ホーム > 國民會館について> 武藤会長「金言」

                     

武藤会長「金言」

2021年9月30日 金言(第110号)
我が国の聖域(サンクチュアリ)
日本医師会

■第一章 「日本医師会の概要」

第1節 「医師の職能団体」
   公益社団法人日本医師会とは、現在約17万人の医師会員を擁する職能団体である。この団体の歴史は古く、その設立は戦前の1916年にまでさかのぼる。創立者は有名な北里柴三郎氏であり、我が国の医療行政に確固とした指導的な地位を保ってきた。何年か前迄に「昔陸軍、今総評」と云われた時代があった事を覚えている方は多いであろう。それがその後「昔総評、今医師会」に、ある時代まで取って変わったのである。
   勿論総評は労働者の団体であるが、医師会は組織上各都市医師会と府県医師会の連合体であるが、一方この組織の他に「日本医師会政治連盟」なる別組織を持ち、選挙の際には極めて大きな力を発揮してきたのであった。
   申し遅れたが日本医師会は強制加入団体ではない。その組織率は2019年時点で全医師の約50%にとどまっており、その総数は172,763名である。そのうち開業医が83,368名、勤務医等が89,395名と半々を占めている。
   話は前後するが、日本医師会そのものは1874年(明治7年)に日本で医療制度が施行されてから存在したが、実際に組織として確たるものとなったのは、北里氏が会長となって組織を運営した以降である。現在の「医師会」は戦後の1947年(昭和22年)に新しく誕生したものである。先程述べた「昔総評、今医師会」という表現がずばりかは別として、日本医師会が圧力団体として政治的に一目置かれる存在である事は間違いない。
第2節 「特徴はエリートの集団」
   たしかに、世間の日本医師会を見る目はいろいろではないかと思う。それは医師会が医師というエリートの集団であるという事が特徴であろう。エリート職業集団として「日本弁護士連合会(日弁連)」があるが、もっと職能に徹した集団であり、違った意味での圧力を持っている。日弁連は会員でないと弁護士活動が出来ないのはご承知の事と思う。従って日弁連を除名されると弁護士活動を出来なくなる。いわば失業である。その点医師会員が何かモラルに反した行いにより医師会で除名されても、医道審議会により処罰されない限り、医師としての職務を続ける事が出来る。
   このように職能集団としてのしばりは日弁連に比べて医師会は弱い。ところが生命に関わる事に関して、患者は医師に対して弱い立場にある事は否定出来ない。具体的には選挙において医師会は、自民党の勝利に微妙に貢献してきた。特に小選挙区の誕生によりそれが顕著になってきたのであった。しかし小選挙区の発足以前から日本医師会はずっと一目置かれていたと、評論家の水野肇氏は指摘している。というのは我が国には無数の団体が存在しているが、その大半は親睦団体であって、管理を受けている省庁の側に立った施策を展開することによって、その存在価値を認めてもらおうとするものが大半であった。所管官庁の方針に反対するのは、労働組合やその上部団体ぐらいしかなかったのである。ところが日本医師会は医療政策について、所轄官庁の厚生労働省の方針に唯々諾々と従うような事は全くなかったといってよい。

■第二章「日本医師会の基礎を確立した武見太郎」

第1節「日本医師会の綱領」
   ご承知の方も多いと思うが、日本医師会の基礎を確立したのが武見太郎氏である。日本医師会は米軍占領時代に発足して、昭和20年代こそ目立った動きはなかったが、1955年(昭和30年)に武見氏が登場して以来その性格は一変したのであった。日本医師会は2000年4月1日に医の倫理綱領、2013年6月に日本医師会綱領を発表している。日本医師会綱領を紹介しておくと極めて常識的な医師があるべき姿がうたわれている。すなわち日本医師会は医師として高い倫理観と使命感を礎に、人間の尊厳が大切にされる社会の実現を目指すとして、
  • 1.日本医師会は、国民の生涯にわたる健康で文化的な明るい生活を支えます。
  • 2.日本医師会は、国民とともに、安全・安心な医療提供体制を築きます。
  • 3.日本医師会は、医学、医療の発展と質の向上に寄与します。
  • 4.日本医師会は、国民の連帯と支え合いに基づく国民皆保険制度を守ります。
  •    以上を誠実に実行することを約束します。
    となっており、綱領自体誠実に実行される限り何ら文句の付けようがないのである。
    第2節「当時の医療界の実態」
       さて、武見太郎氏が日本医師会の会長に就任したのが1957年(昭和32年)であるが、当時の医療界がどのようなものであったかに触れておきたい。
       昭和32年というとその数年前迄日本はGHQの支配下にあり、医療行政もGHQの手によって差配されていた。端的にいって混乱期であったといってよい。一方経済的に見ると敗戦によってドン底生活を経験していた日本人が、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の特需によって、ようやく一息ついたという時期であった。いうなればこの頃までは我々の生活は「いかにして食っていくか」という事が第一命題で、「健康を守る」などという概念はどこにもなかったのである。
       医師の生活も国民と大差はなく、庶民に比べると若干良いという程度で多くの医師も食糧難に見舞われていた。そのような状況の中で医師達にも、心にゆとりがなく、食うために患者を診るというのが実態であった。
       一方日本の医学そのものが、アメリカに20年遅れているといわれ、しかも新しい情報の入手は容易でなかった。医師の留学は外貨の関係があって難しく、運良く渡米出来ても日本人医師の地位は低く、月収300ドルがやっとだったと云われていた。
       戦後日本医師会は、比較的早い時期に再建されてスタートを切ったが、ご多分に洩れず他の労働団体と同じく賃上げが主たる仕事であった。この時期日本医師会の組織そのものが「賃上げ」に翻弄されていたのであった。それは日本医師会の会長や副会長が、現職の国会議員という時代がかなりあった事に如実に表れている。それは日本医師会には理論も行動力もなく、ただ政治家を利用して医療費を獲得する作戦しかなかったからである。このため、政治利用という事で自民党を応援するというのが当時の状況であったといってよい。
       当時厚生省の一部では、社会保障の確立を目指していたグループも存在したが、それは何となく英国型の制度、即ち国営による医療制度を考えていたふしがあった。一方自民党は根本的な医療政策のようなものは全く持ち合わせていなくて、ようやく自民党が社会保障に目覚めるのは、1961年(昭和36年)に実現した国民皆保険成立以後の事であった。という事は、この時代は”医療政策の空白時代”であったのである。
       一方医学の面でも空白という点では同様で、昭和10年代は戦争によってわが国には欧米先進国からの医療情報は全く途絶し、それに加えて戦時中の医学教育の年限短縮によって医師のレベルもガタ落ちとなっていた。日本の医学が欧米からの遅れを取り戻そうと努力し始めるのは、結局のところ占領時代が終わってからである。
       それまでの我が国医療の主たるテーマは食糧難と結核だったのである。しかし欧米に於いては医学そのものは格段の進歩を続けていた。しかし、日本の医療においては、日本医師会はもとより自民党も当時の厚生省も、これといったビジョンを持ち得なかった時代であった。
       武見が会長に就任したのはこのような時期であった。彼は、医療問題は自民党と厚生省間で試行錯誤の連続で、医師会はその周りにあって只右往左往しているだけであるととらえていた。そして彼の信念は「学問は官僚に統制されてはいけない。自由社会に生きる医師の集団である医師会こそ、責任を持つ存在でなければならない」というものであった。
    第3節「武見太郎の出自」
       ここで武見太郎の出自に触れておこうと思う。武見は1904年(明治37年)京都府の生まれで、もともと武見家自体は新潟県長岡の出身である。本人は生後間もなく東京に転居し、開成中学から慶應普通部に移り、その後慶應義塾大学医学部に進学する。卒業後は医学部の内科教室に入ったものの、個性の強い彼は、教授との折り合いが悪く、退職してその後理化学研究所に入り、有名な仁科芳雄教授のもとで放射線の研究に従事するが、その傍ら東京の銀座に武見診療所を開業する。そして彼の家内が元首相の吉田茂と近い関係であったため、その縁で政財界の要人と親しく交わるようになり、米内光政元海軍大将の侍医をつとめたこともあった。
       武見の会長在任期間は、1957年から1982年の25年間に及び、彼の政治力、行動力、また独特な発想力が相まって、まさに日本医師会の地位を確固としたものとしたのであった。しかし、武見の個性の強さは「ケンカ太郎」と云われ、傲慢不遜なその態度はいつの場合でも「武見に押し切られた」という印象が強いのは、彼にとってはたしてプラスであったかマイナスであったのかは評価の分かれるところである。
       武見が会長になってから大きな問題がいくつも発生しているが、簡単に水野肇氏の名著といわれる「誰も書かなかった日本医師会」から抜粋して説明したいと思う。

    ■第三章「武見会長が直面した問題と成果」

    第1節「二重指定制度の問題」
       武見が会長になって最初に直面した問題は「二重指定制度」である。これは保険診療する医師は保険医登録を必要とする他、それとは別に病院や医院も保健医療機関の指定を受けなければならないというものである。即ち医師と、医師が仕事をする診療所や病院は別々に管理されるという制度で、自宅以外に診療所を持っていたり、病院を持っていたりすると、自宅では健康保険の患者を診療することが出来ないというものであった。
       この制度は武見が会長になる前の1957年(昭和32年)3月半ばに、日本医師会の臨時の代議員会で会員の大半が反対したため、当時の小畑会長らの執行部が不信任され、代わりに武見太郎が登場したのであるが、二重指定制度を規定する法案はすでに武見の就任直前に国会で可決されていた。厚生省側にもこの法案を通したのにはそれなりに理由があったようであるが、とにかく医師の大半が反対しているにもかかわらず、国会を通してしまった。これに対して武見は、一度通過した法案を覆すのは難しいので、厚生大臣に「政省令の案」を出せと迫り、これを医師ではない法律学者の二人の東大教授(兼子一、石井照久)に検討してもらったところ、両教授ともこの政省令案に強い反対を寄せて、政省令案は骨抜きにされたのであった。
       武見自身、国民皆保険は避ける事の出来ない流れと見ていた。従って古き良き時代の自由診療へ戻そうとは考えていなかった。ただ厚生省は、役人の介在があまりにも多すぎて医師の職業的な自由の侵害となっていると考えたようである。
       国民皆保険が実現したのは昭和36年になってからであるが、この頃もそれ以降も、欧州においては革新系の内閣が生まれたときでないと、社会保障は前進しなかったのである。例えば、イギリスにおいては保守党の内閣が誕生すると社会保障は全てストップし、労働党の天下になると社会保障が進み出すという有様であった。しかし我が国では自民党は、保守政党こそが社会保障の先取りを進めて行くべきと考えたのであった。そして厚生族と云われる国会議員がその役割を担い、何時の間にか社会保障において短期間でヨーロッパ諸国に追いついてしまったのであった。
       自民党が手掛けた社会保障には医療の国営はないといってもよい。従って国民皆保険が実施されて以降社会保障が充実されればされるほど、医療は国営からより民営の方向に向かったのであった。いわば1960年以降は自民党的社会保障が実現したのである。これに対し良い意味でチェックを加え、アイデアを提供したのが武見率いる日本医師会だったのではないか。ただ前にも触れたように、そこには武見の「ケンカ太郎」と云われた個性が良い意味でも悪い意味でも発揮されたと思われる。
    第2節「甲乙二表の問題」
       彼が会長に就任して遭遇した厄介な問題が、医療保険の点数についての甲乙二表問題である。これは診療報酬の引き上げに関する算定方式をどうするかという、武見が就任する以前の1951年(昭和26年)にまでさかのぼる問題で、この算定方式を審議するための審議会が置かれていたが、なかなか結論が出ず大きな問題となっていた。武見は会長就任後この有様を見て業を煮やし、審議会から医師会からの委員を引き上げ、独自の案をつくったのであった。具体的には経済学者の大物、一橋大学の中山伊知郎教授の弟子である藤井隆教授に、医療保険の点数を如何にすべきかの計算を依頼したのであった。藤井教授の算定結果は1点18円46銭に上げるべきとの報告であった。これに対して厚生省はこれまでの点数表の仕組みをご破算にして全く新しい仕組みをつくり、一点単価を10円に固定するという案を提案した。この案はすべて検査を一まとめにするというもので、これに対して武見は「これでは検査をしなくても請求する医師が得をして医療の論理もない。これではインフレ対応もない」として反対した。
       そもそも「点数単価方式」においては物価の上昇や下落によってコントロールされ、点数は医療の技術の進歩によって評価されていくもので、一点単価を固定すると厚生省が医療費を制御しやすくなる。この両案を巡っては医師会内部でも意見が分裂して、中央社会保険医療協議会においても厚生省案、医師会案の両方が併記された答申がなされ、結局眼科を除き実質的に日医案が決定されたのであった。
    第3節「医療のわかる議員の養成」
       武見は医療のわかる議員をつくろうとした。1957年(昭和32年)医療費の大幅引き上げを要求する医師会と、それに反対する支払い側の健保連(健康保険組合連合会)と若干の値上げを認めるべきという厚生省の三者が対立した。これに対して一部の医師出身の議員が日本医師会に乱入して、武見に対して暴言を吐く事件が発生した。この時武見は医療議員の在り方について心底疑問を持ったのであった。戦後医師出身の議員が生まれたが、政治屋ばかりで医療について本当に理解している議員はいなかった。武見はこれでは日本のためにはならないとして「医師でなくてもいいから医療が本当にわかる議員をつくろうとして、選挙毎にこれはという議員を推薦して気長に議員を育成していかねばならない」と考えたのであった。
       武見はこのため医療のわかる優れた候補者を選び、選挙資金の応援をしようと考え、次の選挙から実施に移ったのであった。このように応援して当選した議員の中から厚生族と呼ばれる専門家の議員が誕生したのであった。これについては、武見は自分の手足となる族議員の養成をはかったという考えもあるが、社会保障制度の揺籃期にこそこのような議員の養成を図ったことは、武見に先見の明があったといってよい。
    第4節「制限医療の撤廃」
       日本医師会は、武見体制が確立していく中で「制限診療の撤廃」という画期的な果実を得る。制限診療とは、病気ごとに薬の使用基準や治療指針が決められていて、その範囲でしか医療が行えないという制度である。例えば「抗生物質の使用基準」とか「結核の治療指針」という具合に、薬一つにしても医者の判断では自由に決められなかった。病気ごとに使える薬の種類と使用する順序が事細かに決められていて、例えよく効く薬であっても自由に使えなかった。使用してよい薬について第一順位の薬を使ってみて、何日か経って効かなかったら初めて次の薬が使用出来るという取り決めであった。
       今から考えると何故このような制度がまかり通っていたか不思議なのであるが、当時は全く資金的な余裕のない戦後という事情があった事に加えて、厚生省が健康保険から医療全体を差配しようとした意図があったのではないかと思われる。
       武見は、制限診療は戦時中の官僚統制がそのまま生き残っているものだとして、この制度の撤廃こそが人道問題であると主張して、徹底的に抵抗したのであった。しかし厚生省は、国民皆保険を達成するためには医療費の増加を抑えるべきという意図を持っており、武見の考えをなかなか受け入れなかった。
       そこで武見はこの時点で厚生省を見限り、自民党を直接動かそうとする。しかしなかなか事態は進まず日医側は対抗手段として、1961年(昭和36年)2月「一斉休診」することを決めた。自民党も両者の間に入って斡旋に動くが不調に終わり、昭和36年2月19日に1日だけではあったが一斉休診が実施された。
       一方武見は「制限医療の撤廃」を目的としてこの目的を達成するため保険医を辞退することを目論んでいた。この内実をもう少し詳しく見てみると「国民皆保険になると、今迄自由にやってきた診療が出来なくなるので当然収入は減るから開業医は不安になっていた。それで一斉休診と総辞退に団結したのであったが、しかし一般会員(開業医)は制限診療撤廃より診療報酬アップの方により関心を持っていた。」
       自民党と日医との間ではこの問題を巡り、長期間にわたり論争が続くが、紆余曲折の末、当時の田中角栄政調会長と武見との間で話がまとまり「制限診療撤廃」が実現する一方、日医側の保険医総辞退も中止されたのであった。それから10年が経過した1971年(昭和46年)7月1日、日本医師会は保険医総辞退に突入した。これは1ヶ月続き「医師のストライキ」としてはまさに空前のものであった。ただ何故このストライキが行われたかについては、水野肇氏の本でも必ずしも明解ではなく未だ定説はないとしている。しかしこのような事件に原因がない筈はなく、一応1971年(昭和46年)1月8日に行われた、中医協懇談会で提出された「診療報酬の適正化について」と題する審議用メモの内容が発火点になったと云われている。
       メモの内容は当時の厚生省の医療課長の言によれば「このメモはこれまでいろいろ言われていたものを全部洗い出したもので、ただ並べただけにすぎない」と、このメモが何故一斉総辞退につながったのかどうしても考えられないと云っている。メモは5点に分けられているが、長くなるので割愛する。
       しかし、武見はこのメモを見て烈火のごとく怒り「これは反社会保障的性格のものである」として、この内容に反論して文書化し、当時の厚生大臣と自民党の医療議員に送付したのであった。そして「審議用メモを撤回しなければ厚生行政に協力しない」と厚生省の審議会、懇談会への医師会推薦による委員の総引き揚げを通告した。さらに保険医総辞退を含む実力行使戦術を武見に一任したのであった。この結果7月1日から一斉ストに突入した。保険医辞退届を出した医師は72,000人と、主として開業医であるA会員の100%近くに及んだのであった。
       ストに突入してから5日目の7月5日、佐藤内閣改造で厚相となった斎藤昇と武見との間で公開会議の開催が合意され、5回にわたり会議がもたれ、最後の7月28日には佐藤首相も加わり合意に達した。すなわち武見は7月一杯で総辞退を打ち切ることを約束して決着した。
       この総辞退がどうして起こったかは先に述べたように誰にもよくわからないのが真相であった。水野肇氏は著書の中で、自分も大変不思議に思っていたので総辞退には何か本当の理由があるのですかと武見本人に聞いてみた。その際武見は「厚生省が医療の国営化を企んだので自分は闘ったのだ」と答えたそうである。それには有無を得させない迫力があったと水野氏は云っているが、一方では正直に答えているとは思えなかったとも云っている。
       水野氏の推測では日本医師会は一度総辞退すべきだと考えていたところにこのメモが出てきたので、それを利用したのであろうと云っている。すなわち武見はこのメモを利用して一斉総辞退に持ち込み、それによって組織を強化して自己の体制をより強固なものにしようとしたのではないかと考えているが、なんとなくそのような気もするのである。
       武見体制はこの後強固なものとなって以後10年続くことになり、武見は目的を達成したが、一方で国民の間では反日本医師会の感情が高まったのは、まぎれもない事実である。
    第5節「医師優遇税制の導入」
       この「医師優遇税制」程不可解なものはない。素人の私もかねてから何故このような不公平な税制が存在しているのかはなはだ不思議に思っていた。これについては世間から袋叩きの状態にありながら結局1954年(昭和29年)にスタートしてから25年間も続いたのである。これはまさに医師会を巡る医療問題の象徴とも云える問題であった。
       水野氏の本で初めて知ったのであるが、この制度のスタートしたいきさつは、武見太郎が日医の会長になる以前にたまたま大磯に吉田茂首相の診察に行った際、当時の池田勇人蔵相と会い、医師の保険診療報酬を上げるように依頼したところ、当時の日本は終戦後の復興ままならぬ時代で、とても国家財政は苦しく余裕はない。そこで池田蔵相が提案したのは「税金を負けておくからそれで勘弁してくれ」と持ち出したのが発端であった。具体的には医師の経費を72%と見て、課税は28%についてのみするというものであった。
       実際1972年(昭和47年)当時の大蔵省の説明によると、開業医の実際の経費率は診療報酬の50〜55%で、優遇税制による減収分は昭和47年度分で約800億円といわれており、当時の全国の開業医の総数は約8万人であるから、一開業医当たり年間100万円の補助を受けているのと同じとされた。
       この28%にしか課税しないという事が10年以上経過した昭和40年代になり「不公平税制」として世間で大きく取り上げられるようになり、昭和47年の税制改革答申にも書き込まれ、世をあげて批判が強まってきた。
       1974年(昭和49年)政府の税別調査会は、医師優遇税の見直しを求める答申をまとめ、時の田中首相に提出した。しかしこの時点では前進せず、その後も健康保険の抜本改革が唱えられたが、医師優遇税制廃止とからみ、医師会と政府との間で何度も交渉が持たれたが、その都度覚え書きが交わされるが健保の赤字が深刻化する中にあっても、この問題は進展しなかった。
       1977年(昭和52年)になり、ようやく抜本改正には遠く及ばなかったが、健保改正案が国会を通り、自民党はようやく医師の優遇税制に取り組み、同年12月に昭和53年度限りでの医師優遇税制の廃止と新たな控除率の実施が決定されたのであった。
    第6節「水野肇氏の武見観」
       結局25年の長きにわたって武見時代が続き、その間武見と政府自民党との間では熾烈な闘争が繰り返されたが、武見の本質は如何にも医療行政に哲学があるかのように振舞っていたが、実際には開業医達に如何に有利に医療費の値上げにもっていくかにあったのではないかという点にあったのである。「武見は”欲張り村の村長“」として主張を繰り返していただけであるというのが、今になってみると厚生官僚の武見観である。武見もその事はわかっていて「もともと開業医の中には自分の事しか考えていない人もいる。医師会の三分の一は放っておいても勉強して医学の進歩について行って、それを国民に還元出来る人達である。次の三分の一は指導者によって、どちらにでもついて行く人達である。残りの三分の一は”欲張り村の村長“でこれはどうしようもないと。この三つを代表している医師会長の立場は難しい。この点をよく理解してほしい」また「医師会のつらいところは”欲張り村の村長“を率いていることで、それも仕事の内である。ここのところだけがクローズアップされるのではやりきれない」と語っている。
       武見は日本医師会という極めて難しい組織を25年間にわたり指導し、一部医療費の値上げ中心の指導を行い、それが今日国民の医療費の大幅増加につながり問題となっているのはまぎれもない事実である。そして医療費の値上げは未だに医師会の基本方針として貫かれている。

