波などの揚子江以南の沿岸地帯を次々と制圧して完全に制海権を握り、火力に勝る英国側は、自由に上陸地点を選択できる状況下で、一方清国側は複数の拠点を守らなければならないため、一方的な各個撃破の様相を呈して英国艦隊に蹂躙されるままとなった。英国艦隊はモンスーンに備え、1841年から42年にかけての冬期は活動を停止したが、1842年春にインドと本国からの増派約9,000人を加えて攻撃を再開し、5月に清の精鋭部隊の駐屯する乍浦を陥落させ、揚子江へ侵入を開始、7月には鎮江を落したため京杭大運河が止められ、北京は完全に補給を断たれてしまう。戦況は近代的な火器、すなわち中国の青銅製の大砲に対して、最新式の銅鉄製のアームストロング砲を備えた英国の破壊力はすさまじく、清国側は全く歯が立たなかった。また船舶でも英国は当時としては最新の機帆軍艦であったのに対し、中国は木造のいわゆる「ジャンク」が主力であり、とても対等に戦えなかった。
      このような悪条件の中で清国を率いる林則徐の涙ぐましい奮闘も、皇帝の側近である守旧派の妨害により実を結ぶ事はなかった。この悪辣な英国の侵略と林則徐が如何に苦労を重ねて対抗したかについては陳舜臣氏の小説「阿片戦争」をお読みになればよく理解出来る。
    第3節「「南京条約」で英国領となった香港島」
      これにより中国側は完全に戦意を喪失し、1842年8月29日南京条約が結ばれ、第一次阿片戦争は終結する。南京条約により清国は一部の貿易商による独占貿易である公行制度を廃止し、従来の広東、福建、浙江の三港に加え福州、上海の五港を自由貿易港とせざるを得なくなった。加えて英国に対する多額の賠償金、そして香港の割譲が定められ、更に治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認など、不平等な条項を押しつけられたのであった。このように1842年の南京条約によって香港島は英国領となった。英国がこの戦争を引き起こした目的は二つあった。一つは東アジアの大国清朝を中心とする朝貢体制を打破して、英国にとって不利な厳しい貿易体制を撤廃し、中国に自国の製品を買わせることであった。ところが結果として中英間の外交体制を大きく変える事には成功したが、もう一つの経済的目的として目論んでいた英国綿製品の輸出は中国製品にせり負け、輸出を増加させることは出来なかった。あてがはずれた英国は次の機会をうかがう事になる。これが第二次阿片戦争といわれるアロー号事件につながっていくのであった。
    第4節「「アロー号事件」で現在の香港が形成」
      南京条約の締結後、条約の不平等に不満を持つ中国人による多くの外国人排斥運動が起こったが、その中で最も象徴的な出来事がアロー号事件であった。第二次阿片戦争といわれるこの事件を簡単に述べると、1856年10月、清の官憲が英国船籍の阿片密輸船アロー号の臨検を行い、清人の乗組員12名の内3名を海賊容疑で逮捕した。これに対して当時の英国広州領は臨検が全く合法的であるにもかかわらず、英国籍の船に対する臨検は不当であると抗議し、また臨検の際に国旗を侮辱したと難癖をつけ謝罪を要求した。交渉は決裂、清国に駐在していた英国艦隊が広州の砲台を攻撃し戦争が始まって、これをきっかけとしてかねてから清国への武力介入の機会を狙っていた英本国は艦隊を派遣して、さらにフランスにも出兵を依頼した。1857年英仏連合軍が清国を攻撃し、1860年には英仏に加えロシア、アメリカを加えた連合軍が北京を占領した。この占領の際連合国軍は略奪その他暴虐の限りをつくしたのであった。この結果北京条約が結ばれ九龍半島の南端が英国に割譲され、さらにその後英領となった2地域の緩衝地帯であった新界が1898年、99年間の租借が決まり現在の香港が形成されたのであった。

    ■第三章「戦後の香港」

    第1節「英中交渉で約束された「一国二制度」」
      1941年に起こった太平洋戦争により日本は英国植民地軍を追い払い、香港を占領したが1945年日本降伏により再び英国植民地に復帰した。1950年に英国は前年建国された中華人民共和国を承認し、以後香港の帰属等についての交渉先は共産中国となる。1982年英国首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ケ小平主席との間で英中交渉が開始される。英国は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたが、ケ小平は英国の永久領土である香港島及び九龍半島の返還を求め、それが実現しない場合は武力行使も辞さぬと固い決意を示し、やむなくサッチャーは折れたのであった。
      1984年12月19日、英国は1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は特別行政区になる事が明らかにされた。この際共産党政府はケ小平が提示した一国二制度をもとに、社会主義政策を2047年迄の50年間香港では実施しない事を約束したのであった。すなわち2047年迄の間「一国二制度」が保障されているのであるが、中国共産党政府は2014年6月に発表した白書において「この制度は香港固有のものではなく全て中央政府から与えられたものである」と明文化し、さらに2017年からの香港の普通選挙制度について事実上の香港親中派優遇、民主派締め出し策を打ち出した。さらに司法に対する介入策も打ち出され、香港民主派はこれにデモで応えるという状況が続いている。
    第2節「大きな岐路に立つ香港」
      このように一国二制度に揺らぎが見られていたところに今回の「国家安全維持法」の導入という事になり、香港は今まさに大きな岐路に立たされている。習近平が事を急ぐのは次の大きな目標があるからである。すなわち台湾の解放である。しかし香港の現状は中国にとっても大きなメリットが存在している筈であるが、中国が頭ごなしに「国家安全維持法」を導入する決定を全人代において採択した事は、目障りな香港民主派やデモを続ける学生らに刃を突きつけることである。
      しかし、香港は国際金融センターとして中国の経済成長を支えた実績を持ち、その裏づけは英国植民地時代からの透明性の高い「法制度」にあった事はまぎれもない事実である。仮に香港の独立した法制度を脅かせば、一国二制度が返還後も残っているレッセフェール(自由放任)と呼ばれる自由な経済政策も危うくなる。もし米国に香港が見放されると中国経済には大変な重荷がおおいかぶさってくるのは必至と思われる。
      地図を見て頂ければわかるが、広東省と陸続きの香港は中国と海外を結ぶ唯一といってよい窓口で、貿易の拠点として中国を潤してきた。かつて人民元に国際的な価値がない時代、中国は米ドルに為替でリンク(ドルペック)する香港ドルを使用していた。また2018年に海外から中国に向かった投資額の70%が香港経由で、中国企業は香港金融市場で1,000億米ドル(10兆8千億円)の資金を調達している。香港は中国にとって「金の卵を産むニワトリ」であった。

    ■おわりに

      対中ビジネスを進める日米などの企業は、英国流の基準で整備された金融などの法制度にこそ価値があり、香港を経由すれば中国もリスクを軽減できた。香港が無くても上海があるというのは全くの幻想に過ぎない。上海が金融センターとして香港に代わる可能性は現制度から見て現時点ではないと思われるが、香港がその地位を失えば中国への金の流れはパイプ詰まりすることは明白である。中国経済にとって香港が機能を失うことは、大きなデメリットと思うが習近平はその方向に邁進している。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年5月30日 金言(第94号)
    オリンピックを考える

    ■はじめに

      今年も早や5月も終わりに近づいたが、本2020年は第32回夏季国際オリンピック大会が7月22日から8月8日迄開催されることになっており、コロナウィルスの蔓延による明2021年への延期がなかったなら、身近で行われる聖火リレーなどで今頃はオリンピックへのムードがいやが上にも高まっている時期ではないかと思う。   オリンピックには夏季大会と冬季大会があるが、今回の第32回夏季大会の開催は、1964年に続く2回目の大会である。1964年と云えば昭和39年になるが、昭和35年に発表された「経済白書」において「もう戦後ではない」と日本の復興が高々とうたわれた時期で、まさに高度経済成長真只中であった。それだけに国家的なバックアップによる設備投資や開催地東京の都市改造が進み、文字通り東京は一変したのであった。一方これを契機に選手の技量向上が大幅に進んだ事も事実であった。
      ところで昨年末、中国武漢に源を発する新型コロナウィルスの突然の来襲により世界的なパンデミック状態のやむなきに至り、我が国においてもオリンピックの開催は難しいと判断され、ご承知のように2020年大会の開催は明年の7月23日から8月8日に延期となってしまった。未だはっきりしたわけではないが、コロナウィルスがこのまま収束して、来年にはっきりと安全に開催できるかどうかは、今のところわからないのではないか。目先の問題として仮に2021年7月に開催が可能となっても、国際オリンピック委員会(IOC)や東京都の非公式発表によると、延期によって実に3,000億円の巨費の追加資金が必要になると云われている。
      コロナウィルスにより日本に限らず全世界の国々が経済的なダメージを強く受けている中で、コロナウィルスの存在自体と巨額な財政負担により今回のオリンピックは大きな影響を受けている。このままの方向で推移するなら私見としては、今回のオリンピックの来年開催は難しくなり第32回大会は中止せざるを得ないことも、十分にありえると思う。このように今回の大会が下手をすると中止という事もありうるのであるが、以前からオリンピックそのものが、大きな曲がり角にさしかかっていた事は否定する事の出来ない事実である。

    ■第一章 「古代オリンピックの概要」

    第1節 「古代ギリシャの競技祭典が起源」
      そんな事は承知だと云う方も多いと思うが、現在行われているオリンピックは古代ギリシャにおいて紀元前8世紀から紀元後4世紀にかけて行われていた4つの大会の内、一番権威があった主神ゼウスをたたえるためオリンピアで行われていた競技祭典こそがオリンピア大会なのである。
      最盛期にはギリシャの各地から選手が参加して、争いの多かったギリシャにおいてギリシャ人はこれを格別に神聖視して大会の期間は勿論、その前後3ヶ月間程を休戦期間とした。またギリシャ語の資料によると、広くオリンピア祭の回数(オリンピアードというが)をもって年を数えることになっており、ギリシャ人の血筋を持った者しか参加は許されなかった。また、この祭典はゼウス(男神)をたたえる祭であったから参加者は女人禁制で競技者は全員裸体であった。
      一方ゼウスの妃ヘラに捧げる祭がオリンピア祭と重ならない年に行われた。すなわちこれは女子のみの祭典であった。
    第2節 「古代オリンピックの沿革」
      オリンピックが何時始まったかは記録の不備もあって不明であるが、確かな記録では紀元前776年に行われた事が明らかで、アテネ、スパルタ、エーリス、その他の都市が参加した古代オリンピックの回数を数える時はこの大会をもって第1回と数えるのが通例である。競技は、当初はスタディオン走(192m)だけで1日間であったが後に種目も増え、紀元前472年には5日間となった。競技もスタディオン走に加え中距離走、長距離走、五種競技、円盤投げ、やり投げ、レスリング、ボクシング、走り高跳びや戦車競走であった。その後アレキサンダー大王のマケドニアが抬頭したが、それ迄は辺境にあったためギリシャ人にもかかわらずオリンピアに参加していなかった、しかしアレキサンダー自身自らヘラクレスの子孫であると主張し、マケドニアもオリンピアに参加することになる。
      ローマの時代になっても、ローマ人も出自はギリシャにある事を証明して参加していた。ローマがギリシャ全土を征服した後もオリンピア祭は続けられたが、ローマ皇帝ネロはこの大会を私物化したため、オリンピア大会の権威はすっかり失墜したのであった。その後キリスト教が広まるにつれ異教ローマ(ギリシャ)神の祭典であるオリンピアは次第に廃れていった。
      紀元392年にキリスト教がローマの国教となったため、キリスト教以外の宗教は禁じられ、393年に開催された第293回オリンピア祭が古代オリンピックの最後の年となった。この後ローマの異教神殿破壊令によりオリンピアの全神域が破壊され、古代オリンピックの長い歴史が閉じられたのであった。

