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武藤会長「金言」

2022年4月28日 金言(第117号)
地球温暖化について

■はじめに

   我が国ほど国家として、又国民として自主性に欠ける存在はめずらしいのではないか。戦前は、欧米諸国に追いつけ追いこせをモットーに、明治維新後わずか100年も経過しない内に目的を達成したのであったが、ある時から道を踏みはずして、現在ではアメリカ一辺倒となっている事は御存知のとおりである。
   戦後アメリカから押し付けられた憲法を、後生大事に未だに改正する事が出来ずにいる状態こそ滑稽なのではないか。

■第一章「脱炭素の動向」

第1節「欧米に盲従する日本」
   私は最近の新聞を見ていて思うのであるが、余りにも欧米で取り上げ推進している事項について、我が国としての自主的な考えなく盲従している事について、はなはだ疑問を持つのである、事例を挙げると
  • 1.株式会社の複数社外取締役制である。これは資格該当者が少ないため、一人で何社をも兼務するという有名
       無実の状態におちいっており、実際に機能しているかは疑わしい。加えて会社は株主のものであるという欧米
       的な考え方もおかしいと思っている。
  • 2.会社経営、株式市場、どこもかしこもESGの文字が躍っている。ESGとは環境「Environmen
       t」、社会「Social」、企業統治「Governance」の頭文字を取った概念であるが、この言葉
       が一定の流行語となっており、新聞をはじめとするマスコミでやたらに登場している。このESGの内容をよ
       く見ると、誠に社会において適切と云えるものであるが、現状では消化不良といって差し支えない。最近では
       SDGs「Sustainable Development Goals」。持続可能な開発目標なる言葉
       が登場しているが、私には何の事かよくわからない。
  • 3. そして、特に私がわからないのは.地球温暖化対策「CO2ゼロ」である。これは18世紀半ばからの産業
       革命により、化石燃料の使用が大幅に増加して大気中の温室効果ガスが増え、地球の環境を汚染して地球の温
       暖化が進み、このままの状況が進むと極端に云うと、このまま何等手を打たないまま放置されるならば、20
       81年から2100年に世界の地球温度は2.6℃から4.2℃の範囲迄に上昇するというのである。このた
       め国際連合を中心に「気候変動に関する国際連合枠組条約(UNFCCC)」がつくられて、地球温暖化対策
       が講じられているのは皆さん御承知の通りである。

  • 第2節「地球温暖化のウソに騙されるな」
       しかし、温暖化の主原因であるCO2削減対策は、CO2の2大排出国のアメリカ、中国が積極的にならない限り実現が難しい事は、世界中でわかっており、またこれから発展途上国がCO2排出を断念するかというと、これは先進国のエゴとしか云えないのである。
       マスコミは毎日のようにCO2問題で地球が近い将来熱帯化するとか、島嶼国が水没するなど報じているが実際はどうなのか、かねてから疑問に思っていた。それは一頃騒がれたオゾン層破壊問題も最近はどこかにいっているように、私はCO2の問題は、現在地球は寒冷化に向かっていると云われている中で、私見ではあるが温暖化についてこれ程騒ぐ事はないと思っていた。ところが毎月読んでいる日本政策研究センターの発行する「明日への選択」3月号に、「地球温暖化のウソに騙されるな」という、世界気象機関と国連環境機関により設立され地球温暖化に関する世界の研究者に情報を提供するIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の委員であり、日本政府の各種の審議会のメンバーである杉山大志氏の対談が掲載されており、地球温暖化、「CO2ゼロ」への取り組みが本当なのかどうか詳しく述べられているので、私は、我が意を得たりとこの問題に納得することが出来たのであった。
    第3節「脱炭素は、必ずしも全面的な世界の潮流ではない」
       たしかに日本を含めて「世界の潮流」は「CO2ゼロ」だと認識されているのが実状で、それに疑問を呈することは時代錯誤と云われかねない時代である。これに対して杉山氏は、西欧のエリート国や国連のエリート、さらにアメリカ民主党のエリート達は「脱炭素」は絶対であると主張しているが、世界の潮流はかならずしもそうではない。ヨーロッパにおいても、東欧の諸国は脱炭素には全く無関心であり、これから経済成長を目論んでいる発展途上国にとっても「CO2ゼロ」など全く迷惑な話であるとしている。一見「CO2ゼロ」賛成のアメリカでさえも、共和党の議員の中には温暖化など全く信じていない人たちが沢山いる。
       我が国は、西欧諸国や国連があれこれと干渉するので仕方なしに「温暖化対策待ったなし!」「2050年にCO2実質ゼロ」に一応同調はしているものの、彼等がつくっているエネルギー計画を見れば、実際には「CO2ゼロ」を本気で目指していないことがはっきりする。

    ■第二章「「CO2ゼロ」は本当に実現できるのか」

    第1節「主要排出国の実情」
       「そもそもCO2ゼロが本当に実現出来るのか?」これについては2018年の世界のCO2排出量をみると中国28.4%、アメリ14.2%、EU(イギリスを含む)9.4%、インド6.9%、ロシア4.2%、日本はわずか3.2%にすぎない。要するにCO2の排出量の4割以上を中国とアメリカが占めており、この両国が動かなければCO2が減らない事は自明の理である。
       アメリカは、確かにバイデン大統領は2030年までにCO2を半減すると云っているが、アメリカこそ石油、ガス、石炭産業が世界で一番発達した国である。議会で議席の半分以上を占める共和党は、バイデン政権の脱CO2政策に反対しており、さらに身内の民主党内でも選出州にエネルギー産業を持つ議員は、同政策に反対している。この事は身内の民主党ですら一枚岩でないということで、バイデン政権にとって脱炭素推進などは全く難しいのである。
       一方最大の排出国である中国は、2060年にCO2を実質ゼロにすると云っているが、肝心の2020年からの5年間はCO2を1割増やすと云い切っている。云いかえると、中国のCO2排出量は日本の約10倍であるから、日本の年間排出量とほぼ同じ量を増やすと公言しているわけである。実際中国の石炭使用量は過去最高を更新中で大量にCO2を排出している。2025年以降は排出量を削減すると云っているが、これだけ増やしたものを減らすことなど到底無理な相談ではなかろうか。
       何度も云うようにCO2排出の2大スターであるアメリカと中国が動かぬ限り、「CO2ゼロ」は夢物語である。つまり、仮に現在日本が「CO2ゼロ」を達成しても、世界の大勢には影響がないのが現実である。
       一方杉山氏の説によると、西欧諸国が「CO2ゼロ」に取り組んでいるという見方についても疑問を呈する。すなわち正直云って西欧諸国の現状はエネルギー危機に瀕しており、「脱炭素」どころではないのである。一頃前までドイツは「CO2ゼロ」への取り組みの優等生で、ドイツのメルケル前首相は脱原発政策を進め、計画では本年中にすべての原発を休止することにしていた。その上化石燃料使用も、石炭による火力発電ゼロを目指していた。ドイツは、その手段として電力の半分近くを再生可能エネルギーでまかなうとして、エネルギー政策においては風力発電とロシアからの天然ガスの輸入に頼ろうとしたのであった。しかしロシアからのノルドストリーム2という大掛かりな新しいパイプラインは、周辺国の反対により稼働が難しくなっていたところに今回のウクライナへのロシア軍の侵攻により、全く用をなさなくなったのは御承知の通りである。
       一方ドイツが力を入れ、世界の先頭を切っていた風力発電も、2019年以降は生態系への影響、景観、騒音等、特に野鳥が風車の羽根に当たって大量に死ぬといった問題が発生したのであった。それならば設置場所を海上にという考え方もあるわけであるが、これはコストの問題が絡んでドイツは今、CO2削減どころではない大きなエネルギー問題の渦中にある。
       ドイツのエネルギー問題は全く他人事ではない。我が国においては太陽光や風力で発電して民間需要及び工場を稼働させる事が可能で、それに電気自動車が加われば一挙にCO2ゼロ社会が実現出来ると考えている人々が多いが、それはドイツの例を見ても簡単な事ではない事がよくわかる。
    第2節「日本のCO2削減計画は「絵に描いた餅」」
       政府は先に、下記のような2030年度におけるCO2削減へ向けての電源構成の見直しを発表している。これについては本年1月30日付の金言でも触れたが、あらためてその内容を明らかにすると
  • ・再生可能エネルギー         36〜38%(達成困難)
  • ・原子力               20〜22%(   〃  )
  • ・水素アンモニア             1%(   〃  )
  •           小計     57〜61%  
  • ・火力発電      (LNG)20%(安定供給、温暖化に問題)
  • ・石炭発電           19%(安定供給、コスト抑制に問題)
  • ・石油発電            2%
  •                  小計     41%(達成困難、国費流出に懸念)
       以上であるが、現状で考えるなら上記の通りの問題を抱えており、CO2ゼロなど絵に描いた餅にすぎない。大体上記計画は、世界の趨勢が2050年「CO2ゼロ」を目指すということになったため、日本も「2050年ゼロ」と云わないと後ろ向きとの非難をあびるため、あわててさしたる根拠のないまま取りあえずその道程の一つとして発表した計画で、杜撰としか云いようがない。
    第3節「日本のCO2ゼロ実現の問題点」
       杉山氏の見解によると、技術的にもまた経済的にも如何にして「CO2ゼロ」を達成するか、具体的な計画を持っている国は一つもないと指摘している。従って我が国においても「2050年CO2ゼロ」を宣言したものの、その裏付けは全くないのである。具体的には「CO2ゼロ」を実現する技術、例えばCO2を発電所や工場から回収して地中に埋めるCCUSとか、水素からメタンを作る合成メタン等についても未だ実験室とかパイロットプラントの段階で、そのような技術が実用化されたとしても莫大な費用がかかると試算されている。それは原子力発電の量にもよるが、年間43兆〜72兆円という試算がある。我が国の年間予算約110兆円から考えて問題外といえる。
       さらに杉山氏の話は続く。そもそも太陽光発電にしても風力発電にしても、太陽や風力など自然現象に依拠しているから常にバックアップのための火力発電所が必要となる。当然これは再生可能エネルギー発電との二重投資となり、コスト高になる事は子供でもわかる事である。それは電気料金の値上げとなって国民の負担が増大する。すでに2012年7月から始まった「再生可能エネルギー固定価格買い取り制度」により、年間2.4兆円の賦課金が発生している事をあらためて噛み締めてみるべきであろう。
       それに加えて問題となるのは、我々は中国にあらゆる面で対処していかなければならないのである。何故なら太陽光発電、風力発電、あるいは電気自動車のいずれもが、今や中国が最大の産業を有している事は御承知のとおりである。日本や西欧が「CO2ゼロ」の実現に向けて巨大な温暖化投資を行うということは、全面的に中国から輸入することとなり、中国経済は大いに潤うことになる。これは言い換えれば日本、西欧が「CO2ゼロ」で国力が弱体化する一方で、CO2を排出し続ける中国の国力が強くなるという、あり得ないような話が現実となるのである。
       一方で中国製の発電設備が日本、西欧の電力網に多数接続されると我々の情報が中国に筒抜けになるおそれがある。イギリスは電気事業に中国企業が浸透したため国家の重要インフラが中国に握られてしまっている。これでは中国の意向次第でイギリスは大停電をおこすリスクがあると云われており、これは主要な社会維持機能が麻痺してしまうことになる。「CO2ゼロ」ということは、エネルギー問題という分野だけでなく、国家の安全保障に係る重要問題なのである。早い話が現在我々は中国の軍事的な脅威に直面しているが、これと温暖化の脅威とどちらが大きいか、我々はよく考えてみる必要がある。

