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武藤会長「金言」

2021年3月26日 金言(第104号)
夫婦別姓(別氏)について(選択的夫婦別性,氏)

■第一章 「あらためて問われる夫婦別姓問題」

第1節 「森会長の問題発言が契機」
  2月3日、東京オリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(元総理)が臨時評議会において、「女性がたくさ
んいる理事会は時間がかかる」「女性は競争意識が強いから誰か一人発言すると自分も云わなければと次々と発言する」と、取り方によっては、女性を蔑視する発言をしたとして大きな問題となり結局会長を辞任せざるを得なくなったことはご承知の通りである。森氏を弁護するつもりは毛頭ないが、実は私が日本紡績協会の会長を務めていた時、社長をしていた会社の工場が石川県の美川町にあり、森氏は、この町の隣町の出身であったこと、また繊維関係の政治的な事項に相談に乗ってもらう議員の一人でもあったため、当時何回か直接お目にかかって
、いろいろとお願いした事があった。又繊維産業連盟の会などでも何かとお世話になった。森氏の座談はとにかく面白い。いろいろな方面に通じていて次から次へと話を展開される。それが又軽妙でユーモアに富んでいるので聞く方にとっては時間を忘れるかのようであった。今回の件も雑誌正論4月号に詳しく出ているが、必ずしも女性蔑視を正面から行ったわけではなさそうで、一部のマスコミがその部分だけを切り取って、オーバーに書き立てたきらいがあるのではないかと思う。
第2節 「森氏の人柄」
  さて森氏とのお付き合いはほんの短い間であったが、彼の記憶力の良さに驚いた事があった。紡績協会の会長
を辞めてから十年以上たって、私は協会の経営する高等学校の運営を早稲田大学に移管する仕事を進めていた。少子化の中で私立高等学校経営が難しくなり、当時その経営に理事長としてタッチしていた私は、どこか総合大学の付属校、あるいは系属校に移管出来ないかと大変な苦労を重ねていた。結局縁あって早稲田大学の系属校になることになったのであるが、その披露パーティーが大阪のあるホテルで行われたのであった。その会場に向かうエレベーターの中で私は森氏と一緒になった。面識があったのはもう10年近く前の話であったから、後ほど会場でご挨拶させてもらおうと思っていたところ、森さんの方から私の肩をたたき、「武藤さん久し振りですなあ」と言葉をかけてもらったのには大変びっくりした。これも政治家の特技なのかもしれないが、人をそらさないこの態度には正直驚いたのであった。
第3節 「男女参画基本法は疑問に思う」
  さて、この森問題発言を契機として男女共同参画法の目玉としてここ十年来問題となってきている夫婦別姓問
題があらためて問われるようになった。私見を述べさせていただくと、私は夫婦別姓の基本となっている男女参画基本法なる法律には、かねてから大変違和感を持っている。男女平等は当然憲法に保障されているものであり
、現状においては各所に男女不平等がある事を否定するつもりはないが、ことさら、あらためてこのような法律が必要だったのか疑問に思っている。そもそも男女共同参画がなければこの世の中は存在しないと思っているからである。

■第二章「夫婦別姓問題の経緯」

第1節「問題の所在」
  さて、夫婦別姓とは夫婦が結婚後も改姓を行わず、それぞれ結婚前の姓(氏、名字、苗字)を名乗る婚姻及び
家族形態、もしくはその制度を言う。これに対して婚姻時に両者の姓を統一する婚姻及び家族形態、その制度を「夫婦同姓」あるいは「夫婦同氏」という。現在盛んに論議されているのは夫婦別姓、同姓を選択できる制度「
選択的夫婦別姓」あるいは「選択的夫婦別氏」とも云うが、民法を改正してこれを取り上げるかどうかである。我が国の民法第750条において「夫婦は婚姻の際夫又は妻の氏を称する」と定められている。又戸籍法74条において、婚姻しようとする者は「夫婦が称する氏」を届け出なければならない。例外は、国際結婚にのみ限られている。すなわち国際結婚では戸籍法107条において、外国人と婚姻をした者が、その氏を配偶者の称している氏に変更しようとする時は、その婚姻の日から6ヶ月以内に限り家庭裁判所の許可を得ないで届け出る事が出来ると規定されている。外国人には民法750条が適用されず、夫婦別姓となるが戸籍法上の届け出をすれば同氏になる(原則別氏、例外同氏という)ということである。
第2節「旧姓の通称使用の実情」
  さて職場、職種によっては、旧姓を通称とすることは便宜上認められている。私企業は勿論、国家公務員にも
2001年から認められている。日本の現行法上事実婚は婚姻としては扱われていないが、相続等においては近年それなりの配慮がなされてきている。
  余談であるが、この夫婦別姓とは別であるが3月17日札幌地裁である判決があった。これは同性婚を認めな
いのは違憲という判断であった。これは夫婦別姓制度の延長線上にある考え方と私は思っているが、誤った考え方ではなかろうか。
  元に戻るが二つの名前(姓)の管理は使用者側にとって負担も大きく、認めていない職場も少なくない。この
ため旧姓通称使用訴訟が各地の裁判所で提起されている。一方従業員側も二重の氏を使い分けるのは不便な上、通称はあくまで通称にすぎないため公文書では使用できないし、役員登記や特許出願なども戸籍上の氏で行なわれるため旧姓を使用出来ない。
  国際連合には女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約があり、我が国もこ案の条約には加盟、批
准している。この中の第16条1に締結国は婚姻及び家族関係に係るすべての事項について、女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとして、特に男女の平等の基礎として次のことを確保するよう定められている。
  その(G)項に「夫及び妻の同一の個人的権利、姓及び職業を選択する権利を含む」となっており国連は、女
子差別撤廃委員会は我が国の民法が規定する夫婦同氏が「差別的な規定」だとして改善を勧告している。
第3節「民法改正案等の答申内容」
  このような背景のもとに法制審議会(法務大臣の諮問機関)は1992年以来審議を重ね、1996年2月に
家族法の見直しを含む民法改正案要綱を法務大臣に答申した。その内容は
  • 1.世界の趨勢に合わせて婚姻年齢を18歳に統一する(2018年に成立)
  • 2.女性のみに課せられていた再婚禁止期間の短縮(2015年12月に6ヶ月から100日となった)
  • 3.選択的夫婦別姓の実現
  • 4.婚外子の相続分差別の撤廃(2013年に実現)
  • 以上の答申の中で選択的夫婦別氏実現以外はすべて実現している。しかしこの制度はまだまだ異論も多いが
    ・価値観の多様化した国民の要望である。
    ・個人の尊厳の観点から氏に対する人格利益を法律上保護すべきである。
    ・既に世界各国で許容されており、夫婦、親子関係の本質、理念に反しない。
    の三点が推進の源となっている。
    1996年法制審議会は民法改正案としてこれを法務大臣に答申している。具体的には
  • @夫婦は婚姻の際定めるところに従い夫、若しくは妻の氏を称し、又は各自の婚姻前の氏を称するものである。
  • A夫婦が各自の婚姻前の氏を定める時は、夫婦は婚姻の際に夫、又は妻の氏を子が称する氏として定めなけれ
    ばならないものとする。
  •   法務省は、2001年11月さらに2010年2月にも同様の案を再答申している。一方民事行政審議会も
    「別氏夫婦に関する戸籍の取り扱い」について次の内容で法務大臣に答申している。すなわち
    ・戸籍は夫婦及びその双方又は一方と氏を同じくする子ごとに編成する。
    ・戸籍の氏の記載は子が称する氏として定めた氏を称する者、その配偶者の順に記載する。
    ・戸籍には現行戸籍で名を記載している欄に氏名を記載する。
      これは親子、相続関係が一覧的に把握できる現行制度の利点を生かして、夫婦及び親子の戸籍編成基準の単位
    が維持されたものである。この法制審議会答申以来野党は、超党派でほぼ国会の会期毎に民法改正案を議会に提出し続けているが、未審議のまま廃案と再提出が繰り返されている。野党各党は個別に案を提出してもいるが、いずれも日本弁護士連合会の提言を参考にしたものでどの案もほぼ同じで、改正法施行前に婚姻によって氏を改めた夫又は妻は、婚姻中に限り配偶者との合意により一定の年以内に婚姻前の氏に復することが出来るといった
    、条項を加えたものなどが目立つ程度である。

