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武藤会長「金言」

2022年9月26日 金言(第122号)
伊藤淳二への挽歌C完

■第十章「破局への道を辿ったカネボウ」

第1節「花王との化粧品部門統合で危機脱却を図る」
   さて平成15年(2003)帆足社長は、かねてから金融機関から圧力がかかっていた花王との化粧品事業統合にメドをつけようと考え、そのために不採算のアクリル事業からの撤退を決定して、630億円の債務超過を表面化させ、さらに興洋染織で522億円の損失を計上した。そしてこれらの損失を花王との化粧品事業により、花王から得るはずの資金で穴埋めしようと考える。しかし鐘紡の財務状況は桁外れの常識外のものであった。実際には平成8年(1996)の時点で連結債務超過に陥っていたのであった。
   その後5年経過して債務超過を解消したと発表したが、実際にはそれは粉飾決算によるもので、その粉飾の額は2,000億円にもなっていたのである。従って平成13年(2001)に債務超過の解消など、実際出来る筈もないものであった。平成13年度の実際の決算は連結決算では61億円の赤字で、実態は連結債務超過であった。これを帆足社長と三井銀行から派遣されていた宮原副社長が無理矢理に粉飾決算を実行していたのであった。平成14年度も事業の不振は続き、ついに担当の中央青山監査法人を巻き込み粉飾決算を続けたのであった。
   平成15年の中間決算では先に述べたように、興洋染織の受取手形に対して多額の貸倒引当金を計上せざるを得なくなり、その結果それは600億円を超える金額となった。こうなると金融機関の態度は様変わりになるのは当然で、三井住友銀行以下取引銀行は、カネボウ向けの債権を「破綻懸念先」に格下げした。そこでメインバンクの三井住友銀行は抜本策として、かねてから考えていたカネボウと花王の化粧品部門を統合してこの危機状態からの脱却を図った。
   花王は家庭用品では断然たる強みを持っていたが、化粧品部門では後発で、ソフィーナブランドは業界では二流と見られており、カネボウブランドには大きな魅力を感じていた。平成15年10月カネボウは、翌年の3月末を目処にカネボウが分社化して設立する新会社に、カネボウが51%、花王が49%出資して、花王も化粧品部門を新会社に統合するという構想を発表した。
   1ヶ月後カネボウは中間決算と中期構造改革計画を発表したが、それによると中間期における債務超過額620億円を、花王からの出資で得られる株式売却益で補填して、次年度においては債務超過を解消して不採算事業からの撤退、加えて人員削減を断行してこれらの諸施策により営業利益を倍増するというものであった。
第2節「白紙に戻った事業統合の構想」
   しかしこれはあく迄一方的な皮算用であった。このような事態に収めるためには株式売却益がいくらになるかであった。カネボウの目論見は2,500億円を目指していたのではないかと思うが、両社と銀行の間で具体的な話し合いが持たれたのであったが、カネボウ、花王ともに自社に有利になるよう交渉が行われた。その具体的な推移は不明であるが、カネボウにおいてはこの出資比率では社内調整がつかなかった。これにはおそらく伊藤の独善的な意向が働いていたのではないか?
   このように事業統合が暗礁に乗り上げたので、花王の後藤社長も考えを硬化させ、「これまでの事業統合案を白紙に戻し、カネボウが化粧品部門を全部売却する意向なら継続協議してもよい」と申し入れるに至った。一方カネボウにおいてもさらに内部調査を進めていくと、今まで表面に出ていなかった5千億円にもなる債務超過の存在が浮かび上がってきたのであった。これを解消して立ち直るには同額の資金が必要になる。しかしメインバンクが従来の三井銀行(さくら銀行)ならどうであったかわからないが、当時はすでに住友銀行と合併して三井住友銀行となっていたから、住友出身の役員にはもはや追加融資する意思はなく、むしろ不良債権を持つカネボウとは縁を切るべきであるという意見が強くなっていった。帆足も余りの事態の悪さに観念して、本体の借金を返して破産から免れるためには化粧品部門をそっくり花王に対して売却して、4千億円の対価を受け取るという考えに傾いて行った。
第3節「メインバンクに拒否された新会社構想」
   一方カネボウに対しては国内大手投資ファンドのユニゾンキャピタルから新たな提案がなされていた。その内容はユニゾンが51%、カネボウが49%出資して新会社を立ち上げ、分離したカネボウの化粧品事業を新会社に譲渡するというものであった。新会社の社長には帆足、または化粧品関係の社長を充て、買収金額は4千億円を見込んでいた。この案はカネボウにとっては魅力的であった。カネボウとしては自己の力で化粧品事業を引き続き経営出来るだけではなく、カネボウという名前が存続するという願ってもない話であった。
   交渉の当事者であった嶋田常務が伊藤のところに説明、報告に出かけたところ、伊藤は花王との共同事業や買収などについては「あの洗剤屋の如きに化粧品事業が買収されるかと思うと夜も寝られない程心が病んだよ」と後に嶋田が退職後上梓した「責任に時効なし」の中で語っている。この言葉が本当なら伊藤の時代錯誤が明らかになると思うが、読者の皆様はどう考えるか?
   嶋田がユニゾンの提案を伊藤に説明したところ「うん、それなら安心できる」とほっとした表情で賛成したという。しかしこのようなカネボウにとって全く都合のよい話がおいそれと簡単に実現するはずはない。正直なところユニゾンには今迄このような大きな借入金を調達した案件はなく、はたしてそれだけの実力があるのかどうかという不安が出てきた。3千億とか4千億とかいう巨額な金額を調達するには、メインバンクである三井住友銀行の協力なしには実現不可能であることは自明の理であった。
   ここで帆足は、伊藤に三井住友銀行の西川善文頭取との会議に臨んでもらうことを依頼し、ここに伊藤、西川のトップ会議が実現したのであった。西川は「花王に化粧品事業を売却すれば何とか生き残れますよ」と主張し、一方伊藤は「化粧品事業を切り離して投資ファンドに金を集め、化粧品部門の買収をさせることは出来ないか」と食い下がったが、西川は伊藤を全然信用しておらず「残念ですがもう時間がありませんのでこれ以上身動きは出来ません。残されたカネボウについては必ず私の方で面倒をみます」と突き放したのであった。「化粧品がなくなったカネボウはうまく行きませんよ。花王に化粧品が移っても絶対にうまくいかないでしょう」と最後の望みを断たれた伊藤は捨て台詞を吐いてすごすごと戻らざるを得なかった。
   伊藤の化粧品事業に対する思い入れは誰よりも強く、そのため帆足がやむを得ず走ろうとした花王への売却など、絶対に認めるわけにはいかなかったのである。伊藤には時代が変わったのがわからなかったのである。あくまで大鐘紡という意識の中でしか、彼は判断することが出来なかった。彼は「洗剤屋の花王に何故」という意識に最後まで囚われていたとしか思えない。しかし財務担当の嶋田や心ある一握りの役員は、ここで破滅するよりも花王の買収に応じ、化粧品事業だけでも立派に成功させ、本体もなんとかして生き残るべき道を探るのが本筋と考えていた。
第4節「花王への化粧品事業売却に労組が徹底抗戦」
   それから一週間後、カネボウの化粧品事業に関する取締役会が開催された。帆足社長は病気欠席のため、7名の取締役が出席して花王案とユニゾン案の2つが審議され、その結果多数決で花王案に決定した。しかしこの情報は即座にマスコミに流れ、「カネボウは、新会社に化粧品部門を統合という方式では再建のための資金を確保できない。従って花王が完全買取りして、対価として4千億円を支払う」というニュースが日経朝刊のトップになったのであった。
   世間ではこれで一件落着と見たのであるが、次に本当に意外な事が起こったのである。すなわちカネボウの労働組合が売却に断固反対を表明したのであった。労働組合については、伊藤が社長時代から労使運命共同体という理論をぶち上げ、労使の関係が一般の会社とはいささか違った形態であった。カネボウにおいてはこの伊藤の考え方により、労使の事前協議が経営の重大事項となっており、何をするにも組合の了解、合意がなければ実現出来ないという変則な状況となっていた。今回の花王への売却についても新聞報道が先行してしまい、組合に対する事前説明、交渉が遅延してしまったのである。当然組合としては寝耳に水であったため、その怒りは大きかった。組合の考えは「化粧品事業という金の生る木を組合の了解なしに花王に売却するとは何たることだ」という極めて経営的センスを欠く狭い考え方であったが、彼等は自分達が蔑ろにされたということで、花王の売却を決めた経営陣に徹底抗戦を挑んだのであった。
   伊藤はもともと花王を洗剤屋と蔑み花王への売却に反対であったから、彼の育てた労働組合を説得するどころか花王への売却案を共に潰そうという姿勢であった。労働組合にしてみれば花王への化粧品部門移行により、実に7割に当たる組合員が花王に移り、組合は弱体化し組合費も大幅に減収となるということで事態を冷静に判断出来ず、会社の実情と将来を見誤ってしまったのである。
   それにつけてもここは組合に対する絶大な力を持っていた伊藤こそが、大乗的な見地にたって組合を説得すべきであった。狭量な伊藤はその場限りの感情に走り、カネボウの将来を奈落の底に引きずり込んだのであった。正直なところ客観的に見て、ここで花王への売却が進んでいたならば、カネボウが会社ごとこの世から消えてしまうという事態は避けられたと私は見ている。その意味で伊藤淳二の責任は重いと私ははっきりと声を大にして云いたいのである。

■第十一章「カネボウの滅亡」

第1節「産業再生機構の支援が悲劇の始まり」
   このように組合の反対もあった花王との交渉が膠着状態に陥っていた時、三井住友銀行から驚くべき再建案がもたらされたのである。具体的には花王に代わるカネボウの救済に官製の「産業再生機構」が乗り出すというものであった。それは先ず、カネボウ100%出資の子会社をつくり、それを受け皿にして化粧品事業を譲渡して、そしてその会社が産業再生機構によって買収され、その売却益と売却資金によりカネボウ本体を間接的に救済するというスキームであった。ところが陰の実力者伊藤淳二や帆足らの経営陣にとって心配であったのは、カネボウの不良資産などと、その処理についての過去の粉飾決算などについて、経営者の責任が問われるのではないかという点であった。「いやそんなことは一切ありません」と、再生機構の最高執行責任者(COO)の富山和彦は簡単に応じたので、伊藤、帆足らは簡単にこの言葉を信じ込んでしまった。これがその後カネボウに起こる悲劇の始まりであった。
   平成16年(2004)2月、カネボウは臨時取締役会を開き、花王との営業譲渡契約を白紙撤回して、産業再生機構への支援を要請することを決議した。カネボウは再生機構から調達出来る金額は、花王のつけた4千億円を上回るものと楽観的であった。しかしその金額については国民の税金から拠出するものであるから、さらに精査すべきであるという注文がついた上、富山COOは「花王との交渉がこれだけもめたのは、カネボウの経営や資産内容に大きな問題があるからに違いない。化粧品だけの支援では赤字部門を抱える本体にメスが入らず、問題が先送りされるだけではないか」との判断が下され、次のような方針が下されたのであった。すなわち「今後産業再生機構はよって立つ法律に基づき、カネボウ株式会社の支援に関して出来る限り迅速にかつ前向きに検討を行っていく」というもので、支援の意思をにじませつつ、しかし、事があれば支援の撤回もありうることを通告する内容であった。そして拠出金と融資合わせて3,660億円の支援を通知した。この意外な通告により本体には2千億円以上の有利子負債が残ることになり、カネボウ経営陣の期待した数字は画餅に帰したのであった。
第2節「粉飾決算の公表で司直の手が入る」
   同年(平成16年)3月カネボウの臨時株主総会が開催され、帆足社長が退陣して中嶋章義が新しい社長に就任した。再生機構はこの際カネボウは従来のように不正を隠蔽したりしないで、何事もすべて公表するように中嶋に要請した。中嶋は早速「経営浄化委員会」を発足させ、興洋染織など過去の不良資産を調査したのであった。その結果5月19日に「5期にわたり2千億円もの粉飾が行われ、9期連続の債務超過に陥っていた」という調査結果を公にした。このような内部によるドラスティックな発表に旧経営陣は驚愕した。しかし、中嶋は「一時的にブランドイメージは失墜するかもしれないが、未来永劫正直であるためには自ら公表すべきだと判断した」とまるで他人事のような事を云っていた。中嶋は社長として過去からの決別を宣言したつもりであったろうが、これが契機となりカネボウに司直の手が入り、ついに輝かしい歴史に終止符が打たれるようになるとは彼自身予想もしていなかったことであろう。
   ある人は次のように書いている。「カネボウの社員は『会社は永遠に存続して社員を守り続けてくれる』と誰も信じて疑わなかった。それには経営計画を達成することこそが至上命令であり、一人一人が会社を守ろうとした結果、『不正行為』が何等罪の意識もなく行われ、気がつくと粉飾決算が行われていた」と。私はそれには絶対に承服出来ない。何故なら会社には、当然社員のモラルがあってこそ初めて成り立つ。そしてそのモラルを如何に高めていくのかが経営者の役割である。カネボウが今述べたように、一人一人が会社を守ろうとした結果云々というのは経営トップの意識に行きつくものと考える。
   武藤山治の創業後伊藤淳二が社長になるまでカネボウには、他の会社にない凛とした社風と社員の意気がみなぎっていた。これをこのような状況にしたのは伊藤淳二の独善的経営である。
第3節「産業再生機構のペースに巻き込まれたカネボウ」
   さて、カネボウが再生機構に期待したのはあくまで会社自体の存続であった。しかし再生機構の目指したのは化粧品、薬品、日用品(トイレタリー)などの事業の再生であって、会社の存続ではなかった。それは、カネボウという会社の器がどうなるかは、本質的な問題ではないと言い切っていることからもうかがえるのである。言い換えればカネボウという会社の歴史、文化などは再生機構としては問題とするところではなかったのである。さらに付け加えるならば税金によって成り立った再生機構は、カネボウの財務内容が回復すれば、直ちに投融資を引き揚げなければならなかった。カネボウの経営者は再生機構の本来的な役割と恐ろしさに気がつかず、再生機構のペースに巻き込まれてしまったのではないかと思う。
第4節「カネボウ滅亡の責任を後世に押し付けた伊藤」
   もうこれは伊藤淳二の悪あがきであるが、彼は平成16年の株主総会で株主としての提案を求め、「社名を鐘紡にもどせ」に始まる提案と、カネボウが崩壊した大きな原因はメインバンクが金融支援を約束通り実行せず、多くの人を派遣して経営をミスリードした結果であるとして「主力銀行の責任で今日の状況に陥った」と弁明し、さらに「歴史あるカネボウがこの10年で崩壊した過程を国会の場で明らかにしてほしい」と30分にわたり大演説をぶったのであった。
   「この10年」というのがみそで、「10年以内の調査解明」であれば伊藤の任期とはずれており、彼の社長時代の粉飾を含む不正経理が明らかにされないため、わざわざこの発言をしたのであった。この発言を聞いた帆足はまさに怒髪天を衝くという形容がぴったりとする怒り方で、「伊藤の発言は腹に据えかねる。自分が変なものを残しておいて我々だけの責任を問うとは何たる事か。時効とか何とか言って、自己の名誉を守るために後輩を犠牲にするなんて、普通ではありませんよ」と慨嘆した上「自分の後任に指名した中嶋にはもう怒り心頭です。子供が親を殺すようなもので、まことに無礼千万。まさかそんな馬鹿とは思っていなかったが、こんなものをよく社長にしたと悔やんでいる」と述べている。
   その後カネボウの経営浄化委員会は、その後の調査を踏まえ平成10年(1998)から平成14年(2002)の5期分で2,150億円の粉飾を行ったと対外発表して、カネボウの評価は正に地に落ちたのであった。しかもカネボウの調査委員の実力では過去5年分の実態を把握するのが精一杯で、カネボウの30年に及ぶ巨大な粉飾には触れられておらず、破滅の真の原因を究明するには至っていなかった。カネボウは昭和50年代から合繊の商売において巨額の粉飾を行って、不良資産を積み上げていたことは裁判所も認定した。そしてこれを後世に押し付けた責任者、すなわち伊藤淳二は時効の陰に隠れて表に出てこないことにOBを始めとする事情に明るい関係者はいら立っていた。過去に不良資産をつくり、これを知りながら黙過してきた過去の経営者にはおとがめなしで、必死に粉飾を隠そうとした直近の経営者だけが弾劾されることは極めて不公平のそしりを免れない。
   カネボウの粉飾決算については起訴され、平成18年(2006)東京地方裁判所は本件について、「我が国企業の最高責任者により率先して行われた大規模にして悪質な犯行で、巧妙さという点では前例を見ない」として、当時の帆足社長に懲役2年執行猶予3年、宮原副社長に懲役1年6ヶ月執行猶予3年の有罪判決が下された。なお、財務担当の嶋田常務は不起訴となった。しかし実際の粉飾決算の実行者であった伊藤淳二は時効の壁により逃げ延びたのであった。

■第十二章「伊藤淳二への挽歌」

第1節「伊藤の罪は重い」
   この間再生機構は4,400億円の公的資金をカネボウに投入したが、これらの資金はすべて回収され、それどころか200億円の利益を計上したのであった。平成19年(2007)6月の定時総会でカネボウの解散が決議され、本体として、カネボウの主として薬品、トイレタリー事業を継承したクラシエが、資本的には名古屋の染毛剤メーカーのホーユーの傘下に入ったものの、堅実な歩みを続けている事は喜びである。
   再生機構の幹部は「我々は会社を救済するのではない。事業を生かすのである」と云っていたが、結果はまさにその通りとなった。化粧品事業と一部の薬品、トイレタリー事業と繊維の一部だけが生き残り、カネボウという会社は救済されず、誇りある会社の歴史、伝統、文化は冷徹な資本の論理の前に消滅したのであった。
   後になって帆足は「再生機構に頼ったのは私の誤りであった」と後悔しているが、それよりも「化粧品部門の花王への全面売却はカネボウ存続のために絶対反対」と息まいた労働組合と、それを陰で煽った伊藤の罪は重い。加えて当時の経営者は何故一体となって、組合を説得することが出来なかったのか、私としては残念でならない。
第2節「伊藤という怪物を制御できず滅んだカネボウ」
   カネボウは伊藤淳二という怪物を制御できずに亡んだと云って差し支えない。そして怪物は時効の壁に守られて、100歳目前の昨年12月に死亡した事をつい最近ようやく知り、今こうやって挽歌を書いている。死亡のニュースは今のところ一切表沙汰になっていないのも不見識なことである。挽歌とは元来、死者を悼んだり物事の終焉を嘆く詩や歌で、死者を笞打つものでない事は重々理解しているが、この男だけは許す事は出来ない。この男は自己の利益の為にだけ生き、他人がどのようになろうが一切おかまいなしで生き通した文字通りの怪物である。しかし残念ながらこのような怪物をつくってしまったのは、私の叔父である武藤絲治にそもそもの原因がある事は否定出来ない。
   叔父は理想家であったがそれは又空想的でもあった。父山治のような現実主義者ではなかった。山治は温情主義経営により我が国の資本主義のバックボーンを築いた人物であるが、大鐘紡を築くに当たりどれだけ苦労したかはあえて今ここで私が語る必要はない。
   私が若い頃、ある有名な実業人が私にこう云った。「確かに山治さんは哲学を持った経営者であったが、一方で企業を守るためにどれだけのエゴイズムを持っていたか、貴方は考えた事があるか」。確かにその事は当たっていると思う一方、伊藤のそれは自己のためだけのエゴイズムで、何等従業員の幸福について考えた事は無かったのではなかろうか。そうでなければ大鐘紡を崩壊させるという馬鹿げた事がやれる筈はないのではないかと思っている。たしかにカネボウは無能な経営者により滅亡してしまったが、武藤山治が会社創設以来唱え続けてきた「人間尊重の経営」「家族主義的経営」は、我が国経営の哲学として今後もかならず生き残っていくと思う。
第3節「伊藤の経営者としての限界」
   さて、私自身はカネボウの社員でもなかったし、伊藤と直接面談した事はそんなに多くなかった。前に何度か書いたが、伊藤も経営のトップとしてカネボウはこうあるべきだ。こうしなければならないということについては十分認識していたと思う。しかしながら一度権力を握り、しかも周囲は彼に迎合するばかりのイエスマンに取り囲まれているならば、正しい経営への方向転換は極めて難しかったに違いない。それが伊藤に経営者としての限界であった。カネボウの経営が行き詰り、基盤が揺るぎだした平成16〜17年頃、私は主宰する國民會館発行の「國民會館だより」の巻頭言で、何度も伊藤氏の経営姿勢を歯に衣着せず攻撃した。私としては、祖父の創った日本一の会社をこの体たらくにした彼の経営と、その後の姿勢に我慢がならなかったのである。それは今から考えると当然の事であるが、伊藤にとっては礼を失したものであったかもしれない。それにもかかわらず伊藤から何を思ったか知らないが、人を介して一度食事をしようと誘いがあった。特に断る理由もないので今でもよく覚えているが、朝日ビルの「アラスカ」で昼飯をご馳走になったのであるが、話の中で私は一言だけ経営者の端くれとして伊藤に申したのであった。「伊藤さん経営は結果ですよ」と。それに対して彼からは一言も反論、反省の言葉はなかった。

■おわりに

   それから一言付け加えておくと、伊藤が常日頃云っている武藤山治への尊敬の念がいかに口先だけのものであるかということをお話しておきたい。昭和59年(1984)は山治の五十年忌に当たり、思いがけなくカネボウ主催で五十年忌の行事が山治旧宅の鐘紡舞子クラブで催された。私も遺族の一人として出席し挨拶もしたのであるが、冒頭での伊藤の挨拶は全く自分の言葉による挨拶ではなく、なんと50年前津田信吾社長が山治の霊前に捧げた文章をそのまま読み上げたのであった。矢張り鐘紡の中興の祖である武藤山治の五十年忌であれば自分の言葉で誠意ある言葉を述べるのが普通の人間の姿ではなかろうか。伊藤淳二とはこの程度の人間であった。(完)

                                                                                          
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2022年8月31日 金言(第121号)
伊藤淳二への挽歌B