    ■第三章「温暖化で地球は危険になるのか」

    第1節「気温の上昇はCO2が原因ではない」
       ここで杉山氏の考え方は、今迄我々が一般のマスコミや専門家と云われている人達の考え方と大きく相違するのである。杉山氏は「CO2ゼロ」を達成しないと「温暖化で地球が危険となる」と云われていることに対して次のように反論する。
       日本では大多数の人々が、「温暖化によりこの状況が進行すると地球の生態系が破壊され、災害が増える。温暖化の原因は化石燃料を消費することにより発生するCO2であるからこれを大幅に減らさなければならない」と考えている。しかし杉山氏は、これは全く事実ではないと指摘する。国連あるいは政府の御用学者やマスコミが繰り返しそういう物語を語るので、国民の大多数がそう信じているに過ぎない。データによると、確かに地球の大気中のCO2濃度は現在約410ppmで、産業革命前の1850年頃の280ppmに比べて約5割増加している。一方地球の平均気温は産業革命前と比較すると0.8℃上昇している。日本はどうかと云うと、気象庁の公式発表によると過去百年当たりで0.7℃上昇している。従って気温が上昇して地球が温暖化しているのはまぎれもない事実である。しかしこの気温上昇の原因にどれだけCO2の増加が係っているかは明らかではない。
       日本の気温上昇は百年で0.7℃であるから、単純に計算して1990年から2020年の30年間に0.2
    ℃上昇したことになる。しかし0.2℃というような温度差は、身体で直接体感出来るような温度差ではない。夏季日本で一番暑いといわれている埼玉県の熊谷の最高気温が、先年41.1℃となったと報告されたが、地球温暖化がなければ40.9℃であったという程度のものである。
    第2節「気象庁があげる温暖化の原因」
       それでは最近猛暑になる「地球温暖化」のせいではない理由は何であろうか。猛暑の原因は別にある。それについて気象庁は、夏の高気圧の張り出し具合などの自然現象と、都市熱による影響の二つをあげている。都市熱については詳しく話すと、都市化によってアスファルトやコンクリートによる「ヒートアイランド現象」が起こり、加えて高層ビルや家が建てこむことにより風が遮られ「ひだまり効果」が現れる。このような都市化により東京は既に約3℃も気温が上昇している。一方東京から離れた伊豆半島の石廊崎では1℃も上がっていない。このことが地球温暖化による日本全体の気温上昇(0.2℃)に対応する数字と云える。即ち温暖化そのものが原因で猛暑になっているわけではないのである。
       また近年台風や集中豪雨の被害が発生するたびに「地球の温暖化の影響」が報道されるが、これは全く根拠のないものである。台風について云うと、増加もしていないし強くなっているわけでもない。気象庁の統計によると、1950年以降の台風の発生数は年間25個程度で一定しており、勢力の強さについても「強い」以上に分類される台風の発生件数は1975年以降約15個と横ばいで、特段の増加は見られない。1951年以降伊勢湾台風を含む10個の超大型台風が上陸したが、1971年以降はほとんどなく、1993年以降は大型台風の上陸はない。豪雨の被害が盛んに云われているが、豪雨そのものは観測データの上では増加していない。たしかに理論上は、気温が0.2℃上昇したのであるからその分について雨量の増える可能性を否定するものではないが、それでもその増加はせいぜい1%程度であり。豪雨を温暖化のせいにするのは科学的な根拠を欠く。
       杉山氏の言によると地球温暖化の原因で災害が増加しているのは、根拠のないフェイクニュースと云って差し支えない。実際これまで温暖化の影響でおきると云われていたショッキングな予想はことごとくはずれている事を指摘しておきたい。例えば北極熊は温暖化で海水が減って絶滅するとマスコミは騒いだが、今では逆に増加している。これは人間が熊を殺さずに保護するようになったからである。海抜数メートルのサンゴ礁の島々が、温暖化により海面が上昇して沈んでしまうと一頃話題になったが、その後沈没はおきていない。この理由は、サンゴ礁は生き物なので海面が上昇するとその分成長が早まるから、逆に大きくなっている島がある。
       このような事実は新聞はじめマスコミは一切報道しないので、一般大衆は温暖化が進み地球の崩壊が進むという説を頭から信じ続けているのではないか。結局温暖化はきわめて緩慢にしか進んでいない。従ってその影響で災害が増加しているわけではない。
    第3節「「CO2ゼロ」に進む態勢の軌道修正が必要」
       温暖化の理由の一部は確かにCO2の増加もあるが、それ以外の要因も大きい。従ってCO2だけをターゲットにしてその「大幅排出削減は待ったなし」という現状は、科学的知見からはずれていると思う。現状はCO2こそ温暖化の元凶だとして国全体がその削減方向に進みつつある。しかし、はたしてそのような事で日本の国益が保持できるのか。早い話が先に挙げた2030年の我が国のエネルギー計画など全く実現不能で、このまま推移するならば、エネルギー生産の根っこを中国に押さえられてしまうことは火を見るより明らかである。再生可能エネルギーの主要部門はすべて中国に押さえられており、私が再三主張しているように、日本がエネルギーで自立していくには原発の活用を図っていくしか道はない。福島の事故の教訓から国民が及び腰になっているのはわかるが、憲法の問題と一緒で、大停電で都市機能が完全にストップするまで我が国民は動かないのであろう。 杉山氏の考えによると、現状科学的な知見がないまま横行している「CO2害悪論」にブレーキをかけるためには、事実はこうだという事を示して間違った報道を正していくしか方法はないという。むしろ脱炭素を推進すればするほど経済的な損失を受ける人達、具体的には地方の工場や地方経営の担い手に先ずその理不尽さについて声を上げてもらう事が重要である。さらにそれらの声を集約していくため、政治的な受け皿が必要なのではないか。そういう受け皿があって初めて、科学的な知見に本当に基づいて「CO2ゼロ」が進められているのか、議論されることになるのではないか。
       アメリカでは共和党が実際に受け皿となっており、与党の民主党に公然と反旗をひるがえしている。イギリスでも同様の動きがある。日本においても脱炭素によって経済的なダメージをこうむる人達の声を掬い取って、実践活動の場につなげていく地方議会や国会の動きが出てくる事を期待するものである。
       この問題はそれとして、現在の「CO2ゼロ」にごり押しに進む態勢を、何とか軌道修正する必要があるのではないかと思う。杉山氏は日本の国益のため考えられるのはCO2削減のコストの問題と論じている。それはいくらCO2が減っても高コストであれば使用する人はいない。しかし安価でCO2が発生しない技術が完成すれば、かならず皆喜んで実行するであろう。そして強調したいのは、このような技術を生み出していく可能性を持つのは、我が国の裾野の広い製造業の基盤にこそそれが該当するのである。
       これこそが我が国の強みであり、このような製造業全体の総合力の中から新技術が生まれ、又コストを下げる事が出来るのではないか。また技術基盤の充実に国をあげて取り組むなら、「CO2ゼロ」の話はどうであれ必ず国益に繋がるのではないであろうか。