    ■第二章「近代オリンピックの概要」

    第1節「近代オリンピックの成り立ち」
      それでは古代オリンピックに対して現在行われている近代オリンピックとは何か、案外知っている人が多いようで知られていないので、この成り立ちを説明しておこう。そもそも現在のオリンピックは夏季と冬季の大会があり、夏季オリンピック第1回は1896年古代オリンピック発祥の地であるギリシャのアテネで開催された。その間2度に亘る世界大戦による中断にもかかわらず現在まで継続されている。
      一方冬季オリンピックは1924年にフランスのシャモニー、モンブランで開催され、1994年以降は西暦が4で割り切れる年に夏季大会が、4で割って2が余る年に冬季オリンピックが開催されることになった。何故そうなったのかわからないが、結局1994年のリレハンメル大会より夏季大会と冬季大会を2年おきに交互開催することになり現在に至っている。面白いことに、冬季オリンピックの始まった当初は、夏季大会開催国の都市に優先的に開催権が与えられていた。しかし夏季開催都市に冬季オリンピックを開催するための条件が必ずしも満たされなかったため(例えば降雪量不足など)1928年夏季大会のアムステルダムが冬季大会開催不能となり、スイスのサンモリッツとなって、以後別々に行われている。ただパラリンピックは1988年のソウル大会以来夏冬同一国内で行われている。
    第2節「オリンピックの復興とクーベルタン男爵」
      さて近代オリンピックの復興について語るには、フランス人クーベルタン男爵の名前を抜きにして語る事は出来ない。クーベルタンは、1863年に15世紀に源を持つイタリア系の名門貴族フレディ家の三男として誕生する。彼の生まれた頃海の向こうの英国では産業革命が起き、スポーツの制度化が進み伝統的な名門校においてはスポーツが教育に取り入れられていた。一方フランスにおいては1870年のプロシアとの普仏戦争においてフランスが敗れ、皇帝ナポレオン3世は退位して共和制が三度復興するという混乱期にあった。当時の貴族の継承者でない子弟のならいに従ってクーベルタンも中等教育を終えると17歳で陸軍士官学校に入学した。当時の習慣では貴族の子弟は軍人になるか、法律家となるかのいずれかであったから、このコースはお決まりのものであった。しかし、彼は軍事的な教育になじめず数か月で退学してしまう。そのような自分を見失っていたある日、彼はあるフランスの哲学者の書物で、その中で引用していた当時ベストセラー小説であったトーマス・ヒューズの「トム・ブラウンの学校生活」に強い感銘を受けたのであった。この小説は英国のパブリックスクールを舞台に主人公のトム少年が学業に、そしてスポーツに躍動する姿が活写されていた。そこには青少年教育の推進者トーマス・アーノルドの姿があったのだが、彼はこの考え方に心底共鳴したのであった。そして20歳になり彼は初めて英国に渡り、イートン、ハローなどの名門パブリックスクールの実際にふれ、彼は人間の成長には肉体と精神の融合こそが必要であると強く感じたのであった。そして自分こそフランスにおけるトーマス・アーノルドにならんと決意したのであった。
      クーベルタンは、父が切実に願った法律学校をわずか1年で退学。この時点で自らの生き方をスポーツと教育にと思い定めたのであった。その後幾度かの英国訪問を経て、フランススポーツ連盟を結成すると同時に、フランスの教育省から近代スポーツ普及のための研究を命じられ、すでにプロスポーツが誕生していたアメリカを訪問し、また世界各国に学校でのスポーツ教育に関する質問状を送るなど精力的に活動し、クーベルタンの名前はこの世界でよく知られるようになった。
      丁度時を同じくして彼を刺激する大きな出来事があった。それはドイツ帝国による古代オリンピック遺跡の発掘であった。トロイ発掘で著名な考古学者ハイリッヒ・シュリーマンの指導を受けた発掘はねばり強い作業が続けられ、1881年までにオリンピアの主要な遺跡の発掘をとげていたのである。この事により益々当時の欧州では、古代への夢と憧れが語られるようになっていた。このような情勢の中でクーベルタンは肉体と精神の融合の理想として、古代ギリシャで行われていた「オリンピックの復活」を本気で考えるようになっていくのであった。
      それより少し前、1830年代から50年代にかけて、ヨーロッパの各地においてオリンピックの復興を企てる動きはあった。しかしそれが大きなうねりとなって一定の方向へは進まなかった。しかしクーベルタンは熱心にこのオリンピック復興運動に取り組んだのであった。彼は1892年11月フランススポーツ連盟創立5周年の記念式典で、初めて「オリンピックの復興」を説く講演を行った。しかし、この時は準備不足で反応は芳しくなかった。そこで彼は周到な準備を重ね、2年後の1894年6月、パリ大学で行われたパリ国際アスレチック会議において「オリンピックの復興」が満場一致で決議された。そして第1回の大会が2年後の1896年に、オリンピック発祥の地であるギリシャのアテネで開催されることになり、以後4年に1度開催して、その理念を広めるため開催地をその都度変えることになった。また競技種目は近代スポーツに限ることとなり、競技大会の母体として今も続くIOC創設も決まった。
    第3節「波乱万丈のオリンピックの歴史」
      クーベルタンは彼の信念である「スポーツの力を取り込んだ教育改革を地球上で展開し、これによって世界平和に貢献する」という理想を説いたのであった。これが彼のいういわゆる「オリンピズム」であるが、実際にはこの「理念」より大半の委員が興味を示して推進したのは総合競技大会という目新しさに飛びついたのが実情で、クーベルタンの理想追求が本当に現在に迄生かされているのかは、現在のオリンピックの実状を考えた時大変疑問に感じるのである。
      クーベルタンの提唱により発足したオリンピック大会はあく迄アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指したものであったが、第1回のアテネ大会から今日に至るまでを俯瞰すると、まさに波乱万丈といってよい。第1回のアテネ大会は資金集めに苦労したが、一応大きな成功を収めた。しかしその後の1900年のパリ大会、1904年のセントルイス大会ではいろいろな不祥事もあり、大会運営においても不手際が目立った。しかし1908年のロンドン大会、1912年のストックホルムの大会からようやく大会としての体裁が整い出した。
      第1次世界大戦により1916年のベルリン大会は中止となったが1920年にアントワープ大会が開かれ、また冬季大会も1924年から開催されるようになったが、この頃から「国を挙げてのメダル争い」が盛んになり、一方開催国も国力の誇示を意図するようになり、その最たるものが1936年のナチス・ドイツによるベルリン大会であった。クーベルタンはこの大会の成功を見てナチス・ドイツに共鳴していった節がある。
      その後第2次世界大戦の勃発により1940年の東京大会は中止、以後大戦が終了して若干の落ち着きを示した1948年に、戦後初めての大会が、ロンドンで開催されたが敗戦国のドイツ、日本は招待されなかった。続く1952年ベルリン大会からはソ連が参加し、アメリカとソ連のメダル獲得争いは熾烈なものとなった。航空機の発達によりオリンピックの開催地は全世界での開催が可能となり、1956年にはオーストラリアのメルボルンで行われ、そして1964年には東京で開催されたのはご存知の通りである。