■第七章「鐘紡を蝕んだ伊藤の多角化路線」

第1節「常軌を逸した拡大策」
   さて、社長に就任した伊藤は絲治のグレーター・カネボウ計画を引き継ぎ、労使運命共同体論(労使協調)とペンタゴン経営といわれる繊維、化粧品、食品、薬品、住宅の5事業からなる多角化路線をひた走った。特に化粧品事業は、1970年代の高度経済成長期から80年代の安定成長期にかけて、猛烈な営業攻勢と宣伝広告により売り上げを大きく伸ばし、業界首位の資生堂を脅かすまでに成長した。
   しかし、この経営路線は最終的には鐘紡自体を蝕むことになった。理由は、伊藤の行き過ぎた労使協調路線は主力の繊維事業のリストラの足枷となったからである。
   一方ペンタゴン経営とは言葉は美しいが、これは五角形の一辺が均衡していなければ意味がないのである。創業以来の繊維事業は、労使協調路線とこの赤字を補填してくれる化粧品事業の存在をよい事に、合理化が少しも進まなかった。むしろ伊藤は大鐘紡こそナイロン、アクリル、ポリエステルの三大合繊を持つべきだとして常軌を逸した拡大策に突き進み、赤字拡大の道をひた走ったのである。
   合繊事業は装置産業であるから設備に莫大な投資を必要とする。営業の経験の全くない伊藤は、ただ観念的に業界トップの繊維会社である鐘紡こそ、三大合繊を持つべきだとして無理な拡大に走ったのである。
   ナイロンは武藤の時代に比較的早く手を付けていたが、ポリエステル、アクリルについては最後発であった鐘紡にとって、設備投資による借入金の増加と、営業面での売れ行き不振による在庫の増加が会社経営に重くのしかかってきたのであった。一方食品部門では合併したカネボウハリス、立花製菓が規模は小さく、漢方薬中心の山城製薬も業界の大手には遠く及ばなかった。
第2節「内部留保を使い果たし経営危機を招く」
   このようにペンタゴン経営ははっきり云って行き詰まりを見せていた。このような状況の中で、鐘紡に昭和48年(1973)オイルショックが襲ったのである。日本経済は大きな打撃を受けたが、特に鐘紡は内部留保を使いはたし、大きな経営危機を招いたのであった。
   武藤山治は、かつて創業期に、何度も経営上のピンチに遭遇している。しかし彼はその都度努力と機転によりそれから脱してきた。そこで得た結論として、企業経営においては内部留保ほど必要なものはないと感じ、増収と資本の充実に全精力を傾けていったのである。伊藤淳二の経営はどこにもその片鱗すら見えないのである。
   このように経営危機を招いてしまった伊藤は、昭和50年(1975)の構造不況対策協議会において「戦後の30年間、我が社は戦前からの蓄積をほとんど使いはたし、巨額な借入金に依存せざるを得なくなりました。私の経営は、日本経済の高度成長にタイミングを合わせ、いたずらに急ぎ過ぎました」と述べている。自分に経営センスが全く欠けていたことを棚に上げ、「高度成長に合わせて道を間違ったのだ」などとはまともな経営者の言葉ではない。まさに経営者として失格という他はない。
第3節「小手先の合理化で会社全体の力を弱める」
   翌年の昭和51年(1976)に入ってからも業績はさらに大きく悪化して、それにもかかわらず伊藤は抜本的な合理化に踏み込めず、工場の一部休止や絹糸や食品事業の分社化などで表面を糊塗して、鐘紡全体の決算をよく見せかける事を進めたに過ぎなかった。そして翌昭和52年には無配に転落したのであった。無配転落に伴い伊藤は、「これは経営者にとって一切弁解のできないことです」と記者会見にのぞみ辞表を出そうとするが、当時の三井銀行の小山五郎会長から「貴方が辞めたら誰が会社を立て直すのですか」と慰留され思い止まったと「文藝春秋」(昭和60年2月号)で述べているが、これは気脈を通じていた小山会長とのかけ合い漫才、彼一流のパフォーマンスで、辞める気など毛頭なかったのではないかと思っている。しかし三井は副頭取の青木郁郎を会長に送り込む。いうならばこの時点から三井銀行の容喙が始まり、いわば銀行管理となったのである。
   伊藤が最も力を入れたのは合成繊維事業であったことは、前々から述べている通りであるが、合繊は設備に莫大な投資を必要とする。しかも技術的に鐘紡は先発の各社に比べて問題があった上、肝心の営業面では販売力が極端に弱かった。特にアクリルは先発各社の「カモ」になっていたのである。
   一方化粧品事業は好調で、主たる競争相手も資生堂のみであったから、伊藤は一度は切り離していた「カネボウ化粧品株式会社」を昭和56年(1981)再度本社に吸収して表面を取り繕う。
   また淀川の加工部門を長浜工場に移転して、淀川の土地利用を考えるようになる。しかしこれらはすべて抜本的なリストラではなく、あく迄小手先の合理化であって、かえってこの策は、鐘紡全体のモラルを低下させ、会社全体の力を弱めたのではなかろうか。
   伊藤の考え方は、この期に及んでも企業の経営体質の強化よりも、事業規模の拡大に未練があったように思う。後日明らかにされるのであるが、このころから鐘紡の粉飾決算が常時行われるようになり、それが鐘紡の体質となっていく。

■第八章「鐘紡崩壊の元凶、伊藤淳二」

第1節「常識を疑われる日本航空との二足のわらじ」
   昭和59年(1984)伊藤は社長の座を常務の岡本進に譲り、会長に退く。しかし伊藤は会長になっても最高会議の議長を続け、実権を握り続けた。岡本は営業出身で人格的にも優れ、伊藤のペンタゴンの「いびつな正五角形をただす」として新しく百周年に向かって「プレセンチュリー計画」を発表するが、岡本の社長就任後プラザ合意後の影響を受け、繊維市況は更に悪化して計画の最終年度は67億円という多額の赤字を計上し、有利子負債も実にこの3年間で4,300億円に増加したのであった。そしてこの頃から粉飾決算は日常的に行われており、上記の数字すら疑われる数字であった。
   さて、一方では伊藤が会長となった翌年(昭和60年)に、突然当時の中曾根康弘首相から日本航空の副会長就任を要請される。当時の日本航空は昭和60年(1985)の墜落事故後の安全対策や、10近くに分裂した労働組合との対立など難問を抱えており、何とかその処理を、当時関西財界で労働問題の専門家として噂の高かった伊藤に期待したのであった。しかし後になって考えると、これは全く中曽根の期待はずれであった。鐘紡の組合は穏健なゼンセン同盟傘下の単一組合であり、まして伊藤は若い頃から鐘紡労組を育ててきた事でもあり、労使は運命共同体が売物という組織であったから、先鋭的な日本航空の労組を手なずけられるとは誰も信じられなかった。クーデター事件がたたって関西の財界では爪弾きされていた伊藤にとっては、中央へ歩をのばす絶好のチャンス到来と思ったのではないか。
   しかし伊藤はこの就任に対して常識を逸脱すると思われる条件を出した。即ち鐘紡会長との兼務なら引き受けるという条件で、しかも平日は週2回、土日は出来る限り出社するという極めて変則な条件まで出したのである。
   日航といえば文字通りナショナルブランド、しかも墜落事故の後で数々の難問をかかえる企業のトップに就任して、なお民間企業に片足を残すなど全く常識を疑われる有様で、引き受けた以上は、その場所に骨を埋める覚悟で取り組むのが経営者のとるべき道である。案の定腰の定まらない伊藤は、翌年日航の会長に就任したものの、先にも触れたように四分五裂となった組合に対して手を焼くことになる。
   山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」は、日本航空の再生について詳しく描いた小説であるが、この中で山崎は伊藤の事をきわめて好意的に書いている。その裏を詳しく知っている私であるが、芦屋の鐘紡の豪華なクラブの一室を山崎のために提供し、食事は、大阪の一流ホテルのシェフを連れて来てもてなすなどした事は有名である。
   幾つにも分裂した組合の一つで委員長を務め、特に急進的で反社会的活動家の烙印を押されていたある人物を自分のスタッフとして活用して、組合間の紛争を解決しようとした伊藤の作戦は失敗に終わり、あろう事か、もっとも急進的であった組合の背後にあった代々木の共産党本部に挨拶に出向き、内外の非難を浴びたのであった。
   伊藤の後ろ盾であった中曽根首相も、余りにも期待はずれであったため愛想をつかしてしまった。しかし伊藤は「政府の支援が十分ではない」との捨て台詞を残して、任期途中で辞表を出して無責任にも日航を辞任してしまう。これが伊藤淳二の本性だと思うが皆さんはどうお考えか。
第2節「鐘紡の収益は悪化の一途を辿る」
   一方鐘紡では、伊藤が依然鐘紡会長に居座り実権を握り続けたため、期待された岡本社長の出番は皆無と云ってよいほどなかった。平成元年(1989)に岡本は副会長となり、社長には専務の石澤一朝が昇格した。石澤は技術畑出身で伊藤の忠実な番犬の一人であった。私は石澤をよく知っているが、下に厳しく上にはへりくだるタイプで、彼こそこの時期に抜本的な対策をとるべきであったのに、何も出来ずむしろ合繊部門への投資を進めたため、石澤時代に有利子負債は1千億円増加して5,500億円になってしまった。一方この頃から中国、パキスタンからの綿糸輸入が増加して、綿紡部門の収益を圧迫して大きく赤字が膨らんだのであった。
   平成4年(1992)になってようやく伊藤が名誉会長となり、後任の社長となったのは内外で評判の悪かった永田正夫であった。永田の事は前にも述べたが武藤を裏切り伊藤についた曲者で、営業の経験は全くなく総務関係、特に総会屋との黒いつながりがささやかれた人物で、彼が有名なのは伊藤が日航在籍中の昭和61年(1986)に出された伊藤批判の本「日航機事故を利用したのは誰か」という本15,000冊を出版される前に全量鐘紡の費用1,000万円で買い取り、裁断処分にしたのがこの永田である。
   彼は「非常時対策委員会」をつくり、綿紡三工場の閉鎖や成績不良の食品部門の分社化などに手を付け、更に銀座にあったサービス部門の土地を売却したりしたが、まさに焼け石に水で収益は悪化するばかりであった。平成6年(1994)にはまたもや無配となるが、その基礎となる数字は粉飾決算の結果であり、どこまで信用出来るかわからない。そしてこの年石澤会長、永田社長は退任して専務の石原聡一が社長となった。
第3節「鐘紡再建の手を全く打てなかった伊藤」
   話は前後するが、ここで伊藤の経営の問題点をさらに詳しく明らかにしておきたい。昭和63年(1988)発行の伊藤の手による「天命」という著作がある。丁度日本航空を無責任辞任した頃である。今あらためてこの本を読んでみると、伊藤の本質がよくわかる。全編孔子の言葉があふれかえっており、彼がやってきたことの事実と違う言い訳が並べられている。これを一言で言い正すと、伊藤こそが有言不実行の実行者であるということである。さらに鐘紡の内部で彼が講演した「芸術化産業を目指す鐘紡」なる冊子を読むと、「芸術化産業を目指す鐘紡」とは「豊かで美しく生き甲斐にみちた価値ある人生への提案をする企業」と彼は述べている。そして芸術の意味するところは何かと言うと「本来芸術は技術と同義語で、モノを作る技術、そして芸術の使命は美を作り出すことである。つまり技術が極まるところが芸術である」。いわせてもらえば彼は技術と芸術を混同していると思うのであるが、それはさておき、確かに哲学の講義であればそれでよいかも知れないが、屋台骨がぐらついている鐘紡において、大真面目に幹部を集めて話すようなことでは絶対ない。
   24年間社長、会長に君臨してその後も実権をふるった伊藤にとって、会社の実状は誰よりもわかっていたと思う。それだけに再建のためにはどのような手を打たなければならないかを十分理解していたと思う。従って彼の力をもってすれば鐘紡再生の手を如何ようにも打てたはずであるが、彼には全くそれが出来なかった。ということは彼こそ鐘紡を崩壊させた元凶以外の何ものでもない。会社の危機に臨みなお「芸術化産業」などと、ねぼけた再建とは関係ないことを論じていた馬鹿げた伊藤のため、鐘紡はこの世から消え去ったのである。
   さて次の社長の石原であるが、石原は元々伊藤の子飼いで、実家は機屋で一時鐘紡を退社して実家の経営に従事していた。その後、経営不振の中で鐘紡に呼び戻されたという経歴がある。元々秘書出身で絲治社長とも関係が深かった。私も若いころから知っている。石原は人員の削減と本社機能の集約、合繊の合理化を推進したが、はかばかしい結果は生まれなかった。それでも彼の進めた方向は銀行の要求する厳しい合理化案とベクトルが合い、再建計画の枠組みは前進したのであった。しかし伊藤の院政体制は続き、折角の合理化対策もその実行に当たっては、伊藤の意向を受けた役員の反対、非協力により十分な成果をあげられなかった。平成10年(1998)には繊維部門の分社化に成功して人員の圧縮も進んだが、それでもなお繊維部門には大きな赤字が残った。
第4節「循環取引が粉飾決算につながる」
   これは後から判明した事であるが、伊藤が社長、会長の頃から循環取引が公然と行われており、これが常態化していき、やがて大きな粉飾決算につながっていくのである。このことは、石原の後に社長となった帆足隆の下で経理担当常務を務めた嶋田賢三郎の小説「責任に時効なし」に詳しく述べられており、鐘紡内部の関係者から極めて真実に近いという言質をもらっている。
   そしてその後帆足社長自らが、粉飾決算には伊藤淳二が社長、会長の時から行われていたと云っており、伊藤は時効の壁に助けられて責任を免れたが、「道義的な責任に時効はない」のである。まさに首魁は逃げ延びた。しかし鐘紡を破滅に追い込んだのは彼以外の何者でもない。
   石原は第二次再建計画をまとめて会長に退いた。後任には、鐘紡では「慶應卒で繊維畑出身」がエリートであり、さらにその中でも人事、労務出身者が重要視されていたが、そのような中で四国の一地方大学の出身者、しかも化粧品の営業現場の出身である帆足隆が社長に就任し、世間を驚かせたのであった。この帆足社長のもとで鐘紡は崩壊への最後のあがきを示すことになる。

■第九章「鐘紡破局のはじまり」

第1節「非主流派の帆足が社長に就任」
   いよいよ石原の後を継いだ帆足のもとで、鐘紡がどのような破局の道をたどっていったかを述べていきたいと思う。帆足社長は従来の鐘紡の社長の中では異色の人物であった。彼は昭和36年(1961)に松山商科大学を卒業後、鐘紡の子会社、カネボウ化粧品販売に入社して営業マンとして頭角を現し、30才台で支配人に抜擢される。そしてその営業マンとしての活躍ぶりが伊藤の目にとまり本社に登用され、その後も独自のノルマ主義を標榜して営業成績を上げ続けた。一方鐘紡本社の業績は悪化の一途をたどり、従来のような、一握りのエリート集団だけで繊維を始めとする多岐にわたるペンタゴン経営の推進は、難しくなっていた。しかしその中身をみると、化粧品部門は順調に推移し、繊維その他の赤字部門をカバー出来るようになってきていた。そこでメインバンクのさくら銀行(現三井住友銀行)は鐘紡の改革を進めるため、非主流派の帆足を社長に抜擢するように強く会社に迫った。従来の鐘紡社長に比較して帆足は積極的な行動力はあったが、その見識、品格などから見て名門鐘紡の社長には全くふさわしくないという意見も社内には多々あった。しかし銀行からの圧力もあり、結局帆足の社長就任が決定した。これにより、繊維部門の赤字を補いながらも従来非主流派とされてきた化粧品部門の意気は大いに上がった。
   実践派の帆足は社内の大受けを狙い、就任早々に社員の給料を3年間10%カットするという荒業を断行した。さらに不振の繊維部門に大ナタを振るい、リストラを強要する一方好調な化粧品とトイレタリー部門に力を入れて、収益の増加を図った。
   このように化粧品事業は伸び、繊維事業も黒字化するかに見えたのであるが、丁度その頃から企業の財務内容を欧米なみに透明化する会計ビッグバンの制度が我が国においても取り上げられるようになり、元々財務体質の弱い鐘紡にはこれが大きな負担となってきたのであった。
第2節「粉飾決算の舞台となった興洋染織」
   このような状況の中で鐘紡の粉飾決算の舞台となったのが、泉佐野市の興洋染織であった。泉佐野は国内毛布の95%を生産する毛布の町で、その中でも興洋染織は最大のメーカーであった。この興洋染織とカネボウは何時の頃からか深い関係を持つようになっていた。鐘紡の合繊事業進出は、専業の東レや帝人、倉レ、又綿紡から早々に進出した東洋紡などに較べて遅れていた。武藤絲治社長時代に進出したナイロンは、鐘紡シルクの名声もあり順調に推移したが、伊藤社長は前述のように天下の鐘紡が三大合繊の内、ポリエステル、アクリルを保持しないのはおかしいとして、周囲の反対を押し切って他の二つへも進出したのであったが、何分最後発のポリエステル、アクリルは、品質の安定に悩み、特にアクリルは品質が悪く安売りが常態化してしまい、先発各社のいわば「カモ」になっていた事は先に述べた。ところが興洋染織だけは他社のあまり使いたがらない鐘紡アクリルをうまく使用して、一時は売り上げを伸ばすと同時に利益を確保していた。
   元々毛布は季節商品であるから秋冬にしか売れない。一方工場は年中生産を続けるから在庫が積み上がる。そこで年間を見越した生産品を手形決済などにより商社に買い取ってもらって、秋のシーズンになると商社を介して小売店の店頭に並ぶという「備蓄在庫取引」が業界の商習慣となっていた。しかし興洋染織の在庫が通常の備蓄の限度を超えると、鐘紡に毛布の過剰在庫を買い取ってもらうようになった。この結果鐘紡の興洋染織からの受取手形が、毎期100億、200億円単位で増加し続けたのであった。
   何故このように在庫が増えたかであるが、これは鐘紡から興洋に対するアクリル原糸の無理な押し込み販売にいきつくのである。鐘紡はアクリルの原綿を防府の合繊工場で生産して、これを彦根の工場に送り、毛布用の糸と編地に加工して出荷していたのであるが、実に防府工場のアクリル生産量の25%が彦根に送られ、そのすべてが興洋向けであった。鐘紡は興洋から大量の毛布を買い戻し、条件付で兼松、ニチメン、トーメンなどの商社に対して各商社名義で「在庫備蓄」することを要請したのであった。これは、一定の期間が過ぎればある商社から買い戻した金額にして数十億円の毛布をそっくり次の商社に引き取ってもらい、これを今度は次の商社に回すという方法をとったのであった。このやり方は繊維業界では昔から取られていた、いわゆる金融取引といわれる方法であったが、普通は1社対1社で行われるのが、このように2社も3社もが介在する複雑な取引はあり得なかった。この複雑極まりない取引は、巷間面白おかしく「宇宙遊泳」などと揶揄されたのであった。
第3節「奇策を弄して不良債権を先送り」
   当然このサイクルに乗って商品が変則な取引を重ねていくうちに、当然商品の価格が段々と大きくなっていき、それに加えて取引毎に口銭が加えられていくため、損失は増加していった。
   しかしこのような架空取引が何時までも続けられるはずはなかった。最終的に商社が鐘紡に買戻しを求めてきた結果、その金額は実に459億円という巨額なものとなっていた。鐘紡はこの不良債権を表沙汰にすることは絶対に避けなければならなかったから、この処置には困り切ったのであった。その中からこれを消すために次のような奇策を思いつく。すなわち経営不振で赤字に喘ぐ「興洋染織」に因果を含めて、営業用の全財産占有と経営者退任を要求し、その一方で新しく鐘紡の子会社の商号を「興洋染織」に改めさせ、あたかも従来から存在する興洋染織がそのまま存続しているように見せかけて、従来から興洋染織に商社から請求されていた459億円をそのまま買い取らせたのであった。
   さらに本物の興洋染織は平成10年(1998)4月に商号を変更した上、5月には会社そのものを解散させてしまったのである。さらに営業全部を新しい興洋染織に移し替えて、あたかも従来からの興洋染織が存在し続けているかのように装うことに成功したのであった。
   この後6年間にわたり鐘紡は、興洋染織を隠れ蓑にして粉飾決算を続けたのであった。普通に考えるなら、平成10年に興洋染織が行き詰った時点で鐘紡はこの会社をつぶし、腐れ縁を断ち切るべきであった。しかし鐘紡にはアクリルを押し込み販売してきた伊藤淳二以来の負い目があった。仮に興洋染織を倒産させれば鐘紡に大きな損失が発生する。更にアクリルの販売先を失いアクリル事業が立ち行かなくなり、アクリル事業を整理せざるを得なくなる。そうなれば鐘紡の大幅な債務超過は避けられなくなる。当然トップの経営責任が追及される。こうして結局問題を先送りして、まさに入れ替わった興洋染織との関係をずるずると続けていたのである。

[次号へ続く]                                                                                           
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