    ■おわりに

       最後に何回も繰り返してきたが、日本にとって今一番大切な事は、温暖化の脅威より中国の脅威である。誤った「CO2ゼロ」という考え方にまどわされて、我が国は経済力、技術力を含めて総合的な国力でかの国に絶対に負けてはいけない。当然のことながら経済も技術も国の安全を守るためにある事を忘れてはならない。重ねて言うが「CO2ゼロ」を実現するために経済がダメになったり、技術力が失われたりするのは絶対に避けなければならない。云いかえれば現在の「CO2ゼロ」推進はそれにつながる間違った道だと考える。
       以上は杉山大志氏の産経新聞出版刊「脱炭素は嘘だらけ」及び、明日への選択3月号の、同氏の「地球温暖化のウソに騙されるな」に啓発され書かせて頂いた。

                                                                                              
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年3月31日 金言(第116号)
    日本の傀儡、満州国の成立

    ■はじめに

       我が国は、徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いて以来、慶応4年(1868年)の大政奉還に至る実に250年にわたり鎖国を続け、太平の世を謳歌してきたのであった。しかしペルリ(ペリー)提督率いるアメリカ東インド艦隊が、嘉永6年(1853年)6月に浦賀に開国を求めて来航して以来ついに太平の夢から醒めさせられ、幾多の事件を経てついに開国に至り、政治体制も徳川幕府から天皇をいただく明治新政府が誕生したのであった。

    ■第一章「近代国家への脱皮を図った日本」

    第1節「明治政府は近代国家建設に邁進」
       当時インド、中国をはじめとしてアジア諸国はヨーロッパ列強の侵略による植民地化が進み、特に英国のインド、中国への進出、フランスのインドシナ、オランダのインドネシアなど、アジア諸国は列強の草刈場となっていた。そして当然彼等の次の狙いは日本であった。そのため明治政府は彼等からの圧迫に抗して、早急に近代国家への脱皮を図らざるを得なかった。当時の我が国の人口は推定であるが、3,480万人とされており、勿論近代的な工業力はゼロに等しかった。しかし、明治時代の先人は幾多の困難を跳ね除け欧米からの知識の吸収につとめ、近代国家建設に邁進したのであった。この時点で一つ方向を間違っていたならば、我が国が欧米の植民地となっていたであろう。幸い江戸時代を通じて文化的には欧米に負けない水準を持っており、また維新を推進した若い優秀な人材にも恵まれ、我が国は近代国家建設へと突き進むことが出来たのであった。
       以後我々は「坂の上の雲を追い求め」欧米に追いつき追いこせをモットーとして、近代国家の建設に邁進したのであった。
       今から考えると、よくぞ列強の干渉を排し独立を保ちながら、まさにゼロから新国家建設を成しとげたことは、世界史の中でも特筆されるべきことであった。これらを推進したのは実に20〜30歳代の若者であった。
    第2節「朝鮮半島の権益を巡り清国と対立」
       さて明治維新後我が国にとって大きな問題となったのは、開国時に列強と結ばされた不平等条約の改正であったが、その問題はさておき我が国が対外的に解決していかなければならなかったのは、朝鮮半島をめぐるロシアと中国(清国)との角逐であった。朝鮮は14世紀の末から明治維新当時迄500年にわたり李王朝が存続していたが、政治的な力は弱く隣国の中国の明王朝、清王朝のいわゆる冊封体制に組み込まれていたが、日本との係り合いは室町時代、江戸時代以来強かった。その関係は、明治に迄続くのであるが李氏朝鮮の政治力は弱く、絶えず清朝の影響下におかれていた。19世紀の末期になると、清以外にも欧米の列強や日本の介入がおこるようになる。特に日本とロシアの介入が目立つようになる。ロシアは不凍港を求めて南下政策をとっていたが、これに対して日本は特に神経質になっていた。日本は、朝鮮における権益の確保を図るが朝鮮自体は清国の体制下にあり、このため清国と日本は朝鮮の権益を巡りことごとく対立するようになる。
    第3節「日清戦争の勝利で帝国主義国家の仲間入り」
       その結果日本は清朝と戦いに及ぶことになる。いわゆる日清戦争(明治27年〜28年-1894〜1895)である。日本は開戦に充分な準備をしていたため、開戦初期から清国軍を圧倒して陸では平壌で清国軍を破り、さらに海上でも黄海海戦で勝利し、1895年2月には清の誇る北洋艦隊を殲滅したため清国はギブアップとなり、日本軍の勝利が確定したのであった。この結果我が国は清国から遼東半島、台湾、澎湖諸島を獲得し、さらに多額の賠償金2億テール(約3億円)を得たのであった。しかしその6日後、ロシア、ドイツ、フランスの三国がこの講和条約に介入し、日本は遼東半島の返還に応じざるを得なくなった(三国干渉)。日本はこの戦争により朝鮮だけではなく中国に対する圧迫を加える立場となり、以後欧米諸国と並んで帝国主義国の仲間入りをはたしたのであった。朝鮮はこの戦いの結果清国との従属関係を絶ち独立国となり、念願の大韓帝国となった。このように朝鮮と清国との長年にわたる冊封関係は終わり、朝鮮は清との服属関係の軛(くびき)から脱して独立国となったのである。

    ■第二章「日露戦争で満洲の利権を得た日本」

    第1節「戦争に至った背景」
       その後朝鮮は清に代わる宗主国をロシアに変える動きを見せはじめた。李朝第26代高祖の妃閔妃(びんひ)は男まさりの実力者であったが、国王の妃として強い権力を振るった。閔妃は日本の抬頭を懸念して急激にロシアに近づいて親露政策を採り始める。これに対して兼ねてから閔妃の国政の進め方に不満をいだいていた朝鮮の開化派や、駐在していた日本軍守備隊、日本領事館警察らが王宮内に侵入して閔妃を暗殺する(乙未(いつび)事変)。自分の妃が殺された国王高祖は、1896年あろう事かロシア領事館に退避する。1年後に王宮に戻るが、これは国としての自主性を自ら放棄するものであり、王権は失墜して、結果として日本とロシアの勢力争いを自国に持ち込む事になってしまった。一方清国との宗属関係がなくなった結果、列強が気兼ねなく朝鮮に進出することになる。
       明治37年(1904年)に日本はロシアの朝鮮進出を阻むため、加えて満州の利権を巡りロシアとの間で戦端を開く。日露戦争の開始である。日清戦争における三国干渉の後、ロシアはシベリア鉄道を軸に東方政策を推進し、東清鉄道を布設すると共に旅順、大連を租借して南満州を支配するとともに、朝鮮にも進出して軍事や財務の顧問を派遣し、さらに南岸の馬山浦(まさんほ)の租借を図った。日本はこれを止めるべく種々の策を講じて朝鮮における優越権の維持を図ったが、ロシアは1900年の義和団事件の際出兵した兵力を撤兵せず、そのまま居座り、事実上満州全域を占領するに至った。これを憂いたイギリスは、ロシアの南下を阻止して中国市場を守るため日英同盟を提案、我が国もこの案を是として1902年日英同盟が締結された。
       一方ロシアは露清協定の定めた撤兵期限1903年4月になっても撤兵せず逆に増兵し、さらに鴨緑江(おうりょくこう)の南岸に迄進出した。また日露両国は、それぞれ相手国が朝鮮と満州を自国の勢力圏と認め相手国はこれに干渉しないという原則をお互いに順守する事を提案するが、ロシアはこれを拒否したため主戦論非戦論相半ばしていた我が国もついに主戦論に傾き、明治37年(1904年)2月、日露両国が宣戦布告して日露戦争の幕が切って落とされた。
    第2節「戦争の経過」
       戦争の経過を簡単に書くと、国力が乏しく長期戦に耐えることが難しい我が国の戦略は、ロシアがヨーロッパからの増援を受けない間に在満州のロシア軍を撃滅して、戦況が優勢な間に講和に持ち込むことであった。戦費(国債)と軍需品は英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果を上げる必要があった。そのため緒戦において先ず朝鮮の制圧により朝鮮を事実上の保護国とした上、海軍は黄海における制海権を握り、遼東半島制圧のためロシア海軍の拠点旅順港の封鎖を行った。ロシア艦隊は旅順港からウラジオストクへの脱出を図るが日本海軍はこれを撃破する。しかし、旅順要塞の守りは堅く日本軍は多大な損害をこうむり、また遼陽においても敵に期待した程の損害を与える事はかなわず、日本の望んだ早期終戦の目論見は潰え去ったのであった。
       一方ロシア本国では革命運動が盛んになったため、ロシアはこれを警戒して兵力の増強にはためらっていたが、敗戦は革命運動を助長すると判断し、又極東の海軍力が日本の善戦によりほとんど役に立たないと見て、ついに世界最強といわれたバルチック艦隊の東洋遠征に踏み切る。一方ロシア軍も反撃に移り沙河(さか)会戦が行われるが、日本軍はかろうじてこれを撃退する。多くの犠牲者を出した旅順も児玉源太郎大将の英断により攻城砲を内地から持ち込んだ結果ついに1905年1月、陥落させたのであった。しかし開戦半年で戦死者約6万人となり国力の限界が見えて来ていたのも事実である。さらに3月の奉天会戦は我が国の辛勝に終わるが、戦力は限界となってきたため講和が急務となった。しかし幸いな事に5月、バルチック艦隊を迎え撃った東郷大将率いる連合艦隊が、対馬沖でロシア全艦隊を撃滅したため、海軍力を失ったロシアも講和に傾き、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋で8月、講和会議がアメリカのポーツマスで開催されたのであった。
    第3節「講和の結果とその影響」
       講和の結果先ず日本はロシアから南カラフト・千島を獲得し、さらに韓国の保護権を獲得するが、その後英国、アメリカの承認を受け韓国の主権を奪い、1910年日韓併合をはたす。
       一方満州においてはロシアの布設した鉄道を奪い、1906年南満州鉄道(満鉄)とし、さらに翌年の日露協約で南満州を勢力下に収めた。しかしアメリカの鉄道資本家ハリマンが提案した満鉄の日米共同管理をにべなく拒否したため、日本は門戸開放を求めるアメリカのアジア政策と衝突することになる。この事は後の日米関係を考える上で極めて残念なことであった。
       満鉄を柱とする満州経営権益は日本にとって重大な課題であった。日本はこの鉄道を守備するため鉄道守備隊を置いたが、これが後に関東軍となる。一方で日本は、1905年10月に満州軍総司令官のもとに関東総督府を設置するが、清国はこれに抗議し、日本の門戸閉鎖に対し英、米が反発し大変難しい局面となる。