    ■第三章「夫婦別姓の考察」

    第1節「夫婦別姓に賛成する人達の主張」
      さて、夫婦別姓のメリット、デメリットについて考えると、我が国においては先に述べたように男女が婚姻時
    どちらか一方の氏に変更しなれればならず、同姓、別姓の選択が出来ない。その結果改姓するのは96%女性となっており、これは男女平等の原則に反するのではないかと問題視されているわけである。また、夫婦同姓を強制しているのは先進国では日本だけで、世界的に見て夫婦別姓を選択出来る国が大半である。夫婦別姓に賛成する人達の主張はおおむね次の通りである。
  • 1.改姓することにより、本人の同一性の確認が困難となり職業、生活上の不利益を強いられる。確かに婚姻を機に姓が変わった事を周囲に認識してもらうのは面倒である。それに加えて銀行口座や免許証、保険証などを変更するには大変な手間を要する。(この点はスマホなどの活用により近年驚く程簡単になった)
  • 2.代々受け継がれてきた氏を大事にしたい。(しかしこれは通称使用もほとんど許されており、公文書への併記も可能となっている)
  • 3.一人っ子同士の男女が結婚する場合は家名存続が困難となる(個人主義の時代の考え方に逆行している)
  • 4.夫婦同姓は明治時代から引き継がれてきた「家」制度そのものであり、現在の日本国憲法下では個人の人格こそが尊重される個人主義の時代であり、氏名は人格人生と一体にして不可分のものであり、これがなくなるのは自身の喪失を意味する。(これこそ古い因習にとらわれた考え方である)
  • 5.世界の趨勢は別姓であるから明治以来の「家」制度による夫婦同姓はおかしい。(先進国においてもかならずしも同姓が強制されているわけではない。例えばアメリカでは州によって違うが同姓も別姓も認められており
    、ミドルネームとして残す事が可能な州もある。フロリダ、ニュージャージーでは両親の姓のアルファベット順による複合氏になる。ドイツでも妻の出生氏や複合氏の選択が可能である)
  • 以上がおおまかな夫婦同姓に対するデメリットとしての反対理由である。
    第2節「夫婦同姓の歴史的経緯」
      ところで名字(氏)は明治に入ってから取り入れられた制度であって、江戸時代までは武士は姓を持っていて
    名乗っていたが、庶民は名字を持っていたが公称出来なかったのであった。ところで導入当初夫婦は原則別姓であった。選択的に別姓を名乗ってよいという事ではなく、同姓を名乗ることが認められていなかったのであった。これは日本だけでなく東アジア全般に行われていた家制度が男系によって承継されていたためで、女性は、仮に結婚しても嫁ぎ先の構成員としては認められず、あくまで実家に帰属していたからである。それが現在のようになったのは明治31年(1898)にフランスの民法が取り入れられ「戸主及び家族は其家の氏を称する」となってからである。何故こうなったかというと、結婚した後も別姓のままでは誰と誰が夫婦なのかわからないためいろいろな不都合が生じ、国民側から「同性にしてほしい」という要望があったためである。そして同時に夫婦同姓とは、夫婦一体を重視した近代的な家族観に基づくもので、近代化を目指した我が国としては現在とは反対に、日本古来の家族制度を変更する必要があったため夫婦同姓を取り入れたのであった。こうしてみると現在主張されている夫婦別姓が個人の尊重とは結び付かないのではないかと思う。 東アジア、すなわち中国、韓国では今なおよそ者を家族の中に迎えることを拒否する伝統的、儒教的な家族観があって、婚家の姓を名乗れないのが普通である。かつて私も韓国や台湾に仕事でよく出かけていた頃、取引先の奥さんから「日本のお嫁さんは良いですね。旦那さんと同じ姓を名乗れて」とよく云われたものであった。夫婦同姓によって個人の人格権が阻害されるのであれば、親子同姓も同様ではないかと主張する人もいる。夫婦別姓にもしなった場合、かならず家名の存続や実家による孫の姓氏についての争いがおこるのではないか。識者によると、こうなると夫婦別姓の導入こそがかえって家制度を強化して、個人を破壊しるのではないかと心配する。
    第3節「選択的夫婦別姓制度には反対である」
      それではお前は選択的夫婦別姓をどう考えるのかという事であるが、私は最近の世論調査では別姓論が勢いを増しているように思うが、選択的夫婦別姓制度には反対である。何故なら
    1.一般大衆はこの夫婦同姓、別姓の論議を深く理解していない事が第一である。単に一部左翼マスコミの一方的な議論に盲従していると思うからである。
    2.自民党議員50名による夫婦別姓反対を求める文書によると、戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリーネーム喪失)を認める事は、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性があり、かつ民法によって守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。これは、同氏夫婦の子は出生と同時に姓が決まるが、別氏夫婦の子は「両親が子の氏を取り合って協議が調わない」などで、戸籍法49条に定める14日以内の出生届ができないことが発生するおそれがある。また、法改正により「同氏夫婦」「別氏夫婦」「通称使用夫婦」の3種類の夫婦が出現し混乱を起こすおそれがある。また夫婦の氏と子供の氏が相違するなど、これでは家族の一体感は到底保てない。
      さらに夫婦別氏推進論者が「戸籍廃止論」を唱えているが、これを実施すると戸籍制度に立脚する多数の法律は年金、福祉、保健制度等について見直しが必要となる。現在ほとんどの専門資格(士業、師業)で婚姻前の通称使用や資格証明書への併記が認められている。又マイナンバーカード、パスポート、免許証、住民票、印鑑証明書についても戸籍名と婚姻前の氏の併記が認められている。
      私は、この自民党議員団による考え方に全面的に賛成する。我が国ほど戸籍制度が整っている国は見当たらない。この制度は本当に世界に誇れるものである。この完備した戸籍制度があるからこそ現在の同姓婚が成り立っていると思っている。夫婦別姓論者は、話は飛躍するが日本古来の戸籍制度そのものをなくしてしまえという論をもしばしば展開している。戸籍制度は日本国の一体制を保っている根幹となっているもので、このような論議が広がってすべてが個人中心なる世界を指向する事は、亡国を目指すことになると危惧するものである。夫婦同姓、戸籍制度の頂点に立っているのが我が国の天皇制である。左翼の連中の最後の狙いはなし崩しに日本の伝統を突き崩して、その目的を達成しようとしているのではないかと思っている。また夫婦同姓が決められている現在の民法下においては婚姻をためらう人達が増え、これが少子化に拍車をかけていると主張する向きもあるが、少子化にはもっと複雑な原因がある。
      さて、この夫婦同姓をやめてしまう決定的な理由はない。私は当面旧姓使用(通称)の拡大を法制化して対処することが解決策ではないかと考えている。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年2月22日 金言(第103号)
    松岡洋右と大東亜戦争(3)