2022年7月31日 金言(第120号)
伊藤淳二への挽歌A

■第四章「鐘紡の戦後復興」

第1節「平和産業への転換を目指して邁進した倉知社長」
   先にふれたように、昭和20年12月3日、津田社長はA級戦犯容疑者として指名されたため社長を辞任し、巣鴨に収容されたのであったが、後任には倉知四郎氏が指名された。倉知氏は武藤山治イズムの信奉者で、どちらかというと津田社長の軍国日本に迎合していくやり方について、兼ねてから苦々しく思っていた。いわば津田の暴走に対してのブレーキ役であったと云える。
   倉知社長の眼前には戦災復興対策、平和産業への転換、外地で展開していた事業の喪失に対する善後処置など問題が山積していた。何しろ敗戦直後の鐘紡の前途には暗雲がたれ込めていたのであった。特に大陸からの多数の引揚者、復員者が帰還する中で、内地の生産工場は米軍の爆撃により機能不全に陥っていたから、それらの社員を収容する余地は全くといってよいほどなかった。そのため倉知社長は涙を呑んで、やむを得ず社員の整理に手を付けるという苦渋の決断を下さざるを得なかった。
   具体的に当時の鐘紡の状況を述べると、昭和22年(1947)一部前後するが「鐘紡100年史」によると内地工場従業員27,347名(76.3%)、外地工場従業員2,337名(6.65%)、応召された従業員6,164名(17.2%)、合計3万5,847名となっている。
   倉知社長はこれらの従業員を一人でも多く内地の拠点に収容しようと努力を重ねるが、当時の状況はこれを許さず、ついに人員整理という苦渋の選択のやむなきに至ったのであった。問題はそれだけではなかった。大手の紡績の中できわだって被害の大きかった鐘紡を取り巻く状況は極めて厳しく、倉知は設備を復元するために必要な膨大な資金の手配、原材料等物資の確保等にリーダーシップを発揮して苦心惨憺の末、破局寸前の鐘紡の平和産業への全面的な転換を目指して邁進したのであった。
第2節「武藤絲治が社長に選任された経緯」
   ところがここへきて降ってわいたような試練が鐘紡を襲う。すなわちGHQによる公職追放である。これは昭和21年(1946)1月にGHQから発令されたもので、日本政府に対して「指導的な戦争遂行者及び協力者」を対象にすべての公職、要職からの追放を命じたもので、いわゆる「公職追放令」であった。具体的には戦争中資本金1億円以上の会社において、役員など首脳になっていた人達の大半はその該当者となった。
   鐘紡においても倉知社長以下4名の常務がその指定を受けたが、それに加えて追放令とは関係がなかったが、9名の取締役が後進に道を開くため勇退したのであった。倉知社長は武藤山治直系の経営者で、日頃から津田氏の暴走を快く思っていなかった人物であり、戦後の復興にはうってつけの人物であった。その人物が社長を去ることになり鐘紡には動揺が走るが、一方では社長の座を狙う人物も現れたのであった。鐘紡の社長の座を狙った一人は名取和作氏であった。名取は朝吹英二の女婿であり、富士電機の社長を務めた実績がある。才子ではあったが実績が伴わず、そのくせ野心家で陽の当たる場所への志向が強かった。余談ではあるが彼は一時(昭和6年)経営の傾いた時事新報社の社長に就任したが、経営者としての実力の伴わない彼は社業の回復を少しもはたせず、武藤山治が登場せざるを得ない下地をつくった人物である。
   名取はその後津田社長に取り入り鐘紡の取締役となっていた。この彼が倉知の後釜を狙って動き始めたのであった。倉知はこの動きに心を痛め、彼は戦後鐘紡の復興には年齢が若くその実力は未知数ではあったが、故武藤山治の子息である絲治こそが、この非常時において自分にかわって会社再建をはたす適任者ではないかと考え、その方向で動き出した。そして昭和22年(1947)6月の取締役会において、倉知社長が辞任して新たに取締役社長に山治の次男絲治が選任された。しかし同時に取締役副社長となったのが中司清であった。彼は絲治より年長で、また津田前社長の下で大陸において活躍し、その実力は自他共に認められる存在であり、同時に常務となった山田久一も実力者で、この二人の存在が絲治社長の前途に一抹の影を投げかけていた。
   GHQはこの年、経済の民主化の総仕上げを図るため「過度経済力集中排除法」を公布し、紡績会社において繊維以外の多角化の排除、一業種への専業化を進めようとするが、これでは産業復興が阻害されるとして、一部を除き大手10大紡績の存続は認められることとなった。
第3節「鐘紡の復元の歩み」
   さて戦後の鐘紡の復元は、戦災による被害が大きく同業他社に比べて極度に減少した設備のもとでの再出発であった。このため復元のための費用は借入金に頼らざるを得ず、巨額の戦時負債(大陸への投資)を背負ったままであったため、財務的な負担は同業他社に較べ極めて重いものであった。当然鐘紡の再建は、先ず繊維部門を中心に進められていくのであるが、この過程で絲治社長と中司副社長との間で意見の相違が明らかになり、再建整備の具体案が進められていく中で、化学工業部門を分離して別会社化する案が実行に移され、昭和24年(1949)4月石鹸、マーガリン、イースト、苛性ソーダ、医薬品、化粧品等を業務内容とする鐘淵化学工業が設立され、社長には中司副社長が就任した。このようにして非繊維事業は新会社(鐘化)に移り、鐘紡は本来の繊維専業会社として、歴史と伝統のある往年の地位の回復を目指して新しいスタートを切ったのであった。その時点で鐘紡が綿紡に加えて手がけたのが戦前から着手していたレーヨン事業であった。
   さて、戦争により大きな痛手をこうむり、再出発した鐘紡を含む綿紡績諸会社の努力は並大抵ではなかった。そこに大きな転機が訪れる。それは昭和25年(1950)6月に勃発した朝鮮戦争であった。これは繊維産業に特需の発生と輸出の増大という思わぬ大活況をもたらしたのであった。この結果鐘紡においても綿紡、毛紡、絹紡、レーヨンとすべての部門で異常ともいえる活況をもたらした。売上高は昭和25年上半期54億9千万円であったものが、26年(1951)上半期では247億4千万円と実に2.6倍の増加となり、純利益においても26年上半期には18億7千万円にまで伸びたのであった。当然配当率も25年3月期は1割8分であったものが、26年9月期には4割という高率配当を実施したのであった。
   しかしこのような動乱ブームは長続きせず、動乱終了後には反動不況が到来して、やがて設備過剰と生産過剰が綿紡だけに止まらず、繊維産業全般に広がり慢性化していくのである。綿紡績を始めとする繊維産業は、朝鮮動乱を奇貨として設備は戦前の水準まで回復したが、昭和30年代に入るとナイロン、ポリエステル、アクリルなどの合成繊維が伸びてきた。それに加えて、台湾、韓国など新興国による価格の安い綿糸布が国内外市場を侵食するようになる。このため業界は、大幅な操短を繰り返してこの危機を乗り越えたのであった。
   一方紡績各社においては多角化を進める動きが活発化する。具体的にはナイロン、ポリエステル、アクリル、ポリプロなどの合成繊維への進出が図られたのであるが、すでに東洋レーヨン、帝人など合繊専業の会社が先行していたため、後発の綿紡各社は苦戦を強いられることになる。鐘紡は合繊では先ずイタリアからナイロンの技術を導入し、また一度は鐘化に移した化粧品事業を買い戻し、再び化粧品を扱うことになる。その他フランスのクリスチャン・ディオール社と提携して二次製品部門にいち早く進出するなど、絲治社長の出足は順調であった。しかし、一方では絲治社長と山田久一副社長との角逐が激しくなり、この争いは鐘紡の前途に暗い影を投げかけたのであった。山田副社長については詳しくは存じないが、絲治より年長であり、両者の間は絲治が社長に就任以来しっくりしない間柄であった。その調整には右翼の大物が乗り出すなどして後々に問題を残したようである。

■第五章「鐘紡再建を進めた武藤絲治」

第1節「武藤絲治のプロフィール」
   ここで私にとっては叔父である武藤絲治のプロフィールを述べておきたい。彼は明治36年(1903)山治の次男として生まれるが、慶応の普通部を中退後1924年に英国に留学して、当時教育者として有名であった英国のオルダーショーの私塾、ファンレー塾に4年間学んだ。ファンレー塾は特異な学校で、ヨーロッパを中心に生徒は各国1人ずつ10名か20名で、これにオルダーショー自身がいわばマンツーマンで、その個人の個性に合わせた教育を施すシステムで、ほとんどの卒業生はオックスフォードかケンブリッジ大学へ進学した。従って彼もその方向を考えたが、実際のところ彼は学業が苦手であったため、1929年帰国して、実業につきたいとの希望を持ち山治に相談するが、山治は息子の鐘紡への入社は絶対に許さなかった。彼自身も日頃シルク事業に携わりたいと考えていたため、その基礎を学ぶため絹業中堅の鹿児島にあった昭和産業に入社する。ところが山治の死後、この会社が鐘紡に吸収合併されたため、山治の意思に反して絲治は鐘紡の社員となる。時あたかも津田社長が権勢を誇っていた時代で、絲治は津田のもとで経営者としての階段を上がっていく事になる。そして昭和12年(1937)取締役となった後昭和22年、公職追放令が出て当時の倉知社長以下幹部が退職したため、44歳の若さで社長に就任したのであった。絲治が社長に就任した際には、それを快く思わぬ存在もあって波風が立ったのであるが、業績の方は大過なく推移したためその後しばらくは人事面では波風は立たなかった。
第2節「人間尊重の精神で全社運動を推進」
   彼が社長に就任して先ず取り組んだのは、彼の基本的信念即ち人類、国家、企業は運命共同体であるべきだという考え方の実践であった。経営者と労働組合は人間で云えば欠かせない人体の一部であり、この二つが調和してこそ健全な身体が維持される。このことは企業の本体、本質は機械や建物ではない、目に見えない人の心こそが本質であって、会社を生かすも殺すも働く人の心構えであると考えた。すなわち「人間尊重の精神」である。この考え方を全社運動として推進することにしたのである。そしてこれを3S運動と呼び、3Sとはスピード、サービス、セイビングの三つとして戦後の鐘紡再建の合言葉としたのであった。これは戦後の日本において欠けていた「スピード」また、政治、産業、社会生活における奉仕「サービス」、さらに物資、財力の乱費を防ぎ、加えて時間を節約すること「セイビング」の実現を目指したものであった。
   絲治が引き継いだ鐘紡は、何回も触れているように津田社長の多角化経営のいわば後始末ということであったが、彼は「経済力集中排除法」が施行された事を機に戦時中の事業を大幅に縮小整備した。また同時に津田色の一掃を図った。具体的には昭和24年には鐘紡本来の繊維事業一本に回帰し、それ以外の工業部門は鐘淵化学工業として分離し、その他の非繊維部門、例えば鐘淵商事や鐘淵機械なども切り離した。絲治社長は人心を掴むのが極めてうまかった。当時の鐘紡に行くと、いたる所に「鐘紡我が心にあり」という標語が掲げてあった。これは父山治の「幸福は我が心にあり」という言葉から絲治が直々に考えとったものであるが、社員にとって本当に心に響く標語ではなかったかと思う。
   鐘紡の経営は昭和25年の朝鮮動乱を契機として急速に戦前の姿に戻り、極めて順調に社業は推移した。そしてこの間労使関係も良好な関係を維持した。しかし良い事は長くは続かない。朝鮮動乱によってまさに我が世の春を謳歌した紡績業界であったが、昭和28年(1953)を境に反動が現れる。動乱景気をよいことに急速に増加した過剰設備は業界に構造不況という重いツケをもたらしたのであった。
第3節「ワンマン化していった絲治社長」
   昭和33年(1958)には鐘紡を含め大手紡績は不況に突入していったが、特に鐘紡の決算は、実に9億3千万円という多額の赤字を計上するという事態となった。これは絲治社長の新合繊のポリエステルは衣料用には不向きとしてスフ綿の設備を大拡張した事が裏目に出た結果であった。その他借入金が他社に較べて多いとか、売上利益率が低く、一方では営業費の過大などが業績低下の理由としてあげられているが、最も鐘紡の本質的な問題として取り上げなければならないのは絲治社長のワンマン化であった。当時の経済誌をひもとくと、鐘紡の営業不振の本質的な問題は「各組織は社長の直属となっていて、判断は全て社長に一任されているため直接責任の所在が不明である」という点にあると指摘している。このような状勢のもとで社長は不況対策として次のような提案を行った。
  • 1.東京、博多、中津の三工場と山科工場の綿布部門を休止する
  • 2.特別休暇の実施
  • 3.1年間従業員の賃金を15%カットする。
  •    このような提案は当然組合としては受け入れられるものではなかった。特に「賃金カット案」については当然強硬に反対する。ここで絲治社長は自ら「1年だけ辛抱してくれ、会社がよくなれば必ずその努力に酬いる」と確約したことによって、組合側は「会社あっての従業員だ」とこの提案を受け入れたのであった。まさに異例な対応といってよい。
       この対応によって鐘紡の業績は急回復したのであった。そして戦後同業の中で低位が指定席であった鐘紡は、昭和35年度の売上、利益ともトップに躍り出し、賃金カットの返済約束も3年後に見事に果たしたのであった。私は社会人になったばかりであったが、父親はその情勢を評して「まるで手品だなあ」と云っていた事を思い出す。
    第4節「クーデターが起こる」
       この合理化案を実際に進めたのは、後に絲治に代わって鐘紡の全権を握る伊藤淳二であった。これ以降絲治は何かにつけ伊藤を頼りにすることになる。そして昭和35年(1960)暮れに絲治社長を社長から代表権のない会長に祭り上げるクーデターが起こる。この事件は城山三郎氏の「役員室午後三時」という小説に書かれているが、記載されている内容はほぼ事実に即したものであると伊藤自らが語っている。この筋書きを描いたのは伊藤淳二であった。本当の筋書きは伊藤の言によれば、役員会において絲治社長を会長に棚上げして、後任の社長には坂口分二専務が昇格することになっていた。ところが田中副社長が自ら社長を目指して動き出し、その結果絲治社長以外全員が「武藤を代表権のない会長に棚上げ、田中副社長の社長昇格」を決めたのであった。元々このクーデターは伊藤が目論んだもので、その筋書きでは絲治の会長昇格、坂口専務の社長昇格であったが、田中の社長昇格という予想外の展開となったため、伊藤も辞表を出して退任する。
       しかし伊藤は武藤の復帰を目指して暗躍するのである。そのやり方は、田中社長が64歳であったため社長の定年を65歳にするよう役員1人1人に説いてまわり、65歳定年を実現してしまう。こうなると田中は社長になったものの任期は1年もなく、これでは社長になった価値はないし、武藤会長との間もとげとげしいものであったから、坂口はこの際絲治を再び社長に戻す以外方法はないとして、田中に辞任を迫り坂口も共に退任することを提案したのであった。この結果田中はたった5ヶ月間で社長を退任し、絲治が社長に復帰、坂口も退任したためお家騒動は幕を下ろしたのであった。伊藤は武藤の側近として復帰し、その後38歳の若さで取締役となった。しかしこの騒動の黒幕は伊藤淳二であり、その後彼の力が急速に強まり表面はともかく前途に悪い予感が感じられるようになった。

    ■第六章「鐘紡の主導権を握った伊藤淳二」

    第1節「グレーター・カネボウ計画に努力を重ねた絲治社長」
       昭和36年(1961)に絲治社長が復活すると、第一次グレーター・カネボウ建設計画(GK計画)が発表された。これは「より偉大な鐘紡を建設して従業員の幸福に資する」ことを目標にしたものであった。この計画は先ず天然繊維から合成繊維へ重点を移すこと、さらに労働集約産業から資本集約産業へ転換を図るものであり、綿紡績から出発した鐘紡にとって画期的なものであった。
       この背景は高度経済成長下において鐘紡を取り巻く情勢が大きく変化したことであった。具体的には綿紡を主力とする繊維産業自体は、国民生活において欠かすことの出来ない必需品であるから決して滅ぶものではないが、その原料、製品とも市況変動が激しく、厳しい国際競争にさらされていた。さらに従来輸出市場であった中国、韓国などの東南アジア市場は輸出国に変りつつあり、我が国自体の競争力の源であった豊富にして、かつ低廉な労働力にも大きな変化が生じてきていた。このように大きく変化する時代背景のもと打ち出されたGK計画の基本は
  • @ 原料から最終製品に至る一貫生産体制と販売網の強化、拡充
  • A 合繊部門への進出(ナイロンの企業化)
  • B 非繊維部門への多角化推進(化粧品、食品、薬品、住宅等)
  • C 非能率工場の閉鎖、人員削減等による生産性の向上であった。
  •    一方でこの野心的な計画を成功させるためには、何をおいても労使協調を確固としたものにする必要があった。そのために昭和37年(1962)労使間において「鐘紡の存立と発展の源泉は従業員」である事を明記した「労使の平和共同宣言」が行われたのであった。この結果第一次GK計画の終了する昭和39年(1964)10月期の成績は、売上高は計画482億円に対して719億円、経常利益は計画26億円に対して31億円と大幅に計画を上回り達成したのであった。
       この年は鐘紡創立77周年に当たっていたが、第一次GK計画達成が見込まれていた事もあり、突然武藤は5月の創立記念日に「現行定年制の廃止」を内容とする「従業員繁栄対策宣言」を発表して世間を驚かせたのであった。この事は世間に相当なインパクトを与えたが、これは、絲治社長のパフォーマンスでその実現性と永続性に疑問を投げかけた人も多かった。絲治社長は文字通り献身的にGK計画の成功に向かって懸命に努力を重ねていた。それは社内外共全体が認めるところで、彼は会社が終わってからも自宅に帰らず大阪のホテルに泊まり込み仕事をしていた。
       エピソードとして、当時の彼を知る老舗古美術商集雅堂の店主、岡田一郎氏は次のような話しをしてくれた。「絲治社長はお父さん(山治)の影響もあって古美術には目がなかった。当時はまだ父親が店の采配をしていた時代で、自分は絲治社長がよく店に来られていた事は承知していたが、言葉を交わしたことはなかった。しかし自宅に品物をお届けにあがった事は何度かあった。ホテル住まいで頑張っておられるということは聞いていたが、随分苦労されていたことはよくわかった。店に来られる時の服装も、ワイシャツはよれヨレヨレ、ある時は靴下に穴があいていた事を覚えている。自分も若かったが社長というのはここまでやるものかと感心していた」。
       このようにホテルに泊まり込んで奮闘していた絲治社長であったが、同じホテルに伊藤淳二が同宿しており、当時私も何かがおかしいなと思った事があった。すなわちGK計画すべてにおいて主導権を握っていたのは伊藤であり、絲治社長は極言すれば彼の傀儡にすぎなかったのではなかろうか。
    第2節「結果を出せなかった第二次GK計画」
       引き続き第二次GK計画へと移行したのであるが、第二次計画も昭和42年(1967)10月期には売上高756億円と目標を達成したものの、経常利益は7億円と大幅な未達となり厳しい状況に立ちいたった。具体的には海外から導入した二次製品事業(クリスチャン・ディオール)が齟齬をきたし、全体の足を引っ張った結果であった。
       さらに昭和37年頃から取り組んできた近江絹絲及び東邦レーヨンとの提携交渉も不首尾に終わり、鐘紡はアクリル事業への手掛かりを失ってしまう。鐘紡の経営状況は急激に進めた第一次計画により歪みも生じ、加えて天然繊維の構造不況やレーヨンの不振、多角化で収益向上を図った食品、化粧品も販売不振により期待に応える事が出来なかった。労働組合もこの結果をみて絲治社長を激しく追及した。本来であれば日頃組合との関係を重視して良好な関係を誇っていた伊藤こそが組合説得の出番の筈であったが、伊藤は動こうとしなかった。武藤はこのため彼と伊藤との間の溝が深まっていく事に焦燥感を覚えるようになる。このような状況の中で、かねてから自己の野心を満たす機会を虎視眈々と狙っていた伊藤はついに直接行動に打って出る。
    第3節「伊藤淳二がクーデターを仕組んで社長に就任」
       城山三郎氏の「役員室午後三時」では矢吹こと伊藤が社長室で武藤に対して「さまざまな拡大対策、それに伴う粉飾、いずれにも社長個人の意地や面子がうかがえます。運命共同体である鐘紡にとってそういう個人的なものは百害あって一利ありません。共同体の名において退いて頂くほかありません。退かれる社長には、前回はダイヤモンド計画に専念する大物社長という花道を用意しましたが、今度用意できる花道は社長が自分の意思で後継者を選んで円満に退いたという体裁です。これがせめてもの餞です」と絲治に迫る伊藤の姿を書いている。伊藤は「役員室午後三時」に書かれていることは全て事実だと肯定しているから実際このようなものだったのかと思う。
       昭和43年(1968)5月武藤は代表権のない会長となり、伊藤が後継の社長に就任した。このクーデターについては世間一般に広く知れ渡っており、伊藤としては世間体をつくろうため、予定通りの禅譲であったことを世間に知らしめるために、絲治を半ば強迫して「文藝春秋」誌に次のように書かせたのであった。「私は彼(伊藤)こそが、天が私に与えた人物だと思った。この10年間、私は精魂込めて彼を鍛えたつもりである。私の頭の中の70%は彼に対する教育に使ってきたと言える」深く事情を知らぬマスコミは絲治の言葉を真っ向から信じてしまい、「次期社長を計画的に育てたのは立派である」とか「武藤社長の英断に驚嘆した」など紙面で絶賛し、伊藤の思うつぼとなってしまったのであった。しかし、伊藤の絲治に対する仕打ちは全くひどいものであった。会長に祭り上げられた絲治に対しては会長室も与えず、その後伊藤は自ら絲治に出社には及ばずと言い渡した。それだけではなく伊藤は、恩義のある絲治に対して公私混同の面があると言いつのり退職慰労金との相殺を図り、功績のある絲治に対し一文の退職慰労金すら渡さなかった。このことを実際に進めたのは秘書室長を務め、後に社長になった永田正夫であった。
       永田はかつて絲治の秘書として随分と目をかけられており、西宮の家は絲治が買ってやったと云われている。それにもかかわらず永田は以前から伊藤と気脈を通じており、まさに絲治に対してこのような仕打ちまでして伊藤のご機嫌を伺ったのである。
       私は絲治の秘書であった永田を学生時代から知っているが、後に彼が伊藤のおかげで鐘紡の社長となるとは、まして大和紡の社長であった私と隣り合わせで会議の席に座るなど夢にも思わなかった。伊藤は、マスコミを通じてさもスムーズな交代であるかのように装ったが、まもなくこれは伊藤が仕組んだ悪質なクーデターであることを関西財界では知らぬ人がない状況となった。このクーデターにより大鐘紡の実権を把握した伊藤であったが、この裏切り行動はその後長く尾を引き、関西の財界では彼に対する厳しい対応が長く続くのである。
       彼は前々から老人殺しといわれるように、高年齢の実力者に取り入ることがうまく、彼にまつわる数々の悪評をはらうため、絲治の競争相手であった鐘化の中司清社長をわざわざ鐘紡の名誉会長にしたり、メインバンク三井銀行の小山五郎氏、はては政界の大物岸信介氏を相談役としたが、世間ではこれは批判の的となっていた。
    第4節「武藤絲治の急逝」
       伊藤の絲治に対するクーデターの2年後の12月、絲治は突然心臓発作で倒れそのまま死去した。私は絲治が倒れる1週間ほど前、当時鐘紡に勤務していた亡弟と夙川の叔父の家を訪ねている。用件は省くが余り気持ちのよい出会いではなかった。何分突然訪問したため主治医が来られるというので用件のみで早々に退出したのであるが、これが叔父との最後の別れとなった。私共は叔父にとって余り彼の意に沿わぬ事を申し入れたのであったが、後で主治医の松本博士から「絲治さんは君等兄弟の事をほめていたよ。兄は好い息子を持ったと云っていたよ」との伝言があり、あの時もっと絲治と親身になって話をしておいてやったらと後悔したのを覚えている。
       絲治が亡くなった時の事でもう一つ付け加えておこう。正直なところ亡くなる2年前社長から実権の全くない、しかも会長室すらない会長に祭り上げられ悶々としていた中での急死であったが、その際の事で忘れられない思い出がある。絲治の遺体が安置されていた自邸の広間で親族が集まり生前を偲んでいたところ、その場に弔問に訪れたのが伊藤社長であった。今でもはっきり覚えているが、その場には一瞬凍りついたような気まずい空気が漂った。その沈黙を破ったのは私の母文子であった。「伊藤さん、絲治を殺したのは貴方よ」とずばり核心をついたその言葉に伊藤氏がどう思ったのかはわからないが、本当のところ、ぐうの音も出なかったと思う。後で鐘紡の人に聞くと伊藤は「武家の出の方は違う」と云っていたそうである。母は戦国武将丹羽長秀の後裔であった。
    第5節「伊藤淳二の実態」
       社長就任当時45歳であった伊藤は、その後自分の思うままに会社を操ったが社長の在任期間は16年にも及び、さらに会長として8年、通算24年間にわたり権力の座を占めた。加えてその後は鐘紡が解体される迄の長期にわたり陰の実力者として影響力を行使し、隠然たる勢力を保持し続けたのであった。彼は事あるごとに「自分こそ武藤山治の『人間尊重』という大義を引き継いだ経営者である」と声を大にして主張していたが、その実態を見ると彼の書いたわずかな本「天命」などを読んでも、武藤山治に心酔している箇所はどこにもない。どこかに彼が武藤山治について書いたものはないかと探してみたところ、わずかに昭和58年(1980)平凡社発行の雑誌、別冊太陽「慶應義塾100人」の中の一人として山治が取り上げられ、それについて伊藤が書いていた。随分昔のものであったが読み返してみると、その当時もそう思っていたのであるが、これは伊藤自身が書いたものではないと思ったが、これはゴーストライターのもので、実際にそれを書いたのは「鐘紡100年史」の編集に携わった伊藤の姉婿の山田毅一である事は私にはすぐわかった。何故なら内容は「鐘紡100年史」からそっくり拝借していたからである。「鐘紡100年史」の山治の部分は私が飽きるほど読んだ山治の「私の身の上話」をすっかり引き写したものであるから、私には山田が書いたという事はすぐにわかったのであった。
       伊藤は社内を含めて事ある毎に孔子の「論語」を論じる。しかし論語について私は門外漢ながら、論語の教えと正反対の事ばかりやっている伊藤の経営手法にはびっくりするだけでなく、文字通り呆れ返るのである。「論語読みの論語知らず」とはずばり伊藤の事であろう。何時だったか正確な日時は覚えていないが、日経新聞の夕刊の一面に、「明日への話題」というコラム欄に伊藤が論語について連載した事があった。例によって「私こそ論語を極めた専門家」を装い一見大変美々しい論語論を展開していたが、私には空虚なものとしか感じられなかった。これは私だけではなく知人の何人かからも「伊藤さんは綺麗事の好きな人ですね」という評判を聞いた。それよりこの連載で大変だったのは鐘紡の関係者だったようで、いろいろと気をつかい「心身共に疲れ果てました」と云っていた。