    ■第三章「曲がり角を迎えたオリンピック」

    第1節「ショービジネス化したオリンピック」
      オリンピックがこのように大イベント化するにつれ政治的な動きが大きく加わり、1968年のメキシコ大会では黒人差別に反対を訴える場と化し、さらに1972年のミュンヘン大会ではアラブゲリラのテロ事件が発生した。1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ、西ドイツ、日本などが大会をボイコットし、1984年のロサンゼルス大会では、ソ連と東欧諸国が報復ボイコットした。そしてオリンピックが回を重ねる毎に巨大化していく中で、その開催をまかなう財政負担は莫大のものとなり、普通の財政状況の国家では開催は不可能となっていった。1976年のモントリオール大会では夏季大会で莫大な赤字を計上したため、その後夏季・冬季とも立候補する都市が1〜2都市という状況におちいった。
    オリンピックは曲がり角を迎えたのであった。しかし1984年に開催されたロサンゼルス大会は文字通り画期的な大会となった。この大会でオリンピックは商業主義のかたまりと化し、云いかえればショービジネス化したのであった。結果として赤字に苦しんでいた直近の大会から脱し、実に2億5,000万ドルの黒字を計上したのである。具体的にはスポンサーを「一業種一社」に絞ることによりスポンサー料を吊り上げ、いささか邪道と思うが聖火ランナー走者から参加費を徴収して収入を増やし、黒字化を達成したのである。この後「オリンピックは儲かる」という認識が高まりその後の大会への立候補都市の激増をまねき、過度の招致合戦による権限を持つIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに関係する内外の人物、組織の倫理的な問題が再々表面化するようになり、さらに政治家の不明朗な参入も見られるようになった。このロサンゼルスオリンピックを境に商業主義がオリンピックの本筋となってしまったのであった。
    第2節「加速化する「プロ化」」
      ここでオリンピックにおけるアマチュアリズムとプロ化の問題に触れておこう。クーベルタンが近代オリンピックを再興した当時からオリンピックへの参加者はアマチュアに限られており、オリンピック憲章にもはっきりとアマチュアに限るとうたわれていた。アマチュアリズムの根底には「スポーツは貴族のもの」という階級主義が存在していたと見られるが、世界的に平等、反階級主義が広がっていく中でこの考え方は徐々に後退し、20世紀後半になると先進国においてはスポーツこそが万人の娯楽となり、人気スポーツのスター選手に資金が集まるのは当たり前の時代となり、又一方では社会主義国におけるステートアマの存在もあり。1974年にIOCは現実にそぐわなくなったアマチュア規定を憲章から除外した。しかしこのプロ容認迄に至る道のりは長かった。
      1952年から1972年迄20年間にわたりIOCの第5代会長を務めたブランデージ氏は、文字通りアマチュアリズム信奉の権化で、徹底的にアマチュアリズムにこだわった。些細な事でアマチュア資格を失い苦しんだ選手は数多くいた。例えばこれはブランデージ会長のもとではなかったが、1936年のベルリン大会で4種目にわたり金メダルを獲得したジェシー・オーエンスの悲劇は有名である。彼はオリンピック終了後、賞金稼ぎのレースに参加したことからアマチュア資格を取り消され、黒人差別のもとに屈辱的にも馬と競争をさせられたりしたのであった。
      オリンピック憲章が改定された後、1980年代からオリンピックの商業化とプロ化が一気に加速し、現在のオリンピックは世界最高峰のプロが集結するはなばなしい祭典へと変わっていったのである。
      一方我が国では、スポーツのプロ化は90年代迄進まなかった。しかし現在ではテレビのCMなどにオリンピックアスリートの登場しない日はない。メダルを獲得すれば競技団体から報奨金が支払われる。オリンピックではアマチュアという言葉はすでに死語となっている。
    第3節「ドーピング問題」
      話は飛び飛びになるが、現在のオリンピックにおいて最大の問題はドーピング問題である。これは薬物を使用する事により運動能力や筋力を高める行為で、オリンピックはもとより各種のスポーツ大会、競馬など多くのイベントで禁止されている。一番有名なのは1988年のソウル大会における陸上100m競走で、当時の世界記録を出して優勝したカナダのベン・ジョンソンがドーピング薬物が後に検出され失格となり、世界中に衝撃を与えた事を記憶している人は多いであろう。ドーピングは薬物の使用と検査がいたちごっこで未だに残念ながら根絶されていない。
      現在のオリンピックではパラリンピックがかならず同時に催されるので、これに一言触れておこう。パラリンピックは、国際パラリンピック委員会が主催する身体障害者を対象とした世界的な障害者スポーツの総合競技大会である。オリンピックと同じ年に同じ会場で夏季、冬季の大会が開催されている。1960年に第1回の大会がローマで開催され現在に至っているが、障害者の大会が年々盛んになるのは大変結構な事であるが、ここにも商業化メダル獲得競争、はてはドーピングまで行われるようになっている。また、開催される種目も大会毎に増え、いささか首をかしげるようなものまで入ってきている。
      話は前後するが、オリンピック競技の種目も大会毎に増加しており、中には除外すべきと思われるものもある。また競技内容もアクロバット的なものもあり、私は少し種目を整理すべきと思っている。
    第4節「膨張するオリンピック開催経費」」
      最後に今回7月に開催されることになっていた1964年以来の第2回目の東京オリンピックについて触れておこう。大会はコロナ騒ぎで来年7月に延期された。しかし来年はたしてコロナの問題がおさまり開催できるかどうか、今のところ全くわからない。
      今回の2020年の東京五輪の費用は2017年5月、東京都の発表によると1兆3900億円。内訳は組織委員会が6,000億円、東京都が6,000億円、国が1,200億円、その他700億円である。また大会組織委員会が2019年12月に発表した最終の予算案は1兆3,500億円で、内訳は組織委員会6,030憶円、東京都5,972憶円、国の負担は1,500億円となっている。一方民間企業でも道路関係に4,000億円を出資するなど各民間企業による出資は活発になっており、オリンピックの招致による日本国内への経済効果は合計32兆3,000億円を超え、190万人の新規雇用が発生したと主張している。
      東京オリンピックの開催費は膨張し続けてきた。招致段階でIOCに提出した大会経費は7,340億円。計画が具体化するとともに資材の高騰などから会場建設費が大幅に増加し、組織委員会は上述の通り組織委員会、都、国の負担上限を1兆3,500億円としたのである。(予備費を除く)しかし、会計検査院は関連経費を含めれば開催費は3兆円を超えると指摘している。そこへもってきて延期に伴う3,000億円の経費増をどうするのか。IOCは今月14日に最大8億ドル(860億円)追加負担すると表明したらしいが、関係者の話ではその根拠を含め不明確という事である。
      識者は「ここへ来て巨額の負担以上にそもそもオリンピッツクのあり方自体が問題」と主張する。1984年のロサンゼルス大会以降上述の通りオリンピックは急速に商業化して勝利至上主義となり、ほんの一握りのスーパースター(例えばカール・ルイス)を生み出し、そこに企業やメディアが群がって「希望」や「夢」叫びながら甘い汁を吸ってきた。そのビジネスモデルはすでに限界に達している。実際近年の開催経費は数兆円に達しており、IOC加盟の大半の国では負担出来ない。このためこれをカバーするため多額のテレビ放映権料(アメリカのNBCによる2014年のソチから2020年東京オリンピッツクまでの間43億3,000万ドル(4,680億円)が支払われる契約)により賄われている。
      聞くところによるとNBCは2032年迄新たに五輪放送権を76億5,000万ドル(7,800億円)で獲得したとの報もある。このNBCの契約のため北半球では猛暑の夏にしかオリンピックが開催できない。何故ならアメリカのスポーツのシーズン制に合わせ、例えばアメリカンフットボールとかバスケットボールとか、その時期が合う期間は開催出来ないのである。また競技の開催時間もこれにより制約を受けている。

    ■おわりに

      さて我が国の1月〜3月のGDPは、先日の発表によると年率3.4%のマイナスと、かつて経験した事のない落ち込みである。有力マスコミの報道では、GDPがコロナ以前までに回復するには4年かかるとしている。このような極限状況ではたしてオリンピック開催が妥当かよく考慮する必要がある。ここは先にも述べたように延期から一歩進み返上、中止ということになるのではないか。またオリンピックそのものが今後どうして行くべきか我々はここで立ち止まってよく考える必要がある。どうも現在の近代オリンピックはクーベルタンが考えたものとは別の方向に進みつつあるように思えて仕方がないのである。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年4月30日 金言(第93号)
    コロナウィルスの蔓延

    ■第一章 「コロナウィルス蔓延の経緯」

    第1節 「「原因不明のウィルス性肺炎」が武漢で発生」
      昨年12月中華人民共和国の武漢で最初に発生した「原因不明のウィルス性肺炎」は、またたく間に同市内から中国大陸全体に広がり、さらに中国以外の国々へと感染地域を拡大していった。2020年1月31日に世界保健機関(WHO)は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言し、2月28日にはこの疾患を世界規模で流行する危険性について最高レベルに相当する「非常に高い」と評価して、3月11日事務局長のテドロス・アダノム氏はようやくパンデミック(感染爆発)相当と発表した。
    第2節 「公表の遅れで全世界に感染拡大」
      現在のWHOは中国の影響が極めて強く、すでに昨年末の時点で一部の中国人医師が「人から人へ伝染する新型の急性呼吸器疾患である」と発表していたが、中国政府当局はこれを弾圧して握りつぶしていた。中国から多額の援助を受けているエチオピア出身の事務局長は、中国に害が及ぶ事をおそらく懸念していたのか、なかなかパンデミックの危険を公表せず、「中国当局は感染対策を完全にこなしている」と礼賛する始末で、また中国政府も3月5日から開催される予定の全人代に影響が及ぶ事を懸念し、春節で多数の人間が移動して新型感染症が広まる事に何等手を打つことが出来なかった。その結果は皆さんご承知の通りであるが、中国国内はもとより世界中にこのコロナウィルス(SARS−COV−2)がばらまかれ、2020年4月17日現在、全世界185の国と地域に広がり感染者は実に2,100,143人、死者140,800人となっており、また今後の見通しがつかない状況下にある。
      流行はおひざ元の中国から韓国、クルーズ客船を介して日本、そしてイタリアやスペインなどの欧州からイラン、アメリカ、東南アジア、南米、アフリカの国々までその広がりは全世界に及び現在に至っている。
      2月に入り、日本でも感染者が増え出し、2月21日には100人を超えた。そして3月に入ると流行にドライブがかかり4月21日現在感染者数は11,143名、死亡263名となった。なお、全世界の感染者は2,472,559名、死亡169,986名となっている。
    第3節 「きわめて厄介なコロナウィルス」
      今回のコロナウィルスは咳やくしゃみで出た呼吸器の飛沫を介して、インフルエンザと同様の経路で人と人との間で感染する。感染から発症までは通例は5日であるが、人によっては2日から14日までとバラツキがあり、始末におえないのは感染しても無症状のまま経過する事も多いため無症状のままでもウィルスをばらまき感染を引き起こす。症状としては一般に発熱、咳、息切れなどが現れる。この感染症の怖いのは肺炎や急性の呼吸窮迫症候群を引き起こし、一気に病状を悪化させることである。
      現在一番問題となっているのは、この感染症にはワクチンや特効のある抗ウィルス治療薬が存在しない点である。また一度罹患すると免疫が発生し当分の間は二度と罹患しないというウィルス学の鉄則を超えて、陽性から陰性に変わってから時間をかけずに再発するケースもみられるとの事で、これが本当ならきわめて厄介なウィルスと云える。

    ■第二章「我が国の対応」

    第1節「決め手を欠いた初期対応」
      さて、このコロナウィルス感染症に対して我が国政府の危機感は薄く、その水際作戦は余りにも甘かった。1月16日に初めて国内で確認された感染者は武漢に帰省していた中国籍男性で、国内における2次感染は未確認であった。本来ならこの時点でもっと厳しい策が講じられるべきところ、政府は中国からの入国規制に踏み切ることは、中国側からの情報しか持たなかったこともあって決め手を欠き、出来なかったのである。
      今から考えると政府が一番懸念したのは経済への影響であった。昨年2019年の訪日外国人旅行者は3,188万人でその内中国からは実に959万人を占めており、確たる情報のないまま往来を規制すると成長政策の柱となっている観光立国に水を差すことになり、経済優先で政権を安定させてきたその基盤を揺るがすため、首相は躊躇せざるを得なかったのではないか。このため政府は当面WHOの出方を見ながら次の手を考えていた節がある。
      さらに政府には4月に予定していた習近平国家主席の国賓来日を無難にこなしたいという思惑があったと思われる。またオリンピックの開催に支障がないかとも考えたのではないか。3月5日に習主席の来日の中止が正式に発表されると、首相は中韓両国全土からの入国規制強化を決めた。しかし、1月31日にはWHOの「緊急事態宣言」が出ており、国内においても東京都内で中国人の参加した屋形船クルーズなどから集団感染が発生しており、水際作戦はすでに綻びが生じていたのであるから、もっと早く入国拒否を含めて果敢な手段を講じるべきであった。
    第2節「遅すぎた「緊急事態宣言」」
      さらに3月末から4月にかけての感染者の増加加速、さらに感染経路がたどれない患者が多数出てきたため「緊急事態宣言」を出すべきであるとの声は各方面から高まってきていた。首相が緊急事態を宣言するならば都道府県知事は法的な根拠が与えられて、外出の自粛要請や集会の制限、私有地他の強制的収用など様々な措置をとることが出来る。もう少し具体的に云うと、学校、娯楽施設、百貨店などの施設にも法律に基づく使用制限を要請出来る。もし事業者が正当な理由なく応じない場合は「要請」より一段厳しい命令とも云える「指示」を出すことが出来る。この法律には罰則がないから意味がないとの考えもあるが、日本人は導法精神が強いから効果はそれなりにあるものと思う。
      緊急事態宣言が発令されると社会生活、経済活動は大きく制約を受けることになるが、これはあく迄一時的なものであるから一時的に頑張れば医療の大崩壊は防げる。もし仮に完全に医療が崩れ落ちてしまえば経済そのものが崩壊状態となるであろう。左傾論者は私権への介入などと声高に呼ぶ向きもあるが完全に間違った考えである。
      4月7日首相はようやく5月6日迄の1ヶ月間、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県の7府県に緊急事態宣言を発出したが3月の連休(20、21、22日)前に発出すべきであったと思う。そして、さらなるウィルスの蔓延から4月17日には緊急事態宣言を全国に拡大したのであった。連休前に「移動を最小にする」というのが主旨であろうが極めて手緩い処置と思うが如何であろうか。
    第3節「政府の緊急経済対策は不充分」
      政府はコロナウィルスによる医療崩壊を避けるため緊急事態宣言を出した事は評価できることであるが、その一方政府の発表した緊急経済対策については不充分との批判が多い。この緊急事態宣言によって経済活動は抑制されるわけであるが、一説によるとこれによって1ヶ月間に生じる個人消費の損失額は東京と大阪だけで3.41兆円という試算もある。当然自粛に伴う所得減や損失については全面的にかつ大胆に補償すべきである。
      4月3日に7日に閣議決定する緊急対策を盛り込んだ令和2年度補正予算案を示した。これによると補正予算で追加される直接企業や世帯への支出(いわゆる真水)は16兆円にすぎない。しかもこれは各世帯に30万円をくばるという案(約4兆円)を含んでの数字である。ところがこの1世帯30万円案は家庭に行き届くのに時間がかかりすぎるとして、国民1名に付10万円を配布すべきであるとの公明党及び自民党の一部の考え方を首相は是認したため一度閣議決定された予算が組替となる事になり、この案に変更されたため国民に対する支給額は約12兆円となった。しかし今のところ支給は5月となり、このところ困窮度を深めている階層に1日でも早く支給されるよう、政府は全力をつくすべきであろう。
      その他企業に対する雇用調整助成金の給付、中小企業に対する日本政策金融公庫からの無利子融資なども一刻も早く希望者の手に渡るよう政府は努力すべきである。又一部の識者の中から出ている消費税の10%から5%への軽減なども日本経済全般からみて検討してみる余地は十分にあろう。