    ■おわりに

       さて、現状コロナという「国難」が続く中、日本医師会は国民の信頼を失いつつある。「発熱外来おことわり」を看板にかかげる医師は医師としての存在価値はないのではないか。「文藝春秋」の本年8月号に19代日本医師会会長横倉義武氏は懺悔とも云える一文を寄稿している。
       それによると17万人の医師が加入する医師会には、先ず国民医療体制の確立、安全な医療の提供、保健活動を通じての国民への働きかけ、更に医療機関の経営の安定という事が役割であるが、国民は先ず「医療体制」そのものに不安や疑念を抱いている。また「国民への働きかけ」で医師会へ不快感や怒りを多くの人々が抱いている。特に外出自粛の必要性をもっとわかりやすく国民に発信し、感染予防について説明を行うべきであった。これは医師会の伝統である。医療現場の声を政治に届けるのが医師会の重要な役割であるが、十分におこなえていない。例えばワクチンの打ち手の問題にしても、歯科医師に対する協力要請をおこなわなかった。「非常事態」の認識があまりにもお粗末だ。医師会は自分たちの利権を守っているにすぎないと国民に思われてしまった。
       一昨年末中国の武漢でコロナ患者が発生した時点でその情報をつかんではいたが、それが我が国に波及しないように十分手をつくしたかは疑問である。マスクや防護服の配布にも十分手がつけられていなかった。何といっても国民の信頼を失ったのは、先に述べた「発熱患者おことわり」と敬遠する医師が多くあったことであろう。今回のコロナについて云えば診療科間や病院間の相互提携、自治体間の協力、すなわち「自助」「共助」がほとんど機能せず、政府と自治体の関係「公助」に頼ろうとしたのは大失敗である。以上が横倉氏の懺悔の弁の抜粋である。さて、欧米諸国が新型コロナウィルスによる感染者、死者は日本の何十倍、何百倍に達しているが「医療崩壊」に達していない。これは非常事態を見据えた体制を整備していたからである。一方ベッド数や世界一の医療資源を有する我が国でありながら、コロナ問題が起きた直後から「医療崩壊」が叫ばれ続けたのはどうしてであろうか。医師会の責任だけでなく我が国の医療体制全体が本当に正しかったったのであろか?
       ワクチンでさえ国産にはなお時間がかかる状況で、すべて他力本願である事は恥ずかしい事ではなかろうか。検査体制の遅れ、不備についても同様である。現場における医師、看護師の献身的な努力を聞くにつけ、この責任の根源は「欲張り村の村長」と云われて、それを放置してきた日本医師会と一方で社会保障費の伸びを抑える事に汲々として、医師会と自民党に翻弄され国民不在のまま今日に至っている厚生労働省にあると強く思うのである。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年8月31日 金言(第109号)
    地球温暖化と我が国の取り組み

    ■はじめに

       IPCCとは気候変動に関する政府間パネルのことで、Intergovernmental Panel on Climate Changeの略称である。これは1988年に国際連合の国際連合環境計画と同じく連合の専門機関である世界気象機関との共同により設立されたものである。これは国際的な専門家でつくる地球温暖化に関する科学的な研究の収集の実施、整理のための学術機関である。そして地球温暖化に関する科学的な知見の評価を行い、数年おきに地球温暖化に関する世界中の数千人の専門家の知見を集約した「評価報告書」を提出している。

    ■第一章 「IPCCの地球温暖化に関する評価報告書」

    第1節 「報告書の概要」
       この報告書、正確には「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の第6次報告書が先日8月9日に公にされた。その内容を見ると、先ず気候危機が海や氷河に及ぼす影響は、今後数千年続くとしている。さらに氷河は溶け続け、数千年間にわたり、海面の水位は上昇し続けるとしている。そして今後数千年間地球が元の姿に戻ることはないと予測している。これは人間の活動が(特に18世紀に始まった産業革命以降)、地球のシステムを劇的に変えてしまったためで、21世紀以降も氷河は溶け続け、海面水位は上昇すると指摘している。そして地球の長期的未来と異常気象の増加など、気候変動による短期的な影響の両方について、極めて悲観的な姿が描かれている。
       人類は産業革命以来、石炭、石油などの化石燃料を消費することにより、大気中に余りにも大量の二酸化炭素を放出したため、たとえ今すぐに世界の二酸化炭素の排出量をゼロにしたとしても、地球の温暖化は止まらないとしている。この温暖化により再々述べるように、海水水位の上昇、氷河の消滅、猛暑、洪水、干ばつ、熱帯性の暴風雨などが次々と発生し、今後数十年間にわたり地球に大きな変化をもたらすだろう。これらの変化の中には「数百年から数千年間にわたって不可逆的なものもある」と報告書は指摘している。
       すなわち氷河は溶け続け、数千年間にわたって海面の上昇が続く。北極圏では永久凍土が失われつつある。永久凍土とは年間を通じて凍っている土壌のことで、その中には何世紀にもわたって植物や動物の残骸などの有機物が閉じ込められている。
       気温が上昇して仮に永久凍土が溶けると、これらの有機物が温められて分解され、永久凍土に蓄えられている炭素量は、現在大気中に存在している量の約2倍あると考えられており、それらが放出され、温暖化がさらに進行することになる。しかも報告書では、この温室効果ガスの放出は、今後何百年間も続く可能性があると言っている。
       一方海の変化は「数百年から数千年のタイムスケールで不可逆なものである」と述べている。すなわち海は、排出された二酸化炭素の約31%を吸収して急速に酸性化が進んでおり、温暖化も地球の他の部分と同様に進んでおり、海水温が高くなると海洋生物に欠かせない酸素が保持できなくなり、生態系に大きな影響を及ぼすことになる。
       また現在ではまだ証明されていないが、温暖化によって極地や山頂の氷河が数十年、場合によっては数百年にわたり溶け続け、さらに温室効果ガスの排出量が増加すると、南極をおおっている氷床は、今後数百年にわたって融解が加速される。具体的には氷の融解がさらに進むと今後2000年の間に、海面水位は22メートル上昇する可能性があるとしている。
    第2節 「報告書の重要なポイント」
       その他IPCC報告書の重要ポイントは次の通りである。
  • 1.2001年から2020年までの世界の平均気温は1850年からの50年間の平均気温に比べて約1℃上
       昇した。
  • 2.世界の平均海面水位は1901年から2018年にかけて、約0.2メートル上昇、その間の年間海面上昇
       率は約3倍となった。
  • 3.2019年には、大気中の炭素の濃度が過去200万年のどの時期よりも高くなった。同時に二酸化炭素よ
       り強力な温室効果ガスであるメタンと亜酸化窒素の濃度が、過去80万年のどの時期よりも上昇した。
  • 4.2001年から2020年の北極海の海氷の年平均面積は、1850年以降で最小になった。さらに205
       0年までに、少なくとも一度は海氷のない9月が出現する可能性が高くなっている。
  • 5.過去40年の間に大規模な熱帯サイクロン、熱波、豪雨の発生頻度が世界的に増加している。
  • 6.豪雨やハリケーンによる高潮などの極端な現象が同時に発生して、それに 海面の上昇が加わることで、今後
       数十年にわたって洪水が発生する可能性が高くなっている。
  • 7.温暖な表層流が北上して、そこでこれは冷やされると重くなり、底層にまで沈み込んで南下する「大西洋南
       北熱塩循環」と呼ばれる海流の動きが弱まっている。この流れが遅くなるとヨーロッパ、アメリカ東海岸は異
       常な低温に見舞われる。
  • 8.これらの事項は我々にも思い当たるものが多く、報告書では、このままでは今後80年間に8,300万人
       が、CO2排出量増加による気温の上昇で生命を 絶たれると予測している。
  •    これらの報告書を取りまとめるため、世界中から何百人もの科学者が膨大な数の科学論文を集め、検証して作
       成されたのが今回の報告書である。

    ■第二章「気候変動枠組条約会議の開催」

    第1節「会議の目標」
       今回の発表から三か月後の11月9日から、スコットランドのグラスゴーにおいて第26回気候変動枠組条約国会議(COP26)が開催される事になっており、今回の報告書に加え、今回発表されなかった他の作業部会からの評価報告書も合わせて討議されることになっている。
       元々この会議は2020年に開催される予定であったが、新型コロナウィルス蔓延のため1年間延長されたのであるが、この会議では2015年合意の「パリ協定」と「気候変動に関する国際連合枠組条約」の目的を加速するため開催されたもので、本会議においてはパリ協定で合意された「世界的な平均気温上昇を産業革命以前に比べて2度より十分低く保つとともに、1.5度におさえる努力を追求する」ことについて、世界が協力していく事が目標である。
    第2節「二酸化炭素排出量の実態」
       さて世界の二酸化炭素排出量の総額と国別の割合はどうなっているか?これは今後排出量を減らし、パリ協定の目標に沿って行くための基礎になるものなので、先ずこれに簡単に触れておく。
       2018年の世界の排出量の合計は約335億トンを数え、先進工業国と多くの人口を持つ中国、インドなどの中進工業国のウェイトが高いのは当然であるが、その内訳は中国28.4%、アメリカ14.7%、インド6.9%、ロシア4.7%、日本3.2%、ドイツ2.1%、韓国1.8%、カナダ1.7%、インドネシア1.6%、メキシコ1.3%、ブラジル1.2%、オーストラリア1.1%、英国1.1%、イタリア0.9%、フランス0.9%となっており、残りの28.3%にはアジア、アフリカなどの後進国が含まれている。
       しかし産業革命以来300年、現在まで二酸化炭素を撒き散らしてきたのは欧米を中心とする先進国で、発展途上国から云わせれば今後発展するための頭を押さえられ、あるいは尻拭いの一端を負うことは、著しく不公平であると考えるのは当然であって、この点からなかなか考えは一致しないのである。また先進国にあってもEUと日米は、環境問題ではEUがイニシアチブをとる国境炭素調整措置、これは環境規制の緩い国からの輸入品に事実上関税(CBAM)をかけるもので、これは実現されると環境・通商摩擦を引き起こすため、日米は静観しているのが実状で、極めて難しい問題をはらんでいるのである。
    第3節「先進6か国の温室ガス削減目標の引き上げ」
       さて、昨今の異常気象の急速な展開に直面し、COP26を意識して先進国は温室効果ガスの削減目標を下記のように大きく引き上げている。
    先進6ヶ国の従来目標と新目標
  • @ 日本  2030年度従来目標   2013年度比  26%減
          2030年度新目標      〃      46%減
  • A 米国  2025年度従来目標   2005年度比  26%〜28%減
            2030年度新目標      〃            50%〜52%減
  • B EU  2030年度従来目標   1990年度比  40%減
            2030年度新目標      〃          55%減
  • C 英国  2030年度従来目標   1990年度比  40%減
            2035年度新目標      〃        78%減
  • D カナダ 2030年度従来目標   2005年度比    30%減
            2030年度新目標        2005年度比  40〜45%減
  • 第4節「実現が危ぶまれる日本政府の目標公約」
       さて菅首相は、2020年10月の所信表明演説で、50年までに国内の温暖化ガス排出量を実質ゼロとするカーボンニュートラルの実現を打ち出した。そしてさらに上記のように21年4月には、バイデン米大統領が主催した気候変動サミットにおいて、2030年に向けて温室効果ガスを、2013年度に比べて46%削減するという新たな削減目標を公約にしたのであった。しかし、この46%という新目標は、従来の目標を大幅に上方修正したものであって、日本政府のこれまでの目標公約「13年度比26%削減」に比べて実現性が本当に危ぶまれるのである。
       この26%削減するという目標は、第21回国連気候変動枠組条約国会議(COP21)が開催される以前の15年に策定されたもので、18年の第5次エネルギー基本計画で追認して現在進められている電源構成見通し、1次エネルギー構成見通しと整合したものであった。従って新たに「46%削減目標」が設定されたため電源構成、1次エネルギー構成見通しとは全然適合しないものとなり、この構成見通しを改定する必要が生じてきた。しかしこの作業は非常に困難を伴い難航した。何故なら従来からの手法、すなわち@先ず電源構成・1次エネルギー構成見通しを決定しAそれを踏まえた温暖化ガスの削減目標を国際的に宣言するという手法が覆されたことにあった。というのは、今回は闇雲に政治的な要因が強く作用して、いわば唐突な感じで「46%削減目標」がつくられたため、今後電源構成に及ぼす影響は大なるものがあり、我が国は国際的に大変な苦労をすることが予想される。
       今述べたように、全く裏付けのない政治的要因で目標が新たに設定されたため、この新目標に見合うように電源構成・1次エネルギー構成見通しを「調整」しなければならなくなった。ようやく政府は7月21日に総合資源エネルギー調査会基本政策分科会において、この46%削減目標に整合するように調整した、30年度の電源構成の見通し素案を提示したのであった。電源構成見通しの素案は次の表の通りである。
       この表は、7月30日付け日経新聞所載の橘川国際大学副学長が作成されたものである。

    2030年電源構成表






    ■第三章「電源構成見通しの問題点」

    第1節「再生可能エネルギー比率の実現に疑問符」
       しかし今回の電源構成見通しには、無理な帳尻合わせの影響が明らかで、多くの問題点をかかえている。問題点を列挙すると、先ず再生可能エネルギーの比率が高く設定されており、実現性には疑問符がつくことである。4月13日の基本政策分科会においては実現可能な根拠を積み上げ、30年度の電源構成における再生可能エネルギーの比率を現行の22〜24%から30%前後とする方向性を固めていた。ところが再三述べるように、その9日後に46%なる新削減目標が登場したためそれと辻褄を合わせるため、30年度の再生電源比率を30%台後半にまで高める必要があることとなり、十分な根拠がないまま6〜8%積み上げざるを得なくなってしまったのであった。これには各方面から重大な疑念が寄せられるのは当然であろう。また再生エネルギーの比率を大幅にアップさせるためには、他の電源の比率を相当程度低下させなければならない。また太陽光発電を含めこれを大幅に増やすことには疑問がある。
       再生エネルギーを大幅に増やすことが出来るならば、それはそれで誠に結構なことであるが、太陽光パネルの生産はほとんど中国に握られている上、太陽光発電は今や原子力より安価となっていると報じられているが、太陽が陰っている時はバックアップのための火力発電が必要で、このコストは今回の計画には入っていない。さらに重要な事は、これまでの太陽光発電の実績はどのようなものかというと、我が国のCO2を2.5%削減するために、毎年2.5兆円の賦課金を国民が電気代に上乗せして負担している事はご承知のとおりである。このため今後太陽光発電の実績をこの計画どおりのペースで進めるならば、毎年20兆円が追加されることになる。20兆円と云えばほぼ現在の消費税額に等しい。すなわち46%の目標達成のため追加の国民負担は30年までに消費税を20%に上げるのと同じことになるのではないか。また、太陽光発電は今後価格が安くなるという向きもあるが、我が国の立地からしてとても実現出来るものではない。また太陽光エネルギー以外の洋上風力発電などの手段についても、とても我が国の立地から決め手になるものではない。
    第2節「全く目途が立っていない原子力発電」
       現行の電源構成見通しにおいては「30年度の原子力発電の比率20〜22%」を達成するためには、少なくとも27基の原発を稼働する必要がある。しかし現時点における稼働原発は10基にとどまっており、原子力発電の比率20%〜22%の実現は全く目途が立っていないのである。
       本来は先ず原子力の比率を下げるべきなのではないかとの強力な主張があるが、政府は原発が立地する地方自治体への配慮から、調整後の第6次エネルギー基本計画を盛り込む30年度の電源構成見通しにおいても、原子力の比率は据え置きのままである。このような原子力の比率は現状においては非現実的なものであるとの主張もあるが、原発のありかたについては今後も検討の余地があることは確かである。これらが電源見通し案のおける第2の問題点である。
    第3節「電力の安定供給に齟齬をきたす火力発電の大幅削減」
       このように原子力の比率が維持されたため、電源構成比率低下の対象は残る火力発電に絞り込まれたのである。これが第3の問題点である。しかし火力発電を一挙に削減することはエネルギー政策上重大な懸念が生じているのである。火力発電のメインエネルギー源は石炭であるが、もともとCO2の大きな発生源であったから、ある程度の比率低下は予想されていた。経済産業省は非効率石炭火力を廃止して、高効率な石炭火力に転換していけば、30年度の電源構成に占める石炭火力の割合は、20%程度になると予想している。しかし我が国の現状において、石炭火力を一挙に減らすことには問題が残ると考える。何故なら石炭火力を過度に縮小すると、エネルギーの安全供給や電力コスト削減に関して、かなりの齟齬をきたしてしまうからである。また同時にCO2の多い石炭火力に代わり、「天然ガスシフト」を第5次のエネルギー基本計画では推進することがうたわれていたが、石炭と同様に今回大幅に削減することになっている。これも石炭削減と同様、電力エネルギーの安定供給に大きく影響する。さらに肝心の温暖化ガスの削減にも大きくマイナスとなる。そしてLNGの供給については現在中国を含めての獲得競争にも影響を及ぼすことは必定である。

    ■第四章「私の提言」

    第1節「原子力を欠いてカーボンニュートラルの実現は困難である」
       上記のように第6次エネルギー基本計画の問題点を述べてきたが、私が主張するのは、反対を承知で云わせて頂くと、矢張り我が国にとって有力な電源構成の手段は今尚原子力発電であると考える。
       福島の大事故以来原発は悪であるという烙印が押された感があるが、具体的には大震災以降肝心の原子力政策の基本方針である原子力大綱も示されなくなり、原子力政策は、この10年停滞を続けている。しかし大規模低炭素電源である原子力を欠いては到底我が国のカーボンニュートラルの実現は困難である。
    第2節「原子力技術の位置づけを明確にすべし」
       政府は、原子力技術の位置づけを明確にする必要がある。米・英に於いては原発に関して技術開発競争により「小型モジュラー炉」の実用化が進み、これは安全性に加えて工期短縮やコスト圧縮という点で優位に立つものである。米国では規制機関や国立研究所、さらには事業会社が連携協力して開発に取り組んでいる。我が国の原発の国産化率は99%だったと云われているが、残念ながらサプライチェーンは現状では細っている。国内の原発は建設中の3基を含めて36基あるが、東日本大震災の事故以降稼働にこぎつけたのは10基しかない。「世界で最も厳しい水準」とされる異常に厳しい審査の長期化や、地元の同意などが障壁となり動かせない原発が多いのである。これは決して国益に沿うものではないと私は思う。現在の原子力規制委員会は国家行政法3条に基づく独立性の強い組織で国会の干渉を受けないため独善性が強すぎると思っている。同委員会のやり方はまさに「角を矯めて牛を殺す」という格言通りではなかろうか。一方国の原子力発電に対する姿勢において、最も基本的問題である「核のごみ」処理などについてより真剣な取り組みが求められるのではないかと思う。
    第3節「原子力を支える人材育成が不可欠である」
       現在の原子力規制委員会のやり方が続くと、70年には原発は我が国においてゼロとなる。先に述べたように第6次エネルギー基本計画では、原発の増設や建て替えを封印してしまった。原発の現場においては文字通り閉塞感がただよっている。原発の建設に従事した経験者は高齢化しており、廃炉や燃料の取り出し、建屋の解体などの作業に必要な人材や、技術力が不足すればこれは由々しき問題である。
       欧米では、国が主体となって人材の育成に努めているし、中国では新しい原発が次々と稼働している。次期エネルギー計画では、30年度の原発比率を20〜22%に据え置いたがこれは最低のラインである。原子力利用を支える人材を十分に育成出来ず、発電量が不安定な再生可能エネルギーを支える電源として原発を活用できなくなれば、ようやく作った一人前の温暖化ガスの削減目標もまさに画餅に終わる可能性があるのではないか。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年7月31日 金言(第108号)
    五・一五事件の闇