    [次号へ続く]                                                                                           
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年6月30日 金言(第119号)
    伊藤淳二への挽歌@

    ■はじめに

       明治時代の初めから我が国経済界を代表する企業として存在してきた鐘淵紡績(カネボウ)は、伊藤淳二なる全く我が国においては他に類を見ない馬鹿げた経営者によって亡んだのであった。伊藤が死去したことは全く公にされていないが、最近になって偶然知るところとなった。
       伊藤淳二は、武藤絲治社長をクーデターにより追放して、昭和43年(1968)社長に就任したのであったが、その後昭和59年(1984)会長となり、さらに平成14年(2002)名誉会長、次いで終身名誉会長となり、平成15年(2003)に名誉会長を勇退するが、鐘紡が産業再生機構の傘下に入る迄権力を保持し続けたのであった。その間伊藤は鐘紡会長のまま昭和60年(1986)日本航空の会長となるが、その独善的な経営から労使の対立が激化したため任期半ばで会長を辞任せざるを得なくなる。
       自分が代表を務める鐘紡の経営が、彼の独善的な経営のため表面はともかく、内実は極めて不良な状況であったにもかかわらず、ただ自己の名誉のため日本航空という国策会社の会長となり、途中でその経営を放り出して天下に恥をさらしたのであった。自分は鐘紡の社員ではなかったが、祖父山治がつくった日本一の収益会社を事実上潰した元凶伊藤淳二に対しては、彼こそ不倶戴天の敵と思っている。彼は表面上社長を辞めてからも会長、名誉会長としてほとんど終身といってよい程鐘紡に影響を及ぼしたのであった。

    ■第一章「鐘紡の大発展と武藤山治」

    第1節「紡績業として再スタートを切った鐘紡」
       それでは彼が潰した鐘紡とは如何なる会社であったかから話を進めたい。鐘紡は明治20年(1887年)、当時の東京府隅田村の鐘ヶ淵に三井財閥を中心として設立された東京綿商社に源を持つ。当初設立された会社は綿花商としてスタートを切ったが、経営が思わしくなかったので、まもなく紡績業を行う会社として再スタートする。明治22年(1889)鐘紡は英国から最新鋭の紡機3万錘を導入して生産体制に入る。その後業績の浮き沈みはあったが、三井家がエースの中上川彦次郎を副社長に、朝吹英二を専務に送り込み、さらに明治26年に三井銀行に入行したばかりの武藤山治が翌年鐘紡に移り、中上川、朝吹の下で武藤が支配人となると共に、単に内地での商売だけでなく海外(中国大陸)輸出を目指した中上川は、神戸の兵庫の吉田新田に4万錘の大工場の立ち上げを企画し、その建設責任者に入行したばかりの弱冠27歳の武藤山治を抜擢したのであった。
       明治27年6月(1894)6月に工場建設の着手の運びとなったが、武藤は中上川、朝吹の信頼に応え、まさに獅子奮迅の活躍を示した。彼の自叙伝「私の身の上話」によれば、「初め4〜5年間は日曜日もなしで1日も休まず働き通した。それは元旦にも出社したくらいであった。後に会社の財政も楽になりせめて日曜日は休もうと思って試みたが、初めは日曜日に休むことは非常に苦痛であった」と述べている。
       明治27年という年は、まさに日清戦争が始まった年で、紡績業界はそれの恩恵に浴し、空前の好景気にわいた。しかし鐘紡の新工場はこれに間に合わなかった。これは、紡機は英国製であったが、紡績機械の動力の源として考えた初の国産蒸気機関の納期が、半年も遅れてしまったことが大きな原因であった。これらの遅れを取り戻すため武藤を始め関係者は、まさに発奮奮起して緊褌一番大いにふるい立って、機械の据付・試運転に当たったため大幅に遅れを取り戻し、明治29年(1896)9月工場の運転開始に漕ぎ着けたのであった。
    第2節「武藤山治の温情主義経営」
       武藤の生い立ち、鐘紡入社までの経緯などについては今迄再三述べているので要点のみにとどめるが、改めて述べると彼は福澤諭吉の直系の弟子で、福澤の精神の実業界における具現者といえるのではないかと思う。鐘紡の兵庫工場の立ち上げに成功した彼がその後取った経営方針は、温情主義経営といわれる従業員を家族の一員として保護する労務政策であった。この方法はその後日本的経営と呼ばれる我が国の経営方式の柱となった。
       武藤は公益と私益は区別されるべきものではなく、その根本は一つであると喝破していた。この事はすでに彼の死後90年近くたった現在でも認識されており、過日の日本経済新聞においてもそれが改めて詳細に記述されていた。
       一方生産においては最新鋭の機械を導入するとともに、テーラーシステムを採用するなど能率的かつ科学的な事業経営に邁進したのであった。一方営業では我が国で初めて新聞広告を行った。武藤の考え方は時代を一歩先んじた「人間尊重の経営」「家族主義経営」といってよい。
       彼の温情主義に基づく工場経営について具体的に記すと、従業員の優遇、福利厚生施設の充実、具体的には工場内に病院、学校、託児所、娯楽施設、はては結核患者の療養所を設ける一方、提案制度や社内報を設け、社内の風通しをよくすることに努めたのであった。提案制度や社内報などは現在ではどこの会社にもあるが、我が国で最初にこれを実施したのは武藤であった。武藤の工場経営はまさに順風満帆であったが、鐘紡の職工に対する待遇が他社よりもよかったため、大挙して職工が他社から鐘紡に流れた。このため、職工の引き抜きを禁じるために結成されていた「中央綿糸紡績業同盟会」との間で問題化したのであったが、これに三井の中上川が解決に乗り出し、同盟会側に対する三井からの融資ストップ通告などもあったが、最後には三菱の岩崎弥之助の仲裁により円満解決する。
    第3節「武藤山治の先進的経営」
       武藤は明治32年(1899)本店支配人となり、紡績部門全体をみることになるが、翌1900年に中国において有名な義和団事件が発生し、これを契機に我が国にも恐慌が訪れ、鐘紡も金融難から資金ショートとなるが、鐘紡は三井の傘下にあったから金融については楽に考えていたきらいがあった。しかし三井も鐘紡以外に多くの会社をかかえていたから、金融恐慌となると鐘紡だけを特別に扱えなくなっていく。三井は鐘紡への新規融資をストップしてしまう。しかし武藤は普通なら誰も考えられない方法でこの危機を脱する、すなわち彼は三井のライバルである三菱銀行へ駆け込み、融資を受けるのに成功し、急場をしのいだのであった。しかし明治34年(1901)に会長の中上川彦次郎が47歳の若さで急死する。
       この後三井の実権を握ったのは益田孝であったが、益田の経営の基本は中上川の工業化路線に対して商業化路線であった。このため益田は、中上川が手を付けていた工業化路線のため手中にしていた会社の株式を次々と手放していく。武藤はいずれ鐘紡の株式も三井の手を離れるのではないかと心配するが、鐘紡は多額の利益を計上していたため、益田も直ちに売却する事は避けたのであった。むしろ益田は、武藤の唱えていた「紡績合同論」に全面的に賛成であったため、武藤は積極的に九州一帯の紡績を合併して手中に収めていく。
       武藤の主張する「大合同論」とは「自由競争」から「独占」へ進むという資本主義における資本主義の原理であったが、誤解のないようにこの際言っておきたいのは、彼の真意はあくなき合併による紡績王国の建設といった野心から発したものではなく、互いに足を引っ張り合う小企業の乱立の弊害から抜け出し、共通の利益を共有して、不況期における困難を最小限度に止めたいというものであった。彼は自己の信念に従い着々と規模を拡大したが、他の大手も同じ手法を重ねていったため、紡績業界における再編成は着々と進んだのであった。このような状況が進み明治32年(1899)には178社105万錘であったものが、4年後の1903年には46社126万錘となった。
       このようにして、武藤の先進的経営が鐘紡の社業の発展を大きく促したが、業界全体では対中国輸出が思うように伸びず、その発展が停滞状況におちいっていった。ところがそこにふってわいたように日露戦争という救世主が現れる。たしかに日清戦争において日本は朝鮮、中国において大きな権益を得たが、これに対するロシアの干渉、圧迫は大変厳しいものがあり、ついに明治37年(1904)日本はロシアと戦端を開くことになる。
       鐘紡を始め各紡績会社は千載一遇の機会が訪れたとして、各社とも設備の大増設を企てたのであった。武藤はこの資金を手当てすべく当然三井銀行を頼るが、意外にも拒絶されたのであった。武藤は思案にくれるが思い直して、義和団事件の金融難の際助力をあおいだ三菱銀行を再度訪ねたのであった。前回は35,000円という金額であったのに対して、今回は50万円という多額の借入の申し込みである。普通なら非常時における突然の申し出は却下されるのであるが、当時の神戸支店長木村久寿弥氏は武藤の日頃の経営姿勢を高く評価していたためか、50万円の申し入れに対し即日上京して本店にはかり、実に60万円の融資を実行したのであった。
       かくて財務的な裏付けを得た武藤は好況を利用して、巨額の利益を得るべく積極的に活動したのであった。特に、彼は綿糸紡績一本の経営から脱皮して多角化に力を向けていった。具体的には綿布部門への進出であった。このことがその後の鐘紡発展の基礎となったのであった。広幅無地の織布は、大企業による大量生産に向いている事は明らかであったから、明治37年(1904)彼は織布部門への進出を決意し、織布の試験工場を設け各種織機の比較検討を行ったが、その過程で彼は不完全ながらその将来性を思って、国産の豊田佐吉の自動織機を周囲の反対を押し切り採用したのであった。
    第4節「鐘紡株の買い占め事件の経緯」
       彼はその後ガス糸、絹糸、絹紡糸にも進出して、後年の総合経営の礎を築いたのであった。しかし好事魔多しというが、突然鐘紡に思わぬ事件が降りかかる。それは鈴木久五郎による鐘紡株の買い占めであった。有名な買い占め事件であるので話せば長くなるが、簡単に概略を書くと、三井が所有していた鐘紡株は三井の工業化路線から商業化路線への変更に伴い、その後三井の手を離れて上海出身の華僑、呉錦堂の手に移っていた。呉は綿の産地であった寧波出身で、中国の綿を日本に売り、それにより出来た綿糸と北九州の石炭を中国に輸入して多額の利益をあげ、その上海上輸送迄手掛けて莫大な利益をあげていた。しかし彼の欠点は株の思惑が好きなことであった。
       彼は鐘紡の大株主になったことを背景に、市場で空売りして現物の価格が下がったところで買い戻すという思惑を繰り返してもうけていたのであった。ところが明治40年(1907)の初め頃、何時もの通り株式市場で空売りをかけたが何時もなら下がるのであるが、今回は少しも下がらない。不審に思って次に少し売ってみるが価格は下がらずむしろ上がっていく。そこでさらに売るがまた上がるという事で、これは今でいうところの仕手が介入したという事で、結局呉は自分の持ち株全部を市場に売るという羽目におちいった。
       この仕手こそ弱冠30才に満たない鈴木久五郎であった。鈴木のバックには安田財閥の安田善次郎がついていて、鈴木は日露戦争において我が国が必ず勝利すると確信して、鐘紡以外にもいろいろな会社の株を買い漁り、その後の株価の高騰によって莫大な利益を手中にしたのであるが、鐘紡株も呉錦堂のわずかな隙をついて買い煽り買い占めに成功したのであった。
       呉錦堂も当然鈴木に対抗していろいろと手を打ち、武藤も両者の間に入って調停に努めるが、話し合いは決裂して鐘紡株の大半は鈴木の所有するところとなる。しかもその過程で空売りしていた呉は、現在は制度が変わって現株を持って売りつなぐ者は、取引所に株式を提供しておけば追敷(追証)を支払う必要はないことになっているが、当時の制度では、三か月先を売っていた呉は受け渡しの時が到来するまで、値段の上がった分だけ追証を支払わなければならなかった。このように呉錦堂は破産寸前にまで追い込まれたのであった。当然このピンチに際して呉は武藤に救いを求める。思案した武藤は、三菱銀行神戸支店にかつて鐘紡に好意をいだいてくれた木村支店長を訪問し、事の成り行きを説明して何とか金融を得る途はないのかと相談する。木村氏も現株を持ちながら追証のため難儀している呉錦堂にはたしかに同情するが、銀行としては、株の売買に関するこのようなケースに対する融資は営業範囲外であるから、気の毒ながらどうすることも出来ないとの事であった。しかし、木村氏は呉自らが上京して三菱本店の銀行部門の責任者である豊川良平氏(岩崎弥太郎のいとこ)に相談するように、段取りを付けてくれたのであった。呉錦堂は急遽上京して豊川氏に面会して、委細を説明し特別の援助を要請したところ、呉の話をじっと聞いていた豊川氏は、三菱銀行としては相場の金を貸すわけにはいかないが、売りつないだ株はかならず引き渡すという条件のもとに、受渡の時までの追証に要する金を融通することを承諾され、三菱本店の指揮により神戸支店から鐘紡に対して特別融資がなされることになり、呉は救済された。
       もしこの融資がなかったら呉は破産せざるを得なかったのであった。取引所の売買で一方を助けるということは一方を不利にすることで、本来なら許されることではなかったのであるが、武藤はその自叙伝の中で、「豊川氏が初対面の呉錦堂に特別融資を承諾されたのは、多数の買方がよってたかって現株を持つ一人の売方である呉錦堂を追敷責めして殺そうとした行為は、如何に相場の場所であっても社会正義に照らして正しくないとの判断によるものと思われる。」と、 鈴木久五郎は仕手戦では勝利をおさめるが安田銀行からの融資によって現物を引き取ることになった後、財界の反動と共にその株を安田銀行に流さざるを得なくなり、折角の勝利は転じて失敗に終わってしまったのであった。
       このような仕手戦の結果一旦は鈴木が鐘紡の実権を握り、鈴木は鐘紡の倍額増資を決定したため、朝吹専務と武藤支配人は退任した。それは明治40年(1907)の事であった。しかし鐘紡の経営権を握った鈴木も会社経営は全くの素人であったから、会社の経営は停滞してしまう。まもなく社内からも武藤の復帰運動が起こり、武藤は監督という職名で復帰することになる。そして明治40年秋の日露戦争後の反動不況により株式相場は暴落し、鈴木の持つ鐘紡株は全量安田銀行に移り、鈴木も鐘紡から退場する。
       このような情勢のもと、翌明治41年(1908)1月の定時総会において、武藤は再び鐘紡に迎えられ事実上の社長である専務取締役に就任し、大正10年(1921)には正式に社長となり、以後昭和5年(1930)に退任する迄鐘紡の経営に携わったのであった。
    第5節「鐘紡を日本一の収益会社に成長させた武藤山治」
       さて武藤は会社に復帰するや、我が国で初めて外債を発行して世間を驚かせた。現在外債の発行などはどこの会社でもやっており、決して珍しい事ではなかったが、明治41年にフランスの商工銀行から200万円を導入したのであった。しかもこの外債は三井、三菱両銀行の保証のみで無担保であった。如何に鐘紡の内容が優れたものであったかという事である。かくして武藤は鐘紡を舞台にその手腕を縦横に発揮して経済界において不動の地位を占めるに到ったのであった。
       大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦は、我が国の経済界に未曾有の好況をもたらした。勿論紡績業界はその大きな恩恵によくしたのであるが、その中にあって鐘紡の発展は目覚ましく、織布事業に加え、付加価値向上のため染色漂白加工にも進出するなどして社業は飛躍的な伸びを示した。そして大正7年(1918)には「鐘紡研究所」を設立し、その頃からレーヨンや合成繊維の研究に着手している。
       さらにこの年には株式の配当率7割という高配当を実現し、大正11年(1922)迄の5期に亘り継続するという快挙をなしとげたのであった。まさに山治は鐘紡を日本一の収益会社に成長させたのであった。
       一方では武藤の温情主義経営に批判の矢を向ける者達もあった。一般に紡績工場といえば女工の虐待の歴史であった。その実状をつぶさに書いた細井和喜蔵の「女工哀史」大正14年(1925)は有名であるが、しかし細井も武藤山治に代表される鐘紡の「家族主義」「温情主義」に基づく従業員に対する会社方針に対しては、鐘紡だけは他社と違うとして賞賛しているのである。しかし武藤の温情主義経営に対し、吉野作造や河上肇などは正面からこの考え方を否定しているのである。これは、労働者の待遇改善は上からほどこされるものではなく、労働者自らが勝ち取るものであるという共産主義の考え方であった。特に河上肇は武藤の考え方を強く否定して両者の間での論争は有名である。

    ■第二章「武藤山治の活躍」

    第1節「一民間人として「軍人救護法」制定を実現」
       実業界で彼独特の温情主義経営により鐘紡は一頭地を抜く存在となったが、その中にあって山治は何時の頃からか一抹の物足りなさを感じるようになる。それについては、彼は実業家としての活動の中から政府とて誰も手を付けることの出来なかったある問題に、一民間人としてたった一人で取り組み、その実現を成功させたのである。それは「軍事救護法」の制定であった。
       大正3年(1914)に第一次世界大戦が始まるが、我が国は連合国側につき中国の当時ドイツの租借地であった青島を攻撃したのであったが、そのために新たに5万人の兵士が動員されたのであった。このため働き手を失った家族の中には貧困にあえぐ者達が続出した。そして単にそれだけではなく、日本は明治27年(1894)、28年の日清戦争、明治37年(1904)、38年の日露戦争という二つの大役を経験していたが、この二つの大役は多数の戦死者、戦傷者を生んだ。このため路頭に迷う廃兵、廃家族が巷にあふれ、その数実に56万人に達したといわれている。そして国は全くこれに対する対策をとっていなかった。武藤の正義感はこの悲惨な状況に大きく刺激され、これらの救済のため自費を投じ、先ず正確な現状把握を進め、国家の犠牲者に対する「社会保障」を提案した。武藤は時の大隈首相に戦死廃兵の家族を救済するための法律をつくるように強く働きかける。実際彼は2年間にわたり、就業後土曜日の夜行で上京し、関係者に陳情して日曜日の夜行で神戸に帰り社務を執り行うことを実践する。武藤は美濃部達吉博士に協力を求め法案を作成して、その法案をもって議会や内閣の有力者に働きかけた。その後紆余曲折はあったが、また武藤にとって決して満足のいくものではなかったが、大正6年(1917)議会で「軍事救護法」は成立する。内容に満足できなかった彼はその後さらにその改正を目指して活動を続けるが、彼はこの活動を通じて民間人としての限界を感じたのであった。その結果政界への進出を考えるようになったのではないかと思う。
       大正10年(1921)彼は正式に鐘紡の社長に就任する。この年は金融恐慌が起った年でもあった。大正11年には株式相場が暴落して昭和恐慌への道を進んで行く。不況はまさに慢性化して、武藤はこのままの状況が進めば社会主義が膨張することは必至と考え、強い危機感を持つ。そしてこの頃から民衆の生活向上に努めていくとともに、政・官・財の癒着などの社会の不正を正していかなければならないと強く決意して、政界への進出を決心する。
    第2節「衆議院議員として経済問題を中心に積極的に取り組んだ武藤山治」
       その後武藤は大日本実業組合連合会の委員長となるが、これにより全国の中堅商工業者と深いつながりを持つようになる。この結果、当時進められていた営業税の廃止を目指す運動の先頭に立つ事になった彼は、この会を政党実業同志会として会長となり、大正13年(1924)に衆議院議員選挙には初出馬し、同志11名と共に当選する。彼は議会において、少数政党を率いて経済問題を中心に積極的に活動する。具体的には現在すでに総て行われている「鉄道、郵便、郵便貯金、簡易保険、電信、電話の民営化」を議会で最初に唱えたのは武藤である。また大正12年(1923)の関東大震災によって発生した震災手形問題などにも積極的に取り組んだ。また時の蔵相井上準之助が強行した旧平価による金解禁にも断固として反対する。しかし井上は金解禁を強行して、これは山治のいうように大失敗に終わり国民は苦しむことになる。
       昭和3年(1928)に普通選挙が初めて実施されるがその内容は買収が公然と行われるなど、極めて憂うるべきものであった。またその頃から山治の危惧していたように無産政党が急速に抬頭してきた。山治の主張は客観的に正しいものであったが、同志会の議員票は伸びなかった。そこに彼は実業と政治の間にある大きなギャップを感じて、世の中で行われていることは正義に反していることであるが一般大衆はそれに気が付かない。これでは我が国の前途は暗い。自分は政治の実践に努力してきたが、今迄自分のやってきた事は一体何なのであろうと思い悩んだ彼はもう一度国民の政治意識を根本から鍛え直す必要を感じるようになる。
    第3節「武藤山治の急逝」
       こうして国民の政治意識を根本から改善する事を目標に、彼は昭和7年(1932)の選挙不出馬を機会に政治教育の普及と徹底を図るため社団法人國民會館を設立したのであった。國民會館は昭和8年(1933)に完成するが彼にとって思いがけない事態が湧きおこる。それは恩師福澤諭吉が創刊した日本一のクオリティーペーパー「時事新報」の経営不振である。時事新報は福澤の死後次男の捨次郎が社長として経営に当たっていたが、放漫経営と関東大震災により大きな痛手を受け倒産寸前に迄追い込まれていた。そこで慶應義塾のOBの有力者門野幾之進や福澤桃介、池田成彬、小林一三などがこのピンチを救えるのは誰かと協議し、ここは政界からも鐘紡からも辞した武藤山治しかいないと、衆議一決して武藤に社長就任を懇請したのであった。山治も家族もここは休養につとめるべきとして就任を固辞するが、最後に自分が今日あるのは福澤先生のおかげであるとして引き受けたのである。
       山治は約2年間時事新報の再建のため、鐘紡で培った経営手法をフルに活かして経営立て直しに当たる。その効果は短期間でみのり、昭和9年(1934)の初めには収支均衡まであと一歩にまで業績は回復する。しかし時事新報に掲載した政官財癒着をあばいた記事が災いしたのか、同年3月9日北鎌倉でテロにあい、翌日10日劇的な最後をとげたのであった。
       話は前後するが、武藤は鐘紡の社長のまま国政へと進出したのであったが、彼は鐘紡の経営には盤石の自信を持っていた。彼は衆議院議員選挙出馬に当たり、株主全員にその賛否を問う書状を送り、その判断をあおいだが、圧倒的な多数を持ってその賛同を得たのであった。昭和5年武藤は鐘紡の社長を交代している。政界を引退する二年前の事であった。それに対して異例の留任運動がおこなわれた。大正10年(1921)に彼は社長就任に当たり、「社長の任期は一期3年として、三期以上継続するを得ず」という定款変更を株主総会に提案して承認されていた。