    ■第一章 「近衛内閣が誕生する迄の我が国の情勢」

    第1節 「華北分離工作の推進」
      1940年(昭和15年)7月22日、近衛文麿に内閣組閣の大命が下り第二次近衛内閣が誕生した。そして
    近衛は外務大臣として松岡を指名する。松岡は軍部に人気があり、また彼の強気の性格は、近衛にとって気がかりであった軍部を押さえるのではないかという強い期待と目算があったからである。
      さて、近衛内閣が誕生する迄の我が国の情勢を述べておきたい。日本は、1935年(昭和10年)以来華北
    分離工作を進める。具体的に言うと、それは華北に親日的な政府(いわば傀儡政府)をつくり、満州国を中国から完全に切り離して満州国の安定経営を図ることを目的としたものであった。また同時に世界経済のブロック化によって失った海外市場と資源を求めることにあった。誠に残念な事に、日本政府は、これに対して満州事変と同様に軍を甘やかす反応しか示すことが出来ず、陸軍の出先機関であった天津軍(支那駐屯軍)が始めた華北分離工作を追認してしまったのである。これによって以後軍主導の華北分離工作が国策になってしまったのであった。それに加えて1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生すると、軍の干渉がそれ以降政治や外交、さらには財政や経済にまで常態化してしまったのである。まさに軍国主義国家の到来であった。
      1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋における偶発的な発砲(実際には中国共産軍によるものとされて
    いる)をきっかけに、日中は、宣戦布告がないまま全面戦争に突入してしまった。日本側の目的は華北分離工作の完成にあったが、全面戦争となると、日本には、広大な領土と巨大な人口を持つ中国を相手に長期にわたる戦争を遂行する国力はなかった。それ故、短期決戦を目指して作戦範囲を限定して、中国軍に大きなダメージを与え、早期の講和を目論んだが、短期決戦を狙って発動された華北作戦(1937年7〜10月)と上海作戦(1
    1〜12月)はいずれも中国軍が決戦を避けて奥地に後退する戦略をとったため、日本軍は、中国軍を捕捉して決戦に持ち込む事が出来ず、作戦は完全に失敗に終わった。そのため日本軍は、後退する中国軍を追って内陸へ侵攻し、1937年(昭和12年)12月13日に首都南京を占領したが、中国政府は重慶に遷都して抵抗を続け、停戦と和平を拒否したのであった。
      その結果、安易な考えで始めた戦争は、まさに最も忌避しなければならなかった長期戦となり、以後日本は中
    国政府への圧力を強めるため、武漢三鎮をはじめ中国の主要部をほとんど占領した。しかし蒋介石は抵抗姿勢を堅持したため戦争終結の見通しがたたないというまさに身動きの出来ない泥沼にはまってしまったのであった。
    第2節 「「東亜新秩序」の樹立へ大きく変化」
      このように日中戦争が泥沼化する中で近衛首相は、1938年(昭和13年)11月新たに声明を発表する。
    この内容は、日中戦争の目的は東アジアにおける新国際秩序(東亜新秩序)の樹立であると宣言して、この目的を達成するため日本は戦い抜くという決意を示したものであった。従来日中戦争の目的としたところは、華北分離工作であった筈のものが大きく変化したのであった。
      「東亜新秩序」は台湾と朝鮮を含む日本と満州、それに加えて日中戦争によって獲得した大陸の広大な占領地
    によって構成され、欧米が形成している経済ブロックに対抗する新たな自給的経済圏の形成を目指すものであった。しかし、これは現状体制を維持しようとするワシントン体制を一方的に改めようとするもので、当然領土を食い荒らされた中国だけでなく、国際秩序の現状維持を図る英米との対立を決定的なものとしてしまった。このように日本は「東亜新秩序」の看板を掲げたものの、中国民衆の支持を得られなかった上に、日本の金融を含む経済力は弱く、華北と華中における支配を確立できなかった。さらに日中戦争により外資を稼いでいた対中輸出がなくなり、一方欧米諸国からの軍需物資の輸入が増加したため貿易赤字はさらに拡大していった。
      このように貿易収支の悪化以上に問題となったのは、日本陸海軍は軍の強化、近代化を図るため多くの戦略物
    資を必要としたが、中国大陸には石炭と鉄鉱石以外には見るべき資源はないため、対立する英米に頼らざるを得ない状況にあったから、いくら「東亜新秩序」を叫んでもそれは砂上の楼閣にすぎなかつた。英、仏、米は「東亜新秩序」を無理矢理進める日本に対して一般に援蒋ルートと云われる補給路によって、仏領インドシナ(ベトナム)からの仏印ルート、英領ビルマ(ミャンマー)からのルートによって蒋介石に経済支援を行い、中国を支えていた。日本はこれをつぶして、1938年(昭和13年)秋以降日本政府及び軍は「東亜新秩序」を有効ならしめるため傀儡政府を使って中国政府の存在をなきものにして、それによって戦争を終わらせようとするが実現は難しく、矢張り蒋介石政府との和平を追求せざるを得なかった。そこで考えたのが仏印とビルマからのルートは、雲南省の昆明で合流して重慶に通じているのであるが、このルートを遮断するには、山岳地帯のため攻略は難しく、外交交渉によりこの遮断を英仏政府と交渉するしかなかった。
    第3節 「現状体制打破を考えるドイツ、イタリアとの連携」
      そこで浮上してきたのが、日本と同じく現状体制打破を考えているドイツ、イタリアとの提携であった。ソ連
    と共産主義を共通の敵とする日独が、両国が国際連盟脱退後に結ばれたのが日独防共協定で、その後イタリアが参加して出来上がったのが三国防共協定である。日本はこの協定を利用して援蒋ルート閉鎖を英仏に要求する上での圧力として考えていく。
      日本は、これは松岡が外相となる以前であるが、1939年以降日中戦争終結を妨げているのは援蒋ルートを
    通じての物的支援だけでなく、金融支援までしている英国であるとして、当時の広田内閣の有田外相は強力な圧力をかける。英国は、一度は日本に屈するが、日本に対して満州事変以来慎重な態度であったアメリカが、英国が日本に屈したのを見てついに日本の進める「東亜新秩序」の実体化が進むことを懸念して、日本政府に対して日英交渉4日後、日米通商航海条約の廃棄を通告する。この決定に日本政府は動揺して、何とか日独伊防共協定の強化を図ろうと画策するが、なかなか伸展しなかった。
      一方日本陸軍はヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の、1939年(昭和14年)9月から始まった第2次世界
    大戦における破竹の進撃に意を強くして、日独伊三国軍事同盟を締結するよう外務省に圧力をかけ続けたのであ
    った。それに加えて、もしドイツがヨーロッパにおいて全面的な勝利を収めた場合、英、仏、蘭などの東洋における植民地はすべてドイツが領有することになるとして、こうなる前に機先を制してこれらの領土に兵力を進めるべきという南進論が盛り上がってきたのである。