    ■第三章「人類と細菌、ウィルスとの戦いは永遠に続く」

    第1節「有史以来、疫病の顕著な流行がなかった」
      さて今回のコロナウィルス流行により、すでにオリンピックは来年に延期となった。現在世界的にこのウィルスを何とか押え込むと各国が努力を重ねているのであるが矢張り決め手になるのはワクチン、特効薬(インフルエンザに対するタミフルなど)、集団免疫の獲得である。いずれも即時解決出来るものではないのでここ1ヶ月や2ヶ月でこの状勢がおさまるとは到底思えないのが現状であろう。
      大体有史以来日本は島国であったから、明治の開国に至る迄パンデミックと云えるほどの疫病の顕著な流行はなかった。(一部天然痘、コレラはあったが)このように日本にはパンデミックに該当する疫病はほとんどなかったが、20世紀になってからは1918年〜1920年のスペイン風邪、これは全世界で2,000万人から4,000万人死亡したと云われている。日本においては患者数2,300万人、死者38万人であった。1968年〜1969年の香港風邪(日本では通称A1香港型)、これは毎年冬になると流行するインフルエンザである。この風邪が1968年から翌年にかけて世界的に流行し約50万人が亡くなった。アメリカにおいても500万人が罹患し、33,000人が亡くなった。
      2003年に中国で流行したSARS(重症急性呼吸症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)にも我が国は全く関係なかった。しかし地球の温暖化と共にマラリアの発生北限は上りつつあり、他にも油断のできない疾病は多数ある。嘘か真かわからないがアフリカ由来のエボラ出血熱が上陸したとの説もあった。エイズもアフリカ由来の風土病であるが、一説によるとある種の猿から発生したものといわれている。そしてエイズは幸いにも接触伝染であるからよかったものの、もしコロナと同様空気感染であったら人類は滅亡であったという説を何かの本で読んだことがある。
      話は飛ぶが第二次大戦が終わった時、私は小学校の2年生であったが当家の使用人の中から天然痘が出て大騒ぎになった事を覚えている。当然種痘を我々は義務付けられていたから問題はなかったが、ほとんど同じ時期に小学校の同級生が発疹チブスとなった。幸い周囲には広がらなかったため隔離はされなかったが相当検査された事を覚えている。まだまだ昭和20年代はそのような時代であった。
    第2節「不手際が目立つ厚生労働省」
      その後日本の医学は進歩して一応世界水準ということになっているが、今回のコロナ騒動を見ると元締の厚生労働省の不手際が目立っているのではないか。何故最初から軽症者を含めて全員を入院させなければならないのか?その為重患者を入院させられなくなっている。やっと最近になって軽症者のためホテルを借り切って隔離所を設けるなどしているが、行動が遅いのである。何より問題なのは発生源を追求するクラスター対策に偏り個々に対する検査体制が極めて不十分な点である。韓国はドライブスルーなどにより目覚ましい結果を出しているのと悪い意味で好対照である。」このようにコロナの検査体制にも大変問題が多いと思うが、これらはすべてどこに問題があるのかというと、厚生労働省内部で医師上がりの技官が幅をきかせていて、なかなか前に進めるべきものが進まないとも聞いた。新薬の治験が先進国の中で一番遅いのも同様である。
      今回の一連の医療の状況を聞いている中で医学が進歩しているといわれている我が国において、集中治療室の数が先進国の中で一番少ないと聞いて驚いた。多数のコロナ疫病で死者を出しているイタリアより少ないとの事である。これは、日本は集中治療室に行く迄に重病でも治してしまうという事も一方にはあると思うが、今回は簡単ではない。
    第3節「有史以来、世界各地で数々の疫病が大流行」
      最後に有史以来アジア、ヨーロッパを中心に猛威を振るったペストについて言及しておく。紀元前430年に発生した古代ギリシャにおける「アテネの疫病」が死亡者10万人を記録し、はっきりしないがペストの疑いはある。その後AD165〜180年にローマで流行して500万人が死亡したのは、はっきりと今となってはわからないがペストではなく天然痘と推測される。
      541年から542年にローマで歴史上確認された最初のペストが流行し、2,500万人が死亡したと記録されている。そして1347年から1352年にかけてアジア全域、欧州において黒死病と名付けられたペストが大流行して7,500万人以上が死亡したと記録されている。例えばイタリアの有力都市フィレンツェでは人口の実に三分の二が死亡して、人口9万人であったものが3万人になってしまった。ペストは1665年に英国で大流行し、75,000人が死亡している。
      ペストの他の疫病としては天然痘、さらに19世紀になってからコレラがアジア、アメリカ、欧州で猛威をふるった。又19世紀の中頃アジアにおいてペストが流行し、1,000万人の命が失われた。
      20世紀に入り大流行するようになったのがインフルエンザである。第一次世界大戦の終了した1918年から1920年にかけ、これは発生源がアメリカと言われているが、スペイン風邪といわれるインフルエンザが世界的に流行し実に5,000万人〜1億人の生命が失われた。日本においてもスペイン風邪は2,300万人が罹患し、38万人が死亡した。
      その後現在にいたる迄インフルエンザはアジア風邪、香港風邪、新型インフルエンザと型を変えて大流行し、香港風邪では75万人、新型インフルエンザでは14,142人の人命が失われたのであった。しかし医学の進歩によりワクチンや特効薬が生まれたため完全ではないが一息ついているのが現状であるが、毎年50万人がインフルエンザにより死亡していることを忘れてはならない。ところが人類と細菌、ウィルスとの戦いは永遠に続くと云われていたが、ついに今回新型コロナウィルス感染症が現れたのである。このウィルスは先にも述べたように従来のインフルエンザと違う特性を備えており、これの克服は容易な事ではない。
    第4節「ペストの大流行で生まれた名作「デカメロン」」
      さて、今回のコロナ禍に関して4月2日の産経新聞「正論」に東大の平川祐弘名誉教授が、かつてルネッサンスを目前に控えた1348年にフィレンツェで大流行したペストを逃れた富裕な男女10名が疫病の及ばない郊外の別荘に避難して生活し、退屈しのぎに彼らが一日に一人一話ずつ代わる代わる話をした、その100話の物語が有名なボッカチオによる「デカメロン」であるが、この話を紹介している。
      1348年トスカーナ地方を襲った中近東を源としたペストは猖獗を極め先にも書いたが実にフィレンツェの人口は3分の1になってしまったのである。中世においてペストは天罰とされ、人間の不逞の行いに対する神からの報いであるとされていた。ボッカチオはフィレンツェの商人で、父をペストで亡くしたが、幸い災害の少なかったナポリで働いていたため生き延びた。彼は坊主の説教などには、はなから我慢の出来ない人物であった。平川先生の文章では「人間、死の脅威にさらされると逆に生への執着や性への欲望が強くなる。ボッカチオはあふれんばかりのバイタリティに富む作品を書いた」とある。
      私もこの作品に思い出がある。今日のコロナウィルスの世界的な蔓延に伴う都市のロックアウトと聞いた時、真っ先にこのデカメロンを思い出した。日経新聞のコラムにも何日付か忘れたがこれにふれている。デカメロンはダンテの神曲に対して人曲ともいわれるルネッサンス直前のイタリアの世相を書いた名作であるが、案外読了している人は少ないと思う。
      私は大学生の時これを数回にわたって読破したが、実に素晴らしい小説である。当時小国に分かれていたイタリアの情勢を始め、当時のイタリア人の物の考え方が手に取るようにわかる。そのような中からレオナルドダヴィンチやミケランジェロを始めとする天才が次々と現れてルネッサンスが花開いたのである。「デカメロン」は単なる艶笑小説ではない。勿論そういった部分もあるがこれ程人間の機微を喝破した文学はない。
        この内容について批判する人も多いがこれだけ自由な物語はない。まさにルネッサンスの夜明けを象徴する文学である。私は「10日第十話」が一番好きである。

    ■おわりに

      さて平川先生は「このコロナ禍もいずれ終息する。そして疫病は個人の運命ばかりか国家の運命をも左右する。今回の大災厄の後に米、中のいずが覇権国として生き残るか。米国側は「中国ウィルス」と、発生源の中国の隠蔽体質を非難する。中国側は米軍人が「新冠肺炎」のウィルスを武漢に持ち込んだとの噂を流す。北京政府は非難が習近平に及ばないように、非難が米国に向くように反米感情を煽る世論操作に出たらしい。これにはさすがに呆れた人も中国内にいるようで「恥知らず」とネットに出た。武漢の骨壺の数が発表された死者数よりも何倍も多い。(さすがに最近中国当局は死者の数を訂正し発表した)コロナ禍との戦いは民主的自由国家と強権的専制国家との闘いの一環と化しつつあるようだ」と述べられている。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年3月31日 金言(第92号)
    文化財の流出と廃仏毀釈

    ■はじめに

      いささか古いが、昨年11月当時の文部科学大臣の下村氏は、日本の重要美術品が中国においてオークションにかけられて日本人以外の手に渡った事を明らかにした。さらに、この事件に関連して文化庁は国宝を含む重要文化財が100点以上行方不明になっている事を明らかにしたのであった。一般の方々はおそらく国宝、重要文化財、あるいは重要美術品といっても、それが何なのか正確に承知していないと思う。