    ■第三章「ポスト武藤の鐘紡新経営陣」

    第1節「津田信吾の社長就任」
       昭和5年(1930)1月、彼は社長を辞任し、新社長に長尾良吉、副社長に津田信吾を指名する。我が国の経済は、昭和4年(1929)のニューヨーク株式暴落に端を発した世界的な大混乱の渦中にあった。我が国の紡績業もこの影響を受け、不況が続く。この為武藤が去った後の経営陣は、同年4月、思い切った賃下げ案を発表する。具体的には大正時代の第一次世界大戦の物価高騰に対応する臨時手当(社員は本給の6割、工員は日給の7割支給)を元に戻し、代わりに改めて一律3割の特別手当を支給するというものであったが、臨時手当といっても10年以上経過していれば臨時という感覚はなくなり、今回の減給分だけ生活を圧迫することになるため、従業員の不満は爆発して労働争議へと発展する。マスコミも温情主義の鐘紡が賃下げかなどと興味本位にかき立て、外部から労働総同盟なども介入したため会社側と労働者側の話し合いはつかず兵庫、淀川の両工場は56日間のストライキに突入する。しかし争議が長引くと脱落者も出始め、争議の指導者の間でも意見の食い違いが目立つようになりストライキは収束に向かっていく。この争議において会社側で矢面にたったのが津田副社長であった。津田は一歩も引かず争議指導者と渡り合い争議を収束させたのであった。争議終結案はほぼ会社案に近いものであった。このことにより津田信吾の名前は一躍世に知られるようになり争議終了後の6月30日49歳の若さで社長に就任した。
       話は遡るが大正5年(1916)武藤山治は、大阪市の淀川分流の都島に染色加工工場の設立を考えた。これは、糸から衣類迄の一貫生産こそ繊維産業の目指す究極の姿であるという彼の理想に沿うものであった。
       この工場は当時の金額で総額1,500万円という巨大なプロジェクトであったが、この建設の責任者として、合併した幾つかの工場の再生で実績を上げていた35歳の津田信吾を抜擢したのであった。津田は工場長として存分に腕を振るい、この実績が評価されて武藤が去った昭和5年に取締役となり、副社長となったのであった。そしてストライキを解決した後社長となったのは前述の通りである。
    第2節「大陸進出で大鐘紡コンツェルンを目指した津田社長」
       さて、津田が社長となった当時の我が国経済は、井上準之助蔵相の無謀な金解禁に加え、折からの世界恐慌ともあいまって大混乱におちいっていった。しかしこの後犬養内閣が成立し、高橋是清蔵相は金解禁の禁止を断行して、積極財政に打って出たため円の価値は暴落したが、この結果かえって繊維業界では綿織物の輸出が急増して日本経済は急成長を遂げた。
       津田は「今こそ輸出を増やす絶好の機会到来」と見て、紡機12万錘、織機3千台を増設して、加えて淀川工場の晒加工設備を一気に2倍に拡大した。そしてこの年昭和8年(1933)は、日本の綿布輸出が英国を初めて抜きさった記念すべき年となったのであった。
       一方競争相手の英国は日本をインドなどの属領から締め出すため、高関税により対抗したのであった。一方津田は、内地での増設に加えて朝鮮、満州への紡績業の進出を図ったのであった。そしてさらに北支の天津にまで触手をのばし、経営の悪化していた現地の紡績工場を買収して、鐘紡式の経営を導入することによって短期間で大きな成果を上げた。その結果鐘紡の大陸における紡績設備は30万錘、織機は6千台にも及んだ。
       ここで強調しておきたいのは、津田が大陸で頼りにしたのは日本軍部であった。その肝いりで先ず繊維産業への進出を図ったのであったが、現地を訪れて彼が感じたのは、満州は日本内地には全く存在しない鉄鉱石やアルミ、金、石綿等の地下資源の宝庫である事に気がついて、「このような大地で繊維製品だけを製造、販売していくのは勿体ない。この地に眠っている資源を活用して貧しい人々を豊かにしていかなければならない」という事であった。
       そこで彼が打ち出した方針は「今後軍部と密着して、鐘紡は繊維工業、重工業、化学工業の三本立で進む」という事であった。しかし、昭和12年(1937)7月に北京郊外の盧溝橋で日支事変が始まり、これは鐘紡の事業に大きな影響を及ぼした。しかし津田の経営方針にはいささかのゆるぎもなかった。彼は内地の設備の大増設に加え、繊維と重工業、化学工業の三本の柱を確立するため前進する。
       一方で彼は社長の任期についての微妙な問題を抱えていた。これは、社長の任期は定款において「三年三期を越えず」と山治が決めた期限が迫ってきていた事である。津田は戦時中の難局にあって事業を進めていくためには、定款にこだわる事はないとして恩人である武藤を裏切り、社長に居据わり続けたのであった。
       一方彼の無謀ともいえる事業拡張により、鐘紡の借り入れは膨大な額になりつつあった。それは昭和9年における資本金5,000万円の3倍にも及ぶものとなっていた。このため早急に3倍の増資が必要となっていた。
    日支事変という非常時の中で増資は難しかったが、彼は倍額増資を行うと共に、新たに別会社として鐘淵実業株式会社を資本金6,000万円で設立して、繊維関係以外の新事業をこの新会社に移行させ、増資額の配当と合わせて事実上3倍の増資を実現したのであった。
       このように新しく発足した鐘淵実業は、大陸において大鐘紡コンツェルンを目指して活動していくのであった。津田は、化学工業、重工業、さらには機械・航空機工業、合成ゴムや、これは昭和電工との共同事業であったが純ニッケルの生産に成功したりしている。
    第3節「敗戦で苦難の道が始まった鐘紡」
       津田の軍部と共同しての事業拡張は止まることを知らなかったが、太平洋戦争にまで拡大した戦局は、津田の経営にとって大変厳しいものがあった。伝統のある兵庫工場は昭和20年(1945)の関西大空襲により廃燼に帰した。幸い淀川工場は戦災を免れ戦後復興の柱となったのである。
       同年8月15日ついに我が国の敗戦が決定した。時局を見誤った津田の構想は、日支事変の前から太平洋戦争の最中にかけて国内の生産増強にとどまらず、アジア各地へ進出して活動することであったが、敗戦は津田の構想を根本から打ち砕いたのであった。しかも敗戦の現実は厳しかった。内地に78ヶ所、海外に123ヶ所あった鐘紡の事業所は、国内の28ヶ所を残して失われてしまった。しかも130万錘あった紡績設備はたった16万錘となり、毛紡はその9割を失った。当時の鐘紡の従業員数は内地27,400名、外地2,300名、応召されたもの6,000名、合計35,700名という膨大なものであった。
       しかも津田社長はA級戦犯として巣鴨の拘置所に収容されてしまう。津田は大陸で軍部と共に軍事産業を推進、拡大すると共に、戦時中競争相手の綿布生産輸出国の英国と各方面において事をかまえた事で「排英主義者」「主戦論者」というレッテルを貼り付けられた結果であったのではないかと思われる。
       巣鴨に入ってから津田は心身共におとろえ、脳出血の発作をおこし一時は重篤な状況となるが、入所半年たった5月末に無罪となり自宅に帰るが、そのまま健康を取り戻せず昭和23年(1948)4月に死去した。戦前無敵と云われた優良会社鐘紡の終焉であった。

    [次号へ続く]                                                                                           
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

                         

    武藤会長「金言」

    2022年5月31日 金言(第118号)
    大阪中之島美術館の開館

    ■はじめに

       大阪の難波宮の存在した場所は、有史以前から大阪の中心であった。特に復元されている古代の宮殿跡には645年〜793年頃までの約150年間、日本の首都であった。このように難波宮周辺は地形的に大阪で一番高い場所であり、後世には石山本願寺や大阪城が築かれたのには誠に肯ける地形であり、政治の中心が他に移った後も、特に江戸時代においても大阪は経済、文化の中心であり続けたのであった。

    ■第一章「大阪は経済・文化の中心」

    第1節「特色のある二つの公立美術館」
       さて時代は現代に戻るが、大阪市は戦前繊維産業を中心に大発展したためか、繊維を中心とする優れた美術コレクションが幾つも形成されていた。それらをもとに大阪市の公立美術館としては、古代美術、東洋美術を中心に所蔵する大阪市立美術館、中国、朝鮮の世界有数として数えられる安宅コレクションを中心として収蔵する東洋陶磁美術館というきわめて大規模な有力美術館が存在していた。
    第2節「新しい美術館が求められる」
       ところが世界の大都市を見渡すと、近代美術の隆盛とともにニューヨークにおいてはメトロポリタン美術館に対するニューヨーク近代美術館(MOMA)、パリのルーブル美術館に対するオルセー美術館、パリ市立近代美術館、ポンピドゥー・センターなど、近代美術を展示する施設が存在するようになり、我が国でも東京、京都にそれぞれ近代美術館がある。大阪においても近代美術を展示する新しい美術館の誕生が求められるようになったのであった。いい忘れたが、ロンドンでは大英博物館に対してロンドン現代美術館がある。残念ながら大阪にはこれに該当する美術館がなかった。

    ■第二章「近代美術館の建設計画」

    第1節「バブルの中で産声をあげた建設構想」
       このため大阪市においても近代美術を収蔵する美術館をつくろうという計画は随分以前からあった。しかしこれはなかなか実現せず、これがようやく具体化したのは、1988年に大阪市が市制100年を記念とする事業として近代美術館をつくろうという構想が発表されたのであるが、それからすでに約40年が経過している。もっと具体的にいうと、1990年に美術館準備室が設置され、それからでも実に30年余りの時を数えているのである。1990年といえば日本経済がバブルと呼ばれ経済的に絶頂に達した時代であり、まさに美術館建設の構想はバブルの真っただ中で産声をあげたのであった。
    第2節「充実していったコレクションの形成」
       一方で大阪市においては、1983年に夭折した天才画家佐伯祐三の作品を多数収集していたコレクター山発産業(メリヤス業)の経営者山本発次郎の遺族が、大阪市にこの佐伯の作品を中心に原勝四郎などの洋画家、加えて白隠禅師の墨蹟、インドネシアの更紗などからなるコレクションを一括寄贈していたため、近代美術館の柱となるコレクションがすでに出来上がっていた。
       それに加えて豊富な資金を使って、以後コレクションの形成、充実がはかられたのであった。すなわち当時19億3000万円で購入したエコール・ド・パリを代表す画家の一人、アメデオ・モディリアーニの「髪をほどいた横たわる裸婦」は新聞紙上などでも大変な話題となり、価格をめぐって議論を呼んだのであった。
       その他上村松園や村上華岳などを収集した田中徳松氏のコレクションや、エコール・ド・パリにおいて異国からパリに来て活躍したモディリアーニを補完する有力作家のパスキンやマリー・ローランサン、ヴラマンクなどの作品群が画商高畠良明氏から寄贈され、2010年末に閉館したサントリーミュージアム天保山が保有していた、ロートレックを始めとするポスターのコレクションが準備室に寄託され、更に充実したものとなったのである。
       今回の展示においてはメインとなった佐伯祐三などの寄贈作品の他、大阪と関りのある現代美術、近代絵画、写真、版画、家具、そして戦後美術にいたるまで大変充実して満足出来るものであった。私は今後の希望として北野恒富や菅楯彦、小出楢重、生田花朝女、赤松麟作など大阪に関係する作家をもっと充実していくべきと思っている。特に小出楢重は東の岸田劉生と並び巨峰であるから、当館がどれだけの作品を所有しているかわからないので大変失礼とは思うが、もっともっと充実していかなければならないのではないかと切に思う。
       幸いこの時代には大阪市においてもバブルの影響もあって、潤沢な作品購入の予算を持つことが出来たため、美術館の建物が完成する前から豊富な資金に物を云わせて他の美術館に引けを取らない美術品を収集することが出来たのであった。
    第3節「財政悪化で建設計画は紆余曲折」
       しかしながら、その後の大阪市や我が国を取り巻く情勢は大変厳しいものとなった。すなわち大阪市を取り巻く環境は、バブル景気の盛衰に振りまわされたといってよい。文字通り2000年代のはじめには大阪市の財政は、非常事態宣言を発するところまで追い込まれたのであった。このため近代美術館推進の活動は低調とならざるを得なかった。
       加えて2008年に大阪府知事に就任した後、2011年12月に大阪市長に就任した橋下徹氏は、文化行政に全く無知、無関心で、特に有名なのは大阪が誇る伝統芸術である人形浄瑠璃、文楽に対する補助金を凍結するなど、文化行政に対して馬鹿げた干渉を繰り返したのは御承知の通りである。新しい美術館の建設についても橋下氏は消極的で、既存の大阪市立美術館に手を加えて活用してはとか、はては大阪府庁を大阪南港のアジア太平洋トレードセンターへ全面的に移転し、現在の大阪府庁舎を新美術館にしてはとの珍案を大真面目に主張する有様であった。しかしこのような思いつきが通る筈がなく、このたび完工した中之島の新美術館が進んでいったのは当然といえば当然である。
       余談ではあるが新美術館が建設される過程で、市立美術館を取り壊して新美術館と統合した施設をつくる案が浮上した事もあったが、現在の市立美術館のある茶臼山は元々住友家の本邸があった場所で、大阪市が美術館をつくるならと本邸を名園の「慶沢園」とともに大阪市に寄付された場所に現在の市立美術館が存在しているのであって、住友家としてはもし寄付された本旨に反する行為を大阪市がとるなら土地の住友家への返還を求めるとの意向が示されたやに聞いている。

             大阪中之島美術館

    大阪中之島美術館




    ■第三章「大阪中之島美術館の開館」

    第1節「新美術館の柿落とし」
       このような紆余曲折を経て、中之島にある国立国際美術館の北隣にある元大阪大学医学部跡地16,900uの敷地に、延床面積24,000uの新美術館が建設される事になったのであるが、なお途中で市の財政難により着工が遅れに遅れたのであるが、ようやく2016年8月に新美術館の建築設計コンペを実施し、2017年2月9日、多くの設計案の中から遠藤克彦建築研究所の案が最優秀案に決まり、詳細設計と建築が開始されたのであった。建築費は156億円と発表されている。2018年には美術館の名称の公募が行われ「大阪中之島美術館」に決まり、本2022年2月2日に開館に漕ぎつけたのであった。実に1990年準備室発足以来32年が経過していた。私事ながら高齢の私など、正直いって生きているうちに出来上がるのかと正直心配していた次第であり、先日の柿落としには感激したのであった。
       新美術館は6000点の収集品を所蔵し、今後どのようにそれが公開されていくか大変楽しみである。先日の開館記念「超コレクション展99のものがたり」は何分99の絵画を始めとする家具や書籍にいたる大変バラエティーのある展覧会であったが、どうしても焦点がやや定まっていなかった。しかし今後の展示計画を見ると大変期待されるところがあり、興味をもって注視している。
    第2節「新美術館の柱「佐伯祐三コレクション」」
       さて、そもそもこの新しい美術館が発足する契機となったのは、先に述べたように山本発次郎氏の収集した佐伯祐三の、彼がパリで描いた絵画150点の内、戦災を免れた33点が遺族から大阪市に寄贈されたのが発端で(その後彼の作品は購入と寄贈により現在は60点にも達している)ある。 さて、佐伯祐三という名前はある程度美術の好きな人達には知られているが、一般にはあのパリの街角を描いて、若くして現地で亡くなったという程度の知識しかないと思われるので、折角なので彼のプロフィールの詳細を書きしるしたいと思う。
    第3節「天才画家、佐伯祐三」
       佐伯は1898年(明治31年)の生まれで、この年は私の父親と同年なのではっきりと記憶している。実家は大阪中津の光徳寺という名門の寺で、北野中学(現在の北野高校の校長室には彼の作品が掲げてあったが現在は中之島にある)に入学した。彼は幼少より画才を発揮して17歳の頃から赤松麟作に師事する。その後川端画学校(東京美術学校に入るための予備校といった存在)で藤島武二に学び、1918年(大正7年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の西洋画科に入学し、引き続き藤島武二の薫陶を受ける。東京美術学校では後に我が国のフォービズムの先駆者となる里見勝蔵と親しくなる。里見にはその後公私ともに世話になる。
       佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの間に、2回パリに滞在して積極的に画業活動を行う。第一回のパリ渡航は1924年(大正13年)11月から1926年1月まで有名なフォービズムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ね、自作を持参して批評を乞うたところ、ヴラマンクから「このアカデミックめ!」と一喝された話は有名である。それにも負けず彼は何度か自作を持ってヴラマンクを訪問し教えを乞うており、事実その頃から佐伯の画風は大きく変わり始める。
       この第1次パリ滞在時の多くのパリの街頭風景を描いたものが、ヴラマンク及びユトリロの影響を受けた事は間違いない。しかし、この頃から佐伯は健康に不安を感じるようになる。佐伯自身は更なるパリ滞在を強く希望していたが、佐伯の健康を心配する家族からの説得に応じて、1926年にいったん日本に帰国する。
       佐伯は美術学校在学中に、自らも絵を描き二科展などにも入選した経歴を持つ、川合玉堂の弟子でもある池田米子と結婚していてパリにも同道していた。その後一人娘の弥智子をもうけていた。
       帰国後、佐伯は東京の下落合の風景などを描いていたが、なかなかそのような状況に満足出来る佐伯ではなく、1927年(昭和2年)にシベリア鉄道経由で再びパリの地を踏むことになる。そして佐伯は、その後再び日本に戻ることはなかった。
       パリに帰ってきた佐伯は旺盛な制作活動を続けていたが、1928年3月頃から持病の肺結核が悪化したほか、一説では奔放な妻米子の行動にも悩むようになったのが原因で、精神面でも不安定になったといわれている。有名な「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品であったが、本人は全て出して描き切ったと家族に告げたという。屋内ではその後自家を偶然に訪れた「郵便配達夫」をモデルに油絵を2点、デッサン1点を制作している。
    しかし、この後彼は、米子と親友のO画伯との関係に悩むようになり急激に体調が悪化させ、妻の異常な行動も重なり精神的に大変追い込まれていった。そして自殺未遂の後パリ郊外のヌイイの県立精神病院への入院を余儀なくされ、その後一切の食事を拒み、同年8月16日家族に看取られることなく、衰弱死をとげたのであった。30歳の若さでの死であった。
    第4節「「佐伯祐三コレクション」を寄贈した山本発次郎」
       先に述べたように、1930年代に実業家山本発次郎が彼の絵を熱心に収集し、絵数150点にも及んでいた。太平洋戦争中コレクションの一部を疎開させていたが1945年8月に芦屋の邸宅が米軍の焼夷弾で全焼して、収集作品の8割は失われてしまった。現在佐伯の作品は新設された大阪中之島美術館に60点、和歌山の県立美術館に14点など日本各地の34ヶ所に所蔵されている。
       さて、佐伯の画風に傾倒して、150点にも及ぶ佐伯作品を収集した山本発次郎とは如何なる人物か。山本氏は1887年(昭和20年)岡山の現真庭市の出身である。1908年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業後、当時我が国のトップ会社であった鐘紡に入社するが、その後メリヤス業(アングルで有名)で財を成した山本商店の山本発次郎の婿養子となり、二代目の発次郎を襲名し同社の発展に貢献した。仕事以外では美術品の収集に力をつくした。最初は書画に興味を持っていたがその後洋画に惹かれるようになり、特に佐伯祐三を最初に評価したのは山本とされている。150点の収集品の内100点は戦災で失われたが、残った全部が大阪市に寄贈されたのである。このことが中之島美術館誕生の発端になったといって差し支えない。

             「郵便配達夫」 佐伯祐三筆

    佐伯祐三筆




    ■おわりに

       佐伯の早すぎる死についてはいろいろな臆説があり、個人的なことなので公にされていない部分があるが、佐伯米子の佐伯作品への加筆や贋作問題、佐伯と娘の死に米子が大きく関わっていたのではないかということなど、なかなか謎めいたこともあるが、彼の余りにも早い死については今なお多くの疑問が呈せられているのである。

                                                                                              
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年4月28日 金言(第117号)
    地球温暖化について

    ■はじめに

       我が国ほど国家として、又国民として自主性に欠ける存在はめずらしいのではないか。戦前は、欧米諸国に追いつけ追いこせをモットーに、明治維新後わずか100年も経過しない内に目的を達成したのであったが、ある時から道を踏みはずして、現在ではアメリカ一辺倒となっている事は御存知のとおりである。
       戦後アメリカから押し付けられた憲法を、後生大事に未だに改正する事が出来ずにいる状態こそ滑稽なのではないか。

    ■第一章「脱炭素の動向」

    第1節「欧米に盲従する日本」
       私は最近の新聞を見ていて思うのであるが、余りにも欧米で取り上げ推進している事項について、我が国としての自主的な考えなく盲従している事について、はなはだ疑問を持つのである、事例を挙げると
  • 1.株式会社の複数社外取締役制である。これは資格該当者が少ないため、一人で何社をも兼務するという有名
       無実の状態におちいっており、実際に機能しているかは疑わしい。加えて会社は株主のものであるという欧米
       的な考え方もおかしいと思っている。
  • 2.会社経営、株式市場、どこもかしこもESGの文字が躍っている。ESGとは環境「Environmen
       t」、社会「Social」、企業統治「Governance」の頭文字を取った概念であるが、この言葉
       が一定の流行語となっており、新聞をはじめとするマスコミでやたらに登場している。このESGの内容をよ
       く見ると、誠に社会において適切と云えるものであるが、現状では消化不良といって差し支えない。最近では
       SDGs「Sustainable Development Goals」。持続可能な開発目標なる言葉
       が登場しているが、私には何の事かよくわからない。
  • 3. そして、特に私がわからないのは.地球温暖化対策「CO2ゼロ」である。これは18世紀半ばからの産業
       革命により、化石燃料の使用が大幅に増加して大気中の温室効果ガスが増え、地球の環境を汚染して地球の温
       暖化が進み、このままの状況が進むと極端に云うと、このまま何等手を打たないまま放置されるならば、20
       81年から2100年に世界の地球温度は2.6℃から4.2℃の範囲迄に上昇するというのである。このた
       め国際連合を中心に「気候変動に関する国際連合枠組条約(UNFCCC)」がつくられて、地球温暖化対策
       が講じられているのは皆さん御承知の通りである。

  • 第2節「地球温暖化のウソに騙されるな」
       しかし、温暖化の主原因であるCO2削減対策は、CO2の2大排出国のアメリカ、中国が積極的にならない限り実現が難しい事は、世界中でわかっており、またこれから発展途上国がCO2排出を断念するかというと、これは先進国のエゴとしか云えないのである。
       マスコミは毎日のようにCO2問題で地球が近い将来熱帯化するとか、島嶼国が水没するなど報じているが実際はどうなのか、かねてから疑問に思っていた。それは一頃騒がれたオゾン層破壊問題も最近はどこかにいっているように、私はCO2の問題は、現在地球は寒冷化に向かっていると云われている中で、私見ではあるが温暖化についてこれ程騒ぐ事はないと思っていた。ところが毎月読んでいる日本政策研究センターの発行する「明日への選択」3月号に、「地球温暖化のウソに騙されるな」という、世界気象機関と国連環境機関により設立され地球温暖化に関する世界の研究者に情報を提供するIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の委員であり、日本政府の各種の審議会のメンバーである杉山大志氏の対談が掲載されており、地球温暖化、「CO2ゼロ」への取り組みが本当なのかどうか詳しく述べられているので、私は、我が意を得たりとこの問題に納得することが出来たのであった。
    第3節「脱炭素は、必ずしも全面的な世界の潮流ではない」
       たしかに日本を含めて「世界の潮流」は「CO2ゼロ」だと認識されているのが実状で、それに疑問を呈することは時代錯誤と云われかねない時代である。これに対して杉山氏は、西欧のエリート国や国連のエリート、さらにアメリカ民主党のエリート達は「脱炭素」は絶対であると主張しているが、世界の潮流はかならずしもそうではない。ヨーロッパにおいても、東欧の諸国は脱炭素には全く無関心であり、これから経済成長を目論んでいる発展途上国にとっても「CO2ゼロ」など全く迷惑な話であるとしている。一見「CO2ゼロ」賛成のアメリカでさえも、共和党の議員の中には温暖化など全く信じていない人たちが沢山いる。
       我が国は、西欧諸国や国連があれこれと干渉するので仕方なしに「温暖化対策待ったなし!」「2050年にCO2実質ゼロ」に一応同調はしているものの、彼等がつくっているエネルギー計画を見れば、実際には「CO2ゼロ」を本気で目指していないことがはっきりする。