    ■第三章「日本の傀儡、満州国の成立」

    第1節「日中間の深いわだかまりとなった経過」
       さて、中国本土においては1911年から1912年にかけて辛亥革命がおこり、満州族による清王朝が打倒され、満民族による共和制政体である中華民国が成立する。そして満州は中華民国の臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、中華民国の統治下に入った。しかし満州においては、革命派の弾圧で力をつけていた張作霖がおり、袁世凱が孫文と対立して中華民国が分裂して内戦状態になると、張作霖が急激に抬頭して奉天軍閥を形成して、日本の後押しも得て張が実効支配することになる。
       一方日本は、第一次世界大戦に参戦して1914年(大正3年)にイギリス軍と共闘してドイツの山東半島における租借地である青島を政略占領し、その権益処理として対華21ヶ条要求をつきつけた。そもそもこの21ヶ条の要求が何故なされたか、またその内容について若干触れると、日本が日露戦争の結果獲得した満州における旅順、大連、南満州鉄道(満鉄)の租借権が1923年に迫っていたこと、もともとこの租借権は、清国からロシアが得たものであったが1912年に清国が亡び中華民国が成立したため、このままでは他の列強から干渉が入るのをおそれ、この機会に一挙に既成事実化しようとしたものであった。中国はこの日本の特殊権益の固定化を受け入れたのであったが、この事が以後日中の間の深いわだかまりとなったのである。
    第2節「苦しい状況に追い込まれた関東軍」
       一方で1917年(大正6年)第一次世界大戦中にロシアで革命が勃発してソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約はすべて無効として継承する事をソ連は拒否するのであるが、第一次世界大戦に参戦していた連合国はソ連を牽制するためシベリアへ出兵する。しかし途中アメリカを始めとする連合国の撤兵によりこの企ては失敗に終わる。このため共産主義の拡大に対する防衛の最前線として満州の重要性が高まり、満州、蒙古は「日本の生命線」となったのである。
       さらに共産主義ソ連政府は、旧ロシア帝国の持っていた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権等)の無効、放棄を宣言したため、孫文をはじめとした中華民国政府は急速にソビエト政権に接近するようになる。また1920年には中国に社会共産党が設立され、翌年には中国共産党の第一次全国代表大会が開催され、中国共産党は、あなどれない勢力となってきた。そして蒋介石の南京国民政府は、1924年第一次国共合作をはたし、北伐を進めこれを成功させる。その結果1928年に日清通商航海条約を一方的に破棄したため、中国における在留日本人(韓国人を含む)の生命、財産及び条約上の特殊権益が重大な危機に晒されることになる。
       満州はそもそも清朝発祥の地であったため、清王朝は漢民族の植民を強く制限していたが、清朝末には中国内地の窮乏化もあって多くの移民が満州に流れ込み、漢人化と開拓が進んでいた。袁世凱は満州を自己の勢力下におく事を目論み、ロシア、日本の権益を排除しようと企てるが、なかなかうまくいかなかった。そして袁の死後馬賊上がりの将校であった張作霖が急激に台頭し、軍閥として勢力を確立する。さらに満州を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部は、張を支持して日本の権益を確保しようとするが、したたかな張作霖はなかなか日本の思うとおりにはならず、日本は張に振りまわされたのであった。さらに蒋介石率いる中国国民党が戦力を結集して、南京から北上を開始したため、関東軍は苦しい状況に追い込まれる。
    第3節「関東軍が満州全土を占領するまでの経過」
       このような状況の中で1920年3月に赤軍パルチザンによる有名な尼港(ニコラエフスク)事件が起こり、日本守備隊の殲滅と居留民の虐殺が行われ満州の赤化について警戒感が強まり、関東軍参謀石原莞爾らは、万里の長城以東の全満州を中国国民党から切り離して日本の影響下に置くこと、すなわち日本の影響下での満州国の独立を考えるようになった。
    1928年(昭和3年)5月、北京を中心とする中国内地を一時支配していた張作霖は、国民党の主導する革命軍に敗れ満州へ撤退した。当時の田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持方針を継続していたが、関東軍の高級参謀河本大作らは、張作霖は、日本の権益を阻害すると懸念して、1928年6月4日奉天近郊で蒋介石率いる北伐軍との決戦を断念して、満州へ引き上げる途上にあった張作霖の乗車する特別列車ごと爆破して暗殺したのであった。河本らは自らが実行した行為である事を隠蔽する工作を講じていたが、種々の客観的事実から関東軍主導は公然の事実となり、彼の跡を継いだ息子の張学良はその事実を知って激怒したが、国民政府の指示により大きな抵抗をしないまま満州から撤退した。このようにして満州は関東軍の支配下に入ったのであった。
       関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日柳条湖事件を起こした。これは奉天近郊の柳条湖付近で中国軍の仕業と見せかけ関東軍が南満州鉄道の路線を爆破した事件である。先に述べたように1928年の張作霖の爆殺事件の後、息子の張学良は反日に転じたのであるが、彼は南京の国民党政府と合体して満州において数々の排日事件を起こしていた。1930年(昭和5年)4月張学良は満鉄との並行線を建設したため満鉄は経営不振におちいってしまった。日本の生命線である満鉄がこのような状況になった事は日本の満州経営にとって由々しき問題であり、関東軍のトップは、柳条湖事件を契機として一挙に満州(中国東北部)全土の占領を企て、先の柳条湖事件を起こし、それを始まりに中華民国との武力衝突を起こしたのが満州事変である。関東軍は約6ヶ月で満州全土を占領した。そして関東軍主導のもとに同地域の中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日に満州国が建国され、元首(満州国執政、後に満州国皇帝)に清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が就いたのであった。
    第4節「満州国の実体は日本の傀儡国家である」
       満州国は建国に当たって自らを満州民族、漢民族、蒙古民族からなる「満州人・満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であると称し、建国の理念として日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げていたが、実際には日本の関東軍が占領した日本の植民地であり、日本の傀儡国家であった。しかし当時の他の植民地と大きく異なり、満州帝国は国際連盟の半数の国から承認を得ていた。従って多数の国々の領事館も設けられ、日本の植民地ではなく、元々満州は満州人の国であり、中国人とは一線を画すものであるとして、万里の長城の北側に存在する独立国家であるという見方も存在していた。しかし実体を考えるならば、これは完全に日本の植民地であったと云えるのではないかと思う。云いかえると満州国は建国以来日本、特に関東軍と満鉄の強い影響下にあって、表面的には「大日本帝国と不可分な関係を有する独立国」として位置付けられていたが、国際連盟加入の主要国は、満州地域は法的には中華民国の主権下にあるべきものとして考えていた。これが原因となり1933年(昭和8年)日本は国際連盟から脱退せざるを得なくなった。そのいきさつについてはかつて「金言」の松岡洋右の項で詳述した。

    ■おわりに

       満州国の建設について大きな役割をはたしたのは、陸軍参謀を務めた石原莞爾と板垣征四郎であったが、特に石原は強硬一点張りではなく独特の哲学を持つ軍人で、後に東條英機と鋭く対立したため予備役に追いやられて、彼本来の考え方を実現することが出来なかったのは我が国にとって不幸であったのではないか。満州国の提げた「五族協和と王道楽土」はそれが真に実現されたならば、誠にアジアの平和に大きく寄与したと思うが、これはあくまでスローガンに終わってしまった。日本は、その後盧溝橋事件を契機に中華民国と戦いを交え、泥沼ともいえる日中戦争に突入していく。更にこの戦争は、長引き我が国の国力を疲弊させたにも関わらず日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結び、英米との対立を激化させ、ついに太平洋戦争に突入して自滅したのは歴史のとおりである。一方満州帝国の瓦解も早かった。
       第二次世界大戦の末期1945年、ソ連は日ソ中立条約を破って満州に侵入した。南方でアメリカ軍との戦闘に注力して守備が手薄になっていた関東軍は、ソ連軍の侵入になすすべもなく蹂躙され、日本は降服して満州帝国は滅亡した。わずか12年間の命であった。戦後、日本兵の大部分はシベリアに抑留され筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。そしてそれよりも満州へ移民した日本人の苦労は察しても余りあるものがある。

                                                                                              
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年2月28日 金言(第115号)
    石原慎太郎氏の逝去について思う