    ■はじめに

      1932年(昭和7年)5月15日に勃発した五・一五事件は、 1936年(昭和11年)の二・二六事件と
    並んで我が国の政党政治を終わらせ、軍部独裁への道を開いた大事件であった。しかし、この事件については近現代史をほとんど教えない現在において、その真相を知る人は少ないのではないかと思う。事実五・一五事件は海軍の青年将校を中心とするクーデターまがいのテロであったが、犠牲者は時の総理大臣犬養毅氏と護衛の巡査一人で、二・二六事件のような多数の閣僚が殺害され、陸軍の軍隊が動くというまさにクーデターといったものではなく、全体の計画、目標など甚だ見方によってはかなりずさんなものであった。しかしこの事件が我が国の政治に与えたインパクトは極めて大きなものがあった。
      当初海軍の青年将校は海軍だけではなく、陸軍さらには民間人をも交えた本格的なクーデターを考えていたの
    であるが、計画を進めていく中で幾多の障害と齟齬をきたし、当初は相当な規模によるクーデター計画が、ついにはテロ的な結果に終わったのではないかと思われる。五・一五事件の詳細について著した書物も事件の重大性の割に少ないのはどうしてであろうか。

    ■第一章 「時代背景」

    第1節 「世界恐慌で社会不安と大財閥への不満が高まる」
      さて大正時代、衆議院の第一党代表が総理大臣になるという、いわゆる「憲政の常道」が確立したことにより、我が国にも議会制民主主義が一応根付いてきたのであった。しかし一方で経済の状況は、1929年(昭和4年
    )のウォール街の株式大暴落に端を発した世界恐慌による大不況が我が国にも押し寄せてきていたのであった。企業の倒産が続出し失業者が増加する一方、農村の疲弊は目を覆おうばかりとなり、社会不安が増加した。加えて政党政治に守られている大財閥に対する不満が高まり、敵視される状況が高まっていた。更に詳しく書くと、浜口雄幸内閣の金解禁の実施を契機として、日本経済は、この世界恐慌とも重なり1930年(昭和5年)から翌年にかけて、まさに危機的な状況におちいっていた。いわば第2次世界大戦以前における最も深刻な経済状況にあったのである。
    第2節 「井上蔵相の金解禁の断行で未曾有の大不況に陥る」
      第1次世界大戦中の1917年(大正6年)9月、我が国はアメリカに続いて金輸出の禁止(事実上の金本位
    制停止)を行っていた。しかし、アメリカは戦後の1919年(大正8年)に早くも金輸出を解禁し、金本位制への復帰をはたしていた。日本は1919年末においては、内地、外地合わせて正貨(金)の準備は20億4,500万円に上り、しかも国際収支も受け取り、超過にもかかわらず金解禁を実施しなかった。ところが、1920年代に入ると世界の主要国は次々と金本位体制に復帰し、国際的に金為替本位制を大幅に取り入れた。国際金本位制が再建されたアメリカの好況と対外投資をテコとした世界経済は、相対的に経済安定を満喫していた。日本政府もこの状況に応じて金解禁の実施に踏み切ろうとしたが、1920年(大正9年)の第1次大戦後の不況、1922年(大正11年)の銀行不況、1923年(大正12年)の関東大震災に加えて、財界救済のための特別融資の整理強行などが重なり、また1927年(昭和2年)の金融恐慌の発生など相次ぐ経済危機が到来して、なかなか金解禁に踏み切る事が出来なか った。しかし、先進国の中で日本と並んで最後まで残っていたフランスが、1928年(昭和3年)6月に新平価(五分の一切り下げ)による金解禁を断行したため、日本に対する各国の風当たりが強まったのであった。そして1929年(昭和4年)7月の満州における張作霖爆殺事件を契機として田中義一内閣が瓦解し、かねてから金解禁即時断行を表明していた浜口雄幸内閣が成立し、蔵相には緊縮財政と金解禁を看板とする井上準之助氏が就任した。
      井上は財政金融引き締めのデフレ対策を推進し、さらに1930年(昭和5年)1月金解禁を実施した。しかし、金解禁に当たっては当然新平価により行うべきところ、旧平価によりこれを行ったため金の流出は深刻な状況となり、折からの農業不況とも重なって日本経済は未曾有の大不況となってしまったのであった。
    第3節 「軍部が台頭する」
      特に農村の疲弊は惨憺たるもので娘を売る者が続出した。すなわち井上のデフレ政策と金解禁政策により銀行
    や企業の休業、倒産が続出して失業が急激に増大した。このようなデフレ政策と世界恐慌状況を背景に軍部が次第に台頭し、1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、加えて12月には金本位制の維持が困難となったため犬養毅内閣が成立し、高橋是清蔵相は直ちに金輸出再禁止を行い金本位制を廃止した。この井上の金解禁策は、日本経済に大打撃を与えたが、一方では陸海軍の力が強くなり、政治に対する介入が度を越えるようになってきていた。
      このような状況の中で陸軍、海軍、それぞれの中堅幹部の中で、日本の政治を何とか変えていかなければなら
    ないという考えが強く出てくるようになる。例えば陸軍の中堅幹部による1931(昭和6年)年10月に決行を目論んだクーデター未遂事件、10月事件が発生したりしていた。この10月事件は未遂に終わったが、そもそもこの事件は、1931(昭和6年)年9月18日に発生した柳条湖事件で満州事変が勃発するが、これを不拡大局地解決に抑え込んだ、当時の政府の動きに反対する陸軍急進派が実行に移そうとしたクーデター事件であった。
      10月事件は近衛師団、陸軍歩兵師団に加えて機関銃中隊迄動員する大掛かりなもので、当時の若槻礼次郎首
    相以下、有力閣僚を斬殺し陸軍中心の内閣を組織しようとするものであった。首謀者は橋本欣五郎大佐で、右翼の大川周明や北一輝なども思想的な支柱に加えるといったものであったが、事前に発覚した。
      10月事件以前にも3月事件(1931年3月)という陸軍によるクーデター未遂事件があった。

    ■第二章「血盟団とテロリズム」

    第1節「血盟団の性格」
      一方民間においては井上日召なる日蓮宗に強く影響を受けた布教師(僧籍はない)の指導による「血盟団」(
    裁判官が後に付けた名前で井上が当初から名乗っていた団体名ではない)が影響力を持つようになる。血盟団は井上の思想に感化されたカルト集団である。井上の思想の根底にあるものは、仏教的神秘主義と言ってよい。井上は日召と称して日蓮主義を基本とする仏教的神秘主義であると指摘する書籍もある。仏教的神秘主義に皇国思想、国家改造に対する熱情が重なって、井上日召の独自な思想が形成されたのではないか。井上が田中智学(明治の宗教家)から大きな影響を受けていることは明白である。特に国家主義者である田中の著書「日蓮上人乃教義」から大きな影響を受けているという指摘は、当たっているのではないかと思われる。それと同時に北一輝、大川周明にも会って国家改新を論じているようであるが、彼等の主張とは相入れず、自己の思想の理論化は放棄している。彼の関心があったのは、あくまで実力行動にあったと考えられる。
      血盟団は多くの要人を殺害したが、暗殺後の国家改造計画に関する具体策を何等持ち合わせていなかった。彼
    等の論理は、自分たちがテロを行うことによって捨て石になることで、後に続く者達の国家改造の先鞭をつけたという単純なものであった。血盟団事件自体はクーデター計画でもなく、クーデター未遂事件ですらなかった。井上自身自分は単なるテロではなくクーデターを指向していたと云っているが、その結果は要人暗殺というテロ事件以上のものではない。
    第2節「血盟団の形成」
      井上日召は1886年(明治19年)群馬県の出身で、父は明治維新後に起こった熊本の士族の反乱「神風連
    の乱」に参加しその後医師となる。本人は早稲田大学、拓殖大学を経て大陸に渡り、天津駐在の日本軍の通訳やスパイを務めたいわゆる大陸浪人である。帰国後先に述べたように日蓮宗に帰依して、茨城県の大洗にあった大洗護国堂に入り「日本精神の尊重」という思想のもとに、青年の教育に努めていた。その主要なメンバーが後に血盟団といわれ暗殺事件に関わる一般に大洗組といわれる小沼正、菱沼五郎、古内栄治、さらに東大グループといわれる四元義隆、田中邦雄、京大グループの田倉利之など16名のグループである。
      このように井上は立正護国堂を道場にして、地元の若者や一部インテリの学生を集めて彼らを鍛え上げた後、
    各地の農村に派遣して同志を増やし、自らの教団を起こして信者の数を数年間で数十万人に迄増やして国家改造の一大勢力を先ず築き、これらの同志をかたらって国会議事堂を取り巻き、国家改造を迫るといういささか誇大妄想じみた計画(井上はこれを「倍加計画」と称していた)を実行しようとしていたのであって、1929年(
    昭和4年)の時点では、テロリズムによる実行行動を考えていたわけではなかった。
    第3節「血盟団をテロリストに変えた原因」
      それでは井上がテロによる直接行動を考えるようになったのは何故か?その原因は護国堂に集まる海軍の青年
    将校達、特に藤井斉(第一次上海事変で戦死)の影響が大きかったと云われている。藤井を介して井上と海軍との関係が生まれたことにより、血盟団の性格が大きく変わった。具体的には1929年(昭和4年)に藤井は、第20期飛行学生となり霞ケ浦海軍航空隊に赴任し、この時期に井上日召や橘孝三郎、権藤成卿と交わるようになる。藤井は、1904年(明治37年)佐賀県の生まれである。彼は海軍兵学校入校以来目立った存在だった
    。在校中から大アジア主義を唱え、当時問題となっていたワシントン、ロンドン海軍軍縮条約を非難して、兵学校上部からマークされる存在であった。血盟団員の中で重要な役割をはたしたのは、大洗グループ内の古内(小学校教員出身)と東大グループの四元の2人である。また血盟団員ではなく、先に述べた海軍将校の藤井斉の影響は大きい。藤井こそ元々実力行使には慎重であった井上日召を、テロリストに仕向けた張本人である。また東大グループや京大グループ、海軍将校と井上を緊密に結び付け、大洗の小さなグループに過ぎなかった血盟団を
    、広域に活動するグループに変貌させたのであった。
      藤井は日召の唱える倍加運動を聞いて、日召に対して「貴君は寺に居て世間の事情にうといからそのような呑
    気な事を云っているのだ。最近の国家の様子をもっと勉強しろ。国家の現状が今程行き詰っているのがわからないのか。国民大衆の苦境を救うためには、一刻も早く我々殉国の志士が立ち上がって、国家の改造を行わなければならない」と日召に迫ったのであった。
      日召は、藤井を初めは嘲笑していたが、次第に考えを変え、暴力を肯定する方向に変わっていった。それ以来
    藤井は頻繁に護国堂に出入りするようになる。その後日召は護国堂を出て東京で活動するようになる。先に述べた陸軍の未遂に終わった3月事件(1931年(昭和6年)3月)及び10月事件(1931年10月)に日召を始めとして血盟団のメンバーは関係している。

    ■第三章「五・一五事件の経緯」

    第1節「指導者層変革の実力行使を計画」
      藤井は青年将校の間で高まっていた、国家革新運動(昭和維新)の海軍側の指導者であった。兵学校以来の同
    志と王師会を組織し、発足当時は会員10名前後に過ぎなかったものが、ロンドン海軍軍縮会議のころは40数名にまで増加していた。彼の主宰する王師会は政党政治を非難し、国家の改造を目的としたものであった。さらに彼は元陸軍将校で陸軍青年将校に顔の利く西田税(二・二六事件に連座処刑)にも近づき、先に述べた陸軍のクーデター計画10月事件への参加も一時は考えていた節がある。1930年のロンドン海軍軍縮条約の批准には強硬に反対した。その後も藤井は、海軍省や浜口内閣へ右翼団体と結んでゆさぶり工作を行い、当局からマークされ続けた。
      藤井に影響を与えた人物は大川周明、井上日召、権藤成卿らであるが、北一輝ともつながりがあった。藤井は
    目的を達成するためには指導者層の変革が必要と考え、実力行使を考えるようになる。藤井は井上から、1932年(昭和7年)に決起したいとの考えが寄せられ同意していたが、同年1月に発表した第1次上海事変に出征し、実力行使に移ることなく戦死してしまう。
    第2節「血盟団の実力行使」
      藤井の戦死は2月5日であったが、井上を中心とする血盟団の実力行使は2月9日の井上準之助暗殺で始まった。ここで重要人物の橘孝三郎と権藤成卿にふれておく。橘は五・一五事件で自らの主催する愛郷塾の塾生により、変電所の襲撃を行わせた事により民間人として最も重い終身刑の判決を受けるが、元々彼は茨城県の農村において大地主義、兄弟主義、勤労主義を掲げて理想村を目指し、農村子弟の教育に取り組んでいたトルストイに影響を受けた、農村の指導者であった。しかし昭和恐慌化の下で農村の疲弊を憂い政治(村政改革)への関心を高めていくのであった。いうならば彼は自ら主宰する愛郷塾により当初合法的な政治進出を考えていたのであったが、古賀海軍大尉から集団テロ計画に再三誘われ、これらの青年将校の熱意にほだされ変電所襲撃による「帝都暗黒化」計画に参加を約束するのであった。
      権藤成卿は福岡県出身の農本主義思想家で、社(土地)と稷(ショク)(農産物)を中心とする村落農治の上に
    日本の国は建国された。君(天皇)は儀範(祭事)を示し、民は農村を基盤に自治を行う。すなわち君民が一体であり、一君万民の平等な共同生活が理想的な日本本来の姿であり、ひるがえって我が国の現状は権藤の考え方からみると、君と民の間に私利私欲を貪る議員や官僚、政党や財閥などの「支配階層」が存在して国体を破壊していると考える。藤井は、国家の腐敗と堕落を憂い、権藤の「社稷」の観念と無政府主義的な革命理論に深く共感したのであった。東京における権藤の持ち家が一味の会合に頻繁に利用された。
      3月事件の後、藤井の直系である海軍将校古賀清志、山岸宏、三上卓らは暴力革命を模索し始めたが、具体的
    な案をつくることが出来なかった。日召は彼等に対して夏の別荘地において政財界の要人を一挙に暗殺する計画を示して、武器と資金の調達を依頼するが、結局藤井斉が7月に大連において8丁の拳銃を入手する。しかし具体的なテロ計画は流れ、実行は保留される。しかし、血盟団は日召により折から犬養内閣の解散総選挙を狙い、投票日の2月20日を目標に要人の暗殺を決め、いわゆる「一人一殺」の考えのもとに暗殺を企てたのであった

      ターゲットは政友会、民政党の二大政党の要人、経済界の重鎮、そして元老などの特権階級であった。2月9
    日大洗組の小沼正は藤井が入手した拳銃により、駒込の演説会場で井上準之助を背後から襲い絶命させた。続いて3月5日、三井の重鎮団琢磨を菱沼五郎が襲い三井本館前で倒した。犯人についての捜査は一気に進み、井上日召は3月11日に逮捕された。当然民間の関係者は全員芋づる式に逮捕された。
    第3節「陸海民間一体での決起を実行」
      藤井が戦死し血盟団が壊滅した一方、陸軍の青年将校がまとまって立ち上がる兆しはなく、残った藤井斉につ
    ながる古賀、中村、三上の海軍青年将校は茫然自失の状態であったが、古賀を中心に大川周明に武器と資金の援助を依頼する一方、あくまで陸海民間が一体となっての決起にこだわり、陸軍士官候補生11名を引き入れ、又先に述べた橘孝三郎の愛郷塾生と共に5月15日、4組に分かれて決起したのであった。
      第一組は三上海軍中尉以下海軍将校2名、士官候補生5名により首相官邸を襲い、犬養毅首相と相対し有名な
    首相の「話せばわかる」との言葉を無視して「問答無用」と拳銃を乱射して殺害した。第二組は牧野内大臣邸を古賀中尉他4名で襲ったが、内大臣は不在。第三組は政友会本部を中村中尉他下士官候補生3名で襲うも日曜日で不在、手榴弾を使うも不発。第四組は明治大学学生1名が襲撃するもここも不在、また手榴弾は不発であった
    。各組の襲撃は終わった後一味は警視庁を襲い、その後憲兵本部に自首する事が基本計画であったが、警視庁でも手榴弾を数発爆破させたのみに終わった。計画は「捨て石」的な集団テロと言ってよい。大体決起の為に集めた武器も拳銃13丁、手榴弾21発でクーデター計画としては余りにもおそまつである。又扱いが悪かったため手榴弾もほとんど不発に終わっている。変電所襲撃もほとんど得るものはなかった。海軍将校、および陸軍士官候補生18名はこの後前後して憲兵隊本部に自首した。

    ■おわりに

      このようにして事件は終わったが、事件は藤井斉が考えたような大きな革命とはならなかった。クーデターが
    テロから捨て石へと海軍青年将校は考えたが、彼等の投げた「昭和維新」という考え方は表面的には何等得るものはなかったと思われる。しかしこの決起は政界、財界、陸海軍を大きく揺るがしたのであった。政党政治はまさに終わったのであった。以後二・二六事件を経て我が国は軍部独裁への道を歩んでいくのである。
      五・一五事件終了後、凶行に走った者の中で死刑になった者はいなかった。むしろ実行犯に対する減刑運動が
    全国的に広がり、死刑を求刑された井上日召を初めとして、血盟団の実行犯ほとんどが無期懲役で海軍将校の実行犯も首相を殺害した三上中尉らも懲役15年と軽いものであった。一方愛郷塾の橘孝三郎の無期懲役はいささか均衡を欠いている。このように軽い判決が出た背景には矢張りデフレ政策や金解禁の失敗による経済不況、農村の疲弊など政治の失政に起因している。ただ五・一五事件の判決が死刑零だったということは、この後起こる二・二六事件の実行犯に甘い気持ちを抱かせた事は否定出来ないのではないか。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年6月30日 金言(第107号)
    東芝の混乱

    ■はじめに

      東芝は、6月10日に2020年7月の株主総会の運営について調査した弁護士からの調査報告書を受け取っ
    たと発表した。
      報告書によれば、アクティビスト(物言う株主)に対して東芝が経済産業省と緊密に連携して対応をはかった
    と指摘し、一部の株主はこの圧力のため議決権行使を行わなかったとして、総会そのものが「公正に運営されていなかった」と結論づけている。
      この指摘を受けて社外取締役や大株主が、会社側の提案する役員の選任案について次々と異議を表明したため、東芝は6月13日に開催した臨時取締役会で、取締役会候補者2人と執行役候補者2人を選任案から除外した。
    このようなに一度公表した役員人事を総会直前に取り下げるのは、異例中の異例である。