    ■第二章「「CO2ゼロ」は本当に実現できるのか」

    第1節「主要排出国の実情」
       「そもそもCO2ゼロが本当に実現出来るのか?」これについては2018年の世界のCO2排出量をみると中国28.4%、アメリ14.2%、EU(イギリスを含む)9.4%、インド6.9%、ロシア4.2%、日本はわずか3.2%にすぎない。要するにCO2の排出量の4割以上を中国とアメリカが占めており、この両国が動かなければCO2が減らない事は自明の理である。
       アメリカは、確かにバイデン大統領は2030年までにCO2を半減すると云っているが、アメリカこそ石油、ガス、石炭産業が世界で一番発達した国である。議会で議席の半分以上を占める共和党は、バイデン政権の脱CO2政策に反対しており、さらに身内の民主党内でも選出州にエネルギー産業を持つ議員は、同政策に反対している。この事は身内の民主党ですら一枚岩でないということで、バイデン政権にとって脱炭素推進などは全く難しいのである。
       一方最大の排出国である中国は、2060年にCO2を実質ゼロにすると云っているが、肝心の2020年からの5年間はCO2を1割増やすと云い切っている。云いかえると、中国のCO2排出量は日本の約10倍であるから、日本の年間排出量とほぼ同じ量を増やすと公言しているわけである。実際中国の石炭使用量は過去最高を更新中で大量にCO2を排出している。2025年以降は排出量を削減すると云っているが、これだけ増やしたものを減らすことなど到底無理な相談ではなかろうか。
       何度も云うようにCO2排出の2大スターであるアメリカと中国が動かぬ限り、「CO2ゼロ」は夢物語である。つまり、仮に現在日本が「CO2ゼロ」を達成しても、世界の大勢には影響がないのが現実である。
       一方杉山氏の説によると、西欧諸国が「CO2ゼロ」に取り組んでいるという見方についても疑問を呈する。すなわち正直云って西欧諸国の現状はエネルギー危機に瀕しており、「脱炭素」どころではないのである。一頃前までドイツは「CO2ゼロ」への取り組みの優等生で、ドイツのメルケル前首相は脱原発政策を進め、計画では本年中にすべての原発を休止することにしていた。その上化石燃料使用も、石炭による火力発電ゼロを目指していた。ドイツは、その手段として電力の半分近くを再生可能エネルギーでまかなうとして、エネルギー政策においては風力発電とロシアからの天然ガスの輸入に頼ろうとしたのであった。しかしロシアからのノルドストリーム2という大掛かりな新しいパイプラインは、周辺国の反対により稼働が難しくなっていたところに今回のウクライナへのロシア軍の侵攻により、全く用をなさなくなったのは御承知の通りである。
       一方ドイツが力を入れ、世界の先頭を切っていた風力発電も、2019年以降は生態系への影響、景観、騒音等、特に野鳥が風車の羽根に当たって大量に死ぬといった問題が発生したのであった。それならば設置場所を海上にという考え方もあるわけであるが、これはコストの問題が絡んでドイツは今、CO2削減どころではない大きなエネルギー問題の渦中にある。
       ドイツのエネルギー問題は全く他人事ではない。我が国においては太陽光や風力で発電して民間需要及び工場を稼働させる事が可能で、それに電気自動車が加われば一挙にCO2ゼロ社会が実現出来ると考えている人々が多いが、それはドイツの例を見ても簡単な事ではない事がよくわかる。
    第2節「日本のCO2削減計画は「絵に描いた餅」」
       政府は先に、下記のような2030年度におけるCO2削減へ向けての電源構成の見直しを発表している。これについては本年1月30日付の金言でも触れたが、あらためてその内容を明らかにすると
  • ・再生可能エネルギー         36〜38%(達成困難)
  • ・原子力               20〜22%(   〃  )
  • ・水素アンモニア             1%(   〃  )
  •           小計     57〜61%  
  • ・火力発電      (LNG)20%(安定供給、温暖化に問題)
  • ・石炭発電           19%(安定供給、コスト抑制に問題)
  • ・石油発電            2%
  •                  小計     41%(達成困難、国費流出に懸念)
       以上であるが、現状で考えるなら上記の通りの問題を抱えており、CO2ゼロなど絵に描いた餅にすぎない。大体上記計画は、世界の趨勢が2050年「CO2ゼロ」を目指すということになったため、日本も「2050年ゼロ」と云わないと後ろ向きとの非難をあびるため、あわててさしたる根拠のないまま取りあえずその道程の一つとして発表した計画で、杜撰としか云いようがない。
    第3節「日本のCO2ゼロ実現の問題点」
       杉山氏の見解によると、技術的にもまた経済的にも如何にして「CO2ゼロ」を達成するか、具体的な計画を持っている国は一つもないと指摘している。従って我が国においても「2050年CO2ゼロ」を宣言したものの、その裏付けは全くないのである。具体的には「CO2ゼロ」を実現する技術、例えばCO2を発電所や工場から回収して地中に埋めるCCUSとか、水素からメタンを作る合成メタン等についても未だ実験室とかパイロットプラントの段階で、そのような技術が実用化されたとしても莫大な費用がかかると試算されている。それは原子力発電の量にもよるが、年間43兆〜72兆円という試算がある。我が国の年間予算約110兆円から考えて問題外といえる。
       さらに杉山氏の話は続く。そもそも太陽光発電にしても風力発電にしても、太陽や風力など自然現象に依拠しているから常にバックアップのための火力発電所が必要となる。当然これは再生可能エネルギー発電との二重投資となり、コスト高になる事は子供でもわかる事である。それは電気料金の値上げとなって国民の負担が増大する。すでに2012年7月から始まった「再生可能エネルギー固定価格買い取り制度」により、年間2.4兆円の賦課金が発生している事をあらためて噛み締めてみるべきであろう。
       それに加えて問題となるのは、我々は中国にあらゆる面で対処していかなければならないのである。何故なら太陽光発電、風力発電、あるいは電気自動車のいずれもが、今や中国が最大の産業を有している事は御承知のとおりである。日本や西欧が「CO2ゼロ」の実現に向けて巨大な温暖化投資を行うということは、全面的に中国から輸入することとなり、中国経済は大いに潤うことになる。これは言い換えれば日本、西欧が「CO2ゼロ」で国力が弱体化する一方で、CO2を排出し続ける中国の国力が強くなるという、あり得ないような話が現実となるのである。
       一方で中国製の発電設備が日本、西欧の電力網に多数接続されると我々の情報が中国に筒抜けになるおそれがある。イギリスは電気事業に中国企業が浸透したため国家の重要インフラが中国に握られてしまっている。これでは中国の意向次第でイギリスは大停電をおこすリスクがあると云われており、これは主要な社会維持機能が麻痺してしまうことになる。「CO2ゼロ」ということは、エネルギー問題という分野だけでなく、国家の安全保障に係る重要問題なのである。早い話が現在我々は中国の軍事的な脅威に直面しているが、これと温暖化の脅威とどちらが大きいか、我々はよく考えてみる必要がある。

    ■第三章「温暖化で地球は危険になるのか」

    第1節「気温の上昇はCO2が原因ではない」
       ここで杉山氏の考え方は、今迄我々が一般のマスコミや専門家と云われている人達の考え方と大きく相違するのである。杉山氏は「CO2ゼロ」を達成しないと「温暖化で地球が危険となる」と云われていることに対して次のように反論する。
       日本では大多数の人々が、「温暖化によりこの状況が進行すると地球の生態系が破壊され、災害が増える。温暖化の原因は化石燃料を消費することにより発生するCO2であるからこれを大幅に減らさなければならない」と考えている。しかし杉山氏は、これは全く事実ではないと指摘する。国連あるいは政府の御用学者やマスコミが繰り返しそういう物語を語るので、国民の大多数がそう信じているに過ぎない。データによると、確かに地球の大気中のCO2濃度は現在約410ppmで、産業革命前の1850年頃の280ppmに比べて約5割増加している。一方地球の平均気温は産業革命前と比較すると0.8℃上昇している。日本はどうかと云うと、気象庁の公式発表によると過去百年当たりで0.7℃上昇している。従って気温が上昇して地球が温暖化しているのはまぎれもない事実である。しかしこの気温上昇の原因にどれだけCO2の増加が係っているかは明らかではない。
       日本の気温上昇は百年で0.7℃であるから、単純に計算して1990年から2020年の30年間に0.2
    ℃上昇したことになる。しかし0.2℃というような温度差は、身体で直接体感出来るような温度差ではない。夏季日本で一番暑いといわれている埼玉県の熊谷の最高気温が、先年41.1℃となったと報告されたが、地球温暖化がなければ40.9℃であったという程度のものである。
    第2節「気象庁があげる温暖化の原因」
       それでは最近猛暑になる「地球温暖化」のせいではない理由は何であろうか。猛暑の原因は別にある。それについて気象庁は、夏の高気圧の張り出し具合などの自然現象と、都市熱による影響の二つをあげている。都市熱については詳しく話すと、都市化によってアスファルトやコンクリートによる「ヒートアイランド現象」が起こり、加えて高層ビルや家が建てこむことにより風が遮られ「ひだまり効果」が現れる。このような都市化により東京は既に約3℃も気温が上昇している。一方東京から離れた伊豆半島の石廊崎では1℃も上がっていない。このことが地球温暖化による日本全体の気温上昇(0.2℃)に対応する数字と云える。即ち温暖化そのものが原因で猛暑になっているわけではないのである。
       また近年台風や集中豪雨の被害が発生するたびに「地球の温暖化の影響」が報道されるが、これは全く根拠のないものである。台風について云うと、増加もしていないし強くなっているわけでもない。気象庁の統計によると、1950年以降の台風の発生数は年間25個程度で一定しており、勢力の強さについても「強い」以上に分類される台風の発生件数は1975年以降約15個と横ばいで、特段の増加は見られない。1951年以降伊勢湾台風を含む10個の超大型台風が上陸したが、1971年以降はほとんどなく、1993年以降は大型台風の上陸はない。豪雨の被害が盛んに云われているが、豪雨そのものは観測データの上では増加していない。たしかに理論上は、気温が0.2℃上昇したのであるからその分について雨量の増える可能性を否定するものではないが、それでもその増加はせいぜい1%程度であり。豪雨を温暖化のせいにするのは科学的な根拠を欠く。
       杉山氏の言によると地球温暖化の原因で災害が増加しているのは、根拠のないフェイクニュースと云って差し支えない。実際これまで温暖化の影響でおきると云われていたショッキングな予想はことごとくはずれている事を指摘しておきたい。例えば北極熊は温暖化で海水が減って絶滅するとマスコミは騒いだが、今では逆に増加している。これは人間が熊を殺さずに保護するようになったからである。海抜数メートルのサンゴ礁の島々が、温暖化により海面が上昇して沈んでしまうと一頃話題になったが、その後沈没はおきていない。この理由は、サンゴ礁は生き物なので海面が上昇するとその分成長が早まるから、逆に大きくなっている島がある。
       このような事実は新聞はじめマスコミは一切報道しないので、一般大衆は温暖化が進み地球の崩壊が進むという説を頭から信じ続けているのではないか。結局温暖化はきわめて緩慢にしか進んでいない。従ってその影響で災害が増加しているわけではない。
    第3節「「CO2ゼロ」に進む態勢の軌道修正が必要」
       温暖化の理由の一部は確かにCO2の増加もあるが、それ以外の要因も大きい。従ってCO2だけをターゲットにしてその「大幅排出削減は待ったなし」という現状は、科学的知見からはずれていると思う。現状はCO2こそ温暖化の元凶だとして国全体がその削減方向に進みつつある。しかし、はたしてそのような事で日本の国益が保持できるのか。早い話が先に挙げた2030年の我が国のエネルギー計画など全く実現不能で、このまま推移するならば、エネルギー生産の根っこを中国に押さえられてしまうことは火を見るより明らかである。再生可能エネルギーの主要部門はすべて中国に押さえられており、私が再三主張しているように、日本がエネルギーで自立していくには原発の活用を図っていくしか道はない。福島の事故の教訓から国民が及び腰になっているのはわかるが、憲法の問題と一緒で、大停電で都市機能が完全にストップするまで我が国民は動かないのであろう。 杉山氏の考えによると、現状科学的な知見がないまま横行している「CO2害悪論」にブレーキをかけるためには、事実はこうだという事を示して間違った報道を正していくしか方法はないという。むしろ脱炭素を推進すればするほど経済的な損失を受ける人達、具体的には地方の工場や地方経営の担い手に先ずその理不尽さについて声を上げてもらう事が重要である。さらにそれらの声を集約していくため、政治的な受け皿が必要なのではないか。そういう受け皿があって初めて、科学的な知見に本当に基づいて「CO2ゼロ」が進められているのか、議論されることになるのではないか。
       アメリカでは共和党が実際に受け皿となっており、与党の民主党に公然と反旗をひるがえしている。イギリスでも同様の動きがある。日本においても脱炭素によって経済的なダメージをこうむる人達の声を掬い取って、実践活動の場につなげていく地方議会や国会の動きが出てくる事を期待するものである。
       この問題はそれとして、現在の「CO2ゼロ」にごり押しに進む態勢を、何とか軌道修正する必要があるのではないかと思う。杉山氏は日本の国益のため考えられるのはCO2削減のコストの問題と論じている。それはいくらCO2が減っても高コストであれば使用する人はいない。しかし安価でCO2が発生しない技術が完成すれば、かならず皆喜んで実行するであろう。そして強調したいのは、このような技術を生み出していく可能性を持つのは、我が国の裾野の広い製造業の基盤にこそそれが該当するのである。
       これこそが我が国の強みであり、このような製造業全体の総合力の中から新技術が生まれ、又コストを下げる事が出来るのではないか。また技術基盤の充実に国をあげて取り組むなら、「CO2ゼロ」の話はどうであれ必ず国益に繋がるのではないであろうか。

    ■おわりに

       最後に何回も繰り返してきたが、日本にとって今一番大切な事は、温暖化の脅威より中国の脅威である。誤った「CO2ゼロ」という考え方にまどわされて、我が国は経済力、技術力を含めて総合的な国力でかの国に絶対に負けてはいけない。当然のことながら経済も技術も国の安全を守るためにある事を忘れてはならない。重ねて言うが「CO2ゼロ」を実現するために経済がダメになったり、技術力が失われたりするのは絶対に避けなければならない。云いかえれば現在の「CO2ゼロ」推進はそれにつながる間違った道だと考える。
       以上は杉山大志氏の産経新聞出版刊「脱炭素は嘘だらけ」及び、明日への選択3月号の、同氏の「地球温暖化のウソに騙されるな」に啓発され書かせて頂いた。

                                                                                              
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年3月31日 金言(第116号)
    日本の傀儡、満州国の成立

    ■はじめに

       我が国は、徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いて以来、慶応4年(1868年)の大政奉還に至る実に250年にわたり鎖国を続け、太平の世を謳歌してきたのであった。しかしペルリ(ペリー)提督率いるアメリカ東インド艦隊が、嘉永6年(1853年)6月に浦賀に開国を求めて来航して以来ついに太平の夢から醒めさせられ、幾多の事件を経てついに開国に至り、政治体制も徳川幕府から天皇をいただく明治新政府が誕生したのであった。

    ■第一章「近代国家への脱皮を図った日本」

    第1節「明治政府は近代国家建設に邁進」
       当時インド、中国をはじめとしてアジア諸国はヨーロッパ列強の侵略による植民地化が進み、特に英国のインド、中国への進出、フランスのインドシナ、オランダのインドネシアなど、アジア諸国は列強の草刈場となっていた。そして当然彼等の次の狙いは日本であった。そのため明治政府は彼等からの圧迫に抗して、早急に近代国家への脱皮を図らざるを得なかった。当時の我が国の人口は推定であるが、3,480万人とされており、勿論近代的な工業力はゼロに等しかった。しかし、明治時代の先人は幾多の困難を跳ね除け欧米からの知識の吸収につとめ、近代国家建設に邁進したのであった。この時点で一つ方向を間違っていたならば、我が国が欧米の植民地となっていたであろう。幸い江戸時代を通じて文化的には欧米に負けない水準を持っており、また維新を推進した若い優秀な人材にも恵まれ、我が国は近代国家建設へと突き進むことが出来たのであった。
       以後我々は「坂の上の雲を追い求め」欧米に追いつき追いこせをモットーとして、近代国家の建設に邁進したのであった。
       今から考えると、よくぞ列強の干渉を排し独立を保ちながら、まさにゼロから新国家建設を成しとげたことは、世界史の中でも特筆されるべきことであった。これらを推進したのは実に20〜30歳代の若者であった。
    第2節「朝鮮半島の権益を巡り清国と対立」
       さて明治維新後我が国にとって大きな問題となったのは、開国時に列強と結ばされた不平等条約の改正であったが、その問題はさておき我が国が対外的に解決していかなければならなかったのは、朝鮮半島をめぐるロシアと中国(清国)との角逐であった。朝鮮は14世紀の末から明治維新当時迄500年にわたり李王朝が存続していたが、政治的な力は弱く隣国の中国の明王朝、清王朝のいわゆる冊封体制に組み込まれていたが、日本との係り合いは室町時代、江戸時代以来強かった。その関係は、明治に迄続くのであるが李氏朝鮮の政治力は弱く、絶えず清朝の影響下におかれていた。19世紀の末期になると、清以外にも欧米の列強や日本の介入がおこるようになる。特に日本とロシアの介入が目立つようになる。ロシアは不凍港を求めて南下政策をとっていたが、これに対して日本は特に神経質になっていた。日本は、朝鮮における権益の確保を図るが朝鮮自体は清国の体制下にあり、このため清国と日本は朝鮮の権益を巡りことごとく対立するようになる。
    第3節「日清戦争の勝利で帝国主義国家の仲間入り」
       その結果日本は清朝と戦いに及ぶことになる。いわゆる日清戦争(明治27年〜28年-1894〜1895)である。日本は開戦に充分な準備をしていたため、開戦初期から清国軍を圧倒して陸では平壌で清国軍を破り、さらに海上でも黄海海戦で勝利し、1895年2月には清の誇る北洋艦隊を殲滅したため清国はギブアップとなり、日本軍の勝利が確定したのであった。この結果我が国は清国から遼東半島、台湾、澎湖諸島を獲得し、さらに多額の賠償金2億テール(約3億円)を得たのであった。しかしその6日後、ロシア、ドイツ、フランスの三国がこの講和条約に介入し、日本は遼東半島の返還に応じざるを得なくなった(三国干渉)。日本はこの戦争により朝鮮だけではなく中国に対する圧迫を加える立場となり、以後欧米諸国と並んで帝国主義国の仲間入りをはたしたのであった。朝鮮はこの戦いの結果清国との従属関係を絶ち独立国となり、念願の大韓帝国となった。このように朝鮮と清国との長年にわたる冊封関係は終わり、朝鮮は清との服属関係の軛(くびき)から脱して独立国となったのである。

    ■第二章「日露戦争で満洲の利権を得た日本」

    第1節「戦争に至った背景」
       その後朝鮮は清に代わる宗主国をロシアに変える動きを見せはじめた。李朝第26代高祖の妃閔妃(びんひ)は男まさりの実力者であったが、国王の妃として強い権力を振るった。閔妃は日本の抬頭を懸念して急激にロシアに近づいて親露政策を採り始める。これに対して兼ねてから閔妃の国政の進め方に不満をいだいていた朝鮮の開化派や、駐在していた日本軍守備隊、日本領事館警察らが王宮内に侵入して閔妃を暗殺する(乙未(いつび)事変)。自分の妃が殺された国王高祖は、1896年あろう事かロシア領事館に退避する。1年後に王宮に戻るが、これは国としての自主性を自ら放棄するものであり、王権は失墜して、結果として日本とロシアの勢力争いを自国に持ち込む事になってしまった。一方清国との宗属関係がなくなった結果、列強が気兼ねなく朝鮮に進出することになる。
       明治37年(1904年)に日本はロシアの朝鮮進出を阻むため、加えて満州の利権を巡りロシアとの間で戦端を開く。日露戦争の開始である。日清戦争における三国干渉の後、ロシアはシベリア鉄道を軸に東方政策を推進し、東清鉄道を布設すると共に旅順、大連を租借して南満州を支配するとともに、朝鮮にも進出して軍事や財務の顧問を派遣し、さらに南岸の馬山浦(まさんほ)の租借を図った。日本はこれを止めるべく種々の策を講じて朝鮮における優越権の維持を図ったが、ロシアは1900年の義和団事件の際出兵した兵力を撤兵せず、そのまま居座り、事実上満州全域を占領するに至った。これを憂いたイギリスは、ロシアの南下を阻止して中国市場を守るため日英同盟を提案、我が国もこの案を是として1902年日英同盟が締結された。
       一方ロシアは露清協定の定めた撤兵期限1903年4月になっても撤兵せず逆に増兵し、さらに鴨緑江(おうりょくこう)の南岸に迄進出した。また日露両国は、それぞれ相手国が朝鮮と満州を自国の勢力圏と認め相手国はこれに干渉しないという原則をお互いに順守する事を提案するが、ロシアはこれを拒否したため主戦論非戦論相半ばしていた我が国もついに主戦論に傾き、明治37年(1904年)2月、日露両国が宣戦布告して日露戦争の幕が切って落とされた。
    第2節「戦争の経過」
       戦争の経過を簡単に書くと、国力が乏しく長期戦に耐えることが難しい我が国の戦略は、ロシアがヨーロッパからの増援を受けない間に在満州のロシア軍を撃滅して、戦況が優勢な間に講和に持ち込むことであった。戦費(国債)と軍需品は英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果を上げる必要があった。そのため緒戦において先ず朝鮮の制圧により朝鮮を事実上の保護国とした上、海軍は黄海における制海権を握り、遼東半島制圧のためロシア海軍の拠点旅順港の封鎖を行った。ロシア艦隊は旅順港からウラジオストクへの脱出を図るが日本海軍はこれを撃破する。しかし、旅順要塞の守りは堅く日本軍は多大な損害をこうむり、また遼陽においても敵に期待した程の損害を与える事はかなわず、日本の望んだ早期終戦の目論見は潰え去ったのであった。
       一方ロシア本国では革命運動が盛んになったため、ロシアはこれを警戒して兵力の増強にはためらっていたが、敗戦は革命運動を助長すると判断し、又極東の海軍力が日本の善戦によりほとんど役に立たないと見て、ついに世界最強といわれたバルチック艦隊の東洋遠征に踏み切る。一方ロシア軍も反撃に移り沙河(さか)会戦が行われるが、日本軍はかろうじてこれを撃退する。多くの犠牲者を出した旅順も児玉源太郎大将の英断により攻城砲を内地から持ち込んだ結果ついに1905年1月、陥落させたのであった。しかし開戦半年で戦死者約6万人となり国力の限界が見えて来ていたのも事実である。さらに3月の奉天会戦は我が国の辛勝に終わるが、戦力は限界となってきたため講和が急務となった。しかし幸いな事に5月、バルチック艦隊を迎え撃った東郷大将率いる連合艦隊が、対馬沖でロシア全艦隊を撃滅したため、海軍力を失ったロシアも講和に傾き、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋で8月、講和会議がアメリカのポーツマスで開催されたのであった。
    第3節「講和の結果とその影響」
       講和の結果先ず日本はロシアから南カラフト・千島を獲得し、さらに韓国の保護権を獲得するが、その後英国、アメリカの承認を受け韓国の主権を奪い、1910年日韓併合をはたす。
       一方満州においてはロシアの布設した鉄道を奪い、1906年南満州鉄道(満鉄)とし、さらに翌年の日露協約で南満州を勢力下に収めた。しかしアメリカの鉄道資本家ハリマンが提案した満鉄の日米共同管理をにべなく拒否したため、日本は門戸開放を求めるアメリカのアジア政策と衝突することになる。この事は後の日米関係を考える上で極めて残念なことであった。
       満鉄を柱とする満州経営権益は日本にとって重大な課題であった。日本はこの鉄道を守備するため鉄道守備隊を置いたが、これが後に関東軍となる。一方で日本は、1905年10月に満州軍総司令官のもとに関東総督府を設置するが、清国はこれに抗議し、日本の門戸閉鎖に対し英、米が反発し大変難しい局面となる。