    ■第一章 「文化財の流出」

    第1節 「文化財指定制度の沿革」
      明治時代に入って吹き荒れた廃仏毀釈の嵐は、日本の重要な歴史的な絵画、彫刻、建物などに深い爪痕を残したのであった。この廃仏毀釈のため多くの寺院が壊滅されて、寺院が保有していた貴重な文化財が四散し、その内の相当な部分が海外に流出した。廃仏毀釈については後程さらに詳しく述べたいと思う。その文化財流出の惨状にようやく国としてこれではいけないと、明治30年(1897年)になって「古社寺保存法及び国宝保存法」が制定され、これによって「国宝」(旧国宝という)に指定された文化財は海外への持ち出しが禁止された。国宝は美術工芸品5,824件、建造物が1,059件であった。その後戦後の昭和25年(1950年)新たに「文化財保護法」が制定され、これにより旧国宝はすべて重要文化財となった。そして重要文化財の内、特に日本の文化史の上で貴重なものが新たに国宝(新国宝)に指定された。さらにその後、研究が進んで国宝にふさわしいと判断された物が重要文化財から選ばれて国宝となっている。
    第2節 「未指定美術品の名品が相当存在」
      しかし、この明治30年制定の「国宝保存法」に基づいて国宝になったもの以外にも数々の名品があった。国宝に指定されると勿論、海外には持ち出す事が出来なかったのであるが、その網の目を潜り抜けた未指定の美術品が相当存在していた。
      具体的には大正10年(1921年)我が国の絵巻物の代表作の一つである平安時代に描かれた「吉備大臣入唐絵巻」がアメリカのボストン美術館の所蔵に帰したのである。このことは大問題となり、日本の古美術品の海外流出を防止するための法整備の必要性が論議されるようになり、昭和8年(1933年)になってようやく「重要美術品等ノ保存二関スル法律」が制定され、この法律により歴史上または美術史上特に重要な価値のある物件は海外輸出について文部大臣の許可が必要となった。なお国宝、重要文化財は「指定」というが、重要美術品は「認定」といっている。
    第3節 「偏った重要美術品の認定」
      重要美術品に認定された物件は、絵画、彫刻、建造物、文書、典籍、書跡、刀剣、工芸品、考古学資料の9部門になっている。しかし、「文化財保護法」における国宝、重要文化財の指定はおおむね社寺の保有物が大部分(個人所有も相当数あるが)であるのに対して重要美術品の認定物件は圧倒的に個人蔵が多く、分野的には刀剣、浮世絵、古筆(主として平安、鎌倉時代のもの)宸翰(天皇の筆跡)など幾つかの指定分野に集中している。これは海外流出を止めなければならないということが第一義であったため、迅速に作業が進められたことも特定分野に認定物件が偏った一因であった。と同時に緊急措置として認定を急いだため、いささか価値の定まっていない物件が多数混入しているとの指摘もある。一方当時としては全く顧みられなかったが今や花形となっている彫刻の円空仏や木喰仏などが入っておらず、一方ではエル・グレコやミレー、モローなどの近世西洋絵画が入っていたりして、いささか唐突にして奇異な感じを受けるところもある。

    ■第二章「お粗末な我が国の文化行政」

    第1節「進まない旧重要美術品の調査」
      昭和25年(1950年)に文化財保護法が施行された時点で重要美術品は、約8,200点存在していた。そしてこの時点で旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」は廃止された。しかし旧法によって認定された物件は、「文化財保護法」施行後も同法の附則に基づき当分の間その認定効力を持つとされている。そして重要美術品の認定が取り消されるのは、(1)重要美術品等の認定物件が重要文化財に「格上げ」された場合と、(2)同じく認定物件が海外輸出を許可された場合に限られているのである。重要美術品等認定物件については第二次大戦中に焼失したり、戦後の混乱期に所在不明になっているものが多いといわれている。
      一方第二次大戦後に重要美術品から重要文化財指定を経て国宝に指定されたものもある。信じられないような事であるが、五島美術館の所有する源氏物語絵巻は徳川美術館に国宝として存在しているものの片割れであるが、国宝指定ではなく、重要美術品であった。これは1952年に重要文化財に指定されると同時に国宝となった。当然のことである。
      その他もう一つ大きな事例がある。現在奈良国立博物館所蔵の平安時代を代表する仏画である「絹本著色十一面観音像」も戦後迄重要美術品のままで1992年に重要文化財に、そして1994年に国宝となった。このように国宝と重要美術品の線引きにはどのような事情からか、曖昧さがあったのである。
      さて、「重要美術品等ノ保存ニ関する法律」は廃止された後も重要美術品は「当分の間」その認定効力を保つとされていたわけであるが、法律廃止後半世紀が経過した今日でも重要文化財に格上げにはならなかったものの、大部分が認定効力を保ち続けており、文化庁は重要美術品の調査を進め、重要文化財への格上げか指定取り消しを進めるとしているものの、実際のところこれまでもたびたび問題になりながら実行されておらず、これはいろいろと問題を生じさせている。
    第2節「海外流出フリーに置かれている美術品」
      重要美術品等認定物件の内、海外への持ち出しが許可されて認定を取り消されたものは1950年から2008年までの間に25件ある。近年では有名な黒田家の油滴天目茶碗が、米国のクリスティーズのオークションで12億円という高値で落札され話題となったが、この件なども重要文化財にどうして格上げされなかったのか疑問に思うところである。
      現在旧「重要美術品等ノ保存ニ関する法律」による認定の効力を有する物件は約6,000件と推定されているが、文化庁から公式な目録、図録が公表されていないので厳密な件数は不明である。思うに重要文化財に比較して文化庁の目が届きにくい重要美術品については、上記のように海外への持ち出しが許可されたのは25件などという事は私見としてはあり得ないと思う。相当大きな数量が文化庁の知らぬままに流出していると思っている。これこそが我が国の文化行政のお粗末な点であるが、手前味噌ではあるが、卑近な例を一つあげておきたいと思う。
      当館創立者の武藤山治は、与謝蕪村が、現在のように有名になる前からその価値に着目して蕪村の絵画を研究し、また自ら収集を行った。現在では少し美術に詳しい人なら大概の人は知っている代表作水墨淡彩「夜色楼台図」は、私が社会人になってしばらくしても重要文化財指定はおろか、重要美術品にすら認定されていなかったのである。これも信じられないような話で、悪く云うならば海外流出フリーの状態に長くおかれていたのである。これに気がついて行動を起こされたのが現在京都国立博物館の館長で、当時文化財保護委員会におられた佐々木丞平先生であった。先生のご努力により1975年に重要文化に指定され、2009年に蕪村作品として初めて国宝に指定されたのであった。
      「夜色楼台図」は無指定にもかかわらずその後国宝になり日本を代表する文人画として存在しているが、もう一つ、これは最近のことであるが無指定であったため海外でオークションにかけられ、幸い日本人が落札したためアメリカに渡る事を免れた作品がある。具体的には、足利氏の菩提寺、樺崎寺が保有していた鎌倉時代の運慶作の「木造大日如来坐像」が2008年3月ニューヨークのクリスティーズオークションにおいて、約14億円で競り落とされ宗教団体の真如苑の所蔵となり、海外流出を免れたのであった。この仏像は上記の寺院に在ったが、廃仏毀釈のため本寺は廃され本尊のこの像が転々としていたが、その軌跡は不明である。
      2003年頃ある外資系の会社に勤めるサラリーマンが35万円で購入し、東京国立博物館に鑑定を依頼したところ、胎内物から運慶の作品であることが確実となった。所有者は国に対して8億円で売りたいと申し入れたが国には購入余力がなく、仕方なく海外で売る事にしてオークションにかけられたのであった。
      幸い上記のような結果となり運慶の作品は日本にとどまったのであった。これなども指定されていない文化財がいろいろラッキーな点が重なって国内にとどまった例である。
    第3節「重要文化財の現状」
      さて、重要文化財の指定件数であるが、重要文化財は建造物と美術工芸品の2つに大別されており、その内美術工芸品は絵画、彫刻、工芸品、書跡、典籍、古文書、考古学資料、歴史資料に分けられている。指定物件は下記のとおりである。
        〇建造物−2,503件 5,083棟(内国宝277件 290棟)
        〇美術工芸品―10,772件(内国宝893件)
            内訳・絵画―2,031件(内国宝162件)
                  ・彫刻―2,715件(内国宝138件)
                  ・工芸品―2,469件(内国宝253件)
                  ・書跡、典籍―1,916件(内国宝228件)
                  ・古文書―774件(内国宝62件)
                  ・考古学資料―647件(内国宝47件)
                  ・歴史資料―220件(内国宝3件)
                    以上令和元年9月現在
      以上重要文化財と重要美術品の現状についてお話させていただいた。ところで先程来述べてきたように国は歴史上、芸術上価値の高い文化財の海外流出を防ぐため仏像、絵画、刀剣など約1万点を重要文化財に指定し、海外への流出を厳重に防いでいるのであるが、やや古いが2013年10月に国宝、重要文化財の調査を全国的に行ったところ少なくとも国宝1点を含む76点の所在がわからなくなっていることが明らかになっている。行方のわからないものは国宝の来国光の刀剣が所在不明、その他盗難にあって所在不明のものは仏画5点、仏像11点、また刀剣で所在不明のものが多く76点の内大半を占めている。これは戦後進駐軍の軍人が刀剣は彼等にとっても大変わかりやすく、当時の進駐軍の力で本国に無断で持ち帰ったものが大半ではないかと想像する。