    ■第一章 「東芝の変わらぬ企業体質」

    第1節 「議決権行使の妨害を画策」
      東芝の昨年7月の総会は、一部の株主の議決権が無効として処理されたことや、行使出来なかった事について
    株主から指摘が出ていた。そこで筆頭株主の元村上ファンド系のエフィッシモ・キャピタル・マネジメント(以下エフィッシモ)は調査を求め、2020年12月に臨時総会の開催を請求した。そうして本年3月に開いた総会で調査を行うという議案が賛成多数で可決され、選任された3人の弁護士が東芝幹部のメールなど資料の調査を進めていた。
      報告書によると、当時社長兼最高経営責任者(CEO)であった車谷暢昭氏とアクティビストとの対立が深ま
    ったということから、東芝が「アクティビスト対応について経済産業省に支援を要請した」としている。また当時大株主であった米ハーバード大学の基金運用ファンドは、この総会における議決権を行使しなかったことについても、同ファンドに対して経産省の元参与が接触したと指摘し、実際には調査の結果では東芝から経産省参与への直接のやり取りは認められなかったとしながらも、東芝幹部と経産省幹部のメールのやりとりから経産省幹部を通じて「経産省参与に対して交渉を行うことを事実上依頼した」と認定している。
      また別の株主であった3Dインベストメント・パートナーズに対して、経産省が調査など「改正外為法」に基
    づく何等かの措置をとる可能性を示唆して、議決権の判断に何等かの影響を及ぼしたと指摘している。
      このような事から、結果として「経産省と東芝は一体となり株主提案権の行使を妨げるよう画策して、投票行
    動を変更させるよう交渉を行うよう事実上依頼した」と指摘している。
    第2節 「過去の不正会計処理問題」
      さて東芝に対しては、2015年2月証券取引等監視委員会が東芝の会計処理に疑問があるとして報告命令を
    出したのであったが、当初東芝の経営陣は極めて楽観的で、証券取引等監視委員会の命令に対して、2014年3月迄の3年間で営業利益のかさ上げが500億円あった事は認めたが、これは「技術的な問題」にすぎないとか「会計は見方によって違う」などとまるで他人事のような態度で、真剣味が全く感じられなかったのであった
    。しかし、実際には東芝はその後設置された第三者委員会が2010年3月期から2014年3月期迄の決算を精査したところ不正な経理は2008年4月から2012年〜2014年12月迄に広がっており、第三者委員会は「利益の水増しなどが経営判断で行われていた」「いくつかの案件は経営トップ自らが見かけ上の利益かさ上げを目論んでいた」と、まさに「組織ぐるみの不正」である事を指摘し、その水増しの総額は実に税引き前の利益で1,518億円に及んでいたと指摘し、経済界に大きなショックを与えたのであった。
    第3節 「巨額損失を海外ファンドの増資で解消」
      有名なからくり人形を発明した田中儀右衛門の起こした電信会社に、ルーツを持つ東芝は、その後も日本経団
    連会長を何度も出した文字通り日本を代表する名門会社であるが、何故このような体たらくとなったのか、経過については2017年3月29日付けの金言(第56号)「名門東芝の脱線転覆」で詳しく述べたのであったが、このような状況に追い込まれ、東芝としては、なり振りかまわず会社の存続をかけて大合理化に踏み切ったのであった。すなわち成長分野の医療機器子会社や白物家電会社などを約1兆円で売却し、債務の穴埋めをこころみた。また成長部門の半導体メモリー会社を分社して、日米韓連合へ2018年6月に2兆円で売却している。一方で東芝は資本の充実を早急に迫られていたのである。すなわち一時債務超過により上場廃止寸前にまで追い込まれた為6,000億円にも及ぶ資本充実に取り組んだのであった。具体的には2017年12月に第三者割当増資を目論んだ。しかし国内外の金融機関を始めとして筋の良い資本の出し手は見当たる筈はなく、東芝は苦境に追い込まれた。従って東芝に対してこの時点で資本の供出に応じたのは、一くせも二くせもある60社にも及ぶ海外ファンドが中心にならざるを得なかったのである。すなわちエフィッシモ、シンガポールの3Dインベストメント・パートナーズ、米サード・ポイント、米サーベラス・キャピタル・マネジメントなどで、これらは「物言う株主」として前々から云われてきた連中であったが、それらに頼らざるを得なかったところに東芝の現在の苦境がある。

    ■第二章「異例の事態となった東芝の株主総会」

    第1節「経営陣へのアクティビストの不信」
      ここで東芝に「お家騒動」ともいえる事態が発生する。すなわち英投資ファンドのCVCキャピタルパートナ
    ーズが買収を仕掛けてきたのである。2018年4月から経営危機に陥っていた東芝の再建に努め、本年1月経営危機以来東京市場2部に転落していた東芝を第1部に復帰させた立役者が車谷前社長、CEOであった。しかし、TOBをかけてきたのが車谷氏の古巣であったこともあり、社内外から猛烈な批判を受け辞任せざるを得なくなり、前社長の綱川智会長が社長兼CEOとして経営トップに返り咲いたのであった。
      「物言う株主」といわれるアクティビストから解任要求を突きつけられた末、TOBによる上場廃止、しかも
    主導したCVCが車谷氏の古巣であったため社内外から強い批判が寄せられ、特に今回社長に返り咲いた綱川氏にとっては許しがたいものがあったと思う。
      上記のような不祥事の中にもかかわらず、アクティビストを含む60社に及ぶ、海外ファンドに対する増資を成功させ東芝の上場維持を成功させた車谷氏が、一転してTOBによる上場廃止を進めたのであるから、これは東芝プロパーにとっては越えてはならない一線だったであろう。しかし車谷氏とアクティビストとの関係はかならずしも悪いものではなかった。車谷氏はアクティビストと融和を図るため有力半導体子会社の東芝メモリ(現在キオクシア)を売却した際、売却益9,700億円の内7,000億円を自社株買いに回し、東芝の株価を上げている。その他海外アクティビストの要求による外国人社外取締役を受け入れている。そのような車谷氏の努力を無視してアクティビスト達は車谷氏の解任を強く求めたのであった。
      当然車谷氏としては対抗策としてTOBの実施により上場廃止を図り、彼等を締め出した後に自分の考える成長戦略を実施しようとした。しかし、TOBが自分の古巣であったため、肝心の東芝プロパーからそっぽを向けられてしまったのであった。
      このような背景のもと開催されたのが2020年7月の株主総会であった。この総会ではエフィッシモと3Dが自ら推薦する取締役を選任するよう株主提案が行われたが、株主提案は32%〜44%の賛成で否決された。
    第2節「アクティビスト側は役員選任案に異議を表明」
      そこで前に戻るが2020年12月にエフィッシモが調査を要求して臨時株主総会の開催が請求され、21年3月に臨時総会が開かれ2020年7月の総会を調査する議案が賛成多数で可決され、3人の弁護士が選任され調査が始まったのであった。このような情勢のもとで東芝の2021年の定時株主総会が今月25日に開催される。アクティビスト側は、10日に公表された外部弁護士による調査報告が、昨年の総会運営は「公正でなかった」という指摘に基づき社外取締役や大株主が会社側の提案する役員選任案に異議を表明し、会社側も先に述べたように一部の候補者の変更を行った。
    第3節「調査委員会の報告書を受けた東芝の対応」
      さて調査委員会の報告書では、前にも書いたように東芝と経済産業省が一体となりエフィッシモや一部株主に不当な圧力をかけたと認定しているのであるが、ここで問題となるのは東芝の監査委員会が同様の申し立てを受けて1〜2月に実施した調査では「不当な関与を認めるべき情報はなかった」としている事である。一方10日に公表された調査報告書では「経産省と通常以上のコミュニケーションと情報要求があった」という事で、社外取締役2人から強く要求があった事実を記載すべきだとの要求があった事が明らかにされている。
    さてこの報告書を受けた東芝の対応は次の通りである。
  • @ 報告書の指摘を真摯に受け止める。
  • A 第三者を含め真相究明責任の所在を明確化する。
  • B 監査委員長(元新日本製鉄常務)太田順司氏と監査委員(元三井物産副社長)山内卓氏の両名を取締役候補から外す。
  • C 福原正恭副社長と加茂正治執行役上席常務を退任させる。
  • D 福山寛執行役員上席常務と谷川史執行役員を執行役に新たに任命する。
  • E 外部の第三者参画を得て真因真相の究明を行い責任の所在を明確にするとした。
  • 第4節「コンプライアンス意識欠如と認識の甘さ」
      さて今回の事件で一番注目されるべき事は東芝と経済産業省との緊密な関係である。社外取締役で、かつ取締役会議長の永山治氏(中外製薬名誉会長)は、東芝と経済産業省との緊密な関係について、永山氏はコンプライアンス(法令順守)意識の欠如と総括し「取締役会全体として重く受け止めている」とし、報告書が20年7月の総会を巡り「経産省といわば一体となり株主提案権の行使を妨げようと画策したり、一部の海外投資家に不当な圧力をかけたりした」と認めている。すなわち法令順守に反しかねない行為の存在を認め、原因調査を進めガバナンスの強化に取り組むとしている。しかし総会運営に関する調査については前出の筆頭株主であるエフィッシモが株主提案として要求、21年3月の臨時総会で承認可決されたものであるが、東芝は調査を実施し「問題なし」としていた。永山氏は経験豊富な経営者である。それにもかかわらず、とおりいっぺんの言い訳に終始しているのは誠に見苦しい。日本経済新聞の東芝取締役会議長としての一問一答を読むと、2020年7月総会は公正に運営されたとは云えず、当時の東芝の対応を謝罪している。また物言う株主「アクティビスト」に対して正面から向き合わず、経産省と一体となりその排除に動いた点は、特にコーポレートガバナンス上の問題であると認めたのであった。東芝については数々の不祥事にからみ、あらゆるコーポレートガバナンス改革を進めてきたのに未だになお混乱が収まらなかったという疑問について、永山氏は今回の調査報告書の内容は重く受け止めている。経産省との関係についても東芝担当者の法令順守意識の欠如を認めざるを得ない。今後監督機能を十分に発揮できるようその強化に努めたい。監査委員会による調査報告書に対する意見をどう評価していたかを問われると、「当時は内容に疑問を感じていなかったので妥当と認めていた」との弁明があった。取締役会議長としては余りにも甘い処理としか思えない。
      監査委員会の今後のあり方については、東芝内だけの調査では客観性に欠けるので第三者の目が入る形で調査を行うと云っているが、今更何を云っているのか余りにもいい加減なのではないかと思う。
      自身の今後について問われると、よく逃げの方向で使われる言葉であるが、「辞任すべきという意見があるのは知っているが事業を出来るだけ早く正常化するため全ての責任をはたさなければならない」とかわし、25日の株主総会で進退が問われたことについては認めている。
      数々の問題をひき起こした再建中の会社の取締役会議長にしては余りにも軽すぎる発言としか私は受け取れなかった。これでは東芝再建の前途は暗いと思うのは私だけではあるまい。

    ■第三章「コーポレートガバナンスの強化」

    第1節「「改正外為法」を盾に圧力をかけた経産省」
      ところで、今回問題となっている経済産業省が盾としている「改正外為法」に触れておきたい。これは安全保障上重要な日本企業への外国資本の出資を規制する法律である。事前届出の対象として財務相や経済産業相がその内容を審査する。すでに出資している日本企業に対して、重要事業の売却や役員の選任を提案する場合なども事前届出する必要がある。改正法は2019年11月に成立し、2020年5月に施行された。これによると、従来外国の投資家が上場企業の10%以上の株を保有する際に必要であった事前届出の対象は、1%以上と重くした。今回の株主側弁護士の報告書によると、東芝はエフィッシモが物言う大株主として行動するのに手を焼き、今回も総会において独自の取締役選任案を提案し、会社側提案に反対する事が予想され、これを阻止するため経産相に相談した節がある。東芝が目をつけたのがこの「改正外為法」で、東芝は自社が国家にとって重要企業である事を背景に経産省に支援を求めたのであった。これを受けて、経産省は東芝に「申し入れ書」の提出を求めるようアドバイスして、その申し入れ書に基づき経産省の担当部署がエフィッシモに対して、投資の目的などを尋ねる報告書徴求を行っている。又並行してエフィッシモを直接呼び出し会談している。それと同時に同じ物言う株主である3Dインベストメント・パートナーズに対し牽制している。又自社株買いによる株主還元を求めたハーバード大学の基金運用ファンド(HMC)に対しても圧力をかけている。その結果HMCは東芝への投資から撤退している。
      このように実態は、改正外為法を盾にとった経産省がエフィシモに圧力をかけたのは事実であろう。
    第2節「今回は安全保障に直接関わる問題ではない」
      梶山弘志経済産業相は15日に記者会見して、昨年7月の株主総会に経産省が介入したとする報告書の指摘は当たらないと主張した。即ち、安全保障にかかわる東芝に対して経産省が個別対応したのは「政策として当然」で同省は新たな調査は行わないと云い切っている。これについては裁量行政であるとの非難もあるが、むしろアメリカ等に比べ日本は裁量の幅が狭いという反対意見もある。なるほど東芝は原発や半導体、防衛産業を手掛けており国家防衛において重要な企業である。しかし今回は人事問題が大きなウェイトを持つが、これは安全保障とは直接関係あるまい。政府の強引な介入は安全保障には直接関わる問題とは考えられない。
    第3節「「物言う株主」との共有共生の時代」
      現在物言う株主と云われている海外ファンドは今から20年前に横行した保有株を企業に強引に買い取らせる「グリーンメーラー」のレッテルを貼られて日本市場から退場を余儀なくされた米スティールパートナーズなどとはすっかり姿が変わっている。現在は2008年の金融危機後に大量の資金が流れ込み運用の規模も大きく膨らんでいる。又プレーヤーが増加した事により競争も激化して、さらにファンドとして洗練され、会社の中身を理解した上事業再編などの改革を迫るようになってきている。むしろ日経新聞に指摘されているように「物言う株主の目線は大半のケースは他の機関投資家となんら変わりない」のではないか。そうとなればこれからの時代は物言う株主との共有共生の時代に入ってきたという考え方も、あながち否定出来ないのではないか。
      今回の東芝の事件がおきたことは、折角コーポレートガバナンス不在の国日本と云われてきた状況から、ようやく一歩も二歩も前進してきた我々にとってはなはだ残念なことではないだろうか。

    ■おわりに

      実は、この稿を書き終えたのは、総会の当日であった。総会では予想していたことではあったが永山治取締役議長ら2人の社外取締役の再任案が否決された。永山氏は有能な経営者ではあったが、結果として物言う株主の提案を昨年の総会において経産省と一体となって妨害したと外部の調査によって指摘されており、しかも社内の監査委員会は、問題なしとしていた。このような企業統治のいわば根幹にかかわるような問題を取締役会が見過ごすようでは、いくら有能といわれる議長でも罷免は当然であろう。それに東芝のここ数年の迷走には物言う株主だけではなく一般の株主も愛想をつかしているのが本総会の結果ではなかろうか。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年5月20日 金言(第106号)
    東京オリンピック・パラリンピックは中止すべきである

    ■はじめに

      東京と関西の4都府県に、3回目の緊急事態宣言が発令された4月25日から5月7日ですでに2週間となるが、この間新型コロナウィルスの感染拡大は連日記録を更新する状況が続いており、加えて感染力UPが6割とも7割とも云われている変異株「N501Y」に急速に置き換わっている可能性が論じられており、このまま推移するならば、抜き差しならぬ状況に追い込まれることは必至となってきた。

    ■第一章 「新型コロナウイルスの感染拡大」

    第1節 「緊急事態宣言の延長に追い込まれた状況」
      そもそも第3次の緊急事態宣言を発出するにあたって専門家の間では、4月25日から5月11日迄のたった
    17日間で事が運ぶとは誰も考えておらず、冷ややかな目で見ていたのではなかったか。政府は酒類を提供する飲食店や大型の商業施設などに休業を要請するなどの厳しい措置によって、大型連休(GW)中の「短期集中」による感染抑止を狙ったのであったが、同じような対策をずるずると国民に要請するだけでは大きな効果が発揮される見込みはなく、大きな感染抑止効果が得られる筈はない。我々素人が考えても何のための緊急事態宣言であったのか、疑問視されているのである。
      とうとう5月6日政府は、東京や大阪など4都府県に発令中の緊急事態宣言を延長することを決めた。すなわ
    ち酒類を提供する飲食店や大型の商業施設などに休業を要請するなどの処置は、あまり狙ったほどの感染抑止効果が得られず、対策は文字通り不発となり、この間新しく登場した変異株は関西を中心として猛威を振るい始め
    、ずるずると宣言延長に追い込まれたといってよい。
      今回の宣言は4月25日から17日間の予定で発出され、1月の宣言では感染防止対策として「飲食店への規制」を柱としていたのに対して、百貨店などの大型商業施設などの休業で感染拡大防止につながる「人流の抑制」を狙ったところに特徴があったが、分科会の専門家の多くが「短期間では効果が出ない。せめて3週間以上やるべきである」という意見に対して、それでは日本経済に対するダメージが大きすぎると懸念した首相官邸が「長期休業要請は国民の理解が得られない」として無理やり押し切った経緯がある。実際に政府の見解としては、人流は一定程度抑えられたとみているが、それは顕著とは言えず感染者の数は依然増加傾向が続いている。さらに専門家によると5月6日の新規感染者数に関しては重症者数、死亡者数が急速に増加しており、文字通り関西を中心に医療崩壊に追い込まれているのである。
    第2節 「医療崩壊の深刻な状況」
      だいたいコロナウィルスが現れるまで、我が国の医療は人口千人当たりの病床数は先進国最大で、医療体制は
    万全であると誇っていた。ところが現状では重症者用のベッドは不足して、重症者の入院が出来ないという誠に情けない状況下にある。大阪では救急車の中で48時間も待機させられるなど全く日本の医療は崩壊状況下にある。ワクチン接種率も先進国では最低である。これは単に医療や衛生問題に限らず、日本の国家体制に欠点があるのではないかと指摘する向きもあり私も同感である。これは戦後、人権を重視しすぎて極度に国家権力の介入を廃するという事が行き過ぎた結果ではないのか。コロナが発生してから政府為政者のやっている事はこの1年間同じ事の繰り返しで、只々国民にお願いするという事に終始している。これでは何の解決にもならないと思うのである。このような状況の中で問題となるのが、この7月23日から8月8日迄の間開催される東京オリンピック、また続いて行われるパラリンピックである。
      今回の緊急事態宣言が専門家の意見を無視して、たった17日間の予定に設定されたのは、5月17日、18
    日の両日国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が広島で行われる聖火リレーを視察するため訪日する事に、予定を合わせたとしか思えない。おそらくバッハ会長来日迄に宣言を解除したかったのであろう。新しいウィルスが発生していなければ、ある程度この期間内に感染者は減少していたかもしれないが今回はそうはいかず、連休の人流は昨年比倍増となり、深刻な状況に陥っている事はご承知の通りである。
      このような情勢から菅首相は、緊急事態宣言の解除とバッハ会長の来日は全く関係ないと言い張る一方で、自
    民党の二階幹事長は「これ以上とても無理だということだったら、もうスパッとやめなければいけない。蔓延させたら何のための五輪かわからない」と言い出し、尾身政府コロナ分科会会長も「関係者がオリパラの『開催の適否』をしっかりとやるべき時期だ」と述べている。一方野党は、「日本人の命と五輪のどちらを優先するのかという話になる」と主張する。今回の宣言延長にからんで五輪開催の懐疑論は今後高まると思われる。
    第3節 「ワクチン接種が遅々として進んでいない現状」
      首相は新聞報道によれば「五輪の中止とか延長は私が決める事ではない。決定権はIOCにある」とIOCに
    下駄を預ける姿勢も報じられており、首相自身に一抹の迷いが生じているのではないかとされている。しかし、正直に云って第3回目の非常事態宣言の内容については過去2回に比べて何等目新しさはない。只々飲食店や百貨店等の人の集まりやすい場所に制限を加えるだけではないか。ここへ来て政府が頼みにするのはワクチンの接種効果だけではないのか?そのワクチン接種たるや遅々として進んでいないのが現状である。ワクチンについてはこの稿では詳細は割愛するが、かつて我が国はワクチンに関しては開発を含め先進国であった。一時は欧米にその技術を教授していた程であったが、戦後ワクチン公害がいくつか発生し、それが国の責任とされそれ以来ワクチン開発、接種に厚生労働省は消極的となり今回のコロナウィルスのワクチン開発についても欧米に大きく遅れをとってしまったのであった。従って今回もアメリカのファイザー、モデルナ、ヨーロッパのアストラゼネカ社のワクチンが当面対象となる。最近塩野義製薬のワクチンがようやく治験にまでこぎ着けたが未だ当分実用化迄には時間がかかると思われる。
      さて、国内の接種状況であるが、欧米先進国に比べて遅れに遅れているのが現状である。先ず医療従事者の接
    種から先行するのであるが、2月17日から対象者約480万人への接種を開始したが5月10日現在431万8,682回(2回接種するのであるがその合計)続いて4月12日から高齢者約3,600万人を対象とした接種が始まったが、5月10日現在わずか415,814回に止まっている。連休明けからファイザーを中心とするワクチンは予定通り入荷する模様であるが、現状では関係省庁、地方の段取りは極めて悪く、ワクチンの打ち手が十分に確保されていないため、菅首相は1ヶ月100万回を目標とすると発言しているが、とてもオリンピック開催迄にどれだけ接種が完了するのか心許ないものである。