    ■第三章「日本の傀儡、満州国の成立」

    第1節「日中間の深いわだかまりとなった経過」
       さて、中国本土においては1911年から1912年にかけて辛亥革命がおこり、満州族による清王朝が打倒され、満民族による共和制政体である中華民国が成立する。そして満州は中華民国の臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、中華民国の統治下に入った。しかし満州においては、革命派の弾圧で力をつけていた張作霖がおり、袁世凱が孫文と対立して中華民国が分裂して内戦状態になると、張作霖が急激に抬頭して奉天軍閥を形成して、日本の後押しも得て張が実効支配することになる。
       一方日本は、第一次世界大戦に参戦して1914年(大正3年)にイギリス軍と共闘してドイツの山東半島における租借地である青島を政略占領し、その権益処理として対華21ヶ条要求をつきつけた。そもそもこの21ヶ条の要求が何故なされたか、またその内容について若干触れると、日本が日露戦争の結果獲得した満州における旅順、大連、南満州鉄道(満鉄)の租借権が1923年に迫っていたこと、もともとこの租借権は、清国からロシアが得たものであったが1912年に清国が亡び中華民国が成立したため、このままでは他の列強から干渉が入るのをおそれ、この機会に一挙に既成事実化しようとしたものであった。中国はこの日本の特殊権益の固定化を受け入れたのであったが、この事が以後日中の間の深いわだかまりとなったのである。
    第2節「苦しい状況に追い込まれた関東軍」
       一方で1917年(大正6年)第一次世界大戦中にロシアで革命が勃発してソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約はすべて無効として継承する事をソ連は拒否するのであるが、第一次世界大戦に参戦していた連合国はソ連を牽制するためシベリアへ出兵する。しかし途中アメリカを始めとする連合国の撤兵によりこの企ては失敗に終わる。このため共産主義の拡大に対する防衛の最前線として満州の重要性が高まり、満州、蒙古は「日本の生命線」となったのである。
       さらに共産主義ソ連政府は、旧ロシア帝国の持っていた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権等)の無効、放棄を宣言したため、孫文をはじめとした中華民国政府は急速にソビエト政権に接近するようになる。また1920年には中国に社会共産党が設立され、翌年には中国共産党の第一次全国代表大会が開催され、中国共産党は、あなどれない勢力となってきた。そして蒋介石の南京国民政府は、1924年第一次国共合作をはたし、北伐を進めこれを成功させる。その結果1928年に日清通商航海条約を一方的に破棄したため、中国における在留日本人(韓国人を含む)の生命、財産及び条約上の特殊権益が重大な危機に晒されることになる。
       満州はそもそも清朝発祥の地であったため、清王朝は漢民族の植民を強く制限していたが、清朝末には中国内地の窮乏化もあって多くの移民が満州に流れ込み、漢人化と開拓が進んでいた。袁世凱は満州を自己の勢力下におく事を目論み、ロシア、日本の権益を排除しようと企てるが、なかなかうまくいかなかった。そして袁の死後馬賊上がりの将校であった張作霖が急激に台頭し、軍閥として勢力を確立する。さらに満州を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部は、張を支持して日本の権益を確保しようとするが、したたかな張作霖はなかなか日本の思うとおりにはならず、日本は張に振りまわされたのであった。さらに蒋介石率いる中国国民党が戦力を結集して、南京から北上を開始したため、関東軍は苦しい状況に追い込まれる。
    第3節「関東軍が満州全土を占領するまでの経過」
       このような状況の中で1920年3月に赤軍パルチザンによる有名な尼港(ニコラエフスク)事件が起こり、日本守備隊の殲滅と居留民の虐殺が行われ満州の赤化について警戒感が強まり、関東軍参謀石原莞爾らは、万里の長城以東の全満州を中国国民党から切り離して日本の影響下に置くこと、すなわち日本の影響下での満州国の独立を考えるようになった。
    1928年(昭和3年)5月、北京を中心とする中国内地を一時支配していた張作霖は、国民党の主導する革命軍に敗れ満州へ撤退した。当時の田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持方針を継続していたが、関東軍の高級参謀河本大作らは、張作霖は、日本の権益を阻害すると懸念して、1928年6月4日奉天近郊で蒋介石率いる北伐軍との決戦を断念して、満州へ引き上げる途上にあった張作霖の乗車する特別列車ごと爆破して暗殺したのであった。河本らは自らが実行した行為である事を隠蔽する工作を講じていたが、種々の客観的事実から関東軍主導は公然の事実となり、彼の跡を継いだ息子の張学良はその事実を知って激怒したが、国民政府の指示により大きな抵抗をしないまま満州から撤退した。このようにして満州は関東軍の支配下に入ったのであった。
       関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日柳条湖事件を起こした。これは奉天近郊の柳条湖付近で中国軍の仕業と見せかけ関東軍が南満州鉄道の路線を爆破した事件である。先に述べたように1928年の張作霖の爆殺事件の後、息子の張学良は反日に転じたのであるが、彼は南京の国民党政府と合体して満州において数々の排日事件を起こしていた。1930年(昭和5年)4月張学良は満鉄との並行線を建設したため満鉄は経営不振におちいってしまった。日本の生命線である満鉄がこのような状況になった事は日本の満州経営にとって由々しき問題であり、関東軍のトップは、柳条湖事件を契機として一挙に満州(中国東北部)全土の占領を企て、先の柳条湖事件を起こし、それを始まりに中華民国との武力衝突を起こしたのが満州事変である。関東軍は約6ヶ月で満州全土を占領した。そして関東軍主導のもとに同地域の中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日に満州国が建国され、元首(満州国執政、後に満州国皇帝)に清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が就いたのであった。
    第4節「満州国の実体は日本の傀儡国家である」
       満州国は建国に当たって自らを満州民族、漢民族、蒙古民族からなる「満州人・満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であると称し、建国の理念として日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げていたが、実際には日本の関東軍が占領した日本の植民地であり、日本の傀儡国家であった。しかし当時の他の植民地と大きく異なり、満州帝国は国際連盟の半数の国から承認を得ていた。従って多数の国々の領事館も設けられ、日本の植民地ではなく、元々満州は満州人の国であり、中国人とは一線を画すものであるとして、万里の長城の北側に存在する独立国家であるという見方も存在していた。しかし実体を考えるならば、これは完全に日本の植民地であったと云えるのではないかと思う。云いかえると満州国は建国以来日本、特に関東軍と満鉄の強い影響下にあって、表面的には「大日本帝国と不可分な関係を有する独立国」として位置付けられていたが、国際連盟加入の主要国は、満州地域は法的には中華民国の主権下にあるべきものとして考えていた。これが原因となり1933年(昭和8年)日本は国際連盟から脱退せざるを得なくなった。そのいきさつについてはかつて「金言」の松岡洋右の項で詳述した。

    ■おわりに

       満州国の建設について大きな役割をはたしたのは、陸軍参謀を務めた石原莞爾と板垣征四郎であったが、特に石原は強硬一点張りではなく独特の哲学を持つ軍人で、後に東條英機と鋭く対立したため予備役に追いやられて、彼本来の考え方を実現することが出来なかったのは我が国にとって不幸であったのではないか。満州国の提げた「五族協和と王道楽土」はそれが真に実現されたならば、誠にアジアの平和に大きく寄与したと思うが、これはあくまでスローガンに終わってしまった。日本は、その後盧溝橋事件を契機に中華民国と戦いを交え、泥沼ともいえる日中戦争に突入していく。更にこの戦争は、長引き我が国の国力を疲弊させたにも関わらず日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結び、英米との対立を激化させ、ついに太平洋戦争に突入して自滅したのは歴史のとおりである。一方満州帝国の瓦解も早かった。
       第二次世界大戦の末期1945年、ソ連は日ソ中立条約を破って満州に侵入した。南方でアメリカ軍との戦闘に注力して守備が手薄になっていた関東軍は、ソ連軍の侵入になすすべもなく蹂躙され、日本は降服して満州帝国は滅亡した。わずか12年間の命であった。戦後、日本兵の大部分はシベリアに抑留され筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。そしてそれよりも満州へ移民した日本人の苦労は察しても余りあるものがある。

                                                                                              
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                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年2月28日 金言(第115号)
    石原慎太郎氏の逝去について思う

    ■はじめに

       去る2月1日、文学者(小説家)にして参議院議員、衆議院議員そして東京都知事を歴任した石原慎太郎氏が死去した。1932年(昭和7年)生れであるから大体私とは同世代であり、幼年時代と大学時代を北鎌倉で過ごした私と逗子で育った石原氏、また弟の裕次郎氏とは横須賀線かどこかで出会った事もあった。又裕次郎氏は日吉の校内で何回か見受けた事を思い出す。
       亡くなって約1ヶ月が経過して各新聞とも石原氏の良くも悪くもその強烈な個性を評した追悼記事を書いているが、それも大体出揃ってきたので石原氏について今回は書いてみたいと思う。

    ■第一章「少壮気鋭の作家としてデビュー」

    第1節「生い立ち」
       石原氏の生まれは神戸との事で、私も神戸出身であるから何かとご縁を感じる次第である。石原氏は地元の進学校、神奈川県立湘南高校から公認会計士を目指して一橋大学に入学する。高校時代からサッカーに熱心であったが、他方では文学にも興味を持ち、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、ヘミングウェイを読みふける。後に慶応大学を経て文学評論家となる同級生の江藤淳氏とは仲が良かった。江藤とは彼が作家になった後も共著があり、1999年に彼が自死するまで交流があった。
       さて公認会計士を目指していた慎太郎氏であったが、自分の体質には合わないと自覚し、文学に興味を持つようになる。そして彼は、休刊していた一橋大学の同人誌「一橋文芸」の復刊に尽力するようになる。その復刊の過程で「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で有名な作家、伊藤整氏の知遇を得て資金援助をあおぎ、同誌の復刊をはたす。伊藤整氏は後に「石原慎太郎のこと」という文章の中で、「石原氏を当時は背の高い青年だなと思った程度であったが、資金援助についての申し出がとてもよかった」とその印象を語っている。
    第2節「社会的反響を呼び起こした出世作「太陽の季節」」
       石原氏はこの同人誌の復刊第1号に処女作「灰色の教室」を発表して、一部の評論家から激賞され自信をつけたのを契機として、満を持して第2作「太陽の季節」を執筆したのであった。ストーリーはよく知られているので割愛するが、弟石原裕次郎から聞いたある噂話が題材となっているが、当時の考え方からいうと大変反社会的な度肝を抜く作品で、大きな社会的反響を呼び起こした。私は大学生であったが、何かの教養科目の宿題で「太陽の季節」を取り上げたのを覚えている。その内容については全然覚えていないが、相当大きな衝撃を受けた。その記録が残っていれば、今役に立っていると思ったのであった。
       そしてこの「太陽の季節」は1955年下半期の芥川賞を受賞した。しかし選考過程では作品の持つ若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした事は有名である。しかし、当時くすみかけていた芥川賞を、一挙にこの作品の受賞が良い意味でも悪い意味でも活性化したのは事実であろう。芥川賞についてはかつて「金言」でも取り上げた。
    第3節「文学者としての評価」
       その後石原氏の作家としての活躍は目覚ましく、「処刑の部屋」「聖祭」といった現代社会の世相を鋭く抉り出す多数の作品を発表した。また1970年の「化石の森」1988年の「生還」は特筆すべき作品である。その他、後に弟の裕次郎氏の事を描いた「弟」は大ベストセラーになったが、文学的には如何なものかという気がする。又長年政界で反対の立場にあった田中角栄の事を書いた「天才」もベストセラーにはなったが、ただそれだけのものに過ぎないのではないか。この作品は晩年のものであるが、石原が損得に関して鋭いものをもっている事を浮き彫りにしている。
       一方彼は1995年から2012年迄芥川賞の選考委員を務めた。極めて辛辣な辛口の批評も多かったが又吉栄喜、辻村萬月や先日亡くなった西村賢太などの有能な作家を世に送り出したのは彼の功績である。
       1968年からの政界進出後に発表する作品は、当然めっきりと減ったものの、一貫して創作活動を継続して、文学者としての矜持を保ったのは見上げたものである。
       作家としての評価は、主義主張の異なる田原総一朗のようなうるさ方からも評価されている。著名な文芸評論家、福田和也は自著「作家の値うち」の中で、石原氏の「我が人生の時の時」を「数世紀後に日本文学を振り返った時、名前の挙がるのはこの作品ではないか」とまで激賞している。

    ■第二章「政治家として国政へ転進」

    第1節「史上最高の得票を集め注目の的となる」
       文学者として王道を歩みつつあった彼が突然政界に転進した理由はわからないが、矢張り若くして文学界で成功した彼は、一文学者として止まることには抵抗感があったのではないか。彼にはそれなりに野心と自己に対する自信を持っていたから戦後アメリカに支配され、我が国の美徳がなくなってしまった中で、自分なら日本の方向を変えていけるという確信を持ったのではないかと思う。当然政界のトップに立ち総理大臣を目指していたと思う。その手始めに1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党の公認候補として立候補して、実に史上最高の304万票を集めて注目の的となる。彼は、この選挙中、田中角栄の金権選挙を鋭く批判したのであった。しかし、参議院議員としてたちまち彼は限界を感じて、4年後の1972年12月の第33回衆議院議員選挙に旧東京2区から無所属として立候補して当選し、衆議院への鞍替えを果す。彼は翌1973年の田中角栄による中華民国との国交断絶、中華人民共和国との「日中国交正常化」に反対して反共を旗印とした政策集団「青嵐会」を結成して、その中心メンバーとなる。
    第2節「若手議員で派閥横断的な「青嵐会」を結成」
       青嵐会とは、1973年に自民党の派閥横断的に結成された、衆参両議院の若手31名からなる保守政策集団で、青嵐とは寒冷前線の事で「渾沌停滞した政界に新風を送り込もう」という趣旨で石原が命名した。中心メンバーの議員は中川一郎、渡辺美智雄、加藤六月、浜田幸一、森喜朗、石原慎太郎、三塚博などの保守派の若手議員で、中華民国(台湾)支持、反中国共産党。憲法問題については自主憲法制定、集団的自衛権の行使、実現などが基本的な考え方であった。
       石原氏はこの青嵐会の中心として自己の保守的な考え方の実現に向けて活動する。国政に参加して順調な活動を行っていた石原氏であったが、当時東京都の知事をつとめていた美濃部亮吉氏の余りにも容共的な姿勢に反撥して、1975年の知事選に美濃部知事の対抗馬として無所属で立候補するが次点で敗れる。しかし、石原氏は美濃部269万票に対して233万票と肉迫して善戦したのであった。
       翌年1976年(昭和51年)12月の第34回衆議院議員選挙で再度自民党から立候補して国政への復帰をはたす。そして選挙後発足した福田赳夫内閣において、環境庁長官として初入閣する。
    第3節「国政での限界を感じて議員辞職」
       在任中は水俣病補償問題に取り組み成果を挙げるが、「ニセ患者」の存在や「患者団体が左翼に利用されている」などの指摘を行い話題となる。 1987年竹下内閣で運輸大臣となり、宮崎県のリニアモーターカー実験線のグレードアップを図り、新しい実験線を山梨県に移転させた。このプラントをもとに東京・名古屋間のリニアカー建設本格化が進んだのは周知のとおりである。また遅れていた成田国際空港への鉄道路線整備にも力を尽くした。
       次に1989年亀井静香、平沼赳夫、園田博之らに推され自民党の総裁選に出馬したが、経世会(自民党田中派の流れをくむ竹下派)の推す海部俊樹に敗れる。1990年の第39回衆議院議員選挙では旧東京4区から長男の伸晃が初当選して父子揃って議員が誕生する。しかし1995年4月に議員在職25年の表彰を受けるが、衆議院本会議場で演説中「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した。
       自己の才能に自信を持つ石原氏としては、その本心は総理大臣となって国政を担うことにあったと思うが、彼の考えが十分に国民に受け入れられていたかという事を自覚していたかどうかは大変疑問である。その結果として、彼にはあり余る才能を持ちながら政治家として柔軟性を欠き自信過剰と見られていた節は随所にみられるのであって、それは多くの問題発言に繋がった。信念は信念として政治家は時には妥協も必要ではないか、そのあたりが彼の政治家としての限界ではなかったかと思う。

    ■第三章「東京都知事として長期政権を築く」

    第1節「都政で自分の考え方の実現を図る」
       国会議員としては十分に目的を達成出来なかった彼は、今度は突然政治活動の場を東京都の知事に求める事になる。議員辞職から4年後の1999年4月東京都知事選に立候補して、鳩山邦夫を始めとする前々から立候補を表明していた有力な候補者に圧勝して、以後2012年迄の4期目の途中で辞任するまで14年の長期政権を築き、数々の政策を推し進めた。彼が東京都知事に転進したのは、国政では実現出来なかった事を文字通り日本そのものの縮図である東京なら、彼の考え方を実行可能と踏んだのではなかったか。
    彼の選挙公約は下記の通りであるが、誠に筋の通ったもので実現可能なものであった。
    (1期目)
  •       1.都が主導する債券市場の推進
  •       2.踏切りのない東京の実現
  •       3.健康を損なう排ガスの規制
  •       4.福祉を阻害する規制の排除
  •       5.借金漬けの財政からの脱却
  •       6.横田基地返還の推進
  •       7.首都移転には反対
  •       8.住みやすい東京の実現
  •       9.命を守る危機管理の実現
  •    10.新しい道徳教育の実施
  • (2期目)
  •       1.安心安全の確保と都市の再生から始める「都民福祉の実現」
  •       2.中小企業のための「新しい銀行の創設」
  •       3.都民、国民の健康を損なう「大気汚染の解消」
  •       4.利用者から高い評価を得ている「認証保育所の大増設」
  •       5.これまでの日本になかった「全く新しい大学の実現」
  •       6.千客万来の「観光都市を実現」
  •       7.雇用促進のため利用者に便利な「職業紹介を都独自に実施」
  •       8.都庁の改革、合理化と「第二次財政再建に着手」
  • (3期目)
  •       1.引き続き環境革命の実現推進
  •       2.子育て支援プログラム実施と中学3年生までの医療費ゼロ
  •       3.都立の施設及び都立小中高校の食事、給食に独自の東京ブランドの食材導入
  •       4.神奈川県、千葉県、埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくり道州制の実現をはかっていく。
  •       5.2016年に東京にオリンピックを招致(2009年に招致失敗)
  •       6.高齢者の起業及びNPO法人の活動を支援する組織をつくる。
  •       7.都庁の展望台や都の保有資産を有効に利用して歳入を増加させる。
  •       8.公立小中高グランドの芝生化

  • 第2節「石原都政14年間の実績」
       石原氏はかつて一橋大学において公認会計士を目指したことも あって、官庁や自治体の会計が単式簿記、現金主義会計が採用されていることに強 い疑問をいだき、2002年に新たな会計制度の導入を実現すると宣言して、2期 目の2006東京都は他の自治体に先駆けて、会計制度に複式簿記、発生主義を採用したのであった。
       これは画期的な事であり、彼も3期目に入ったところで自己の仕事の中で「一番よかった仕事であった」と自賛している。事実彼は前々からこの国には健全なバランスシート、財務諸表がないと云い続けており、国家の会計制度にも複式簿記、発生主義を提案していた。
       環境対策、都市構想は石原都政の中で目立ったもので、ディーゼル車排ガス規制の実現は彼の功績として称えられているが、一方では、ディーゼル規制は確かに窒素酸化物を減らすが、反対にCO2発生の多いガソリン車を増加させる事になってCO2を削減する方向には逆行していたのではないかという疑問も投げかけられていた。
       「東京から日本を変える」が石原氏のキャッチフレーズで、独自の政策を進め、国に対しても明確に主張した。彼の公約とその実施はわかりやすく明解であった。都立大学の首都大学東京への名称変更は評判がよかったし初当選した翌年2000年には関係省庁が反対する中、大手銀行に対し事業規模に応じて課税する外形標準課税、いわゆる銀行税を導入し、地方税法に違反しているなどとして銀行より訴訟を提起され、1,2審では敗訴したが、後に最高裁で和解したものの、公的資金を受けて利益を受けながら税金を支払わない大手銀行に反撥する世論の支持を得たのであった。
       ディーゼル車の問題は先に述べた通りである。米軍の横田基地の返還や羽田空港の国際化など今までの知事が取り組んでこなかった自治体の枠を超えた政策にも積極的に取り組んだ。1964年以来の東京オリンピック開催を目論んだが2016年招致には失敗したものの、2020年の開催に再度名乗りをあげ、招致に成功した。
       また、中小企業向けに無担保で融資をする新銀行の設立を進め「新銀行東京」を発足させる。しかしこの銀行は、不良債権の続出で後にやめざるを得なくなる。
    第3節「再三物議をかもした「型破りの知事」」
       一方都政を離れてその時々の行動が、時の政権を揺さぶったことも再三であった。中でも尖閣諸島については熱心で、かつて、尖閣への上陸は出来なかったがわざわざ船をチャーターして島への接近を図った事もあった彼は、2012年4月に尖閣諸島の一部を東京都が地権者から買い取る意向を表明し、島に船だまりなどの施設を建設するという考えを主張した。一方で「もし国が領有権を含めて権利を遂行するなら、何時でも東京都は引き下がる」と述べ、政権に買収を迫ったのであった。この石原氏の動きに都が買収すれば中国を過度に刺激することを懸念した当時の野田佳彦首相は、国による買収方針を固め、9月に国有化に踏み切ったのであった。これを機に中国は反撥を強め、その後尖閣諸島周辺への進出を強めるきっかけとなった。中国の活動は近年益々エスカレートを重ね、我が国は、対応を迫られている今日である。今年は日中国交正常化50周年であるが、「尖閣」を巡る中国との緊張は続いている。
       一方では、自己に自信を持つ石原氏は、自分の考え方を歯に衣着せず発言した。それは明瞭で時には攻撃的な言動となり、例えば「今日の東京は不法入国した多くの第三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」東北大地震について「津波を利用して我欲を洗い落す必要がある。これはやはり天罰だと思う」「中国人の名称は本来支那人である。支那人といって何が悪い」などの発言を繰り返した。私などから見ればその発言には特におかしいとは思わないが、一部の左翼的な人々からは「タカ派言動」としてたびたび物議を醸したのであった。
       どちらにしても石原知事は従来の知事とは違う型破りの知事であった。進め方はあく迄トップダウンで様々な政策を推し進めたのであった。しかし4期目に入ってからは体調を崩したせいもあってか、都庁への出勤も不規則となり、やや精彩を欠いた場面が見受けられるようになる。時の政権与党の民主党は3年強を経て混乱状態におちいっていた。そのような中で石原氏は「次の首相」候補に擬せられるようになり、2012年10月4期目の途中で知事職を辞任して、第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会から比例代表で立候補して国政への復帰をはたした。
       石原氏は当時力を伸ばしてきた橋下徹氏と意気投合して日本維新の会から立候補したのであったが、日本維新の会においては大阪系の議員と政策や党運営でたびたび対立するようになる。さらに「結いの党」との合併協議の際には「結いの党は護憲政党である」として否定的な立場を貫き橋下共同代表らと決定的に対立し、石原グループによる「次世代の党」を発足させたのであった。石原氏は最高顧問となる。
       2014年11月に衆議院解散が決定的となり、石原氏は高齢と体調不良を理由に政界からの引退を示唆するが、党内からの強い希望により東京ブロックから比例単独候補として立候補するが、彼は落選し、政界引退を表明したのであった。すでに彼は82歳になっていた。