    ■はじめに

       去る2月1日、文学者(小説家)にして参議院議員、衆議院議員そして東京都知事を歴任した石原慎太郎氏が死去した。1932年(昭和7年)生れであるから大体私とは同世代であり、幼年時代と大学時代を北鎌倉で過ごした私と逗子で育った石原氏、また弟の裕次郎氏とは横須賀線かどこかで出会った事もあった。又裕次郎氏は日吉の校内で何回か見受けた事を思い出す。
       亡くなって約1ヶ月が経過して各新聞とも石原氏の良くも悪くもその強烈な個性を評した追悼記事を書いているが、それも大体出揃ってきたので石原氏について今回は書いてみたいと思う。

    ■第一章「少壮気鋭の作家としてデビュー」

    第1節「生い立ち」
       石原氏の生まれは神戸との事で、私も神戸出身であるから何かとご縁を感じる次第である。石原氏は地元の進学校、神奈川県立湘南高校から公認会計士を目指して一橋大学に入学する。高校時代からサッカーに熱心であったが、他方では文学にも興味を持ち、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、ヘミングウェイを読みふける。後に慶応大学を経て文学評論家となる同級生の江藤淳氏とは仲が良かった。江藤とは彼が作家になった後も共著があり、1999年に彼が自死するまで交流があった。
       さて公認会計士を目指していた慎太郎氏であったが、自分の体質には合わないと自覚し、文学に興味を持つようになる。そして彼は、休刊していた一橋大学の同人誌「一橋文芸」の復刊に尽力するようになる。その復刊の過程で「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で有名な作家、伊藤整氏の知遇を得て資金援助をあおぎ、同誌の復刊をはたす。伊藤整氏は後に「石原慎太郎のこと」という文章の中で、「石原氏を当時は背の高い青年だなと思った程度であったが、資金援助についての申し出がとてもよかった」とその印象を語っている。
    第2節「社会的反響を呼び起こした出世作「太陽の季節」」
       石原氏はこの同人誌の復刊第1号に処女作「灰色の教室」を発表して、一部の評論家から激賞され自信をつけたのを契機として、満を持して第2作「太陽の季節」を執筆したのであった。ストーリーはよく知られているので割愛するが、弟石原裕次郎から聞いたある噂話が題材となっているが、当時の考え方からいうと大変反社会的な度肝を抜く作品で、大きな社会的反響を呼び起こした。私は大学生であったが、何かの教養科目の宿題で「太陽の季節」を取り上げたのを覚えている。その内容については全然覚えていないが、相当大きな衝撃を受けた。その記録が残っていれば、今役に立っていると思ったのであった。
       そしてこの「太陽の季節」は1955年下半期の芥川賞を受賞した。しかし選考過程では作品の持つ若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした事は有名である。しかし、当時くすみかけていた芥川賞を、一挙にこの作品の受賞が良い意味でも悪い意味でも活性化したのは事実であろう。芥川賞についてはかつて「金言」でも取り上げた。
    第3節「文学者としての評価」
       その後石原氏の作家としての活躍は目覚ましく、「処刑の部屋」「聖祭」といった現代社会の世相を鋭く抉り出す多数の作品を発表した。また1970年の「化石の森」1988年の「生還」は特筆すべき作品である。その他、後に弟の裕次郎氏の事を描いた「弟」は大ベストセラーになったが、文学的には如何なものかという気がする。又長年政界で反対の立場にあった田中角栄の事を書いた「天才」もベストセラーにはなったが、ただそれだけのものに過ぎないのではないか。この作品は晩年のものであるが、石原が損得に関して鋭いものをもっている事を浮き彫りにしている。
       一方彼は1995年から2012年迄芥川賞の選考委員を務めた。極めて辛辣な辛口の批評も多かったが又吉栄喜、辻村萬月や先日亡くなった西村賢太などの有能な作家を世に送り出したのは彼の功績である。
       1968年からの政界進出後に発表する作品は、当然めっきりと減ったものの、一貫して創作活動を継続して、文学者としての矜持を保ったのは見上げたものである。
       作家としての評価は、主義主張の異なる田原総一朗のようなうるさ方からも評価されている。著名な文芸評論家、福田和也は自著「作家の値うち」の中で、石原氏の「我が人生の時の時」を「数世紀後に日本文学を振り返った時、名前の挙がるのはこの作品ではないか」とまで激賞している。

    ■第二章「政治家として国政へ転進」

    第1節「史上最高の得票を集め注目の的となる」
       文学者として王道を歩みつつあった彼が突然政界に転進した理由はわからないが、矢張り若くして文学界で成功した彼は、一文学者として止まることには抵抗感があったのではないか。彼にはそれなりに野心と自己に対する自信を持っていたから戦後アメリカに支配され、我が国の美徳がなくなってしまった中で、自分なら日本の方向を変えていけるという確信を持ったのではないかと思う。当然政界のトップに立ち総理大臣を目指していたと思う。その手始めに1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党の公認候補として立候補して、実に史上最高の304万票を集めて注目の的となる。彼は、この選挙中、田中角栄の金権選挙を鋭く批判したのであった。しかし、参議院議員としてたちまち彼は限界を感じて、4年後の1972年12月の第33回衆議院議員選挙に旧東京2区から無所属として立候補して当選し、衆議院への鞍替えを果す。彼は翌1973年の田中角栄による中華民国との国交断絶、中華人民共和国との「日中国交正常化」に反対して反共を旗印とした政策集団「青嵐会」を結成して、その中心メンバーとなる。
    第2節「若手議員で派閥横断的な「青嵐会」を結成」
       青嵐会とは、1973年に自民党の派閥横断的に結成された、衆参両議院の若手31名からなる保守政策集団で、青嵐とは寒冷前線の事で「渾沌停滞した政界に新風を送り込もう」という趣旨で石原が命名した。中心メンバーの議員は中川一郎、渡辺美智雄、加藤六月、浜田幸一、森喜朗、石原慎太郎、三塚博などの保守派の若手議員で、中華民国(台湾)支持、反中国共産党。憲法問題については自主憲法制定、集団的自衛権の行使、実現などが基本的な考え方であった。
       石原氏はこの青嵐会の中心として自己の保守的な考え方の実現に向けて活動する。国政に参加して順調な活動を行っていた石原氏であったが、当時東京都の知事をつとめていた美濃部亮吉氏の余りにも容共的な姿勢に反撥して、1975年の知事選に美濃部知事の対抗馬として無所属で立候補するが次点で敗れる。しかし、石原氏は美濃部269万票に対して233万票と肉迫して善戦したのであった。
       翌年1976年(昭和51年)12月の第34回衆議院議員選挙で再度自民党から立候補して国政への復帰をはたす。そして選挙後発足した福田赳夫内閣において、環境庁長官として初入閣する。
    第3節「国政での限界を感じて議員辞職」
       在任中は水俣病補償問題に取り組み成果を挙げるが、「ニセ患者」の存在や「患者団体が左翼に利用されている」などの指摘を行い話題となる。 1987年竹下内閣で運輸大臣となり、宮崎県のリニアモーターカー実験線のグレードアップを図り、新しい実験線を山梨県に移転させた。このプラントをもとに東京・名古屋間のリニアカー建設本格化が進んだのは周知のとおりである。また遅れていた成田国際空港への鉄道路線整備にも力を尽くした。
       次に1989年亀井静香、平沼赳夫、園田博之らに推され自民党の総裁選に出馬したが、経世会(自民党田中派の流れをくむ竹下派)の推す海部俊樹に敗れる。1990年の第39回衆議院議員選挙では旧東京4区から長男の伸晃が初当選して父子揃って議員が誕生する。しかし1995年4月に議員在職25年の表彰を受けるが、衆議院本会議場で演説中「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した。
       自己の才能に自信を持つ石原氏としては、その本心は総理大臣となって国政を担うことにあったと思うが、彼の考えが十分に国民に受け入れられていたかという事を自覚していたかどうかは大変疑問である。その結果として、彼にはあり余る才能を持ちながら政治家として柔軟性を欠き自信過剰と見られていた節は随所にみられるのであって、それは多くの問題発言に繋がった。信念は信念として政治家は時には妥協も必要ではないか、そのあたりが彼の政治家としての限界ではなかったかと思う。