    ■第三章「廃仏毀釈」

    第1節「廃仏毀釈の意味」
      又仏像、仏画に盗難が多いのは次に詳しく述べる、明治時代に新政府が行った廃仏毀釈と密接に繋がりがあると考える。廃仏毀釈とは、仏教寺院、仏像、経巻を破毀して仏教を廃することを意味している。「廃仏」は仏を廃(破壊)して「毀釈」とは釈迦(釈尊)の教えを破壊(毀)するという意味で、中国においては宋以後に起こった朱子学派が廃仏を進め大きな影響力を持った。一方日本においては江戸時代から儒学が興隆しその際廃仏が唱えられるようになった。特に明治の初期に神仏を分離して国家と結びついた神道を推し進めるという風潮が盛んになり、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や一般民衆の動きが廃仏毀釈の力となった。
    第2節「廃仏毀釈に至る歴史」
      これによって各地で仏教寺院の取り壊し、仏像や経巻、仏具の焼却などが行われたが、この事件を契機として腐敗していた仏教が新しい日本近代仏教に生まれ変わったという考え方もある。これは仏教が伝来し奈良時代になって、日本に元々あった神道とこの仏教が一つになったという考え方である神仏混淆(神仏習合ともいう)が長らく我が国では行われてきた。いうならば仏教の仏も日本古来の神様の一人として迎えられたのであった。そこで神社には神宮寺が設けられ神前で読経が行われるようになった。一般に神道の宗教施設を神社、仏教の宗教施設を寺院と区別しているが、実は江戸時代までははっきりと区別されていなかったのである。
      神社の中に寺院があり、また寺院も神道の神を祀っていたのであった。鳥居は神社の敷地にあるものであるが、寺の中に鳥居があるものが、例えば生駒聖天を祀る宝山寺の山門の前には鳥居があるし、奥の院本堂には五社明神という神を祀る祠がある。最も有名な例は日光の東照宮である。東照宮はまさに神仏習合の考え方を如実に表わしている存在である。すなわち東照宮という神社の中に本地堂(薬師堂)という建物があり薬師如来をお祀りしている。
      話は前後するが日本各地に神宮寺という寺院がある。この存在する意味は「神社に祀る神様を仏様の力で救うという意味でつくられた寺院」ということである。実は伊勢神宮の中にも神宮寺が存在しているのである。この神仏混淆は当初は仏教が主体で神道が従であり、平安時代に先程述べた神前での読経や神に菩薩の名前を付ける事が行われるようになる。具体的には阿弥陀如来即ち八幡神、大日如来は伊勢大神であるという本地垂迹説が台頭した。
      仏教が伝来したのは6世紀半ばの欽明天皇の時代であるが、当初は物部氏などによる弾圧が行われたが、仏教を受容した蘇我馬子が聖徳太子と協力しつつ仏教を神道に代わるものとして取り入れることに成功したのであった。
      以後曲折はあるがその後の藤原氏が実権を握った平安時代から鎌倉、室町を通して仏教は大いに栄えたのであった。戦国時代、安土桃山時代になって一部キリシタン大名が支配した地域において神社仏閣が焼き払われたことがあったが、神仏混淆の時代が長らく継続したのであった。ところが江戸時代に入ると儒学の勢いが大きくなり、神仏混淆を廃して神仏分離を唱える動きが高まってきたのである。例えば池田光政や保科正之などの有力大名がその領内において仏教と神道の分離を進め、仏教寺院を削減させる政策をとった。
      しかし、何といっても大きな影響力を持ったのは徳川光圀によって行われた水戸藩の廃仏で、規模が他を圧するもので領内の半分の寺院が廃されたという。
      そして光圀の影響によって生まれた水戸学では、神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮が一層強くなり、幕末に登場した徳川斉昭は水戸学者の藤田東湖を重く用いてより一層厳しい弾圧を仏教に加えたのであった。
      水戸藩は天保年間の事であるが、大砲を鋳造するとして寺院の梵鐘、仏具を供出させ多くの寺院を整理したのであった。幕末に新政府を作る事になった人々には、こうした後期水戸学の影響を強く受けた人が多かった。また同時勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して神仏分離を唱える復古神道が台頭し、中でもその内の過激な平田派は明治新政府の当初の宗教政策に深く関与したのであった。
    第3節「文化面で大きな爪痕をのこした廃仏毀釈運動」
      大政奉還後成立した明治新政府は、政権発足と同時に1868年(明治元年)「神仏分離令」を布告したが、更に1870年の詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈した民衆が暴走し、大掛かりな仏教施設の破壊が行われた。上記の日本政府による神仏分離令や大教宣布はあくまで神道と仏教を分離する事が目的で、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)に迄拡大した。特に長年仏教に虐げられたと考えていた神職者達は、各地で寺院建物、仏像、経巻、仏具の焼却や除去を行った。これは私から云わせれば一種の集団ヒステリーで、これに類するものは近年中国で発生した文化革命による伝統物件の打ち壊しに類するものであろう。
      しかし、これらの廃仏運動によって、先に述べたようにむしろ古い仏教の覚醒がもたらされたという面もあり、日本の近代仏教は、この事件を契機に新しく展開していったのである。しかしながら、この廃仏毀釈は日本のあらゆる面、特に文化面において大きな爪痕を残してしまった。廃仏毀釈によりどのような事が現に行われたか若干触れておきたい。破壊された建物の主なものを挙げると
        〇大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔を持つ大伽藍
        〇奈良興福寺の食堂
        〇同じく現在国宝に指定されている興福寺の五重塔は接収され25円で売りに出され、あやうく薪にされると
          ころであった。
        〇大神神社の別当寺である平等寺
        〇石上神宮の別当寺内山永久寺
        〇京都愛宕神社の神宮寺、白雲寺
        〇上野東照宮五重塔
        〇久能山東照宮五重塔
        〇北野天満宮多宝塔
        〇石清水八幡宮大塔
        〇鶴岡八幡宮大塔
      紙面の関係でこれくらいにしておくが、毀されたものはすべて現存すれば国宝的なものばかりである。誠に残念な事である。
      廃仏毀釈によって被害を受けたのは建造物だけではない。飛鳥、天平、藤原、鎌倉、室町各時代の仏画、仏像、絵画、工芸品、書跡、古文書、歴史資料などが焼却されたり、毀損されたりして行方不明になったものが多数存在していたはずである。
      このように建造物が破壊されると同時に貴重な文化財が破壊者により持ち出されたりして、それが値打ちすらわからないままに二束三文で売却されたケースも多々あったであろう。そしてこの頃これに目をつけた海外の収集家が破格の値段でこれを入手し海外に持ち出しているのである。ヨーロッパやアメリカの美術館には、現在では持ち出す事の出来ない仏教美術の優品が並んでいるのを私は何度も目にしている。おそらく「文化財保護法」成立前に堂々と日本人がその値打ちがわからないままに外国人の手に渡してしまったのであろう。

    ■おわりに

      祖父武藤山治は古美術品に詳しく収集も行っていたが、有名な話がここにある。彼はある時、明治30年以前に間違いないが兵庫県の丹波篠山地方のある寺の住職から一幅の仏画の購入を依頼された。寺は廃仏毀釈の影響で困窮し、手元に残っていた寺宝の鎌倉時代の仏画「虚空蔵菩薩像」を売却しようとしたのであった。これは大変な名品であったので、先方の言い値で買い取り所蔵していた。ところが、しばらくして時の兵庫県知事清野長太郎氏から、武藤は財力にまかせて寺宝を取り上げたとしてクレームがついた。武藤は「自分は個人の欲得でこれを取得したのではない。寺が困窮してこのままにしておくと外国人の手に渡るかもしれない。それでは国の為にならぬ」「あく迄とやかく云うなら自分には考えがある」として本品を東京国立博物館に寄付してしまった。真に武藤らしい切れ味である。
      次にもう一点ふれておこう。奥琵琶湖地方には有名な渡岸寺の国宝十一面観音をはじめとして10数体の観音菩薩の優品が存在している。これらはかつて、すべてれっきとした寺院に安置されていたのであるが、廃仏毀釈により堂を失い仏像だけが地元の有志によりかろうじて保護、保存されているものもあり、中には無住のお堂に座しておられるものもある。これなども廃仏毀釈の残した爪痕の一つであろう。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年2月28日 金言(第91号)
    芥川 賞と直木賞

    ■はじめに

      芥川賞と直木賞は、我が国の文壇における二大登竜門として大きな影響力を持っている。今回はこの二つの文学賞について考えてみたい。

    ■第一章 「文学賞の創設の由来」

    第1節 「芥川龍之介と直木三十五を記念して創設」
      大体最近の若い人は本を読まないから、この二つの賞についても全く無知とはいわないが関心が極めて薄いのではないかと思われる。芥川(あくたがわ)と読めない人も相当いるのではないか。しかし、この二つの賞は各々年二回ずつ選ばれており、結構この賞の行方については関心が払われている。毎年の受賞者についても下馬評がそれなりにたたかわされ、新聞紙上を賑わしている。この二つの賞は雑誌「文藝春秋」を発行する出版社、文藝春秋社が主催するものである。
      さて、先ず芥川賞であるが、これは大正時代を代表する小説家である芥川龍之介(1892〜1927年)の業績を記念して、友人でありかつ文藝春秋社の主宰者であった作家の菊池寛が創設したものである。そして菊池寛は併せて同じく友人の直木三十五(1891〜1934年)を顕彰して、1935年に芥川龍之介賞、直木三十五賞として同時にスタートさせたものである。最初に芥川及び直木の業績を簡単に述べておきたい。
    第2節 「芥川龍之介の業績」
      芥川龍之介は東京都京橋区入船町(現中央区明石町)に、明治25年(1892年)に生を受けている。実家は牛乳製造販売業で新原というそれなりの商家であった。しかし姉が二人いたが、一人は彼が生まれる1年前に病死している。彼の人生に暗い影を投げかけた出来事がある。すなわち実母が彼の生後半年あまりで精神に異常をきたしたため、彼は母の実家の芥川家に預けられ伯母に育てられるのである。
      芥川家は徳川家に仕える士族で代々雑用、茶の湯を担当した家柄で、一家共々芸術、演芸を愛好して江戸の文人趣味を色濃く残していた家筋であった。11歳の時母が亡くなると同時に伯父(母の兄)の養子となり芥川姓を名乗るようになる。
      両国小学校を経て府立第三中学校に入るが、その後第一高等学校に成績優秀をもって無試験入学を許される。その後最難関の東京帝国大学英文科に入学する。帝国大学在学中の1914年(大正3年)一高同期の菊池寛、久米正雄と第三次「新思潮」を刊行し、作家活動を始めたのであった。さらに1916年(大正5年)上記の菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら5人で第4次「新思潮」を発刊し、今昔物語に題材をとった「鼻」をその創刊号に掲載して夏目漱石から絶賛される。その後続々と短編小説を発表している。
      その後私の父の師である慶應義塾の美術史家、沢木四方吉教授の推薦により同大学への就職が決まりかけたが実現せず、漱石にならって大阪毎日新聞に入社、1921年には海外視察員として中国(北京、上海)を訪問して見聞を広める。しかし、この旅行後心身の衰えが目立ち始める。そしてこの頃から創作が減っていく一方私小説的な傾向の作品が現れだし、この流れが晩年の「歯車」や「河童」などへつながっていくのである。
      芥川の小説について、初期の作品は、先にも触れた古典などの説話文学に依拠した「羅生門」「鼻」「芋粥」などの歴史物、これは人間の内面やエゴイズムを描き出しているものが多いが評価は高い。中期の作品としては「地獄変」が代表作であるが、とにかく芸術至上主義がうかがわれる。晩年は病に侵され河童の世界を描くことにより人間社会を痛烈に批判しており、問題提起の点は好感が持てる。しかし「歯車」となると精神の均衡に問題があるとみる人もいる。そして1927年(昭和2年)彼は田端の自宅で服毒死をとげる。私の父親は小島政二郎氏や沢木教授などを通じて芥川の事は知っていたようであるが、あのような小説を書いていたら矢張り行き詰るのではないかと云っていた。
    第3節 「直木三十五の業績」
      直木三十五(1891〜1934年)といっても最近の人々は余程文学にくわしい人以外、即反応する人は少ないと思われる。直木は本名を植村宗一といって出身は大阪市である。ペンネームは「植」の字の左右反転と、小説を書き出したのが31歳で三十一、その後三十二、三十三、三十四、三十五と毎年変わっていく。父は大丸呉服店勤務の後古着屋を商っていたが、決して豊かなものではなかった。
      彼は父親が40歳の時の子供であったから相当甘かったのではないか。なかなか資料が見つからず、彼が亡くなる3年前に書き未完に終わっている彼の自叙伝「死までを語る」を読み、初めて彼の破天荒な人生を知った。
      彼は生まれてから10年目に弟植村清二が誕生する。後に東洋史学者として名を成した人である。小学校の成績はよく、高等小学校を出てから市岡中学校に入学した。著名な画家小出楢重は4年先輩になる。中学に入ってからの学業は振るわなかったが、早くから読書欲に目覚めて特に歴史には詳しかった。しかし英語と数学はからっきしであった。旧制高校は岡山を目指したが初日が苦手な数学だったのでやる気を失い棄権してしまった。当然浪人である。家でフラフラとしている中、母親の弟の親友に薄恕一という医師がいた。彼は相撲界でパトロンをさす「タニマチ」のそもそもの語源となった人で、谷町6丁目で薄病院を経営していた。子供の頃から病弱であった直木は幼児の頃から通院し、19歳の頃からアルバイトをさせてもらうなど、物心両面で世話になっていた。この薄氏が小学校の代用教員の職を世話してくれた。この後彼は父親の反対を押し切り、早稲田大学英文科予科を経て同大学高等師範部の英文科へ進学する。その間いろいろな仲間と知り合うが、月謝未納で中退となるが大学へは登校し続け、その間里見淳や久米正雄、吉井勇、田中純らと懇意となり、彼等によって創刊された「人間」の編集を担当するようになる。
      1923年(大正12年)の関東大震災以降は大阪のプラトン社という出版社に勤務して、川口松太郎と共々娯楽雑誌「苦楽」の編集に当るが、これより以降次第に時代小説を書くようになる。
      1925年(大正14年)映画のマキノプロダクションの主宰者であるマキノ省三と親しくなり映画製作、脚本家として活躍するが、その人間性からマキノ省三には相当迷惑をかけたようである。1927年(昭和2年)マキノ省三から多額の出資をさせて製作した映画が全くの不振に終わり、映画界から姿を消す。しかし1929年(昭和4年)由比正雪を描いた「由比根元大殺記」で大衆作家として認められ、以後「水戸黄門廻国記」は映画化もされ直木の名は高まった。他に直木作品は50本近く映画化されている。代表作は昭和5年(1930年)に書かれた島津薩摩藩のお家騒動を描いた「南国太平記」である。無頼の作家直木三十五は昭和9年(1934年)43歳で病没した。
      菊池寛と直木三十五とのつながりであるが、親分肌の菊池は直木の才を買い「文藝春秋」に彼の作品を載せていた。また直木の毒舌を発揮する場所としてかなりの期間、毎号彼のコラムを載せていた。当時、今でいうコラムは6号記事と云われており、直木は健筆を振ったがその筆鋒の鋭さは読者を喜ばせたという。