    ■第二章「オリンピック開催の実情」

    第1節「オリンピックの再延期、中止を考えていないIOC」
      このような状況の中でオリンピックの開催について再延期、中止の声が高まってきている。はたして本当にオ
    リンピックが予定通り開催できるのか、これについて日本オリンピック委員会(JOC)の関係者は次のように述べている。「はっきり言えるのは、再延期はあり得ない。」日程的に来年は北京で冬季五輪が開催されるし加えてサッカーのワールドカップが開催される。さらに再来年となるともう次の2024年パリ大会まで残り一年となり、IOCが日頃から標榜している殺し文句「4年に1回の祭典」という大会ブランドが失墜してしまう。したがって誇り高いIOCが自らそのような手段に出る事は考えられない。それでは中止はどうであろうか?作家の本間龍氏は次のように述べている。「IOCも日本政府も五輪中止は考えていない。IOCが東京での開催中止という前例をつくればその半年後に迫っている北京冬季大会の中止も現実味を帯びてくるので、それだけは避けたいと考えている筈である」
    第2節「オリンピック開催契約はIOCに有利な片務契約」
      一方日本側から中止を要請するのは難しいとされている。IOCと東京都の開催都市契約の文書には「戦争状態、内乱、ボイコット、参加者の安全が脅かされる場合に中止できる」としている。コロナの感染拡大はまさに「参加者の安全が脅かされる事態」に相当するが、日本は中止の申し入れができるだけで、最終決定権はあくまでIOCにある。もし仮に日本から中止を申し出たらどうなるか?日本が中止を言い出せば多額の違約金の支払いが必要であるとの説が流布しているが、実際に私は条文を読んだわけではないが、そのような条項はないとの事である。ただ契約書には日本側は補償や損害賠償をIOCに請求する権利を放棄する事に加えて、第三者からの賠償請求や訴訟に応じる義務が発生するとされている。ということは、スポンサーなどから損害賠償を仮に請求された場合、日本側が補償金を負担しなければならないということで、完全にIOCに有利な片務契約である

      オリンピックマネーに詳しい後藤逸郎氏によれば、「IOCはNGO(非政府組織)でありNPO(非営利組織)であるが、自他共に許す世界最大の「スポーツ興行主」である。この20年間に収入源である放映権料とスポンサー料を3倍以上につり上げ、特に高額な放映権料を支払う米国の放送会社NBCに配慮して、同国で人気の高い競技が同国のゴールデンタイム(午後8時〜11時)に生中継出来るよう、開催国の意向を一切無視して日時を強引に変更する(今回東京大会も日本で一番暑い8月となった)など、きわめて傲慢な五輪運営を続けているのである。
    第3節「コロナ禍で「近代五輪の矛盾」が露呈」
      現在も多くの国々で新たなコロナ患者が増え続けており、五輪の予選さえ実行することのできない国家、競技
    が山ほどある状況を考えると、本来なら当然五輪の開催は中止すべきである。しかるにIOCは未だに五輪を強行開催する姿勢を崩しておらず、肝心の開催国である我が国も緊急事態宣言下で聖火リレーを強行するなど、一体どうなっているのか。
      IOCが中止を決断するのは世界保健機関(WHO)が中止の勧告を出した場合で、IOCもそれには従うと
    云っているが、WHO自体が現在のテドロス事務局長をはじめとして腰の定まらない面々で、中止勧告など出せない事をIOCは見越して発言している。開催国の日本も最近ようやく無観客の方向に舵を切ったようであるが、チケット収入900億円を惜しんで国民の命と生活を守るべき政府は一体何を考えているのか?私は2020年5月30日付の「金言」で「オリンピックを考える」と題して東京五輪を含めて近代五輪の矛盾を論じたが、今やその通りになりつつある。
      さてあらためて、東京五輪が中止となった場合IOCの五輪収支がどうなるのかをもう少し詳しく論じてみたい。五輪の収入の内73%は放映権料であるが、夏、冬数大会ずつをまとめて契約しているので個別の収支は不明であるが、公開されている資料から内情の一端を知ることは出来る。前にもふれたように最高額を支出するのはアメリカのNBC(全米独占放映)である。IOCとNBCとの間では2014年〜2032年の大会10大会分で、1兆3,000億円の放映権料で合意している。さらにNBCは昨年3月に「東京五輪向け広告枠の販売額が1,300億円を突破した」と発表している。すなわちIOCはNBCからだけではなく多額の広告収入を得ることになる。しかし、巨額の放映権料であってもIOCが受け取るのは大会終了後である。従ってIOCは東京大会の開催にあくまでも執着し続けるが、それは日本人の命と生活を犠牲とした上で成り立つのではないか。

    ■第三章「オリンピックは中止すべし」

    第1節「政府は感染対策を優先すべきである」
      日本政府は3月21日に2回目の緊急事態宣言を解除した。これは感染者が増加しているにもかかわらず行った判断で、これは聖火リレー実施のためだと云う。何をか「云わん」である。聖火リレーは全国各都道府県を回り、出来るだけ多くの人にリレーを見てもらうというのが基本的考え方であるが、そうすれば聖火リレーの沿道で「密状態
    」が発生して、全く感染対策に反することに手を貸しているのと同じではないか。
      日本政府とIOCはようやく訪日外国人観客の入国を諦めたが、大会前に日本人の大半がワクチン接種を終え
    ることは絶望的にも関わらず、なお日本在住者の観戦を狙っている。一方で政府は緊急事態の名のもとに花見や外出、会食の自粛を国民に強要しているが、その後感染者は増え続け、冒頭に書いたように4月25日3回目の緊急事態宣言に追い込まれたのであった。それも専門家の意見を無視して、バッハ会長の来日を考えて5月11日迄の17日間としたためたちまち立往生を余儀なくされ、現在緊急事態宣言は5月31日迄延期されたが、その間従来の6都府県だけではなく周辺にも爆発的に感染者が発生したため北海道、岡山、広島が加わって、さらに蔓延防止対策地域として群馬、石川、熊本を加えて10県にまで範囲を拡大せざるを得なくなっている。
    第2節「五輪中止に伴う損害はいたし方ない」
      話は元に戻るが「金まみれ」のIOCは絶対に五輪の中止だけは避けたいと考えている。もっとも、IOCは
    夏季五輪に800億円の保険をかけているというロイターの報道が、本年1月にあった。この報道が正しければIOCは中止によって実損を受ける可能性はない。それでは日本は何を失うのかであるが、無観客ということになるとチケット収入900億円が無くなってしまう。さらにJOCとして手がけた個人観客や大会関係者のためのアプリ開発費や、運営委託費約73億円が実損となる。勿論東京大会組織委員会の運営費など準備に費やされた諸費用は損失となる。組織委員会の説明によると、1年延長したため積み増しした大会経費は実に1兆6,440億円と公にされており、これを組織委員会が7,210億円、東京都が7,020億円、国が2,210億円負担することになるが、組織委員会には負担能力がないので、東京都と国が赤字を埋めることになる。そこで、組織委員会が中止の場合生じる負担をカバーするための保険に入っているかどうかが問題となる。幸いというか今回の1年延期に関係して組織委員会は保険会社の興行中止保険に入っていたため延期に関して500億円の保険金を受け取ったと云われている。しかしもし再加入していなければ、中止に伴う損害は都と国にかかってくるので、この負担は極めて大きいのである。一説によると5,000億円と云われる。この他「コロナ発生以前においては五輪の効果は数兆円」と試算されていた。中止に伴いすべてこれ等が零となる事はコロナ禍の前にいたし方ない事であろう。
    第3節「IOCは「超世界政府」「超国家機関」ではない」
      昨年来新型コロナのためのワクチンの開発が進み、ようやく先進国を中心に接種が進み出した。しかしここに
    もいろいろと問題が山積している。富裕な国においては早々にワクチン接種に取りかかっている一方、貧しい国々ではまだワクチンの接種は行われていない。この事だけでもアスリート間に極めて大きな差別を生じさせている。又アスリートにだけワクチン接種を先行させるかについても大きな問題を投げかけている。
      IOCは過去においても、パンデミックに該当する新型インフルエンザに対して策を弄してうやむやにした。
    2009年4月メキシコで発生した新型インフルエンザは世界中に拡散し同年6月WHOはパンデミックを宣言した。その後急速に症例は減りWHOは同年8月に終息を宣言したが拙速と批判された。このような状勢の中でIOCはバンクーバー冬季大会を開催した前歴がある。この時のWHOの拙速さが、今回の新型コロナウイルスのパンデミック宣言の遅れにつながっているという批判がある。本東京大会についても彼等は出来るだけ判断を先送りして、安全性の根拠を示さないまま開催を頑なに主張して、新型コロナが消える事を期待して、IOCの切り札として考えている無観客大会を強行しようとするのではないか。
      IOCは「超世界政府」でも「超国家機関」でもない。前々からの事であるが、メンバーそのものが金まみれ
    の腐り切った存在であり、クーベルタンの頃からヨーロッパの王侯貴族の属する特権階級のサロンと云って差し支えない。はっきり云ってヨーロッパ中心の特権思想に染まったある意味で人権差別主義、優生思想、女性蔑視思想の集団である。早い話クーベルタン自身、1936年のベルリンオリンピックの大成功にすっかり感激してヒトラー崇拝者となったのである。現在のバッハ会長もドイツ貴族で、鼻持ちならぬ人物である。彼等はオリンピック憲章を重視すると云いながら全く反対の事をやっている。例えばオリンピック憲章57条には「IOCとOCOG(組織委員会)は国毎のランキングを作成してはならない」とうたっているにも関わらず、別会社発行の冊子で各国のメダル獲得数を堂々と発表したりしている。この会社の社長がバッハ会長である事は語るに落ちると云ってよい。

    ■おわりに

      その他、ほんの些細なことで黒人選手をオリンピック村から追放したりしている。その一方中国の政治的な中
    立やオリンピック憲章違反には全く鈍感である。IOC委員の賄賂受け取りは後を絶たないことも大問題である
    。日本政府もこのような現状を直視してこの際よく考えなければならないと思う。政府が守らなければならないのは「国民の生命」「国民の生活財産」である事は決まりきった事ではないか。このまま無観客で五輪を強行しても、選手その他関係者は約10万人が入国してくるであろう。国民に対して未だワクチン接種は緒についたばかりで、各種の変異型が入ってくるならば国民の健康はどうなるのか。ましてや日本のウィルスに対する「管理、
    水際対策」は世界一甘いと云われている。これは我が国が憲法22条において「公共の福祉に反しない限り居住、移転、職業の選択の自由が保障されている」として、国としての強権力を発揮する事が出来ない点にあると云われているのであるが、このような甘い野放しの水際対策がとられている限り到底新コロナ感染者の減少は進まないであろう。オリンピックの強行が、我が国を抜き差しならぬ状況に追い込む事が心配である。私が昨年「金言」において危惧したとおりに、近代オリンピックは進みつつある。
      最後になるがいろいろと政府の新型コロナ対策には問題があるが諸外国に比べて感染者数などで決して多いわけではない。過日嘉悦大学の高橋洋一教授が我が国の状況は「さざなみ」であると評して物議をかもしたが、これはあながち間違いではない。立憲民主党や共産党などの野党は全面的に政府の新型コロナ対策をあげつらい、オリンピックの問題とからめて政局にしようとしているがこれは全く間違った考え方である。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年4月26日 金言(第105号)
    過密首都東京を考える

    ■はじめに

      今回の新型コロナウィルスの感染拡大に関して、政府が初めて緊急事態宣言を発令して早4月7日で1年を経過した。しかし今も止まらない新型コロナウィルスの感染拡大は、現在の日本の統治システムの弱点を浮き彫りにしているのではないかと思うのは、私一人だけではあるまい。

    ■第一章 「日本の統治システムの弱点」

    第1節 「緊急事態に対応出来る法の不備」
      我が国は国家を揺るがすような緊急事態に対応出来る法整備が、全くといってよい程なされていないのである。今回のウィルス蔓延に対しても、国としての危機意識を踏まえての行動が全くといってよい程不完全なのである。詳しく云うとデジタル化の遅れや、国と地方の曖昧な責任と権限、そして既得権が行政の臨機応変な対応を妨げた上、政治主導とは掛け声だけで全くといってよい程機能していないのである。一般に官僚は当然既存の法律や制度にとらわれる。危機状況に見舞われた時、それを突破するのが政治の役割であるが、その政治が既得権の壁を越えようとせず躊躇するのは、毎回繰り返すお決まりのコースである。
    第2節 「強制措置を持つ海外と私権の制約に二の足を踏む日本政府」
      海外においては、非常時に強制措置をとるための緊急事態条項を持つ国が多い。アメリカは昨年3月に国家緊急事態法に基づき、国家非常事態宣言を発動して各州の政府に強制力を持つ自宅待機命令を出した。同じくドイツなどの欧州諸国においても強制力を持つ措置を実施する国が多かった。
      それに引きかえ我が国では、戦前の国家権力の介入に対する反動なのかどうか知らないが、極端に私権への制約を嫌う警戒感が強い。従って世論を意識しすぎて強制措置に出る事に、政府は二の足を踏むのではないか。これは「首相官邸主導」と呼ばれている政権でも実行できない統治の弱点といってよい。特にデジタル化の遅れ(今回のコロナ関係でも未だに保健所のファックス使用など)が目立つのである。
      ここまでは、今回のコロナウィルスによってもたらされた混乱等を収拾するためには、もっと強力な手段が必要であるという導入部である。

    ■第二章「国の機能を完全に停止させる首都東京の危険性」

    第1節「国家緊急権の規定がない日本」
      自民党は従来から我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等の社会秩序の混乱や大規模な緊急事態が発生した際には、それに対するための「緊急事態条項」を憲法改正の際に新たに盛り込むべきだと主張してきた。しかし、この憲法の改正が極めて難しいのは衆知の通りである。
      平和憲法と称する現在のアメリカによって押し付けられた憲法を、早々に改正しなければならないのは当然の事であるが、現憲法の核心である前文や9条の改正となると、頑としてこれに反対する勢力が今なお根を張っており、極端な勢力は、現憲法の一字一句をも変更は許されない。現憲法こそ「不磨の大典」であると主張している。現行では、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態が発生して、政府が平常の統治秩序では対応出来ないと判断した際に、憲法を一時停止して一部の機関(例えば内閣)に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりする非常措置をとることが認められていない。このような緊急時に秩序の回復を図る権限を国家緊急権というが、この権限の根拠となる法令の規定を緊急事態条項といい、憲法に規定している国家が多いのであって、我が国のようにこのような規定がない国は極めて珍しい存在といってよい。
      これについて我が国憲法は、国家緊急権を認めていないという否定説と、非常事態においては内閣の緊急権発動によって対応出来るという容認説があり、この点非常に曖昧である。従って憲法にこの規定を盛り込むべきという考え方があるわけである。しかし、私権の制限であるとか何とかいちゃもんをつけるのが左翼の考え方で、9条と同様これも一筋縄ではいかないのが現状である。
    第2節「日本列島で相次いで起こる大災害」
      このように法的に手足を縛られている上、日本列島がおかれている地理上の危険度合は諸外国に比較して極めて大きいのである。第二次大戦では国土が焦土となった事は別にして、戦後の75年間にどれだけ大きな災害に我々が見舞われたかは、皆さんよく御存知の通りである。直近の30年間を見ても、1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)においてはあのせまい阪神地区で、実に6,500名の死者と64万棟の住宅被害があった。さらに10年前(2011年3月)の東北地方太平洋沖地震は、三陸沖の太平洋を震源とした日本の観測史上最大規模の超巨大地震であった。日本海溝においては、北米プレートの下に太平洋プレートが沈み込んでいくのであるが、2つのプレートの境界の一部が硬く固着しているため、スムーズに片方の下に沈み込まないため歪みが発生し、長年にわたりその歪みが限界に達して固着がはがれプレート境界が震源断層となり、その断層が大きく滑り大地震が発生すると云われている。今回はその地震の大きさによって大津波が発生し、福島の4基の原子力発電所がチェルノブイリをしのぐメルトダウンに追いこまれた事は記憶に新しい。この津波は869年の貞観地震に匹敵するスケールだったと云われている。
      また昨今の地球温暖化により自然環境は様変わりしており、世界的に発生する台風のスケールも今迄とは考えられない規模、いわゆるスーパー台風化してきている。それに加えて、降水量も従来の観測史上では考えられない量が記録されており、ここ数年の各地における大水害と、それによって発生する土砂災害は各地に大災害をもたらしている。また地震については、先ほどふれた太平洋プレートによる大地震や何時起こってもおかしくないといわれている静岡県から九州エリアにかけての陸側のユーラシアプレートと海側のフィリピンプレートの境界にあるプレート摩擦によって生じる南海トラフ地震は脅威である。
    第3節「最も心配される首都東京の大災害」
      もっと心配なのは何といっても首都東京における直下型地震である。同地震は1923年(大正12年)に相模トラフによって引き起こされた首都東京を中心とする直下型地震で、南関東及び隣接地に大被害をもたらした事はよく知られていることで、190万人が被災し実に10万5,000人が死亡、行方不明となった。建物の被害は主として倒壊と火災で21万2,000棟にも及んだのであった。1923年からすでに約100年経過しており、まさに何時襲来してもおかしくない状況である。当時と今では、人口も大きく増加しており新幹線や自動車の激増など当時とは比較にならない状況にある。建物の耐震化も進んでいるとはいえ今なお不十分であり、東京の過密化は言葉では到底云いつくせない。関東大震災と同じスケールの地震が起こった場合その影響は計り知れない。
      さらに、そのような事はありえないと思っているのが富士山の噴火である。皆さんは東海道新幹線に乗車して東京に向かう時、富士駅を通過してしばらく進むと左側に見える美しい富士山の山容の東側に、まるで富士山に不均衡の美を与えるかのように噴火口をはっきりと見ることが出来る。これが300年前の1707年(宝永4年)の宝永の大噴火の跡である。記録によると噴火は半月続き、マグマの量は史上2番目だったと云われている。火山灰は、地元はもとより江戸、そして房総半島などにまで及び大きな被害をもたらした。また地震学者が懸念しているのは、この宝永噴火は、南海トラフにおいて、同じ1707年に起きた「宝永大地震」の49日後であったため、東北の大地震と関係づける考え方もあり、大地震と富士山の噴火とはあながち否定できるものではない。すでに前回の噴火から300年以上経過しているのであるから突然起こっても何等不思議ではない。江戸時代と違ってもし大噴火が起こればその影響は想像するだけでおそろしいものである。また南海トラフによる地震が発生した場合、関東地方も無傷ではすむまい。東京湾を襲う津波も考えられる。このように首都東京をゆるがす大災害が起こった場合、現状では我が国の機能が完全に停止してしまうことは明らかである。