    ■第三章「東京都知事として長期政権を築く」

    第1節「都政で自分の考え方の実現を図る」
       国会議員としては十分に目的を達成出来なかった彼は、今度は突然政治活動の場を東京都の知事に求める事になる。議員辞職から4年後の1999年4月東京都知事選に立候補して、鳩山邦夫を始めとする前々から立候補を表明していた有力な候補者に圧勝して、以後2012年迄の4期目の途中で辞任するまで14年の長期政権を築き、数々の政策を推し進めた。彼が東京都知事に転進したのは、国政では実現出来なかった事を文字通り日本そのものの縮図である東京なら、彼の考え方を実行可能と踏んだのではなかったか。
    彼の選挙公約は下記の通りであるが、誠に筋の通ったもので実現可能なものであった。
    (1期目)
  •       1.都が主導する債券市場の推進
  •       2.踏切りのない東京の実現
  •       3.健康を損なう排ガスの規制
  •       4.福祉を阻害する規制の排除
  •       5.借金漬けの財政からの脱却
  •       6.横田基地返還の推進
  •       7.首都移転には反対
  •       8.住みやすい東京の実現
  •       9.命を守る危機管理の実現
  •    10.新しい道徳教育の実施
  • (2期目)
  •       1.安心安全の確保と都市の再生から始める「都民福祉の実現」
  •       2.中小企業のための「新しい銀行の創設」
  •       3.都民、国民の健康を損なう「大気汚染の解消」
  •       4.利用者から高い評価を得ている「認証保育所の大増設」
  •       5.これまでの日本になかった「全く新しい大学の実現」
  •       6.千客万来の「観光都市を実現」
  •       7.雇用促進のため利用者に便利な「職業紹介を都独自に実施」
  •       8.都庁の改革、合理化と「第二次財政再建に着手」
  • (3期目)
  •       1.引き続き環境革命の実現推進
  •       2.子育て支援プログラム実施と中学3年生までの医療費ゼロ
  •       3.都立の施設及び都立小中高校の食事、給食に独自の東京ブランドの食材導入
  •       4.神奈川県、千葉県、埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくり道州制の実現をはかっていく。
  •       5.2016年に東京にオリンピックを招致(2009年に招致失敗)
  •       6.高齢者の起業及びNPO法人の活動を支援する組織をつくる。
  •       7.都庁の展望台や都の保有資産を有効に利用して歳入を増加させる。
  •       8.公立小中高グランドの芝生化

  • 第2節「石原都政14年間の実績」
       石原氏はかつて一橋大学において公認会計士を目指したことも あって、官庁や自治体の会計が単式簿記、現金主義会計が採用されていることに強 い疑問をいだき、2002年に新たな会計制度の導入を実現すると宣言して、2期 目の2006東京都は他の自治体に先駆けて、会計制度に複式簿記、発生主義を採用したのであった。
       これは画期的な事であり、彼も3期目に入ったところで自己の仕事の中で「一番よかった仕事であった」と自賛している。事実彼は前々からこの国には健全なバランスシート、財務諸表がないと云い続けており、国家の会計制度にも複式簿記、発生主義を提案していた。
       環境対策、都市構想は石原都政の中で目立ったもので、ディーゼル車排ガス規制の実現は彼の功績として称えられているが、一方では、ディーゼル規制は確かに窒素酸化物を減らすが、反対にCO2発生の多いガソリン車を増加させる事になってCO2を削減する方向には逆行していたのではないかという疑問も投げかけられていた。
       「東京から日本を変える」が石原氏のキャッチフレーズで、独自の政策を進め、国に対しても明確に主張した。彼の公約とその実施はわかりやすく明解であった。都立大学の首都大学東京への名称変更は評判がよかったし初当選した翌年2000年には関係省庁が反対する中、大手銀行に対し事業規模に応じて課税する外形標準課税、いわゆる銀行税を導入し、地方税法に違反しているなどとして銀行より訴訟を提起され、1,2審では敗訴したが、後に最高裁で和解したものの、公的資金を受けて利益を受けながら税金を支払わない大手銀行に反撥する世論の支持を得たのであった。
       ディーゼル車の問題は先に述べた通りである。米軍の横田基地の返還や羽田空港の国際化など今までの知事が取り組んでこなかった自治体の枠を超えた政策にも積極的に取り組んだ。1964年以来の東京オリンピック開催を目論んだが2016年招致には失敗したものの、2020年の開催に再度名乗りをあげ、招致に成功した。
       また、中小企業向けに無担保で融資をする新銀行の設立を進め「新銀行東京」を発足させる。しかしこの銀行は、不良債権の続出で後にやめざるを得なくなる。
    第3節「再三物議をかもした「型破りの知事」」
       一方都政を離れてその時々の行動が、時の政権を揺さぶったことも再三であった。中でも尖閣諸島については熱心で、かつて、尖閣への上陸は出来なかったがわざわざ船をチャーターして島への接近を図った事もあった彼は、2012年4月に尖閣諸島の一部を東京都が地権者から買い取る意向を表明し、島に船だまりなどの施設を建設するという考えを主張した。一方で「もし国が領有権を含めて権利を遂行するなら、何時でも東京都は引き下がる」と述べ、政権に買収を迫ったのであった。この石原氏の動きに都が買収すれば中国を過度に刺激することを懸念した当時の野田佳彦首相は、国による買収方針を固め、9月に国有化に踏み切ったのであった。これを機に中国は反撥を強め、その後尖閣諸島周辺への進出を強めるきっかけとなった。中国の活動は近年益々エスカレートを重ね、我が国は、対応を迫られている今日である。今年は日中国交正常化50周年であるが、「尖閣」を巡る中国との緊張は続いている。
       一方では、自己に自信を持つ石原氏は、自分の考え方を歯に衣着せず発言した。それは明瞭で時には攻撃的な言動となり、例えば「今日の東京は不法入国した多くの第三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」東北大地震について「津波を利用して我欲を洗い落す必要がある。これはやはり天罰だと思う」「中国人の名称は本来支那人である。支那人といって何が悪い」などの発言を繰り返した。私などから見ればその発言には特におかしいとは思わないが、一部の左翼的な人々からは「タカ派言動」としてたびたび物議を醸したのであった。
       どちらにしても石原知事は従来の知事とは違う型破りの知事であった。進め方はあく迄トップダウンで様々な政策を推し進めたのであった。しかし4期目に入ってからは体調を崩したせいもあってか、都庁への出勤も不規則となり、やや精彩を欠いた場面が見受けられるようになる。時の政権与党の民主党は3年強を経て混乱状態におちいっていた。そのような中で石原氏は「次の首相」候補に擬せられるようになり、2012年10月4期目の途中で知事職を辞任して、第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会から比例代表で立候補して国政への復帰をはたした。
       石原氏は当時力を伸ばしてきた橋下徹氏と意気投合して日本維新の会から立候補したのであったが、日本維新の会においては大阪系の議員と政策や党運営でたびたび対立するようになる。さらに「結いの党」との合併協議の際には「結いの党は護憲政党である」として否定的な立場を貫き橋下共同代表らと決定的に対立し、石原グループによる「次世代の党」を発足させたのであった。石原氏は最高顧問となる。
       2014年11月に衆議院解散が決定的となり、石原氏は高齢と体調不良を理由に政界からの引退を示唆するが、党内からの強い希望により東京ブロックから比例単独候補として立候補するが、彼は落選し、政界引退を表明したのであった。すでに彼は82歳になっていた。

    ■第四章「石原慎太郎氏について考える」

    第1節「並みの文人ではなかった」
       私は石原氏とは直接会った事はないが、学生時代読んだ「太陽の季節」以来彼の著書の主なものはほとんど読んでいる。乾いた文章で悪文という批評家もいるが、一本筋が入った小説には何時も感心する。政界に転じてからは作品も少なくなっていた。石原氏を最後に直接見受けたのは、英語学者であり歴史家、評論家で、また当國民會館のメインスピーカーであった渡部昇一氏(1930〜2017)の葬儀に私も参列したのであったが、その際石原氏が友人を代表して弔辞を読んだ。それについて私は石原氏の能力の高さに改めて驚いたのであった。弔辞は弔事をしたためた書面を読み上げるのが普通であるが、石原氏はややおぼつかない足取りであったが祭壇の前に進み全く原稿なしで、故人の人格、事績を称えた上、最後に故人に新古今和歌集の一首を捧げると、とても老人とは思えない朗々とした声でその歌をうたい上げたのであった。私は余りにもそれが素晴らしかったのでただ聞きほれるのみで、その歌の詳細は頭に入らなかった。後に石原事務所へ「あの歌の詳細を教えてください」と電話したが先生に聞いておきますとの事でそれっきりとなってしまった。これ一つとっても石原氏は並の文人ではない事がよくわかる。
    第2節「三島由紀夫の思想を承け継ぐ」
       さて石原慎太郎氏は三島由紀夫とよく比較される。三島氏は石原氏より七歳年長であるが、思想的には近いものがあり三島氏は石原氏が世間から批判にさらされていた頃から彼を買っていた。三島氏は石原氏との対談の中で「自分もかつてエトランジェ(異邦人)であったがなかなかそれを渡す人が出現しなかった。今やっと連隊旗を渡す適当な人が見つかった。石原こそがそれにふさわしい」と、石原氏を高く評価している。石原氏は三島が自決した際、「三島の死は日本の社会に退屈をもたらした」「三島は予見性のある人だった。分析力、洞察力もある鋭い人であった」「とにかく知的な刺激を受けた。そういう人がいなくなって日本は退屈になった」「三島氏は日本の敗戦から復興を、その後の紆余曲折を経て日本人にとって予想外の高度成長をもたらし贅沢を享受した。ある意味で彼は一番体現した作家かもしれない。彼は高度成長を虚構だと思っていた。そしてその崩壊も予見していた」
    第3節「戦後に対する最後の反逆者」
       三島氏は亡くなる前の年、「このままいったら日本はなくなってしまう。その結果無機質な、空っぽな、ニュートラルな中間色の富裕な抜目がないある経済大国が極東の一角に残るであろう」と書いているが、それについて石原は肯定も否定もしていない。ただ三島氏の住まいについて感想を述べているだけである。しかし内心肯定だったのではないか。文芸評論家の富岡幸一郎氏は「三島から高い評価を得た後の石原が文壇という狭い世界から政治という華やかな世界に活動の場を広げ、晩年にいたる迄日本社会に対して物議をかもし続けたことは周知の通りである。石原氏が既成の概念にとらわれず、常に価値の破壊者として光栄を担って作家として、また政治家としても一個の表現者になり得たのであるが、そこには何時もある誤解があったように思う。それはこの表現者が時代や状況に応じて何か新しい価値や思想を表現し続けてきたことではないか。確かに参議院議員選挙ではいきなり300万票を得て政界に登場し、以後政界に於ける型破りの言動、一方作家として絶えず何か新しい物を停滞した状況の中に送り込む。これはまさしくエトランジェといってよい。しかし石原氏のすべての表現活動の根底にあったのは彼が生きてきた戦後という時代が国家としての自存自立の矜持を失い、日本人としての誇りを忘れ、個人の自我の力強さを持ち得なくなったことへの憤懣と羞恥であったのではなかろうか。それは日本人自らが戦後にからめ取られていることに対する烈しい苛立ちであった。国家を奪われ経済を失いそして今や人間としての尊厳すら消失しかかっている。この国の戦後に対する最後の反逆者こそが石原慎太郎である」といっている。これは特に三島由紀夫が考えていた事と全く一致するものであって、石原氏こそが三島から旗手としてエトランジェの旗を受けついだのではなかったか。