    ■第四章「石原慎太郎氏について考える」

    第1節「並みの文人ではなかった」
       私は石原氏とは直接会った事はないが、学生時代読んだ「太陽の季節」以来彼の著書の主なものはほとんど読んでいる。乾いた文章で悪文という批評家もいるが、一本筋が入った小説には何時も感心する。政界に転じてからは作品も少なくなっていた。石原氏を最後に直接見受けたのは、英語学者であり歴史家、評論家で、また当國民會館のメインスピーカーであった渡部昇一氏(1930〜2017)の葬儀に私も参列したのであったが、その際石原氏が友人を代表して弔辞を読んだ。それについて私は石原氏の能力の高さに改めて驚いたのであった。弔辞は弔事をしたためた書面を読み上げるのが普通であるが、石原氏はややおぼつかない足取りであったが祭壇の前に進み全く原稿なしで、故人の人格、事績を称えた上、最後に故人に新古今和歌集の一首を捧げると、とても老人とは思えない朗々とした声でその歌をうたい上げたのであった。私は余りにもそれが素晴らしかったのでただ聞きほれるのみで、その歌の詳細は頭に入らなかった。後に石原事務所へ「あの歌の詳細を教えてください」と電話したが先生に聞いておきますとの事でそれっきりとなってしまった。これ一つとっても石原氏は並の文人ではない事がよくわかる。
    第2節「三島由紀夫の思想を承け継ぐ」
       さて石原慎太郎氏は三島由紀夫とよく比較される。三島氏は石原氏より七歳年長であるが、思想的には近いものがあり三島氏は石原氏が世間から批判にさらされていた頃から彼を買っていた。三島氏は石原氏との対談の中で「自分もかつてエトランジェ(異邦人)であったがなかなかそれを渡す人が出現しなかった。今やっと連隊旗を渡す適当な人が見つかった。石原こそがそれにふさわしい」と、石原氏を高く評価している。石原氏は三島が自決した際、「三島の死は日本の社会に退屈をもたらした」「三島は予見性のある人だった。分析力、洞察力もある鋭い人であった」「とにかく知的な刺激を受けた。そういう人がいなくなって日本は退屈になった」「三島氏は日本の敗戦から復興を、その後の紆余曲折を経て日本人にとって予想外の高度成長をもたらし贅沢を享受した。ある意味で彼は一番体現した作家かもしれない。彼は高度成長を虚構だと思っていた。そしてその崩壊も予見していた」
    第3節「戦後に対する最後の反逆者」
       三島氏は亡くなる前の年、「このままいったら日本はなくなってしまう。その結果無機質な、空っぽな、ニュートラルな中間色の富裕な抜目がないある経済大国が極東の一角に残るであろう」と書いているが、それについて石原は肯定も否定もしていない。ただ三島氏の住まいについて感想を述べているだけである。しかし内心肯定だったのではないか。文芸評論家の富岡幸一郎氏は「三島から高い評価を得た後の石原が文壇という狭い世界から政治という華やかな世界に活動の場を広げ、晩年にいたる迄日本社会に対して物議をかもし続けたことは周知の通りである。石原氏が既成の概念にとらわれず、常に価値の破壊者として光栄を担って作家として、また政治家としても一個の表現者になり得たのであるが、そこには何時もある誤解があったように思う。それはこの表現者が時代や状況に応じて何か新しい価値や思想を表現し続けてきたことではないか。確かに参議院議員選挙ではいきなり300万票を得て政界に登場し、以後政界に於ける型破りの言動、一方作家として絶えず何か新しい物を停滞した状況の中に送り込む。これはまさしくエトランジェといってよい。しかし石原氏のすべての表現活動の根底にあったのは彼が生きてきた戦後という時代が国家としての自存自立の矜持を失い、日本人としての誇りを忘れ、個人の自我の力強さを持ち得なくなったことへの憤懣と羞恥であったのではなかろうか。それは日本人自らが戦後にからめ取られていることに対する烈しい苛立ちであった。国家を奪われ経済を失いそして今や人間としての尊厳すら消失しかかっている。この国の戦後に対する最後の反逆者こそが石原慎太郎である」といっている。これは特に三島由紀夫が考えていた事と全く一致するものであって、石原氏こそが三島から旗手としてエトランジェの旗を受けついだのではなかったか。

    ■おわりに

       最後に石原氏が小説家と政治家の二足のわらじを履いた事に対する批判もあるが、私は決してそれがおかしい事とは思わない。ファウストで有名なゲーテはワイマール公国の首相でナポレオンとも直接相対した政治家であったが、あのような文豪としての実績を残した。一方フランスの20世紀の文豪アンドレ・マルロー(1901〜1976)は小説家として冒険家として、またド・ゴール政権のもとで長く文化省の大臣を務めた政治家であった。彼は若い時にはインドシナを駆けまわった冒険家であったが、エピソードとしては、カンボジアのバンテアイ・スレイ寺院の世にも美しいクメールの仏像を盗むという勇み足もあった。私もアンコールワットからさらに奥地にあるこの寺院を訪問し、問題の仏像を見学したが、その想像を絶する余りの美しさに後に文豪となるアンドレ・マルローの気持ちがよくわかった。マルローは小説家として成功したが、スペイン内乱では共和国側の義勇兵に志願、二度も負傷している。その後ナチスドイツに対するレジスタンス運動に加わり何度も死線をさまよう事になる。そして戦後ド・ゴール将軍に出会い意気投合して情報相、文化相となり政治家として大活躍したのであった。

                                                                                              
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年1月31日 金言(第114号)
    我が国における原子力発電の必要性

    ■はじめに

       私は2021年8月31日付金言「地球温暖化と我が国の取り組み」の中で、先にスコットランドのグラスゴーで行われた、第26回気候変動枠組条約国際会議(COP26)に対する我が国の温室効果ガスの削減計画を
    、従来の2030年度目標公約「13年度比26%削減」を更に一歩進めて新たに46%削減計画を打ち出した事に、強い懸念を持つと書かせて頂いた。
       というのは、この46%削減という数字は2018年に策定された第5次エネルギー基本計画で追認して、現在実行に移されている電源構成見通し、すなわち1次エネルギーの構成見通しに符合したものであって、これが政治的な要因に強く押された結果闇雲に、いわば唐突に46%削減目標へと変えられたのではないかという強い懸念を持つものである。政府は当面国際的に良い格好をした形であるが、実際にこれは今後の電源構成に大きな影響を及ぼすものであり、我が国は国際的に大変な重荷を背負う事になることが予想される。

    ■第一章「帳尻合わせの電源構成の見通し」

    第1節「再生エネルギー比率の大幅増加への疑問」
       政府は、あらためて2030年の電源構成の見通しを7月21日に発表したが、正直云って大変無理な帳尻合わせで、我が国は今後長らく苦労することになるであろう。具体的には、4月にようやく実現可能な根拠を苦労して段取りして、再生エネルギーの比率を現行の22〜24%から、30%に迄高める方向性を固めていたところ、9日後の4月21日に突然46%減という数字がおどり出したため、全く十分な根拠がないまま6〜8%加算せざるをえなくなってしまったのであった。
       これに対しては各方向から当然疑問の声が湧き出してきた。再生エネルギーを大幅に増やす事が実現することが可能なら誠に結構な事であるが、現状を直視すると太陽光パネルの生産はほとんど中国に握られており、また太陽光発電のコストは原子力より安いという見方があるが、太陽が姿を現さなければ電気を生めないという欠点が当然あり、このためにはバックアップのために火力発電が必要で、そのコストが計画の中に入っているかどうかはあいまいである。おそらく計上されていないであろう。
       さらに、太陽光発電を普及させCO2を削減するため、国民の皆さんはご承知かと思うが、CO2を2.5%減らすため毎年2.5兆円という巨額な賦課金を、国民の電気代に上乗せして負担しているのである。もし計画通りに太陽光発電を増やしていくならば、前にも書かせていただいた通り、毎年10%賦課金を増加することになり、この額は毎年20兆円になる。ということは、この20兆円という金額は現在の消費税20兆円とほぼ同額であって、国民にとっては46%のCO2削減という目標達成のため、2030年迄に消費税を20%上げるのに等しいのではないか。
       太陽光発電は今後パネルを含めて価格が下がるという説もあるが、我が国のように平地が少ないという立地からしてこれを増やすことは到底難しく、パネルの老朽化による公害問題も考えられるし、洋上風力に至っては我が国ではより難しい。また再生可能エネルギーの普及のためには蓄電池が必要になってくるであろうし、さらに送電網の充実も今のところ心もとないのである。
       これらを整備するには膨大な費用がかさむ事をよく考えておかなければならない。
    第2節「全く目途がたっていない原子力発電」
       その対策として考えるべきは原子力であるが、計画では「30年度の原子力発電比率は20〜22%」としており、このためには原発の稼働に少なくとも27基運転する必要がある。しかし現時点において9基ないし10基しか稼働していない。目標の原発比率20〜22%には全く目途が立っていない。
       大体福島における原発の不祥事以来、政府は原発の復活整備には頭から逃げ腰で、また事故後に出来た原子力規制委員会は、公正取引委員会と同じ国家行政組織法第3条に基づく独立性が担保されていることをいい事にして、福島の事故の行き過ぎた反省から事故に対する対策を一方的に強化して、原発の新設や炉心が損傷した場合引き起こされる重大な事故に対して神経質な迄の対応を示しており、折角従来より進んだ諸対策に対しても、更に一歩進んだ課題を次から次へと原発会社に押し付けてきているのではないか。
       例を挙げると「核のごみ」の最終処分についてもハードルをあげてきているし、数千年前に起きた火山爆発に対する強い策を考慮するよう指図しているのは行き過ぎではないか。確かに我が国においては有史以来、過去12万年の間に阿蘇山を含む10回の巨大なカルデラ噴火が起こっており、その最後の噴火は7300年前と云われている。富士山も100年に一度は噴火を繰り返し、今のところ宝永年間の噴火からすでに300年を経過しているため、何時爆発が起こってもおかしくない。しかし、例えば九州の鹿児島県の川内原発や、佐賀県の玄海原発に何時起こるかわからない阿蘇山の大噴火を予想して、その被害を算定して対策を講じろとか、いざという時の避難誘導の完璧性を担保せよという指図は行き過ぎだと考える。
       さて前にも述べたように、福島の事故を踏まえて原子力の比率を大幅に下げるべきだという強力な主張は、左翼関係を中心にある。しかし政府は原発が立地する地方自治体に対する配慮もあって、第6次エネルギー基本計画に標榜した原子力の姿は据え置きのままである。世界的な公約としてCO2の大幅な削減をうたいながら、再生可能エネルギーの増加は八方塞がりであり、原子力についても今のところはっきりとした見通しをつける事が出来ないのが現状である。
    第3節「LNG手当の見通しを持たない火力発電の懸念」
       このような状勢の中で電源維持をしていくためには、当面火力発電にしか頼る道はなさそうである。政府は20%を火力発電、しかも石炭にかわり「天然ガスシフト」を推進すると明言しているが、CO2を大量に発生させる石炭の削減が出来ても、それに代わる液化天然ガスLNGの手当について、はっきりとした見通しを持っているわけではない。
       最近の新聞報道によると、近年の中国を中心とするLNGの国際的な争奪戦はすさまじく、これは当然のことであってCO2排出削減戦略の帰着するところと考えられるが、すでに2021年の中国の輸入量は日本を凌駕しており、中国に限らず世界が脱炭素化を急ぐ中で、LNGの調達については量、価格双方において我が国は苦慮することが予想される。
       参考迄に、大手石油会社のロイヤル・ダッチ・シェルの見通しによると、LNGの世界総需要は、20年の3億6,000万トンから40年には7億トンまで伸び、アジアに限定すると75%近く増加すると発表している
    。当然需要に見合った供給が担保されるかも不安視されるところであって、シェルの予想によると世界が脱炭素化を急ぐ中、天然ガスを含む化石燃料の採掘や開発にかける資金の調達はしにくくなってきており、LNGの生産能力は2020年には全世界で300万トンしか増加しておらず、この傾向が続けば2020年代のうち、供給力不足が拡大すると指摘している。
       再生エネルギー主力電源化や原発再稼働によって脱炭素化を急ぐ我が国にとって、今のままではその計画に齟齬をきたす事は明らかで、その場合LNGに頼らざるを得ない事態が到来する事は必至であるが、はたして石炭からLNGへの切り替えが今後CO2排出削減に直結する途上国に対して、すでに一定の切り替えを終わっている我が国が、買い手として増加を図る事が許されるかどうか疑問である。

    ■第二章「原子力発電への回帰」

    第1節「海外の動向」
       LNGの争奪戦となれば日本は買い負けると予想する専門家は多い。そうなれば我が国としては注目すべき動きがある。すなわち原子力発電への回帰の流れが活発になってきていることである。この動きはフランスや英国が主導している。すなわち電力の安定供給を保ちながら気候変動対策を進めるという観点から、欧州連合(EU
    )は域外からの天然資源に依存しない原発の活用に動き出している。
       具体的にはEU委員長は、昨年10月に「我々には安定的なエネルギー源である原子力が必要である。」とはっきりと述べている。またマクロン大統領は11月に国内の原発の建設を再開するとしているし、英国も大型炉の建設を発表し、また両国とも次世代の小型炉の開発研究を発表した。一方オランダにおいても、12月に総額6,500億円の費用を投じて原発2基の新設を発表した。
       これら原発への回帰の最大理由は気候変動対策である。原発は稼働中CO2の排出はほとんどない。風力や太陽光と異なり天候に左右される心配は全くない。EUにおいては、2019年時点で原発による発電量は総発電量の26%強を占めている。2011年の日本の原発事故を受けて、EUにおいては原発の安全規制を、計画では安全運転のために50年迄に7,770億ユーロという巨額の費用をかけて対処することを決めている。ドイツについてはメルケル前首相が原発に消極的で、22年末までに「脱原発」することを掲げていたが、ロシアへの天然ガス依存やガス価格の高騰から脱原発方針を求める声が沸き上がってきている。
    第2節「長期的戦略に欠ける日本」
       一方我が国では前々から述べているように、エネルギー基本計画では30年度に20〜22%を目標(全部で27基)としながら、再稼働すべき17基は止まったままで全く長期の戦略を欠いているといってよい。
       9月の自民党総裁選では次世代の小型炉などの新増設を進めるべきという意見も出たが、政府は世論を気にして政策の変更を含めて活用の是非を論じる流れは変わっていないのである。政府は6月にも策定する脱炭素社会の実現に向けた「クリーンエネルギー戦略」に国内原発の新増設やリプレース明記を見送る方針を固めたと報じられている。おそらくこれは原発に対する世論を懸念して、もし現時点で原発に対する積極性を打ち出せば、今夏の参院選に影響を及ぼすことを懸念しての処置と考えるが、一方で岸田首相は、再生可能エネルギーを増やすことについては島国ではコスト高にならざるを得ないと云っている。
       再生可能エネルギーの拡大は難しく、原発も新増設はおろか既存の27基を動かせない。一方火力発電では石炭の使用は当然難しく、ならばLNGを増やすことには先に述べたようにその手当すら難しくなる中で、CO2削減46%を世界に対して公約している政府は一体何を考えているのか。このままの状況で推移するなら、石炭火力続行によりCO2削減公約を果たせぬまま世界中の非難をあびるか、停電続出の日本が現実の姿となるのではないか。
       確かに2011年の原発事故は長年にわたる安全な運転を維持してきた傲りにある事は確かである。しかし原発自体の不備によるものではない。この事故はあくまで津波によるものであって、その対策は十分現在は取られている。
       我が国では新しい何らかの事故が発生した場合、すっかり萎縮してしまいギブアップしてしまうのではないか
    。かつて述べた事がある「高速増殖炉もんじゅ」や「原子力船むつ」など格好の例である。「もんじゅ」については、MOX燃料(プルトニウム・ウラン混合酸化物)を使用して消費した以上の燃料を生み出す高速増殖炉であった。冷却材に金属ナトリウムを使用するためその制御が出来ず廃炉になってしまったが、折角の技術であったからもう少し我慢して研究を続けるべきであった。それを早急に放棄してしまったのは残念でならない。一方「原子力船むつ」についても原子炉の「放射能漏れ」が問題となり、原子炉は取り外されたのであるが、実際には「放射能漏れ」ではなく「放射線漏れ」であったのをマスコミが大騒ぎした結果地元と齟齬をきたし、計画は中止となってしまったのであった。ことほど左様に世論に敏感すぎて計画が頓挫した例である。
    第3節「原子力発電へ回帰する狙い、脚光を浴びるグリーン水素」
       さて、EUが原子力発電の活用に再び舵を切り直してきたのは何故か?これは先程述べてきたように天然ガス価格が上昇する中で化石燃料の輸入を減らし、電力の安定供給につなげる事が第一であるが、実は狙いはもう一つある。原発を使用して温暖化ガスの排出を減らすと同時に、実質ゼロ達成のために欠く事の出来ない水素の生産を拡大することにある。
       EUは本年1月に持続可能な経済活動方針「タクソノミー」を発表し、原子力を脱炭素に貢献させるために位置付けする方針を発表している。近く発表される全体像の中で「水素製造を含む電気や熱をつくるために2045年迄に建設許可を得た原発がその対象となる」とうたっている。水素はEUが目的とする「50年度迄に域内の温暖化ガスの排出を実質ゼロにする」目標において、重要な役割を持つ。実際問題としてすべての乗用車はEV化しても、電化が難しい部門は残る。それは飛行機、船舶など強力なエネルギーを必要とする運輸部門(バスやトラック・重機なども含まれる)、工程で石炭を使用する鉄鋼やセメントなどの産業部門である。この部門に対しては代替燃料として期待されるのが水素である。水素は燃焼させてもCO2を発生させない。水素を製造するには@石油や天然ガスに含まれるメタンなどの炭化水素を水蒸気と反応させて水素と二酸化炭素に分離する。A石炭を蒸し焼きにして水素と二酸化炭素の混合物である石炭ガスをつくる。B水に電流を流していわゆる電気分解により水素と酸素を分離させる。
       しかし現在世界でつくられている水素の大部分は@の天然ガス関係で、これはCO2が関係するから決してクリーンなものとは云えず「グレー」と云われる。一方これに対して原子力発電により主として海水を電気分解してつくられるのがグリーン水素と呼ばれるもので、これは再生エネルギーと同根であり価格も安価である。具体的には再生エネルギーから水素をつくるには化石燃料からつくるのに比して2倍のコストがかかる。フランスのマクロン大統領は先にもふれたように、昨年10月から11月にかけて小型原発の開発や大型炉の建設再開を表明している。これは再生可能エネルギーだけでは十分なグリーン水素の確保が困難なためと説明している。
       オランダにおいても昨年2基の原発新設の検討を表明した。これも水素の生産を念頭においている。英国も本国においてフランスの技術により原発建設を計画中で「いくつかの方法で水素製造を検討中」としている。
       欧州各国がこのように原発回帰を目指すのは、欧州はロシアを中心とする他国へのエネルギー依存度が大きく
    、そのリスクを下げるのが狙いでもある。現在ガスの価格は高騰しており欧州は輸入の4割をロシアに頼る。このため一方では再生エネルギーに力を入れつつ原発回帰により水素を自前で確保し、エネルギーの自立を図り、温暖化ガスの排出を抑えて行こうというのが欧州諸国の目論見である。
       また、アメリカやロシア、中国も原子力による水素生産計画に着手しており、これに対して我が国の対処法は
    、肝腎の原発稼働に身動きが取れず一周も二周も遅れた状況で、はなはだ憂慮すべき状況といってよい。

    ■第三章「私の主張」

    第1節「電源構成の見直しの総括」
       私の主張は前々から申し上げている通りで繰り返しになるが、4月13日に発表された総合資源エネルギー基本政策分科会による2030年度における2013年比較で、2030年30%削減から46%に迄何等根拠がないまま引き上げられた事について、その後政府は何等アクションをとっていない。あらためてその内容を記すと、最終の案によると
  • ・再生可能エネルギー 36〜38%(達成困難)
  • ・原子力       20〜22%( 〃 )
  • ・水素アンモニア       1%( 〃 )
  •          小計                         59%( 〃 )

  • ・火力発電LNG      20%(安定供給、温暖化対策に支障)
  • ・石炭           19%( 〃  、コスト抑制に支障)
  • ・石油等           2%
  •          小計                         41%(達成困難、国費流出懸念)

  • 第2節「私の提言」
       このような出鱈目さで国際公約をはたす事は出来ないのは明白である。私は8月31日付金言「地球温暖化と我が国の取り組み」の第四章「私の提言」で
  • @「原子力を欠いたカーボンニュートラルの実現は困難である」
  • A「原子力技術の位置付を明確にすべし」
  • B「原子力を支える人材育成が不可欠である」
  • この3つの事項について詳しく述べた。福島の痛手は痛手として我々のトラウマは大きなものがあるが、その後の世界状勢を見るとアメリカ、中国、EUにおいて新しい原発の開発計画か急ピッチで進んでいる。特に最近グリーン水素が大きくクローズアップされている状況の中で、我が国がこのまま手をこまねいていていい筈はない
    。ここは政治が大きく動くべきではないのか?それにもかかわらず先に述べたようにこの1月18日のクリーンエネルギー戦略に関する有識者懇談会で、岸田首相は原発新増設を見送り、それだけではなく参院選挙が念頭にあるのであろうが「エネルギー政策も無理はしない」とし、方向性の検討は夏以降に先送りした。誠に残念という他ない。

                                                                                              
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    武藤会長「金言」

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