    ■第三章「首都機能の移転」

    第1節「繰り返される移転計画の経緯」
      政府も第二次大戦以降1960年(昭和35年)頃から何度も東京都区部に立地する政府機能(立法・行政・司法の各機能)を東京から移転させようと計画してきた経緯がある。特に河野一郎氏が建設大臣であった時、この首都機能移転に熱心であったが、河野氏が急死したため挫折してしまった。しかしその後バブル景気が訪れ東京の地価が高騰した事もあり、首都機能移転論が再び再浮上した。そして堺屋太一氏などの論客らが強力に主張するようになり、地方自治体の首長や議会においても首都機能移転を推進する動きが活発となった。1990年(平成2年)には衆参両議院において「国会等の移転に関する決議」がなされ、「首都機能の移転を検討する」という基本方針が確認されたのであった。そして1992年(平成4年)にはこれを裏付ける法的措置として「国会等の移転に関する法律」が成立し、この法律に基づき候補地の選定などの準備作業に入ることになった。
      さらに1995年(平成7年)に地下鉄サリン事件という前代未聞のテロ事件が発生し、また兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)がおこり、災害やテロ行為による都市機能の麻痺や危険性が強く認識されるようになり、首都機能の分散・移転論が一気に盛り上がったのであった。そして1999年(平成11年)に「国会移転審議会」が移転の候補地を次の三地点選定した。具体的には
  • 1.北東地域の「栃木・福島地域」
  • 2.東海地域の「岐阜・愛知地域」
  • 3.三重県、京都府、滋賀県、奈良県に囲まれた「畿央地域」
  • この案が公になると当初誘致合戦が相当熱をおび展開されたが、途中から沈静化してしまう。これは土地バブルが崩壊して地価が大幅に下落したことによる悪影響が深刻化したため、移転はこれに拍車をかけるとして急ブレーキがかかったためであった。さらに官のやる事は矛盾しており、移転論がある中で首相官邸や総務省、外務省などの庁舎が次々に建て替えられ、さらに移転賛成論者であった石原慎太郎氏が東京都知事になる前、移転絶対反対に転じたため移転論は立ち往生してしまった。
      さらに移転そのものには反対でなかった小泉純一郎氏も2001年(平成13年)に首相になると、在任中にはこの問題を凍結すると宣言したため、この問題は以後事実上凍結状態となり、移転候補地の地元議員達によって結成されていた「首都機能を誘致する会の議員連盟」は全て解散してしまった。
    その後首都機能移転から道州制へ政策転換が図られため、この問題は頓挫してしまった。しかし2011年(平成23年)3月に東北地方太平洋沖大地震が起こると、東京都内でも「帰宅困難者」の大量発生や計画停電の実施にともなう首都機能の麻痺から当時政権を担当していた民主党の無能、無力も手伝って肝心の被災地支援が円滑に行われないという事態が発生した。そのためここにおいて東京一極集中化の弊害が改めて認識され、かねてから大阪都構想を提唱していた当時の大阪府知事橋下徹氏など、関西の知事らが首都機能の関西移転について活発に発言し、超党派の「危機管理都市推進連盟」が発足して東京を「首都」大阪を「副首都」とする方針などが活発に議論されたがその後議論は尻すぼみに終わり、国土交通省においてはこの問題を積極化しようとする動きは停滞したままとなっている。その後も地方自治体では経済の低迷に加え、相変わらずの東京一極集中への不満は根強く、中央省庁においても一部の機能を地方へ移すことが模索された。この結果ようやく文化庁が京都市に令和4年(2022年)に移転を完了することになった。
    第2節「「災害への対応」のための首都機能の分散」
      私は、今迄述べてきたようにこの大災害の巣窟である我が国においては、「災害への対応」のため首都機能を分散させることは、早急に進めなければならないと思っている。そのためには国会の機能を東京だけではなく別の場所、例えば大阪などに移すことが喫緊の課題だと考える。先にも述べたように首都東京の危険性についてはいろいろと論じられ、具体的なシミュレーションも様々な形で発表されている。繰り返しになるが直下型、プレート型あるいはその双方が同時に襲来することもあるわけで、その危険度合は海外の首都と比較して桁違いに大きいものがある。海外の保険会社においては、東京はほとんど保険もかけられない程大きな危険をはらんだ都市と認定しているのであるが、このことを知っている人は少ないのではないかと思う。かならずしも十分ではないと思うが民間企業、特にグローバル展開している企業はこれに対する何等かのバックアップの措置を講じているのに、政府は何等具体的な措置をとっていない事は誠に信じられない事である。
      ある専門家は首都機能の移転に関して、臨時国会を例えば大阪か名古屋で開催する事を提案していた。具体的には「大阪府議会や愛知県議会の議場」が使用されていない時にそこを借用して、小規模でよいから臨時議会を開く。そうすることによって国民に「矢張り東京はいろいろな問題を抱えているのだな」ということがわかると同時に、議会を開くという事は、国会議員や官僚も一緒に行動することになるので、そこで各種のシミュレーションやいろいろな実地訓練が出来るわけで、いざ不測の事態が起きた場合どこにおいても閣議や国会を開ける状況にしておけるのではないかと思う。これは国民に対して、政府は国民を守るために確固たる手を打っているという認識を植え付ける事になるわけで、これこそ国民にしっかりとした安心感を与える事になる。と主張していた。
    第3節「歯がゆさを感じる政府の危機感の欠如」
      さて一般に首都機能移転には「一極集中の是正」「国政改革」「災害への対応」の三つがあるとよく云われている。その内「一極是正」はとても無理な話である。何となれば現在の東京都だけでも1,000万人以上、首都圏だけでも3,000万人の人口をかかえている。仮に50万人の新首都をつくっても、あるいは10万人の国会都市をつくってもそれではとても解決にならない。
      ブラジルの首都はブラジリアであるが、この人工都市は、内陸部と沿岸部の格差を是正する目的で20世紀の半ばにブラジル高地の真ん中につくられた人工都市で、従来の首都リオデジャネイロから1960年に遷都したのであるが、現在は人口約250万人弱をかかえる大都市となっている。しかし貧富の格差是正のためにつくられた新都市ではあったが、この都市を建設するためブラジルは大変な財政的な疲弊を被ったと云われている。私は何回かブラジリアを訪問したが、驚いたのは国会中にしか議員は在住せず、普段はリオに居住しているため閑散としている。立派な近代的な建物が多数建っているが、この移転は失敗例であろう。少なくとも我が国の参考にはならないと思った。
      次の課題である「国政改革」は御承知のように国会を1日開くと1億円かかるのであるが、この無駄を省くためと首都機能移転の存在とは別問題と思っている。結局「災害への対応」これこそが我が国に対して課せられた喫緊の最重要課題である。しかるに先にも述べているように、この重大な問題に政府は何等真剣な取り組みを行っていない。我が国を取り巻く状況は極めて難しい局面の中にある。それにもかかわらず政府機能の移転一つとっても最近ようやく先の文化庁の京都移転が実現したに過ぎない。これではお茶を濁しているとしか思えない。私は大変恐れ多い事であるが、現在の立憲政治における国民の象徴である天皇陛下に是非、京都に戻って頂くのがよいのではいかと思い識者に聞いてみたが、矢張り国民の象徴として外交関係の御仕事も多く難しいとの事であった。
      以上今回は長年に亘り問題となっている首都機能の移転の問題について述べさせて頂いたが、今すぐそこ迄迫っている危機に対して何等手を打たず構えている政府に歯がゆさを感じているのである。このままでは一朝事ある時は国家壊滅である。

    ■おわりに

      余談になるが首都機能移転問題とともに日本国にとって最重要課題は、天皇家にまつわる皇位継承問題についてである。平成上皇は2019年「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づき御譲位されたが、その際衆参両院の委員会において政府は、「安定的な皇位継承を確保するための諸課題」について速やかに検討して国会に報告することが付帯決議されたが、その後一向に前に進まず、今般ようやく「安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会議」が設置され具体的な検討がなされることになった。前向きな検討がなされ天皇制の安泰化が図られるよう願っている。この問題については機会があれば是非論じたいと思っている。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年3月26日 金言(第104号)
    夫婦別姓(別氏)について(選択的夫婦別性,氏)

    ■第一章 「あらためて問われる夫婦別姓問題」

    第1節 「森会長の問題発言が契機」
      2月3日、東京オリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(元総理)が臨時評議会において、「女性がたくさ
    んいる理事会は時間がかかる」「女性は競争意識が強いから誰か一人発言すると自分も云わなければと次々と発言する」と、取り方によっては、女性を蔑視する発言をしたとして大きな問題となり結局会長を辞任せざるを得なくなったことはご承知の通りである。森氏を弁護するつもりは毛頭ないが、実は私が日本紡績協会の会長を務めていた時、社長をしていた会社の工場が石川県の美川町にあり、森氏は、この町の隣町の出身であったこと、また繊維関係の政治的な事項に相談に乗ってもらう議員の一人でもあったため、当時何回か直接お目にかかって
    、いろいろとお願いした事があった。又繊維産業連盟の会などでも何かとお世話になった。森氏の座談はとにかく面白い。いろいろな方面に通じていて次から次へと話を展開される。それが又軽妙でユーモアに富んでいるので聞く方にとっては時間を忘れるかのようであった。今回の件も雑誌正論4月号に詳しく出ているが、必ずしも女性蔑視を正面から行ったわけではなさそうで、一部のマスコミがその部分だけを切り取って、オーバーに書き立てたきらいがあるのではないかと思う。
    第2節 「森氏の人柄」
      さて森氏とのお付き合いはほんの短い間であったが、彼の記憶力の良さに驚いた事があった。紡績協会の会長
    を辞めてから十年以上たって、私は協会の経営する高等学校の運営を早稲田大学に移管する仕事を進めていた。少子化の中で私立高等学校経営が難しくなり、当時その経営に理事長としてタッチしていた私は、どこか総合大学の付属校、あるいは系属校に移管出来ないかと大変な苦労を重ねていた。結局縁あって早稲田大学の系属校になることになったのであるが、その披露パーティーが大阪のあるホテルで行われたのであった。その会場に向かうエレベーターの中で私は森氏と一緒になった。面識があったのはもう10年近く前の話であったから、後ほど会場でご挨拶させてもらおうと思っていたところ、森さんの方から私の肩をたたき、「武藤さん久し振りですなあ」と言葉をかけてもらったのには大変びっくりした。これも政治家の特技なのかもしれないが、人をそらさないこの態度には正直驚いたのであった。
    第3節 「男女参画基本法は疑問に思う」
      さて、この森問題発言を契機として男女共同参画法の目玉としてここ十年来問題となってきている夫婦別姓問
    題があらためて問われるようになった。私見を述べさせていただくと、私は夫婦別姓の基本となっている男女参画基本法なる法律には、かねてから大変違和感を持っている。男女平等は当然憲法に保障されているものであり
    、現状においては各所に男女不平等がある事を否定するつもりはないが、ことさら、あらためてこのような法律が必要だったのか疑問に思っている。そもそも男女共同参画がなければこの世の中は存在しないと思っているからである。

    ■第二章「夫婦別姓問題の経緯」

    第1節「問題の所在」
      さて、夫婦別姓とは夫婦が結婚後も改姓を行わず、それぞれ結婚前の姓(氏、名字、苗字)を名乗る婚姻及び
    家族形態、もしくはその制度を言う。これに対して婚姻時に両者の姓を統一する婚姻及び家族形態、その制度を「夫婦同姓」あるいは「夫婦同氏」という。現在盛んに論議されているのは夫婦別姓、同姓を選択できる制度「
    選択的夫婦別姓」あるいは「選択的夫婦別氏」とも云うが、民法を改正してこれを取り上げるかどうかである。我が国の民法第750条において「夫婦は婚姻の際夫又は妻の氏を称する」と定められている。又戸籍法74条において、婚姻しようとする者は「夫婦が称する氏」を届け出なければならない。例外は、国際結婚にのみ限られている。すなわち国際結婚では戸籍法107条において、外国人と婚姻をした者が、その氏を配偶者の称している氏に変更しようとする時は、その婚姻の日から6ヶ月以内に限り家庭裁判所の許可を得ないで届け出る事が出来ると規定されている。外国人には民法750条が適用されず、夫婦別姓となるが戸籍法上の届け出をすれば同氏になる(原則別氏、例外同氏という)ということである。
    第2節「旧姓の通称使用の実情」
      さて職場、職種によっては、旧姓を通称とすることは便宜上認められている。私企業は勿論、国家公務員にも
    2001年から認められている。日本の現行法上事実婚は婚姻としては扱われていないが、相続等においては近年それなりの配慮がなされてきている。
      余談であるが、この夫婦別姓とは別であるが3月17日札幌地裁である判決があった。これは同性婚を認めな
    いのは違憲という判断であった。これは夫婦別姓制度の延長線上にある考え方と私は思っているが、誤った考え方ではなかろうか。
      元に戻るが二つの名前(姓)の管理は使用者側にとって負担も大きく、認めていない職場も少なくない。この
    ため旧姓通称使用訴訟が各地の裁判所で提起されている。一方従業員側も二重の氏を使い分けるのは不便な上、通称はあくまで通称にすぎないため公文書では使用できないし、役員登記や特許出願なども戸籍上の氏で行なわれるため旧姓を使用出来ない。
      国際連合には女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約があり、我が国もこ案の条約には加盟、批
    准している。この中の第16条1に締結国は婚姻及び家族関係に係るすべての事項について、女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとして、特に男女の平等の基礎として次のことを確保するよう定められている。
      その(G)項に「夫及び妻の同一の個人的権利、姓及び職業を選択する権利を含む」となっており国連は、女
    子差別撤廃委員会は我が国の民法が規定する夫婦同氏が「差別的な規定」だとして改善を勧告している。
    第3節「民法改正案等の答申内容」
      このような背景のもとに法制審議会(法務大臣の諮問機関)は1992年以来審議を重ね、1996年2月に
    家族法の見直しを含む民法改正案要綱を法務大臣に答申した。その内容は
  • 1.世界の趨勢に合わせて婚姻年齢を18歳に統一する(2018年に成立)
  • 2.女性のみに課せられていた再婚禁止期間の短縮(2015年12月に6ヶ月から100日となった)
  • 3.選択的夫婦別姓の実現
  • 4.婚外子の相続分差別の撤廃(2013年に実現)
  • 以上の答申の中で選択的夫婦別氏実現以外はすべて実現している。しかしこの制度はまだまだ異論も多いが
    ・価値観の多様化した国民の要望である。
    ・個人の尊厳の観点から氏に対する人格利益を法律上保護すべきである。
    ・既に世界各国で許容されており、夫婦、親子関係の本質、理念に反しない。
    の三点が推進の源となっている。
    1996年法制審議会は民法改正案としてこれを法務大臣に答申している。具体的には
  • @夫婦は婚姻の際定めるところに従い夫、若しくは妻の氏を称し、又は各自の婚姻前の氏を称するものである。
  • A夫婦が各自の婚姻前の氏を定める時は、夫婦は婚姻の際に夫、又は妻の氏を子が称する氏として定めなけれ
    ばならないものとする。
  •   法務省は、2001年11月さらに2010年2月にも同様の案を再答申している。一方民事行政審議会も
    「別氏夫婦に関する戸籍の取り扱い」について次の内容で法務大臣に答申している。すなわち
    ・戸籍は夫婦及びその双方又は一方と氏を同じくする子ごとに編成する。
    ・戸籍の氏の記載は子が称する氏として定めた氏を称する者、その配偶者の順に記載する。
    ・戸籍には現行戸籍で名を記載している欄に氏名を記載する。
      これは親子、相続関係が一覧的に把握できる現行制度の利点を生かして、夫婦及び親子の戸籍編成基準の単位
    が維持されたものである。この法制審議会答申以来野党は、超党派でほぼ国会の会期毎に民法改正案を議会に提出し続けているが、未審議のまま廃案と再提出が繰り返されている。野党各党は個別に案を提出してもいるが、いずれも日本弁護士連合会の提言を参考にしたものでどの案もほぼ同じで、改正法施行前に婚姻によって氏を改めた夫又は妻は、婚姻中に限り配偶者との合意により一定の年以内に婚姻前の氏に復することが出来るといった
    、条項を加えたものなどが目立つ程度である。

    ■第三章「夫婦別姓の考察」

    第1節「夫婦別姓に賛成する人達の主張」
      さて、夫婦別姓のメリット、デメリットについて考えると、我が国においては先に述べたように男女が婚姻時
    どちらか一方の氏に変更しなれればならず、同姓、別姓の選択が出来ない。その結果改姓するのは96%女性となっており、これは男女平等の原則に反するのではないかと問題視されているわけである。また、夫婦同姓を強制しているのは先進国では日本だけで、世界的に見て夫婦別姓を選択出来る国が大半である。夫婦別姓に賛成する人達の主張はおおむね次の通りである。
  • 1.改姓することにより、本人の同一性の確認が困難となり職業、生活上の不利益を強いられる。確かに婚姻を機に姓が変わった事を周囲に認識してもらうのは面倒である。それに加えて銀行口座や免許証、保険証などを変更するには大変な手間を要する。(この点はスマホなどの活用により近年驚く程簡単になった)
  • 2.代々受け継がれてきた氏を大事にしたい。(しかしこれは通称使用もほとんど許されており、公文書への併記も可能となっている)
  • 3.一人っ子同士の男女が結婚する場合は家名存続が困難となる(個人主義の時代の考え方に逆行している)
  • 4.夫婦同姓は明治時代から引き継がれてきた「家」制度そのものであり、現在の日本国憲法下では個人の人格こそが尊重される個人主義の時代であり、氏名は人格人生と一体にして不可分のものであり、これがなくなるのは自身の喪失を意味する。(これこそ古い因習にとらわれた考え方である)
  • 5.世界の趨勢は別姓であるから明治以来の「家」制度による夫婦同姓はおかしい。(先進国においてもかならずしも同姓が強制されているわけではない。例えばアメリカでは州によって違うが同姓も別姓も認められており
    、ミドルネームとして残す事が可能な州もある。フロリダ、ニュージャージーでは両親の姓のアルファベット順による複合氏になる。ドイツでも妻の出生氏や複合氏の選択が可能である)
  • 以上がおおまかな夫婦同姓に対するデメリットとしての反対理由である。
    第2節「夫婦同姓の歴史的経緯」
      ところで名字(氏)は明治に入ってから取り入れられた制度であって、江戸時代までは武士は姓を持っていて
    名乗っていたが、庶民は名字を持っていたが公称出来なかったのであった。ところで導入当初夫婦は原則別姓であった。選択的に別姓を名乗ってよいという事ではなく、同姓を名乗ることが認められていなかったのであった。これは日本だけでなく東アジア全般に行われていた家制度が男系によって承継されていたためで、女性は、仮に結婚しても嫁ぎ先の構成員としては認められず、あくまで実家に帰属していたからである。それが現在のようになったのは明治31年(1898)にフランスの民法が取り入れられ「戸主及び家族は其家の氏を称する」となってからである。何故こうなったかというと、結婚した後も別姓のままでは誰と誰が夫婦なのかわからないためいろいろな不都合が生じ、国民側から「同性にしてほしい」という要望があったためである。そして同時に夫婦同姓とは、夫婦一体を重視した近代的な家族観に基づくもので、近代化を目指した我が国としては現在とは反対に、日本古来の家族制度を変更する必要があったため夫婦同姓を取り入れたのであった。こうしてみると現在主張されている夫婦別姓が個人の尊重とは結び付かないのではないかと思う。 東アジア、すなわち中国、韓国では今なおよそ者を家族の中に迎えることを拒否する伝統的、儒教的な家族観があって、婚家の姓を名乗れないのが普通である。かつて私も韓国や台湾に仕事でよく出かけていた頃、取引先の奥さんから「日本のお嫁さんは良いですね。旦那さんと同じ姓を名乗れて」とよく云われたものであった。夫婦同姓によって個人の人格権が阻害されるのであれば、親子同姓も同様ではないかと主張する人もいる。夫婦別姓にもしなった場合、かならず家名の存続や実家による孫の姓氏についての争いがおこるのではないか。識者によると、こうなると夫婦別姓の導入こそがかえって家制度を強化して、個人を破壊しるのではないかと心配する。
    第3節「選択的夫婦別姓制度には反対である」
      それではお前は選択的夫婦別姓をどう考えるのかという事であるが、私は最近の世論調査では別姓論が勢いを増しているように思うが、選択的夫婦別姓制度には反対である。何故なら
    1.一般大衆はこの夫婦同姓、別姓の論議を深く理解していない事が第一である。単に一部左翼マスコミの一方的な議論に盲従していると思うからである。
    2.自民党議員50名による夫婦別姓反対を求める文書によると、戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリーネーム喪失)を認める事は、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性があり、かつ民法によって守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。これは、同氏夫婦の子は出生と同時に姓が決まるが、別氏夫婦の子は「両親が子の氏を取り合って協議が調わない」などで、戸籍法49条に定める14日以内の出生届ができないことが発生するおそれがある。また、法改正により「同氏夫婦」「別氏夫婦」「通称使用夫婦」の3種類の夫婦が出現し混乱を起こすおそれがある。また夫婦の氏と子供の氏が相違するなど、これでは家族の一体感は到底保てない。
      さらに夫婦別氏推進論者が「戸籍廃止論」を唱えているが、これを実施すると戸籍制度に立脚する多数の法律は年金、福祉、保健制度等について見直しが必要となる。現在ほとんどの専門資格(士業、師業)で婚姻前の通称使用や資格証明書への併記が認められている。又マイナンバーカード、パスポート、免許証、住民票、印鑑証明書についても戸籍名と婚姻前の氏の併記が認められている。
      私は、この自民党議員団による考え方に全面的に賛成する。我が国ほど戸籍制度が整っている国は見当たらない。この制度は本当に世界に誇れるものである。この完備した戸籍制度があるからこそ現在の同姓婚が成り立っていると思っている。夫婦別姓論者は、話は飛躍するが日本古来の戸籍制度そのものをなくしてしまえという論をもしばしば展開している。戸籍制度は日本国の一体制を保っている根幹となっているもので、このような論議が広がってすべてが個人中心なる世界を指向する事は、亡国を目指すことになると危惧するものである。夫婦同姓、戸籍制度の頂点に立っているのが我が国の天皇制である。左翼の連中の最後の狙いはなし崩しに日本の伝統を突き崩して、その目的を達成しようとしているのではないかと思っている。また夫婦同姓が決められている現在の民法下においては婚姻をためらう人達が増え、これが少子化に拍車をかけていると主張する向きもあるが、少子化にはもっと複雑な原因がある。
      さて、この夫婦同姓をやめてしまう決定的な理由はない。私は当面旧姓使用(通称)の拡大を法制化して対処することが解決策ではないかと考えている。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年2月22日 金言(第103号)
    松岡洋右と大東亜戦争(3)