    ■第二章「松岡外務大臣の外交方針」

    第1節「強い影響を受けたアメリカ留学」
      松岡が外相に就任した当時彼に課された外交問題は、以上に述べた通りである。松岡は、就任後早々に香港工
    作といわれる重慶国民政府と日本の傀儡政権である汪兆銘政権の合作工作を行った。しかし、工作は陸軍の猛反発にあい挫折してしまう。日本が汪兆銘政権を中国の正当な政府として承認したのは、松岡外相の在任中であった。松岡は、外相就任に当たって「私が外相を引き受ける以上軍人などに外交には口出しはさせない」と第2次近衛内閣成立の直前、1940年(昭和15年)7月19日、近衛が松岡及び陸海軍相予定者、東條、吉田の3名と自邸荻外荘で行った会談で大見得を切ったのであったが、就任後陸軍の無理押しに松岡は悩まされることになる。松岡は「外交がむずかしいことは今更知ったわけではないが、外交一元化の了解事項が踏みにじられた事は残念だ。満州国だけは確保して中国からは全面的に撤退するのが一番良いと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である」と嘆いている。松岡は世界をそれぞれ「指導国家」の4つのブロック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきと考えており、日本、中国、満州国を中核とする東亜ブロック、即ち大東亜共栄圏の完成を目指すことを唱えていた。松岡は世界各国がブロックごとに分けられることでナショナリズムを超越して、やがて世界国家の実現に至ると考えていた。
    第2節「松岡の外交的な駆け引き」
      松岡は就任当時から「ドイツ人は信用できない」と語っていたそうで、ドイツに好感を持っていたわけではない。しかし陸軍が再三松岡に三国軍事同盟を云ってくる中で、次第に三国同盟に傾斜していったのではないか。当時欧州ではドイツの軍事力は卓越しており、ヨーロッパはそれに席巻されていた。松岡は遠からず西欧ブロックはドイツの指導の下に形成されると考え、1940年(昭和15年)8月頃から三国同盟案を検討するようになった。これは中国を巡って日米、日英の関係が悪化していることもあってそれが影響したと思われる。しかし
    、吉田茂や松平恒雄、小幡酉吉など英米派の外務省OB等は、日独の提携を強く反対していたので、なかなか松岡の方針は決まらなかった。
      一方松岡はソ連との関係にも気を使い、何とかドイツを利用出来ないかとも考えていた。ドイツからの使者ハ
    インリヒ・スターマーと8月13日三国同盟に関して本格的に会談した。
      ドイツ外相リッペントロップの案は、ソ連を加えた日独伊ソ四ヶ国同盟を考えており、また日ソ関係の仲介が
    提案されており、これは自らの構想に合致しているとして松岡はドイツ側に好感を持つようになったと云われている。
      松岡は、日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことが出来ると考えた。また条約締
    結後アメリカの世論は沸騰するであろうが、アメリカとは事を構えないという日本の真意がわかればアメリカ人の心証も一転すると楽観的であった。こうして日独伊三国同盟は、1940年(昭和15年)9月27日に成立するのであるが、その後の独ソ関係は急速に悪化して、その情報は日本にも伝えられ、四ヶ国連合はおろか日ソ関係のドイツによる仲介も難しくなってしまう。この状況の急変に直面して、松岡は自らドイツに赴き直接情勢を見て、さらに外交的な駆け引きを駆使することを決意して、1941年(昭和16年)3月自ら同盟慶祝を名目に独伊両国を訪問し、ヒットラー総統、ムッソリニー首相とそれぞれ首脳会談を行い、大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。その際英国を牽制するためシンガポールの攻撃をリッペントロップから執拗に迫られるが、がんとして言質を与えなかった。その間彼は往路と帰路2回に亘りモスクワを訪問しスターリン書記長、モロトフ外相と会見して、帰路の4月13日に日ソ中立条約を電撃的に調印する。その間松岡は、アメリカの駐ソ連大使スタインハートを通じて「日本はたとえ三国同盟が出来ても日米が争うことを欲しない。今回の自分の訪独は三国同盟を強化しようというものではない。しかし現状では欧州の状況はドイツが有利である。にもかかわらずアメリカが参戦すれば日本も同盟によって参戦しなければならない」「この際ルーズベルト大統領は、世界平和のために蒋介石に日華事変の解決について停戦の斡旋をしてほしい」と語り、スタインハートは一応了承の意思を示し松岡の意思をアメリカ政府に打電していた。更に松岡はルーズベルトと直接会見したい旨合わせて申し入れたのであった。
    第3節「松岡が語っていた和平構想」
      松岡は中立条約調印後モスクワからのシベリア鉄道の車中で、報道関係者でただ一人、松岡に随行を許されて
    いた同盟通信社の岡村二一編集局次長に、これからの和平構想を語っていた。すなわち三国同盟に加えて、日ソ中立条約で北辺の守りを固めた日本は、今度こそ南進してくると米英に恐れられている。この時こそ和平交渉の効果はあがる。今回のヨーロッパ行きに先立って北部仏印進駐によって我が国の立場を強化しておいたのは、日米和平交渉において、日本軍の撤収を約束して相手の顔を立てるという手順であった。そして6月の終わりに前もって手筈が整えてある重慶の国民政府派遣の飛行機で重慶に向かい、蒋介石総統と会談して、その足でチャイナ・クリッパー機によりワシントンに飛び、ルーズベルト大統領を加えた三者会談により極東問題を一挙に解決する。そして和平の条件としては、万里の長城以北は中立地帯として、日本は全大陸地域から撤兵する。その代わりとして満州国を米、中は承認する。更に日米、日中は不可侵条約を結ぶというものであったという。「陸軍は簡単に撤兵に応じますかね」という岡村の問いに対して彼は「君、陸軍も支那事変に足を突っ込んで抜き差しならぬ状況に追い込まれている。面子さえ立ててやれば撤兵に応じるよ。しかしその際右翼のわからず屋が、政治家の一人や二人を暗殺するかもしれない。自分はそれを決して恐れない。そうでなければ真の外交は出来ないよ」と語っている。松岡の雄弁は常に卓抜にして新鮮であった。その姿勢はともすれば「独善」「頑固」と云われるが当時の政治家や官吏は軍部に遠慮して物を言うきらいがあった中で彼は遠慮なくなく自らの該博な知識と鋭敏な着想に基づき、時には軍人を圧倒する気迫に満ちた弁舌を展開して、その政治構想も雄大なもので当時の政治家の中では抜群の視野の広さを誇っていた。