    ■おわりに

       最後に石原氏が小説家と政治家の二足のわらじを履いた事に対する批判もあるが、私は決してそれがおかしい事とは思わない。ファウストで有名なゲーテはワイマール公国の首相でナポレオンとも直接相対した政治家であったが、あのような文豪としての実績を残した。一方フランスの20世紀の文豪アンドレ・マルロー(1901〜1976)は小説家として冒険家として、またド・ゴール政権のもとで長く文化省の大臣を務めた政治家であった。彼は若い時にはインドシナを駆けまわった冒険家であったが、エピソードとしては、カンボジアのバンテアイ・スレイ寺院の世にも美しいクメールの仏像を盗むという勇み足もあった。私もアンコールワットからさらに奥地にあるこの寺院を訪問し、問題の仏像を見学したが、その想像を絶する余りの美しさに後に文豪となるアンドレ・マルローの気持ちがよくわかった。マルローは小説家として成功したが、スペイン内乱では共和国側の義勇兵に志願、二度も負傷している。その後ナチスドイツに対するレジスタンス運動に加わり何度も死線をさまよう事になる。そして戦後ド・ゴール将軍に出会い意気投合して情報相、文化相となり政治家として大活躍したのであった。

                                                                                              
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                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

    2022年1月31日 金言(第114号)
    我が国における原子力発電の必要性

    ■はじめに

       私は2021年8月31日付金言「地球温暖化と我が国の取り組み」の中で、先にスコットランドのグラスゴーで行われた、第26回気候変動枠組条約国際会議(COP26)に対する我が国の温室効果ガスの削減計画を
    、従来の2030年度目標公約「13年度比26%削減」を更に一歩進めて新たに46%削減計画を打ち出した事に、強い懸念を持つと書かせて頂いた。
       というのは、この46%削減という数字は2018年に策定された第5次エネルギー基本計画で追認して、現在実行に移されている電源構成見通し、すなわち1次エネルギーの構成見通しに符合したものであって、これが政治的な要因に強く押された結果闇雲に、いわば唐突に46%削減目標へと変えられたのではないかという強い懸念を持つものである。政府は当面国際的に良い格好をした形であるが、実際にこれは今後の電源構成に大きな影響を及ぼすものであり、我が国は国際的に大変な重荷を背負う事になることが予想される。

    ■第一章「帳尻合わせの電源構成の見通し」

    第1節「再生エネルギー比率の大幅増加への疑問」
       政府は、あらためて2030年の電源構成の見通しを7月21日に発表したが、正直云って大変無理な帳尻合わせで、我が国は今後長らく苦労することになるであろう。具体的には、4月にようやく実現可能な根拠を苦労して段取りして、再生エネルギーの比率を現行の22〜24%から、30%に迄高める方向性を固めていたところ、9日後の4月21日に突然46%減という数字がおどり出したため、全く十分な根拠がないまま6〜8%加算せざるをえなくなってしまったのであった。
       これに対しては各方向から当然疑問の声が湧き出してきた。再生エネルギーを大幅に増やす事が実現することが可能なら誠に結構な事であるが、現状を直視すると太陽光パネルの生産はほとんど中国に握られており、また太陽光発電のコストは原子力より安いという見方があるが、太陽が姿を現さなければ電気を生めないという欠点が当然あり、このためにはバックアップのために火力発電が必要で、そのコストが計画の中に入っているかどうかはあいまいである。おそらく計上されていないであろう。
       さらに、太陽光発電を普及させCO2を削減するため、国民の皆さんはご承知かと思うが、CO2を2.5%減らすため毎年2.5兆円という巨額な賦課金を、国民の電気代に上乗せして負担しているのである。もし計画通りに太陽光発電を増やしていくならば、前にも書かせていただいた通り、毎年10%賦課金を増加することになり、この額は毎年20兆円になる。ということは、この20兆円という金額は現在の消費税20兆円とほぼ同額であって、国民にとっては46%のCO2削減という目標達成のため、2030年迄に消費税を20%上げるのに等しいのではないか。
       太陽光発電は今後パネルを含めて価格が下がるという説もあるが、我が国のように平地が少ないという立地からしてこれを増やすことは到底難しく、パネルの老朽化による公害問題も考えられるし、洋上風力に至っては我が国ではより難しい。また再生可能エネルギーの普及のためには蓄電池が必要になってくるであろうし、さらに送電網の充実も今のところ心もとないのである。
       これらを整備するには膨大な費用がかさむ事をよく考えておかなければならない。
    第2節「全く目途がたっていない原子力発電」
       その対策として考えるべきは原子力であるが、計画では「30年度の原子力発電比率は20〜22%」としており、このためには原発の稼働に少なくとも27基運転する必要がある。しかし現時点において9基ないし10基しか稼働していない。目標の原発比率20〜22%には全く目途が立っていない。
       大体福島における原発の不祥事以来、政府は原発の復活整備には頭から逃げ腰で、また事故後に出来た原子力規制委員会は、公正取引委員会と同じ国家行政組織法第3条に基づく独立性が担保されていることをいい事にして、福島の事故の行き過ぎた反省から事故に対する対策を一方的に強化して、原発の新設や炉心が損傷した場合引き起こされる重大な事故に対して神経質な迄の対応を示しており、折角従来より進んだ諸対策に対しても、更に一歩進んだ課題を次から次へと原発会社に押し付けてきているのではないか。
       例を挙げると「核のごみ」の最終処分についてもハードルをあげてきているし、数千年前に起きた火山爆発に対する強い策を考慮するよう指図しているのは行き過ぎではないか。確かに我が国においては有史以来、過去12万年の間に阿蘇山を含む10回の巨大なカルデラ噴火が起こっており、その最後の噴火は7300年前と云われている。富士山も100年に一度は噴火を繰り返し、今のところ宝永年間の噴火からすでに300年を経過しているため、何時爆発が起こってもおかしくない。しかし、例えば九州の鹿児島県の川内原発や、佐賀県の玄海原発に何時起こるかわからない阿蘇山の大噴火を予想して、その被害を算定して対策を講じろとか、いざという時の避難誘導の完璧性を担保せよという指図は行き過ぎだと考える。
       さて前にも述べたように、福島の事故を踏まえて原子力の比率を大幅に下げるべきだという強力な主張は、左翼関係を中心にある。しかし政府は原発が立地する地方自治体に対する配慮もあって、第6次エネルギー基本計画に標榜した原子力の姿は据え置きのままである。世界的な公約としてCO2の大幅な削減をうたいながら、再生可能エネルギーの増加は八方塞がりであり、原子力についても今のところはっきりとした見通しをつける事が出来ないのが現状である。
    第3節「LNG手当の見通しを持たない火力発電の懸念」
       このような状勢の中で電源維持をしていくためには、当面火力発電にしか頼る道はなさそうである。政府は20%を火力発電、しかも石炭にかわり「天然ガスシフト」を推進すると明言しているが、CO2を大量に発生させる石炭の削減が出来ても、それに代わる液化天然ガスLNGの手当について、はっきりとした見通しを持っているわけではない。
       最近の新聞報道によると、近年の中国を中心とするLNGの国際的な争奪戦はすさまじく、これは当然のことであってCO2排出削減戦略の帰着するところと考えられるが、すでに2021年の中国の輸入量は日本を凌駕しており、中国に限らず世界が脱炭素化を急ぐ中で、LNGの調達については量、価格双方において我が国は苦慮することが予想される。
       参考迄に、大手石油会社のロイヤル・ダッチ・シェルの見通しによると、LNGの世界総需要は、20年の3億6,000万トンから40年には7億トンまで伸び、アジアに限定すると75%近く増加すると発表している
    。当然需要に見合った供給が担保されるかも不安視されるところであって、シェルの予想によると世界が脱炭素化を急ぐ中、天然ガスを含む化石燃料の採掘や開発にかける資金の調達はしにくくなってきており、LNGの生産能力は2020年には全世界で300万トンしか増加しておらず、この傾向が続けば2020年代のうち、供給力不足が拡大すると指摘している。
       再生エネルギー主力電源化や原発再稼働によって脱炭素化を急ぐ我が国にとって、今のままではその計画に齟齬をきたす事は明らかで、その場合LNGに頼らざるを得ない事態が到来する事は必至であるが、はたして石炭からLNGへの切り替えが今後CO2排出削減に直結する途上国に対して、すでに一定の切り替えを終わっている我が国が、買い手として増加を図る事が許されるかどうか疑問である。