    ■第一章 「近衛内閣が誕生する迄の我が国の情勢」

    第1節 「華北分離工作の推進」
      1940年(昭和15年)7月22日、近衛文麿に内閣組閣の大命が下り第二次近衛内閣が誕生した。そして
    近衛は外務大臣として松岡を指名する。松岡は軍部に人気があり、また彼の強気の性格は、近衛にとって気がかりであった軍部を押さえるのではないかという強い期待と目算があったからである。
      さて、近衛内閣が誕生する迄の我が国の情勢を述べておきたい。日本は、1935年(昭和10年)以来華北
    分離工作を進める。具体的に言うと、それは華北に親日的な政府(いわば傀儡政府)をつくり、満州国を中国から完全に切り離して満州国の安定経営を図ることを目的としたものであった。また同時に世界経済のブロック化によって失った海外市場と資源を求めることにあった。誠に残念な事に、日本政府は、これに対して満州事変と同様に軍を甘やかす反応しか示すことが出来ず、陸軍の出先機関であった天津軍(支那駐屯軍)が始めた華北分離工作を追認してしまったのである。これによって以後軍主導の華北分離工作が国策になってしまったのであった。それに加えて1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生すると、軍の干渉がそれ以降政治や外交、さらには財政や経済にまで常態化してしまったのである。まさに軍国主義国家の到来であった。
      1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋における偶発的な発砲(実際には中国共産軍によるものとされて
    いる)をきっかけに、日中は、宣戦布告がないまま全面戦争に突入してしまった。日本側の目的は華北分離工作の完成にあったが、全面戦争となると、日本には、広大な領土と巨大な人口を持つ中国を相手に長期にわたる戦争を遂行する国力はなかった。それ故、短期決戦を目指して作戦範囲を限定して、中国軍に大きなダメージを与え、早期の講和を目論んだが、短期決戦を狙って発動された華北作戦(1937年7〜10月)と上海作戦(1
    1〜12月)はいずれも中国軍が決戦を避けて奥地に後退する戦略をとったため、日本軍は、中国軍を捕捉して決戦に持ち込む事が出来ず、作戦は完全に失敗に終わった。そのため日本軍は、後退する中国軍を追って内陸へ侵攻し、1937年(昭和12年)12月13日に首都南京を占領したが、中国政府は重慶に遷都して抵抗を続け、停戦と和平を拒否したのであった。
      その結果、安易な考えで始めた戦争は、まさに最も忌避しなければならなかった長期戦となり、以後日本は中
    国政府への圧力を強めるため、武漢三鎮をはじめ中国の主要部をほとんど占領した。しかし蒋介石は抵抗姿勢を堅持したため戦争終結の見通しがたたないというまさに身動きの出来ない泥沼にはまってしまったのであった。
    第2節 「「東亜新秩序」の樹立へ大きく変化」
      このように日中戦争が泥沼化する中で近衛首相は、1938年(昭和13年)11月新たに声明を発表する。
    この内容は、日中戦争の目的は東アジアにおける新国際秩序(東亜新秩序)の樹立であると宣言して、この目的を達成するため日本は戦い抜くという決意を示したものであった。従来日中戦争の目的としたところは、華北分離工作であった筈のものが大きく変化したのであった。
      「東亜新秩序」は台湾と朝鮮を含む日本と満州、それに加えて日中戦争によって獲得した大陸の広大な占領地
    によって構成され、欧米が形成している経済ブロックに対抗する新たな自給的経済圏の形成を目指すものであった。しかし、これは現状体制を維持しようとするワシントン体制を一方的に改めようとするもので、当然領土を食い荒らされた中国だけでなく、国際秩序の現状維持を図る英米との対立を決定的なものとしてしまった。このように日本は「東亜新秩序」の看板を掲げたものの、中国民衆の支持を得られなかった上に、日本の金融を含む経済力は弱く、華北と華中における支配を確立できなかった。さらに日中戦争により外資を稼いでいた対中輸出がなくなり、一方欧米諸国からの軍需物資の輸入が増加したため貿易赤字はさらに拡大していった。
      このように貿易収支の悪化以上に問題となったのは、日本陸海軍は軍の強化、近代化を図るため多くの戦略物
    資を必要としたが、中国大陸には石炭と鉄鉱石以外には見るべき資源はないため、対立する英米に頼らざるを得ない状況にあったから、いくら「東亜新秩序」を叫んでもそれは砂上の楼閣にすぎなかつた。英、仏、米は「東亜新秩序」を無理矢理進める日本に対して一般に援蒋ルートと云われる補給路によって、仏領インドシナ(ベトナム)からの仏印ルート、英領ビルマ(ミャンマー)からのルートによって蒋介石に経済支援を行い、中国を支えていた。日本はこれをつぶして、1938年(昭和13年)秋以降日本政府及び軍は「東亜新秩序」を有効ならしめるため傀儡政府を使って中国政府の存在をなきものにして、それによって戦争を終わらせようとするが実現は難しく、矢張り蒋介石政府との和平を追求せざるを得なかった。そこで考えたのが仏印とビルマからのルートは、雲南省の昆明で合流して重慶に通じているのであるが、このルートを遮断するには、山岳地帯のため攻略は難しく、外交交渉によりこの遮断を英仏政府と交渉するしかなかった。
    第3節 「現状体制打破を考えるドイツ、イタリアとの連携」
      そこで浮上してきたのが、日本と同じく現状体制打破を考えているドイツ、イタリアとの提携であった。ソ連
    と共産主義を共通の敵とする日独が、両国が国際連盟脱退後に結ばれたのが日独防共協定で、その後イタリアが参加して出来上がったのが三国防共協定である。日本はこの協定を利用して援蒋ルート閉鎖を英仏に要求する上での圧力として考えていく。
      日本は、これは松岡が外相となる以前であるが、1939年以降日中戦争終結を妨げているのは援蒋ルートを
    通じての物的支援だけでなく、金融支援までしている英国であるとして、当時の広田内閣の有田外相は強力な圧力をかける。英国は、一度は日本に屈するが、日本に対して満州事変以来慎重な態度であったアメリカが、英国が日本に屈したのを見てついに日本の進める「東亜新秩序」の実体化が進むことを懸念して、日本政府に対して日英交渉4日後、日米通商航海条約の廃棄を通告する。この決定に日本政府は動揺して、何とか日独伊防共協定の強化を図ろうと画策するが、なかなか伸展しなかった。
      一方日本陸軍はヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の、1939年(昭和14年)9月から始まった第2次世界
    大戦における破竹の進撃に意を強くして、日独伊三国軍事同盟を締結するよう外務省に圧力をかけ続けたのであ
    った。それに加えて、もしドイツがヨーロッパにおいて全面的な勝利を収めた場合、英、仏、蘭などの東洋における植民地はすべてドイツが領有することになるとして、こうなる前に機先を制してこれらの領土に兵力を進めるべきという南進論が盛り上がってきたのである。

    ■第二章「松岡外務大臣の外交方針」

    第1節「強い影響を受けたアメリカ留学」
      松岡が外相に就任した当時彼に課された外交問題は、以上に述べた通りである。松岡は、就任後早々に香港工
    作といわれる重慶国民政府と日本の傀儡政権である汪兆銘政権の合作工作を行った。しかし、工作は陸軍の猛反発にあい挫折してしまう。日本が汪兆銘政権を中国の正当な政府として承認したのは、松岡外相の在任中であった。松岡は、外相就任に当たって「私が外相を引き受ける以上軍人などに外交には口出しはさせない」と第2次近衛内閣成立の直前、1940年(昭和15年)7月19日、近衛が松岡及び陸海軍相予定者、東條、吉田の3名と自邸荻外荘で行った会談で大見得を切ったのであったが、就任後陸軍の無理押しに松岡は悩まされることになる。松岡は「外交がむずかしいことは今更知ったわけではないが、外交一元化の了解事項が踏みにじられた事は残念だ。満州国だけは確保して中国からは全面的に撤退するのが一番良いと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である」と嘆いている。松岡は世界をそれぞれ「指導国家」の4つのブロック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきと考えており、日本、中国、満州国を中核とする東亜ブロック、即ち大東亜共栄圏の完成を目指すことを唱えていた。松岡は世界各国がブロックごとに分けられることでナショナリズムを超越して、やがて世界国家の実現に至ると考えていた。
    第2節「松岡の外交的な駆け引き」
      松岡は就任当時から「ドイツ人は信用できない」と語っていたそうで、ドイツに好感を持っていたわけではない。しかし陸軍が再三松岡に三国軍事同盟を云ってくる中で、次第に三国同盟に傾斜していったのではないか。当時欧州ではドイツの軍事力は卓越しており、ヨーロッパはそれに席巻されていた。松岡は遠からず西欧ブロックはドイツの指導の下に形成されると考え、1940年(昭和15年)8月頃から三国同盟案を検討するようになった。これは中国を巡って日米、日英の関係が悪化していることもあってそれが影響したと思われる。しかし
    、吉田茂や松平恒雄、小幡酉吉など英米派の外務省OB等は、日独の提携を強く反対していたので、なかなか松岡の方針は決まらなかった。
      一方松岡はソ連との関係にも気を使い、何とかドイツを利用出来ないかとも考えていた。ドイツからの使者ハ
    インリヒ・スターマーと8月13日三国同盟に関して本格的に会談した。
      ドイツ外相リッペントロップの案は、ソ連を加えた日独伊ソ四ヶ国同盟を考えており、また日ソ関係の仲介が
    提案されており、これは自らの構想に合致しているとして松岡はドイツ側に好感を持つようになったと云われている。
      松岡は、日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことが出来ると考えた。また条約締
    結後アメリカの世論は沸騰するであろうが、アメリカとは事を構えないという日本の真意がわかればアメリカ人の心証も一転すると楽観的であった。こうして日独伊三国同盟は、1940年(昭和15年)9月27日に成立するのであるが、その後の独ソ関係は急速に悪化して、その情報は日本にも伝えられ、四ヶ国連合はおろか日ソ関係のドイツによる仲介も難しくなってしまう。この状況の急変に直面して、松岡は自らドイツに赴き直接情勢を見て、さらに外交的な駆け引きを駆使することを決意して、1941年(昭和16年)3月自ら同盟慶祝を名目に独伊両国を訪問し、ヒットラー総統、ムッソリニー首相とそれぞれ首脳会談を行い、大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。その際英国を牽制するためシンガポールの攻撃をリッペントロップから執拗に迫られるが、がんとして言質を与えなかった。その間彼は往路と帰路2回に亘りモスクワを訪問しスターリン書記長、モロトフ外相と会見して、帰路の4月13日に日ソ中立条約を電撃的に調印する。その間松岡は、アメリカの駐ソ連大使スタインハートを通じて「日本はたとえ三国同盟が出来ても日米が争うことを欲しない。今回の自分の訪独は三国同盟を強化しようというものではない。しかし現状では欧州の状況はドイツが有利である。にもかかわらずアメリカが参戦すれば日本も同盟によって参戦しなければならない」「この際ルーズベルト大統領は、世界平和のために蒋介石に日華事変の解決について停戦の斡旋をしてほしい」と語り、スタインハートは一応了承の意思を示し松岡の意思をアメリカ政府に打電していた。更に松岡はルーズベルトと直接会見したい旨合わせて申し入れたのであった。
    第3節「松岡が語っていた和平構想」
      松岡は中立条約調印後モスクワからのシベリア鉄道の車中で、報道関係者でただ一人、松岡に随行を許されて
    いた同盟通信社の岡村二一編集局次長に、これからの和平構想を語っていた。すなわち三国同盟に加えて、日ソ中立条約で北辺の守りを固めた日本は、今度こそ南進してくると米英に恐れられている。この時こそ和平交渉の効果はあがる。今回のヨーロッパ行きに先立って北部仏印進駐によって我が国の立場を強化しておいたのは、日米和平交渉において、日本軍の撤収を約束して相手の顔を立てるという手順であった。そして6月の終わりに前もって手筈が整えてある重慶の国民政府派遣の飛行機で重慶に向かい、蒋介石総統と会談して、その足でチャイナ・クリッパー機によりワシントンに飛び、ルーズベルト大統領を加えた三者会談により極東問題を一挙に解決する。そして和平の条件としては、万里の長城以北は中立地帯として、日本は全大陸地域から撤兵する。その代わりとして満州国を米、中は承認する。更に日米、日中は不可侵条約を結ぶというものであったという。「陸軍は簡単に撤兵に応じますかね」という岡村の問いに対して彼は「君、陸軍も支那事変に足を突っ込んで抜き差しならぬ状況に追い込まれている。面子さえ立ててやれば撤兵に応じるよ。しかしその際右翼のわからず屋が、政治家の一人や二人を暗殺するかもしれない。自分はそれを決して恐れない。そうでなければ真の外交は出来ないよ」と語っている。松岡の雄弁は常に卓抜にして新鮮であった。その姿勢はともすれば「独善」「頑固」と云われるが当時の政治家や官吏は軍部に遠慮して物を言うきらいがあった中で彼は遠慮なくなく自らの該博な知識と鋭敏な着想に基づき、時には軍人を圧倒する気迫に満ちた弁舌を展開して、その政治構想も雄大なもので当時の政治家の中では抜群の視野の広さを誇っていた。

    ■第三章「和平構想の破綻」

    第1節「松岡に内密で進められた日米交渉」
      このような松岡の和平構想は、松岡あってこそ実現可能であった。一方でその彼の構想を土台から切り崩して
    しまう事態が進行しつつあった。それは松岡の外遊中、外相代理の近衛首相が、ウォルシュ、ドラウトの両神父発案により、その後この意向に沿って渡米した民間人の井川忠雄や陸軍の岩畔豪雄大佐が画策していた日米交渉に、松岡に内密で大いに乗り気となり、アメリカ大使の野村吉三郎と米国国務長官コーデル・ハルとが会談する中で「日米了解案」なるものが合意されたことを彼は帰国後初めてその存在を知ったのであった。これには「三国同盟の事実上の死文化」、「日本軍の中国大陸からの撤兵」と引き換えに「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」「日米首脳の会談」が盛り込まれている。この了解案なるものは日米の民間人が共同で作成したもので、野村、ハル会談で「交渉の前提として合意されたものであったが、「アメリカ側提案」と誤解した日本では諸手を挙げて交渉開始に賛成したのであった。
    第2節「「日米了解案」の本質を見抜いていた松岡」
      松岡は、外相たる自分をつんぼ桟敷において進められた日米交渉について強い不信感を持つ。そして「野村大
    使の交渉は話が違う」と不快感を明らかにしている。松岡が了解案に反対したのは、了解案が本当にアメリカ政府からの提案であるかどうか疑っていたためで、事実了解案はアメリカの正式な提案ではなかった。アメリカの真意は仮にヨーロッパにアメリカが参戦して独米戦になった場合日本が背後からつかぬようにするためには三国同盟の自動参戦を緩和しておく必要がある。そのため現在論じられている非公式の日米了解案を公式のごとく見せかけ時間稼ぎをはかったのではなかろうか。修正案がまとまったのは4月16日であったが、それとは別にハルは野村大使に下記の「ハルの4原則」を手渡し、アメリカの断固たる考えを示している。
  •   @各国の領土保全と主権の尊重
  •   A他国の国内問題に対する不干渉と主権の尊重
  •   B通商上の機会均等を含む平等原則支持
  •   C平和的手段以外による変更以外の太平洋の現状維持を妨害しないこと
  •   従ってこの原則に沿わない日本に有利な日米了解案など成立する筈はなかったのである。
      松岡は「日米了解案」の本質を見抜いていた。このためアメリカとの交渉は正規の外交ルートで行おうとする。具体的には三国同盟の力をもって解決しようとした。確かにこの方法は正しいものであったが、彼は重大な読み違いをしていた。松岡は若い時からポーカーの名人として名をはせていたが、「ヒットラー神話」への過信は上手の手から水がもれたのであろうか。50日後に独ソ戦が始まり、独軍の崩壊が始まる。
      5月8日大本営政府連絡会が開催され、その際松岡はアメリカに了解案の修正案を送るが、6月22日にハル
    から返ってきた回答は厳しいものであった。すなわち了解案にあった満州国の承認は消え、汪兆銘政府を否認しアメリカは欧州での参戦を否定しない。また日米の太平洋に於ける領土的企画(南進)の否定など日本にとって極めて厳しいものであった。
    第3節「松岡の真意と大きな誤算」
      6月22日独ソ戦が始まり松岡のユーラシア枢軸構想、四国連合案はその基盤から瓦解する。独ソ開戦と共に
    三国同盟は有名無実化した。松岡の真意はアメリカとは絶対に戦わないということであった。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソ連をドイツと共に挟撃することを主張し、さらに陸軍の主張する南部仏印進駐に強硬に反対する(北進論)。しかし、政府内に於いては独ソ戦によりソ連の脅威が消滅したことによって南方に進出して経済的な利益を獲得すべきであるという南進論が有力になり、松岡の和平構想は画餅に帰してしまう。ここへきて腰の定まらない近衛首相は松岡に辞任を迫り、第二次近衛内閣は、7月16日総辞職して、同日松岡一人だけをはずした第三次近衛内閣が発足する。このあと松岡が一番恐れていた南部仏印進駐が実行され、アメリカ、イギリスとの対立は深刻になっていく。松岡は常々イギリスとの戦争は避けられないと考えていた。そのためイギリスの東洋における根拠地シンガポールなどを攻撃してイギリスの屈服を早め、ドイツを助けることを念頭に置いた南進論を前々から唱えていた。しかし先に述べたようにアメリカとは、絶対に戦争してはいけないという信念をもっていた。イギリスと戦争中のドイツと結んでも、アメリカとは戦争になる筈がないというのが彼の考えであった。しかし「英米一体論」は正しかったのである。ここにも松岡の大きな誤算があった。
      6月30日に行われた首相、外相、陸海外相などによる連絡会議において松岡は、今までの南進論から一転し
    てソ連を攻撃する北進論を主張した。これはドイツから対ソ参戦が正式に伝えられたからであろう。にもかかわらず7月2日の「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を議題とする御前会議において北進論は暫らく見合わせ、代わりに南進の方針が打ち出された。この方針は松岡の主張する対ソ開戦論をかわすため近衛が南進を認めたとものといわれている。この御前会議でこの決定に従い27日28日に南部仏印進駐が行われて、日米関係は決定的な局面をむかえることになってしまう。

    ■おわりに

      松岡が、外務省を去って4か月後日米は太平洋戦争に突入する。そして1945年(昭和20年)8月戦いは
    終わる。そして松岡は戦争犯罪人として11月極東軍事裁判の被告人となるが、持病の肺結核が悪化しており、軍事裁判の法廷に立ったのは一度だけであった。そして松岡は翌年6月24日東大病院で結核と慢性腎臓炎のため死去した。近衛文麿元首相も被告人となるが、出頭日の前日昭和20年12月15日自宅の荻外荘で服毒自殺した。
      近衛公の回顧、いわゆる「近衛手記」が朝日新聞に掲載されたのは12月20日から30日であるが、その中
    で松岡に関する重大な記述がある。すなわち、好条件の「日米了解案」が米国側から示されたのに好戦的な松岡外相が三国同盟をタテに反対して潰してしまったので戦争になったというのである。松岡は「この手記は不正確で一貫性を欠く。これが全部近衛公のものか疑問である。ある部分では公を弁護するために急で他を非難している。特に私の部分は公に適するよう終戦後に書かれている。これは良心を欠き、事実に対する真実性を失っている」と口述筆記「近衛手記に対する説明」の中で述べている。
      三度も期待をになって首相の印綬を受けながら時代に流された近衛文麿は悲劇の首相といわれるが、最後に服
    毒自殺する勇気があるならば公家公爵の矜持を持って天皇の御楯になれなかったのだろうか。近衛が自殺し、松岡が病死したため東京裁判で天皇のために戦ったのは東条英樹元首相だけになってしまう。しかし異論が出るのは勿論承知するところであるが、矢張り大東亜戦争における昭和天皇の責任は問われてしかるべきではないか。2・26事件において断固たる処置を決めた天皇がどうして大東亜戦争において最後に陸軍を抑えきれなかったのかは疑問である。

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2021年1月31日 金言(第102号)
    松岡洋右と大東亜戦争(2)