    ■第三章「和平構想の破綻」

    第1節「松岡に内密で進められた日米交渉」
      このような松岡の和平構想は、松岡あってこそ実現可能であった。一方でその彼の構想を土台から切り崩して
    しまう事態が進行しつつあった。それは松岡の外遊中、外相代理の近衛首相が、ウォルシュ、ドラウトの両神父発案により、その後この意向に沿って渡米した民間人の井川忠雄や陸軍の岩畔豪雄大佐が画策していた日米交渉に、松岡に内密で大いに乗り気となり、アメリカ大使の野村吉三郎と米国国務長官コーデル・ハルとが会談する中で「日米了解案」なるものが合意されたことを彼は帰国後初めてその存在を知ったのであった。これには「三国同盟の事実上の死文化」、「日本軍の中国大陸からの撤兵」と引き換えに「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」「日米首脳の会談」が盛り込まれている。この了解案なるものは日米の民間人が共同で作成したもので、野村、ハル会談で「交渉の前提として合意されたものであったが、「アメリカ側提案」と誤解した日本では諸手を挙げて交渉開始に賛成したのであった。
    第2節「「日米了解案」の本質を見抜いていた松岡」
      松岡は、外相たる自分をつんぼ桟敷において進められた日米交渉について強い不信感を持つ。そして「野村大
    使の交渉は話が違う」と不快感を明らかにしている。松岡が了解案に反対したのは、了解案が本当にアメリカ政府からの提案であるかどうか疑っていたためで、事実了解案はアメリカの正式な提案ではなかった。アメリカの真意は仮にヨーロッパにアメリカが参戦して独米戦になった場合日本が背後からつかぬようにするためには三国同盟の自動参戦を緩和しておく必要がある。そのため現在論じられている非公式の日米了解案を公式のごとく見せかけ時間稼ぎをはかったのではなかろうか。修正案がまとまったのは4月16日であったが、それとは別にハルは野村大使に下記の「ハルの4原則」を手渡し、アメリカの断固たる考えを示している。
  •   @各国の領土保全と主権の尊重
  •   A他国の国内問題に対する不干渉と主権の尊重
  •   B通商上の機会均等を含む平等原則支持
  •   C平和的手段以外による変更以外の太平洋の現状維持を妨害しないこと
  •   従ってこの原則に沿わない日本に有利な日米了解案など成立する筈はなかったのである。
      松岡は「日米了解案」の本質を見抜いていた。このためアメリカとの交渉は正規の外交ルートで行おうとする。具体的には三国同盟の力をもって解決しようとした。確かにこの方法は正しいものであったが、彼は重大な読み違いをしていた。松岡は若い時からポーカーの名人として名をはせていたが、「ヒットラー神話」への過信は上手の手から水がもれたのであろうか。50日後に独ソ戦が始まり、独軍の崩壊が始まる。
      5月8日大本営政府連絡会が開催され、その際松岡はアメリカに了解案の修正案を送るが、6月22日にハル
    から返ってきた回答は厳しいものであった。すなわち了解案にあった満州国の承認は消え、汪兆銘政府を否認しアメリカは欧州での参戦を否定しない。また日米の太平洋に於ける領土的企画(南進)の否定など日本にとって極めて厳しいものであった。
    第3節「松岡の真意と大きな誤算」
      6月22日独ソ戦が始まり松岡のユーラシア枢軸構想、四国連合案はその基盤から瓦解する。独ソ開戦と共に
    三国同盟は有名無実化した。松岡の真意はアメリカとは絶対に戦わないということであった。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソ連をドイツと共に挟撃することを主張し、さらに陸軍の主張する南部仏印進駐に強硬に反対する(北進論)。しかし、政府内に於いては独ソ戦によりソ連の脅威が消滅したことによって南方に進出して経済的な利益を獲得すべきであるという南進論が有力になり、松岡の和平構想は画餅に帰してしまう。ここへきて腰の定まらない近衛首相は松岡に辞任を迫り、第二次近衛内閣は、7月16日総辞職して、同日松岡一人だけをはずした第三次近衛内閣が発足する。このあと松岡が一番恐れていた南部仏印進駐が実行され、アメリカ、イギリスとの対立は深刻になっていく。松岡は常々イギリスとの戦争は避けられないと考えていた。そのためイギリスの東洋における根拠地シンガポールなどを攻撃してイギリスの屈服を早め、ドイツを助けることを念頭に置いた南進論を前々から唱えていた。しかし先に述べたようにアメリカとは、絶対に戦争してはいけないという信念をもっていた。イギリスと戦争中のドイツと結んでも、アメリカとは戦争になる筈がないというのが彼の考えであった。しかし「英米一体論」は正しかったのである。ここにも松岡の大きな誤算があった。
      6月30日に行われた首相、外相、陸海外相などによる連絡会議において松岡は、今までの南進論から一転し
    てソ連を攻撃する北進論を主張した。これはドイツから対ソ参戦が正式に伝えられたからであろう。にもかかわらず7月2日の「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を議題とする御前会議において北進論は暫らく見合わせ、代わりに南進の方針が打ち出された。この方針は松岡の主張する対ソ開戦論をかわすため近衛が南進を認めたとものといわれている。この御前会議でこの決定に従い27日28日に南部仏印進駐が行われて、日米関係は決定的な局面をむかえることになってしまう。

    ■おわりに

      松岡が、外務省を去って4か月後日米は太平洋戦争に突入する。そして1945年(昭和20年)8月戦いは
    終わる。そして松岡は戦争犯罪人として11月極東軍事裁判の被告人となるが、持病の肺結核が悪化しており、軍事裁判の法廷に立ったのは一度だけであった。そして松岡は翌年6月24日東大病院で結核と慢性腎臓炎のため死去した。近衛文麿元首相も被告人となるが、出頭日の前日昭和20年12月15日自宅の荻外荘で服毒自殺した。
      近衛公の回顧、いわゆる「近衛手記」が朝日新聞に掲載されたのは12月20日から30日であるが、その中
    で松岡に関する重大な記述がある。すなわち、好条件の「日米了解案」が米国側から示されたのに好戦的な松岡外相が三国同盟をタテに反対して潰してしまったので戦争になったというのである。松岡は「この手記は不正確で一貫性を欠く。これが全部近衛公のものか疑問である。ある部分では公を弁護するために急で他を非難している。特に私の部分は公に適するよう終戦後に書かれている。これは良心を欠き、事実に対する真実性を失っている」と口述筆記「近衛手記に対する説明」の中で述べている。
      三度も期待をになって首相の印綬を受けながら時代に流された近衛文麿は悲劇の首相といわれるが、最後に服
    毒自殺する勇気があるならば公家公爵の矜持を持って天皇の御楯になれなかったのだろうか。近衛が自殺し、松岡が病死したため東京裁判で天皇のために戦ったのは東条英樹元首相だけになってしまう。しかし異論が出るのは勿論承知するところであるが、矢張り大東亜戦争における昭和天皇の責任は問われてしかるべきではないか。2・26事件において断固たる処置を決めた天皇がどうして大東亜戦争において最後に陸軍を抑えきれなかったのかは疑問である。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年1月31日 金言(第102号)
    松岡洋右と大東亜戦争(2)