    ■第二章「文学賞を創設した菊池寛とは如何なる人物か」

    第1節「若くして文学に目覚める」
      芥川、直木両賞を創設した菊池寛とは如何なる人物かを次に書きたいと思う。菊池は1888年(明治21年)香川県高松市に生まれた。菊池家は、江戸時代は高松藩の儒学者の家柄であったが寛が生まれた頃はすっかり没落し、父親は小学校の用務員をしていた。彼は家が貧しかったため、高等小学校の時は教科書すら買ってもらえず友人から教科書を借り書き写して勉学した。このころから文学に目覚め、幸田露伴や尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しむようになった。1903年(明治36年)高松中学校に入学するが、非常な勉強家で中学4年の際には主席となった。菊池の勉強振りを語る逸話として、中学3年の時に高松に初めて公立の図書館が出来るとここに毎日のように通って本を読みふける。そして蔵書2万冊の内、興味のあるものはすべて借りたという。中学を卒業後、成績優秀により東京高等師範に進学するが本人は教師になるつもりはさらさら無く、芝居見物などに熱中して除籍されてしまう。しかし篤志家の援助で明治大学、早稲田大学に籍をおくが、本人が目指したのは文学の道であった。そのため第一高等学校への入試を熱望して勉学にはげんだ。
    第2節「「真珠夫人」で一躍人気作家となる」
      菊池寛は今述べたような事情により22歳で第一高等学校に入校したのであった。そしてここで芥川、久米、成瀬と出会い、第三次、第四次「新思潮」で行動を共にするが、ある事件に連座して退学のやむなきに至り、その後成瀬の実家(財閥の川崎家)の援助により京都帝国大学に進むが、その際も旧制高校卒の資格がなかったため資格取得のために足踏みを余儀なくされる。その後第四次新思潮に問題作「屋上の狂人」を発表する。彼はそのまま東京帝国大学に進み上記の友人たちと合流するつもりであったが重鎮の詩人でもあった上田万年教授より拒絶され、やむなく京大に止まった。
      芥川を中心とする仲間達の華々しい活躍を横目に彼は京都で失意の日を送るが、この時の体験を綴った「無名作家の日記」が評判となった。勿論フィクションはあるが、東京で活躍する芥川等を横目に恵まれない現状を切々と綴ったこの小説は評判となる。1916年(大正5年)京大を卒業してその後上京し、芥川、久米などと共に活躍することになる。そしてその後時事新報の記者となるが「新思潮」に有名な「父帰る」を発表し、1919年には「中央公論」に代表作「恩讐の彼方に」を発表し、それを契機に時事新報を退社して執筆活動に専念することになる。翌年東西の毎日新聞に連載した「真珠夫人」が大評判となり一躍人気作家となった。
    第3節「新人作家を世に出すため文学賞を創設」
      私の父は芥川や菊池、久米などに傾倒していたので私が中学生の頃戦災を免れた父の本棚には芥川や菊池、久米、有島などの本が多数残っていた。やや早熟な文学少年であった私は芥川や菊池の作品をこの頃読みふけった。父の本棚の中には芥川の「傀儡師(クグツシ)」なる1冊があり、この中には「蜘蛛の糸」や代表作の一つである「地獄変」などがおさめられていた。また菊池の短編を一冊におさめた本があり、「恩讐の彼方に」をはじめ「忠直卿行状記」や、歌舞伎役者の坂田藤十郎が人妻に舞台に生かすため偽の恋を仕掛ける「藤十郎の恋」、杉田玄白と前野良沢の激しい腑分け(解剖)についての競争を書いた「蘭学事始」など菊池の本領を表す作品が網羅されていた。しかし何といってもこの頃一番感銘を受けたのは先にも少し触れたが「無名作家の日記」であった。これは重複するが、フィクションも相当あると思うが京都にあえなく都落ちした菊池が東京での芥川や久米の華々しい活躍を横目にして焦燥を感じる様を見事に描いている。そして人気作家となって菊池は1923年(大正12年)若い作家のための雑誌「文藝春秋」を創刊し、その後文藝春秋社という出版社を立ち上げる。この出版業においても菊池は大成功したのであった。
      そのような中で1935年(昭和10年)新人作家を世に出すための「芥川龍之介賞」と「直木三十五賞」を設立したのであった。以上芥川賞及び直木賞が出来たいきさつを述べたが最後に両賞がその後どのような形で現在に至っているかを述べたいと思う。

    ■第三章「ジャーナリズムで大きく取り上げられる両賞」

    第1節「「太陽の季節」が社会現象を呼び起こす」
      両賞とも今でこそジャーナリズムで大きく取り上げられているが、当初は菊池が考えていた程世の耳目を集めていたわけではない。転機となったのは1956年に石原慎太郎が「太陽の季節」により受賞した事であった。当時学生であった石原の作品が大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーになったばかりではなく「太陽族」という言葉が生まれ、一種の社会現象を呼び起こしたのであった。それ以降両賞の社会的な存在は大きなものとなった。芥川賞はその対象を「無名あるいは新人作家」としており、特に発足の初期は、その事が議論の対象となった。というのは戦争中4年間この賞は中断しており戦後復活した時点で新人かどうかが問題となったのであった。現在ではデビューしてから相当年数を重ね他の文学賞を受けている作家が受賞するような事が当たり前となっている。作品の長さにも一応の基準があり、第一回の受賞作石川達三がブラジル移民を書いた「蒼氓」が原稿用紙150枚であったためこれが目安となっているが、現在ではその倍の枚数のもの迄現れている。
    第2節「あいまいな両賞の境界」
      純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木賞との境界はしばしばあいまいである。その例を挙げるなら、著名な純文学作家井伏鱒二が1937年に直木賞を受賞し、社会派作家として有名な松本清張が1952年に直木賞ではなく「或る『小倉日記』伝」で芥川賞受賞となったのは両賞の境界のあいまいさを表している。極端な例は柴田錬三郎が1951年芥川賞と直木賞の両方の候補となり、結局直木賞となったのもおかしいと云えばおかしいのである。 両賞のジャーナリスティックな性格はしばしば問題となるが「文藝春秋」という商業誌が行っている行事であるからそうなるのは当然であろう。その事は両賞の設けられた当初から文藝春秋誌上ではっきりと謳われている。
    第3節「芥川賞にまつわるエピソード」
      芥川賞に関して落してはいけないエピソードがある。太宰治は今日でも読者の多い作家であるが、太宰は当時生活が乱れており薬物中毒であった。彼はどうしても第一回芥川賞がほしかった。受賞する事により生活を立て直したかったのであろう。選考委員の佐藤春夫は太宰を推したが川端康成は反対して受賞はかなわなかった。
      私は若い時は両賞が発表される毎によく読んでいたが、最近はとんと関心が薄くなってしまった。最近の若い作家の作風については老化した頭では到底ついていけないのである。只最近といっても2010年に朝吹真理子氏が「きことわ」という作品で芥川賞を受賞したが、朝吹さんの曽祖父、朝吹英二氏が大実業家で祖父、山治の恩人の一人でもあったのでよく読ませていただいたのを覚えている。しかし早やあれから10年経過しているのには驚きである。朝吹さんが受賞した時、新聞各紙は、朝吹家は文学一家(父は詩人、祖父の妹はフランソワーズサガンの翻訳で有名)としか紹介していなかった。朝吹英二に触れた新聞は無かった。まったく最近の記者の知識はその程度である。
      もう一つ付け加えさせていただくと昭和27年頃と思うが中学校のある教室の引き出しの隅に、戦時中の粗悪な紙を使った薄っぺらな「文藝春秋」が一冊入っていた。何気なしにページをめくると1943年(昭和18年)下半期の芥川賞受賞作の東野辺薫氏の「和紙」という作品が掲載されていて、これが芥川賞というものかと思い一読した。余り記憶には残っていないが純文学とは難しいものだなあという強い印象を受けたのを覚えている。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2020年1月30日 金言(第90号)
    海上自衛隊の中東派遣に思う

    ■はじめに

      政府は昨年12月27日、中東海域を航行する日本関連船舶の安全を確保するため自衛隊を派遣することを閣議決定していたが、いよいよその第1陣となる海上自衛隊の哨戒機の部隊が1月11日現地へ出発した。部隊は、この20日から情報収集後活動を開始している。