    ■第二章「原子力発電への回帰」

    第1節「海外の動向」
       LNGの争奪戦となれば日本は買い負けると予想する専門家は多い。そうなれば我が国としては注目すべき動きがある。すなわち原子力発電への回帰の流れが活発になってきていることである。この動きはフランスや英国が主導している。すなわち電力の安定供給を保ちながら気候変動対策を進めるという観点から、欧州連合(EU
    )は域外からの天然資源に依存しない原発の活用に動き出している。
       具体的にはEU委員長は、昨年10月に「我々には安定的なエネルギー源である原子力が必要である。」とはっきりと述べている。またマクロン大統領は11月に国内の原発の建設を再開するとしているし、英国も大型炉の建設を発表し、また両国とも次世代の小型炉の開発研究を発表した。一方オランダにおいても、12月に総額6,500億円の費用を投じて原発2基の新設を発表した。
       これら原発への回帰の最大理由は気候変動対策である。原発は稼働中CO2の排出はほとんどない。風力や太陽光と異なり天候に左右される心配は全くない。EUにおいては、2019年時点で原発による発電量は総発電量の26%強を占めている。2011年の日本の原発事故を受けて、EUにおいては原発の安全規制を、計画では安全運転のために50年迄に7,770億ユーロという巨額の費用をかけて対処することを決めている。ドイツについてはメルケル前首相が原発に消極的で、22年末までに「脱原発」することを掲げていたが、ロシアへの天然ガス依存やガス価格の高騰から脱原発方針を求める声が沸き上がってきている。
    第2節「長期的戦略に欠ける日本」
       一方我が国では前々から述べているように、エネルギー基本計画では30年度に20〜22%を目標(全部で27基)としながら、再稼働すべき17基は止まったままで全く長期の戦略を欠いているといってよい。
       9月の自民党総裁選では次世代の小型炉などの新増設を進めるべきという意見も出たが、政府は世論を気にして政策の変更を含めて活用の是非を論じる流れは変わっていないのである。政府は6月にも策定する脱炭素社会の実現に向けた「クリーンエネルギー戦略」に国内原発の新増設やリプレース明記を見送る方針を固めたと報じられている。おそらくこれは原発に対する世論を懸念して、もし現時点で原発に対する積極性を打ち出せば、今夏の参院選に影響を及ぼすことを懸念しての処置と考えるが、一方で岸田首相は、再生可能エネルギーを増やすことについては島国ではコスト高にならざるを得ないと云っている。
       再生可能エネルギーの拡大は難しく、原発も新増設はおろか既存の27基を動かせない。一方火力発電では石炭の使用は当然難しく、ならばLNGを増やすことには先に述べたようにその手当すら難しくなる中で、CO2削減46%を世界に対して公約している政府は一体何を考えているのか。このままの状況で推移するなら、石炭火力続行によりCO2削減公約を果たせぬまま世界中の非難をあびるか、停電続出の日本が現実の姿となるのではないか。
       確かに2011年の原発事故は長年にわたる安全な運転を維持してきた傲りにある事は確かである。しかし原発自体の不備によるものではない。この事故はあくまで津波によるものであって、その対策は十分現在は取られている。
       我が国では新しい何らかの事故が発生した場合、すっかり萎縮してしまいギブアップしてしまうのではないか
    。かつて述べた事がある「高速増殖炉もんじゅ」や「原子力船むつ」など格好の例である。「もんじゅ」については、MOX燃料(プルトニウム・ウラン混合酸化物)を使用して消費した以上の燃料を生み出す高速増殖炉であった。冷却材に金属ナトリウムを使用するためその制御が出来ず廃炉になってしまったが、折角の技術であったからもう少し我慢して研究を続けるべきであった。それを早急に放棄してしまったのは残念でならない。一方「原子力船むつ」についても原子炉の「放射能漏れ」が問題となり、原子炉は取り外されたのであるが、実際には「放射能漏れ」ではなく「放射線漏れ」であったのをマスコミが大騒ぎした結果地元と齟齬をきたし、計画は中止となってしまったのであった。ことほど左様に世論に敏感すぎて計画が頓挫した例である。
    第3節「原子力発電へ回帰する狙い、脚光を浴びるグリーン水素」
       さて、EUが原子力発電の活用に再び舵を切り直してきたのは何故か?これは先程述べてきたように天然ガス価格が上昇する中で化石燃料の輸入を減らし、電力の安定供給につなげる事が第一であるが、実は狙いはもう一つある。原発を使用して温暖化ガスの排出を減らすと同時に、実質ゼロ達成のために欠く事の出来ない水素の生産を拡大することにある。
       EUは本年1月に持続可能な経済活動方針「タクソノミー」を発表し、原子力を脱炭素に貢献させるために位置付けする方針を発表している。近く発表される全体像の中で「水素製造を含む電気や熱をつくるために2045年迄に建設許可を得た原発がその対象となる」とうたっている。水素はEUが目的とする「50年度迄に域内の温暖化ガスの排出を実質ゼロにする」目標において、重要な役割を持つ。実際問題としてすべての乗用車はEV化しても、電化が難しい部門は残る。それは飛行機、船舶など強力なエネルギーを必要とする運輸部門(バスやトラック・重機なども含まれる)、工程で石炭を使用する鉄鋼やセメントなどの産業部門である。この部門に対しては代替燃料として期待されるのが水素である。水素は燃焼させてもCO2を発生させない。水素を製造するには@石油や天然ガスに含まれるメタンなどの炭化水素を水蒸気と反応させて水素と二酸化炭素に分離する。A石炭を蒸し焼きにして水素と二酸化炭素の混合物である石炭ガスをつくる。B水に電流を流していわゆる電気分解により水素と酸素を分離させる。
       しかし現在世界でつくられている水素の大部分は@の天然ガス関係で、これはCO2が関係するから決してクリーンなものとは云えず「グレー」と云われる。一方これに対して原子力発電により主として海水を電気分解してつくられるのがグリーン水素と呼ばれるもので、これは再生エネルギーと同根であり価格も安価である。具体的には再生エネルギーから水素をつくるには化石燃料からつくるのに比して2倍のコストがかかる。フランスのマクロン大統領は先にもふれたように、昨年10月から11月にかけて小型原発の開発や大型炉の建設再開を表明している。これは再生可能エネルギーだけでは十分なグリーン水素の確保が困難なためと説明している。
       オランダにおいても昨年2基の原発新設の検討を表明した。これも水素の生産を念頭においている。英国も本国においてフランスの技術により原発建設を計画中で「いくつかの方法で水素製造を検討中」としている。
       欧州各国がこのように原発回帰を目指すのは、欧州はロシアを中心とする他国へのエネルギー依存度が大きく
    、そのリスクを下げるのが狙いでもある。現在ガスの価格は高騰しており欧州は輸入の4割をロシアに頼る。このため一方では再生エネルギーに力を入れつつ原発回帰により水素を自前で確保し、エネルギーの自立を図り、温暖化ガスの排出を抑えて行こうというのが欧州諸国の目論見である。
       また、アメリカやロシア、中国も原子力による水素生産計画に着手しており、これに対して我が国の対処法は
    、肝腎の原発稼働に身動きが取れず一周も二周も遅れた状況で、はなはだ憂慮すべき状況といってよい。

    ■第三章「私の主張」

    第1節「電源構成の見直しの総括」
       私の主張は前々から申し上げている通りで繰り返しになるが、4月13日に発表された総合資源エネルギー基本政策分科会による2030年度における2013年比較で、2030年30%削減から46%に迄何等根拠がないまま引き上げられた事について、その後政府は何等アクションをとっていない。あらためてその内容を記すと、最終の案によると
  • ・再生可能エネルギー 36〜38%(達成困難)
  • ・原子力       20〜22%( 〃 )
  • ・水素アンモニア       1%( 〃 )
  •          小計                         59%( 〃 )

  • ・火力発電LNG      20%(安定供給、温暖化対策に支障)
  • ・石炭           19%( 〃  、コスト抑制に支障)
  • ・石油等           2%
  •          小計                         41%(達成困難、国費流出懸念)

  • 第2節「私の提言」
       このような出鱈目さで国際公約をはたす事は出来ないのは明白である。私は8月31日付金言「地球温暖化と我が国の取り組み」の第四章「私の提言」で
  • @「原子力を欠いたカーボンニュートラルの実現は困難である」
  • A「原子力技術の位置付を明確にすべし」
  • B「原子力を支える人材育成が不可欠である」
  • この3つの事項について詳しく述べた。福島の痛手は痛手として我々のトラウマは大きなものがあるが、その後の世界状勢を見るとアメリカ、中国、EUにおいて新しい原発の開発計画か急ピッチで進んでいる。特に最近グリーン水素が大きくクローズアップされている状況の中で、我が国がこのまま手をこまねいていていい筈はない
    。ここは政治が大きく動くべきではないのか?それにもかかわらず先に述べたようにこの1月18日のクリーンエネルギー戦略に関する有識者懇談会で、岸田首相は原発新増設を見送り、それだけではなく参院選挙が念頭にあるのであろうが「エネルギー政策も無理はしない」とし、方向性の検討は夏以降に先送りした。誠に残念という他ない。

                                                                                              
      皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                                   ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

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