    ■第一章 「松岡洋右の事績」

    第1節 「第2次近衛内閣で外交を主導」
      1940年(昭和15年)7月22日第2次近衛内閣が発足して松岡洋右が外務大臣に就任したのであった。
    この内閣の基本方針は「基本国策要綱」として閣議決定されたもので、その内容は「皇道の大精神に則り、ま
    ず日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」事にあった。そして第二次近衛内閣が翌1941年(昭
    和16年)7月18日に総辞職するまでのわずか1年の間に松岡の主導により9月23日、日独伊の三国軍事
    同盟、翌4月13日に日ソ中立条約が結ばれたのであった。
    第2節 「「国際連盟脱退」の劇的行動で世界的に知れわたる」
      それより前1931年(昭和6年)9月に柳条湖事件を契機として満州事変が勃発したのであったが、中国国
    民政府は日本の軍事行動について国際連盟に提訴したため、前回触れたように同年12月事実関係調査のための調査団(リットン調査団)が日本と中国に派遣され、その調査結果が翌10月にまとまり10月1日に国際連盟
    に提出された。
      その内容については前号に詳しく触れておいたが、報告書は日本の主張を一部認めてはいるが「満州を国際管
    理下に置く事」を提案し、満州国の成立を認めないという内容であった。日本はこのリットン報告書を討議するジュネーブにおける総会に、松岡洋右を全権とする全権団を派遣した。派遣に当たり日本政府と外務省は193
    2年(昭和7年)10月に訓令を発しており、松岡はその訓令により職務を遂行したのであった。
      松岡が選ばれた理由は、彼は幼年時代から大学を卒業するまでアメリカで育ち、その卓越した英語力と弁舌が
    期待されたものである。従って彼はあくまで訓令によって行動したのであって「日本の主張が認められなかった場合は、国際連盟脱退はやむを得ない」は松岡の単独行動(スタンドプレー)ではなく、あくまで外務省が想定していた最悪のケースであって、初めから脱退を既定路線としてジュネーブの総会にのぞんだわけではない。
      松岡達全権団は、できうる限り脱退を避ける方針で臨んだことは間違いない。しかしこの会議に松岡が派遣さ
    れる前、9月15日に日本政府は満州国を承認してしまっていた。12月8日総会において松岡は、英語で1時間20分にわたって原稿なしの大演説を行う。その内容は「十字架上の日本」と題されるべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上で磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解されたように日本の正当性は後世において必ず理解されるであろう」という趣旨であった。しかし、この演説は日本国内では賛辞を受けたが諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったらしい。もっとも会場においては松岡の演説に対して絶賛の嵐が渦巻いた。1919年(大正8年)の第一次大戦講和会議における日本代表は、意見表明が乏しくサイレント日本と揶揄されたのを松岡は面目一新したのであった。
      一方1933年(昭和8年)2月20日、日本政府は閣議を開き、リットン報告書をベースにした「勧告」が
    連盟の総会で採択された場合、連盟を脱退することを決定した。2月24日総会において先にも述べたように賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告は採択された。松岡は、あらかじめ準備していた宣言書を読み上げ、会場から退場した。その際巷間云われている「サヨナラ」と叫んだということは他の事実との混同による間違いで、そのような事実はない。このようにジュネーブにおける劇的とも云える彼の行動が外交官としての松岡の存在を世界的に知らしめたのであった。
      この後の彼の事績は、ヒットラー、ムッソリーニとの間で行った日独伊三国同盟、スターリンと結んだ日ソ中
    立条約であるが、その詳細を述べる前に松岡洋右の人となりを明らかにしておきたい。
    第3節 「彼の事績はほとんど忘れ去られている」
      松岡は、後年外交官として国民の間に広く知られる存在となったが、一方彼が行った国際連盟からの脱退、独
    伊との三国同盟、ソ連との中立条約、これらは彼の目論見と違い、アメリカとの戦争へとつながってしまったため、彼自身東京裁判の被告に指名され、裁判終結を見ないまま病死したこともあり、私は本原稿を書くためいろいろと新刊書を探ったが、現状においては彼の事績は歴史のかなたに忘却されていると云ってよい。すなわち、ほとんど彼に関する新刊、再刊は目に留まらなかった。図書館で探せば見つかるのであろうがなかなか時間もない上コロナ騒ぎの中で図書館に行くこともはばかられて困っていたところ、従兄である吉澤建治(清次郎の次男
    ・元三菱UFJ銀行副会長)に相談したところ参考文献を多数紹介してもらった。義理の叔父吉澤清次郎(武藤山
    治の三女の婿)は、生前の松岡とは関係が深く、外務省でジュネーブ会議の全権団員をつとめ、後年外務事務次官、インド大使などを歴任しているため、戦後松岡研究者からインタビューを受けたりしていたとの事で、従兄は松岡と吉澤とのつながりや、特に自分がアメリカ留学を共にした上智大学名誉教授で国際関係史に詳しい三輪公忠氏の「松岡洋右、その人間と外交」(中公新書)を推薦してくれたが、これは大変参考になった。また薦められた豊田穣氏の「松岡洋右、悲劇の外交官」は600ページに及ぶ大著であったが何とか読み終えた。三輪公忠他一名編「日本の岐路と松岡外交」も参考にさせていただいた。