    ■第一章 「中東派遣部隊の概要」

    第1節 「任務は情報の収集」
      この哨戒機は、海上自衛隊那覇基地に属するP3C機2機で、アフリカ、ソマリア沖で海賊対策活動に当たっている部隊と交代して情報収集に従事する。具体的にどのような活動をするかは、船舶の位置を知らせるためのAISと呼ばれるシステムを切ったまま航行するなどの不審な動きをキャッチするなどして船の種類、進路などについての情報を集めることがその任務となる。人員は60名となっている。さらに2月2日にヘリコプター搭載可能護衛艦「たかなみ」(乗込員200人)を派遣する。この作戦はホルムズ海峡の民間船舶の安全確保を目指すアメリカが主導する有志連合「海上安全保障イニシアティブ」が実施する、作戦名「センチネル(番人)作戦」への協力である。この作戦は、米国を含め英国、オーストラリア、バーレーン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、アルバニアの7カ国が参加するもので、11月の上旬にバーレーンに司令部を設けて2020年1月から本格的な活動が始まった。当然ホルムズ海峡は、我が国にとっての原油輸送の生命線であるため、アメリカからの同盟国としての日本に対する呼びかけに当然応えなければならなかったのであるが、日本としては昨年6月にタンカーが、ホルムズ海峡で攻撃を受けるなど、危険な地域への自衛隊の派遣にはリスクが伴うから、加えてアメリカとは同盟国ではあるが、一方イランについても長年にわたって友好関係が保持されているため両者の間に立ってギリギリの検討が加えられたのであった。
      昨年9月サウジアラビアの石油施設がイランのものと思われる無人機の攻撃を受け、安倍首相は自衛隊独自の中東派遣を決定したのが実状で、この決定には実に5ヶ月間を要した。
    第2節 「活動範囲はパベルマンデブ海峡東側の公海に限定」
      今回の中東派遣の活動範囲は、地図を見ていただかないとすぐには理解できないと思うが、日本にとって最重要海域は、ホルムズ海峡である。ここは西のペルシャ湾と東のオマーン湾を結び、イランとオマーンの領土に挟まれてペルシャ湾に面しているサウジアラビアやUAEなどの重要な産油国からの原油や石油製品を運ぶ最重要海上交通路であり、かつ極めて狭小な海峡である。
      実際我が国の原油輸入の88%は中東に依存していて、そのほとんどがこの海峡を経由する。日本政府の発表によると年に約3,900隻の日本関連船舶が航行し、内タンカーは2,600隻を占めており、仮にイランとアメリカが事をかまえてイランがこの海峡を封鎖すると我が国に対する打撃は計り知れないものがある。幸い現在日本では公民合せて原油200日分の備蓄があるから即日油が止まるというリスクは免れるが、これが長期間に及べばパニックは必至である。本年1月3日イランの革命防衛隊「コツズ部隊」のソレイマニ司令官がアメリカの無人機により暗殺され、一方イランも報復を宣言して早速イランの米軍基地にミサイルを撃ち込んだ。しかし幸い双方ある程度自制のきいた行動を今のところとっているため、両国の全面的な衝突は避けられている。
      さて、今回の自衛隊の行動の範囲は、オマーン湾、アラビア海北部とアデン湾と紅海をつなぐパベルマンデブ海峡の東側の公海に限定されており、問題の多いホルムズ海峡は含まれていない。ホルムズ海峡は、自由に往来出来る公海の部分が小さく危険度が高い他、沿岸国であるイランを刺激しないように配慮して近辺での活動を避けたのである。
    第3節 「攻撃を受けた場合の行動範囲」
      活動の主体は情報収集であるが、部隊が直接に攻撃を受ける可能性は多分にある。このような場合は自衛隊法による「武器等防護」で対応する。仮に日本関係の船舶が部隊の目の前で攻撃されれば「海上警備行動」の発動の是非を検討する。これは緊急性を必要とする場合は電話による閣議でも了承できる。
    念のためこの警備行動の発令とは、海上における人命や財産の保護並びに治安を維持するための自衛行為で自衛隊法に基づくものである。
      元々海上保安庁の対処能力を超える治安の悪化が生じた場合、防衛相が自衛隊の出動を命令する。対象は「日本国民の生命と財産」に限られており、日本に関係ない船は守れない。そして「警察官職務執行法」を準用して必要最低限の武器使用が認められている。過去において一番印象として残っているのは1999年の能登半島沖の北朝鮮の不審船事件であろう。なお今回の中東派遣は、防衛省の任務を定め自衛隊が警戒監視や情報収集活動を実施するための根拠となる防衛省設置法に基づくものである。
      武器使用を伴って防護出来るのは国際法にいうところの「旗国主義」が適用され日本国籍の船に限定される。但し、呼びかけや接近などの保護は日本人や日本の貨物が乗った他国の船舶でも可能である。自衛隊があらゆる事態に対処するよう定めた「安全保障関連法」が2015年に成立してから今回が初めての本格的な部隊派遣になる。
      今回は、同法4条の「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うこと」の規定により中東に派遣するものである。地理的な制約はないが、武器の使用は認められず、敵から攻撃を受けた場合は自衛隊法に基づく「武器等防護」により自ら防衛に当たる。防衛相の判断で活動出来るが、これはあまりにも間が抜けた法律ではなかろうか


    ■第二章「無責任な自衛隊派遣反対」

    第1節「自衛隊派遣に反対する野党」
      さて今回の派遣については、野党から早速反対の声があがっている。例によって反対のための反対としかいいようがないのであるが、立憲民主党の安住国対委員長は「戦闘状態に近い状態まで緊張が高まっているという認識が高まっている中で、自衛隊の艦艇を1隻派遣してわざわざ調査研究するという感覚はちょっと信じられない」とぶち上げた。危険な事は国民も充分に認識している。
      そして、我が国が今回は入口までとなっているが、ホルムズ海峡を含めたこの海域が我が国のエネルギー輸送の根幹である事も国民の大半は十分に理解している。念のため我が国が輸入する原油の量は2017年の統計によると、日量は約322万バレルで、内訳はサウジアラビア40.2%、アラブ首長国連邦(UAE)24.2%
    、カタール7.3%、クウェート7.1%、イラン5.5%、ロシア5.8%、その他が9.9%となっており中東からの輸入は群を抜いている。原油の他にLNGの輸入も中東からの分が30%以上となっている。そうとなればエネルギーの自給率が極端に低く、原油や天然ガスを全面的に輸入に依存している我が国にとって供給先の多様化を促進することは喫緊にして重要なる課題と云える。さらに、中東や南シナ海において有事が発生した場合を含めてその「地政学的リスク」を考慮した上での輸送ルート並びに緊急時の対策強化は避けて通る事の出来ない課題である。
      一方アメリカにおいて近年技術革新が進み、従来取り出す事が不可能であったシェールオイルとシェールガスの生産量が大幅に増加していることは衆知の通りである。この北米における「シェール革命」は新たな可能性を我々に突きつけ始めており、長期的な観点から我が国のエネルギー、安全保障戦略で重要な位置付けとなっていくであろう事を我々は認識しておかなければならない。
    第2節「我が国が中東で「人的貢献」するのは当然の措置である」
      このように中東情勢の中で我が国としては自衛隊派遣を決定したのであるが、これは当然の処置であろう。日本国民の意識の中には2003年3月から5月にかけて行われたイラク戦争において我が国は戦費の供出だけで人的な貢献を何等行わなかったなめ世界中の笑い者になった事が、トラウマとなって強く残っている。このため、その後我が国は人的貢献をするためイラクへの自衛隊派遣など、種々の方策を実行してきたのは衆知の事である。今回ホルムズ海峡の民間船舶の安全の確保を目指すアメリカの主導による有志連合「海洋安全保障イニシアティブ」、作戦名「センチネル作戦」が実施される事になり、我が国はそれに独自に協力する事になったのは前述の通りである。
    第3節「派遣に反対なら「代案」を出すべき」
      しかしながら、今回の派遣について国内のマスコミの論調には厳しいものがある。マスコミが問題とするのは、今回の派遣が国会の論議を経ていない上、立憲民主党など野党が何故これ程緊迫している中東情勢の中で自衛隊を派遣するのかと疑問を呈し、派遣の中止を求めているからである。しかし、これは中東の石油を、我が国が放棄せよと言っているのに等しい。イランの核問題を中心に複雑な中東状勢がさらに緊迫しており、極めて危険な状勢下にある事は国民もよく理解している。
      自衛隊の派遣が行われないですめばそれに越した事はないが、主要な国々だけではなくアルバニアのような小国ですら派遣を決めている。日経の最新の世論調査によれば中東への艦船派遣については57%が賛成という数字が出ている。
      「金だけ出せばよい」という時代は終わっているし、現に我々はそのような行為をとったため如何に痛い目にあったのか忘れているのでないか。まさに平和ボケした何でも他力本願の野党は政権の批判以外に何も出来ない体たらくである。小中学生の方がまだ自分の意見を持っているのではないか。反対するなら反対するで、現在我が国がおかれている厳しい状況に対応して対案の一つも出すべきであろう。

    ■第三章「ペルシャ湾に「旭日旗」を掲げることが重要」

    第1節「問題の根幹は「属国憲法」にある」
      立憲民主党の安住氏は、先に述べたように戦闘状態に近い状況の中でわざわざ艦船を派遣することは信じられないなどと云っているが、私は何もしない事の方が信じられないのである。これは過去から現在に至るまで我が国の行動が世界から立ち遅れている中で、さらに我が国の立場を後退させてしまう事になると思う。野党の連中は、日本は、アメリカの「ポチ」だといって笑い者にする。ちょっと待ってほしい。「ポチ」にならざるを得ないのはどうしてか?国の根幹たる防衛を、アメリカに任せざるを得ない現在の属国憲法にそもそもの原因がある事は明白である。このような馬鹿馬鹿しい憲法を改正して自分の国は自分の力で守るという根本を、野党は否定して平和憲法の死守を叫び、憲法改正に反対している。そして国会で改憲を議論することにさえ反対している。最も野党だけでなくかつて自民党の幹事長を務めた重鎮までが最近派閥の会合で9条は宝である、したがって9条に自衛隊を明記することに反対すると述べているなど噴飯ものとしか言いようがない。
      安倍内閣は確かに批判もあるが、我が国の集団的自衛権を巡る憲法解釈変更を含めて属国憲法のもとで私は筋を通していると思う。仮に一連の安倍内閣における集団的自衛権解釈の変更がなかったならば、おそらく今頃迄自衛隊派遣を巡り特別法の制定などに時間をかけていたのではないかと思う。
    第2節「マスコミが指摘する問題点」
      確かに前後するが今回の派遣については、その派遣の根拠を問題とするマスコミは多数ある、重複するが国会の事前承認を必要とせず、防衛相の命令だけで防衛省設置法の「調査、研究」を根拠にしているのであるが、しかし不測の事態に遭遇すれば自衛隊員による武器使用もありうる。「調査研究」での派遣は安易すぎるというのが反対の論法である。しかしながらこのようなことでは我が国が国際的に通用しないことがすでに立証されているのは、御承知の通りである。マスコミの一部では日本による自衛隊派遣は「意義より形式的意味合いが大きい」と「調査研究」が目的であるため、自衛隊は攻撃を受けた場合だけしか反撃できず、仮に石油輸送船などが攻撃された場合自衛隊は武力反撃出来ず、他国の支援を求めることが必要であり、日本とアメリカとの同盟関係を考えると「親米」のイメージが固定化されているので、自衛隊そのものが攻撃にさらされる可能性が高く「航行の安全の保障」には疑問の余地があるというのが彼らの言い分である。
      さらに「結局日本は間接的とはいえアメリカの有志連合に参加することになり、日本の外交は中東問題では、従来通りアメリカに追随することになる」と述べている。このように今回の派遣についてのマイナスイメージをことさら言いつのるマスコミは多い。

    ■おわりに

      しかし、最後に私が云いたいのは、日本はあくまで独自に行動してペルシャ湾に「show  the flag」すなわち堂々と旭日旗を掲げる事こそが重要な事なのではないかと思う。これは先にも述べたように湾岸戦争で130億ドルという戦費を負担したにもかかわらず人的貢献がなかったため日本の評価が全くなされなかった事に対する雪辱でもある。

                                                                                                                          以上
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    武藤会長「金言」

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