    ■第一章 「松岡洋右の事績」

    第1節 「第2次近衛内閣で外交を主導」
      1940年(昭和15年)7月22日第2次近衛内閣が発足して松岡洋右が外務大臣に就任したのであった。
    この内閣の基本方針は「基本国策要綱」として閣議決定されたもので、その内容は「皇道の大精神に則り、ま
    ず日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」事にあった。そして第二次近衛内閣が翌1941年(昭
    和16年)7月18日に総辞職するまでのわずか1年の間に松岡の主導により9月23日、日独伊の三国軍事
    同盟、翌4月13日に日ソ中立条約が結ばれたのであった。
    第2節 「「国際連盟脱退」の劇的行動で世界的に知れわたる」
      それより前1931年(昭和6年)9月に柳条湖事件を契機として満州事変が勃発したのであったが、中国国
    民政府は日本の軍事行動について国際連盟に提訴したため、前回触れたように同年12月事実関係調査のための調査団(リットン調査団)が日本と中国に派遣され、その調査結果が翌10月にまとまり10月1日に国際連盟
    に提出された。
      その内容については前号に詳しく触れておいたが、報告書は日本の主張を一部認めてはいるが「満州を国際管
    理下に置く事」を提案し、満州国の成立を認めないという内容であった。日本はこのリットン報告書を討議するジュネーブにおける総会に、松岡洋右を全権とする全権団を派遣した。派遣に当たり日本政府と外務省は193
    2年(昭和7年)10月に訓令を発しており、松岡はその訓令により職務を遂行したのであった。
      松岡が選ばれた理由は、彼は幼年時代から大学を卒業するまでアメリカで育ち、その卓越した英語力と弁舌が
    期待されたものである。従って彼はあくまで訓令によって行動したのであって「日本の主張が認められなかった場合は、国際連盟脱退はやむを得ない」は松岡の単独行動(スタンドプレー)ではなく、あくまで外務省が想定していた最悪のケースであって、初めから脱退を既定路線としてジュネーブの総会にのぞんだわけではない。
      松岡達全権団は、できうる限り脱退を避ける方針で臨んだことは間違いない。しかしこの会議に松岡が派遣さ
    れる前、9月15日に日本政府は満州国を承認してしまっていた。12月8日総会において松岡は、英語で1時間20分にわたって原稿なしの大演説を行う。その内容は「十字架上の日本」と題されるべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上で磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解されたように日本の正当性は後世において必ず理解されるであろう」という趣旨であった。しかし、この演説は日本国内では賛辞を受けたが諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったらしい。もっとも会場においては松岡の演説に対して絶賛の嵐が渦巻いた。1919年(大正8年)の第一次大戦講和会議における日本代表は、意見表明が乏しくサイレント日本と揶揄されたのを松岡は面目一新したのであった。
      一方1933年(昭和8年)2月20日、日本政府は閣議を開き、リットン報告書をベースにした「勧告」が
    連盟の総会で採択された場合、連盟を脱退することを決定した。2月24日総会において先にも述べたように賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告は採択された。松岡は、あらかじめ準備していた宣言書を読み上げ、会場から退場した。その際巷間云われている「サヨナラ」と叫んだということは他の事実との混同による間違いで、そのような事実はない。このようにジュネーブにおける劇的とも云える彼の行動が外交官としての松岡の存在を世界的に知らしめたのであった。
      この後の彼の事績は、ヒットラー、ムッソリーニとの間で行った日独伊三国同盟、スターリンと結んだ日ソ中
    立条約であるが、その詳細を述べる前に松岡洋右の人となりを明らかにしておきたい。
    第3節 「彼の事績はほとんど忘れ去られている」
      松岡は、後年外交官として国民の間に広く知られる存在となったが、一方彼が行った国際連盟からの脱退、独
    伊との三国同盟、ソ連との中立条約、これらは彼の目論見と違い、アメリカとの戦争へとつながってしまったため、彼自身東京裁判の被告に指名され、裁判終結を見ないまま病死したこともあり、私は本原稿を書くためいろいろと新刊書を探ったが、現状においては彼の事績は歴史のかなたに忘却されていると云ってよい。すなわち、ほとんど彼に関する新刊、再刊は目に留まらなかった。図書館で探せば見つかるのであろうがなかなか時間もない上コロナ騒ぎの中で図書館に行くこともはばかられて困っていたところ、従兄である吉澤建治(清次郎の次男
    ・元三菱UFJ銀行副会長)に相談したところ参考文献を多数紹介してもらった。義理の叔父吉澤清次郎(武藤山
    治の三女の婿)は、生前の松岡とは関係が深く、外務省でジュネーブ会議の全権団員をつとめ、後年外務事務次官、インド大使などを歴任しているため、戦後松岡研究者からインタビューを受けたりしていたとの事で、従兄は松岡と吉澤とのつながりや、特に自分がアメリカ留学を共にした上智大学名誉教授で国際関係史に詳しい三輪公忠氏の「松岡洋右、その人間と外交」(中公新書)を推薦してくれたが、これは大変参考になった。また薦められた豊田穣氏の「松岡洋右、悲劇の外交官」は600ページに及ぶ大著であったが何とか読み終えた。三輪公忠他一名編「日本の岐路と松岡外交」も参考にさせていただいた。

    ■第二章「松岡洋右の生涯1―出生から壮年期」

    第1節「強い影響を受けたアメリカ留学」
      さて松岡洋右は、1880年(明治13年)山口県熊毛郡室積(むろつみ)村(現在は光市)に生を受けた。
    室積は江戸時代(鎖国時代)西日本における指折りの良港で、海運により開け、繁栄した港町であった。
      彼の生家は今五(今津屋五郎左衛門)という全国に知られた廻船問屋であったが、幕末に長州藩に軍用金を用
    立てし、焦げ付きが発生したとも云われるが、加えて父の代にいろいろと不始末が重なり家産が傾いたのであった。そして隆盛を極めた今五も父の代に倒産してしまう。彼は少年の頃から負けん気の強い性質で、生家の没落を見て自立の決意を固め、米国で一応の成功をおさめていた伯父藤山氏を頼った。たまたま帰国していた彼の息子、元三郎に同道して1893年(明治26年)13歳でアメリカに渡ることになる。
      彼が向かったのはオレゴン州のポートランドであった。ポートランドは私も何回か行ったことがあるが、日本
    同様雨が多く気候は温暖で、従って樹木が多くきわめて我が国に様子がよく似ており、日本人には暮らしやすい
    。人口は現在60万人であるが、松岡が行った頃は約10万人ぐらいであったのではないか。コロンビア川とウ
    ィラメット川の中間に位置し、近くには雪を頂くフッド山がそびえ、風光明媚な土地柄である。彼は先ず当地でメソジスト教会を建て、キリスト教の伝道を行っていた河部貞吉氏と知り合い、その世話により教会の中で寄宿舎の一室を与えられ、高等小学校に通うことになる。後年松岡は河部氏の事を「恩師」「第二の父」と呼ぶほど強く影響を受けた。
      彼は1か月ほど寄宿舎に厄介になった後、ダンバーという家に引き取られスクールボーイ、すなわち使用人と
    して働きながら学校に通わせてもらうことになる。このダンバー家にはベバリッジ夫人という、かつてニュージ
    ーランドで裁判官をしていた人の未亡人と、妻に先立たれたスコットランド系の移民であるウィリアム・ダンバ
    ー氏と、その息子の3名が生活していた。松岡はこの家庭で大変優遇され、ベバリッジ夫人を第二の母とまで慕
    っていた。後年ジュネーブにおける国際連盟に日本全権として出席した松岡は、アメリカ経由で帰途についたのであるが、かつての思い出の地であるポートランドを訪問し、その際ベバリッジ夫人の墓所に満足な墓碑がない事を憂い、夫人にふさわしい墓碑を彼の手で建立したのであった。松岡に先立つ1885年(明治18年)、当館創立者武藤山治はオレゴン州の隣であるカリフォルニア州サンノーゼに於いて、同じくスクールボーイをしながら苦学したのであった。
      松岡はその後ポートランドの高等小学校を卒業後、カリフォルニア州オークランドのハイスクールに入学して
    いる。しかし理由ははっきりとしないが16歳の時高校を退学し、その後法律事務所に務めたり、その他鉄道工事のため渡米していた日本人労務者の通訳などをして学資をため、オレゴン大学の法科大学に入学して1900年(明治33年)に卒業している。そして更に様々なところで働いており、これは彼がオレゴン大学卒業という経歴に満足せず、東部のアイビーリーグの有名校の大学院に進むことを考えていたのではないかとされている。しかし母親の健康状態が優れなくなり1903年(明治36年)9年振りに帰国したのであった。
      アメリカにおいて彼が経験したのはあまりにも強い人種差別であったが、その経験から「アメリカ人に対しては、たとえ脅かされても自分が正しい場合道を譲ってはいけない。対等の立場を欲するなら対等の立場で臨まなければならない。力に対しては力で対抗する事によって、はじめて真の友人となれる」を信条とする彼の意識が育ったのであった。
    第2節「外務省に入り外交キャリアを積む」
      帰国後は法律の勉強を志し、明治法律学校(明治大学)に籍を置きながら東大か京大で法律の聴講を許可して
    もらうつもりであったが、帝国大学の授業内容を調べたところ、余りにもスローモーであることを覚りこの道をあきらめ、独学で外交官職を目指し、1904年(明治37年)外交官及領事官試験に首席で合格する。一説によると彼の外務省入りの動機は、折から始まった日露戦争に対する徴兵忌避の意味があったのではないかという指摘もある。
      外務省では先ず領事官補として中華民国上海、その後は関東都督府などに赴任する。そしてその頃満鉄の社長
    であった後藤新平や三井物産の重鎮山本条太郎の知遇を得る。その後短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内正毅内閣(外務大臣は後藤新平)のもとで総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官として両大臣を助け、特にその後大きな国際問題となるシベリア出兵に深く関与した。
      続いて1919年(大正8年)の第1次世界大戦のパリ講和会議には、随員(報道係主任)として派遣され、
    日本政府のスポークスマンを務めた。またその時彼は、随員であった後に大きな因縁を背負うことになる近衛文麿と出会う。帰国後彼は再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)外務省を退職し、17年間にわたる外交官のキャリアに終止符を打つ。
      パリから帰った松岡は「人間は同じ所にいてはうだつが上がらぬものだ」と云って外務省を辞めるのであるが、本音は大戦の終結によって帝国主義の時代は終わり、同盟交渉や戦争によって国益の増大を図る外交は、過去の遺物となった。そのため出世欲の強い松岡は自らの武器である語学力と交渉力を発揮しにくくなったと、外交官という職業に見切りをつけたのではなかろうか。さらに外務省を含めて官僚機構における東大閥に対する反感も手伝ったと思う。彼の自負は外交官にとどまらず、国家全体を動かす政治家に向いていたのではないか。
    第3節「路線拡大で大きな成果をあげた満鉄時代」
      外務省を41歳で退官した松岡は、前々から親密な関係にあった山本条太郎の引き抜きにより、早川千吉郎社
    長のもと南満州鉄道(満鉄)に理事として着任した。松岡が満鉄に入社した当時中国はまさに政治的な混沌状況にあり、割拠する北洋軍閥が中華民国政府(北京政府)の政権をめぐって内戦を繰り広げていた。そのような状況の中でワシントン会議が開催され、アジア太平洋地域の秩序となるワシントン体制が成立した。ワシントン体制は中国大陸での現状維持を定めた九カ国条約、海軍の主力艦の保有を制限した5カ国条約、さらに太平洋の現状維持を約した4カ国条約からなっていた。当時東アジアにおける不安定要因は、外国権益の回収と不平等条約改正を求めて過激化する中国のナショナリズムと、大陸における日本の膨張政策であったが、ワシントン体制はこれらの不安定要因を抑え込んで現状維持を図ろうとする国際協調体制であった。満鉄における松岡の活動はこのワシントン体制を背景として展開されるのである。
      松岡が入社した当時、満鉄には大連から長春に至る満鉄本線と、奉天から安東に至る安奉線の2路線しかなく、その他は満鉄が北京政府から経営を請け負う鉄道として四平街から挑南に至る四挑線、さらに長春から吉林に至る吉長線が存在した。このような状況下で満鉄の路線網の拡張が求められたのであるが、それまで外務省が担当してきた北京政府との交渉は、満鉄自身の手に委ねられた。これは日本政府による露骨な拡張交渉が諸外国から懸念されるようになった事に対する措置であった。松岡はこの交渉を一手に引き受け行った。松岡の意図するところは、企業経営というよりも、さらに一歩進めて軍事、外交の観点に基づき満鉄路線の拡大を図り、満州全域に日本の影響力を及ぼすことにあった。路線網拡張の交渉相手は、満州を拠点とする軍閥張作霖で、手強い相手ではあったが1924年(大正13年)9月には四挑線延伸の契約を済ませ、さらに張が第2次奉直戦争で勝利して北京政府の実権を握ると、松岡は翌1925年(大正14年)1月吉長線延伸の契約に成功した。このように松岡は満鉄理事として路線網拡大に努めたが、ワシントン体制成立後の日本政府は、中国に対する内政干渉にこだわっていたため、路線網拡大の見地から張への支援を主張する松岡に否定的であった。このため松岡は1926年(大正15年)3月任期(4年)満了により満鉄を退職したが、その4ヶ月後中国の国家統一を進める国民党が、軍閥に対する討伐戦(北伐)を開始したため張作霖は劣勢となった。中国内政に不介入を貫いてきた若槻内閣(憲政会)が倒れ、これに代わって政友会の田中義一内閣が誕生した。田中は、北伐軍を牽制すべく張作霖を支援するため三度にわたって山東半島に出兵したのであった。と同時に満鉄の社長は早川千吉郎から山本条太郎に代わり、前述のように山本は松岡を外務省から満鉄に引き抜いたのであったが、松岡を副社長として呼び寄せる。以後2年にわたって松岡と山本は満鉄の経営に当たり、経営の多角化を進め、経営体質の改善に努めた。その一例が撫順炭鉱のオイルシェールの液化による石油製造である。
      松岡が副社長に就任すると張作霖は、翌年の1928年(昭和3年)6月日本による支援の甲斐なく北伐軍に
    敗れ、北京を逐われる。北京政府の実権を失った張は満州へ撤退して再起を図ろうとするが、奉天郊外で乗っていた列車ごと爆殺されたのであった。これは満州の直接支配を担う関東軍によるものであった。この事件により田中義一内閣は総辞職して、満鉄の人事にも影響を及ぼしたのであった。山本総裁(6月から社長から総裁に変更)は罷免され松岡も辞職し、ここに計8年間にわたる大きな成果を上げた満鉄生活に終止符が打たれることになった。

    ■第三章「松岡洋右の生涯2−政界へ進出」

    第1節「大恐慌下で衆議院議員となり満州の権益保護を主張」
      松岡が満鉄を退社してから2ヶ月後の1929年(昭和4年)10月24日、アメリカのウォール街において
    株価が大暴落する。これはまたたく間に全世界に波及して大恐慌となった。このような情勢下でかねてから政界進出を目論んでいた松岡は、政友会に入党して翌1930年(昭和5年)2月、故郷の山口県から衆議院議員選挙に立候補して当選をはたす。
      当時満鉄に於いては大きな動きがあった。日露戦争後に成立していた満州善後条約によって日本がロシアから
    満鉄を引き継ぎ、また満鉄守備隊の常駐、さらには満鉄並行線の建設禁止を清国は認めることになっていた。しかし爆殺された張作霖は、この条約を無視して満鉄の並行線の建設に着手し、一部の線を開通させていた。さらに息子の張学良は父親の死に対する報復として満州善後条約そのものを否認して、更なる満鉄並行線の増設を企てていた。これらの並行線問題は松岡が在任していた時から発生し問題となっていた。すなわち増設は満鉄の独占体制を崩して経営を大きく圧迫するようになっていた。
      このような状況の中で代議士となった松岡は大恐慌によって生じた社会不安を背景に、満州の権益保護を議会
    で主張した。その際松岡は「満蒙は我が国の生命線である」と表現し、日本の経済的国難に対する民政党政権の手ぬるさを攻撃したのであった。
      1931年(昭和6年)9月柳条湖付近において満鉄の線路が爆破されたいわゆる柳条湖事件が発生する。こ
    の事件は張作霖の爆殺(満州事変へ発展)と同様関東軍の仕組んだ謀略であったのであるが、関東軍は張学良による破壊工作であると断定し、これに対する軍事行動を開始した。日本政府はこれを局地的、外交的に収めようとするが、これを無視して関東軍は軍事行動を満州全域に拡大させ、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を擁立して1932年(昭和7年)3月傀儡国家満州国の建国を宣言してしまう。
      これに対して当然のことながら中国側は、日本による侵略行為であるとして国際連盟に提訴した。連盟は満州
    事変と満州国の実態を調査すべく英国のリットン伯を団長とする調査団を日本と中国に派遣する。同調査団の調査は、1932年(昭和7年)3月から6月にかけて行われ、9月に調査報告書が連盟に提出された。
      一方この間日本国内では5.15事件が起こり首相の犬養毅が殺害され、ここに政党制は終焉を迎えたのであ
    った。後を継いだ海軍出身の斎藤実内閣の外相を務めた内田康哉は、当初満鉄総裁であった時には事変不拡大派であったが、考えを翻して強硬派に転向して満州国の権益確保を強調するようになり、翌9月には満州国を日本は承認したのであった。
    第2節「「ジュネーブの英雄」と国民から称賛を受ける」
      他方国際連盟ではリットン調査団による報告書をもとに審議が行われた。そしてこれを討議する連盟の臨時総
    会に満州問題に精通し、かつ英語に堪能なうえ交渉能力にたけ、また「満蒙問題は我が国の生命線である」との考えを信条とする松岡が、日本全権代表に選ばれたのであった。ジュネーブに於ける松岡の活躍は冒頭に詳しく述べた通りである。
      帰国した松岡は国際社会に対する説得に失敗したとして、最初は意気消沈の状態であったと伝えられるが、彼
    が帰国後待ち受けていたのは非難ではなくむしろ称賛の嵐であった。彼は国際連盟という大舞台で巧みな英語と弁舌により日本の主張を堂々と展開したからであった。大恐慌と5.15事件による暗い世相を吹き飛ばすような彼の活躍に、留飲を下げた国民も多かったのであろう。そのため松岡は国民から「ジュネーブの英雄」として熱狂的に迎えられ、これによって松岡の知名度は一気に高まった。
    第3節「政党解消運動に失敗し再び満鉄へ」
      こうした状況の中で、彼は自身に大衆政治家(ポピュリスト)としての可能性を見出したのではないかと思わ
    れる。彼は大衆の求めるもの、特に農村のしいたげられた青年の心を読み取ったのではないか。彼は世界的な大恐慌の中で有効な手を打ち出せない政党制度が、各国に於いて岐路に立たされていると見て「昭和維新」などを唱え、既存の政党による政治を変えていかなければならないと決意する。その結果、大衆がかかえる諸々の不満を政党解消運動として実らせようと活動に励む。そして1933年(昭和8年)政友会を離党して政党解消を掲げて全国を遊説する。
      松岡は、日本社会の欠陥や矛盾を解決するためには、何等手を打つことの出来ない既存政党を解消して、全体
    主義的な挙国一致体制をつくる必要があると考えた。そのため自己の活動で不満を募らせる青年層を鼓舞して、政党解消運動として結集させようとした。しかしその運動は、会員は200万人を数えるまでになるが、それ以上十分な成果を得られず、翌1934年(昭和9年)政党解消連盟を解散してしまう。
      このように特に見るべき成果を上げることができなかった松岡は、1935年(昭和10年)8月、再び満鉄
    に今度は総裁として着任する。しかし満州国が建国された後、満鉄の役割には大きな変化が起こった。従来満鉄が担った方向は満州での収益拡大であったが、満州国を事実上支配する関東軍は満鉄を完全なる国策会社に改め
    、満州国の産業開発と華北への経済進出の機関となるべく改組しようとしていた。松岡が総裁に就任したのはこの時期であった。勿論松岡には関東軍の意思に従う考えは毛頭なかったが、関東軍は着々と既成事実を積み上げ
    、満鉄の力をそいでいった。特に満鉄の産業部門を鮎川義介ひきいる日産コンツェルンに移転しようとしていた
    。彼の総裁としての考えを実現していく余地はほとんどなくなっていく。このような中で彼は1939年(昭和14年)2月迄総裁を務めるが、失意の内に満鉄を去る。彼が外相として再び表舞台に登場するのはその1年4カ月後である。それ以降の経緯は次月に譲る。
    ≪続く≫

                                                                                                                          
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    武藤会長「金言」

    お問い合わせ

    イベント情報や館内のご利用についてなど、お気軽にお問い合わせください。

    ※メールソフトが開きます

    お問い合わせ