    ■第二章「松岡洋右の生涯1―出生から壮年期」

    第1節「強い影響を受けたアメリカ留学」
      さて松岡洋右は、1880年(明治13年)山口県熊毛郡室積(むろつみ)村(現在は光市)に生を受けた。
    室積は江戸時代(鎖国時代)西日本における指折りの良港で、海運により開け、繁栄した港町であった。
      彼の生家は今五(今津屋五郎左衛門)という全国に知られた廻船問屋であったが、幕末に長州藩に軍用金を用
    立てし、焦げ付きが発生したとも云われるが、加えて父の代にいろいろと不始末が重なり家産が傾いたのであった。そして隆盛を極めた今五も父の代に倒産してしまう。彼は少年の頃から負けん気の強い性質で、生家の没落を見て自立の決意を固め、米国で一応の成功をおさめていた伯父藤山氏を頼った。たまたま帰国していた彼の息子、元三郎に同道して1893年(明治26年)13歳でアメリカに渡ることになる。
      彼が向かったのはオレゴン州のポートランドであった。ポートランドは私も何回か行ったことがあるが、日本
    同様雨が多く気候は温暖で、従って樹木が多くきわめて我が国に様子がよく似ており、日本人には暮らしやすい
    。人口は現在60万人であるが、松岡が行った頃は約10万人ぐらいであったのではないか。コロンビア川とウ
    ィラメット川の中間に位置し、近くには雪を頂くフッド山がそびえ、風光明媚な土地柄である。彼は先ず当地でメソジスト教会を建て、キリスト教の伝道を行っていた河部貞吉氏と知り合い、その世話により教会の中で寄宿舎の一室を与えられ、高等小学校に通うことになる。後年松岡は河部氏の事を「恩師」「第二の父」と呼ぶほど強く影響を受けた。
      彼は1か月ほど寄宿舎に厄介になった後、ダンバーという家に引き取られスクールボーイ、すなわち使用人と
    して働きながら学校に通わせてもらうことになる。このダンバー家にはベバリッジ夫人という、かつてニュージ
    ーランドで裁判官をしていた人の未亡人と、妻に先立たれたスコットランド系の移民であるウィリアム・ダンバ
    ー氏と、その息子の3名が生活していた。松岡はこの家庭で大変優遇され、ベバリッジ夫人を第二の母とまで慕
    っていた。後年ジュネーブにおける国際連盟に日本全権として出席した松岡は、アメリカ経由で帰途についたのであるが、かつての思い出の地であるポートランドを訪問し、その際ベバリッジ夫人の墓所に満足な墓碑がない事を憂い、夫人にふさわしい墓碑を彼の手で建立したのであった。松岡に先立つ1885年(明治18年)、当館創立者武藤山治はオレゴン州の隣であるカリフォルニア州サンノーゼに於いて、同じくスクールボーイをしながら苦学したのであった。
      松岡はその後ポートランドの高等小学校を卒業後、カリフォルニア州オークランドのハイスクールに入学して
    いる。しかし理由ははっきりとしないが16歳の時高校を退学し、その後法律事務所に務めたり、その他鉄道工事のため渡米していた日本人労務者の通訳などをして学資をため、オレゴン大学の法科大学に入学して1900年(明治33年)に卒業している。そして更に様々なところで働いており、これは彼がオレゴン大学卒業という経歴に満足せず、東部のアイビーリーグの有名校の大学院に進むことを考えていたのではないかとされている。しかし母親の健康状態が優れなくなり1903年(明治36年)9年振りに帰国したのであった。
      アメリカにおいて彼が経験したのはあまりにも強い人種差別であったが、その経験から「アメリカ人に対しては、たとえ脅かされても自分が正しい場合道を譲ってはいけない。対等の立場を欲するなら対等の立場で臨まなければならない。力に対しては力で対抗する事によって、はじめて真の友人となれる」を信条とする彼の意識が育ったのであった。
    第2節「外務省に入り外交キャリアを積む」
      帰国後は法律の勉強を志し、明治法律学校(明治大学)に籍を置きながら東大か京大で法律の聴講を許可して
    もらうつもりであったが、帝国大学の授業内容を調べたところ、余りにもスローモーであることを覚りこの道をあきらめ、独学で外交官職を目指し、1904年(明治37年)外交官及領事官試験に首席で合格する。一説によると彼の外務省入りの動機は、折から始まった日露戦争に対する徴兵忌避の意味があったのではないかという指摘もある。
      外務省では先ず領事官補として中華民国上海、その後は関東都督府などに赴任する。そしてその頃満鉄の社長
    であった後藤新平や三井物産の重鎮山本条太郎の知遇を得る。その後短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内正毅内閣(外務大臣は後藤新平)のもとで総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官として両大臣を助け、特にその後大きな国際問題となるシベリア出兵に深く関与した。
      続いて1919年(大正8年)の第1次世界大戦のパリ講和会議には、随員(報道係主任)として派遣され、
    日本政府のスポークスマンを務めた。またその時彼は、随員であった後に大きな因縁を背負うことになる近衛文麿と出会う。帰国後彼は再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)外務省を退職し、17年間にわたる外交官のキャリアに終止符を打つ。
      パリから帰った松岡は「人間は同じ所にいてはうだつが上がらぬものだ」と云って外務省を辞めるのであるが、本音は大戦の終結によって帝国主義の時代は終わり、同盟交渉や戦争によって国益の増大を図る外交は、過去の遺物となった。そのため出世欲の強い松岡は自らの武器である語学力と交渉力を発揮しにくくなったと、外交官という職業に見切りをつけたのではなかろうか。さらに外務省を含めて官僚機構における東大閥に対する反感も手伝ったと思う。彼の自負は外交官にとどまらず、国家全体を動かす政治家に向いていたのではないか。
    第3節「路線拡大で大きな成果をあげた満鉄時代」
      外務省を41歳で退官した松岡は、前々から親密な関係にあった山本条太郎の引き抜きにより、早川千吉郎社
    長のもと南満州鉄道(満鉄)に理事として着任した。松岡が満鉄に入社した当時中国はまさに政治的な混沌状況にあり、割拠する北洋軍閥が中華民国政府(北京政府)の政権をめぐって内戦を繰り広げていた。そのような状況の中でワシントン会議が開催され、アジア太平洋地域の秩序となるワシントン体制が成立した。ワシントン体制は中国大陸での現状維持を定めた九カ国条約、海軍の主力艦の保有を制限した5カ国条約、さらに太平洋の現状維持を約した4カ国条約からなっていた。当時東アジアにおける不安定要因は、外国権益の回収と不平等条約改正を求めて過激化する中国のナショナリズムと、大陸における日本の膨張政策であったが、ワシントン体制はこれらの不安定要因を抑え込んで現状維持を図ろうとする国際協調体制であった。満鉄における松岡の活動はこのワシントン体制を背景として展開されるのである。
      松岡が入社した当時、満鉄には大連から長春に至る満鉄本線と、奉天から安東に至る安奉線の2路線しかなく、その他は満鉄が北京政府から経営を請け負う鉄道として四平街から挑南に至る四挑線、さらに長春から吉林に至る吉長線が存在した。このような状況下で満鉄の路線網の拡張が求められたのであるが、それまで外務省が担当してきた北京政府との交渉は、満鉄自身の手に委ねられた。これは日本政府による露骨な拡張交渉が諸外国から懸念されるようになった事に対する措置であった。松岡はこの交渉を一手に引き受け行った。松岡の意図するところは、企業経営というよりも、さらに一歩進めて軍事、外交の観点に基づき満鉄路線の拡大を図り、満州全域に日本の影響力を及ぼすことにあった。路線網拡張の交渉相手は、満州を拠点とする軍閥張作霖で、手強い相手ではあったが1924年(大正13年)9月には四挑線延伸の契約を済ませ、さらに張が第2次奉直戦争で勝利して北京政府の実権を握ると、松岡は翌1925年(大正14年)1月吉長線延伸の契約に成功した。このように松岡は満鉄理事として路線網拡大に努めたが、ワシントン体制成立後の日本政府は、中国に対する内政干渉にこだわっていたため、路線網拡大の見地から張への支援を主張する松岡に否定的であった。このため松岡は1926年(大正15年)3月任期(4年)満了により満鉄を退職したが、その4ヶ月後中国の国家統一を進める国民党が、軍閥に対する討伐戦(北伐)を開始したため張作霖は劣勢となった。中国内政に不介入を貫いてきた若槻内閣(憲政会)が倒れ、これに代わって政友会の田中義一内閣が誕生した。田中は、北伐軍を牽制すべく張作霖を支援するため三度にわたって山東半島に出兵したのであった。と同時に満鉄の社長は早川千吉郎から山本条太郎に代わり、前述のように山本は松岡を外務省から満鉄に引き抜いたのであったが、松岡を副社長として呼び寄せる。以後2年にわたって松岡と山本は満鉄の経営に当たり、経営の多角化を進め、経営体質の改善に努めた。その一例が撫順炭鉱のオイルシェールの液化による石油製造である。
      松岡が副社長に就任すると張作霖は、翌年の1928年(昭和3年)6月日本による支援の甲斐なく北伐軍に
    敗れ、北京を逐われる。北京政府の実権を失った張は満州へ撤退して再起を図ろうとするが、奉天郊外で乗っていた列車ごと爆殺されたのであった。これは満州の直接支配を担う関東軍によるものであった。この事件により田中義一内閣は総辞職して、満鉄の人事にも影響を及ぼしたのであった。山本総裁(6月から社長から総裁に変更)は罷免され松岡も辞職し、ここに計8年間にわたる大きな成果を上げた満鉄生活に終止符が打たれることになった。

    ■第三章「松岡洋右の生涯2−政界へ進出」

    第1節「大恐慌下で衆議院議員となり満州の権益保護を主張」
      松岡が満鉄を退社してから2ヶ月後の1929年(昭和4年)10月24日、アメリカのウォール街において
    株価が大暴落する。これはまたたく間に全世界に波及して大恐慌となった。このような情勢下でかねてから政界進出を目論んでいた松岡は、政友会に入党して翌1930年(昭和5年)2月、故郷の山口県から衆議院議員選挙に立候補して当選をはたす。
      当時満鉄に於いては大きな動きがあった。日露戦争後に成立していた満州善後条約によって日本がロシアから
    満鉄を引き継ぎ、また満鉄守備隊の常駐、さらには満鉄並行線の建設禁止を清国は認めることになっていた。しかし爆殺された張作霖は、この条約を無視して満鉄の並行線の建設に着手し、一部の線を開通させていた。さらに息子の張学良は父親の死に対する報復として満州善後条約そのものを否認して、更なる満鉄並行線の増設を企てていた。これらの並行線問題は松岡が在任していた時から発生し問題となっていた。すなわち増設は満鉄の独占体制を崩して経営を大きく圧迫するようになっていた。
      このような状況の中で代議士となった松岡は大恐慌によって生じた社会不安を背景に、満州の権益保護を議会
    で主張した。その際松岡は「満蒙は我が国の生命線である」と表現し、日本の経済的国難に対する民政党政権の手ぬるさを攻撃したのであった。
      1931年(昭和6年)9月柳条湖付近において満鉄の線路が爆破されたいわゆる柳条湖事件が発生する。こ
    の事件は張作霖の爆殺(満州事変へ発展)と同様関東軍の仕組んだ謀略であったのであるが、関東軍は張学良による破壊工作であると断定し、これに対する軍事行動を開始した。日本政府はこれを局地的、外交的に収めようとするが、これを無視して関東軍は軍事行動を満州全域に拡大させ、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を擁立して1932年(昭和7年)3月傀儡国家満州国の建国を宣言してしまう。
      これに対して当然のことながら中国側は、日本による侵略行為であるとして国際連盟に提訴した。連盟は満州
    事変と満州国の実態を調査すべく英国のリットン伯を団長とする調査団を日本と中国に派遣する。同調査団の調査は、1932年(昭和7年)3月から6月にかけて行われ、9月に調査報告書が連盟に提出された。
      一方この間日本国内では5.15事件が起こり首相の犬養毅が殺害され、ここに政党制は終焉を迎えたのであ
    った。後を継いだ海軍出身の斎藤実内閣の外相を務めた内田康哉は、当初満鉄総裁であった時には事変不拡大派であったが、考えを翻して強硬派に転向して満州国の権益確保を強調するようになり、翌9月には満州国を日本は承認したのであった。
    第2節「「ジュネーブの英雄」と国民から称賛を受ける」
      他方国際連盟ではリットン調査団による報告書をもとに審議が行われた。そしてこれを討議する連盟の臨時総
    会に満州問題に精通し、かつ英語に堪能なうえ交渉能力にたけ、また「満蒙問題は我が国の生命線である」との考えを信条とする松岡が、日本全権代表に選ばれたのであった。ジュネーブに於ける松岡の活躍は冒頭に詳しく述べた通りである。
      帰国した松岡は国際社会に対する説得に失敗したとして、最初は意気消沈の状態であったと伝えられるが、彼
    が帰国後待ち受けていたのは非難ではなくむしろ称賛の嵐であった。彼は国際連盟という大舞台で巧みな英語と弁舌により日本の主張を堂々と展開したからであった。大恐慌と5.15事件による暗い世相を吹き飛ばすような彼の活躍に、留飲を下げた国民も多かったのであろう。そのため松岡は国民から「ジュネーブの英雄」として熱狂的に迎えられ、これによって松岡の知名度は一気に高まった。
    第3節「政党解消運動に失敗し再び満鉄へ」
      こうした状況の中で、彼は自身に大衆政治家(ポピュリスト)としての可能性を見出したのではないかと思わ
    れる。彼は大衆の求めるもの、特に農村のしいたげられた青年の心を読み取ったのではないか。彼は世界的な大恐慌の中で有効な手を打ち出せない政党制度が、各国に於いて岐路に立たされていると見て「昭和維新」などを唱え、既存の政党による政治を変えていかなければならないと決意する。その結果、大衆がかかえる諸々の不満を政党解消運動として実らせようと活動に励む。そして1933年(昭和8年)政友会を離党して政党解消を掲げて全国を遊説する。
      松岡は、日本社会の欠陥や矛盾を解決するためには、何等手を打つことの出来ない既存政党を解消して、全体
    主義的な挙国一致体制をつくる必要があると考えた。そのため自己の活動で不満を募らせる青年層を鼓舞して、政党解消運動として結集させようとした。しかしその運動は、会員は200万人を数えるまでになるが、それ以上十分な成果を得られず、翌1934年(昭和9年)政党解消連盟を解散してしまう。
      このように特に見るべき成果を上げることができなかった松岡は、1935年(昭和10年)8月、再び満鉄
    に今度は総裁として着任する。しかし満州国が建国された後、満鉄の役割には大きな変化が起こった。従来満鉄が担った方向は満州での収益拡大であったが、満州国を事実上支配する関東軍は満鉄を完全なる国策会社に改め
    、満州国の産業開発と華北への経済進出の機関となるべく改組しようとしていた。松岡が総裁に就任したのはこの時期であった。勿論松岡には関東軍の意思に従う考えは毛頭なかったが、関東軍は着々と既成事実を積み上げ
    、満鉄の力をそいでいった。特に満鉄の産業部門を鮎川義介ひきいる日産コンツェルンに移転しようとしていた
    。彼の総裁としての考えを実現していく余地はほとんどなくなっていく。このような中で彼は1939年(昭和14年)2月迄総裁を務めるが、失意の内に満鉄を去る。彼が外相として再び表舞台に登場するのはその1年4カ月後である。それ以降の経緯は次月に譲る。
    ≪続く≫

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    武藤会長「金言」

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